総村スコアブック

総村悠司(Sohmura Hisashi)の楽曲紹介、小説掲載をしています。

小説『All gets star on August =星の八月=』(1/4)

 【第一章】 星

 *****

  ほし【星】〔名〕…警察関係で、犯人・容疑者をいう隠語。

 *****


 「しばらく、ここでおとなしくしていてもらうわよ」
 凛とした声が投げ掛けられた。そして、複数の足音が徐々に離れていく。
 「は、なしを……聞いてくだ……」呂律がうまく回らない。はっきりとしない意識の中で、僕は必死に訴えた。
 記憶がうまくつながってない。どういうことだろう。もしかしたら睡眠薬のようなものでも飲まされたのか。
 身体を動かそうとして、それも叶わないことを思い知った。椅子に腰掛けさせられており、その状態で両手だけでなく全身を縄で固定されていたのだ。
 徐々に、バラバラだった記憶の欠片が集まり始める。しかし、再構成されたそれはどうにも非現実的なものとしか思えなかった。

 この人たち、本当に僕たちを犯人だと思い込んでる……!

 でも。本当に、断じて、無実だ。物証だってない。
 動機だって、ここに今日来たばかりの僕たちにあるはずなんかないじゃないか。冷静に考えればおかしいことだらけのはずなのに……!
 しかし、無情にもギィィ……と扉は閉ざされていく。
 「ぼ、くた……は」
 〈死人に口無し〉と言うが、言葉の使えないニンゲンの無力さというものに僕は絶望した。
 扉から差し込んでくる光が徐々に細くなり、僕たちのいる部屋は反比例して暗くなっていく。
 そして、バタン……という重音とともに、僕たちは「容疑者」という立場を確定的なものにされてしまった。
 ……。
 このあと、一体どうなってしまうのだろうか。
 警察を呼ばれる分にはまだ願ったりかなったりかもしれない。僕たちは、当然自分たちが犯人ではないと確信している。だから、何かを隠す必要も演技する必要もない。自然体でいればおのずと身の潔白が証明できるだろう。
 しかし、真犯人にとって、僕たちが動けないこの状況下は格好の偽装工作の場となるだろう。もし巧妙に冤罪工作でもされてしまったら――。
 警察だって人間だ。そして、人間は間違える生き物だ。世の中には明るみになっていない冤罪などたくさんあるはずだ。僕は急速に不安になる。
 まさか、自分がそういう厄介ごとに巻き込まれるなんて想像もしていなかった。今日選んだ選択肢のうち、どれか一つでも違うものを選んでいれば避けられた事態だったのだろうか。
 ここは小さな離島だ。恐らく、本島の警察がやって来るまではまだ猶予があるはずだ。その間に、僕たちが無罪であることの証明、そこまで行かなくても不利にならない状況を作っておく必要がある。
 信じられるのは、僕たち自身――瀬田桂夜(せたけいや)そして織賀美月(おりがみつき)――だけだ。
 そのためには、まず身動きの取れないこの状況をなんとかしなければならないのだが。
 微動だにしない扉から視線をすぐ脇に移すと、美月が同じように椅子に縛りつけられているのがみえた。意識を失っているのかうつむいたままだ。
 飲まされた薬が似たようなものならば、もうしばらくしたら起きるかもしれない。しかし、何とも説明がしづらい状況だ。説明がしづらい、というのには少し込み入った訳がある。
 理由は本人も分からないらしいが、美月は特殊な脳構造――人並み外れた処理能力と一時記憶と引き替えに、永続記憶がほとんどできない。つまり単純に言えば、頭がすごくいいが、寝ると記憶をほぼ全て失ってしまう――の持ち主なのだ。
 普段は、目覚めたあとに日記帳や携帯端末のメモを元に、それまでの記憶を再度インプットし直しているらしいのだが、この手足が縛られた状況ではそういったことが不可能だ。美月としても初の体験だろう。
 この状況を打開するのに、美月の力は絶対に必要だ。一秒でも早く強力なパートナーに戻ってもらう必要がある。
 そのためにも、今のうちに、僕が何者で何故こんな状況になってしまったのか、そういったことを丁寧にかつ手短に説明してあげる必要がある。
 そうすると、いつからになるだろう……。
 僕は頭の中に今日のここまでの出来事を思い出し始める。始まりは、そう、午前の船上あたりからで十分だろうか。

 *****

 水しぶきを上げながら進む船の上は、とても心地よい。
 8月ともなれば、夏は本番だ。日差しは相当強力になってきている。当たったところは、熱さだけでなく押されているような感覚だ。宇宙ヨットの仕組みを、まさに肌で感じている。
 船の欄干に近づくと、海風をより強く身体に感じる。それは夏の日差しさえ一時忘れさせてくれるような清涼感に溢れていた。
 都内最南端の小尾湾(おびわん)からの連絡船に乗り込み、僕は五稜亭旅館(ごりょうていりょかん)という場所に向かっていた。それには深い、あるいは不快な理由がある。
 僕が所属する将棋部の顧問である泉西先生が「合宿やるぜ! 有無は言わさん! 『うむっ』とだけ肯定せよ!」と騒ぎ出したのだった。いつもながら、突拍子もない話だ。大方、学園ドラマで夏合宿であれやこれや騒動が起きるのを観てその気になったのだろう。
 夏休みのど真ん中にそんな計画を急に立案されて将棋部員にとってはいい迷惑、どころか存分に悪い迷惑である。部長として、僕は断固抗議することにした。
 ところが。
 「行き先は五稜亭旅館というところだ」
 その名を泉西先生が口にした瞬間、僕の心はあっという間に反転した。自分にも『忍法・心変わりの術』が使えたのか、と感心してしまった。
 というのも、この五稜亭旅館は将棋のタイトル戦でもしばしば使われることがある、いわば将棋ファンにとっては聖地の一つなのである。
 余談になるが、タイトル戦は先にどちらかが勝ち越し決定をした時点で終了となる。
 逆に言うと、5番勝負の場合の4,5戦目、7番勝負の場合の5,6,7戦目の開催予定地は、必ず使われるという保証は無い。
 それゆえ、一般的な宿泊施設では敬遠されがちだ。しかし、囲碁と将棋の愛好家でもあったこの五稜亭旅館の創業者は、タイトル戦の黎明期から進んで最終戦開催地の依頼を引き受けてきた。
 言うまでも無く、最終戦はどちらもカド番であり、必ず最終勝者が確定するという大事な一戦だ。必然、後世に残るような多くの名勝負を生んできた。
 僕の尊敬するプロ棋士、故・佐波新継(さばあらつぐ)九段が病魔と闘いながら挑戦者として戦った〈棋神戦〉。
 現在将棋界の第一人者と言われている、冷谷山秋一(れいやさんしゅういち)三冠がプロ入り最短でそれぞれタイトルを取得した〈龍帝戦〉〈騎帝戦〉そして〈棋神戦〉。
 いずれも、五稜亭旅館の最終戦での出来事だ。
 あぁ、いけないいけない。将棋のことでつい頭がいっぱいになってしまっていた。
 先ほどから、僕、僕と言ってきたけれど、それは正確ではない。この旅は、同行者がいるのだ。
 欄干から振り返ると、日陰で腕組みをしている少女と眼が合った。同じ将棋部員の織賀美月だ。関係性は非常に説明が難しい。理解者とか協力者という感じが近そうだが、客観的に見たら彼女ということになるだろうか。
 今日は白いワンピースドレスに白い帽子を身につけ、ストレートの髪も下ろしている。普段のポニーテールと制服姿を見慣れているせいか、そのギャップによってドキドキしてしまう。
 その姿は、まるで深窓の令嬢のようだ。はたまた、地上に舞い降りた天使のようだ。表情の乏しさを除けば――。
 美月は表情をほとんど変えない。神掛かったまでの無表情だ。例えば、
 美味しい菓子を食べているときは、眼を2mmほど大きくして喜ぶ。
 約束の時間に5分遅れると、線のような口許を僅かにへの字にして怒る。
 ただ少し、ほんの少しだけ普通の女の子並みに微笑むというひと手間をかけるだけで、才色兼備の美少女ができあがるというのに――。せめて、辞書の〈天は二物を与えず〉の項目の事例に是非使ってほしい。そんなことを思う。
 それでも、4月の出会ったばかりの頃に比べれば、最近はいくらか表情が豊かになってきたような気がする。いやいや、僕の観察眼が鋭くなったのか、ハードルが下がったのか……。
 「こっち来ない? 涼しいよ」手招きをする。船の縁は風が物凄い勢いで吹き抜けており涼しい。
 「いい」美月は動かない。
 おや? 僕は訝しがる。こういう展開って……。僕は、少しニヤニヤしながら、「もしかして泳げないとか? とからかってみる。
 すると、美月は眼を細めてこちらを睨んできた。僕はそれを図星という意味合いだと思ったのだが……。
 「もしかして、バカなの?」お馴染みの言葉を頂いてしまった。「日焼けするからに決まってるでしょ」
 なるほど。夏の日差しは乙女の敵、そんな標語をどこかで聞いたことがあったかもしれない。言われれば納得である。
 腕時計を見ると、出発から30分が経とうというところだ。僕の方から彼女の方に近づいていった。
 「あと5分くらいかな」出港前に島までは約35分と説明を受けている。
 それにしても、トラブルが実体化したような存在である泉西先生がここにいないのがなんと素晴らしいことか。
 勝手な想像だが、もしこの船に乗り込んできていたらここまで穏やかな時間は過ごせなかっただろう。
 「俺に操縦させろ! そう、自由に」とか叫んで船員と揉めごとを起こしたり、「海、一番乗りぃ」とか言って海面に飛び込んで救出騒動を起こしたりした可能性が考えられる。
 その泉西先生は出港直前になってドタキャンの連絡を入れてきた。曰く「二日酔いだ。死んでも船なんかにゃ乗らねーぞ」。
 ええ、構いませんよ? 僕としては、「死んでも船にゃ乗せねーぜ」とさえ思っていたのだから、願ったり叶ったりというやつである。
 そして、もう一人の男子部員である斎諏訪徹(さいずわとおる)も今回の旅を欠席している。こちらは、随分と前から決まっていたことだ。
 斎諏訪は「離島だと通信速度が遅すぎて話にならんのです。将棋部のウェヴサイトのメンテに支障が出ます」と泉西顧問に主張し、それはいとも容易く受け入れられた。たまには気晴らしによさそうなものだが、〈超インドア派〉の斎諏訪にとっては「合宿などはもってのほか」なのだそうだ。
 まぁ、僕としては最終結果として美月と二人旅(代金は泉西先生が事前に支払い済み)と言う最高最良の展開を得られたのだった。

 しばらくして、進路方向に目指す島が見えてきた。海の真ん中に急に山が現れたような形状で、いかにも造山帯を思わせる。なるほど、温泉も出るわけだ。
 そして5分後。僕たちは無事、小牛島(こうしじま)に到着した。
 「美月、降りるぞー」声を掛ける。しかし、反応は無い。
 視線の先を追うと、白い鳥がたくさん空を舞っている。僕にとっては、類型も合わせれば何十回も見たことがあるような、なんということのない光景だ。
 しかし、毎日記憶がリセットされてしまう美月にとっては、こういう光景のひとつひとつは斬新なのかもしれない。ちょうど、写真でしか見たことのない場所に初めて訪れた旅人のように。
 ただし、この光景もまた明日には消えてしまうだろう。それでも、こういう瞬間が美月にとって無駄になるとは思わなかったので、僕は先に降りることにした。
 「この微妙な揺れは苦手だ。先に降りてるよ」
 元々、乗り物はあまり得意なほうではない。美月への配慮と、自分への配慮の半々でそう告げてから僕はタラップをさくさくと降りていく。
 船着場のコンクリートの上に降り立つと、その周辺には船の到着を待っていた人たちが集まってきており、賑わっていた。
 「スクーバダイビングの方はこちらにどうぞー」
 「テニスの方はこちらにお願いします」
 時間はまだ朝の10時半だ。チェックインする前に、少し遊んでからという人も多いのだろう。
 「五稜亭旅館へ直接向かうお客様はいらっしゃいますかー?」黒ぶちメガネの少し痩せぎすの中年男性が声をあげている。羽織っている上着には五稜亭旅館の文字が入っていた。恐らく、旅館の従業員だろう。
 近くには、大柄の男性が背筋をビシッと伸ばして立っている。こちらは、客だろう。ベートーヴェンのようなウェーヴの効いた髪と前方に力強く伸びているもみ上げが印象的だ。ティアドロップのサングラスを掛けている。ダークグレーのスーツを着こなしていなかったら、先ほどの連絡船の関係者と決めつけてしまいそうなところだ。
 「あ、はい!」僕は手を挙げて応じる。「3名で宿泊予定の泉西です」
 「泉西様ですね。ご予約承っております」中年男性は一旦にこやかに応じたものの、「あの……もう一名様はどうなさいましたか?」すぐに問いかけてくる。僅かな変化ではあったが、その表情に新たに不審の色が混じったように見えた。普段から、美月の表情を見続けてきた賜物かもしれない。
 最初は人数減による宿泊費用の精算関係かと思ったが、どうも僕たち自身の方にフォーカスが当てられているような印象を受けた。
 振り返ると、ちょうど美月が一人で降りてくるところが見えた。最後の一人だったようだ。船はすぐに再出航の準備をはじめている。
 大人1人に、高校生2人の予約のはずだから消去法で大人1人が不在であることは明白だ。
 確か部屋は男女別々にとっていたはずだけど、もしかして高校生だけでは宿泊不可なのだろうか。
 伝統のある旅館だから、少しでも問題がありそうな宿泊客の場合は丁重にお断り……ということは考えられなくもない。僕は咄嗟に、
 「ちょっと乗船前に具合が悪かったようなので、先に2人で来ました。次の便で来れるかと……」
 と答えていた。完全な嘘である。
 とんぼ帰りなんて絶対にイヤだ。無意識にそう思っていたのかもしれない。
 あとになって思いかえすと、このとき正直に「僕たち2人は将棋部員です。顧問が体調を崩して来られません」とでも言っておくのが正解だったかもしれなかった。
 「左様でしたか。小牛島には名医がおりますので、何かございましたらお取次ぎいたしますよ」
 「名医……ですか?」
 「ツブラ・クジャクというお医者さまです。百円の円の字に、鳥の孔雀というお名前です。まだお若いからご存じないかもしれませんね」
 「は、はい。すみません……」
 「円先生の腕は相当なもので、世界のVIPの間でも有名なのですよ。外科、内科、産科なんでもできる上、天才的な腕前なのです」
 「そんな方がこの島に?」
 「どうやら、あの岬の上の一軒屋がお気に召したようで……」
 指を指した先には、遠目にも古びた一軒家が見えた。うーむ、天才の気持ちが僕には良く分からない。
 「私どもは旅館内にお住まいいただくこともご提案したのですが。ですから、旅館からお呼びするときは15分程度はかかってしまいまけどね」
 この島で1泊する間に大怪我や病気にかかる確率など相当なものだ。とりあえず、すごい名医がいたという土産話くらいにはなりそうだなぁと思って僕は相槌だけ打つことにした。
 「あ、はい。分かりました」
 そしてちょうど、美月も合流した。結構な数の乗客が下船したはずだが、結局、残ったのは僕と美月、そして豪傑風の大男と旅館の男性の4名だけだった。
 連絡船は、乗客の下船と諸々のチェック終えたのか、再び海原へと進んで行くのが見えた。
 「……どうやら、他にはおられないようですので、参りましょうか」黒ぶちメガネの中年男性がそう切り出した。「わたくし、五稜亭旅館の館主、マルイカガミと申します」
 この人が、館主!?
 つい驚愕が、表情に出てしまったかもしれない。物腰は穏やかだが、館主の貫禄というか、オーラみたいなものがこの痩せぎすの男性からはどうも感じられない。そして何より、館主自らがこういった出迎えに来る、ということになにか違和感を感じた。
 豪傑さんは特に気にした様子もない。美月も特に表情の変化は見られない。まぁ、このくらいで動じるタイプではないが……。
 「あの……。いつも、館主さんがこうしてお出迎えにいらっしゃるんですか?」
 このタイミングを逃したらもう聞くチャンスがなくなって、もやもや感が残りそうだ。失礼にあたるのかもしれないが、僕は気になってつい聞いてしまった。
 「あ、実は午前中にちょっとしたVIPが来館予定でして。どうやら次の11時の便のようですね……」
 「VIPですか」
 何ともぼかした言い方だが、よく考えればプライベートな話だ。質問をした僕にも十分に配慮をした回答をしてくれたといえるだろう。
 VIPとはもしかして、名医だという円孔雀先生の診察に訪れる患者なのだろうか。
 「あ、VIPといえば、こちらも――」館主が豪傑さんの方を向き、僕らの注意を集めようとする。
 この風貌だ。プロレスラーだ、と言われても大いに頷ける。と、豪傑さんが不意にサングラスをはずしてこう言った。
 「はっはっは。おれの名前は、マルイシンゴだっ」
 マルイシンゴ……。この、眼の感じといい……。
 「あっ、もしかして……!」
 合点の言った様子の僕に、豪傑さんもうんうんと頷いて言葉を待っている。
 「お二人は、兄弟なんですか?」
 てっきり、「正解!」という反応が得られると思っていたのだが、当ては外れた。豪傑さんは目頭を押さえてしまう。
 「あ、実はそれも正解なんですが……」館主さんは苦笑いを浮かべている。
 「音だけだとピンと来ないのか? 字は、新しいに五の口、で新吾という名前なんだが……、分からんかなぁ」
 丸井新吾……か。うーん。やはり、頭の中に浮かんでくる人物は特にいない。申しわけなさそうな顔で「すみません……」と答えた。
 「はっはっは。若い子達だから、まぁしょうがないかっ。これでも、一応プロの6段なんだがなぁー」
 プロの6段?
 僕が聞きなおそうとする前に、豪傑さんは踵を返してしまった。てっきり、気分を害してしまったかと思ったのだが、鼻歌を歌い始めたので特に気にする必要はなさそうだ。僕は胸をなでおろした。 
 観光がメインの土地柄のためか、島内は全体的に非常に整っていた。情緒のある古さと清潔感のある新しさが程よく混ざり合っているのに非常に好感が持てる。
 美月はどう思う? そう尋ねようとして、彼女が呪文のような言葉が呟いていて不審に思う。
 「……八十八万四千七百三十六。九十一万二千六百七十三……」
 「なにしてるの?」一応聞いてみる。
 「暇だったから、三乗の計算をしてただけ」
 うーん、僕には少し理解困難な暇のつぶし方だ。
 道は基本的に坂道だった。歩くのが大変と言うほどでもないが、じわりじわりと疲労が溜まっていきそうな予感がする。
 港から離れ、島の中心部に近づくにつれ、次第に道の両脇が緑で覆われていく。この季節の日陰は本当にありがたい。
 隣を向くと、さっきまでいたはずの美月の姿がない。はてと思って後ろを向くと、少し離れて彼女は歩いていた。しかし、僕たちのペースが早いというわけではなさそうで、周りの景色を眺めながら歩いているのがその理由のようだった。
 相変わらずマイペースだなぁ……。
 そして、顔を前に戻そうとして、ぎょっとなった。目の前に、豪傑さんの顔がどアップで迫っていたのだ。「な、なんでしょうか?」と尋ねるより早く、豪傑さんにしてはややボリュームを落として話しかけてきた。
 「君の連れの子、もしかしてアイドルとかかい?」
 アイドル……?
 唐突な質問に、僕はすぐに返事ができなかったが、徐々にその意味を理解し始める。
 自分が彼氏バカであることを差し引き、極力客観性を重んじて評価しても、美月は分類上は美少女といっても過言はないだろう。
 危く、「あんな無愛想のエキスパートのアイドルがいるでしょうか?」という言葉が喉元まであがってきたが、美月に聞かれては気まずい。
 「だとして、こんなに要領の悪そうなマネージャーはおかしくないですか?」僕は、自分を指差してそんな言葉を返した。
 「はっはっは。それもそうか」豪傑さんは即座に納得する。
 そこは、少し考え込むなり、謙遜するなとか言って欲しかった!
 「はっはっは。一般人とは、残念残念。来年、テレビ番組で講座を頼まれたからアシスタントに是非どうかと思ったのだが。なかなか人生上手くいかんもんよなー」
 「アシスタント……ですか」
 プロ……6段……テレビで講座……でも、僕は知らない……。
 それらの情報を組み立てていくと、一つの予想が立った。
 「もしかして、囲碁のプロ棋士をなさっている……?」控えめな声でそう尋ねると、豪傑さんは目を丸くして僕を見つめ返してきた。
 あれ? また外したか?
 と。
 「やっと気づいてくれたか! はっはっは。はっはっは……!」豪傑さんは突如大きな笑い声をあげると、僕の背中をばしんばしんと叩いてくる。おかげで、坂道を2mほど楽に登れ……じゃなくて、痛いんですけど。
 それから気を良くしたのか、豪傑さんはプロ棋士としての矜持や、ポリシーを熱く語り始めた。僕はそれを聞きながら、坂道をひた登り続ける。後ろに、美月の気配を感じながら。
 あぁ、本当なら一秒たりとも無駄にしたくない貴重な二人きりの時間が……。
 豪傑さんの隙を縫い、ちらりと後ろを振り向けば。
 時折吹く風に帽子をさらわれないように押さえながら、木々を仰ぎ見る美月の横顔が見えた。
 さっきの豪傑さんの言葉をそのまま借りるならば――なかなか人生上手くいかんもんよなー。
 
 濃緑の葉を繁らせる林道を抜けると、目の前に巨大な建物が視界一杯に広がった。写真では観たことがあったものの、実物は非常に大きく見えた。
 「五稜亭旅館、到着でございます」
 建物に入ると、正面に円形のソファが見える。大型のディスプレイや、水槽、土産の販売コーナーなどがそれを取り囲むようにしている。ロビーの脇には飲食用の受付コーナーがあり、喫茶の場として使うこともできるようだ。
 「はっはっは。ではおれは一足に先に失礼するよ」豪傑さんは荷物を係員に渡すこともなく、そのまま奥のほうにあるエレベーターに向かって歩いていってしまった。
 チェックインの手続きも特にすることなく、非常にフリーダムな行動だ。まぁ、豪傑さんにとっては実家なのだから、問題はないのだろうけど。
 「兄が何かと騒がしくて、すみませんでした」豪傑さんがいなくなったのを確認し、館主さんがわずかに表情を崩しながらそう言ってくる。それはビジネスの表情ではなく、知り合いに対してするような表情に近い。
 「いえいえ。色々と、面白い話も聞けましたし……」僕はあたり障りのない返答をする。
 「当旅館のご利用は初めてでございますか?」
 僕がうなずくと、館主さんは館内案内図の前に僕らをわざわざ誘導して、館内の説明をしてくれた。
 五稜亭旅館は非常に珍しい構造をしていた。

図_五陵亭旅館(B1F)

図_五陵亭旅館(B1F)

図_五陵亭旅館(1F)

図_五陵亭旅館(1F)

図_五陵亭旅館(2F-5F)

図_五陵亭旅館(2F-5F)




 上から見ると、敷地は正五角形になっており、それぞれの頂点を結ぶように区画されている。別の表現をするならば、一筆書きで星型を描き、5つの頂点をさらにつないだような形状だ。三角形と五角形ばかりになるので、狭い土地で建てようものならば大いなる無駄が生じそうだ。
 そして、星型のそれぞれの5つの区画は時計回りに朱雀、玄武、青龍、白虎、麒麟という名称が割り当てられており、宿泊用の区画として使われているようだ。
 その宿泊スペースの間には、娯楽用の区画が設けられている。
 朱雀と玄武の間に、旅館一番の売りである温泉が位置している。二酸化炭素泉で、皮膚にしゅわしゅわとした微炭酸の泡がつくのが心地よいらしい。
 玄武と青龍の間には、大小5つの池が散在する庭園がある。地熱のためか、一年を通して豊かな自然が遊覧できるらしい。
 これら2つは、屋外にある施設だ。それに対して、残りの3つは屋内施設だ。
 青龍と白虎の間には彫刻展示場、白虎と麒麟の間には、宝石展示場、麒麟と朱雀の間には、陶芸展示場といった具合だ。
 いずれも、少量ではあるものの、島内でとれる木材、鉱物、貴金属、粘土を使用した作品が閲覧できるとのこと。一部は一般販売もされているらしい。
 静かな古湯を愛した多くの芸術家が湯治の折、あるいは、後日お礼に寄贈したものが多数あるようだ。
 なるほど、外が悪天候の場合はこういった場所で過ごすのもありかもしれない。
 今、僕たちがいるのはこのメインフロアの直下である地下1階だ。メインフロアが高台の上に作られているから、便宜上そうなっているらしい。
 「チェックインまではまだ時間がございますので、それまでの間、こちらをごらん頂くとちょうど良いかも知れません。いずれもお代は頂いておりません」館主さんが彫刻展示場、宝石展示場、陶芸展示場を指差して言う。
 チェックインは13時以降だったか。12時から一時間お昼を食べてつぶすことを考えると、まだたっぷりと1時間半はある。
 「あの、庭園って見て回っても大丈夫ですか?」
 「庭園ですか……? ええ、温泉以外は全て大丈夫です。ただ、お若いお二人には、あまり面白味はないかもしれませんが……」
 「いえ、ありがとうございます」
 「あ、お荷物はチェックイン前でもお預かりできますのでご遠慮なくどうぞ」
 説明を終えると、館主さんは丁寧にお辞儀をして去っていった。
 ふと見ると、案内板の前にはパンフレットが置かれていた。手に取って開いてみると、目の前の案内板と同じ図面、そして写真や文章がいくつかが載っていた。
 左上に『館主よりご挨拶』が載っている。写真は、先ほどまでの柔和な笑みをそのまま写したような仕上がりだ。末尾には直筆で『丸井 鑑』とある。
 その下に、続けて『女将よりご挨拶』があった。こちらは少し気の強そうな表情の中年女性だ。末尾には直筆で『丸井 沙羅』とある。ということは、きょうだいだろうか。
 真ん中には礼の館内案内図、そして右上には『料理長よりご挨拶』があった。もしやと思ってみると『丸井 敬基』とある。
 親戚か、従兄弟か、兄弟かは不明だが、どうやら五稜亭旅館は名実共に丸井家が執り仕切っていることを十二分にうかがわせる内容だ。
 さてと。
 「どこか行ってみたいところある?」
 僕は、隣で案内板を覗き込んでいる美月に尋ねる。
 「ここ、プール無いんだ。せっかく水着持ってきたのに」
 「……!?」
 ミズギ……ミツキ? 違う違う、水着!! 心臓を鷲掴みにされるとは、こういうときのことを言うのか。無意識のうちに、美月の身体を上から下まで眺めてしまっていることに気づき、慌てて視線を逸らす。いかにもわざとらしい動きだが、幸い気づかれなかった。
 そもそも、将棋部の合宿じゃなかったか、などという野暮な突っこみは一切しない。僕も成長したものだ。男子三日会わざれば、括目して相見えるべし、というやつだ。
 「泳ぐの、好きだったっけか?」
 「何もしないよりはね。あんまり疲れないし……」
 疲れない、というのはやや疑問だが……。僕は25m泳ぐのでも苦労する。途中で息継ぎが乱れ、全然前に進めなくなってしまう。何か、コツのようなものがあるのだろうか。
 砂浜でもあれば、海に誘うといったこともできたかもしれないが、この島の海岸線は岩場ばかりのようで泳ぎには適していない。
 非常に残念ではあるが、夏休みはまだある。希望があるからこそ、人類は今日と明日を生きることができるのだ。
 「じゃあさ、庭園行こうよ」
 こくり。
 美月は意外にもすぐに頷いてくれた。展示品のような静的なものより、多少なりとも動きのあるもののほうがまだ面白そうだという判断を下したのだろう。
 元々、1泊だけの予定だったので荷物はそれほど多くはない。しかし、庭園を歩くには邪魔になりそうだ。地下1階のクロークで荷物を預かってもらうことにした。大した金も入っていないが、財布と携帯電話だけは持ち歩くことにした。
 「あれ? それ、まだ使ってるんだ」
 美月の携帯端末に、クマッタという熊のキャラクターのストラップがぶら下がっていた。以前ペットボトルのおまけでついてきたものを譲ってあげたのだ。
 7月上旬にあげたものだから、1か月近くになる。携帯端末なんて毎日出し入れするものだし、おまけの品なので丈夫な作りではなさそうだ。実際、毛並みが少し擦り切れてくたびれているようにも見える。
 「まあね」
 あげたものを大切に使ってもらえるのは嬉しいが、少し罪悪感を感じる。本島に戻ったら、新しいもっとしっかりしたストラップをプレゼントしてあげようか。そんなことを思った。
 階段を上り、地下1階から1階へ移動する。さすがに評判のいい旅館だ。建物は随分と古いはずだが、階段が軋んだりすることなどはなかった。
 階段を上りきって周囲を見回すと、見上げたくらいの高さに木彫りの表札が掲げられていた。5つの宿泊スペースの入口と、5つの娯楽スペースの入口の合計10個だ。
 大きさといい、彫りの複雑さといい、なかなか立派な代物だ。例えば、朱雀ならば文字の後ろに赤く彩色された朱雀が描かれていたりする。
 先ほどの説明の通り、庭園の表札は玄武と青龍の表札の間に見つけることができた。
 表札の下をくぐり、一歩外に出ると、そこは見事な庭園が広がっていた。海側の方角は、建物が建っているため潮風が遮られている。日当たりも良い。池もあり、コイやカメの姿も見えた。
 夏本番とはいえ、日の出からずっと日陰になっているところは、十分な涼しさがあるようだ。池が近くにあることもあって、庭園の道は非常に涼しい。
 細い石畳の道を、後ろから着いて来る気配を感じつつ進む。
 「確か、この先には石橋と灯篭があったはず……」。
 はやる気持ちを抑えて、石畳をさらに進んでいく。すると、イメージしていた通りの石橋が池に掛かっていた。そしてその先には灯篭が見える。
 「詳しいね」
 「まあね」
 昔読んでいた将棋雑誌には、対局の内容だけでなく、対局会場の情報も写真つきで載っていた。この先の灯篭の前で、対局者が並んで記念撮影をするのも慣例になっている。
 僕はその灯篭の前まで進み、振り返ってみる。自然と、美月と向かい合う形になる。
 「瀬田棋神、あの難攻不落と言われていた織賀美月さんをとうとう彼女にしてしまわれたそうですが、その要因はなんだったのでしょうか?」空想上の記者が僕に問いかける。
 「そう……ですねぇ。運も絡んでいましたが、定刻に遅れていくことで秘密を共有するきっかけとなった〈巌流島作戦〉が効果的でした。史上最大の作戦と言って良いでしょう」空想なので、僕はかなり調子に乗ってみた。
 そう……ですねぇ、という話し方は佐波九段の口癖で、僕は小さい頃よく真似していたものだ。
 「今後の目標をお教えいただけますか?」
 「そう……ですねぇ。まずは〈彼氏〉の座に甘んじないよう日々鍛錬を重ねることですね。ゆくゆくは、永世彼氏の資格も得たいですね」
 〈永世〉という修飾語は『5期連続在位』や『通算7期在位』といった実績を得ることで名乗る権利が与えられる。本当に字面だけの意味で考えると永世彼氏などは、相当厳しい条件で名乗ることを許される〈タイトル〉だろう。
 「……ケーヤ?」
 おっと、少し空想に耽りすぎたようだ。美月が、僕の様子を伺っていた。確かに、急に振り返ってボーっと立っていたら何かあったのかと思われるのが当然かもしれない。
 「もう少し先まで行ってみよう」
 僕たちは灯篭を通り過ぎて、奥に進む。すると、今度は木々の間に隠れるようにして小さな瓦屋根の建物が見えてきた。僕の本命はこの建物にあった。

 

図_五陵亭旅館別館(風雷庵)

図_五陵亭旅館別館(風雷庵)


 風雷庵(ぶらいあん)、囲碁や将棋のタイトル戦で使われる離れ屋敷だ。高校球児たちにとっての甲子園球場のように、ここは将棋ファンにとっては興奮必然の場所だ。
 しかし。
 「あっ」僕は思わず悲鳴に似た声をあげた。
 その建物へ続く道の脇に「この先、修復工事中」という看板が立っていたのだ。改めて注意して風雷庵を見てみる。正面は変わった様子はないものの、建物の側面の方に補修用の脚組みやネットが僅かに見えた。
 「うぅうう……」僕は思わずうめき声をあげる。
 せっかく、ここまで来たのに! 引き返すべきか? 悩ましい……。
 いや、もうちょっと近づくくらいいいんじゃないだろうか。チェックインまでの時間もまだまだある。
 しかも、奥からは何か作業をしているような物音は聞こえてこない。危険性という意味では問題ないのではないだろうか。
 でも、従業員の人に見つかって怒られたりしないだろうか。
 様々な脳内会議の結果、僕は決断した。
 「行ってみよう」
 看板には、立ち入り禁止とまでは書かれていなかったこと、場合によっては『迷い込んだ』『看板に気づかなかった』などでごまかしてしまえば問題ないだろうと思ったのだ。
 美月は進もうが戻ろうがどちらでも良かったらしく、大人しく僕のあとをついてきている。
 風雷庵の玄関に到着した。やはり人の気配はない、作業らしい作業も特に何もされていない様子だ。
 玄関の引き戸を見ると、僅かに指数本分の隙間が開いていることに気づいた。
 これ、もしかして、中に入れるんじゃないか?
 そっと引き戸を横にずらしてみる。すると、戸はあっさりと開いたではないか。
 そのまま中を覗き込んでみると、質素ながら格調の高そうな玄関と廊下が眼に入ってくる。
 ……あれ?
 玄関をよくみたら、隅に草履が1組転がっていることに気づいたのだ。旅館の関係者だったらまずい。一瞬、引き返そうかと思ったところでふとある可能性を考え付く。
 「美月、さっきロビーとかにいた旅館の人たちの草履の鼻緒って何色だったか憶えてる?」
 「みんな茶色だったけど?」
 「男女関係なく?」
 こくり。
 「そっか……。ありがとう」
 であれば、問題ない。目の前にある草履の鼻緒はえんじ色だ。絶対に旅館関係者でないとは言い切れないが、これは高確率で先客――それも草履で旅に出るような年配の――だろう。
 ここは囲碁や将棋の聖地だ。年配のファンが見物に訪れていても全く不思議はない。年配の人ならば、あの看板の存在に気づかなかったりしたかもしれない。あるいは、僕と同じようにいざとなったらとぼけるつもりで失敬した可能性もあり得る。
 「先客がいるみたいだから、大丈夫そうだ」
 僕は、悠々と玄関に足を踏み入れた。靴を脱ぎ、板の上に足をつくと、夏の暑さを忘れさせるかのようなひんやりとした感覚が足裏に伝わってくる。
 玄関の正面は壁になっており、日本画が掛けられている。描かれているのは〈風神〉〈雷神〉だろうか。風雷庵にはふさわしそうな絵である。
 玄関前の廊下はすぐ左右に分かれ、それぞれすぐまた直角に折れて延びているようだ。もし、廊下だけを抽出したら、音叉のような形になるだろう。
 本館のほうが三角形や五角形の区画ばかりなので、風雷の構造は一際シンプルに思えてしまう。
 僕は過去にみた写真を思い出す。対局室となっていたのは池が見える方だったから、左側の部屋のどこかだろう。僕たちは、左側の廊下を進んでいく。
 すぐ手前に雷神の間があった。使用者がいないためか、空気が停滞しないようにするためか、出入り口である襖は開いたままになっている。
 部屋を覗いてみると、畳は青々としており、程よいイグサの香が鼻腔をくすぐる。部屋は外光が僅かに差し込んでいて、歩いたりする分には問題なかった。障子に近づくが、外で見た補修用の資材のせいで、やはり庭園は拝めなかった。少し残念だ。
 その後、隣の風神の間も覗いたが、造り自体は同じだった。
 心の中のピースは確かに埋まったものの、こうしてみると激戦の行われた聖地も静まり返った普通の和室である。今は、次の戦いまでの間の休眠期間に入っているかのようだ。
 ……そういえば、対局で使われていそうな和室はすべて見たが、草履の持ち主には出会わなかった。目的が〈聖地巡礼〉でないのか、それともトイレにでも立ち寄っているのか。
 僕の方は一応目的は達成したので、そろそろ引き返しても全く問題はない。
 〈同好の士〉かもしれないが、わざわざ探して挨拶をするほどのものでもないし、あまり長居をしてしまうのは好ましくない。言い訳はいくらでも立ちそうだが、誰にも見咎められないに越したことはないのだから。
 と。
 「どうした?」
 廊下の途中で美月が立ち止まっていた。具合でも悪くなったのだろうか。
 「なんか、向こうから呻き声が聞こえた」
 「呻き……声?」状況的に考えると、最も可能性が高いのは草履の主だろう。
 急病となれば、非常事態だ。ここまで抱えていた懸念はすっぱり割りきって行動しなければならない。
 「探そう!」僕は、美月に眼で合図して駆け出す。美月もすぐに反応して着いてきた。
  風雷庵はそれほど広くはない、一旦玄関前に戻る。〈風神〉〈雷神〉の絵の前を通り過ぎ、反対側の廊下にはすぐたどり着けた。こちら側は先ほどまで見ていたような多目的な和室ではなく、〈給湯室〉や〈お手洗い〉などの機能的な部屋が集まっているようだ。
 「俺は右端を順に見ていく。美月は真ん中寄りを頼む」
 「あ……。うん」
 僕は、素早く一番手前のドアノブを開けて部屋の中に滑り込んだ。まずは〈倉庫〉だ。中は薄暗い。入口のすぐ近くに電灯のスイッチがあったのでそれを入れる。中はそれほど広くない。ざっと見て人がいないのは分かる。物陰にいないとも限らないけれど、苦しむ人間が物陰に隠れるとは考えづらい。詳しく調べるにしても一通り調べてから戻ってくる方が良いだろう。
 次は、〈給湯室〉だ。ここにも人影はなかった。こじんまりとした部屋で、戸棚には綺麗なカップや、コーヒーと紅茶のパックが置かれていた。ここはスペース的にも、頑張って人が隠れられそうにない。
 次は、〈化粧室〉だ。男女が別になっている。草履の主が男か女かはまだ分からない以上、両方確認する必要があるわけだが……。こんな事態とはいえ、女子の方に入ることは憚られた。こちらは〈倉庫〉と同じように後回しにし、後で美月に確認してもらうことにしよう。
 男子の方に入り、空いている個室の中も人がいないことが確認できた。戻ろうとして、ふと頭に浮かんできたことがあった。

 ――こういうときって、単独行動はまずいんじゃないか?
 
 玄関に草履が1組だったからといって、僕たちのほかに風雷庵にいるのが『一人だけとは限らない』じゃないか。土足で上がりこむような――強盗のような奴らがいる可能性だって……!
 さっき僕が駆け出す直前に美月がすぐに言葉を返さなかったのは、そういうことも想定していたからなのか? だとすると、なんたるマヌケだろう。
 頭の中に、犯人グループに捕えられて刃物を押し当てられている美月の映像が浮かぶ。
 美月っ……!
 総毛立ち、僕は慌てて戸を引いて外に飛び出した。と同時に何かと身体がぶつかり、僕は転倒する。身体の痛みは、それほどでもない。自分はその場に尻餅をつく程度ですんだが、相手は拍子に壁に頭をぶつけたようで、ゴンッという盛大な音を立てた。
 もしかして、謀らずも強襲に成功した結果オーライの形なのか? しかし、次はどうする? 継続策がなければ、反撃の機会を与えてしまう。しかし、自分には寝技や護身術のようなスキルは備わっていない。
 喧嘩の趨勢を決めるのは勢いが大事だという。将棋もそういうところがある。僕は堅く握り拳を作り、立ち上がる。
 しかし、それは全て杞憂だった。頭を押さえて倒れているのは、他ならぬ美月だったからだ。
 「っつ……」垂れている前髪の向こうから、なんとなくこちらを睨んでいるような気配を感じた。「頭、痛いんだけど」
 「す、すまん」
 「〈管理室〉にお年寄りがいたよ」頭を押さえながら、美月が言う。
 美月に(大きな)怪我がなかったこと、そして意識が途切れて記憶が失われていなかったことに安堵する。
 「お年寄り? 外傷とかは?」
 「遠目には特に。知らない人には無闇に近づきたくないから」
 間近で調べたわけではないということか、急病ならば一刻も早い応急処置が必要なのかもしれないが、状況が状況だ。……例えばの話、おばあさんが囮になり強襲する、あるいはおばあさん自身が強盗で演技をしている可能性も完全に否定はできない。慎重であることに越したことはない。
 この段階で誰か人を呼びにいく案もあったかもしれない。しかし、「〈管理室〉に老人がいる」だけの情報では、増援部隊も何をしたらよいか分からない。僕は、いやいやながら付き合わされた町内会の救急救命講習を思い出す。少なくとも、呼吸はあるのか、心拍はあるのか、くらいは確認しておくべきだろう。
 二人揃っている今なら、それが最善に思えた。僕たちは改めて〈管理室〉に向かった。
 
 〈管理室〉の扉は洋風だった。取っ手は外から鍵がかけられるようになっているようだが、扉は握り拳大ほどの隙間で開いていた。元々こうだったのか、美月が開けたままにしたのかは分からない。僕は物音を立てないように、静かに扉を開いていく。部屋を覗きこむと、重厚な木の机に突っ伏すように白髪頭がこちらを向いていた。あの人に間違いはないだろう。
 部屋の中は棚や調度品が多いが、隠れることができるようなデッドスペースはなさそうだった。扉の影や手前の壁沿いにも人の気配は感じられない。僕は意を決して、部屋の中に足を踏み入れようとする。そのとき、
 僕の左の掌にギュッと温かな感触が伝わった。
 それは美月の手だった。もしかしたら、手をつないだのはこれが初めてだったかもしれない。こんな状況下というのは皮肉なものだけど。
 最初は「もしかして、怖いのかな」と思った。美月も年相応の女の子なんだな、と。
 しかし、よくよくその感覚を確かめると逆手であることが分かる。美月は廊下の方を向いていることになるのだ。……なるほど、背後の心配をしないで済むようにしてくれようとしているのだ。
 何か異常に気づいた場合は、瞬間的に握力を入れればすぐに伝わる。それは逆もまた同様だ。
 ギュッギュッ。僕は心得たという意味合いで少しだけ力を入れて、二回美月の右手を握る。
 ギュッギュッ。伝心の合図を理解してくれたのだろう、美月の方も同じ合図を返してくれた。
 そして、僕たちは360°に気を配りながら、老人に近づいていく。
 老人は、あまり足腰が強くないのだろうか。伏している机の近くには杖が立て掛けられていた。杖の長さからしても、上背はあまり高くない人のようだ。
 もう触れられそうな位置まで近づいたにも関わらず、老人はこちらに気づく様子はない。
 「あ……、大丈夫ですかっ!?」僕は声をあげる。
 反応はない。
 もしかしたら、耳が遠いのかもしれない。もう一度ボリュームを上げて「あのっっ、大丈夫ですかっっ?」と大声をあげる。
 すると――。
 「わぁっ」という声と共に、老人が上体を起こした。顔を見ると、皺はそれなりにあるものの、なかなかきりっとしたおばあさんだった。無事が確認できたのは良かったが、それならばもう少し穏やかに起こしてあげることもできたかなと後悔する。
 眼が合う。男女の子供が相手とはいえ、こちらとは初対面だ。明らかに、怪しまれている様子だ。
 「あんたたちは誰? ここは、立ち入り禁止のはずだよ?」
 「あ……、えーと……」
 あの看板は、やはり立ち入り禁止の意味合いだったか。すると、このおばあさんも旅館の関係者ということになりそうだ。
 「僕たち、将棋部で……。どうしても見学したかったもので……、すみませんでした」僕は今度は正直に告げた。言葉は思ったよりもスムースに出た。今日はここまで繕った言葉や考えをし続けていたから、それに疲れていたのかもしれない。
 謝ったもののその後の展開は予想もつかない。芋づる式に、大人が不在であることを知られて、強制的に追い出されてしまったりして……。
 「ほぉ、将棋……のかい」しかし、僕の答えにおばあさんは意外にも険しい表情を僅かに緩めた。
 風雷庵のことを知らない者が、このタイミングで将棋というキーワードを出すことは難しいだろう。それが淀みなく出てきたことで、いたずらや盗みといった目的など侵入したのではないということを少しはアピールできたのかもしれない。
 「最近は将棋をする子は少ないって聞くけどねぇ」と自分のことのように残念がる。おばあさんは杖を手にして、「よっこいしょ」と腰を上げる。そのまま、棚に歩み寄り中段のガラス戸を開く。
 その中には――なんと、佐波九段が揮毫した扇子が展示されていた。日付を見ると、あの伝説の棋神戦の最終戦時のものだと知れた。棚はガラス張りなのにここまで全く気付かなかった。佐波九段ファンとしては痛恨の失態だ。
 おばあさんは、なんとそれを僕に手渡してくれた。
 「これは……すごいですね」僕は静かに興奮する。貴重なものだ、落とさないようにしなければ。そう強く思ったためだろうか、紙と木だけでできているはずの扇子が、鉄扇のように重く感じられた。
 「すごいの?」価値をまるで分かってない美月に、僕はあれこれと講釈をする。佐波九段の将棋に対する姿勢、親しみやすい庶民的な人柄、将棋協会理事としての偉大な功績。
 佐波九段は正確には生前八段で、逝去後贈九段となっている。
 遅咲きのプロ棋士で、八段も晩年にA級昇級・棋神戦挑戦者となったことでなったものだ。僕が出会ったのは、まだ六段の頃だった。
 ちょうど僕が小学四年のとき、初めて出場した将棋大会の立会い棋士として来場していた。
 五・六年生に簡単に負かされて悔し泣きをしていた僕に声をかけてくれたのだ。
 「ボク、さっきなんで桂馬を歩のアタマ置いたんだい?」
 聞かれて僕はとても困惑したことを覚えている。それは、〈跳躍(リープ)〉してきた手を指しただけだったからだ。
 「……なんとなく、そうしたらいいのかなって」
 そういう僕の言葉に佐波六段は目を丸くして、そして「キミはもっと強くなれるよ。少なくとも私よりね。私はこの手が見えなかったからねぇ」
 そして、相手の攻めにひるんで受けに回ってしまっていたが、攻め合っていたら一手勝ちであったことを示して、僕の頭をワシワシとして明るい表情で激励してくれた。
 泣いていたはずの僕は、気づけば、勝ったとき以上の興奮と感動を手にしていた。
 それ以来、僕はかかさず佐波六段の棋譜や記事を見るようになっていた。
 同い年の多くの男子が、特撮ヒーローや、プロスポーツ選手に憧れを抱く年齢のころ、白髪交じりの壮年プロ棋士の一挙手一投足に僕は惹きつけられていたのだ。
 「あんた、将棋指すの、好きかい?」
 幸福の絶頂にある僕に、投げ掛けられた他愛のない質問。しかし、YESかNOかで答えられるはずのその簡単な問いに、僕の心は一瞬反応ができなかった。
 そう、僕は一度将棋を嫌い、指さなくなってしまっていた時期があったからだ。
 だからといって、初対面のおばあさんにバカ正直に話す必要性はなかったはずだ。ただ一言「将棋? 好きですよ」とさらりと言ってもそれは嘘でもない。それでいいはずだったのだけど。
 「好きでした。ただ正直に言うと、嫌いになって全く指さなかった時期もありました。でも、俺が本当は将棋が嫌いじゃないって気づかせてくれた人がいたから……。
  今は、以前より好きになっている気がします」
 傍らにいる『恩人』の存在を感じながら、気づけば僕はそう口にしていた。それは、もちろんおばあさんへの回答だったけれど、今まで言う機会を失っていた美月への感謝の言葉でもあった。本当はもっと早く、直接言うべきことだったけれど。
 「良い答えだ」
 おばあさんは満足げに頷いた。
 その後、僕は佐波九段の扇子を手にしているところを美月に携帯端末のカメラで撮ってもらったり、タイトル戦の裏話などを聞いたりとなかなか有意義なひと時を過ごせた。
 「あ、そうだ。あんた達、明日忙しいかい?」
 立ち入り禁止の場所にあまり長居をするのもまずいだろう、そろそろお暇しようかと思っていた矢先、おばあさんがそう尋ねてきた。
 「い、いえ。ある意味ここを見学したら今回の目的は達成したと言うか――」
 「なら、ちょうどいい。年寄りの道楽に付き合いなさい」そう言って和服の裾から一枚の白い封筒を取り出して見せた。
 「……なんですか? これ?」
 僕は照明に透かして中をうかがおうとするが、当然のごとく何も透けて見えなかった。ただ、厚みがあるものではないことは確かだ。
 「明日になれば分かる。これを、明日の朝10時にまたここに持ってくること。いいね?」
 「は、はい……」
 「それと、この封筒は決して開けぬこと。他人に渡してもならぬぞ」おばあさんは真剣な表情で言う。道楽じゃなかったのか!?
 とはいえ、明日の船まで特にすることもなかった僕たちにとっては、ある意味ありがたい暇つぶしなのかもしれない。カバンはクロークに預けてしまったので、封筒は一旦胸ポケットに納めた。
 美月も特に異論は無いようで、携帯端末をいじりはじめる。恐らく、スケジュール帳への記録かアラームの登録でもしているのだろう。
 僕が快諾すると、一転しておばあさんは礼を述べて初めて柔和な表情を浮かべる。なかなかの曲者である。
 「長居をしても申し訳ないので、僕たちはそろそろ。貴重な扇子も拝見できましたし、来て良かったです。
  でも、せっかくの綺麗な庭園が見れなかったので、欲を言えばもっと早くに来れば良かったです」
 「もっと早く……? ちょいと今、なんどきだい!?」
 僕の言葉におばあさんは少し何かを思い出したような表情を浮かべて、時間を尋ねてきた。
 「あ、えーと今は11時過ぎたところですね」腕時計は短針がわずかに11を過ぎた辺りを指し示している。僕は、おばあさんにも見えるように右腕を傾けた。
 「本当だ! ちょっとうたた寝するつもりが随分寝てしまったんだね」
 おばあさんが少しせわしない様子になってきたので、僕は気を利かせてすぐにお暇することにした。
 部屋を出ようとしたとき、おばあさんがハッとなって僕たちを呼び止めた。
 「あと、もう一つ!」
 「え? なんで……しょうか?」
 「アタシがここにいたことも、秘密にしといてくれよ?」
 「あっ、はい……」
 理由まではよくわからなかったが、そのくらいの追加事項は容易いことだ。
 「お約束します」僕は頷いて、風雷庵を後にした。
 
 美月と二人で来た道を静々と戻る。
 「なんだか、少しドキドキしたね」後ろを振り返らず、僕は言う。
 「そう?」
 美月からは素っ気ない返事が返ってくる。さっきぶつかった件を根に持っているのかもしれない。
 一方で、僕は結構満足していた。短時間、かつ、結果がいまいちではあったが、スリルの混じった体験ができたし、貴重な扇子も間近で見ることができた。明日の10時に待っている、頼まれごとも何かが起こりそうで面白そうだ。
 例の立て看板を過ぎた辺りで、前方から二人のニンゲンが駆けてくるのが見えた。いずれも真剣な表情を浮かべている。よく見ると、二人ともこの旅館の従業員の衣装を身に着けている。
 僕は緊張する。彼らは僕たちの姿をみとめると駆けるのをやめ、早足程度にペースダウンをした。明らかに、僕たちに要件があるようだ。
 一人は中年女性で、眼には力強さがあった。働く女の眼、と言う感じだ。この人、どこかで見たことがあるような……。
 もう一人は、綺麗なスキンヘッドの小男だ。ヒゲも綺麗に剃っているため、年齢不詳だ。
 「つかぬことを伺いますが……」こちらが尋ねるより早く、中年女性の方から積極的に話しかけてきた。
 「ごぜんさ……いえ、杖をついたおばあさんを庭でご覧になりませんでしたか?」
 午前? 最初の言葉の意味は良く分からないが、おばあさん、そして、明らかに居場所を捜索している雰囲気――。まず、間違いなく先ほど会ったおばあさんのことを示しているのだろう。
 駆け足で、しかも客に尋ねてまで探しているということは相当重要な捜索なのかもしれない。しかし。
 
 ――アタシがここにいたことも、秘密にしといてくれよ?
 
 おばあさんとの約束を思い出して、僕は悩む。しかし、ずっと黙ってはいられない。沈黙もまた答えになりかねないからだ。悩んだ末……、
 「いえ、特に見かけませんでしたけど」そう答えた。
 「そうでしたか、大変失礼しました」二人は深々とお辞儀をすると、すれ違い奥のほうへ消えていった。
 「あの人たちに悪いことをしちゃったかな」
 二人の姿が見えなくなったことを確認して、僕は美月に話しかける。
 しかし、美月の方は特に一連のやりとりに思い悩んではいない様子だ。
 「いいんじゃない? 『庭では見ていない』んだし」と返答してきた。
 む? あ、確かにそれはそうかもしれないけど……。なんだか禅問答のようだ。
 「あのおばあさん、結構凄い人だったのかな」
 「そうじゃない? 御前さまって呼ばれているみたいだし」
 あぁ、あれは御前さまって言いかけていたのか。なるほどなるほど。
 「でも、御前さん見つかっちゃうかな」
 途中にある立て看板も、旅館関係者には当然無効だろう。風雷庵の中も当然くまなく捜索されるはずだ。先ほど、僕が捜索した限りでは関係者を欺けるほど優れた隠れ場所はなさそうに思えた。
 そして、庭園は色々な小道が伸びているが、この辺りから先は風雷庵まで一本道になっている。道なき道を行く手も無きにしも非ずだが、杖を使っているおばあさんには難しいだろう。あの杖がダミーならば話は別だが。つまるところ、あの二人と鉢合わせになる可能性は限りなく高いだろう。
 来た道と違う道を選び、再び景色を堪能しながら回遊する。そして、館内と庭園との出入り口の付近まで戻って来た。
 「あれ?」
 その出入り口付近で、見知った顔を二人、立っているのが遠目に見えた。それは先ほど別れた、丸井兄弟――豪傑さんと館主さんだった。
 美月が僕の服の裾を引くのと、丸井兄弟が僕たちの存在に気づくのはほぼ同時だった。二人が、僕たちの方に向かってゆっくりと歩いてくる。
 「お二人さま、庭園はいかがでしたか?」
 「え? ええ。なかなか綺麗で、素敵でしたよ?」
 「それはそれは。お褒めの言葉、嬉しく思います」館主は目尻に皺を寄せて微笑む。
 「はっはっは。そうだろそうだろ。どうせなら、食える植物が生えてるといいんだがなぁ」豪傑さんは近くの木の幹をバシバシと叩く。
 「そうだ! せっかくですから、いい所にご案内して差し上げましょう」館主さんが妙案をいま思いついたといったように手を叩く。
 ん? いい所? もしかして……。
 「風雷庵という建物がありましてね。囲碁や将棋の対局なんかにも使われているのですよ。
  ただ、今は補修工事中なので庭を眺めることができないのですが……」
 風雷庵という言葉に、一瞬ドキッとなる。顔に出てはいなかっただろうか。こういうとき、美月のポーカーフェイスが非常に羨ましくなる。
 「無理にとは言いませんが、よろしければ」
 どうしたものだろう。どちらと言われれば、風雷庵には戻りたくない気分だ。
 もう既に、見たいものは見てしまったし、もし御前さんや先ほどの従業員2人と再会したときには多少なりとも演技が必要そうだ。
 お気持ちだけ頂きます、と返そうとするが。
 「いやいや、せっかくだから見といて損はないぞ!? どうせチェックインまでの時間もまだまだたくさんある。
  〈給湯室〉があるから、コーヒーでもどうだね?」
 そこまで言われてしまうと断りづらい状況だ。美月は表情で苦労することはないだろうし、コーヒーが飲めるなら文句もないはずだ。
 とりあえず、一通り見物した振りをしたら、昼食を理由にでもして速攻で退却させてもらう作戦を企てた。
 館主さんが先導し、僕と美月、最後尾が豪傑さんという並びで僕たちは風雷庵に向かっていた。
 僕たちは風雷庵を知らないことになっているのだから、丸井兄弟のいずれかが風雷庵への先導をかって出ることは当然ではあるが、地味にありがたいことだ。
 実際は一度訪れてしまっているので、一直線に辿り着いてしまったりなどすると不自然極まりない。それでも、周囲の景色を眺める仕草や足捌きに慣れが現れないように注意をしなければならない。
 本日3度目になる石橋と灯篭の前を過ぎて、風雷庵に辿り着いた。
 「先ほど申し上げましたとおり、あのような有様なのですが」館主さんが建物の脇の方を指差して苦笑する。
 ……はい、よーく知ってます。
 豪傑さんが扉をガラガラと開ける。僕たちは促されて、玄関に入る。すると。
 見覚えのあるえんじ色をした鼻輪の草履と、茶色い鼻輪の草履が2組並んでいた。なるほど、御前さんと二人はどうやら出会ってしまった、というわけか……。
 扉の音で気づいたのか、廊下を歩いてくる音が聞こえる。現われたのは、先ほど出会ったスキンヘッドさんだった。僕は、何か言われるかと身構えていたが特にそういう様子はない。
 館主さんが、「お飲み物はコーヒーで良いですか?」と尋ねてきた。僕たちは小さく頷く。
 「では、人数分淹れてもらえますか?」館主さんの言葉を受けて、スキンヘッドさんは短く返事をして戻っていった。
 履物を脱いで、僕たちは〈談話室〉に通された。ここは建物の真ん中寄りの一番玄関に近い位置にある。さっきは美月が確認に入ったので、僕は入ること自体は初めてだ。
 室内には、先ほどの中年女性しかいなかった。御前さんの姿は見当たらない。ここにいないということは、まだ〈管理室〉にいるのだろう。
 勧められたソファーに、僕たちは腰を下ろした。身体が適度に沈み込むのが心地良く、身体が休まるのを感じる。
 良く考えると、ここまでずっと動きっぱなしだったのだった。
 〈談話室〉を見回すと、絵画に混じって文字の書かれた額縁が眼に入った。
 僕の視線に気づき、館主が説明をしてくれる。
 「あれは、冷谷山二冠が棋神を獲得して三冠になった日に揮毫した色紙ですよ」
 先ほどの〈管理室〉にあったのは佐波九段の逸品で、こっちにあるのは冷谷山三冠の逸品か。さすが、聖地。これもファンには垂涎ものだ。価値のつけようもない。
 「将棋の冷谷山三冠はご存知ですか?」
 「えぇ、はい」
 即答した僕に、豪傑さんが「な、なんと!」と大仰に驚く。
 「むむむ……。やはりタイトルの一つも獲得しないと、学生諸君の知名度は得られんものかー」大げさなことに頭を抱えている。
 あ、いや……。少しいたたまれなくなってしまう。僕の場合、将棋棋士の知識がかなりあるので一般的な高校生の参考にしてしまうのは問題だと思われます。
 「コーヒー淹れましたよ」丁度、スキンヘッドさんがやってきたので僕は補足の機会を失ってしまった。すみません、豪傑さん。
 全員にコーヒーカップが行き渡ったところで、早速一杯頂くことにした。
 あ、なかなかいい奴だ。苦味よりは酸味が強いタイプのようだ。しかし、クセは少なくて飲みやすい。
 「美味しいね」隣の美月に意見を求める。
 「うん」
 しかし、様子を見ているとカップはそれほど傾けていない。どうしたのだろうかと横顔を観察していると、僕にだけ聞こえるような小さな声で答えがやってきた。
 「……猫舌だから」
 あ……そうだった……、っけか? 不覚。美月のことは色々と知っていたつもりになっていたが、まだまだ知らないことが多いようだ。
 それにしても、猫舌って。ウィークポイントが全然なさそうにみえるだけに、そのギャップは可愛らしいと思う。
 コーヒーの香りが部屋の中にも広がり、場が和んできた頃、館主さんが口を開いた。
 「あ、紹介が遅れましたが。そちらが、姉の丸井サラ。当旅館では女将を務めております。そして、そちらは弟の丸井ケイキ。旅館では料理長を務めております。つまり……」
 「おれたちは、4人きょうだいと言うこった」せっかちにも豪傑が発言を横取りしてしまった。
 なるほど、『丸井沙羅』と『丸井敬基』か。パンフレットで覚えのある名前だ。しかし、パンフレットに載っていた沙羅さんの写真は少し映りが良すぎるような気が……と、こんなことを思っちゃいけないいけない。
 「きょうだいが4人揃うのは随分と久し振りのことなんだ。一年、いや二年ぶりくらいか?」
 「新吾が6段になったばかりのころだから、三年以上は経ってるでしょ」沙羅さんがさりげなく豪傑さんを攻撃する。勝負の世界は厳しい。結果が出ないときは、苦しい時期が続くものだ。それは囲碁の世界にも限った話ではない。
 「そういえば」僕はふと、思ったことを口にしていた。「丸井6段は、長男なんですか?」
 「はっはっは。そうだが?」
 すると、館主が僕の質問の意図に気づいたらしく補足してくれた。
 「丸井家では囲碁棋士を輩出するのが悲願だったのです。これは丸井家の家紋なのですが……」
 そういって、館主さんは懐から手ぬぐいを取り出す。そこには丸い輪の中に漢字の〈井〉のような線が二本ずつ引かれていた。
 「井形の部分を碁盤、丸の部分を碁石と見立てると、この家紋は囲碁と縁がありそうだと代々の当主は考えていたようです。
  これまで、この旅館の館主は長男が務めてきたのですが、新吾兄さんがプロになれると知ると、わたくし達の父、千兵衛は大いに喜びその道を許したのです」
 「はっはっは。ちょうど、おれはこういう商いの才能がからっきしだったろうしな! って、なんで笑うんだ!?」
 「小さい頃、『温泉潰して全部プールに改装してやるぜ』とか言ってたのには驚いたわ。
  逆に、さりげなく囲碁の道に興味を持つように仕組まれていたんじゃない?」
 「……あり得なくはないですね」
 その後、いくらか会話は続いたが、雰囲気としては一段落した様子に見えた。当初の予定通り、そろそろ離脱する方向に持っていこうかな。
 そう思っていた僕に鋭い質問が投げ掛けられた。
 「ところで……。その、胸ポケットの封筒はなんですか?」
 そう言われて、僕は封筒をずっと胸ポケットに挿して歩いていたことに気づいた。
 「っと、これは……」
 少しまずいことになった。御前さんとの約束の趣旨からしたら、早々に人目につかないように持ち歩くべきだったのだから。
 「詳しくは言えないんですけど、預かり物なんです」
 今の僕には、そうとしか言えなかった。
 「預かっとる? 誰からで?」スキンヘッドさんも加わってくる。
 「えーと、それも……すみません」
 「実はですね。わたくしたちは封筒を探していたのですよ」
 「えっ……?」
 「御前さま――わたくし達の母にして前オーナー夫人、現オーナーの丸井ぼたんが、封筒を探すように、と言っておりましてね」
 僕に封筒を託した御前さんが、すぐに封筒を探すように言った理由は未だに理解できないが、僕たちが風雷庵に招待された筋書きはなんとなくわかってきた気がする。
 御前さんを探していた沙羅さんとスキンヘッドさんが風雷庵で御前さんと会い、封筒を探す旨を聞いた。
 僕の胸ポケットに見慣れない封筒があったのを思い出し、内線かなにかを使って、本館にいる館主さんと豪傑さんにそのことを伝えた。
 本館との出入りは一箇所だけなので、そこで待機して僕たちに声を掛けて風雷庵に招待した。
 ただ、事情聴取をするだけならどこでもできる話だ。しかし、一般客がまず近づかない風雷庵に呼び込んだ訳だから、込み入った事情があることは確かだろう。
 この『宝探し』みたいな展開は、御前さんが仕組んだイベントそのものなのだろうか。それにしては、スタートが早すぎる気がするし、御前さんが姿を現さないのも不自然に思える。
 何かの行き違いや、アクシデントがあったのだろうか。いずれにしても、ごまかしが続けられるにはきつい状況だ。
 「分かりました、正直に言います。これは、ここの〈管理室〉で会った御前さまから預かったんです。でも、明日の10時までは誰にも渡さないように、といわれていて……」
 正直に話したものの、丸井さんたち4人はあまり納得した様子はない。
 こうなるとやはり、本人に証言してもらうほかないかもしれない……。
 「あの……。御前さまと会わせてくれませんか? まだ〈管理室〉におられるでしょう?」
 先ほど、玄関に草履があったことを思い出す。明日の朝、何をする予定なのかは分からないが、ここで封筒を開封されて台無しになることを考えれば、僕の招いたミスとはいえさすがに庇ってくれるだろう。
 僕の要求に4人の兄弟は顔を見合わせた。
 「良くご存知ね。でも、会っても何も変わらないわよ」
 反応は驚くほど否定的なものだった。御前さま、と呼ばれるだけあってその地位は相当に高いはずだ。その証言を聞くことにも否定的というのは一体……。
 「……いいでしょう」そんな態度をしている3人とは異なり、黙っていた館主さんが口を開いた。「ここにいても話は進みそうにありませんし」
 そして、僕たちは〈管理室〉へ向かうことになった。
 
 〈管理室〉の扉の前に着く。先程去ったときと特に変わったところはない。
 館主は懐から鍵を取り出すと、静かに開錠をする。
 ん? 鍵?
 疑問を消化するよりも早く、扉は開かれた。そして、部屋の中を覗き込んだ僕は息を呑む。
 視線の先には確かに、先ほど僕たちが会話をしていた御前さんはいた。
 ただし、床に仰向けで倒れた状態で――。
 今度は、眠っている訳ではない。部屋に入らずとも、それがはっきりと分かってしまった。
 御前さんは白目を剥き、口許からは泡の混じった唾液を垂らしている。両手は意識を失う直前まで抑えていたであろう、胸元の衣服を掴んだまま。……そして、その肢体は微動だにしていない。
 僕は自分自身を褒めてやってもいいと思った。突然目の前に訪れた非日常に動転したり、ましてや失神したりもせず、瞬間的に部屋の中に飛び込もうとしたのだから。
 こういう場合、心肺蘇生と気道確保が最重要なのだ。一秒でも遅れれば落命の確率が高まってしまう。
 しかし、脚は空回りしてそれは叶わなかった。僕の両肩は太く逞しい腕にがっしりと掴まれていたのだ。それが豪傑さんのものだ、ということはすぐ理解できた。
 「なんで……ですか!?」僕は、抗いながら言った。
 「現場保存。常識でしょう?」
 さらりと放たれた沙羅さんの一言に耳を疑う。
 現場保存、って。
 顔を廊下にいる沙羅さんに向ける。
 その視線は、先ほどとはうって変わって冷たいものとなっている。
 その豹変振りに背筋が凍る。
 「さて。わたくし達も戸惑っているのです」同様の温度感で館主さんが語り始める。
 「このところ寝たきり状態だった御前さまが行方不明となり、捜索の結果、風雷庵で会うことができました。
  しかし、御前さまこの状態で、近くには空になった薬ケースが転がっていました。
  それは一日に一個、就寝前しか飲んではいけない薬なのですが……。そしてうわごとのように、『封筒、封筒』と繰り返すばかりなのです」

 コノ人達ハ何ヲ言ッテイルンダ?

 そのとき、僕の脳裏には7月上旬に母と観た、〈金の砂時計〉というサスペンスが蘇っていた。
 俳優が浮かべていた、どこか自然さが微妙にズレた表情が、いまこの4兄弟が見せているものと重なっているのだ。
 自分の中の緊迫指数が急上昇していくのを感じる――。
 「恐れ入りましたよ。まさか、こんな若い人たちがなさるとは。これは辣腕の御前さまが油断しても致し方ない。
  今、円先生がこちらに向かってくれてはおりますが、保つでしょうか……」
 「ぼっ、僕たちは……何も、して、ないですよ!?」そんな言葉を無意識のうちに呟いていた。
 「はっはっは。まぁそういうこたぁ、専門の人らに任せるとして、な。もうちょっと色々と話を聞かせてくれんか?」
 豪傑さんの笑みはこれまでと変わらない自然体のものだった。それが逆に、恐怖感を煽るのには効果的だった。
 何が起きているんだ? この4人の中の誰かに真犯人がいて、僕たちを陥れようとしているのか?
 いや、待てよ。御前さまが倒れているのに、この人たち妙に落ち着きすぎてないか? 誰か一人くらい、僕と同じように蘇生を試みる人がいたって、おかしくないだろう?
 もしかして、全員グルという可能性が?
 ……どうする? どうする!?
 この雰囲気は非常にまずい気がする。僕たちは無実だ。でも、明らかに分が悪い。ここは離島であり、彼らが管理する旅館のさらに一部のニンゲンしか近づかない建物なのだ。口裏を合わせられたりしたら、100%ではないにしても、冤罪になる可能性は十分にありうる。
 せめて公正なニンゲンのいる環境で話を聞いてもらわないと……。
 上手くこの人たちを掻い潜って本館までたどり着き、一般客の多いロビーで自分達の無実を主張する。それくらいしか、案が浮かばない。
 しかし、僕一人で駆け出してもダメだ。美月を残していくわけには行かない。
 僕は先ほど美月と行動したときのことを思い出していた。あの時、眼の合図ですぐに伝心して、動作できた。そうだ、今回もきっとうまく行くはず……。
 静かに、深く呼吸する。丹田に力を入れる。
 ……よし。
 次の瞬間、美月に一瞬眼で合図を送り、僕は駆け出した。
 はずだった。
 「あ……っ?」
 しかし、意識とは裏腹に体は動かなかった。気づけば、平衡感覚もどこかおかしい。これは一体……?
 「そろそろ効いてきたようね」
 「ね、あっしの言ったとおりでしょう。若い子は代謝がよろしいと」
 まさか、さっきのコーヒーの中に……?
 そんなフィクションみたいなことを実際にされるとは思ってもみなかった。
 あれこれと思索する時間さえ僕には与えられなかった。とめどなく押し寄せる強烈な眠気の波に、僕の体は抵抗できなかった。
 普段、授業中に寝たりする癖がなければ、耐えられただろうか。意識を失う直前に考えたのはそんなくだらないことだった。

 

 小説『All gets star on August =星の八月=』(2/4)に続く

 

小説『Sum a Summer =総計の夏=』(5/5)

第五章 『7月7日(月)』

 

 放課後になった。勝負のときは確実に近づいている。一旦、部室で待ち合わせ、最後の打ち合わせを済ませることにした。
 開始予定時刻まであと20分ほどだ。美月は詰将棋の本を読み、泉西先生は瞑想(?)をしている。
 美月は普段どおりの無表情。特に緊張している様子は無い。
 泉西先生もまた落ち着いているように見える。毎日人前に出る教師だから……というわけではなく、こちらも単純に性格のような気がする。
 緊張し始めているのは僕だけか……。
 「よ……し、そろそろ――」
 開始予定時刻まであと10分になったところで、二人に声を掛け、僕たち将棋部は戦いの場へと出陣した。
 
 サーバールームに着くと、大江老人と斎諏訪が既に会場設営を終えて待っていた。
 「3人来た、とぃぅことは不戦敗を告げに来た訳じゃなさそぅだな」
 「もちろん……」
 不敵な態度に泉西先生は大いに眉をひそめ、美月も僅かに眼を細めた。
 「結構。今日の勝負に挑む、我が電算研究部のメンバーを紹介しょぅ。先鋒の〈ヴィシュヌ〉、中堅の〈シヴァ〉、大将の〈オーディン〉だ」
 確か、インド神話でヴィシュヌは創造、シヴァは破壊を司る神だったはずだ。詰将棋の創造と、その破壊にそれぞれイメージを重ねたのだろう。
 オーディン北欧神話最高神にして魔術と知識と戦の神だ。
 なかなか凝ったネーミングではないか。
 「将棋部は、先鋒が顧問の泉西先生、中堅が部員の織賀美月、大将が部長の瀬田桂夜だ」
 紹介すると、斎諏訪は美月の全身を品定めするかのように観察している。さすがの斎諏訪も、部員に女子――それもなかなかの綺麗どころ――に少なからず驚いているようだ。
 「ほんじゃ、始めようかいの。今日、立会いを務める大江澄輝じゃ」大江老人が立ち上がり、挨拶を行う。
 「電算研究部からはコンパイル済みプログラムを3本、既に預かっておる。また、〈びすぬ〉と〈しば〉は共にスタンドアロン――即ち、両者の間で情報のやりとりをしていないことはワシが保証しよう」
 「分かりました」元々、斎諏訪は俺との勝負以外は前座だと位置づけていた。だから、不正をする理由はないと思っていたが、その言葉のおかげで心配事はひとつ消えた。
 「まずは、一戦目の『詰将棋解き』より行う。各位準備を」
 大江老人に促され、泉西先生と斎諏訪が前にでる。
 「はっはっは。問題を作ることにかけては、右に出るものはいないぜ!」
 「……」
 斎諏訪も国語のテストでは一杯食わされた口なのか、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。
 立会いの大江老人が二つの小箱にそれぞれ将棋の駒が入れ、それぞれ数回揺する。そして、それを泉西先生と斎諏訪の前に置いた。
 斎諏訪は小箱に腕を入れると、躊躇いもせず手を抜き出す。その手の形はさながら玉杓子のようだ。眼一杯の駒を取り出した。
 駒の数が少なくても手数の多い問題は作れる。しかし、難易度はどうしても落ちてしまう。
 第二戦でコンピュータの演算速度を最大限に生かすためにも、駒の数の多い複雑な問題が有利と判断したのだろう。
 当然、複雑度が高いと作成に時間が相当かかるはずだが〈ヴィシュヌ〉の性能に相当自信を持っているのだろう。
 しかし、こちらも無策で臨んだわけではない。
 「HAHAHA! その程度か。俺のを括目して見ろっ」
 対する泉西先生が取り出した駒を見て、僕は確かに括目してしまった。
 飛車2枚、角行1枚、金将2枚、銀将2枚、桂馬1枚、香車3枚、そして歩兵が12枚……。
 って、話が全然違うじゃないかー!
 「子供の頃、飴玉の掴み取りコーナーを駄菓子屋の経営危機の原因に転じさせた腕は伊達じゃないぜっ」
 「だーかーらっ。そんなに駒取っちゃってどうするんすか――!」
 してやったり顔の泉西先生に僕は精一杯批難する。当然、あとの祭なわけだけど。
 僕たちの作戦はこうだった。
 泉西先生が「大学生の頃、麻雀で鍛えた盲牌の力をいかんなく発揮できるぜ」と言っていたので、既存の長手数詰将棋を再現してもらうことにした。
 盲牌とは、指先の感覚だけで牌の表面の文字を読み取るテクニックだ。木製でもプラスティック製でも、ほとんどの将棋の駒は表面が彫って文字を作っているので、この能力が活かせるわけだ。
 僕の叫びなのか、読心したのかは不明だが、泉西先生ははっとなり「すまん、つい……」と頭を掻いている。全く、この人は……。やはり、僕か美月が先鋒を兼任すれば良かったか。
 兎にも角にも、勝負は進めざるを得ない。
 泉西先生はカーテンを一枚隔てた向こう側で問題を作成、完成したらそれを大江老人に入力してもらう手はずになっている。
 ちなみに斎諏訪は、〈ヴィシュヌ〉を起動するだけとのことだ。完了したら、画面にその旨だけが表示されるらしい。確かに、作成途中を見てしまっていると、詰将棋解きのときに斎諏訪が有利になってしまう。
 泉西先生が自ら選んだ駒を両手に持ち、カーテンの向こう側に行こうとする。
 「センセ」
 「……?」
 美月が泉西先生を呼び止める。その顔は僅かに青醒めている。
 「頑張って」
 「ん、あ……ああ」
 ある意味残酷なエールといえる。泉西先生の姿は完全に見えなくなった。
 「よし、でははじめるぞい。用意――スタート!」
 斎諏訪はモニタの前に座り、キーボードで私用する駒の種類と数を入力していく。
 カーテンの向こう側では、駒を動かしている音が聞こえ始める。
 斎諏訪は入力を終えてエンターキーを一度押す。そして、腕組をしたまま、自信満々の表情を浮かべている。
 1分半が経過した頃、斎諏訪が呟いた。
 「……〈ヴィシュヌ〉が作り終えたようだな」
 モニターを伺うと「作成完了 01:34」とだけ表示されている。
 その後、制限時間ギリギリで泉西先生が「できた」と声をあげ、作り終えた合図を送ってきた。大江老人と入れ替わりに、泉西先生が戻って来た。
 「HAHAHA……。なかなかの力作だぜ……?」
 すっかり憔悴しきっていた。最初の勢いはどこへやら、だ。
 いやしかし、不戦敗を選ばなかったあたりは、評価してあげなければならないかもしれない。
 一戦目で作ったこの問題は、二戦目で初めて解くため、現段階では勝敗は確定できない。しかし、二戦目の重要さは増したといえるだろう。
 
 「さて、次じゃ。詰将棋解き行う。各位準備を」
 大江老人に促され、美月と斎諏訪が着席する。美月の前には、問題が解けたときに合図を出すためのボタンが置かれた。(〈シヴァ〉が解けた場合は自動的に同じ音が出る仕組みらしい)
 いよいよか。僕は、美月の表情を伺う。
 いつもの無表情。しかし、それが逆に僕を安心させた。いつもの、いつも通りの美月でいてくれれば十分勝ち目はある。
 斎諏訪は指を鳴らし、キーボードのフォームポジションに両手を置く。
 「キミ、瀬田に弱みでも握られてんのかぃ?」
 「……」
 「キミみたぃな女子が将棋やるはずなぃもんな」
 「……」
 それに関しては僕も初対面のとき、同感だったが。
 「かわいそうに。こんな勝負に狩り出されて、敗北感まで味わわされるなんてな」
 コンピュータの演算にニンゲンが適うわけが無い。それについては僕も同感だ。だが、美月は普通のニンゲンはないのだ。そこだけは認識が違う。勝負はまだ負けと決まったわけじゃない。
 「さて、はじめるぞい」
 大江老人がエンターキーの上に指を置く。
 「用意……」
 頼んだぞ、美月!
 「すたあと!」
 号令と、キーを押下する音と同時に、モニターに問題となる詰将棋が二つ映し出された。
 これは……!?
 僕が驚いたのも無理はない。一つは微かに見覚えがあるものだった。確か、僕が持っていた古い詰将棋の本の最後の方にあったような気が……。
 そうだ、確か37手詰めの大作だ。そこで、ハッと気づく。
 もしかして。そう思い、泉西先生の方を伺うと、片目ウインクを返してきた。むむ、そういうことだったか。
 美月は駒の種類と数から、自分がインプットした詰将棋の中に偶然一致する長手数の問題があったことに気づいたのだろう。
 そして、泉西先生を呼び止め、心の中で盤面を説明した。泉西先生は、それを盤面に再現していったのだ。
 これなら、美月にとって一問はパスしたも同然だ。将棋部的には、全てが順調に進んでいるように思えたがしかし。もう一つの問題、すなわち〈ヴィシュヌ〉の作った問題が曲者だった。
 その第一印象は……、『非常にカオス』だった。
 9×9のマス全体に散らばる駒、持ち駒も多い。パッと見、50の手数以下で詰むとは思えなかった。そもそも、本当に詰将棋として成り立っているのか。
 斎諏訪は物凄い速さでタイピングをしている。恐らく、キーの入力も効率化しているのだろう。
 美月の方は……というと。
 おい、こらこら! 頭を抱えて机に突っ伏しているではないか!
 斎諏訪が問題入力をしているこの間も、考慮時間だということを伝えていなかっただろうか。いや、確かに最後の打ち合わせでも伝えたはずだ。
 僕は後悔の念に襲われた。少し、コンピューターを侮っていたかもしれない。いくら、美月の能力が並外れたものであったとしても、無茶な対決だったのだのかもしれない。
 将棋部の存続が掛かっていたとはいえ、僕と斎諏訪の因縁が勝負の発端だったといえる。それに、無関係の美月を巻き込んでしまった。
 日頃の素振りからしても、美月は自分の能力には自信を持っている。だからこそ、無茶とはいえ『勝負で負けた』という事実が心の傷になってしわないだろうか。
 僕の苦悶など露知らず、斎諏訪はキーボードを叩くのをやめて振り返る。
 「さて、問題入力完了」
 そして、隣の美月の様子にも気づいたのだろう、斎諏訪が余裕の笑みを浮かべる。
 「悪ぃな。ぉれは女子供にも容赦はしなぃ性格なんだ。……解析開始!」

 ――ダンッ。
 
 斎諏訪が力強くエンターキーを押すと、積まれていたコンピュータ群が低く唸り始める。
 恐らく、大量のCPUを使うためファンが一斉にまわり始めたのだろう。それは洞窟の奥に潜む魔物が動き始めたかのような、不気味さを感じさせる音だった。
 
 そして。
 
 ――――ピッ!
 
 回答権を求める電子音が鳴り響いた。
 「まぁまぁのタイムか」斎諏訪が鼻を鳴らす。
 〈シヴァ〉の出した解答を読み上げようとしたところで、何かに気づき、固まった。
 僕も気づいた。〈シヴァ〉の画面に変化はない。コンピュータも、以前唸りを上げ続けている。
 電子音が鳴ったのは、斎諏訪の方ではなく、美月の方だったのだ。
 「バ、バカなっ!? 本当は解けてなんかなぃんだろ? ぁ?」
 「……」
 美月が顔を上げ、垂れていた前髪をかきあげる。
 「もしかして、バカなの? そんなことしても意味ないじゃん」
 現れたのは相変らずの無表情。歯軋りをしている斎諏訪を見つめ返している。
 「センセの方から。4二飛車……同金……」
 美月は淀みなく答え続ける。大江老人が、急いでそれを記録し始める。
 「……同桂成らず……4一玉……5一と金までの37手詰め。次――」
 丁度その時、ピッと音が鳴った。〈シヴァ〉が解き終えたのだ。本来なら、斎諏訪に勝利の喜びをもたらすはずの音だったはずだが、今はそれが空しく聞こえる。
 「4四角……、同桂……、2四飛車……、2三歩……、3四桂……、3一玉……」
 美月はなおも淡々と答えを口にしていく。
 最初は興奮していた斎諏訪も、自身の目の前に映し出された〈シヴァ〉の出した答えを目で追ううちに、表情は固まっていく。
 「……7八玉、6八竜、8九玉、7九金、9九玉、8八竜まで117手詰め」
 静まり返る室内。
 「どうなんだ?」
 しかたがないので、僕が促す。
 はっと我に返った斎諏訪が、様々な表情がごちゃまぜになったような表情を浮かべて「あ……、合ってる」と吐き捨てた。
 僕が親指を立てて「やったな」と合図を送ると、美月は僅かに眼を細めて「トーゼンでしょ」と応えた。
 「一旦、結果をまとめるぞい。第一戦目は117手詰めを作った、電算研究部の〈びすぬ〉の勝ち。第二戦目は将棋部の織賀くんの勝利じゃ」大江老人が宣言する。
 将棋部としては十二分の結果だ。泉西先生は負けてしまったが、意味の有る問題を構成できたことで〈シヴァ〉の解析時間を余計に消費させることができた。
 美月の方は、文句なしの結果だ。今、あとから検証してみると、勝因はいくつかあったことに気づく。
 まず、泉西先生との連携プレーにより、実質的に解くべき問題が一問だけに減り、〈ヴィシュヌ〉の問題に集中できた。
 そして、美月の『演算』能力は想像以上だった。正直、僕もここまで凄いものだとは思っていなかった。
 突っ伏していたのは、視覚情報が遮断するため、頭を抱えているように見えたのは耳を塞いで聴覚情報を遮断していたのだろう。

 さて、これで終わりじゃない。ここからは僕の番だ。
 「調子に乗るなよ、〈オーディン〉こそ俺の集大成だ」
 斎諏訪の方も考えは一緒らしい。その眼には再び力が戻ってきている。
 「望むところだ」
 僕も一歩も引かない。正直なところ、感情の通わない未知数の敵を前にして不安な気持ちもそれなりにある。だが、戦う前から相手に呑まれていては、熱くなったとき以上に勝てない。
 〈オーディン〉の準備ができたらしい。立会い人の大江老人が振り駒を行ってくれた。その結果、先手が僕、後手が〈オーディン〉と決まった。
 一つ深呼吸する。
 そして、歩を掴むとそれを一つ前の桝に高らかな音で打ちつける。
 
 ――ピシッッ

 初手、1六歩。これが僕の選んだ作戦だ。
 「……ほう?」
 それを見て、一定以上の将棋の経験を持つ斎諏訪は呟く。
 一般的に、コンピュータ将棋の序盤は蓄積した棋譜に一致したものに従わせることが多い。。
 将棋の攻守には様々な種類がある。序盤はその可能性がありすぎて、全ての可能性を検討しようものならどれだけ時間があっても足りない。だから、過去に指された記録を利用することでその時間を大幅にカットし、疑問手を減らすことができるのだ。
 だから、それを外しに行った。
 将棋には有用な初手が大きく二つある。7六歩、2六歩だ。前者は大駒である角行の利きを通す手、後者は大駒である飛車の利きを通す手だ。ほぼ9割近くがこのどちらかであると言ってもいいくらいだ。つまり、初手1六歩を選択した時点で、〈オーディン〉の持つ知識の9割を封印しようとしたのだ。
 斎諏訪がキーボードを叩き、僕の手を入力する。すると、コンピューターが一斉に唸り始める。そして、〈オーディン〉が手を選択した。
 
 ――ピシッ
 
 3四歩。斎諏訪がディスプレイに表示された手を僕の前で再現する。角行の利きを通す有力な手だ。
 念のため、奇をてらった手を連発するのも一つの作戦かもしれないが、相手の実力が分からない以上リスクが高いと思われた。次の手からは一般的な流れに回帰させることにした。
 (ん?)
 数手進んだところで、僕は気付く。〈オーディン〉の手がすんなりと出てくることに。
 斎諏訪と眼が合う。その眼は不適に笑っていた。
 「悪いが、キミの作戦はお見通しだ」
 「なに?」
 「とぼけても無駄だよ。変わった手を指して棋譜参照を無効にしようとしただろう。だが、〈オーディン〉はそういった手は『パス』と判断するんだ」
 僕の初手がパス扱いになるということはつまり。先手が〈オーディン〉、後手が僕で始められたのと同じと判断されたわけだ。ちょうど、福路くんと昼飯を掛けたゲームのことが頭に回想された。
 9割の封印は失敗に終わったが、まだ手はある。
 
 ――ピシッ
 
 〈オーディン〉が振り飛車を選択したことを受けて、僕も振り飛車を選択した。これは相振り飛車といって、実戦例が少なく乱戦になりやすい。
 まずは、盤面を複雑にし、〈オーディン〉に疑問手を指させ、それを咎めていくことを目指した。
 序盤の駒組みが進む。
 僕は右矢倉を組み上げる。上方からの攻撃に強みを持つ囲いだ。相振り飛車の戦いは脇からの攻撃になりにくい。
 対する〈オーディン〉は端の香車を上げ、その空いたスペースに王将を滑り込ませる。穴熊と呼ばれる囲いだ。とにかく堅牢で、崩すの時間が掛かる。
 いよいよ局面は中盤に差し掛かろうとしている。
 僕はここが最も重要だと認識している。終盤の寄せ合いになれば、正確な速度計算ができるコンピュータが圧倒的に有利だ。中盤のうちに、少しでもリードしておく必要がある。
 僕は、攻めの部隊である左半分の飛車や角行をそのままに、右側で矢倉囲いの一部になっている銀将を上方に進めていく。
 「ほお。B面攻撃か。間に合うかな?」斎諏訪がなじる。
 B面攻撃とは、自らの盾や鎧で相手の武器を破壊に行くような作戦だ。上手くいけば、相手の攻撃力を奪い戦いが有利に進められる。飛車や角行を使って真っ向から攻めていくのが正道であるため、こう呼ばれる。
 当然ながら、自ら防御を崩すことになり、リスクはそれ相応に高い。正確な差し回しが求められる。
 〈オーディン〉もB面攻撃を的確に対応してくる。予想以上に手強い。
 「〈オーディン〉は世の中に溢れる棋譜を貪欲に回収し、それを取り込んでぃる。プロ棋士は勿論、アマチュアの最新の対局もな。それだけじゃなぃ。勝因分析、敗因分析も行ってぃる。つまりだ、逆転勝ちの対局の場合は、序盤は負けた側の指し手に重みを置き、終盤は勝った側の指し手に重みを置ぃて取り込んでるのさ」
 (随分、分かりやすく説明してくれるじゃないか)
 オーディンは知識に対して非常に貪欲な神と言われていたはずだ。確かに、〈オーディン〉の指し手には全くブレがない。
 僕は自分を信じて、指している。しかし、感情の無い相手を前に、指先は僅かに震えてきている。
 「……ケーヤ?」
 美月が後ろから話しかけてくる。彼女のことだ、普通の女の子のように心配げな表情で言ってはないだろう。「君、しっかりしなよ」そう言いたげな表情をきっと浮かべているのだろう。
 それでいい。美月がいつもでいてくれることで、僕もいつもを取り戻せそうな気がするのだ。
 「大丈夫」
 僕は短くそれだけ答える。
 
 ――ピシッ
 
 僕は持ち駒の歩兵を四段目に打った。〈オーディン〉の囲いから程遠い位置に。
 「なんだぁ? そのぬるい攻めは」
 斎諏訪でなくても、仮に僕が反対側の立場だったら同じように思っただろう。〈オーディン〉は構わず、僕の陣地をこじあけに来る。

 ――ピシッ
 
 僕は直前に打った歩兵を成り、〈と金〉にした。これで、働きは金将のそれと変わらない、強力な駒になった。
 しかし、その間に僕の陣地はついに決壊した。この後、続々と〈オーディン〉側の駒がなだれ込んでくるのは避けられない。
 そろそろ〈オーディン〉側の囲いにも取っ掛かりをつけていかないと、明らかに間に合わない。
 
 ――ピシッ
 
 僕の王将は盤の中央である5段目まで達していた。囲いから追われて、上部に脱出していたのだ。
 流れから見ると、攻められて王将が命からがら逃げ出している格好だ。三国志で、曹操赤壁から逃げた時のように。
 しかし、それは真実ではない。元より、勝負を開始した時点からの僕の構想だったのだから。
 「お前、まさか?」
 どうやら、斎諏訪も今気づいたようだ。恐らく、今この瞬間の盤面全体を見た者はこう思うだろう。
 
 5段目にいる王将は奥のほうまで逃げ道が確保されており、捕まえるのがまず難しそうだ、と。
 
 将棋の勝ち方は、大きく二つある。一つ目、相手の王将を詰ます。二つ目、入玉したとき相手より多くの点数であること。
 簡単に言うと、一つ目はKO勝ち。二つ目は判定勝ち、だ。
 王将を詰める場合、最も大切になるのはスピードだ。自らの王将がいかに危ない状態だとしても、相手の王将さえ先に詰ませられれば勝ちなのだ。ゆえに、駒を大量に犠牲にして、相手の王将に肉薄していくことになる。
 それに対して、入玉の場合、最も大切になるのは所有する駒の内容だ。駒を多く所有するものが勝利に近くなる。
 将棋の本質的には、二つ目の入玉はあくまでも副次的なもので、世の中の殆どの対局が一つ目を目標としている。
 しかし、それを逆手に取った一直線の入玉狙い。負けられない対局のために、僕の立てた今回の作戦がこれだった。
 入玉となる対局自体が世の中でもレアだ。ましてや、戦う前から入玉を構想として描いている棋譜などはまず皆無といえる。つまり、数多くの棋譜を取り込んでいる〈オーディン〉の強みをこの一点において、外すことができると踏んだのだ。
 案の定、〈オーディン〉は囮として自陣に残っている僕の囲いの残骸の金将銀将を歩兵や桂馬を使って取りに行こうと動いている。
 しかし、入玉において歩兵も金将も同じ1点、それは現状では非常に価値の薄い手を指していることになる。
 僕は作戦の成功を意識した。ところが。
 「モードチェンジだ。マニュアルモードに変更する」斎諏訪はキーボードを素早く動かすと、〈オーディン〉の出した手をキャンセルした。
 そして、別の手を入力する。穴熊囲いを自ら崩す一手だ。その意図が伝わってきた。
 
 穴熊を崩し、こちらも入玉する!
 
 僕は入玉のために、そこそこ駒を犠牲にしている。もし、完全に相入玉となり点数計算に持ち込まれると面倒なことになる。
 僕は、立会人である大江老人の顔を窺う。
 「問題なし、じゃ。事前に提出されたプログラムの段階から〈まにゅあるもおど〉は組み込まれていたからのう」きっぱりと突き放された。しかし、理には適っている。
 改めて斎諏訪の顔を見ると、彼は歯を食いしばり、眼を大きく見開き、顔を紅潮させている。
 負けない、負けたくない。表情でそう言っているのが強く伝わってくる。
 記憶に残っていないはずの斎諏訪の小学生時代の顔が、今の斎諏訪と重なっているような気がした。
 そいつは、その後、手にした強力なプログラミングスキルとともに今、雪辱の舞台に立っているのだ。
 だが――負ける訳にはいかないのは僕も同じだ。あの時の違うのは斎諏訪だけじゃない。
 僕の持ち駒の歩兵が〈と金〉になり、斎諏訪の穴熊を横から崩していく。
 
 ――ピシッ
 ――ピシッ
 ――ピシッ
 
 激しい応酬が始まる。
 斎諏訪は穴熊からの脱出を図る。僕はそれを防ごうとするという構図だ。
 斎諏訪は盤上にも、持ち駒としても豊富な持ち駒を持っている。入玉を図ることも十分に可能な状態だ。
 しかし、そのためには犠牲を払い、僕に多くの駒を渡さなければ成らない。そうなれば、得点差で僕の勝ちになる。それでは元も子もない。
 かといって、僕の〈王将〉を詰められるかというと、それも無理だ。
 なんとか打開しようと、なんとか僕のミスを誘発しようと怪しい手を連発してくるが、僕は冷静だった。
 そして、ついにその押し引きに決着が訪れた。
 「負け、まし……」
 声を発したのは、斎諏訪。最後の方は聞き取れないようなか細い声だった。斎諏訪の王将は鉄壁だった穴熊囲いから自ら脱出したところで、詰んでいた。
 皮肉なことに、その姿は自ら作り上げた自信作である〈オーディン〉を諦め、結果として力を出し切れなかった今の斎諏訪自身と重なっているようだった。
 僕は――、いや将棋部は完全勝利した。しかし、まだ終幕ではない。
 肩を落とす斎諏訪に僕はゆっくりと静かに話しかける。
 「……斎諏訪。将棋と他の類似ゲームとの大きな違い、お前なら分かるよな?」
 「……」
 「取った相手の駒の扱い。チェスなら、ゲームから退場してもう戻ってこれない。囲碁のアゲハマも終局後の整地にしか使われない。でも将棋はゲームの途中からすぐ味方に変わるよな。強力な敵であるほど、強力な味方になる。
 「……」
 「そして、もう一つ。将棋って、普通ここで終わりだけどさ。この後、この駒たちってどうなるんだろう」
 激しい争いを終えた戦場で。敗軍は相手を憎むだろうか。勝者は敗者を見下すだろうか。
 「持ち駒の振る舞いから考えると、きっとこうなるんじゃないかって、俺は思ってる」
 僕は盤面に並んだままの斎諏訪の駒を全て反対向きに変えていく。僕からみたら全てが味方になる向きに。
 昨日の敵も、今日は味方として迎える。そこには遺恨もなく。全ての駒が、同じ未来を向く。
 美月にはまた「もしかして、キザなの?」とか言われるかもしれない。勝者の欺瞞かもしれない。しかし、頭に不意に〈跳躍(リープ)〉してきたこの想いは、今伝える必要がある。そう直感したのだ。
 「『味方』になってくれ、とまでは言わない。俺だって高校に入るまで3年間、将棋を見放してたんだから」
 僕が、将棋をずっと続けていたと思っていたのだろう。俯いていた斎諏訪が意外そうな顔でこちらを見上げた。
 「斎諏訪のやり方でいい。将棋部のメンバーになってくれ」
 斎諏訪は再び俯き、盤上の駒を睨みつけていた。
 
最終章 『7月中旬』

 

 勝負のあと、美月に確認したところ、詰将棋作りついては想像通りだったが、詰将棋解きについては新たな事実が分かった。
 あの時、チャイムを鳴らしたとき、まだ問題は解き終えていなかったらしい。一問目を話しながら、解いたとのこと。要するに、時間稼ぎだったのだ。声にしろ、筆記にしろ、ニンゲンはアウトプットを一気にできないところが逆に有利に働いたわけだ。

 カキーン……
 
 放課後の校庭から野球部の打撃音が響いてくる。
 待ち望んだ夏休みがいよいよ来週に迫っている。夏休み中には、多くの部活では大会が開かれるため、どの部活もいつも以上に真剣に練習に励んでいる。
 それは、将棋部も例外ではない。
 結局あの一件のあと、電算研究部と将棋部の吸収合併は承認され、正式名称は将棋研究部となった(僕達は変わらず将棋部と読んでいるが)。その結果、部員も僕と美月と斎諏訪の3人になった。
 斎諏訪の作ったプログラム、〈ヴィシュヌ〉〈シヴァ〉〈オーディン〉は現在、将棋研究部の名も併記してウェヴサイトに公開している。
 〈オーディン〉は難易度の設定や勝負のできるようにチューニングされ、幅広いユーザーに使ってもらえるように改良された。
 特に、詰将棋制作プログラム〈ヴィシュヌ〉は一部の層に波紋を広げている。詰将棋作家という職業が世の中にはある。イメージとしては、自動歌作成ツールが無料公開されたようなものだから、是々非々の物議をかもしている。
 結果として、将棋部のウェヴサイトのアクセス数はあっという間に増えた。単純比較はできないが、白物家電研究部の実績に引けをとらない数字を上げている。
 この段階でも、将棋部の降格を取り消せるだけの実績を用意できている感覚はある。しかし、油断はできない。この夏休み中に開かれるいくつかの大会で優勝クラスの実績を上げたいところだ。何はともあれ、3人集まったことで、団体戦に出ることも可能になった。チャンスが広がったのは大きい。
 HOWEVER。しかしけれども。僕は、部屋を見回す。
 あの勝負以来、一応部室に3人集まるようにはなってきた。しかし、お互いのコミュニケーションはまだまだぎこちない。
 美月は携帯端末をいじり、斎諏訪はパソコンをいじっている。部屋には硬質のモノを指で操作する音がこだましている。
 えーと、ここ、将棋部なんですけど……。木製の音、響かせませんかー?
 しかし、こんなときの打開策を僕は会得しているのだ。それは。
 「美月、斎諏訪」
 呼びかけると、二人とも姿勢はそのままで、顔だけこちらに向けてくる。
 「まめしばに『作戦会議』しに行こうか」
 その言葉に、美月は携帯をカバンにしまい立ち上がり、斎諏訪はパソコンを閉じて立ち上がった。
 奇遇なことに将棋部のメンバーは全員、コーヒーが好きだという共通点があった。
 冷房もきいており、美味しいコーヒーが堪能できる〈まめしば〉は僕たち将棋部のサブ部室――いや、実質的なこちらがメインといっても過言ではないかも――のような存在となっている。
 と、その前に学内でしておきたいことがあったことを思い出す。一週間近く経ち、やっと心の整理がついたのだ。
 「ちょっと、先に門のところに行ってて。すぐ追いつくから」
 「早く来ぃょな? 小太りには日陰ですら厳しぃ季節だとぃぅことを忘れるな」
 「遅かったら、ケーヤのおごりね」
 
 向かった先は、美術室。美術部の部室でもある。
 「1年生の琴羽野さんっていますか?」入口の近くにいた生徒に尋ねる。琴羽野さんはすぐにやってきた。
 「聞かせてくれるの?」
 「えっ?」
 「推理の続きなんでしょ?」琴羽野さんは片目でウィンクをする。
 これは恐れ入った。もしかしたら、あのときの僕の思考を汲み取って深く追求しないでくれていたのだろうか。
 「これを見て欲しいんだ」
 僕は、カバンからノートを取り出して、差し出す。そこには、先日調べた『ちいさなもりのおおきなき』の歌詞が写してある。
 
  ちいさなもりのまんなかに おおきなきがありました
  ひとやおはなやどうぶつが もりにやってくるま え か
  ら(間奏)
  
  きにはおおきなえだがあり おおきなはっぱもありました
  あついなつにはかさになり みんなひるねにきたのです
  しずかにゆきがふってくる きはしろいはっぱをまとった
  おおきなあながあったから みんなあそびにきたのです
  
  きは みまもった いつまでも みまもった
  ちかづくことなく はなれることなく
  
  ひとがもりにやってきて もりのすがたをかえていく
  みちはかたいいしにかわって はやしはいえにかわってゆく
  さかなおよいでいたかわは てつのふたのしたにかくれて
  もりにいたどうぶつたちも だんだんすくなくなっていった
  
  きは みまもった いつまでも みまもった
  わらうこともなく おこることもなく
  
  ちいさなもりのおおきなきは おおきなきりかぶにかわった
  かぞえきれないねんりんは きょうもしずかにわらってる
  
  きょうもしずかにわら っ て
  る

 「なんか……随分と大人向けの歌詞だね」
 「そう。童謡っぽくないよね。これ、発生源が不明で、裏づけもないみたいで。だからちょっとした都市伝説扱いになっているんだ」
 僕は、歌詞を線で囲み、その左側にパターンの名称を付記していく。
 「文字の間が開いているところは、スローになる部分を表しているみたい。っと、こうしてできあがり」
 

図_金属板回答(改)

図_金属板回答(改)


 「こうしてみると、パターンAだけは2回連続で使われることが分かるんだ。演奏が終わった瞬間に移動するのは絶対に無理とは言わないけど、相当難しいはずだよ。だから、パターンAだけは2つあった。そして、パーツはこれですべて使い切ることができた」
 それは、歌詞の真実は別として、このオルゴールの製作者の意図した答えが、〈切り株版〉だったということを意味していると思われた。
 最初に琴羽野さんに伝えた時に、そこまで踏み込めなかったのは、世の中に浸透してしまっている常識を揺るがす可能性のある発見に僕が耐えられなかったからだった。
 既に、多くの人たちに歌われ、親しまれてきた歌。その根幹を、この僕が揺るがしてしまうことは果たして許容されるのだろうか、と。
 しかし、あれから。よくよく詞の内容を反芻してみると、「起こったことを、全て受け入れる、それが偉大なる自然」というのが作者のメッセージだと思えてきた。
 もし、今知られているような歌詞でなかったら、埋もれて、忘れ去られてしまっていたかもしれない。そうすると、どちらがこの作品にとっては良かったのか。
 いや、きっと、どちらでも良かったのだ。一旦、この歌を生み出して放った。そして、それを自然の流れにゆだねた。その時点で、作者のメッセージは確かにこの世界で意味を成せたのではないだろうか。
 だから、この事実に至った者の出すべき答えは、何かしら「応える」こと。それは、誰かに出してもらったのではなく、自分自身で出したのであれば、きっと正解だろう。
 「このオルゴール、きっとおじいちゃんが自分で作ったんだと思う」琴羽野さんは言う。
 「何か言っていたのを思い出したとか?」
 「ううん。おじいちゃん、自分の考えていることをわざと婉曲的にする人だったから。もしかしたら、この歌の作者さんとも仲の良い友達だったりしたかも」
 僕は、春先に解いた金庫の暗号文のことを思い出した。
 「私も見習わないと、だなぁ……」
 琴羽野さんは猫のような口をキュッと結び、「瀬田くん……私……。えーと、色々ありがとう」柔和な表情を僅かに真剣なものにして僕にお礼を言ってくれた。
 「ん、あぁ。こっちこそ、話をするのが遅くなっちゃってゴメン」
 僕は、美術室をあとにして校門に向かった。

 校門に走り寄ると、二人が振り向いた。改めて観察すると、美月と斎諏訪が一緒にいるのはなんとも珍妙だ。と、僕に言われてはオシマイかもしれないが。
 「ぁんだけ釘刺してぉぃたのに、何時間待たせんだょ!」斎諏訪が汗だくの額を拭いながら言う。おいおい、何時間もは経っていないぞ。
 「浮いたお金でビターチョコとクッキー食べるか……」美月は『まめしば』のメニューを携帯端末で検索して、なにやら不穏な企てをしている。
 学校を後にして、三人で日陰を選びながら進む。容姿も思考も方向性も全然違う三人だ。同じ方向を向いて声をあげながら走る野球部や、一つのハーモニーを作り上げるために互いに協調する合唱部とは異なる集団といえる。
 しかし、僕はこうも思うのだ。1+1が2にしかならないなら、人生って全然面白くない、と。
 美月も。斎諏訪も。そして、アレ(泉西先生)……も。
 多くの植物は、夏場の強い日差しをエネルギー、そして栄養に変えて成長する。そして、秋には大きな花を咲かせ、実を成らせる。
 大きな成果を生み出すためには、自分以外のものとも反応して、小さな結果を地道に地道に合算していくしかない。

 セミが去り、夜が長くなる頃。
 僕、そして将棋部の皆で出した総計はどのくらいになっているだろうか。
 僕達の夏は、まだ、始まったばかりだ。

 

 小説『All gets star on August =星の八月=』に続く

小説『Sum a Summer =総計の夏=』(4/5)

第四章 『7月4日(金)』

 

 朝起きて、台所に顔を出す。
 しかし、いつもなら食卓で新聞を広げている父の姿がない。昨日は母がいなくて、今日は父がいない。何だか、ちぐはぐな感じだ。
 「あれ? 父は?」
 「もう出かけたわよ」振り返った母親の手には、洗い掛けの父の茶碗があった。
 「仕事の内容の説明資料作りとか、相手の会社のやり方を憶えたりとか、やることは山ほどあるみたい」
 「そうか。大変だな……」
 父にとっては、再び地道な仕事の日々が始まったのだ。今後、再び日の目を見る可能性が必ずしもあるわけではないだろう。それでも今やれることがあるなら、それをやるのみ。既に空席となった父の椅子からそんなメッセージを送られた気がした。

 登校して間もなく、職員室に向かった。
 会うべき人物は、数学の丹治延登先生または英語の石井英美先生だ。両者とも、大矢高校の部活担当教務である。
 入口付近で伺うと、石井英美先生の姿が見えた。
 石井英美、36歳独身。幼少時代をアメリカで過ごしたバイリンガルである。ただし、日本語の話し方がどうにも英語の直訳のようで不自然な感じがする。そして、どうでもいいことだが、アメリカでは「エイビ・イシイ」と呼ばれていたらしい。
 「石井先生、おはようございます」
 「グドゥモーニン。えーと、キミは確か一組の……」
 「はい、瀬田桂夜です」
 名前を憶えられているのは、恐らく以前授業中に「おいおい、速すぎだろっ!」と叫んだ変わり者だからだろう……。今、思い出してもヒヤヒヤする。
 「私は、考えています。それは、授業とは、教師から生徒への一方通行ではないということです。それは、共同作業です、生徒と教師による。それゆえに、キミの積極的なィクスプレッションは、非常に重要です」
 「は、はい」
 「私は、キミに一つ要望があります。私は、真面目にノートを取ることよりも、ワタシの顔を見て意思のキャッチボールがすることのほうを嬉しいと感じます」
 石井先生すみません。それ、下向きながら寝てるんです……。僕が、中学生の時に編み出した、寝ながらもペンを動かすって言う技なんです……。当然言えるはずもなく、愛想笑いを浮かべるしかない。
 「実は、部活のことで相談がありまして」
 「OK」
 「部活を合併することは可能でしょうか?」
 「ガッペイ? それは、mergerのことを意味していますか?」
 「マージ……あ、あぁ多分そうです」
 そう。僕が考えた作戦とは、部活と部活の合併だった。部員の移籍に関しては、生徒会則で期間が限定されてしまっているが、部活という組織自体には特に取り決めがない。
 詭弁といわれればそうかもしれないが、生徒会の意見である『3人部員がいなければ一部不適格』というものも明言されているわけではない。眼には眼を、歯には歯を、だ。
 卓上にある『Club Activity』という背表紙のファイルを開き、石井先生はしばし考え込む。そして。
 「ふむ、部活をガッペイすることは恐らくノープロブレムでしょう。両部活の全員が合意する必要があるでしょう、しかしけれども、クラーブアクティビティは基本的に生徒の自治です。あなた方は、ガッペイを成し遂げることができるでしょう」
 よし! 教師サイドのお墨付きをもらえたのはいい感じだ。順調といえる。
 「私から話をします。ティーチャー丹治には」
 「ありがとうございます」
 石井先生にお礼を言って、職員室を後にした。あとは、放課後の交渉を待つばかりだ。

 放課後。僕はサーバールームに足を向けた。会うべき人物は、電算研究部のサイズワくんだ。
 僕の探していたのは、『第二部で、部員が一人ないしは二人で構成され、将棋部とくっついてもなんとか言い訳が立ちそうな文化系部活』だった。
 昨日、大矢高校の公式ウェヴサイトを確認したところ、丁度その条件に当てはまる唯一の部活が電算研究部だったのだ。
 正式な部室でないここにサイズワくんがいるとは限らないが、他にいそうな場所を知らない以上ここを訪ねるのが一番接触をしやすいと考えた。
 サーバールームに到着し、インターフォンを押すと先日のように大江室長が出る。
 「すみません、サイズワくんって今日来てますか?」
 「おお、おるが?」
 これは、幸先がいい。先日と同じ要領で部屋に入る。サイズワくんは部屋の隅で細かな部品に囲まれていた。
 話によると大江老人の個人パソコンとのこと。修理方法が分かっているのに、修理工場で金を払ってやってもらうのは癪に触るとこぼしていたら、サイズワくんが名乗りを上げたのだという。
 「歳をとると細かい作業ができんくなってのう。助かるわい」
 「じっちゃん、NICは?」
 「おぉ。2つのセグでそれぞれボンディングするゆえ、4つ頼むぞい」
 「ぅぃ」
 大江老人の知識もすごいが、それと対等にやりとりできているサイズワくんも大したものだ。もし一緒になれたら、僕も色々と教えてもらおうかな。これからの時代はITスキルは大事だって父も言っていたし。
 「サイズワくん、あとで手が空いてきたら話したいことがあるんだけど、いいかな?」
 「ん? 今でもぃぃぜぇ? 機械的な作業だし」
 「あ、そうなんだ。えーと、まず順を追って話すと……」
 僕は、昨日の夜から組み立ててきた話をサイズワくんに話し始めた。

 話し終えてしばらく経つ。しかし、サイズワくんは相変らず手許をせわしなく動かし続けている。
 果たして、もう答えは決まっているのだろうか。「で、どうかな?」と答えを催促しようと思っていると、丁度ドライバーを床に置きこちらを向いてくれた。
 しかし、答えは無常にも「その話、悪ぃが遠慮しとくょ。ょりにょって将棋だしなぁ……」
 あっさり断られてしまった。
 ノートパソコンがあれば、彼がやりたいことは今までどおりできるはず。部室があれば、堂々と活動できるし、場合によっては予算の恩恵に与れる可能性だってある。
 部活の名前や所属が変わってしまうが、彼にとって悪い話ではないと思ったのだが……。やはり、今時の高校生に『将棋』はNGだったか……。自分も「将棋なんて……」と思っていた時期があっただけに、彼を強く説得しようという気持ちが芽生えてこなかった。
 今日は美月も呼んでしまったし、仕方がないので、部室に戻ることにした。満点の結果ではないが、部活合併作戦自体はまだ余地があるだろうからその報告だけでもしておこう。
 僕は静電靴をロッカーにしまい、色々と対応してくれた大江老人に礼を言う。
 「すまんの瀬田くん」
 「いえいえ、俺が勝手に無理言ってただけですから」
 その瞬間、大江老人の肩越しに見えていたサイズワくんの顔色が変わったのがはっきりと見えた。
 「……セタ? もしかして……。瀬田桂夜か!?」
 サイズワくんはわざわざ立ち上がり、こちらに歩み寄ってくる。その態度に、少し戸惑いながらも僕は「そ……うだけど?」と答える。
 「将棋部の合併の話、受けょぅ」
 「ほ、本当に?」突然の展開に、お礼を言おうと思っていたのだが――
 「ぁぁ、ただし……ぉれに勝負で勝てたらな!」
 大仰に親指を自身の顔に向けて、そう言い放ってきたではないか。
 一体、どういう心境の変化だろう。あまりに唐突に変わった表情と口調についていけていない。
 戸惑う僕を見て、サイズワくんは楽しそうにクックッ……と笑っている。
 「ぁの分厚い眼鏡はゃめてコンタクトにしたのか? 自分のことを『僕』って言わなくなったんだな。ぉかげで全然気づかなかったょ」
 「っ……! なんでそれを!?」
 中学に入ったときにコンタクトに変えて、高校に入ったときに自分のことを『俺』と呼ぶように変えた。それは、過去の自分を捨てるため。誰にも明示的に言った憶えは無い。
 それが分かるとしたら、小学生の僕を知っている人物しか……。
 「そっちは憶ぇてなぃだろぅが、ぉれも将棋をやってぃたんだよ。ぁの大会までな……」
 「あの大会?」
 「江辻が優勝し、キミが3位だったあの大会だょ」
 あの大会……、サイズワ……トオル、斎諏訪……徹!
 脳内で音の響きが漢字に変換されたことで、記憶がやっとフラッシュバックした。
 僕が一時期将棋をやめるきっかけになった将棋大会の3位決定戦の対戦相手じゃないか。
 「ぉれは当時からいち早くコンピュータを駆使し、様々な独自研究を行ってぃたんだ。将棋は二人零和有限確定完全情報ゲームだ。完全なる答えを出すのは難しぃにしても、序盤を圧倒的に有利に進められると踏んでぃた。自信満々だったょ。実際、準決勝までは楽勝だった」
 「……」
 斎諏訪はそこで一旦そこで話を切り、唇を湿らせる。僕は、もちろんその後の勝敗の結果を全て知っている。
 「ぁとはキミも知る通りだ。怪物・江辻にぁしらわれ、せめて3位と思って戦った相手にぉれは二度やられたわけだ、心ここにぁらずの奴にな!」
 「……」
 既に春、あのときの苦い記憶は払拭したはずなのに、頭の奥にじわりと滲んでくるものがあった。
 将棋で負けることは悔しい。自らの口で負けを宣言しなければならないと言う暗黙の掟があるかもしれない。本気で、真剣にやっている者ほど負けたときの悔しさは強くなる。勝ったときの記憶より、負けたときの記憶の方が強く、強く刻まれる。そして、それは長き時間を掛けてか、より強い勝利体験によってしか和らげることができないのだ。
 「そして今、ぉれのトラウマを解消する絶好の機会が訪れた、とぃぅわけだ。と一方的に話を進めたが、まさか逃げなぃょな? 心は起きてぃるか?」
 その言葉に、僕は覚醒した。
 「勝負って、具体的には何を?」
 元より、将棋部存続のためには無駄でない勝負だ。それが、過去の因縁に絡むものであれば、もはや避ける理由はない。
 受諾した僕をみて、斎諏訪は眼鏡のブリッジをすっと上げながら不敵に笑う。
 「ぉれの作ったプログラムと勝負してもらおぅか」
 「プログラム?」
 「そぅだ。ぉれが将棋を捨てて3年間。その間に磨き上げたスキルがプログラミングなんだ。文句はなぃだろ」
 「まぁ、そうだな」
 すっかり、ぉれも3年間将棋を捨てていたことを言い逃してしまった。いや、言う必要はなかったと思い直す。もう、そのことには後悔をしていないからだ。
 「そぅだな……単に指し将棋とぃうのも興がなぃか」
 斎諏訪が妙なことを言い出す。しばし考え込んだかと思うと、三本の指を立ててこちらに突きつけてきた。
 「三本勝負はどうだ?」
 「三本勝負?」
 「詰将棋作り、詰将棋解き、指し将棋だ。もちろん、指し将棋はキミとの勝負だ。部員があと一人、顧問もぃるんだろ? 残りの二つは、どちらか好きに割り振ればぃぃ」
 「ま、待て。話が急すぎ――」
 「部員が2人で第一部に存続できてるくらぃだ、少数精鋭揃ぃなんだろ?」
 明らかに暴論だが、有無を言わさぬ勢いで捲くし立てられて、反論の機会を見出せなかった。
 「ただし、本命の指し将棋の前に2勝で終わり、じゃ意味がなぃ。よって、勝ち星をこぅしよぅじゃなぃか」
 手許のノートパソコンになにやらカタカタと打ち込み、画面をこちらに向けてくる。
 

図_星取表

図_星取表

 
 「簡単に言えば、キミが勝ち、詰将棋勝負のぃずれかで勝たなぃと将棋部は勝ちにならなぃ、とぃうことだ」
 「む……」
 随分と足許を見られた条件に言葉を失う。とはいえ、電算研究部と合併する機会が生まれたことは歓迎だ。正直なところ、部員を増やすための次善策が今無い状態なのだから。
 「わかった。それぞれの詳細を詰めようじゃないか」
 そして、次のように詳細を決め、合意に至った。
 
 (1)詰将棋作り
  10分の制限時間の間に、より詰め手数の多い問題を作ったほうが勝ち。
  勿論、詰将棋の前提条件を満たしていない場合は失格とする。
  
  事前に問題を考えて来られないように、作成に使える駒は作成の直前に目隠し状態で駒を一掴みして決める。
 
 (2)詰将棋解き
  詰将棋作りで作った2つの問題を早く解いた方が勝ちとする。
  電算研究部は開始の合図の後、問題を入力開始すること。
  将棋部は開始の合図の後、すぐに解き始めてよい。
 
 (3)指し将棋
  先手・後手は当日振り駒で決める。
  メンツは、将棋部は瀬田桂夜、電算研究部は斎諏訪徹で固定とする。
  また、(1)(2)で将棋部が2敗した場合も勝負は執り行うこととする。
 
 (4)その他
  勝負は7月7日の月曜日、放課後。場所はサーバールーム事務スペースにて。
  当日、大江澄輝専門員を立会人とする。
  将棋部は(1)(2)のメンツを当日変更することができることとする。ただし、大矢高校将棋部員または大矢高校将棋部顧問の範囲に限る。
  電算研究部は作成済みプログラムを『臨時部員』として扱う。
  電算研究部は勝負前に大江専門員にプログラムを提出し、以後コードの改変を行わない。

 (3)の指し将棋勝負は必ず行うようにする、というのは斎諏訪の強い意向だった。先程までの『絶好の機会』云々の話からすれば当然の話だろう。
 それに対して、僕はうまいことメンツを変更できる算段を取り付けた。これは、僕一人で全てのカタがつけられるようにするためだ。美月や泉西先生が積極的にこういった勝負にのってくるとは考えづらいし、棋力的にも不安を感じてしまう。なにより、個人的な理由が勝負の始まりであり、本来無関係な面々を巻き込みたくないという気持ちが強かった。

 「さて、諸々決まったところで準備を始めさせてもらぅぞ。時間は貴重だからな」
 「準備?」
 「将棋は捨ててぃた、と言ったろ? 今から作りはじめるんだょ。3つ作らにゃならんからな……」
 「……!」
 てっきり、既に母体があってそれをチューニングするだけなのだと思い込んでいたので唖然とする。プログラムって、そんなに簡単に作れるようなものなのか?
 しかし、今は斎諏訪の心配をしているような状況ではない。こちらは、指し将棋と、詰将棋勝負で勝ち星を拾えるような策を考えなければならないのだ。
 特に詰将棋勝負の方は、正確に高速な演算ができるコンピューターの方が圧倒的に有利だから、何かしら対策が必要となるだろう。
 サーバールームから出ると、改めて一抹の不安にじわりじわりと襲われる。
 
 僕は、とりあえず部室に向かうことにした。
 昨日、美月と電話した時のことを思い出して、自然と足取りが重くなる。いかにも自信があるような表現をしてしまっていたからだ。
 もっと、交渉力があったら良かったのだろうか? いや、今あれこれ考えても後の祭だとは頭では分かっているつもりなのだが。
 部室のドアの前に立つ。口に溜まった唾をゴクリと飲み込む。
 ガラガラ……とドアを開けると、美月は約束どおりいてくれた。
 「や……やぁ」
 「で、どうだったの?」
 なんとも単刀直入だ。
 「一応順調だよ。来週の月曜日に詰めの話をする予定だから、もうちょっと掛かりそう」
 「ふーん」
 一応、心の準備はしていたので言葉は淀みない。あとは演技力だ。
 「あのさ」美月は僕の顔をじっと見つめてくる。
 「『もっと誰かを頼れ、利用する気持ちを持て』って誰のセリフだったっけ?」
 「……!」
 どうやら、女性の第六感というやつを少し甘くみすぎていたようだ。それとも、僕の演技力不足なのだろうか。何か、反応を、反論をしなければ隠し通せないのに、視線を合わせることができない。
 「……悪い。力を貸してほしいことがある」
 結局僕は、今朝の石井先生との話から斎諏訪との勝負の話までを伝えることにした。
 「そこでだ。美月には詰将棋の解く方で参加して欲しいんだ」
 美月は、毎日知識をインプットし直さなければならないという問題があるが、演算の速度は通常のニンゲンの域を超えている。本人に言うと嫌がるかもしれないが、それこそコンピュータのようなものだ。
 詰将棋のようにゴールがはっきりと定まった問題への解答は、恐らく僕よりも早く出せるのではないかという期待をしている。
 3戦のうち、まずは詰将棋の方でなんとか1勝しなければならない。詰将棋作りの方は勝てれば勿論ありがたいに決まっているが、はっきり言って「捨て」でいいと考えている。僕が兼任して、将棋入門の本に出てきそうな簡単な詰将棋を作ってしまうつもりだ。
 「参考になるか分からないけど、これ」
 僕は、カバンから詰将棋の本を取り出し、美月に差し出す。今日はそれを黙って受け取ってくれた。
 
 このとき、僕は一つ重要な過ちを犯していた。それは、作戦会議を『まめしば』などの学外で行わなかったことだ。
 学外ならば、ほぼ確実に美月とマンツーマンで作戦会議が進められたのだ。それを怠ったツケがたった今、訪れた。
 「ハロー。波浪注意報! やぁやぁ諸君、活動しまくってるかね?」
 何故、教育委員会はこの人に教員免許を与えてしまったのだろうか。大矢高校七不思議のひとつの枠を悠々と埋めている人物、泉西先生の闖入だ。
 これは、まずい。この大事な勝負に、絶対、この人を巻き込みたくない。この『巻き込みたくない』は泉西先生に対する思いやりではなく、あくまで僕個人の利己的な思いであることは言うまでもない。
 春の仮入部以来、泉西先生からは国語の知識以上に様々なトラブルを(予想通り)頂戴してきた。
 駒の動かし方さえ理解してないのに「将棋は畳が無いと始まらん!」などと訳の分からない理屈をこねて、格技室から畳を無断で拝借し、柔道部と剣道部から怒鳴り込まれたり。
 盤が汚いから、と水洗いして金曜日に放置。月曜日に見てみたら、キノコが生えていたり……。
 「ど、どうも泉西先生」
 「なんだよなんだ? 駒も並べずに将棋部かー? もしかして、透明な盤と駒を使っているとかか? バカには見えない駒なのか?」
 「そういうわけでは……」
 つい、「はい、つまり泉西先生には見えないんです」と心に浮かびそうになったのを必死でこらえ、急いで「夕食はカレーがいいなぁ」というイメージを強く心に描く。幸か不幸か、徐々に読心術に対する抵抗力が身についてきているようだ。
 「それより、見ろよ諸君。今日の和服、どーよ?」
 言われて見ると、確かに普段のくたびれた和服ではなく、生地も柄もしゃんとしたものを着ている。
 「今までのは親父のお下がりなんだよね。これ、奮発して買ったんだぜい」
 泉西先生は非常にご機嫌だ。きっと、普通の生活を送れている羨ましい大矢高校生達にしてみれば、その違いは言われないと微かにも分からないだろうが、僕は分かるようになってしまってきている。
 美月といい、もしかして人の僅かな表情や気分を察する能力が高まってきているのかもしれない。
 泉西先生は「さて、他の生徒どもに見せびらかすべく、校内を用もなくうろついてみるかなー」と呟きながら、踵を返した。これはありがたい。
 と。
 「――そういや、パソコンはもらったのか?」
 僅かに油断したところで、不意に振り返り、そう言われて僕は動揺してしまった。パソコンのキーワードで、さっきのやりとりが頭の中にフラッシュバックしてきてしまう。
 何か、弁明をしなければと思ったたが、時すでに遅し。
 「なんだよー。面白そうなことに巻き込まれてるじゃねーかよ。俺にもカッコつけさせろっ」
 そもそも作戦的には、詰将棋解き(美月)と指し将棋(僕)で1勝ずつする路線で考えていたため、詰将棋作りが空いているといえば空いているのだが……。
 泉西先生は近くにあった箱を空け、将棋の駒を盤の上に転がした。
 「瀬田。安心しろ。俺は、実に意外な才能も持っているのだ!」
 そういって、泉西先生が見せてくれた技に僕は少し驚いた。
 なるほど、これなら少し作戦の立てようもありそうだ。もしかしたら、詰将棋作りでも勝利を得られるかもしれない……。

 夕食後、リビングで来週月曜に迫った決戦に向けた作戦を練っていると、母がリビングにやってきた。手にはやはりピーナッツ入りの容器だ。
 今日はどうやらサスペンスもののようだ。題字に〈金の砂時計 ~前編~〉というテロップが現れた。
 ストーリーが進むにつれ現れる登場人物を見ると、結構豪華なキャスティングのようで、僕も知っている俳優が何名かいた。テレビ好きの母なら全員知っている可能性もある。
 部長として慎重かつ大胆な作戦を考えようとするものの、ついついテレビの方に意識がいってしまう。
 舞台は絶海の孤島に建つ豪奢な館。そこに住む館主が白昼堂々何者かに襲われる事件が起きる。絶命した館主の手には、砂金で作られた砂時計が握りしめられており――。
 探偵役は僅かな事実を積み重ね続け、犯行のトリック解明に至る。それを皆が集まった場で披露し始めたが……。
 「これ、映ってるの全員共犯ね」
 母はピーナッツを頬張りながら断定する。
 「えっ、なんで?」
 「女の勘。というのもあるけど、この豪華なキャストがその他大勢というのが不自然、というメタな見方もあるけど。
  本道で言うなら、それぞれ目的は違うけど、館主を亡き者にしたいという手段は全員がとる必要があったからだと思うね」
 一つの目的を叶えるために用意できる手段は一つだけとは限らない、父が良く口にしているが、そういうパターンもあるのか。
 僕ら将棋部ではどうだろう。
 僕、美月、泉西先生。将棋部を存続させたい理由は異なっているかもしれないが、一枚岩となり、結果としてそれぞれの目的を果たせるだろうか。
 テレビの中では、探偵役が推理を話し終えたところだった。
 一同は口々に絶賛を述べるが、その表情は一様にどこか自然さが微妙にズレたもので、画面越しなのに鳥肌が立つ恐怖を感じた。
 ここは絶海の孤島。このことを知るものはここにいる者のみ。即ち、第三者がいなければどんな事実も虚構になり、虚構さえ事実になる。
 登場人物の一人がわざわざそんなことを言葉にしはじめ……暗転。続きの後編は、なんと半年後のようだ。

 

 小説『Sum a Summer =総計の夏=』(5/5)に続く

小説『Sum a Summer =総計の夏=』(3/5)

第三章 『7月3日(木)』

 

 眼の下のくまが如実に物語るように、睡魔との戦いに図らずも善戦してしまった夜が明けた。
 今日は、1時間目に石井英美先生の英語、3時間目に丹治延登先生の数学がある。いつもより、深く術に掛かってしまいそうだ。場合によっては、現世に戻って来れないかもしれない。
 「おはよう……」
 台所に行くと、父が一人で新聞を広げていた。
 あ、そうか、木曜日だからか。
 瀬田家では、木曜日は母が朝遅寝とする日と(僕が生まれる前から)決められており、弁当支給はなし、朝食は各自となっている。よくよく考えてみると、サラリーマンも週に1日以上は休んでいるのだから、家事もそうあって異論はないというのが男子勢の見解だ。また、たまに買い食いするのも実は結構楽しみだったりする。
 僕の姿をみとめると、新聞を片して、コーヒーサーバを棚から取り出した。
 「桂夜ので淹れるぞ?」
 「ん、あ、ありがとう」
 父が珍しく話しかけてくる。今のは、父が僕の好みにあわせて二人分作るというニュアンスだ。好みの濃さや品種も異なるので、普段ならまずありえない展開だ。
 昨日の母の話を真面目に受け止めるなら、僕の顔がよほど凄くて『エアバッグ』が働いたということなのだろう。
 僕は好意に甘えることにして、ブラックを1杯頼んだ。
 父がコーヒーミルの準備を始める。棚の奥のほうから取り出したのは豪奢な缶だ。あれは、秘蔵のブルーマウンテンじゃないだろうか。
 ガリガリガリ……という音ともに、豆が挽かれ、辺りに芳醇な香りが広がった。正直、コーヒーは飲むよりこのにおいを嗅ぐのが幸せだと思っている。
 やがて、音が小さくなり完成した。それをサイフォンに移そうとしたときそれは起こった。
 「うわっ!」という不吉な声が発せられたかと思うと、挽いたばかりのコーヒーをテーブルにぶちまけてしまったのだ。そのうち、一部は床にもこぼれてしまった。
 「あー……」
 3秒ルールで、テーブルの上のいくらかはリカバリーできたが、これでは一人分しか淹れられないだろう。
 「桂夜、コロコロを!」
 「あっ、はいはい」
 コロコロとは、粘着テープがロール状に巻かれた掃除グッズだ。カーペットの髪の毛やゴミを取るときに重宝している。正式名称は、不明だ。
 床の粉を掃除して、一枚べりっとはがす。点在している茶色い粒が物悲しい。この一枚だけで、50円相当の価値がありそうだ。
 そのとき、何か頭に浮かびそうで、もどかしい感覚に襲われた。そんな僕の手許に、カップが置かれる。一杯のコーヒーだった。
 「……まぁ、飲め」
 一人前しか作れなかったコーヒーを父が譲ってくれたのだった。
 「ありがとう」素直に好意を受け入れて、一口飲む。やはり、美味しかった。
 頭が冴えてくると、先程のもやもやしたものが晴れ、頭の中が晴天に変わっていく。昨日のあの動きと、この形状が合わさると……。通学カバンからノートを取り出して、何度も何度も確認する。
 「恋破れて勉学あり、か」
 「そんなんじゃないって……!」
 国敗れて山河ありの改変だろうけど、別段上手くないぞ。本人は上手いこといった顔をしてるが。
 カップを持って、リビングの共有パソコン前に移動する。コーヒーを味わいながら、推測を裏付ける情報を検索していく。
 ……やはり。調べれば調べるほど、推測が正しい感じがしてくる。……しかし、しかしこれを伝えることは正しいことなのだろうか。この場合の依頼主は、答えを出されることを望んでいるのだろうか。

 ――問いに対して何にもレスポンスをしないヤツは社会で生きていけないぜ――

 何故か、このタイミングで。頭の中に泉西先生の言葉がよみがえる。
 ええい、迷っていてもしかたない。自分が思った答えを出すだけだ。
 「俺、もう行くから!」
 ノートを手早くしまうと、高校への道を急いだ。

 学校について、ノートだけ取り出してカバンをしまう。そして向かうは2組だ。
 2組の教室からは人気がない。はたして、目当ての人物は……。
 いた!
 「あ、琴羽野さん」
 「瀬田くん、おはよう」
 琴羽野さんは既に登校して、机で本を読んでいた。こちらに気づくと、すぐに本を閉じてこちらに駆け寄って来る。そして、ニコニコしてこちらの顔を窺ってくる。
 「ふふ、そろそろかなと思ってたの」
 「え……?」
 「ほら、この間もあっという間に解いてくれたじゃない?」
 そういえば、前に相談を受けたときは、奇跡的に一日で解けたなぁ。今回も、もし解けたなら2日という短期間な解決になる。推理探偵も真っ青だ。
 「今回はどうだか分からないけど……」
 「いいのいいの、聞かせて!」
 琴羽野さんも随分とテンションが上がってきている。傍から見たら、二人の仲を勘ぐられてもおかしくない意味深な会話だが、幸い朝も早く人はいない。
 僕は、ノートを取り出しながら自分の推理を話し始める。
 「最初は色々な可能性を考えたよ。おろし金……にしては凹凸が少なすぎるし、星図じゃないかとか、点を結んだら何かが浮かび上がるんじゃないかとか。他にも点字の可能性も疑ったんだけど……」
 一般的な6点式点字だとしても、凹凸の数が少なすぎた。それでは全く文字をなさなかったのだ。
 「それで、最後に思い至ったのが『オルゴール』だったんだ」
 「オルゴール!?」
 「そう、平板だから分かりづらいんだけどそうだと思って見ると、凹凸の具合とかそれっぽくない?」
 「うーん、そうかもだけど……」
 琴羽野さんはあごに手を当てて、口角をキューっとオームの小文字――ω――のように上げて頭の中にイメージを描こうとしているようだ。
 「じゃあさ、これどうやって丸めるの? なにに巻きつけるの?」
 「えーとね……。これ、多分、このままで使うんだよ」
 琴羽野さんの頭の上には『?』マークがいくつも浮かんでいるように見えた。僕はノートに図を描きながら説明を進める。
 「確か、金庫の中にゼンマイ仕掛けの車と歯の少ない櫛が一緒に入っていた、って言ってたよね?」
 琴羽野さんは頷く。
 「この金属板をある順番に並べて、その櫛をセットした車を走らせると……」
 「曲が……流れる!?」
 「そう、多分ね。曲は『ちいさなもりのおおきなき』だよ」
 凹凸を音符に置き換えてみたら、ベース音や和音が加味されているものの、メロディーが綺麗に浮かび上がってきた。

 

図_金属板回答

図_金属板回答

 

 「あれ、でもパーツが足りないんだね」
 琴羽野さんがノートのパターンBのところを差して指摘する。金庫に入っていたパターンBのパーツは一つだけだった。確かに普通に考えると曲を最後まで流すことは難しそうなのだが。
 「と思うでしょ。でもこの『走るオルゴール』なら、仮にパターンAがもう一枚なくなってしまっても平気なんだよ」
 僕は指を『車』に見立ててゆっくりと動かしていく。そして、指が2回目のパターンAの上に移った後、通り過ぎた直後のパターンBをその先に動かすような矢印をペンで書き込む。
 この動きは、あのテレビ番組〈芸能界 スポーツ伝説〉の〈ビート板渡り〉を見ていて思いついたのだ。
 「あっ、なるほど!」
 「ね?」
 とはいえ、偶然が重なった綱渡りのテクニックではある。パターンAとB以外ならばこの技は使えない。それでも、曲が最後まで演奏できるならば、オルゴールとしての価値は失われていないといえるだろう。
 「……すごい、やっぱりすごいよ瀬田くんは!」
 金属板の謎を解いたことに対してか、最後まで演奏させるテクニックに対してか、あるいはその両方か。
 自分でも、これほど上手く思考がはまってくれたことに驚いている。
 「なんか、前のお礼がまだ返せないうちにまた溜まっちゃった感じ……。本当にありがとうね」
 「いや、俺も頭を使うきっかけになったから。できれば、この間のテストの点に加算してほしいけどね」
 「そうだよ。『推理』って科目があったら、瀬田くん、絶対学年トップだよ!」
 徐々に2組の生徒が登校し始めてくる。あまり長居をしていると浮いてしまうので、そろそろ退散することにした。

 一週間の疲れも明らかに蓄積してくる木曜日。なんとか昼休みまでこぎつけた。
 今日はそれだけじゃない。昨日、美月に勢いで告白してしまって、その回答の時間が刻一刻と確実に近づいているのだ。
 二日連続で心臓がきゅうきゅうと痛む。寿命が一体何年縮んでしまったやら……。
 とりあえず、昼食でも買いに行こうかと教室を出ると、廊下でばったりと見慣れた銀縁メガネと目が合った。
 「あ、福路くん」
 「瀬田くん、昼食はいかに?」
 「今から購買部に買いに行くところ」
 「そうですか。それなら一緒に買いに行きませんか?」
 「もちろん」
 購買部の方に近づくと早くも賑わっていた。
 学外のコンビニに並んでいるような既製品も普通に売られているし、近くの料理店が学割価格で弁当を作って来てくれたりもしている。
 大矢高校には給食や食堂はないため、生徒は非常に重宝している。
 さて今日は何にしようか。年頃の男子は質より量! 重量対価格のハイコストパフォーマンス食品を探し出すため、割り算能力は無意識のうちに日々鍛えられている。
 麻婆豆腐弁当も美味しそうだが、ピーナッツコッペパンも捨てがたい……。でも先週はジャムコッペパンだったしなぁ、せめてパンにするならコロッケパンのような惣菜系がバランス的に大事か。あれ、コロッケってじゃがいもだけど野菜換算で良かったっけ。
 思い悩む僕の肩を、福路くんがツンツンとつついてきた。
 「ひとつ、趣向を凝らし、昼食を掛けた勝負といきませんか?」

 福路くんの提案はこうだった。
 昨日、『将棋で後手の勝率が高くなってきた』ときに例としてあげた変則的なジャンケンゲームで勝敗を決める。
 先手・後手は先んじてジャンケンで勝ったほうが選べる、というものだ。
 昨日話したように、あれは後手必勝のゲームだ。そもそもゲームといえるのかも怪しい。つまり、最初の先手後手を決めるジャンケンで実質勝敗は決まってしまうわけだが。
 「一応、手を選ぶのは相手が選んでから3秒以内」というルールも提案された。それによって、瞬間的に勘違いをしてしまうという落とし穴も一応あるわけだが……。
 「じゃあ最初のジャンケンから」
 「「ジャンケン……ホイ」」
 僕は、チョキ。福路くんは……パーだ。
 (よおーしっ!)
 ここしばらく病気になったり、テストが散々だったり、暴走告白したり、そんなことばかり続いていたから。久々に幸運に見舞われた気がする。
 ありがとう神様、ありがとう福路くん。
 「後攻で!」
 当然の選択である。あとは、「福路くんの選んだ手に対して、それに勝つ手を選んで」いけばOKだ。
 福路くんは小さく息を吐く。
 「……はじめましょう。まずグーね」
 「じゃあ、パー」
 順調順調。
 「ふむ……、ではパーすね」
 「じゃあ、チョ……、ちょっと待って」
 何だか分からないけど、ちょっとし違和感が〈跳躍(リープ)〉してきた。考えろ、考えるんだ。
 このまま僕がチョキを出したら、僕の残りはグー。福路くんの残りはチョキだから、めでたく僕の勝ちになるはずだ。
 福路くんはなんでこのゲームを提案したんだろうか。五分五分の勝負を単純に楽しむのであれば、ジャンケン1回で十分なはずだ。
 いたずらに時間をかければ、品物が売り切れてしまう可能性だってある。
 つまり……だ。なんらかの必勝法、少なくとも引き分け以上になるトラップが放たれている、という疑惑を抱くべきではないか。
 そして、3秒以内にあることに思い至った結果――
 「グー!」
 思い切ってグーを選択した。福路くんの残りがチョキだからみすみす勝てるグーを手放して、引き分けにしかならないチョキを最後に残した形になる。
 福路くんは一瞬息を呑んだが、徐々に表情を曇らせていく。
 「うーむ、見抜かれちゃいましたか」
 その言葉に、僕は自分の選択が間違っていなかったと確信できた。
 そう、さっき福路くんは「じゃあ、ここは〈パス〉ね」と言っていたのだ。
 つまり、2回目にパスを選択していた。
 確かに、先日の説明の段階にパスができないというルールには触れていなかった。
 その不備、というか抜け穴に福路くんは気づいたのだろう。
 整理しよう。
 さっきの段階で福路くんの残りはチョキとパー、僕はグーとチョキだった。
 手番は僕だから、パーに対応するチョキを選択するだろう。
 すると、福路くんはパー、僕はグーの状態で勝負となる、というのが普通のシナリオだ。僕も最初はそうとしか考えていなかった。
 しかし、実際は間にパスが挟まっていた。
 それにより、僕の残りはグー、福路くんはチョキとパーが残り、手番も彼が握っていることになる。
 僕がチョキを捨てた時点ではまだ勝負とならず、福路くんの手番で残るの一枚を選択することとなる。
 そこで、彼がチョキを捨ててパーを残したら――
 
 僕:グー
 福路くん:パー
 よって福路くんの勝ち、となってしまうのだ。
 
 グーを宣言しないで、こちらもパスを使う手もないわけではなかった。
 しかし、万が一「パスなんて卑怯ですよ! こちらはパーと言ってたのに」と開き直られてしまったら困るなと思ったのだ。
 彼の残りがチョキとパーなので、こちらはチョキさえ残しておけば負けだけはない。
 なるほど、後攻を選べたらそのまま通常の必勝法で勝ちにいけるし、先攻になったらこの特殊必勝法で引き分け以上を狙えるわけだ。

 「昨日の授業中にふと思いついたんですが……。いやはや、無念」
 校庭の日陰ができている花壇に腰掛けて福路くんが苦笑する。
 結局、福路くんは焼きそばパンとコーヒー牛乳を、僕はネギトロわさびおにぎりとコロッケパンとアップルジュースを各々で買った。
 飯を食べている最中は野生動物のごとく。お互いに黙々ともぐもぐしていたが、それぞれの飲み物だけ残った段階で徐々に会話を再開した。
 福路家では昨夜、校区内に新しくオープンしたレストランに行ってきたとか、瀬田家では父の悪食が問題視されているとか。
 教員のあだ名や、大矢高校七不思議、ゲームの新作が発売延期になって残念だ、などなど。男同士でも、話を始めれば想像以上に盛り上がるものである。
 一瞬、会話に間があいてふっと昨日の放課後のことが頭に蘇った。
 
 ――…………24時間考えさせて――
 
 僕と美月の距離はどうなってしまったのだろうか。あそこで告白をしなければ、少なくとも今までみたいに気軽に話をしたりできたんじゃないか。そう思うと、軽率だったと思うしかない。
 「瀬田くん、どうしたんだい?」
 知らず知らず唇を噛んで視線を彷徨わせていたらしい。福路くんが心配そうにこちらを見据えていた。
 「あ、あぁ、なんでもないよ」
 「ふーむ。恋ですか」
 ぎゅっ、と心臓が掴まれた思いがした。どうも、典型的な理系人間に思える福路くんだが色恋沙汰に関してはなかなかの感性を持っているのかもしれない。
 「実は昨日……」
 僕は、昨日の話を思い切ってしてみることにした。自分の中から吐き出してしまえば、それこそ笑い話にでも転換してしまえば楽になれそうな気がした。
 しかし、福路くんはすぐに反応せず、腕を組んで首をかしげている。その様子に、僕の方が心配になってくる。何か、よっぽどのタブーをしてしまっただろうか。
 「不可思議ですねぇ。あの織賀さんなら、即斬り捨て御免しそうなものですが」
 「えっ?」
 「バッサリした性格のようですから、イエスかノーは一瞬で断じそうなものです。また、あの頭のよさとルックスですから、告白を受ける経験なんて多々あるでしょう。告白慣れしてなくて時間稼ぎをしているようにも思えませんし……」
  つまり、幾分は脈があるのではないかと。最悪でも、回答を『考え』ているわけですから、OKの可能性は0%じゃない、と思いますけど」
 確かにそういう風に言ってもらえると救われる。福路くんのおかげで気持ちが幾分楽になった。とにもかくにも答えは美月のみぞ知るところだ、今じたばたしても仕方がない。今日の帰宅時間を、一体僕はどんな気持ちで迎えることになるのだろうか。

 そして放課後。握る拳の内側には汗がじっとりと滲んでいる。
 カバンを手に取り、いざ部室へ。そう気合いを入れた矢先、泉西先生が教壇から手招きをしているのに気づいた。
 「なんです?」
 「昨日言っていた、パソコンの件だ。専門棟の屋上の一番奥のサーバールームにいる大江室長に頼んでおいたから、この後もらいに言ってこい」
 「えっ、今から……ですか?」
 今からとなると、美月の件とバッティングしてしまう可能性がある。何とか、1時間後とかにずらせないないものだろうか。
 「おいおい、俺の顔を泥パックするつもりか? こちとら『明日、うちの下僕が行きますんで』って頭下げてるんだぜ。どうせお前、暇人ゼアーズノーヘブン♪ だろうが」
 「それは力強くは否定できないですけど、なにとぞ今だけは……」
 「くどい! カルピス原液のガムシロップ割り並みにくどい! さらば、おさらば、サラダバーだ!」
 突っこみどころを模索している間に、泉西先生は相変らずの俊敏さで教室を出て行ってしまった。
 となれば、残された僕にできるのは、迅速に要件を済ませて将棋部部室へ向かうことだけだ。

 僕は『廊下は走らない』という規則に遵守するため、生まれて初めて競歩を体験することとなった。
 「ここが、サーバールーム、か」
 息を整えながら見上げると、頭上のプレートには『サーバールーム』と書かれている。
 一般の高校であれば、どこかのレンタルサーバー業者の施設を利用するのが妥当だろう。大矢高校では学校運営の効率化のため、巨大なコンピュータを何台も稼動させていると入学パンフレットに書かれていたのを思い出す。
 ここがその中枢なのだろう。
 ドアを開けようとする。が、ビクともしない。
 よく見ると、ドアの脇に、カードリーダーとインターフォンが据え付けられていることに気づく。
 「なるほど、セキュリティ対策、ってやつか」
 確かにテストの点数とか試験問題とかが流出したら一大事だよなぁ。
 ニュースでも個人情報が流出して謝罪会見をしている人たちを良く見かける。どうでもいいことだが、会見の席で頭を下げたお偉いさん達の頭皮状態の情報が公にされてしまうのはなんだか矛盾している気がする。
 インターフォンを押して、反応を待つ。
 一拍置いて、「はいはい」と返事が返ってきた。
 「泉西先生の紹介で、パソコンをいただきにきたんですが……」
 「おお! 聞いとるよ! ちょっと待っとれ!」
 インターフォンの向こうから、随分としわがれた声が聞こえてきたので驚いた。
 コンピュータ関連の専門員だというから、若い人が担当していると無意識のうちに人物像を作り上げてしまっていたのだ。
 やがて、ピッという電子音のあと、ドアが開いた……が。姿が見えない。
 「おい! ここじゃ」
 言われて視線を下げると、腰を曲げたしわしわの老人が僕を見上げていた。頭はすっかり禿げ上がっており、その見た目は妖怪『こなきじじい』のようだった。
 「最近の若者は背ぇ高いのう……」
 老人はぶつぶつ言いながらも、口許は笑っている。どうやら、歓迎ムードではあるらしい。
 老人の後について入ると、ひんやりとした冷気に身体を包まれた。夏場には天国のような室温だ。
 「まず静電靴に履き替えるんじゃ」
 大江老人が指差したロッカーの中には、白いゴム製のサンダルが入っていた。体内で発生した静電気で精密な機械が破壊されるのを防ぐためだという。言われればなるほど、という感じだ。
 部屋の中を改めてみると、金網で手前と奥が分けられていた。金網の奥にはさらに金網に入った大きな機械が林立しているのが見えた。あれが、サーバーというやつだろう。
 (そういえば、父さんの仕事場もこんな感じなのかな)
 今いる手前の方の部屋は事務スペースのようだ。戸棚やデスクがあり、所狭しとダンボールがうずたかく積み重なっている。デスクの壁には大型ディスプレイと三色ランプが取り付けられている。これは、サーバーやネットワーク機器に異常が起きた時に通知してくれるものなのだという。
 「いただけるノートパソコンはどちらですか?」
 丁寧かつ単刀直入に尋ねる。心の中はアクセル全開だが、罪のない大江老人を不快にさせる訳にはいかない。
 大江老人は「おーい、サイボウ!」と声をあげる。
 細胞って何だ? と首をかしげていると、ダンボールの影から「何? じっちゃん」と男子生徒が顔を覗かせた。
 知らない顔だ。そして……、僕に言われたらオシマイだが、そいつは女の子に全くもてなさそうな風貌をしていた。
 体型は小太りで、無造作に伸ばした髪は肩に届くほど。メガネも福路くんがしているようなシャープな今時メガネでなく、昔ながらの丸い黒斑だ。
 「こやつはサイズワじゃ。こやつ一人でやってる電算研究部は部室がないんで、たまーにここに顔を出していくんじゃ。今日は、企業から譲り受けた中古ノーパソのOS再インストールを手伝ってもらっとる」
 部室がない、という言葉に心がざわめく。将棋部の行く末にある不安からか、部室のない電算研究部への憐れみなのかは分からない。
 「部活でノーパソを使いたいらしいんじゃ。テキトーに見繕ってあげなさい」
 「はぃょ」
 「わしはちょっとDATのテープの交換をしてくるからの」
 それだけ言うと、大江老人は金網の奥へ入っていってしまった。残されたのは、僕とサイズワくん二人きりだ。
 
 「スペックはどんくらぃがぃぃんだ?」
 「えっ……? えーと」
 急に尋ねられて戸惑ってしまう。普段全く意識していなかったからだ。
 自宅にも自分専用のノートパソコンがあるが、父親任せで「とりあえずメタリックなカッコいいやつ!」を買ってきてもらったのだ。
 いつも身近にあるのに、全然理解できてなかった。これは怠惰としか言いようがない。
 これを機に、少しパソコンのことを知っておかなくてはならない気がしてきた。
 「……スペック、って何?」
 「そこからかょ!」
 サイズワくんは大げさに天を仰いだ。
 「まぁぃぃ。今日はヒマだから付き合ぉぅ」
 はじめは渋々といった態度だったサイズワくんだったが、自分の知識を披露するのは嫌いじゃないようだ。質問には丁寧に答えてくれた。おかげで、僕のコンピュータレベルも3くらい上がった気がした。
 しかも、ノートパソコンの設定をいじりながらというのがスゴイ。
 「ところで、電算研究部ってどんなことやってるの?」
 「んー。経済予測とか、天気予測とか。インプットを与えて、分析と加工をして、アウトプットをするものは色々と挑戦してる」
 「それって結構凄くない?」
 「どぅだろぅなー」
 謙遜しているが、その横顔には自信が見え隠れしている。
 「と、ぅし。これで完成」
 「ありがとう」
 お礼を言い、ふと壁掛け時計を見てギョッとなる。既に放課後になって40分が経とうという時間だった。
 「ところで、このパソコン何に使……」
 「ごめん! 俺、今日は余裕なくて……っ。 今度ゆっくり話させてもらえるかな!?」
 そう言ってノートパソコンを小脇に挟み、僕は本日二度目の競歩を実施した。

 「わりぃ、遅くなった!」部室に到着して開口一番。反応は、なし。しかし、姿は確認できた。
 美月は窓際の柱にもたれて腕を組んでいる。そして、両眼は閉じられていた。
 怒ってる……のだろうか? そりゃそうだよな。何の連絡もなしにこれだけ遅れれば。
 そろりそろりと近づいてみる。
 「……美月?」
 「……」
 返事が無い、ただの美月のようだ。……ではなくて、かわりに聞こえてきたのは小さな声だった。
 「くぅ……」
 「寝息かよっ!」不覚にも、意識の無い当人につい突っこんでしまった。
 その後、「お~い」だの「朝だぜ!」だの耳元で声を掛けてみるが、全く起きる気配が無い。美月ってこんなキャラだったっけか?
 冷静に辺りを分析してみると、ここは風通しの良い日陰ポイントとなっており、なかなかに快適な環境だと分かった。
 なるほど、これは睡魔の大本営といっても過言ではあるまい。
 (むぅっ……。)
 冷静ついでに改まって観察する。美月の寝顔を見るのはもちろん初めてだ。あの笑窪のできる笑顔には及ぶべくもないが、普段の無表情からすれば、寝顔というのは自然体で十分に柔和な表情に見える。
 正直なところ、このまましばらく観賞していたい衝動にかられた。しかし、今日は諸々の事情もあるから、放っておくわけにはいかない。ここは一つ、肩でも揺すってみるか……。
 不可抗力とはいえ、身体に触れるのも初めてだ。間違って変なところ触らないようにしなければ! そう思うと、心拍が急に速くなっていく。
 と、その時。
 「んんっ……」
 幸か不幸か、美月は唐突に目覚めた。眼をパチパチとさせている。しかし、まだ完全には覚醒していないのか、その後ぼーっとこちらを見ている。
 そして、辺りを見回すと今度は僕の方を凝視してくる。
 まさか、寝ている間に僕が変なことをしたと勘ぐっているのではないか……!?
 いやいや、冤罪だ! まだ何も……いや、まだとかじゃなくて、何もしてないし、するつもりも無かったですってば! 心の中で叫ぶ。
 今度は、内ポケットからなにやら一枚紙を取り出して、その紙面をじっと眼で追っている。ここからでは何と書かれているかは分からなかった。
 それも読み終わると、そのまま携帯端末を取り出して恐る恐る操作を始める。まるで、初めて携帯端末を使う人間のように手つきがおぼつかない。
 僕は、どう行動したらいいものか判断できず、その場に立ち続けていた。しばらく、美月が携帯端末をいじる音だけが部屋に響いていた。
 やがて、「……ケーヤ?」そう言ってきた。まるで、何かを確かめるように。
 「そうだよ。今日は遅くなって悪かった」
 「……」
 美月の様子がどうもいつもと感じが違う気がする。
 「具合悪いのか?」僕は尋ねる。もしかして、快適だったから寝ていたのではなくて、具合が悪いのではないか心配になったのだ。
 「ちょっと、さっきから眠く……て……」
 そう言っている間にも瞼が落ちそうになっている。頭を振って、眠気を覚まそうとしているようだがどうにも効果が薄いようだ。
 「寝るのだけは、まずい。ケーヤ……なんとかして……」美月は珍しく、焦ったように僕に言ってくる。
 まずいって、僕が何かいたずらをすると警戒されているんだろうか……。教室で、そんなことするわけないだろっ!
 ……と、全力で否定はできないのが悲しい年頃男子の性だ。
 どうする? 保健室にでも連れていくか?
 僕は、ふと名案を思いつき、構えを取る。美月はその動作の意味に気づいたが、そのときには既にそれは発動していた。
 
 ――ペチッ。
 
 美月の額に、僕のデコピンが天使の羽根のような優しさでもって舞い降りた。
 いつぞやのお返しにと思ったものの、さすがに本気でというのははばかられ、後々の関係のためにも力はセーブしておいた。
 一瞬、きょとんとしたレアな表情を見せたかと思ったら、それはすぐにもとの無表情に戻り。
 「なんで、女子相手にデコピンとかする?」眼つきが普段以上に厳しくなっていく。
 「それは、そのー」
 「コーヒーとか、コーヒーとか、コーヒーとか色々と選択肢があるでしょ!?」
 そこまで責めてたなくても……と思ったものの、確かに、一般論的にはそれが普通だったか。
 しぶしぶと、バッグから財布を取り出して立ち上がる。1階の購買部にコーヒーを買いに行こうとしたら、再び要求が飛んでくる。
 「美味しいコーヒーじゃないと、ヤだよ」
 「……」
 購買部のコーヒーは、非常に熱くて、非常にまずいことで有名だ。このあたりは、コーヒー研究部が成分も含めて緻密な分析しているので科学的にも証明されている。
 これはつまり、暗に学外へ行って来いということだろう。非常に面倒だが、中央駅近くの『まめしば』までひとっ走りするか。往復で20分はかかるだろうけど、自分のレパートリーで一番美味しい店はそこしか思いつかない。
 バッグを掴むと、美月もバッグを手にして立ち上がっていた。
 「往復の時間がもったいないから」
 まあ、いいか。見方を変えればある意味デートと言えなくもない。相当なプラス思考だが。
 そういえば、一緒に外出するのは江辻と対局をしたあの日以来になる。
 校舎を出て、校門を通り過ぎ、中央駅の方向へ向かっていく。僕が僅かに先導する形だが、基本的には並んで歩いている。
 隣を見ると、美月は携帯端末をいじりながら大人しく付いてきている。
 僕の考えすぎかもしれないが、通りすがりの人たちがみんなこちらを見ている気がする。同い年くらいの男女が横に並んで歩いていたら、間違いなくカップルだと断定されてもおかしくない。「男のほうが釣り合ってないよねー」とか笑いものにされていたりして……。
 不良に絡まれたらどうしよう。一人なら走って逃げられるかもしれないが、まさか美月を置いていくわけにもいかない。こんなときのために格闘技でも習っておくんだったか……。とにかく、人通りの多いメインストリートをできるだけ使うようにして……。
 ところどころの交叉点で青信号に恵まれたこともあって、あれやこれや考えているうちにあと少しというところまで来ることができた。こんなに順調に進めたならば、もっと会話とかして楽しめば良かった。後悔先に立たず。
 「もう少し、そこ曲がったらあとは一直線――」
 と、振り返ったその時。美月の身体がよろっと前に傾いた。反射的に腕を伸ばして、地面に倒れそうになるところをくいとめることができた。
 「お、おい、美月?」
 返事がない。やっぱり、無理に外出させたのは失敗だったのだろうか。
 しかし、どうしたものか。『まめしば』まではあと少しだというのに……。
 店長を呼んで手伝ってもらおうか。いや、あのひょろっとした店長じゃちょっと頼りなさそうだ、むしろ僕のほうが体力ありそうに思える……。
 しかし、通行人に助けを求めるのは大げさすぎる気がする。でも、日中とはいえ、道端に無意識の女の子を一人残しておくのは色々とまずい気がする。
 こうなったら。
 美月の前に回りこみ、「せーの!」という掛け声と同時に、美月を背負う。
 身長は頭一つくらいしか変わらないはずなのだが、その身体は思った以上に軽かった。これならば、『まめしば』までは何とか辿り着けそうだ。
 一歩一歩進み、慣れていくうちに、徐々に背中に感じる感触に気づく余裕が生まれてしまった。先日から夏服に切り替わったのはこの場合、良かったのか悪かったのやら。ついでに言うと、両手は両手で柔らかな乙女の太腿をしっかりと抱えているわけだ。
 何度でも、何度でも繰り返しましょう。僕も健康で健全な16の男子なのです。いいですか皆さん不可抗力という言葉はご存知ですよね?
 脳内に次から次へと、煩悩と弁解が浮かんでは消え浮かんでは消え。そのうちそれらが激しい百年戦争を始め、気づけば互いに友情が芽生えて、互いに握手をはじめようとしたりして――
 あぁ、精神が崩壊しそうだ。これ、何の修行ですか?
 
 自我の崩壊は免れた。無事、約束の地『まめしば』に着いたのだ。この偉業は、後世きっと論語に並ぶ聖典として記録されることだろう。
 「こんちはー……」
 木製のドアを身体で押しながら開けると、ふわっと香ばしいコーヒー豆の香りに全身が包まれた。
 「あ……、け、け、桂夜くん。ひ、ひ、久し振り……」
 カウンターから店長が声を掛けてくる。が、僕の背後を見るとただごとじゃないと思ってくれたのか、入口の方にすぐ駆け寄ってきてくれた。
 顔も腕も脚も、およそ全身の全てのパーツが細長い、ひょろっとした中年男性。
 その風貌、かつ、口もそれほど達者でないため、冴えないサラリーマンのように思われがちだが、ことコーヒーの知識と腕前に関しては相当なものをもっている。
 「趣味、コーヒー」を公言する、うちの父が唯一認めるバリスタなのだ。父とは学生時代の同級生らしい。
 「そ、そ、その子……だ、だ、大丈夫??」
 「具合が悪いとかじゃないと思います。さっきからすごい眠たがってて……。とりあえず、ドリップ2つと奥のソファ席いいですか?」
 「も、も、もちろん。い、い、急いで作るよ……!!」
 奥のソファ席はコの字型になっており、1人掛け・2人掛け・1人掛けで合計4人座ることができる。幸い、他の客はいなかったので、遠慮なく二人で使うことができそうだが……。どうしよう。
 2人なのだから、2人掛けソファを使うのは自然だろう。だけど、仕切りが無いから、もたれ掛かってこられたらと思うと思考回路はショート寸前だ。
 (とにかく……倒れないようにはしないと)
 まずは、美月を1人掛け席に静かに腰掛けさせて、さて自分はどこに座ろうかと思案する。
 2人掛けソファーの角に座る、ってことも考えられたが、1人掛けソファがあるのに1人で2人掛けソファに座ることに不自然さも感じる。
 そして、結局一番遠い位置にある1人掛けソファに座り、対面するかたちとなってしまった。
 (なんか、昔流行した歌でこんな状況のあったよなぁ……)自らの情けなさを嘆く。
 今すぐすることもなくなったので店の壁を見回す。実は、奥のこのスペースに来たことはほとんどない。壁には、コーヒー農園の写真や店長の愛犬の写真が所々に飾られていた。これらの写真と店名からも分かるとおり、店長はコーヒーと同じくらいマメシバが好きなのだ。僕も柴犬は好きなので、非常に癒される。
 しばらく後、店長が姿を現して、ブレンド2つを僕達の前に置いた。作り置きでなく、一から作ったとは思えない速さだ。定番サービスのチョコ2枚も丁寧に添えられている。
 「ありがとうございます」
 「と、と、とりあえず。な、な、何かあったら遠慮なく声掛けてね……?」
 そう言って店長はカウンターの方へ戻っていった。
 このソファ席はカウンターや他の席からは見えず、一番奥なので音も静かだ。落ち着いて話をするには格好のロケーションだ。美月が起きたら、例の話などをついでに聞いてしまうのがいいだろう。
 隣を見遣るが、まだ起きる気配は無い。冷めてしまうのももったいないので、お先に一口頂くことにした。
 口に含むと、その瞬間から広がる程よい苦味と酸味。やはり店長の淹れたものは絶妙だ。父も決して下手ではないのだが、味が濃すぎる。家族からは「豆を直接食えばいいのに」と散々アドバイスされているレベルだ。
 僕のカップが3分の1くらいになった頃、コーヒーの香りが効果的だったのか、美月が静かに眼を開いた。
 「おっ、起きたか」
 望みを叶えてあげたし、道中では背負ってあげたりもした(気づいていないかもしれないが)。
 告白の判断ポイントにプラスしてもらってもいいよ、とか、まずはお礼の反応が来るかな、と構えていたが、美月は店の中や僕の顔を凝視したり、ボーっとした眼で見たりを繰り返している。
 そして、内ポケットを探ると紙切れを一枚を取り出して、それをじっと見つめ始める。
 (あれ、この動きって……?)
 紙を読み終わると、携帯端末を取り出して恐る恐る操作しはじめ、「……ケーヤ?」と尋ねてきた。あたかも、先程の部室を再生したみたいな状況だ。
 美月は冗談や悪ふざけをするようなタイプじゃない。明らかにおかしい。おかしすぎる。僕の直感はそう訴えてくる。下手をしたら、脳の障害を起こしている可能性があるのではないか?
 「美月、どうした?」
 「……何が?」
 表情や口調は普段と変わらぬまま尋ね返してくるが、僕は引き下がらない。
 「さっきからおかしいぞ。寝て、起きると、しばらく別人みたいになってる」
 「……」
 「……」
 無言で見詰め合う。普段だったら、つい気恥ずかしさでそらしてしまったかもしれないが、今は不思議とそういうことにはならなかった。むしろ。
 「俺に言えないことでもあるのか?
  ……そりゃ、頼りなさそうに見えるかもしれないけど、美月の知らないところで、いろんな人からの不可解な謎や相談ごととか、自分でいうのもなんだけど結構ズバッと解決したりしてるんだぞ?
  美月のことだって、話してくれさえすれば――」
 「――そんなに聞きたいなら、話したげる」
 俺の言葉に重ねるようにそう言ってから、美月は目の前に置かれているコーヒーをゆったりとした仕草で一飲みして、続けた。
 「すごく簡単に言えば、あたし、永続的な記憶が上手くできないの。起きてる間は平気だけど、一回寝たら、その前までのことほぼ全部忘れちゃうの」
 寝たら忘れる? 確かに、さっきからのおかしな状態は辻褄が合うといえば合う。だがしかし、そんなフィクションみたいなことが現実に起こるものなのか……?
 「その代償なのかは分かんないけど、一時記憶と演算は人並み以上にできる。おかげで、日常生活にはそんなに支障はないわけだけど」
 僕の頭の中に、将棋を教えたときの飲み込みの早さ、先日の成績発表のことなどが次々とフラッシュバックされた。
 単純な知識とその処理ももちろんだが、その延長線上には暗黙知――いわゆる、コツのようなものがあるのだろう。
 「あんまり、驚かないんだね。もしかして、冗談言ってると思ってる?」
 「そうじゃないよ、むしろ腑に落ちてすっきりした」
 泉西先生の謎の読心術を目の当たりにしている身としては、コンピュータみたいなものすごい処理能力を持ったニンゲンの方がまだ現実的だとも思えた。泉西先生の秘密に最初に出会えていたのは、今回のことを考えるとラッキーだったのかもしれない。
 僕の反応で少し安心できたのか、美月はぽつりぽつりと話を続けていく。
 言語や日常生活を送るうえで最低限の行動など、寝ても失われない情報や記憶もいくらかはあること。
 周りの人達に不審がられないように、その日のあらゆるできごとや発言を毎晩何時間もかけて思い出し、携帯端末に記録していること。
 朝目覚めたらすぐ、昨日までのその記録を全て読み返してインプットしなおしていること。
 推測だが、ほとんどの日、放課後すぐに帰ってしまうのは日中の記録をつける時間の確保と同時に、記録対象になる情報を減らす意味合いもあったのだろう。
 先日、サイズワくんから聞いたパソコンの仕組みの話を思い出した。
 主記憶装置は電源を落とすとデータを維持できない。そのため、HDDなどの補助記憶装置にデータを記録している。さらに足りない場合は外付けのHDD、MO、USBメモリといった外部記憶装置を使うことになる。
 ニンゲンで言えば、主記憶装置が一時記憶、補助記憶装置が永続記憶、外部記憶装置が写真や日記などと結びつけるとイメージに近くなるだろうか。
 たまに、寝覚めの瞬間『今がいつなのか、どういう状況下なのか』が分からず、段々と『思い出し』てから活動をはじめたことがあったなと思い出した。普通のニンゲンなら、一時記憶がなくなっても補助記憶装置からすぐ呼び戻すことができる。だから、僕達は安心して毎晩眠れているのだ。
 美月はさっき『支障がない』と言った。慣れてしまえば問題が無いものなのだろうか。しかし、美月の次の言葉に言葉を失った。
 「日記に『こんなことがあって、こう思った』っていくら詳細に書いても、翌日のあたしには他人の日記を読んでいるのとなんら変わりないんだよね」
 味や匂いでさえ、言葉だけで思い出すことは簡単じゃない。それが気持ちとか感情のようなものであれば尚更だ。そして、それが本当に全く心当たりがないものだとすれば……。すぐに想像ができないが、それってとても辛いことじゃないか?
 「……はぁ、日中に眠くなったことなんて今まで全くなかったんだけど。昨日のあたし、全然寝付けないほど考え事してたみたい……」
 そう言われて、僕はドキッとした。約束していた告白の回答はまさに今の時間帯だった。
 「ちなみに、携帯端末のスケジュール欄に『告白の返事』ってあるんだけど?」
 「あ、あぁ……昨日、ちょっとそういうやりとりがあって」どういった反応をすればいいか、咄嗟に対応できなかった。我ながら情けない。
 「寝落ちばっかしてたせいか、途中の検討メモも何も残ってないみたい。だから、〈今日のあたし〉が答えるよ? つまり、〈昨日のあたし〉の描いていた答えと違うかもしれないけど。それは了承してよ?」
 つまり、昼休みに福路くんがしてくれた希望的観測は一切なかったことになるわけか……。しかし、昨日と今日では情報量にそれほど変化はないはずだ。〈昨日の美月〉がそれまで引き継いでいた情報を元に悩んでいたのだとしたら、〈今日の美月〉の結果は大きくは変わっていないはずだ。
 「たとえ〈今日のあたし〉が誰かを好きになっても、〈翌日のあたし〉も好きなままでいる保証はない。相手だって、そんな女をずっと好きになり続けられるはずがない」
 この話の流れって――。自分の唾を飲む音が、大きく聞こえる。
 「だから。悪いけど、無理。付き合えない」
 やっぱりか。途中からそういう流れになっている気はしていたけど、いざ言葉にされると辛いものがある。よく心にナイフが刺さったとかいう比喩があるが、的を射ている気がする。胸の辺りが一瞬の痛みのあと、じわじわと熱くなってくるのを感じる。
 僕の心臓はここ数日で相当ボロボロになったか、相当強靭なったかのどちらかだろう。
 しかし、僕は堪えた。感情によって言葉が震えたりしないように、意識しながら言葉を話す。
 「今の美月の推理で構わない。〈昨日の美月〉は俺の告白をすぐ断らなかったと思う?」
 「あたしの演算では、この騙し騙しの生活はあと4年程度で破綻する。蓄積した情報量が、毎日の許容できるインプット時間をオーバーするの。こんな生活を――障碍を劇的に解決できるような魔法探しに、ケーヤの可能性や閃きに期待したかったんじゃない?」
 美月は再び珈琲カップに口をつけてから、「でもそれは、全然恋愛とは違う。便利な道具を利用するような不純な動機」と小さく呟いた。
 なるほど。容姿も冴えない僕に、美月みたいな子が近づいてきた理由がわずかに理解できた気がする。
 「……そうか。事情は分かった」僕はソファを座りなおしながら、美月がカップを置くのを待った。そして。
 「もう一回言う。俺と付き合ってくれ」
 「……!?」
 美月は珍しく驚いた表情を浮かべる。しかし、それは一瞬だけだった。すぐに表情を平静に戻して「もしかして、耳栓してるの?」と存外に責めてくる。
 「事情は分かったと言ったろ」僕はさらりと返す。自分の中で解法が導けた以上、迷いはなかった。僕は引かない。引く気はなかった。
 「付き合うのに、動機が不純じゃだめなんて、誰が決めたんだよ? 一緒にいたい、声を聞きたい、そういうのだって広義に言えば自分の気持ちを満たすためだけの欲と言えるはずじゃないか」
 「それは普通の人達の場合でしょ。あたしは記憶が……」
 「じゃあ、そんなの、俺が毎日告白すればいいだけの話じゃないか。普通の人達はさぞ羨ましいだろうな。『3年目のジンクス』がいつまで経っても来ないんだから」
 我ながら、よくもこんな言葉が出てきたものだ。これには、さすがの美月も言葉を失っている。
 「将棋の竜王も、チェスのクイーンも。どっちも強力な駒だけど、それ単体じゃ相手の王を詰めることは絶対にできないんだ。
 美月はなんでも自分でできすぎるから……。もっと誰かを頼る――いや、利用するくらいの気持ちを持ってるくらいで丁度いいと思う」
 美月は深いため息を吐いた。それは、不快感の表れではなく、いままで大量にためこんでいた悩みごとを開放したような感じだった。
 そして、胸ポケットから例の紙をカバンからペンを取り出すと何かを書き込み始めた。
 「……ここに『瀬田桂夜を頼れ』って書いた。あたしが困ってるとき、絶対に、助けに来てよね」
 大きな壁を越えたかと思ったら、より大きな壁がやってきた。でも、この壁は一人で立ち向かわなくていいのだ。
 1+1が2以上にできるから、人は協力し、文明を発達させて来られた。
 前もって用意したわけでもないのに、美月の返事に対する言葉は自然と出てきた。
 「心配ないよ。『名は体を表す』っていうし」
 将棋での桂はチェスで言う騎士(ナイト)だ。そして、桂(K)と夜(NIGHT)は騎士(KNIGHT)だ。
 一番最初に出会ったときに交わした自己紹介のことを今の美月は絶対覚えていない、というかこの世界にもういない。しばらくして、目の前の美月もようやくその意味に気づいてくれた。
 「もしかして、キザなの?」そう言いながらほんの僅かに苦笑した美月を見ていると、とてもそうは思えなかった。
 楽観的すぎるかもしれないけれど、その表情だけできっと将来奇跡は起こせるんじゃないか、と思えた。
 
 僕は、お代わりのコーヒーをカウンターにもらいに行った。
 「け、け、桂夜くん……。や、や、やるねぇ」
 すっかり聞かれていたようだ。思わず顔が赤くなる。いくら一番奥の席だといっても小さな店だ。そして、ヒートアップして少し声のボリュームを上げてしまっていたようだ。
 「あ……は、はぁ」先程の自分の勢いはどこへやら、2つのカップを手にしてそそくさとソファ席に戻っていく。
 コーヒーをテーブルに置くと、「ありがと」と反応が返ってくる。二人の関係が明示的に変わったからだろうか、それとも僕の思い込みか、美月との間には全く壁を感じなくなってきている。
 テスト終了の開放感を凌ぐ程の高揚感を必死に抑えて、僕は晴れて彼女(というと語弊がありそうだが、適当な言葉もないのでもう彼女と表現することにした)になった美月に向き直る。
 そうなのだ。告白の返事を聞くのもそうだが、もう一つ美月としたい話があるのだ。
 「実は、将棋部が大変なことになってるんだ」
 僕は、やっとこの段階で総会でのできごとを伝えることができた。そして、何かいいアイディアがないか、と問う。
 美月は少し考えて「その七三メガネの言っていた、将棋部が最低要件を満たしていないっていうのが気になる」と言った。
 「生徒手帳貸して」
 「先日、Yシャツのポケットに入れっぱなしにしていて洗濯機で粉々になってしまった……」
 「……自分の見るからいい」
 美月はカバンから小さな手帳を取り出すとペラペラとめくり始める。40頁くらいはあるはずだが、僅か10秒で作業を終える。
 「もしかして、もうインプットした?」
 「うん」
 速読というのだろうか、僕には真似できない行動だ。毎日、情報をインプットしなおしているというのは嘘ではないようだ。
 「部活動設立時の部員の最低人数は3人必要みたいね。一旦設立してしまえばその後は人数を問われないみたいだけど」
 3人の制限というのは安易に乱立されないための制限なのだろう。その後の維持に部員数が問われないのは、例えば不幸な事故や転校などで部員が減ったときにも、残された部員が活動を続けられるようにするためなのだろう。
 会則上では特に問題がなさそうだけど、消去法で他の部と比べるならば、部員数という点で大きなハンディキャップがあったわけだ。
 つまり、大なり小なり夏の大会で成績をあげたとしてもその一点で不適格と押し切られてしまう可能性はずっと残り続けてしまうかもしれない。
 「部員を増やすしかないのか」
 「それは無理みたい」
 美月の解説いわく。生徒が部活の所属を異動できるのは春の仮入部期間のみと定められている。(確かに、そのために僕達一年生は必死に動き回っていた)
 対象の人数こそ少ないが、2年生や3年生もその期間に異動をしたり、掛け持ちを増やしたりしていたのだ。
 「つまり、7月から10月の間に新たにヘッドハンティングしたり、掛け持ちしてもらうというのはNGなのか……」
 仲の良い福路くんや勝田くんに頭を下げてみようかと思っていたが、それは即廃案となってしまった。
 奥地会長は恐らくそれを知っていたから、あの時すんなりと妥結したのかもしれない。3ヶ月だろうが半年だろうが無理なのだよ、という嘲笑が聞こえてくるようだ。
 「とりあえず、続きはまた明日考えよう」
 気づけば、部活動の時間としては終わりの時間になっていた。美月の記録の時間を削るわけにはいかない。今日のところは、一旦お開きとすることにした。
 
自宅に帰ると、玄関に父の革靴が眼に入る。仕事人間で、こんなに早く帰ってくることなどそうそうないのだが。
などと思っていると、寝巻きを着て、階段を上がっていく父の後ろ姿が眼に入った。体調でも崩して早退したのだろうか。
「父、どうしたんだ?」台所に行き、父の茶碗を洗っている母親に尋ねる。
「え? あぁ、実はね……」
聞けば、父のヘッドハンティングの話が水泡と化したのだという。
大手の会社が父以外にも食指を伸ばした結果、今の会社がそれに気付き猛然と抗議。業界全体の反発を避けるため、会社ごと買収を仕掛けてしまったというのだ。
結果的には、『ヘッドハンティングしなかった』不要な人材も組み入れることになった。父個人で見ると給与も上がらず、ただ会社の名前が変わるだけという結果に終わったのだ。
 「まぁ、ああなっても、明日の朝になったら何事もなかったかのように、会社に行くのよ。ピンチはチャンスにするきっかけだからねぇ。急性アル中になって苦しんだと思ったら、超絶女子と付き合って結婚までしちゃうんだから人生は良くできてるわ」
 「……はいはい」相変らず達者な口に苦笑する。
 まあしかし。父観察の第一人者である母が言うのだから、きっと問題はないのだろう。
 少なくとも、『ピンチはチャンスのきっかけ』は真理だろう。将棋でも、取られそうな瞬間の駒は最大限に働く……という不思議な局面が驚くほどよく訪れるのだ。
 「ご飯の量は?」
 「特盛」
 愚問だ。男子高校生の食欲を甘く見てもらっては困る。
 今日の献立は……チンジャオロースーか。ピーマン嫌いの僕にとっては、半分が毒でできているようなものだ。
 幸い、母親は明日の弁当の仕込みや皿洗いの真っ最中。こちらを常に監視しているわけではない。ここは『空城の計、桂夜バージョン』だ。
 盛られている具のうち、肉とタケノコをいただく。偏って食べたことが発覚しないよう、内部にピーマンばかりの層を作った後、適度なバランスをした層を上に作り上げる。
 ピンチをチャンスに。僕、さえてるなぁ。
 そして、タケノコを咀嚼した瞬間。身体に衝撃が走った。
 「げぇ!」思わず悲鳴を上げる。この食感、この味、紛れもなくピーマンだ。何故……?
 「ふふふ、桂夜討ち取ったり~」
 母親が振り返る。涙目の僕を見て、満面の笑みを浮かべてVサインをしている。
 「それ、海外で品種改良した白ピーマンなのよ。ちょっと黄色くして、形も真っ直ぐになるようにしたらタケノコにそっくりなの」
 「ちくしょう……、無益な研究費使いやがって……」愚かなるその食品メーカーには、早晩、神の裁きが下るだろう。
 「さすがに肉は難しいから諦めたけどね。まぁ、チンジャオロースーにタケノコを使ってはいけないってルールはないしね」
 「俺のレシピブックにはピーマンという言葉は載ってないけどな!」
 「あ~ら、生徒手帳をうっかり粉々にしてしまった人のセリフじゃないわねぇ」
 悔しいが、今回は負けを認めるしかない。
 む?
 ピーマンの苦味が刺激となったのか、僕の頭にふっとアイディアが浮かぶ。
 小皿に取り分けてしまったピーマンを大量のごはんを使って飲み込みながら、僕はなおも考える。
 もしかして、これは……突破口になりうるか?
 そして、一気に食べ終えると、茶を一杯流し込む。
 「みかん、あるよ?」
 「あとで!」
 とにかく、一人の考えじゃ不安だ。美月に検証してもらおう。
 
 自室に戻り、携帯端末を開く。ア行の一番最後に入っている「織賀美月」の4文字を見て、少しどきっとする。
 ついに、電話番号も交換してしまったという事実にまだ頭がなじんでいないのだ。
 少しの間、行動を起こしあぐねていたが、あまりもたもたしているわけにもいかない。何時に就寝するのか分からないからだ。電話に出てくれても、寝起きだったとしたら話を最初からしなくてはならなくて大変だ。
 「もしもし、美月? まだ起きてる?」
 「そうだけど。何?」
 ここは単刀直入に。僕は、考えていたことを言ってみた。
 「――確かに、生徒会則上は可能だと思う。でも、そんな都合のいい部活があると思えないけど?」
 「それがあるんだ。まぁ、今はとにかく何でもやってみるしかないし。明日、また部室で」
 「うん」
 電話を切る。
 よし、とりあえず信頼の置ける頭脳からは『可能』という言葉がもらえた。あとは、僕の日頃の行いと、演技力次第か。
 今夜も緊張で眠れなくなりそうだと判断し、自室の床で腕立て伏せや腹筋を猛烈に行う。身体を疲れさせて、寝つきを良くしようという作戦だ。
 結局、僕はその日良く眠れた。
 筋トレで身体が疲労したのがよかったのか、夕食のピーマンで精神的に疲労したのがよかったのかは定かではない。

 

 小説『Sum a Summer =総計の夏=』(4/5)に続く

小説『Sum a Summer =総計の夏=』(2/5)

第二章 『7月2日(水)』

 

 心臓が痛い。
 といっても、別に悪い病気にかかったとか、昨日の寿司ネタが傷んでいたとか、古い雑誌やマンガの魔力で夜を無為に過ごしてしまったとか、そういうことではない。極度の緊張が原因だ。
 恐るべきことに、大矢高校ではテストの翌日朝一番から期末テストの成績発表を行うのだ。
 初日や二日目のテストなら、まだ採点の時間はそれなりに確保できるのかもしれない。しかし、一学年300人近くいることを考えると、神の業としか思えない。身体をサイボーグ化した教師がいるらしいとか、地下に大量のコビトさんが待機しているとかいう噂もあるようだ。何故か、そのあたりのカラクリを生徒は誰一人知らないため学園の七不思議の一つとなっている。
 といっても、実名を発表されるのは各科目の上位10名までだ。名前が載るならひたすら名誉だし、載らなかったとしてもビリなのか11位なのかは本人のみぞ知ることで、やはり緊張は無用とは頭では分かっているのだが。
 英語は答案を回収された時点で惨憺たる有様だった。なので、はじめから期待していない。倫理と現代国語はまずまずの手ごたえだったので、それだけが数少ない希望の光だ。
 学校に着くと、屋外掲示板には早くも人だかりができていた。
 思えば、高校の合格発表もここで大喜びしてたもんだなぁ。つい昨日のことのようだが、もう3ヶ月も前のできごとだ。
 生徒と生徒の間から貼り紙を伺う。これは、英語か。まぁ、これは捨てだからな! と思いつつ、恐る恐る10位のところから上に視線を移していく。
 ……ない、……ない、……ない、……ない、……ない。
 というか、あんな意地の悪い問題ばかりで高得点を取れるこいつら、おかしくないか? きっと、奥地会長みたいな典型的ガリ勉タイプばかりに違いない。
 乗りかけた舟だ、残りの5人も見届けてやるか。見上げた僕は息を呑んだ。

 織賀美月 100点

 ……おかしい奴が存外身近にいたようだ。おかげで先程までのドキドキ感は一気に霧散してしまった。
 その後、物理・歴史・数学でも一文字違わぬ表示を目の当たりにすることとなった。
 最後が国語だ。さすが、カオスの伝道師たる泉西潮成というべきか。最高点が79点であった。すっかり、「織賀美月 100点」に見慣れてきたところだが、国語の美月の点は68点で9位だった。
 あの美月にも不得手があるのかと思うと、少し安心したような不思議な気持ちになった。それでも10位以内に入るあたりはさすがなのかもしれない。
 残念なことに僕の名前はなかった。どうやら、泉西マジックにみごとにはまったようだ。手ごたえがそれなりにあっただけに微妙なショックを感じる。
 肩を落として、教室に向かおうとすると見覚えのある顔と目が合った。
 銀縁のメガネのブリッジをくいっと持ち上げて、挨拶をしてくる。
 「お、瀬田くん。ご無沙汰ですね」
 「福路くん、久し振り」
 彼は、福路浩二。科学部に在籍しており、以前ちょっとした相談ごとをきっかけに知り合うことになった。
 「福路くん、科学部だったね。化学とかどうだった?」
 「全然さ。白衣が泣いているよ」
 福路くんは少し大げさに天を仰いで「昼休みにヒトミに慰めてもらおうかな……」と呟いた。
 福路くんは中学から付き合っている彼女がいるんだよなぁ。羨ましいことだ。二人揃えば、悲しさ半減嬉しさ倍増だよなぁ。
 僕の表情に羨望が浮かんだのを感じ取ったか、福路くんは顔を近づけてくる。
 「……ときに瀬田くん。彼女は作らないのかい?」
 あまりにストレートな問いかけに、息が詰まった。そりゃ、作れるものなら作りたいけれど、彼女などそう簡単にできるものではない。
 「福路くんはどうやって蒼井さんと?」
 話題をそらすの半分と、学び半分との気持ちでそう切り返した。
 「僕らは都市伝説マニアっていう共通の趣味があったからね」
 「都市伝説?」
 「そう。『ラフテイカー』とか『中央駅のA3出口脇の壁』とか、『童謡作者の無念』とか、『眠れずの薬』とかね。」
 「へ、へぇー……」
 うーむ、オーソドックスなカップルかと思っていたが意外だ。
 「あとやっぱり、元々幼馴染だったというのが何より大きいかなぁ。気軽に話しかけられるから、接触機会は自然と増える。……でも、やっぱり早いうちにアタックしたのが決め手だろうね」
 「そっかぁ」
 将棋は、攻めが大好きで『攻撃は最大の防御』と揮毫した扇子を作りたいくらいだが、色恋沙汰は四枚穴熊状態だ。やはり、そこら辺が今後のテーマだと痛感する。
 「性急過ぎるのは失敗の元だけど、慎重過ぎるのはもっといけない。先手必勝だね。将棋でも言えることだよね」
 先手必勝、という言葉には納得できたのだが、将棋も同じという意見はちょっと気になった。
 「福路くん、ちょっとだけ脱線なんだけど、将棋って最近は後手のほうが勝率の方が良くなってきているって知ってる?」
 「えっ、そうなの!? 知らない知らない」
 自分も最近になって知ったことなのだが、どうもそうらしいのだ。
 一般的なイメージで考えると、先に指す方は作戦を自分で選べるし、先に攻撃を仕掛けられる。
 ところが、『先に指す』ということは裏を返すと『先に戦略を晒さなければならない』ということでもある。
 つまり、後手は先手の作戦を見てそれを迎撃できる最良の布陣をしいてカウンターを狙うことが有効だと言う考え方が近年急速に広がってきているのだ。
 福路くんがなにやら難しそうな顔を浮かべていたので、より単純化した例えを即興で考えてみた。
 グー、チョキ、パーを公開したまま交互に捨てていき、残った一枚で勝負するというゲームがあるとする。
 先手は必ず負ける。
 先手がグーを捨てたら、後手はパーを捨てる――というように後手が先手の捨てたものに勝つカードを捨てていく選択をすると最後には後手が勝つカードの組合せにできるからだ。
 話し終えて、福路くんが「うんうん、それは確かに分かり易い道理だね」と言ってくれたので、僕もすっかり嬉しくなってしまった。
 と、将棋は置いておいて、先手必勝の件は真面目に考えないとだなぁ。テストの成績発表で、美月の知名度は一気に上がったに違いない。倍率は一体どこまで跳ね上がるやら……。競争が狂騒を呼ぶ、今日そうならないとも限らない。って僕は何を言ってるんだ。
 
 いや、僕は良く戦ったよ。大善戦だ。開始後それぞれ15分は耐えられたんだから。
 食後の4時間目に数学の丹治延登先生、5時間目に英語の石井英美先生の直列つなぎは反則だ。僕も含めて多くの生徒が屍となった。あの人たちは、プロの催眠術師か不眠症セラピストになった方がいい。
 とはいえ、今日の授業は無事終わり、ホームルームが始まっている。そして、泉西先生が無駄に高いテンションで教室をドンびかせている。
 恐らく、採点が終わった開放感だろう。……まぁ、我々も昨日はこんなだったんだな。「人の振り見てなんとやら」を身体を張って教えてくれているのだ、と僕はプラスに解釈してあげることにした。
 さて、待ちかねた放課後だ。軽音楽部の部長、琴羽野先輩からは「将棋部が落ち着くまでは無理してこなくてもちゃんと籍はあるから。皆にも言っておいてあげるよ」という暖かいお言葉をいただいている。
 何か将棋部の存在や実績をアピールできることがないか、考えに考えなければならない。
 それにはまず美月と泉西先生に現状を伝えて、一緒に考えてもらうのが最善だろう。一人より、二人。二人より三人だ。
 あと、泉西先生にはパソコンが使えないかどうかの相談もしたいところだ。昨日はばたばたしてしまい、結局アクションを何も起こせなかった。
 白物家電研究部がウェヴサイトで実績を上げたことを思い出し、ITの力も何かの役に立ちそうだというおぼろげな感触がある。
 ……しかし、なにぶんどちらもランダムにしか現れないのが悩みの種だ。RPGのキャラクターだったら、さぞかし経験値が高いことだろう。
 とりあえず、備品を準備して教室で待つことにする。カバンから詰将棋の本を出して、ひたすらレアキャラの登場を待つ。
 しばらくすると、和服姿の泉西先生が現れた。僕は待ってましたとばかりにマシンガントークで泉西先生に畳み掛ける。
 「白物家電の研究だあ? ふざけた連中だ。あとでお得な冷蔵庫についてたっぷりと事情聴取してやる!」
 「そこですか!」
 前言撤回、どうやら頭数が増えてもダメなケースもありそうだ。貴重な人生経験になった。しかし、パソコンについては「大江室長に話しといたる。明日、サーバールームを訪ねてみよ!」と存外にまともな回答をくれた。大方、将棋部名目で借りて何か私用で使う算段でも立てているのではないだろうか。
 とりあえず、パソコンの件は一歩前進、したのかな。
 大矢高校が誇るトラブル発生機が職員室の方向に消えたのを見届け、カバンから緑茶のペットボトルを取り出す。さっき購買部で買ったものだ。これで一息つこう。
 ボトルの脇におまけが貼り付いていた。これは……。最近、ひそかにブームになっている〈クマッタ〉のストラップか。
 勉強とか料理とか会社経営とか、とにかく色々なことをはじめるのだがいつも困難にぶち当たる。そのときに「クマッタなぁ……」と困り顔で頭をかく姿が意匠になっているクマのキャラクターらしい。
 こういうタイプは色々と手を出すなよ! と僕でさえ思ってしまうわけだが、どうも老若男女問わず人気があるらしい。確かに、シンプルな顔や茶色を基調とした色合いは男性にも抵抗が少ない気はする。
 ストラップは一旦外して机の上に置き、緑茶を流し込む。
 さてと。泉西先生とは話ができた。残りは美月だ。僕の極秘の美月統計情報によると、泉西先生登場の後に美月が登場したことは一度もない。よって、早くとも明日以降でないと会えないという結論になる。
 今日はもう帰ってしまうか。いや、生徒会が抜き打ちチェックに来て「活動の実態がない!」などとこれ以上マイナス要因を増やされたらたまらないか。すると、ちょっと駒を並べておくくらいはしておいた方がよさそうだ。
 というか、部員一人だけの時に見られたらまずいよな……。一日ならまだしも、毎日毎日来られたら実質的に僕一人だとばれてしまう。事態収束までは、毎日ある程度は顔を出してもらうようにお願いをしなければ。
 「あぁ、美月ぃ~」天を仰いで、思わず虚空に呟く。
 「何よ?」
 思索に耽っていたため、突然横から返事が来て仰天する。そして、次には恥ずかしさが込み上げてくる。
 僕の発見した法則はあっさりと崩れてしまったわけだが、いやこれはむしろ天の采配と考えるべきだろうか……。
 よし。将棋部に訪れている危機を伝えようと向き直ったが、美月の視線は何故か下を向いていた。
 視線の先を目で追ってみると、そこにあったのはクマッタのストラップだった。
 「もしかして、これが欲しい……とか?」
 「……」
 返事はない。しかし、視線は外れていなかった。
 「どうせ捨てようと思ってたところなんだけどな」敢えてそういう表現をしてみた。
 すると、「なら、もらう」と言って、携帯端末の穴に通し始めた。
 作業が終わると携帯端末からぶらさがったクマッタと向かい合って、「……まぁまぁかな」と呟いている。
 タダでもらったストラップとはいえ、プレゼントしたものを受け取ってもらい、所有物に付けてもらうということ。
 自惚れは百も承知だが、婚約指輪を受け取ってもらえた男性は、きっとこういう気持ちになんだろうなぁと思った。
 「この部屋暑いなー」
 照れ隠しにそういって近くの窓を開く。下を見遣ると、中庭には部活なのか不明だがそこそこの生徒がおり、男子女子が親しげに話している姿が何組か目に入った。
 胸の中が妙にざわつく。

 ――慎重過ぎるのはもっといけない
 ――先手必勝

 「あのさ」僕はゆっくりと振り返る。
 いや、ちょっと待て。僕は、自分自身がコントロールを失い、瀬田桂夜という存在から切り離されているような不思議な感覚に襲われた。こいつ、まさか。しかし、動き始めた自分を止める方法が分からなかった。
 「何?」
 「俺と……。付き合って、くれないか」
 その言葉を待っていたかのように、突然僕の背後から一陣の風が吹き抜けていった。美月は前髪が煽られ、顔を覆っている。そして、風が過ぎた後も姿勢はそのままだった。
 あまりに。あまりに唐突過ぎるじゃないか? なんていうことをしてくれたんだ……っ。
 自分自身がやらかした奇行に未だに自分自身が一番戸惑っている有様だ。
 美月も美月で、せめていつものように「ヒマじゃないから無理」などとあっさりばっさり切り捨ててくれれば、「悪い悪い。ちょっとキザなセリフってやつを言ってみたくてつい」などと笑ってごまかるかと思っていたのに。
 「……24時間考えさせて」それだけ言うと、足早に部室を出て行ってしまった。窓を開けてから、本当にあっという間の出来事だった。
 後に残されたのは、盤と駒と飲みかけのペットボトルと、脱力しきった恋愛下手な16の男子高校生だけだ。
 しばらくの間、窓際からは動くことができなかった。背中には夏の日差しがちりちりと突き刺さってくる。先程の突風は幻だったかのように、今は凪の状態が続いている。
 「……総会の話、できなかったな」
 やっと出てきたのはそんな言葉だった。

 家に帰っても、気分はうわの空だった。夕食に何を食べたかの記憶も定かでない。ピーマンを知らずに食ってたらと思うと鳥肌ものだが。
 将棋部の第一部維持の対策検討。琴羽野さんの相談ごと。宿題や予習もろもろ。ギターだってまだ全然上手くなっていない。
 色々と進めなければならないタスクがあるはずなのに、一向に頭がそちらに向こうとしてくれない。
 なんとなく、リビングにある共用パソコンでインターネットサーフィンを始めてしまった。インターネットは有限さを感じさせないほど、際限が無い世界だ。少し暇つぶしに、と思っていたのに気づけば1時間が経っていたということはざらにある。浦島太郎が行ったという竜宮城とは、インターネットの海の中にあったのかもしれないな、などとくだらないことを思った。
 午後8時ちょうどになり、テレビからは威勢のいい声が聞こえてきた。「このあとは、芸能界、スポーツ伝説!」
 確か、売り出し中の若手の芸能人が本物のアスリートと混じって特殊な運動競技を勝負する番組だったか。普段はおどけている芸能人の意外な身体能力、普段は真面目なアスリートの意外なバラエティ能力、そういったものが観られるということで幅広い視聴層を獲得している。勝敗を結果が出るまでに送信して、当たれば抽選で商品をもらえるという企画も同時並行しており、こちらも視聴者の底上げをしているようだ。
 我が家では家族3人が一緒に観る(ただし、父に関しては奇跡的に定時あがりできたときのみ)、数少ない番組の一つだ。今は野球がシーズンの真っ最中なので、父の観る動機になる野球選手は登場しないが、なんとなくこの時間はリビングにいるような感じだ。そういうリズムになっているのだろう。
 『伝説』という単語で、昼間に福路くんが話していた『都市伝説』を思い出した。えーと、何だったか。中央駅の壁とか童謡とかだったかな。
 うろ覚えなので、それらのキーワードと『都市伝説』で検索を掛けてみた。32件。思っていたよりも結果は多くないな……。とりあえず、一番上に出てきたページを開いてみた。
 随分シンプルなページだった。インターネット黎明期に自分でタグを組んで作られたページだろう。逆に言うと、そのくらい前から存在していた都市伝説ということが言える。
 トップページの下部にシンプルな一覧があった。項目がリンクになっていて、詳細はその先で見られるようだ。ざっと眺めると、『中央駅の壁』『眠れずの薬』が眼に留まった。福路くんが話していたものだ。あれ? もう一個くらいあったような気がするけど、なんだったか。
 もう一度、上から順に眺めていくと、おや?と思われる項目があった。
 
 『ちいさなもりのおおきなき』の悲劇
 
 奇しくも、久々に昨日耳にした童謡の名前がそこにあった。それにしても、悲劇って一体……? あんなに無邪気な童謡にどんな秘密があるのだろうか。急にドキドキとしてきた。あぁ、これがもしかして都市伝説の魅力ってヤツなのだろうか。福路くんと蒼井さんがハマる気持ちが少し理解できた気がする。
 はやる気持ちを抑えながら、クリックをする。現れたページは次のようなものだった。
 
 今では、多くの人に親しまれている童謡『ちいさなもりのおおきなき』であるが、その歌詞は作者の意図に反し大きく改変されてしまっている。
 本来の歌詞では、〈おおきなき〉は人によって切り倒されて切り株にされてしまう末路となっているのだ。当時、商工業環境と住環境のために山地の整地や干潟の干拓などを国策で行っていた。童謡制作の依頼をした教育機関としては、他の組織との軋轢をなるべく避けるため改変を求めた。
 作者は抵抗を続けたが、様々な工作により、最終的には同意をさせられた。
 
 同じページ内に、その本来の歌詞が載っていたが、長さも内容も確かに僕がこれまで歌っていたものとは違う箇所が目立つ。
 元々、わらべ歌や童謡は物悲しいメロディーのものが多い。『とおりゃんせ』『かごめかごめ』などがいい例だろう。昔の子供達はよくこんな歌を歌っていたものだと感心する。
 『花いちもんめ』『めだかの学校』『しゃぼん玉』などメロディーが明るめの歌でも、少し見方を変えて歌詞を読んだとき、背筋に寒いものを感じるものもある。童謡は、物心ついたときには、記憶の奥深くに刷り込まれているものだ。それが実は全く異質のものだったという恐怖心。例えば、化け物から追われて安全な建物の中に逃げ込んだのに、その中には別の化け物が既に潜んでいたような感覚だろうか。
 この『ちいさなもりのおおきなき』の話は後者の方に近い感覚だ。
 まぁしかし、都市伝説は都市伝説。裏づけが得られないからこそ、伝説であり噂どまりなのだ。
 僕は次のページ、『中央駅の壁』をクリックした。こちらは、文字よりも画像が多いページだった。その画像を見てあっとなる。
 この中央駅というのは、隣町の中央駅のことだったのか。全国区であろう童謡の話と同じレベルでページが作られていたから、少し虚を突かれてしまった。
 先程、ヒット数が32件程度だったのもこの都市伝説がローカル過ぎるためだったのか。
 内容はというと、A3出口の近くの壁が僅かに周囲の色と違うのだという。これが、工事中に起きた事故を隠蔽するためだとか、隠し部屋があるだとかいう伝説となっているらしい。記憶にはあまりないが、実際に掲載されている画像を見る限りでは確かに異なっていた。今度、駅に行ったときに見てみるかな。
 トップページに戻り、なんとなしにページの右上を見ると「By 29652」とあった。最初はアクセスカウンターかなにかかと思っていたけれど。
 
 ふくろこーじ = 29652 ?
 
 もしかしてこれは、福路くんのページなのか? 思い返してみると、文体とかセンスが福路くんぽい感じがしてくる。
 と、そのときテレビの方から「みなさんこんばんは! 今週も張り切ってまいりましょう。芸能界、スポーツ伝説!」という音声が聞こえてきた。午後8時ちょうどになったようだ。
 食器洗いを済ませたらしい母がエプロンを外して、リビングにやってきた。手にはピーナッツ入りの容器を持っている。母の大好物だ。これから、テレビ番組を見ながら食べるつもりだろう。
 父はいつものようにシステム手帳のリフィルの整理を黙々としている。傍から見たら、何が面白いのか分からないが、本人いわく『趣味の情報整理をしている』らしい。
 テレビ画面の中では、新進気鋭の芸人が池に浮かべられたビート版を走り抜けるといった競技を行っていた。踏んだビート版が沈む前に、次のビート版に進みと繰り返していくわけだ。一見すると非常に単純明快、簡単そうな競技だが、チャレンジャーは次々に失敗して池に落ちていく。
 動かなければ、沈んでしまうと思って動いた。しかし、動いた結果僕は沈んでしまった。
 母は、僕の様子に気付くはずもなく、時々笑い声を上げながらピーナッツを頬張っている。
 僕はというと、笑い声を上げるような気持ちには全然なれなかった。いつも楽しみにしている番組なのにな……。
 きっと気持ちの中に、しょっぱいものが混じってしまったせいだろう。まさしくこれが本当の沸点上昇だ。
 番組がCMに突入しても、母と僕はそれぞれ画面を向いたままでテーブルの腰掛けていた。
 「女の子の心って、どうしたらを掴めるんだろうなー」
 答えを特に期待していたわけではなかったが、気持ちを紛らわすためだけにそんなことを聞いてみた。
 「そうねぇ……。『君がいないと、僕の人生は暗黒物質だ』とか訳の分からないことを言ってみるとか?」
 なんだそりゃ、と思うのと同時に、父がばつの悪い表情を浮かべながら「さて、風呂の湯加減でも見てくるか」とリビングを出て行く。
 そういうことか。わざとらしい物言いに思わず苦笑する。我が家の風呂の水温は自動調整式のはずだ。
 「お母さん、こう見えて、可愛くて頭良くて、運動神経も良くて、人脈も広くて、そりゃもう超絶女子だったのよ?」
 「……へいへい。それがなんでまた、あんな父と一緒になったのか、お聞かせ願おうか?」
 「いいわよ。あれは大学1年の頃……」
 あっさりと応じられて、少し戸惑う。しかし、今まであれこれ突付いても飄々とかわされてきた両親の馴れ初めの話だ。興味がないといえば嘘になるし、今は気を紛らわすことになると思って、静かに耳を傾けていることにした。

 僕の母、いのりは大学入学直後、学部の新歓コンパに参加していた。
 新入生歓迎とはあくまで名目上のことで、その実態は新入生を上級生が酒で酔い潰させるという悪習であった。当時は今ほど娯楽が多いわけでもなかったし、「自分達がされたから、俺達もやる」そういう悪循環が格好悪いと思われていない時代でもあった。
 いのりは予行演習として、事前に酒を少し飲んでみた。その結果、ある程度飲める体質であることを知っていた。
 下級生全てが酔いつぶれてしまったら後始末も大変であり、派手にやりすぎると大学側としても黙認してくれない面があり、上級生から狙われる人数はある程度の人数に限られていた。
 逆に、最後まで生き残った新入生は『ツワモノ』としてその後一目置かれることにもなる。いのりは上級生に促されるまま、ひたすら飲んだ。
 しかし、飲める体質といっても当然限界はあるし、本当にザルのような酒豪も世の中には存在する。
 酒の恐ろしいところは、『自分が酔っている』と判断する部分でさえ麻痺させられてしまうことだ。とりわけ、大勢の人と一緒に飲むときは自分のペースが乱れてしまうため、この現象も現れやすい。
 この時のいのりも例外ではなかった。知らず知らずのうちに、身体は傾き始め、眼はとろんとし始めていた。
 「ウーロンハイのひとー?」
 「あ、はい!」
 自分の頼んだ飲みものを呼ぶ声が聞こえたので、いのりは応じた。
 手を上げたいのりの手元に、すっとグラスが置かれる。
 「ほら、おかわりがきたよ! いのりちゃん、ぐっといって! ぐっと!」
 「は、はい」
 脇にいた体格のいい角刈りの大男が促すのに併せて、一口飲む。
 (ん? あれ、これ……?)
 いかに酩酊状態になったからといって、アルコールが入っているか否かくらいの判別はまだ可能であった。
 今飲んだウーロンハイだと思ったものは、ただのウーロン茶だった。
 「ん? どうしたのー?」
 「いえ、美味しいです!」
 「本当に強いなー。オレも負けてられないぜ~」
 一体、何が起きたか分からなかったが、変な反応をしてこれ以上飲む量を増やされても面倒だと思い平静を装うことにした。
 一杯とはいえアルコールの入っていない飲み物を飲んだせいか、少し頭と胃の方が落ち着いてきた。次はグレープフルーツサワーを頼んだ。
 しかし、その変な現象は再び起こった。届いたのはグレープフルーツジュースだった。
 (一体、どうして……?)
 いのりは毎回グラスを運んでくるのは同じ男子上級生であることには気づいていた。印象的な腕時計をしていたからだ。
 次に、日本酒のグラスが運ばれてきたとき、いのりはその男の顔を窺った。
 むすっとしたへの字口、服装は野暮ったくて、どう甘く採点をしても女子ウケする第一印象ではない。
 男もいのりの視線に気づいた。
 「……こんなことで、無理すんな」
 いのりにだけ聞こえるギリギリの声量でそれだけ言って、グラスを置いて去っていった。
 いのりは、周りの人が日本酒と呼んでいる、ただの水を飲みながら考えた。一体、あの人は何者なんだろうか、と。
 そのあと間もなく、先程の男子上級生が急性アルコール中毒で倒れたという話が伝わってきた。
 いのりの集団はもとより店内も騒然となった。当然ながら、散会の流れとなりいのりは開放された。
 「ったく、やらかしやがったの、瀬田かよーっ」「酒飲めねぇ奴はコンパくんなよっ」そして、周囲にいた上級生は、ソフトドリンクばかり飲んでいたはずなのに倒れるとは、摩訶不思議・迷惑千万の呆れたやつだと悪態をつきながら店を出て行った。
 いのりは直感した。恐らく、私の飲み物と同じような色の飲み物を注文し、それを交換し続けていたためだろう。
 その後、二人はどちらからともなく近づいて、その末、付き合うことになった。学部内では、あまりに不釣合いな二人に、あらぬ噂を立てられることもあったが卒業まで貫き通したのだった。

 「まぁ。今、総括したみたら、一番かっこよかったのは、結局その時だけだったわね」
 「おいおい」
 「でも、それでいいんだと思う。あの人は私にとってエアバッグみたいな存在なのかもしれないと思うわ。普段はありがたみも特に感じないまま近くにいるだけだけど、本当に困った時には身体を張って守ってくれる。私にはそれが一番大事だったんだろうね。世の中には、『いつも愛していてくれないとイヤだ』って人や『年収が低いと論外』って人も多いけど。今、不幸でないのは事実だし」
 自ら淹れた緑茶を啜りながら、僕の顔をじっと見つめてくる。
 「あんた、振られたでしょ」
 「……あっさり当てるなよ」
 馴れ初め話を語ったのは、親心か。
 「ナナちゃんのときはこんなに落ち込まなかったのに。よほど逃げられた魚が大きかったのね」
 「……」
 「気分をすぐに切り替えることね。他の失敗ごとも同じだけど。世の中の半分は女の子なんだからさ」
 「……残りの半分は競争相手じゃん」
 まぁ、気分をすぐに切り替えるのは間違っていない気がする。過去は変えることができないのだから。認識の方を変えるしかない。
 元から、高嶺の花だったのだ。今まで、お近づきになれていた期間があっただけでもプラスに思わなければ。
 僕、今日無事に寝つけるかな……。

 

 小説『Sum a Summer =総計の夏=』(3/5)に続く

小説『Sum a Summer =総計の夏=』(1/5)

 *****

 

ちいさなもりのまんなかに おおきなきがありました
ひとやおはなやどうぶつが もりにやってくるまえから

きは みまもった いつまでも みまもった
ちかづくことなく はなれることなく

きにはおおきなえだがあり おおきなはっぱもありました
あついなつにはかさになり みんなひるねにきたのです

きは みまもった いつまでも みまもった
わらうこともなく おこることもなく

ちいさなもりのおおきなきは あおぞらにむけのびていき
ひろいだいちをみおろして きょうもしずかにわらってる

きょうもしずかにわら っ て


童謡『ちいさなもりのおおきなき』より

 

 *****

 

第一章 『7月1日(火)』

 

 本日、7月1日。晴天なり。
 6月生まれの人には非常に申し訳ないが、ひとこと言わせてもらおう。6月って、じめじめとして、祝日もない、地獄のような一ヶ月だったよ。
 そんな地獄がついに終わり、僕の心は晴れ渡っていた。
 制服も夏服になり、高校生活初の夏休みも確実に近づいてきていることも理由の一つに間違いはないが、第一番の理由は――
 「期末テスト、終わったー!」
 この一言に集約できよう。
 昨日まで丸々3日かけて行われたテスト期間が終わり、僕だけでなく他の生徒や教師までも言いようの無い開放感に酔いしれていた。
 え? テストの手ごたえ? ……黙秘権を主張します。
 僕が通う大矢高校は、一年間を4つに分ける『四期制』を導入している。
 多くの大学は前期と後期に分かれているし、企業の中には中間と期末だけでなく四半期決算を採用するところが増えてきているのでそのリズム感を高校のうちから身に付けさせようというのだとか。
 また、学校のカリキュラム等も四半期末に見直しや改善を行い、時代に即した教育と学習の機会を得ることができるようだ。
 テスト期間中は多くの部活動が休止状態となる。大矢高校は文武両道を謳っており、赤点は問答無用で補習だ。よって、スポーツ一筋の生徒でもなんとかそれだけは避けようと必死になっていた。
 当然、将棋部も軽音楽部も休止状態だった。
 
 1、2、3、4――2、2、3、4――
 
 ヴォーーーー……
 
 運動部の掛け声や、吹奏楽部の楽器の音など、以前の賑やかな放課後が久々に戻ってきた感じだ。
 部活の解禁日。僕は迷わず、将棋部の部室に行くことを決めていた。目的は一つ! 片思いの相手と逢いたいがためだ。
 高校に入ってから間もないうちに、僕は好みの女の子と出逢った。しかも幸運なことに、部員が二人きり(少し厄介な顧問がいるが……)という状況だ。
 ところが、その女の子――織賀美月とは5月、6月に数度しか逢えていない。
 元々、美月が部活に顔を出すことが珍しいことが一因だ。月に9、10日来るか来ないかという頻度のようだ。法則性は未だに確立されていない。(瀬田桂夜リサーチコーポレーション調べ)
 一方、僕の方はというと、軽音楽部との掛け持ちをしている。音楽は高校から本格的にはじめることになったので、ここまでは軽音楽部7:将棋部3くらいの割合で活動していた。
 さらに、僕がテスト期間直前まで長期スパンで体調を崩してしまい、病欠や早退を何度も繰り返してしまっていた。
 せっかくのチャンス、貴重な2ヶ月を浪費してしまった僕の意気込みがお分かりいただけただろうか。
 しかし、意気込んでいても逢えるとは限らない。特に約束もしているわけでもなし、かといって行かなければ逢う可能性はほぼゼロだ。
 将棋部の部室に向かい、ガラガラとドアを開けるが、中には人はいない。
 (そうそう上手くはいかない、よなぁ)
 こればかりは仕方がないことだ。気長に待つしかない。盤と駒を机の上に置き、僕は椅子に腰掛ける。
 鞄からマイ水筒を取り出して一口飲む。本日は、マテ茶だ。やけにマニアックなのは父のせいである。
 簡単な式で表すと次のようになる。
 
 父が健康志向を主張 + 母は各々作るのが面倒だから二人とも同じもの飲みなさい = 毎日健康茶
 
 最初は「なんだこの苦い汁は!?」と思っていたのに、慣れてくると心が和むようになるのだからニンゲンって恐ろしいよね。
 さて。
 将棋は、基本的に二人でするゲームだ。一人じゃどうしようもない。ここに、将棋部における根本的問題がある、と認識する。
 将棋部的にも僕的にももう一人の部員が足繁く来てくれればこの上ない解決方法であるが。
 当座はパソコンでも導入してみようか、と考えてみる。最近の将棋ソフトはよくできているものが多い。アマチュア強豪レベルならば良い練習相手になるだろう。
 一時期、将棋をやめるきっかけの一つにもなったコンピュータ将棋を導入しようと検討するのだから不思議なものだ。
 ただ、自宅のパソコンを学校に持ってくるわけにも行かないし、携帯端末の処理性能では性能不足だ。
 顧問の泉西先生に学校の備品でパソコンが借りられないか交渉してみるかな。職員室に押しかけようかとも思ったが、今はテストの採点期間なので生徒の入室はNGだ。
 美月とすれ違いになってしまうおそれもあるから、ここは詰将棋でもして待ちの戦略をとることにしよう。

 詰将棋とは、端的に言ってしまえば『将棋の駒を使ったパズル』だ。
 指し将棋と同じく、相手の王将を詰める、というのが目的なのだが、いくつか変わったルールがある。ざっくり言うと次のような感じだ。
 その1、必ず王手を続けること。
 その2、自分は最短で詰めることを目指し、相手はできるだけ最長手数で逃れようとすること。
 その3、盤上に『飾り』のような無駄な駒を配置しないこと。また、持ち駒も余らせないこと。(これはつまり、詰将棋作成者へのルールともいえる。盤上に無駄な駒を配置したり、持ち駒を全て使い切るように作らないといけない)
 中には、週間少年誌のお色気漫画の展開並みに「絶対こんな状況、ありえないから!」と叫びたくなるような問題もあるのだが、それはそれ、ご愛嬌だ。
 ただ、パズルと侮ることはできない。アマチュアは勿論、プロの棋士でも終盤力のトレーニングには詰将棋はもってこいなのだ。
 盤と駒、対戦相手がいなくても本が一冊あればできるし、隙間時間を有効活用することもできる。
 僕は直感で指すことが多いので、緻密な読みが必要となる終盤が相対的に苦手項目といえる。
 (この本もやっと半分まできたか)
 確か、小学4年生くらいの時に親に買ってもらったような気がする。一時期やめていた時に封印していたものを引っ張り出してきたのだ。
 小学6年生の頃に全部解けているだけの実力があったら、あの全国大会で江辻に勝ち、優勝して自分の進路も随分と変わっていたのだろうか。プロ棋士を目指していたりして。
 いやいや、考えてもしかたない空想だ。
 大矢高校に入って、美月とも出逢えて、今は音楽と将棋(とちょっとばかりの勉強)の両立を目指しているところなのだ。
 決して遠回りしているわけじゃない、と考え直す。
 その時――
 ガラガラというドアの開く音と共に「お、いる」と懐かしい声を聞いた。
 手許の本から視線を移すと、そこには期待通りの姿が立っていた。もう一人の将棋部員、織賀美月(夏服バージョン)だ。
 女子の制服は、ブレザーにネクタイだったのが半袖シャツとリボンに変わる。ちなみに、男子は半袖になるだけだ。
 (おぉ……、夏服も……いいなぁ)
 美月は部屋に入ってくると、手近な机にバッグを置いた。
 「センセから聞いたよ。体調もう平気なの?」
 「あぁ、うん。この通り」
 僕は両手を挙げて応じる。
 「……? それ、なに?」
 手に持っている本に気づき僕に尋ねてくる。
 「これ? 詰将棋だよ」
 「爪将棋……?」
 ……うーん、なんだか勘違いされている予感がする。
 よく考えたらこの間まで将棋のルールも知らなかったわけで。知らなくても不思議ではないわけだが。
 物心ついたときから将棋に接してきた人種としては、カルチャーショックではある。
 将棋部員なのに詰将棋を知らないのはさすがにまずかろう、と例によって丁寧に正確に詰将棋というものを教えてあげた。
 さすがに吸収は早かった。本の前半の方の問題を試しに見せてみたところ、あっさりと解いていってしまう。
 「暇つぶしには結構いいと思うよ。この本貸そうか?」
 「常に暇がないから、いらない」
 ……そうですか。これが美月の標準スタイルだと認識済みなので腹も立たなくなってしまった。RPGの装備に『僕の堪忍袋』が登場したら、さぞや守備力が高い設定になっていることだろう。
 「アローハー! 諸君! 元気KAI!?」
 そして、……来たーーーー。
 渋い和服を着込んでいるのに、このヘリウムガスと良い勝負の軽さ。全くついていけない、否、ついていく気になれないノリ。
 大矢高校の現代国語教師であり、非常に残念なことに、この将棋部の顧問である泉西先生だ。愛用の扇子をパタパタと仰ぎながら部室の中にずんずんと入ってくる。
 扇子には〈黙って俺についてこいっ!〉と書かれている。誰がついていくもんですか。
 「ははは、俺のスペシャルな問題はいかがだったかな? まさか、筆者が作品を書いたときの娘の気持ちを問われるとは思わなかっただろう」
 「あんなメタな視点の問題、アリなんですか? 泉西先生も答え分からないでしょ」
 「うん。だから、ちゃーんと文章になってれば全員丸だぜ。問いに対して何にもレスポンスをしないヤツは社会で生きていけないぜ~、という、実は俺からのありがたい処世術伝授問題なのだ!」
 なんだか、相変わらず屁理屈街道爆走しているなぁ。一体、この高校の教師採用基準はどうなっているのだろう。
 「と、俺のすごさをアピールしている場合じゃなかった! 部長よ、総会にお行きなさい!」
 「ぶ、ぶちょ……うですか?」
 「そうだよ。何を言っている、部員はお前達だけだけだろうが。瀬田は将棋だけが取り柄だろう。だから部長手続きをしておいてあげたぞ」
 「だけ、は余計です! って確かに部長はどちらかになりますけど……」
 まぁ、美月は頼みに頼んでも部長をやるようなタイプでもないだろう。致し方ないところだ。
 と、総会って、一体なんだろう。
 見るとニコニコしている泉西先生と眼が合う。
 「総会って、一体なんだろうって顔してるな?」
 「心を読まないでください!」
 泉西先生はどういうわけか、人の心を読むという反則的な特技を持っている。
 「では、丁寧に教えてやろう。まず、物凄い偉い存在が『ヒカリ、アレ!』と申されたところから物語は始まる」
 物凄い偉い存在が何故カタコトだったのか突っ込もうか迷ったが、やぶ蛇と思い「えーと。ものすごく丁寧じゃないのでお願いします……」とだけ返す。
 泉西先生は「生き急いでやがんなー」とぶつぶつ言ったが、とりあえず説明はしてくれた。律儀なことにものすごく簡単に。
 まず、部活は第一部と第二部に分けられているのだという。
 簡単に言ってしまえば、第二部は愛好会(部活もどきのようなもの)で正式な部活ではない。部室も共用室を交代で使用しなければならない。
 対する、第一部は専用部室を与えられ、予算も受けとることができる。その他、秋の学園祭のスペースなどでも優遇も多い。
 総会は、その第一部の全部活の部長が集まり、予算や要望や情報共有を諮る場いうことだった。
 将棋部は近年部員ゼロだったが、顧問である泉西先生が代理で出席していたのだという。泉西先生の暗躍があったのか不明だが第一部に留まり続けていたようだ。
 「俺、これからテストの採点しなきゃいけねーしさ。採点遅れると給料減額なんだよ! てなわけで、ヨロシク頼むぜ部長!」
 そういうと、砂嵐のように教室を後にしてしまった。この手の素早いモンスターは、倒すと経験値がたくさんもらえるのが相場だが、きっと泉西先生を倒しても得られるものは少なさそうだ。
 
 「ここ、かー」
 見上げたプレートには〈大会議室〉と書かれている。
 結局、僕が総会に出るということで、美月は帰宅してしまった。
 せっかく、久々に訪れた逢瀬だったのに……。そういえば、もうすぐで七夕だなあ。
 ドアはきっちり閉まっており、中は伺い知れない。意を決して中に入らなければならないわけだが、ドアを開けた瞬間に上級生の視線が集中したりするのは勘弁だ。
 3年生はきっと互いに見知った顔が多いだろう。そうでなくても今年度の総会は2回目だから、基本的には僕一人だけが『新参者』のはずだ。
 そう思うと、少し心音が高鳴り始めてくる。
 (こういうの、ホント向いてないんだよな……)
 しかし、そんなこといっていたら、音楽ライブなど夢のまた夢ではないか。
 高校に入って、どんどん自分のダメなところを変えて生きたいと思っているんじゃないか。自分自身を騙し騙し奮い立たせる。
 (なるようになれ、だっ!)
 ドアを恐る恐る開けると、中にはまだ数名しかいなかった。心配していた視線も特に突き刺さってこない。
 (あれ? 場所、間違えてはいないよな)
 辺りを見回す。四角に並べられた長机の上を良く見ると、『●●部』といったアクリル板が席ごとに並べられていた。
 場所に間違いはなさそうだが。少し当惑の表情で入口に立ち止まっていると。
 「10分後には始まるよ。みんな時間が惜しいから、いつもギリギリになって一斉に集まって来るんだよ」
 脇にいた女の人が丁寧に教えてくれた。
 と、あれ?
 どこかで会ったことがあるような、ないような。誰かに似ているような、似ていないような……。
 それは相手も同じだった。僕の顔を見て、何か記憶の糸を手繰り寄せているようだ。
 「あ。キミ、もしかして瀬田くん?」
 「えっ、あっ、そ、そうですけど……?」
 不意を突かれ、戸惑ってしまった。まさか、三年生の女の先輩に名前を知られているとは思わなかった。
 良い噂なのやら、悪い噂なのやら。
 そして、今度は僕の記憶と推理の糸に手ごたえが合った。
 「あっ、勝田くんの、お姉……さん? ……ですか?」
 「ピンポーン!」
 改めてよく見てみると、キリリと締まった面持ちやスポーティな体格は勝田くんの持つ雰囲気とよく似ていた。
 ちらっと机上を伺うと、『女子バスケ部』とあった。なるほど、スポーツ一家だなぁ。
 「ダイから将棋部の瀬田くんの話は聞いてたんだよ。で、今回二回目であるはずの総会で挙動不審アンド一番上のボタンまできっちり閉めた男の子とくれば……ね。うちの推理もなかなかのもんでしょ!」
 「あ……、はっ、はい。そうですねっ!」
 「ダイがべたほめでさ。あいつ、この間の件で小遣いアップしてもらって、本当うらやましいわー」
 この間の件――勝田くんのおじいさんがお父さんに出したメッセージのことだ――で小遣いアップできたのかぁ。それは、僕としても羨ましい限りの話だ。
 勝田くんのお姉さん、勝田ルイ先輩はとてもハキハキした人だった。大矢高校の話、勝田家の話、とめどなく話をしてくれる。
 基本的に相槌だけ打っていたのだが、そのおかげで先程までの緊張は自然と解けていった。
 突然、ルイ先輩はふと何かを思い出したように「ちょっと、試させてもらっていいかな?」と言ってきた。
 「試す、ですか?」
 「そうそう。あ、難しく考えなくてもいいの。ちょっとしたクイズみたいなもんだから。もしいい答えができたら……あとで『ごほうび』あげる」
 「クイズ……?」
 クイズというより、正直なところ、その後の『ごほうび』のほうが気になるのだが。さっきまでは気にしていなかった、ルイ先輩の艶やかな唇がとたんに気になってくる。
 バカ、そんなはずないだろ! 冷静になれ。十秒……二十秒……一、ニ、三……。って『秒読み』じゃ逆に焦ってしまうじゃないか!
 ルイ先輩はそんなカオスな心境になど気づくことなく(気づいてくれないほうがありがたい)話を続ける。
 「うちの家の前って自動販売機があるんだけど、ちょっと妙なことが起きたんだよね」
 確かに、勝田くんの実家の前には自動販売機が置いてある。ビールとかタバコではなく普通の飲料系だった気がする。
 ルイ先輩の話を要約するとこうだ。
 
 ・飲料の値段は全て100円。
 ・それなのに、毎週の回収時に調べてみると、10円が50枚近く入っている。
 
 「これ、実はもう答えが分かっていてね。聞いたら、なーんだな感じなんだけど。どういうことだったか分かるかな?」
 これがクイズの問題、というわけか。
 10円が50枚ということは、飲料5本分だ。一週間に、5人くらいは全て10円玉で買っていく人がいてもおかしくない気もするけど……。
 しかし、ここで問題を出してくる以上、普通の答えではないのは確実だろう。
 「すみません、質問はありですか?」
 「そうだねぇ。じゃ、3回までオッケーとしよう」
 3回か、それでも随分とありがたい。慎重に使いたいところだけど、まずはこれは聞いておきたい。
 「その10円玉って、製造年はバラバラでしたか?」
 「ふむ! なかなか、いい質問だね。製造年はバラバラだったよ」
 もし、製造年が全て同じだったのならば、『お釣り用に銀行でもらった硬貨の棒を蔵出しにした』とかかと思ったけど。
 ジュースは売れていたのだろうか。ジュースが買われずに、自販機の硬貨だけが入れ替わっていたとしたら、偽造硬貨を入れ替えてたなんて話もあり得るかも。
 あとは、貯金箱に貯めていた10円を一気に大放出した人がいた、とかだけど、10円玉を飲料を買うことだけに使い続けるだろうか。
 「もしかして……学生、細かく言うなら小学生が20円ずつ出し合ってジュースを買っていたとか……? あれ!?」
 気づいたらそう口にしていた。それには自分自身が一番驚く。質問のチャンスがあと2回残っているというのに、勝手に〈跳躍(リープ)〉してきた考えを言語化してしまっていたのだから。
 次に声を発する時は『質問その2』が来る、と構えていたのか、ルイ先輩もきょとんとした表情を浮かべていた。しかし、すぐに「続けてみて」とだけ返してきた。これは後に退けない雰囲気だ。
 僕は、まだ固体になっていなかった気体のような自分の考えを少しずつ言葉にしていった。
 まず、50枚の内訳を10枚×5日と仮定すると、『平日のみ』購入されると推測できそうだ。
 とすると、そこを通る学生か会社員かが怪しいが、一人で10円を毎日10枚も入れ続けるとすると奇妙すぎる。
 複数人が10円を10枚分用意していたならばまだ現実的と考えられる。そう、10人が10円ずつ出し合うならば現実的だし、毎日続けることも可能だろう。
 さらに、10円を恒常的に持っていそうな――例えば小遣いとして10円玉を毎日持っていそうな――年齢層は小学生ではないだろうか。
 10円で缶の10分の1だけを買うことはできない。しかし、一旦買った後、飲料を10等分に配分しなおすのならばその希望は叶う。
 あとは、10人で10円ずつか、5人で20円ずつかということだけど、登下校のグループとするならば5人の方が妥当そうに思えた。
 「驚いた……。ほぼ正解だね。てか、あの内容だけでこんなにすぐ筋の通った推理ができるなんて、上等上等。気に入ったよ!」
 ルイ先輩の補足によると、小学生の人数は5人で、買った後は山分けするのではなくジャンケンをして勝った人だけが1缶分飲める仕組みだったらしい。最近の小学生はなんとも競争心旺盛なことだ。
 それはそうと。気になるのは、『ごほうび』だが……。
 見ると、ルイ先輩はずいぶん満足したようで、僕の背中をバシバシ叩いたり、大きく頷いたりしている。
 「よし、約束どおり『ごほうび』あげるよ」
 言うなり、ルイ先輩が顔を僕のほうにすっと近づけてくる。
 おおっ。ニーチェさん、違います。神はまだ生きてます!
 いや、しかし僕には美月という想い人がいるというのに許されるのか。片思いじゃないのかという指摘は却下します。そう、カレーは好きだけど毎日食べていたらありがたみが薄れちゃうでしょう? 人間、ハヤシライスが食べたいときもある。ハヤシライスを食べることでカレーの美味しさが再認識できるというか。比較が大事なんです。人生でカレーしか食べたことがない人は本当の意味で「カレーが一番」と認識できないのです!
 心の中で、小さな僕が美月の写真を握り締めている僕の群集に向かって大いなる力説をしている。ルイ先輩の顔はなおも近づいて……。
 すっと、僕の左耳の脇にそれた。そこで、「……味方してあげるから」小声でそういった。
 (えっ、ど……)
 どういうことですか、と声にしようとして周りの様子に気づく。推理と話に夢中になっていて気づかなかったが、既に議長席を含めたほぼ全ての椅子が埋まっていた。
 「そろそろはじめます」
 そんな声が聞こえたので、とりあえず「ありがとうございます」と返した。ルイ先輩の真意が分からぬまま、『将棋部』の席に急いだ。
 
 「定刻になりましたので、第二四半期の部活動総会を始めさせて頂きます。生徒会、副会長の辰野です。本日、司会兼議長を務めさせて頂きます。
  まず、奥地生徒会長よりご挨拶をお願いいたします」
 辰野副会長に促されると、制服の一番上のボタンもきっちりと締め、高校生としては異色の七三分けをしている男子生徒が一同に礼をした。
 「生徒会長の奥地です。皆さん、本日はお忙しいところご足労感謝いたします」
 あれが有名な奥地先輩か……。
 見た目はあまりイケていないが、常に学年3位以内をキープする秀才だ。将来は父親と同じ弁護士になるのが目標で、それも難しくないのではないかと評判される秀才だ。
 「本日は第二四半期の始まりに伴い、各部への報告および挙げられた要望に対する議論をさせていただきたく。まずはお手元のアジェンダをご覧願います」
 手元のレジュメは次のように書かれていた。
 
 1.生徒会からの連絡事項
 2.各部からの活動報告・要望等
 3.次回開催日について
 
 (2の活動報告ってなんだろう……)
 まさか、この大勢の3年生の前で何か話をしなければならないのだろうか。そう思うと、少し手のひらに汗が出てきた気がする。先生、聞いてないすよ!
 「まず、『生徒会からの連絡事項』です」
 奥地先輩の話が淡々と続く。
 「今月は防犯強化月間です。各部、活動終了時間の厳守、および活動後の施設施錠を徹底願います。また、今月下旬から夏期休暇が始まります。遠征等で追加の部費申請が必要となった部は本日の資料に添付した申請書に記入し、逐次申請するようお願いします。生徒会にて、学務経理課に仲介いたします……」
 内容はいたってシンプルなことばかりであった。となると、先程ルイ先輩が言っていた『味方したげる』とは一体何を意味しているのだろう……?
 「……連絡事項は以上です。続きまして、各部からの活動報告・要望等をお願いします。まず、男子陸上部からどうぞ」
 奥地生徒会長に促され、色黒短髪の非常に体格がいい男が返事をする。
 「男子陸上部です。春季大会にて、3名が地域予選を突破、うち1名が――」
 はぁ……、さすがというかなんというか。大会でしっかり結果を出しているのだ。
 「要望は特にございません。以上」
 うーむ、この分で行くと僕も将棋部部長としてなにか発言をしなければならないのか。段々気が重くなってきた。

 そして、ついに発言の番が巡ってきた。
 「しょ、将棋部です……。えーと、その」
 視線が一斉に注がれる。耳たぶや目頭が熱くなっていくのを感じる。1対1ならば知らない人とでもそれほど緊張せずに話せるのだが、大勢相手だとどうにも不得手だ。
 「活動は……部員が集まりましたので、始めはじめたところです。あー、……えーと。た、大会は夏休みに、個人戦に参加する予定でございます――」
 なんとか話しきった……。こんな緊張はいつ以来だろう。あ、美月の走っているのを見て叫んでしまった英語の授業中か。じゃあ、意外に最近だったか。
 椅子に腰掛けて、隣の囲碁部部長が話し始めるとやっと終わったという実感に包まれた。発言が終わってしまえばなんということはなかった。あとは、聞きに徹するだけでよさそうだ。他の部長はさすがにみな慣れた様子で報告をしていき、最後の部長までつつがなく終わった。
 「第一部の活動報告は以上ですね。……では次に要望等ですが、まず第二部の白物家電研究部から昇格申請があがっております」
 白物家電? 洗濯機とか冷蔵庫とかのことだよな……。高校生が何をやってるんだか。思わず苦笑する。
 「……そこで、近年の実績を踏まえて将棋部を降格として入れ替える起案をいたします」
 浮かべていた苦笑が、そのままフリーズする。
 (……えっ?)
 今、降格とか聞こえたような、気がするけれど。降格ってことは、第二部になるってことで、部室が使えなくなる? 部活はどこでやればいいんだ? 美月とはどこで会えばいいんだ?
 目の前が放送終了後の番組の砂嵐のようになって、周りの声は膜を通しているように遠く感じる。母に聞いた、貧血の症状に近いような気がする。
 落ち着け、落ち着け、落ち着け。
 まずは色々と質問をして、状況の把握をしないと抗弁だってできやしない。それにしたって唐突過ぎじゃないか? なんで、こんな大勢の前で、逃げ場のないようなところで言い出すんだ?
 落ち着け、落ち着け、落ち着け。
 でも、貧血のような症状は治まらない。頭が全然働かない。あの、時間切れで負けた江辻との一戦の後のように――。
 (僕、全然成長してないじゃないか……)
 そう思うと、情けなくて。なんだか目頭が熱くなってきた。って、高校生にもなって人前で泣いてしまうのか僕は……? それだけはまずいだろう。学校中の笑いものだ。誰か、僕を助けて――
 そのときだった。
 「すみません、ちょっと発言よろしいでしょうか」
 静かな会議室に凛とした声が響いた。その声に、症状が幾分和らいだ。声した方向には手を挙げているルイ先輩がいた。
 そして、視界に入っている全ての部長達はみな、拍手の直前ギリギリで手が止まっていた。ルイ先輩の発言が一瞬遅かったら、満場の拍手で掻き消えていたかもしれない。
 「……女子バスケ部部長、発言を認めます。どうぞ」
 「はい。将棋部については経緯をご存じない方々が多いと思いますので、代わりに補足しておこうかと思います。将棋部は4月まで部員が居ませんでした。そこに、元全国3位の期待の新入生が入ったわけです。それが彼です」
 ルイ先輩が、僕のほうに手を向ける。それに誘導されて、会場全員の視線が僕に注がれる。
 視線のやり場に困ってつい下を向いてしまったが、僅かに感じた。今まで、好奇の目で見られていた視線の中に「ほう?」という色が混じっていたことを。
 ルイ先輩はなおも話を続ける。
 「我々運動部と違い、将棋の大会はそう頻繁にあるものではありません。もう少し、せめて半年、実績ができるチャンスを待つことはできないでしょうか」
 先程の『味方したげる』の意味を理解すると共に、胸が熱くなるのを感じた。
 しかし、奥地会長はあからさまに眉根に皺を寄せ、唸る。「……難しいですね」半ば演技が入っている風情に見えた。
 「将棋部なりの事情があることは一理ありそうですが、白物家電研究部のあげた実績に着目すると第一部への昇格には問題がありません。すると、半年の猶予は長すぎるように思えます。生徒会則にも『第一部と第二部の入れ替えについては、公正かつ柔軟に対応すべし』とあります。仮に、将棋部が第一部に相応しいとアピールしたいのであれば、白物家電研究部と同じく第二部の状態で実績をあげて、再度の昇格申請をするべきである。これが生徒会の見解です」
 万が一の論駁に備えてきたであろう、朗々とした声が部屋に響き渡った。裁判の判決を受ける人の気持ちって、こんななのかな。まるで他人事のようにと感じられた。
 「他に意見はありませんか?」
 ルイ先輩と僅かに目が合う。その眼は「力が及ばなくてゴメン」と語っているようだった。僕は、「そんなことありません、十分うれしかったっす」という表情を返す。
 青天の霹靂でまだ気持ちの整理がついていないが、きっとなんとかなるだろう。夏の大会への意気込みがむしろ高まりそうだ。大きく一つ深呼吸する。
 「発言、よろしいですか?」
 議決を唱えようとしたところに、再び声が投げ掛けられた。
 「……軽音楽部部長、発言を認めます。どうぞ」
 奥地会長は露骨ではないもの不快な様子をわずかに浮かべたが、辰野副会長は表情を変えず淡々と応じた。
 声の主は、周りの3年生と比べても一際小柄な男子生徒だった。
 そして、その男子生徒の卓上には『軽音楽部』のプレート……って、あんな先輩、いただろうか……? 掛け持ちしている僕が言うのもなんだけど。非常に失礼な話だが、正直、印象が全然ない。
 何より気になるのは発言内容だ。果たして、敵なのか味方なのか?
 「将棋部が降格の候補となった理由はなんでしょうか?」
 奥地会長の眉がピクリと動いた。軽音楽部部長の質問を、生徒会を詰問する内容と捉えたような表情だ。
 「周知の事実かと思われますが。第一部の中で、唯一最低要件を満たしていないからです」
 奥地会長は言外に質問に価値がないという皮肉を込めて切り返す。しかし、軽音楽部部長は全く動じた様子はない。
 「白物家電研究部の実績とはどういったものですか?」
 「大きく2点。5月の全国大会準優勝、運営しているウェヴサイトの閲覧数が一日あたり約2万件、です」
 「全国大会の出場校数、それとウェヴサイトのユニークユーザーの数はいかほどでしょうか?」
 「出場校数は5校。ユニークユーザーは約4000人と聞いております」
 僕も含めて、周りの部長達は二人のやりとりを固唾を飲んで見守っている。というより、見守るしかない雰囲気だ。
 軽音楽部部長は「ふーむ、なるほど確かに悪くない実績かもしれませんねぇ」と小さく呟いている。奥地先輩も面倒な事態が収束したと断じ、構えを解こうとしたところで、軽音楽部部長は追撃した。
 「質問を変えます。白物家電研究部からその申請があがったのはいつ頃の話でしょうか?」
 「……5月26日、16時47分28秒。生徒会室にて、白物家電研究部部長から生徒会会長に様式『生ブ管-37』の記入済み書面を手渡しにて申請を受け付けました。……その他にご質問は?」
 奥地会長はトドメと言わんばかりに細かな情報を提示した。弁護士の卵に弁論で勝負を挑むのは無謀なのだ。それでも、部長には後でお礼を言いにいこう。嬉しかったのは事実なのだから。
 しかし、軽音楽部部長は一瞬考えたあと、こう続けた。
 「その頃であればテスト期間にも入っていませんね。臨時総会を開かずに、本日まで起案をされなかったのは何故でしょうか?」
 その発言内容に、奥地会長はいち早く渋面を浮かべる。
 「白物家電研究部の申請を今日の定例総会で起案したということは、不急と捉えられた訳ですよね。今回、将棋部自体にも事前の通達がされていらっしゃらかったわけですから、対応や決定は同様に、早くとも次の定例総会――10月以降で十分かと思われますが」
 そこまで聞いて、僕にも意味が理解できた。だが、よく聞けば詭弁の類だ。うわさに聞く奥地会長もこのくらいで折れる性格ではないだろう。
 早速、論破のため声を発しようとしたが、それは室内に突如鳴り響いた拍手に阻まれた。
 再び、ルイ先輩だ。
 それに同調して、他の部長までもパラパラと拍手をし始める。先程までの論戦を見て、この場を早く収束させるのを望む者が大多数だということの証左だった。我々は早く部活に戻りたいんだというオーラも感じる。
 また、先延ばしになる間、当事者間で問題が解決する可能性もありうるという目論見もそれなりにあるのだろう。当事者たる僕も、先延ばしは大いにありがたいので、少し遠慮がちに手を叩いてみた。
 奥地先輩は歯を食いしばり、手短に「……異論はありません」と引き下がり、手短に次会開催日を通達するとあっさりと散会を表明した。
 
 教室から人が次々に出て行く。彼らにとっては、将棋部の浮沈も所詮は対岸の火事だろうし、早く部活に戻りたい気持ちでいっぱいなのだろう。
 奥地会長も足早に去っていった。
 残ったのは、机上のアクリル板を片付ける生徒会の面々を除くとルイ先輩、軽音楽部部長と僕だけになった。
 「ルイ先輩、部長さん。さきほどはありがとうございました」
 二人に向かって、丁寧に頭を下げる。
 「さっき約束したしねぇ」ルイ先輩は片目でウィンクをする。
 「でも結局、時間稼ぎにしかならなかったのは力不足だったな」
 「そんな……。即刻、部室返上に比べたら全然ありがたいです」
 そして、軽音楽部部長に向き直り頭をぺこりと下げる。
 「いやいや。礼には及ばないよ。奥地も今まではあんな無茶苦茶を言い出す奴じゃなかったんだけどな。父親にアピールする実績が欲しかったんだろうけど」
 現役弁護士を父親に持つ、というのはどれほどのプレッシャーなのだろう。頭に浮かべても全く想像ができない世界だ。だからといって、将棋部の降格を容認するつもりにはなれないが……。
 「なんといっても、ルイが庇うとなれば僕が力にならないわけにはいかないしね」
 そういって、ルイ先輩の肩の上に気軽にぽんと手を置く部長。うーむ。なるほど、二人は恋人同士だったというわけか。
 「この人、細かいところ突いてくるの、ほーんとにやらしいんだよ? っ……そういえば、この間、映画見終わったときも~」
 ルイ先輩が、何やら思い出し怒りをはじめそうになったので、部長は慌てて話題を変えようとする。
 「ははは。それに、爺さんの金庫の件ではお世話になったしね」
 「ん……え、えぇっ!?」
 お爺さんの金庫、ってまさか。そういわれてみれば、面影があるといえばあるというか。なんだか、こういうのって将棋倒しのように続くもんだなぁ。
 「自己紹介したことなかったっけか? 琴羽野主税。琴羽野彩の兄だよ。今後ともよろしくね、瀬田くん」

 大会議室を後にして、よろよろと部室に向かう。呼吸こそ苦しくはないが、足取りはマラソン大会で走り終わった後の重さに近いものがある。
 部室に着くと、がらんとした室内がいつもより暗く、広く感じた。部屋に入るとすぐ、後ろ手にドアを閉めていた。自分自身と、この将棋部に迫りくる脅威をシャットアウトしたい思いが強かったのかもしれない。
 とりあえず、諸先輩方のおかげで、10月までの3ヶ月という執行猶予期間が設けられた。しかし、何も対策を講じないでいたら、秋には今度こそ降格が確定してしまうことだろう。
 やはり、一人では心許ない。明日以降で美月にも相談してみよう。ドライな面が多い美月だが、とても頼りがいがある。少し、本当に少しだが、せめてこの困難にかこつけて一緒にいる時間を増やしてしまおうという下心も無いわけではない。少しだから許してほしいところだ。
 泉西先生にも相談してみるべきだろうか……。非常に悩ましい問題だが、採点期間が済んだらきっと黙っていても押しかけてくるだろう。また、読心術を持っている以上、こちらがいつまでも隠し続けることも不可能だろう。よし、腹をくくって、相談しよう。
 少しずつ頭の中が整理されてきた。さて、今はどうする? 今日、その二人に会える可能性は相当低いわけだが……。
 「帰るか」まずは落ち着いて、現状を整理するべきだと判断する。それには、自宅の方が最適だ。
 盤と駒を手に取り、片付けようとしたところ、ドアの方に人影を感じた。
 一瞬、美月が戻ってきてくれたのかと期待したがそうではなかった。僕は、努めてがっかりした表情を出さないように気をつけた。
 「あ、琴羽野さん」
 「お久し振り」
 奇遇なことに、現れたのはつい先程会った先輩の妹である琴羽野彩さんだった。彼女は1年2組、クラスは違うが、以前彼女のお爺さんの金庫の暗証番号を推理したときから知り合いになった。
 アヒル口というのか、猫口というのか、口角が上がった表情であることに今日なんとなく気づいた。女の子と話をするのに慣れ、観察する余裕がでてきたためか、それとも、顔なじみになり琴羽野さんが心を許してくれたためなのか。美少女というほどではないのだが、愛嬌がある顔や仕草の持ち主である。
 「お兄ちゃんから聞いたよ。なんだか、部活が大変なことになってるって……」
 「え、あー……。うん」
 情報が早いな、と驚く。高校生くらいになると、学校で兄弟姉妹と一緒に話すのはなかなか気恥ずかしいと聞くのだけど。メールなどでやりとりしてたのだろうか。この分だと、勝田くんもこの件を知っていたりするかもしれない。
 将棋部関連の話がくると思い込んでいたが、そうではなかった。
 「こんな時に相談なんて迷惑だとは思ってるんだけど……これ」
 そういうと、カバンから静かに封筒を取り出し始める。
 心臓が一瞬、きゅう……と締め付けられたようになる。
 二人きりの時、女の子から渡される紙封筒といったら。
 ラブレター……じゃないのか?
 僕は、ぼーっとする頭で紙封筒を受け取った。
 「開いてみて?」
 「う……うん」
 こういうのって、普通渡したら恥ずかしそうにしてサーッて帰っていくものじゃないのだろうか? 目の前で読ませるとは、琴羽野さんの度胸は見かけによらず強烈なようだ。いや、この展開は、逆に僕のほうが恥ずかしくないか? 琴羽野さんは僕が読み始めるのを、散歩をせがむ犬のように見つめている。
 ううむ……、ここで変に抗うわけにもいかない。
 封筒には特にシールや糊付けはされていなかった。おや、と少し違和感を持った。まぁ、最初からその場で開けてもらうつもりだったなら、逆にそういう加工は煩雑と判断したのかもしれないなと思い直す。
 言われるとおりに、封筒を開いてみると……。
 「ん!? な、何これ?」
 中から出てきたのは少しサビの浮き始めた長方形の金属板だった。幅は手のひらくらいで、長さは5cmくらいだろうか。表面には凹凸がバラバラに穿たれている。
 切断面や金属板の質からして、市販の製品というよりは素人が加工したもののような印象だ。
 視線を上げると、琴羽野さんがカバンから似たような封筒を何枚も取り出しているのが見えた。
 「全部で8枚あるの。これ、あの金庫から出てきた通帳とか印鑑とかに混じって入っていたの。他にも、歯の少ない櫛とか、ヒビの入った手鏡とか、ゼンマイ仕掛けの車とか、価値があるのか良く分からない思い出の品っぽいものはあったんだけど……」
 確かに、金庫に入っていたラインナップの中では、ずば抜けて意味不明な一品といえそうだ。せめて、説明文とか添えられていればよかったのだろうけど。逝くときがあらかじめ分かるニンゲンは限られているだろう。確か、琴羽野さんは病床に臥せっている期間があったはずだったが……。そういった準備をしてしまうと、身体が死を受け入れてしまうと考えて敢えて避けたのかもしれない。
 8枚全てを一枚一枚丁寧に観察してみた。長さや、凹凸の具合はバラバラのように見える。物差しで計ってみたら、横幅は12cm、長さは一番短いもので6.4cm、一番長いもので25.6cmあった。
 「おじいさんって、何かものづくりをする趣味とかあったの?」
 琴羽野さんはかぶりを振る。家にはそういうことができる工具さえないという。
 「あ、でも戦後の一時期、板金工場で働いていたことがあった、って話をしてくれたような気がする……かも」
 「戦後……かぁ」
 それは随分と昔の話だ。戦後であれば、軍事機密的なものではなさそうだ。我ながら、妙なところで安堵してしまう。
 「今回のはね、全然急ぎじゃないの。だから、将棋部が落ち着いてからでもいいから、この金属板がなんなのか、考えてみてもらいたいの」
 今、いくつも頭を悩ませることが積み重なり始めていることは事実だ。とはいえ、人の助けを無碍に拒むほどはまだ追い詰められてはいないと思っている。
 
 ――優れたアイディアも、全て既存の組み合わせにすぎない――
 
 何かの拍子に聞いたことのある言葉だ。消しゴム付きの鉛筆も、カツカレーも、最新の電化製品でも。元をたどると、小さな足し算の合計といえる。
 物質的なもの以外――学問、技術、芸術といったもの――もきっとそうだろう。事実、春先に僕が様々な問題を解いていったときもそうだった。
 僕が了承すると、琴羽野さんは嬉しそうに笑った。うん、女の子の笑顔はいいな、癒される。って、別に誰かさんを非難してるわけじゃないですけどっ!
 とりあえず、一枚一枚を携帯端末のカメラで撮影していくことにした。大きさにも意味あるかもしれないので、画像の縮尺が一定になるように気をつけた。
 古ぼけて価値がなさそうに見えるとはいえ、少なくとも、この世に2つとなさそうなものだ。預かるわけにはいかない。実物は持ち帰ってもらうことにした。
 さて、一体これはなんなのだろう。謎が解ける日はやってくるのだろうか。
 「そういえば、瀬田くん、〈ラフテイカー〉って知ってる? 孤独に泣いている子供のすぐ傍にすうっと現われて、笑顔にさせてしまうすごいヤツみたいなんだけど……」
 依頼が引き受けてもらえたことで安堵したのか、琴羽野さんは他愛のない話を繰り出してくる。
 無邪気な笑顔を浮かべる琴羽野さんに僕も付き合いの笑顔を向けてはいるものの、内心ではこの件を含めた大小のはてなマークがぐるぐると旋回していて落ち着かない気持ちだった。
 時間制限がないことは随分と気楽ではある。焦らず焦らず。家に帰って、腹を満たして、風呂でくつろいで、将棋部の対策と一緒に少し考え始めてみることにしよう。
 琴羽野さんと別れの挨拶を済ませ、備品を片付けて、僕は家路を急ぐことにした。

 途中、歌を歌いながらバスに乗り込む小さな園児達とすれ違った。
 「「ちーさなもりのまんなかにー、おーきなきがありましたー♪」」
 一瞬、ドキッとしてしまった。随分と懐かしい童謡だ。この童謡を聴いて動揺してしまうのは、幼稚園時代の初恋の相手、ナナちゃんのことを思い出してしまうからだろう。

 ――人やお花や動物が、森にやってくる前から。
 
 小さい頃に繰り返し聞かされるためか、久し振りのはずなのにすらすらと続きが頭に再生された。他にも、「赤とんぼ」や「しゃぼん玉」などもすぐに再生できる。
 もしかして、幼少時代に効率の良い詰め込み教育――例えば、歌や語呂合わせで憶えるとか――をすれば、より優秀な学生が増えるんじゃないだろうか。勉強が面白くない、という学生が多いこと自体、教育カリキュラムの失敗といえないか。
 あ、でも、優秀な学生が増えたら相対的に今以上に頑張りが必要になってしまうかもしれないな。うーん、悩ましいな。
 あれ、僕、何で悩んでいたんだっけ……。まぁ、そのうち思い出すだろう。
 
 家に着くと、ツンとすっぱい匂いがした。これは!
 靴を脱ぎ、廊下を足早に進み、台所に顔を出す。
 「もしかして今日寿司?」
 「そうよー」母は手に団扇を持ち、手許の酢飯を仰いでいた。
 寿司は大好物だ。え? カレーが大好物じゃなかったかって? カレーも好きだよ。でも、寿司も好きなんだよ。別にいいじゃん。
 僕の帰宅に気づき、父も台所に現れる。
 「砂漠じゃないが、捌くか……」
 ボソッとくだらない父ギャグを呟くと、冷蔵庫から切り身をいくつか取り出し始める。
 普段、料理など絶対にしない男だが、魚をさばくときだけは必ず登場する。しかし、その腕前はただのサラリーマンとは思えないほどのものを持っている。以前、薄切りにされていた透明のものがマグロの赤身だと気づかなかったときがある。
 昔は荒れ狂う海原を駆け巡っていた、などと折に触れて本人は嘯いているが、腕の細さを見る限り真偽の程は明らかに偽だろう。
 「今日何かいいことでもあったの?」
 「……」父は答えず、無言でイカをさばいている。
「お父さん、ヘッドハンティングされたらしいのよ」母が小さく耳元で教えてくれた。
母曰く、業界内で新進気鋭の企業幹部から直々に声が掛かったらしい。入社して16年。大博打をせず、人が避けるような仕事も引き受け、堅実に堅実に生きてきた男だ。それがついに報われたわけだから、嬉しくないはずはない。
日中に連絡を受けて、夕食は寿司にすることにしたのだという。
心なしか、なで肩で猫背気味の父の背中が今日は自信にみなぎっている感じさえする。
 「桂夜は海苔とか皿とか小物の準備をしておいて」
 「はいよ」
 寿司の準備は基本的に酢飯の準備が一番時間が掛かる。父も手際よく捌いたので、その後あっという間に夕食開始となった。
 僕は早速、海苔を手に取り手巻き寿司を作り始める。四角い海苔の上に酢飯を薄く延ばす。飯をたくさん盛りすぎるとそれだけで満腹になってしまう。ネタは単純な数だけでなく、組合せでも随分味の印象が変わるからできるだけたくさん味わうには『飯は少なく』が鉄則だ。
 ではまずはさっぱりとしたこの白身の魚から。これはマダイかな? エンガワやトロは美味いが最初に食べると膨満感が早く訪れてしまう。
 ……はぐっ。
 「う、うまい……」
 程よい噛み応えと舌触り。青ジソとわさびが、微妙なアクセントを与えてくれている。
 ふと父の方を見ると。
 寿司を醤油皿に思い切り押し付けてから、あんぐりとかぶりついている。
 「父さん、醤油つけすぎだろ……」
 「……」
 味噌汁も麺つゆもそうだが、父はとにかく『味が濃い』のが好きだ。今でこそ問題ないが、高血圧になるのは遠い未来の話ではなさそうな気がする。ありがたいことに、僕には遺伝していない性質だ。
 「問題ないわよ。生命保険それなりの額かけてあるから」
 長年連れ添っている母は既に諦めモードというか、特殊フィルターが掛かっているようだ。
 よく見ると、母は母で刺身だけをひたすら食べ続けている。こらっ、それじゃネタが速攻なくなっちゃうだろ! まぁ、母は納豆が食べられないので、最終的には納豆巻きを大量生産するつもりだから大問題ではないが。
 本当にマイペースだな我が家は。

 自室に戻って、携帯端末を開いた。そして、先程撮影した、金属板を眺めていく。思いのほか、凹凸は綺麗に撮影できていて安心した。
 まだ何も浮かんでこないが、凹凸の具合や大きさからいくらかの分析ができた。

 

図_金属板

図_金属板

 

 一番小さいパターンDを1とすると、長さは1から4までの4種類あった。
 また、2枚ある金属板を〈パターンA〉とすると、それに一部しか異ならない〈パターンA’〉、Aの3分の4と完全に一致する〈パターンA-〉、Aの残り4分の1と似ている〈パターンD〉になっていた。残る3種類は共通点が特に無かったので、それぞれ〈パターンB〉、〈パターンC〉、〈パターンE〉と呼ぶことにした。
 〈パターンE〉は唯一凹凸が一列だけに固まっていた。
 寝る時間まではまだ少し時間がある。今日は宿題も特に無いし、少し考えてみるようか。金属板と凹凸……、金属板と凹凸……、
 
 金属板 + 凸凹 = おろし金?
 
 いやいや、板の厚さや凹凸の少なさから考えてもそれはなさそうだ。
 とすると。
 
 金属板 + 凸凹 = 点字
 
 少しありえるかもと思ったが、やはり点字にするには凹凸が少なすぎるようだ。
 前回とは違い、これはなかなか手強そうだ。何か、ヒントは無いかなと部屋の中の本棚を物色してみる。すると、奥底から懐かしい雑誌やマンガが発掘された。
 しかし、それは呪われた発掘物だった。気づけば僕は、寝るまでの時間をその発掘物の閲覧に費やしてしまっていた。

 

 小説『Sum a Summer =総計の夏=』(2/5)に続く

小説『Spring in the Spring =跳躍の春=』(5/5)

 *****

明日の答えなら 今日のどこかにしかない。

 *****

 

第五章 『金曜日』

 

 

 翌日の放課後。仮入部の最終日。僕は賑わう音楽室でなく、寂れた将棋部の教室の椅子に一人ぽつんと腰掛けていた。
 (これで……いいんだよな)
 丸一日考えて出した結論だったが、まだ僅かな心残りがあることは否定できない。
 軽音楽部は確かに楽しそうだった。しかし、もやもやした気持ちでいる僕がその集団の中で悪影響を与えないだろうか、上達せずにメンバーの足をひっぱってしまうのは心苦しい。
 将棋は元々孤独な競技だ。ゴルフやボクシングと違い、試合中に誰の助言も受けることはできない。運の要素もなく、〈負け=自分の判断ミス〉という厳しい現実を突きつけられる。
 しかし。
 孤独な競技ゆえに、自分のことは自分の責任で収められる。他人に迷惑を掛けることはない。迷った僕が何かやっとけそうなことはといえば、駒を持つことだと考えた。
 ただ、最後に決め手となったのは美月の言葉だった。
 
 ――――ケーヤの中で将棋はなくなってなかった
 
 美月は平気で嘘をつくタイプではない。いくら〈通し〉の最中とはいえ、その言葉が偽りの文字列であったとは思えなかった。
 将棋部は恐らく、将棋のできない顧問――泉西先生と僕の二人だけになる。あの訳の分からない教師と3年間一緒か……。今から卒業写真の部活のページが非常に心配だ。同窓会の度にネタにされたりしないだろうかと気が気ではない。
 一人だけだが、高校の大会も個人戦だけなら参加もできるはずだ。最近ではPC用ソフトも強くなってきているから、日々の対戦相手には不自由しない。学校に余っているPCが無いか泉西先生に相談してみるか。あれだけのことを言ってたのだから、少しは協力を要請しても問題は無いはずだ。
 よし……。当面の目標は立った。高校生でナンバーワンを目指すかな。
 僕が早くも来週からの活動を企てていると、
 「あれ。今日もいる」
 後ろから急に声を掛けられてビックリする。それは、ヤツの声ではなかった。
 「み、美月?」
 「何、驚いてんの?」
 美月は眉根を寄せて訝んでいる。
 「仮入部、最終日だぞ……。まさか、美月も将棋部入るつもりか?」
 「つもり……って、もう入部届は出し終えたけど?」
 美月が、将棋部に、本入部?
 俄かにはとても信じられない。昨日、僕を江辻の前に連れて行ったことで、美月が将棋部に近づく理由はもうないと思っていたのだから。
 同じ高校に通っているはずなのに、なんとなく、もう二度と会えないような気がしていたのに。
 僕の言いたいことが伝わったのか、美月は自分から話し始める。
 「顧問のセンセが『好きな時にくればいいから』って言ってくれたから。あたし、放課後はなるべく自由に過ごしたいし。先輩が居ないのも気楽でいいしね」
 なるほど。一応、納得できる回答ではあったが。「ケーヤがいるから」という理由じゃなかったのは残念至極だ。さすがにそれは夢見すぎだったか。
 「ところで、軽音部の本入部届はもう出してきたの?」
 現実の厳しさを突きつけられたばかりの僕に、美月はそんなことを言ってきた。意味がよくわからない。
 「俺も将棋部に本入部したから、さっきわざわざ美月『も』って言ったんだけどね」
 しかし、美月はさらに続けた。
 「あ、そう。『掛け持ち』はしないんだ」
 「えっ?」
 鳩がまさかの豆型スタンガンを食らったような表情を僕は浮かべていたかもしれない。
 「知らなかったの? 部活は掛け持ち可能だよ。生徒手帳に書いてあるでしょ。とりあえず、ケーヤもすればいいのに」
 「ケーヤも……って美月は将棋部とどこなんだよ」
 「帰宅部
 「あのさ。そういうのを幽霊部員っていうんだ」
 ……さてと。
 ここにきて、部活動の掛け持ち自体は可能だと知ったのは大きいが、果たして有効に実現可能なことなのだろうか。
 つまり、将棋で高校生全国一を目指しつつ、音楽も精力的に活動するってことだ。
 ギターだって、まだCとGとAmのコードしか押さえられない僕が、将棋の片手間にできるほど楽な世界ではないはずだ。
 将棋だって、3年のブランクがある。小中ではまだ覚醒していなかった、あるいは、急成長を遂げた猛者がきっとひしめいているに違いない。一筋縄ではいかないだろう。音楽の片手間では通用しないのではないだろうか。
 昔から、〈二兎追うものは一兎も得ず〉というじゃないか。そんな、異次元のような活動ができるわけが……。
 
 ――桂だけは……次元を超えられる……――
 
 頭に、そんなフレーズがフラッシュバックした。
 それは。
 (なんだよ……自分で言ったセリフじゃないか!)
 僕は、高速で自分自身の高校生活をできるだけ深く、そしてリアルに読んでいく。それは、随分と深くまで及んだ。
 人間には死の直前に人生の走馬灯というものがあるというが、それを未来に対してしている感覚に近かった。第三者的に見たら、非常に危ない人間かもしれない。
 そして結果が出る。
 「……よしっ」
 急いで読んだから、読み間違いかもしれない。でも、ここで立ち止まっていては、また時間切れのブザーが鳴り響き、後悔の3年間を送ってしまうことになるかもしれない。
 (迷ったら、何かやっとけ、だよな!!)
 僕は美月の方を正面に見据えて、「……悪い。しばらくここ頼む。軽音行ってくるから! ……と、もう一つ」
 そして、今、取り急ぎ言っておきたいことが。
 
 ビシィッッッッ……!!
 
 僕は、手許にあった玉将を力強く叩きつけ、真剣な顔で宣言する。
 「俺、王将も好きだけど、玉将はもっと好きだ!」
 突然、脈絡の無く謎の宣言をした僕に、さすがの美月も理解が追いついていない様子だ。
 いや、分からなくていい。むしろ、その方が堂々と言えて都合がいいといえるかもしれない。
 相手が意味を理解していないから恥ずかしさがなく、しかし、自分は達成感を得られている。
 今日のところは、これで十分。3年間のうちに、正式な機会が作ればいいさ。そんな風に、余裕に構えていたら。
 「おー、下僕……もとい、部員たちよ、集まっとるな」
 ヤツだ。
 (……って、このタイミングではヤバい!)
 慌てて、退散しようと思ったが、間に合わず。そして、
 「どうした瀬田。『玉将の点が美月の笑窪を表現したことをばらされたらまずい!』ってな表情してるが?」
 「……~~っ」
 恥ずかしさで、全身、特に顔が熱くなっていくのを感じた。後ろからは、何故か風を切る鋭い音が聞こえる。ゆっくり振り返ると。
 (その音かよ!)
 「……そんなに、あたしの笑窪が拝みたいなら、デコピン二発でどう?」
 美月が、眉根を僅かに寄せつつ、物凄い素振りをしていた。
 しかし、先日のように不快な表情を浮かべるでもなく、軽妙に切り返しを見せたということは、美月に僕が伝えたかった笑顔の魅力がいくらかは伝わったと言うことではないだろうか。
 それなら、恥ずかしい想いをしても損はない。あの強烈なデコピンは御免こうむるが。
 「と、とにかく。軽音楽部に届出してくる!」
 僕は、逃げるように将棋部の部室を飛び出した。
 後方の教室からは、何故か、泉西先生の「っ痛えっっっっ!!」という悲鳴が響いてきた。
 早速、さっきの〈読み〉が大きく脱線した僕の高校生活だが、どうやら、つまらないまま終わることだけはなさそうだ。
 
 無事、軽音楽部にも本入部届を出し終えて、来週の火曜日には早速ギター講座にも参加することにした。
 紆余曲折あったが、とにもかくにも僕の高校生活の駒はこれで全て整い、今まさに3年間に亘る一局がはじまろうとしている。
 すぐにでも第一手目を指したい、はやる気持ちを抑えて、静かに考える。
 瀬田桂夜の生き方のルールは、瀬田桂夜が決めることができるのだから。既存の考え方や、枠にとらわれることなんて無いはずだ。
 季節は春。春はspringであり、springは〈跳躍〉でもある。まさに〈桂〉のためにある季節といえるかもしれない。
 だから、もっと素直に。もっと自由に。こんなことだって、できるはずだ。
 僕は頭の中に将棋盤を浮かべると、勢い良く駒を打ち付ける。
 
 初手、5五桂――。
 

図_初手5五桂

図_初手5五桂


 小説『Sum a Summer =総計の夏=』に続く