総村スコアブック

総村悠司(Sohmura Hisashi)の楽曲紹介、小説掲載をしています。

小説『Fall on Fall =俯瞰の秋=』(4/4)

 *****
 「子供のころ、足し算引き算をやっとおぼえた頃だったかな。もう、将棋がね、楽しくて楽しくてしょうがなくて。勝ったらそりゃあ嬉しいんだけど、負けると10コの勝ちが吹っ飛ぶくらい悔しい思いをするんですな。
  だから、負けたくないなぁと。勝つためにはどうしたらいいかなぁと。考えて考えて。ずっと考えてましたな。いや、でもそうしているときも楽しかったですよ?
  それでね、先日ふと気が付いたらもうこんなオジサンになってたってなわけで。本当に驚きですよ」

                    ――『中飛車を差しこなす本(佐波九段) 第四巻 第二章コラム』より

*****

 

 第四章 『祭のあとの祭』

 

 天高く馬肥ゆる秋。将棋には『馬の守りは金銀三枚』と呼ばれる格言がある。角行の成駒である〈馬〉は守備として強力な金将銀将の3枚分もの価値があるという意味合いだ。将棋に特化した格言なので、特に意味はない。なんとなく頭に浮かんだだけだ。
 さて、待ちに待ったと言うべきか、来てしまったというべきか、大矢高校の学校祭当日となった。時刻は9時30分。学校祭開始まであと30分だ。
 教室内展示の最終確認をする。結局、展示の方は斎諏訪の作ったソフトウェア――〈ヴィシュヌ〉と〈オーディン〉――をアップグレードしたものをメインに据えることにした。
 〈ヴィシュヌ〉は問題を作成すると、制限時間後に解答を出すようにした。制限時間以内に正答した場合、脇に置いてあるプリンターから認定証も出せるようになっている。斎諏訪曰く、〈色つき詰将棋〉については即興での作成は困難とのことで、合計15問をランダムに出題するように留めた。
 〈オーディン〉はレベル調整ができるようにして、対戦した強さで勝てた場合、やはり認定証も出せるようにしている。
 これらのアイディアを斎諏訪はきっちりと作り上げてしまったのだから、さすがというほかない。
 そのソフトウェアのコーナーは廊下側のほうに配置した。〈ヴィシュヌ〉と〈オーディン〉をそれぞれ1台ずつのパソコンで利用できるようになっている。高校の学校祭で催す将棋部コーナーに人々が大挙して押し寄せることなど考えづらいから、十分な設備といえよう。
 第二部の部活動部員が聞いたら怒られそうだが、スペースは有り余っている。ゆとりがあるのはいいことだが、有り余ったスペースは寂しさを感じてしまう。ということで、窓際には人と人が自由に対局ができるように、5組の盤と駒を積んで〈自由対局コーナー〉と銘打っておいた。小さな子供にいたずらをされてしまうと面倒なので、盤と駒はとりあえず積み重ねておき、使うときだけ出すようにしてある。
 さて準備万端、あとは来訪者を温かく迎えるばかりだ。
 早々にセッティングも済ませてしまうと、我が将棋部はまったくやることがなくなってしまった。
 美月はカバンから飲料を取り出して喉を潤している。斎諏訪は窓の外から中庭を見下ろしているようだ。
 僕は、将棋盤の下に駒台を四つ足のように置くことで良い駒音が出ないだろうかと試みるが、なかなか上手く行かない。いくつかの検証の結果、組となる駒台同士の高さはピタリと合うのだが、5組の駒台の間では全く同じ高さがないことが原因と分かった。がっくり。
 そうだ、今のうちにアレを渡そう。僕は盤と駒台を元のように戻すと自分の鞄のところに行き、がさごそと目的の物を探し出す。手にしたものを持って、美月のもとに向かう。
 「美月、これ。前に扇子もらったときのお礼」
 「何?」
 美月に渡したのは、先日〈まめしば〉でマスターから受け取った小袋だ。美月が袋を開けると、中から例の円筒形が現れる。
 「コーヒーポプリだよ。中にコーヒー豆の粉が入ってるんだ」
 キャップを外すと、中からはコーヒーの香りがあふれ出す。普通なら、いい香りがする小物。それ以上でも以下でもない。しかし、眠気が大敵の美月にとっては、ある種のお守りのような役割があるのではないかと考えた。それは気休めかもしれないが、僕自身が真剣に考えて美月に送る初めてのプレゼントだ。
 聡い彼女は僕の意図を理解してくれたのか、それ以上質問をすることはなく、静かに自分の携帯端末にくくり付け始めた。以前にあげた、というか欲しそうにしていたから渡したクマッタのストラップの隣にぶら下げられている。
 いつものように表情を大きくは変えることなかったが、そのことが肯定的に捉えられている何よりの証拠に思えて胸をなでおろした。
 と、窓際にいた斎諏訪が唐突に呼びかけてきた。
 「ぉぃ瀬田、ぁれなんだろぅな?」
 斎諏訪が指差した先には向かいの校舎がある。
 「あれ、ってどれのことだよ?」歩み寄りながら窓の外に眼を遣る。
 「ぁれだよ、キョゥドケンキュゥブ」
 言われて探すと、ちょうど2階の真ん中あたりに4つの窓にそれぞれ『きょう』『ど』『研究』『部』と装飾をした窓を見つけることができた。
 「郷土研究部って部活があって、その展示場所なんじゃないのか?」
 確か、第一回の定例生徒総会の本年度部活動組織一覧で第二部にそんな名前が載っていたような気がする。斎諏訪は総会に参加していないから知らないのだろうが。
 「ぉぃぉぃ、違和感丸出しじゃねぇかょ。『キョゥド』がなんでひらがななんだょ。そのせぃで、文字がすげぇ窮屈になってんだろ?」
 む……なるほど、言われてみれば。『ど』や『部』は窓一杯に堂々と描かれているのに対して、『きょう』と『研究』はぎゅっと圧縮されてしまってなんだか窮屈に見える。バランスも正直なところ良いとは言えない。
 それでも、『研究』の装飾に関する推測はある程度できた。
 窓は4つ。それに対して描きたい文字は郷土研究部、と五文字だ。少なくともどれかは他の文字と同居しないといけない。仮に、前の『きょう』『ど』が漢字だったとしても、アピール性から考えて『郷土』の方が重要といえる。
 そして、『研・究部』よりは『研究・部』の方がまだ違和感は少ない。『研究』の事情はそんなところだろう。
 僕は、そこまでの推論を斎諏訪に展開する。
 「まぁ、そこまでは異論なぃがな……」
 しかし、会話はふとそこで止まってしまった。
 「それはそぅと。第二部の部活は大変なんだぜ? 同じ教室を2っの部活で折半しなきゃならんのだからな」
 やけに詳しいなと思ったが、そういえば斎諏訪は7月までは第二部の電算研究部だったから設立の際にでも説明されていたのだろう。
 「折半って、部屋の真ん中に仕切りを作ったりしてか?」
 「ほとんどはそぅらしぃが、前半と後半に分ける方式もぁるとか。音ゃ匂ぃを発する部活動同士は即席の仕切り程度じゃどぅにも防げんだろうからな……」
 音はともかく、匂いって……。あぁ、でもアロマ研究部とかも存在するわけだしな。時間で区切る方式は大変そうだ。僕の頭の中には、もっこや三度傘を手にして右往左往している郷土研究部の人たちのイメージ画像が流れていた。
 ……ん? 我ながらバカな想像をしたものだと思っていたが、〈跳躍(リープ)〉は突然やってきた。
 「あっ。もしかして……」
 無意識のうちに言葉が出ていたようだ。斎諏訪だけでなく、小袋の中の紙片――説明書だろうか――を読んでいた美月もこちらを向いているのに気づいた。
 こう注目されると、もし間違っていた場合は赤っ恥ではないか。しかし、もはや後には退けない。
 「なんだょ? もしかして、何か分かったのか?」
 「あ……、まぁ。多分、だけど」
 「随分自信たっぷりだな……。もし外れてたら、ハルコーロ・ノハナ農園のブラックな」
 「なっ、なんでそうなる!?」
 「じゃ、あたしはナニカ農園のラテ」ちゃっかりと後方からも声。
 「いいだろうっ。もし合ってたら、お前おごれよ?」
 僕は斎諏訪にビシッと指を突きつけてから、大股で駒箱の群れに近づき、そのうちの一つから〈香〉と〈歩〉をピックアップして戻ってきた。
 「とりあえず、これを『きょう』『ど』の窓だと思ってくれ」
 2つの駒を前後に少しだけずらした状態で机の上に立てた。〈歩〉の方は逆向きにしているので、二人の方からは〈香〉と〈と〉が見えていることになる。
 「で?」斎諏訪が急かしてくる。
 「まず、こう。窓を開ける」〈香〉を左にスライドさせた。その結果〈香〉は〈と〉の後ろに隠れて見えなくなったはずだ。
 もったいぶっても仕方ない。僕はあとを続ける。
 「で、今度はこちらの窓を開け……いや、閉めるになるのか?」そして、〈と〉を右にスライドさせる。
 「すると、『ど』『きょう』になる。経を読む、読経研究部ってのがあるんだよ。多分、郷土研究部と読経研究部は同じ教室を使うことになってるんだ。それも前半と後半の時間で区切る方式で。
  それで、少しでも交代時の時間を短縮できるようにしたんだと思う」
 「読経ねぇ……」斎諏訪は今ひとつ納得していない表情だ。「そんな部活ぁんのかょ」
 名前だけでいうなら、電算研究部の方がどんな部活か分かりづらいぞと心の中でつぶやく。
 なにか、立証できないものかなと思っていると、珍しく絶妙のタイミングで泉西先生がやってきた。その手には学園祭のパンフレットが丸められている。
 「諸君、元気に――」
 「――泉西先生、ちょっとそれ貸してください!」僕の真剣な表情に気圧されてか、これまた珍しく「お、おぉ」と素直にパンフレットを手渡してくれた。
 パンフレットを受け取ると同時に、ぱらぱらとページをめくる。
 斎諏訪と二人でそれを覗き込むと、僕の推理を裏付けるかのように『2-C教室 郷土研究部(10:00~13:25)、読経研究部(13:35~17:00)』という記載がされていた。
 渋面を浮かべる斎諏訪に僕は「男子バレー部がやってるジュースバーのバナナソーダでいいや」と声を投げ掛けてやった。
 「……ち」斎諏訪は舌打ちをしていたが、やがて良いことを思いついたと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべて「だが、時間までは指定してぃなかったのは手落ちだったな。投売りタイムになるまで待たせてもらぉぅ!」と嬉しそうに笑った。
 おごらなくて済んだだけで十分なので、僕は手を振って「はいはい」と合意をした。
 念のため、パンフレットの中に記載されている他の催し物やプログラムなどもチェックしてみた。数日前に奥地会長から教えてもらうことができた事前情報からは特に変更は入っていないようで一安心する。
 と。部屋に泉西先生の怒号が響き渡った。
 「瀬田! てめー、謀りやがったな!?」
 その指先には『評価もやってます』という貼り紙がある。将棋部で最も字が綺麗な美月が書いたものだ。
 「『ヒョウカもやってます』で妥結したじゃないですか。大人なら、自分の発言に責任持ってください」
 「ちょ、きぱぱぱぱぱちょきぱ……」泉西先生は不思議な音で唸り声を上げる。
 「なんすか、その奇怪な声は……」
 「『グゥ』の音が出なくなって、『パァ』『チョキ』の音しか出なくなったんだよ。そんくらい、分かれ!」
 「分かりませんよ……」
 「かくなるうえは……。祭の飲食物を独占し、倍の値段で販売して大儲けしてやる! ははは、今から俺のことは『飲食を牛耳る覇王・泉西潮成』と呼ぶことだな!」
 そう吐き捨てて、泉西先生は全速力で校庭に広がる模擬店テントに向かって行った。
 そのとき、絶好のタイミングで校内放送のチャイムが入った。
 「ただいまより、第52回大矢高校学校祭をはじめます。まず開会挨拶を奥地尚志生徒会長、お願いします……」
 よし、行動開始だ。
 「美月! 行くぞ!」
 「はいはい」
 僕は、今朝方お願いしていたあることのために、美月に合図を送った。
 「斎諏訪、あとは任せた」
 「ぁぃょ」
 
 早足で目的の場所に到着した。ドアを開けると、ふわっと何種類もの複雑な匂いが体を包み込んでくる。
 部屋の中を見回すと、正面置くに生徒が二人腰掛けている。恐らく、ここの部員だろう。僕たちは歩み寄るとそのうちの一人に話しかけた。
 「あ、えーと。アロマテスト挑戦したいんすけど」
 時間は10時5分。会場が10時だから、学校祭開始直後といっていい時間だ。特別棟4階の一室であるアロマ研究部展示室に一般客が来れるタイミングではない。
 「は、はぁ……」戸惑いを隠そうともせず、部員の一人は頷く。
 「……では、難易度はどうしましょう?」
 部員はA2サイズの画用紙を取り出すと、説明をはじめる。
 難易度は5段階に分かれており、難しいほど正解したときの景品が高額なものになっていくという分かり易いシステムになっていた。
 そして、レベル5の景品は奥地会長に聞いた前情報のとおり、つい先月発売されたばかりの据え置き型のゲーム機だった。当然、アロマ研究部としても目玉景品の位置づけだが――。
 僕は迷わず、最も難しいレベル5を選んだ。部員はそれを聞いて、口元をにやりとした。
 「それでは、まず最初にこれを覚えてください」そういって、木箱を一つ渡された。箱は5×6に区切られて、30個の小さなガラスびんが収められている。
 蓋のところには〈ユーカリ〉とか〈ローズマリー〉といった文字が書いてある。おそらく中に入っているアロマオイルの名称だろう。
 「まず、これで香りと名前を1分間で覚えていただき、このあと香りを数種類混ぜたものを正確に答えてもらう段取りです。それでは、スタート!」
 「わっ! いきなり?」
 突然スタートしたのにも驚いたが、30個のビンを1分間でというのは無茶苦茶だ。開ける・嗅ぐ・閉める、を1セットの動作と考えると、全て開ける時間すらなさそうだ。咄嗟にそう判断して、既に知っている〈ミント〉や〈バラ〉は手に取らず、〈イランイラン〉や〈ローズウッド〉といった耳慣れないものをピックアップしていく。
 それでも、鼻の中で匂いが混じってしまい、恐らくは正確な匂いは覚えられていない気がする。さすが、レベル5。想像以上に厳しい戦いだ。
 「そこまで!」掛け声と共に、ガラスびんは回収されていった。そして、入れ替わりに掌サイズのケースが手渡された。
 「レベル5なので、5種類混ぜてあります。制限時間は30秒です。では、どうぞ」
 蓋を取り、僕はゆっくりと匂いの判定を始める。なんだか、甘酸っぱいようなほろ苦いようなそれでいて切ない気持ちに……って初恋か!
 酸っぱいのは〈レモングラス〉か〈レモン〉の気がするが他の匂いと混じりあったせいで、どちらと断定できる程ではない。甘い香りも花というよりは果実っぽい気がするが特定の名前は浮かんでこない。ほろ苦いもの関しては意味不明だ。さっきの中にあっただろうか……。
 「はい、時間です。じゃあ、答えを……」
 部員に急かされながら、僕はぽつりぽつりと回答していく。自信は全くなかったが、答えは先程の30種類の中にあるわけだから、可能性はゼロではない。
 「……。……残念っ!」
 やや焦らした間を取りつつ、部員はやや嬉しそうにそう宣言した。とはいえ、結果は3つ当たっていた。我ながら健闘したほうではないか、と言い聞かせることにした。
 しかし、これで終わりではない。ここまではまだ計画の範囲内だ。僕は後方に眼で合図して席を立つ、応じるように美月が椅子に腰掛ける。
 僕がクリアできたらそれはそれで問題ないが、それは相当厳しいだろう。だから、僕はできるだけ多くの情報を引き出す先鋒に徹したのだ。
 出題形式や傾向を少しでも多く見ることで、本丸である美月の正答率はそこそこ補強できるはずだ。
 「説明は聞いてましたよね? じゃあ、はじめますよ……はい、スタート!」
 号令を聞くなり、美月は木箱を直角に回して横から縦にした。正面から見ると、縦6個、横5個になった格好だ。そして、びんを器用に右の4本の指で縦の3つずつ取り出し、左手の4つの指で一気に3つとも開ける。3つの匂いをかぎ終わると、逆再生のように、蓋を閉めて元あったように木箱に戻す。ここまできっちり6秒。それを同じように着実にこなしていく。
 なるほど、時間を6秒×10回に使う作戦を考えたようだ。蓋を開けるオーバーヘッドを考えると効率的に思える。と、同時に美月のウィークポイントを改めて感じさせられる。
 味や匂いといった文字に表現しづらい情報というのは、前日からの引継ぎが難しいのだろう。僕が嗅ぐまでもない、と飛ばしていた〈ミント〉や〈バラ〉の香りも美月は念のため『覚えなおす』必要があるのだ。それでも、一度覚えてしまえばきっと僕なんかより正確に記憶できるに決まっている。
 「そこまで!」僕のときと同様に、掌サイズのケースが手渡される。
 「制限時間は30秒です。では、どうぞ」
 部員の合図を聞き届け、蓋を開ける美月。僅かに眉根をひそめたのを見て、僕は一瞬ドキッとなる。もしかして、美月をもってしても分からない難問か? それとも、5種もの匂いが混じったことで不快な香りが生成されたということか?
 30秒が終わり、部員が回答を促す。それに対し、美月は淀みなく5つの香りの名称を答えた。
 「……せ、正……解で……す」呟いた部員の顔は若干引きつっていた。きっと、部員内で何度も検証を重ねた結果、誰一人当てられやしないということを確証していたのだろう。何故こんなものが分かるんだ、そう顔に書いてある。
 しかも、学校祭はまだ始まったばかり。一般客がやってくる前に、目玉商品は既になくなってしまっている……という不測の事態だ。
 「じゃあ早速景品を……」
 「い、いやぁ、あのーその、ちょっと、えーとお待ちいただけますか?」動揺しまくる部員。明らかに時間稼ぎだ。しばらく、押し問答をしていると、教室の扉が勢い良く開いた。
 現れたのは、男にしては睫毛の長い伊達男だった。傍らに居るのは、先程ここにいた部員その2だ。今は、僅かに息を切らせている。
 彼が急いで状況報告に行った相手ということは……この人がアロマ研究部部長か。
 「すみませんねぇ。彼は1年なんでちゃんと把握していなくて……」部屋の中をずんずんと入りながら、部長は話しかけてきた。そして、そのまま『関係者以外立ち入り禁止』の衝立の向こうへ消えていく。
 「ちょうど今朝準備をしているときに、三役で色々と検討を重ねましてね……」声は向こうからなおも聞こえてくる。
 「レベル5は問題を二つ出すことにしていたんですが。いやぁ、組織内の伝達不備があったことについては、まことに申し訳ない」そういって、新たなケースを美月に手渡してきた。
 「当方も高額商品がかかっておりますのでね、何卒ご理解を頂きますよう。さて、これは難問ですよ。ふふ……。こら、ボーっとしていないで開始の合図を」
 「は、はい。そ、それではスタート!」
 美月は受け取ったケースの蓋を開けた。すると、香ばしい芳香が僕のところまで漂ってきた。ん? これってもしかして……。
 「えぇ。お察しの通りコーヒーです。香水販売のところにもよくあるでしょ? 鼻腔をリセットするのにちょうどいいんですよ。アロマ研でも使ってるんです。さて……、今回のは厳密に――豆の種別とローストまであてて貰いましょうか。何せ、レベル5の2問目ですので」
 奥地会長からアロマ研部長の人物像は事前にいろいろと聞いてはいたものの、想像以上の食わせ者だ。
 明らかに、想定外の事態を受けて咄嗟に用意した追加問題としか思えない。しかし、悔しいことにこちらにそれを咎めるすべは無い。僕や美月がいかにコーヒー好きだと言っても、品種やローストの仕方までは普段意識していないし、当てずっぽうで当てられるほどの確率ではないだろう。
 「これで本当に最後?」美月がまっすぐに部長を見据えて尋ねる。「もちろんだよ」部長は眼を細めて言う。自信満々だ。
 美月はケースに鼻を近づけて芳香を確認している。そして、ケースをゆっくりと放し、蓋を閉めると、
 「ハルコーロ・ノハナ農園のカツーラ種、シティロースト」しっかりとした口調で答えた。
 余りに淀みなく流れ出たフレーズに部長の表情が自信満々のまま固まる。……って、おいおい、もしかして。
 「当たり、か?」僕の呟きに我を取り戻す部長。前髪をかき上げながら「……いやいや。紛らわしくて申し訳ない。あまりに唐突に回答されたものだから固まってしまったよ」
 「正解でしょ」
 だが、美月は引き下がらなかった。へらへらと笑っている部長の目を射抜くように見ている。
 「これと完全一致してるんだから」そういって、携帯端末のストラップを揺らしてみせた。
 「あ……」
 それは、僕がさっきプレゼントしたコーヒーポプリだった。そこで、ふと頭の中にあることが浮かび上がる。コーヒーポプリを受け取ったときに、同じ豆が売り切れていたことを。その買い手はこのアロマ研部長だったのだろう。
 嗅いだ匂いがどんな豆かを推測するのは、茫洋とした海をあてもなく漂うようなものだ。しかし、記憶に新しい匂いと一致しているかどうか判断すること自体は、精緻な処理能力を持つ美月にしてみれば容易な作業なのだろう。自信満々に正解を主張した理由がやっと理解できた。
 「そのコーヒー豆、昨日〈まめしば〉で買ったものですよね?」
 再び固まる部長の顔。今度は、少し右頬が引きつっているように見えた。その顔が、その通り、と雄弁に物語っている。
 「なんなら、マスターに公正にジャッジしてもらいますか? 今日、学校祭来るっていってたし」
 〈まめしば〉に通う者ならば、あのマスターのコーヒー豆に対する鬼嗅覚は熟知しているはずだ。
 トドメの言葉を聞いて、部長はガックリと肩を落としてうな垂れた。

 *****

 「あれで良かったの?」
 廊下を歩きながら美月が僕に尋ねてきた。
 あれ、というのはさっきの顛末のことだろう。

 「え? 祭が終わるまでは景品を預けておくだって?」
 「そうです。どうせ、あの最終問題を正解できる人はそうはいないでしょう?」それにアロマ研究部の部屋にそれほど多くの客が集まるとは思えないですし……、という台詞は心の中だけにしまっておいた。
 部長はこの申し出を喜んで受け入れた。恐らく、次はどんな手を使ってでも最終問題を正解にしない工作をするつもりだろう。とすれば、あとは最高額の景品がまだ存在してますよという体裁が整っていればよいのだ。
 「あ、祭後っていっても俺は音夜祭があるんで、代理を立てさせてもらいます。多分、手許を見てもらえば将棋部関係者だって分かると思いますんで」
 「うんうん」
 「その代理に景品を譲ろうと思うんですが、本人が特にいらないって言うようだったら渡さなくてもいいです」
 「うんうん」
 「最終的には、その代理の言うことに従ってもらえますか?」
 「うんうん」
 優秀なイエスマンと貸したアロマ研部長は僕の言葉に何度も何度も首を縦に振っていたのだった。

 将棋部の当番は、斎諏訪・美月・僕の順番になっていた。
 美月の担当時間が来るまで一緒に校内を巡ってみたり、甘味をおごらされたりした。
 美月と別れた後は、陸上部の焼きそばを約束どおり買いに行ったり、催し物の冷やかしをしたりして、初めての大矢高校学校祭を大いに満喫した。
 気が向いて、料理研究部の部屋を訪れると、部屋中に砂糖とバターを主成分とした甘くて良いかおりが漂っていた。
 丁寧に包装されたお菓子に囲まれるようにして料理部員達が売り子をやっている。その中に、おっとり縦ロール――蒼井さんの姿をみつけて声を掛けた。
 「ども」
 「……いらっしゃいませ~。……あら~? 瀬田くん~?」
 僕は視線を品々に巡らせる。と、その中に4つ重なったお菓子の箱を発見した。
 「……おかげさまで順調なの~。午前だけで6個売れてるの~」
 それは何より。あのチョコ、濃厚で美味しかったからなぁ。先日いただいた、お礼の1個を思い出すと口の中が幸せで満ち溢れる。きっと買った人たちも大満足だろう。
 「あ、『ハッピーボックス♪』って名前にしたんすね」
 「……ふふ~。なかなかでしょ~」
 サンプルもよく見えるように置かれているが、確かにネーミングもこうすると分かり易い。
 ちょうど、2×5の真ん中だけを3つに区切ってある構図だ。そう、間仕切りの部分を真上から見ると……『幸』の字のようになっているのだ。

 

図_ハッピーボックス

図_ハッピーボックス

 

 先日、僕が思いついたアイディアは蒼井さんに受け入れられ、それが購入という実績として何人ものお客さんにも受け入れられたのである。
 咄嗟の機転がここまでになったんだなと感慨にふける。今日の音夜祭に向けて縁起がいいなと思った。
 
 *****
 
 僕が担当の時間になったので、将棋部部室に戻り美月と交代した。
 本来は美月の担当時間帯だが、行きたい場所も特にないのか、斎諏訪も部室内にたむろしていた。
 「売り切れてたら、約束違反なわけだからすごいペナルティだぞ」
 日頃たかられてばかりなので、僕は少し脅してみた。
 「ちっ、しゃぁなぃ、男子バレー部のバナナソーダとゃらを買ぃに行ってくるか」斎諏訪はノートパソコンをパタンと閉じると、「小太りには階段昇降は心臓破りの苦役だとぃぅことを忘れるな」と声高に言い放って教室を出て行った。
 教室には人はなかなかやってこなかった。入り口辺りにちらほらと人が通っていく姿は見えるのだが、なかなか中にまで入ってくる人は少ない。かといって、飲食店でもないので呼び込みをするのも逆に入りにくさを助長してしまいそうだ。
 座っているのも疲れるので、席を立ち、窓際に立って伸びをする。遠くの方ではもう日が傾いてきていた。
 と、そのとき「まだ、やってる?」入口の方から声がした。
 見遣ると、ベージュのジャケットとスラックスを着たほっそりとした男の人が立っていた。雰囲気や物腰からして、高校生ではないと予感した。かといって、社会人といった感じでもない。消去法で大学生あたりだろう。
 「大丈夫ですよ。あと30分くらいですけれど」僕は壁掛け時計をみながら答えた。
 大学生は応じると、部屋の中に入り、展示物をゆっくりと見て回っていく。
 と、大学生は窓際の盤と駒の近くまで行くと、「君と、将棋もできるの?」と言ってきた。
 大学の将棋部だろうか。僕の実力を図り、眼鏡に適ったらスカウトすることが目的か? いや、だとしたらこんなに遅い時間に来る理由が分からない。
 ただ、特に断る理由もないので、僕は「もちろんです」と言って椅子から腰をあげた。
 「あ、いいよ。持っていくから」
 そういって、盤と駒、そして駒台を二つ持つとこちらへ歩み寄ってきた。
 時間もそれほどない。僕たちは手早く駒を並べて、振り駒まで手際よくこなす。僕が先手になった。
 戦型は急戦ではなく、相矢倉で駒組みを進めるじっくりとした展開になった。場が落ち着いていることもあってか、ぽつりぽつりと大学生の方から話しかけてきた。
 通常、対局中に会話をするのはあまり良いマナーとはいえない。中には、〈口三味線〉と呼ばれる盤外戦術を使う人もいる。例えば、「あぁ、こりゃもうダメだな……」と油断させるようなことをいいながら起死回生の一手を用意したり、「ここで仕掛けてくるようなバカはいなだろうからなぁ」と仕掛けの一手をけん制してみたり。
 しかし、この大学生の会話はそういったものではなく、将棋部の活動や今回の展示についてなど対局の内容とは関係のないものばかりだった。
 だから、僕はその会話に不快をいただくことなく丁寧に応じながら手を進めることができた。
 ここまで順調に進めてきたが、はたと大学生の手が止まった。確かにここは難しい局面だ。一歩間違えれば敗因になりそうで、逆に、的確に指せれば明確に優勢にできそうでもある。考えられるなら、5分でも10分でも考えたいところだ。
 しかし、大学生は数秒考えただけで「えい」と手を指した。
 その後は、お互いに手が止まることもなくすんなりと終局へと向かっていった。そして、結果的にその場面が勝負を分けたポイントとなった。
 「いやぁ、参りました。君、強いねぇ」
 大学生が投了し、対局は僕の勝ちで終了した。その結果に僕自身、思った以上の安堵を感じたことに気づく。
 最後に将棋を指したのが大会だから、あのときの2連敗以来、連敗を止める久し振りの勝ちとなったからだろう。
 何気なく壁掛け時計の方をみると、学校祭終了10分前だった。
 それに気づいて、大学生の方が「あ、すまないね。もう時間か」と駒の片付けを始める。
 「あ、そんなに急がなくても大丈夫ですよ。片づけも、俺達がやっておきますし」僕はそういって、手をかざす。
 それよりも。僕はずっと心の中にあって、徐々に大きくなってきている衝動を抑えきれなくなっていた。
 この機会を逃してしまったら、きっと後で後悔する。そう思ったから、思い切って口にすることにした。
 「人違いだったらすみません」僕はさらに続ける。「大矢高元将棋部の高砂千智先輩、ですよね……?」
 
 *****
 
 10月中旬の17時ともなれば、屋外はもう明るさが失われている。校庭に散在する照明も既に電源が入りはじめている。
 昼間の強烈な陽光がなくなり、相対的に蛍光灯に照らされている教室はとても明るく感じた。
 僕の問いに、しばらくの沈黙のあと、大学生は「どうして、そう思うんだい?」とだけ応じた。
 「まず外見から、高校生以上社会人未満かなと感じました。
  それに、部活の中には片付けをはじめるこの時間帯になっての来訪。この時間帯は教師が定期打ち合わせをする時間帯らしいですね。泉西先生がいない時間帯を狙ってきたようにも思えます。そして……」
 僕は自分の側の駒台と大学生の方の駒台を並べる。「やっぱり高さが合いましたね」
 対局をするために道具を取り出すあの一瞬で高さの同じ駒台を選んだのは、偶然でないとしたら、かつて使っていたことがある者と考えても乱暴ではないだろう。
 「……なるほど」僕が考えを伝えると、大学生は満足したように頷いた。「今日は、かき氷やらなかったの?」
 大学生、いや高砂先輩は辺りを見回す。
 「もしかして、先輩のときはやったんですか?」
 一瞬の間。過去の記憶がまざまざと蘇ったのだろうか、高砂先輩は破顔して口を開いた。
 「やった。やったよ……。泉西先生が絶対やるぞって強引にね。そう、それで泉西先生が用意した板氷が大きすぎて機械に入らなくて……。空手部に割らせようとして顧問同志が押し問答になるし、部屋はどんどん寒くなっていくし、結局、かき氷は一口も食べられなかったし、散々だったよ」
 高砂先輩は遠くのほうに焦点を合わせるようにして懐柔していた。どうやら泉西先生はどれだけ時間を前後させても挙動は変わっていないらしい。金太郎飴のような人である。
 「僕が転校することになる直前、部員は3年生が5人、2年生はゼロ、1年生は僕一人だった。だから翌年、将棋部は廃部になったと思っていたんだ。でも、高校のウェヴサイトを見ると毎年毎年将棋部のページは残っていてさ。
  『大江のじっちゃんとは仲がいいから、後片付けは俺が頼んどく』って泉西先生がいうからウェヴサイトの削除依頼は任せていたんだけど」
 あの泉西先生だ。もちろん、単に忘れていたり連絡不備をしていた可能性はある。しかし、将棋部が第一部として存続していたこともなにか裏を感じさせる。なかなか想像がしにくいが、僕たちの知らないところで、あの奇天烈な顧問は高校内で根回しや奔走をしていたのかもしれない。
 「で、つい最近アクセスしたら、ページががらっと変わっていて。大会で、優勝とか4位とか取ってるって知ってさ」
 頑張ってメンテしているページを観ているユーザ――それも僕たちの先輩――がいたことを知ったら、あの斎諏訪もさぞ喜ぶことだろう。
 「改めて、大会おめでとう。部活動自体は楽しいものだろうけど、大会で結果が残せるとまた違った充実感が出てくるだろうしね」
 正直なところ、4位という結果は未だに自分の中では消化し切れていないところでもあるのだが、ここは部活全体に対するお言葉だ。部長として、丁寧にお礼を述べた。
 しかし、逆に気になったのは高砂先輩の方だ。大会の日に泉西先生たちが話していた内容を聞く限り、高砂先輩は1年生に大矢高生として出場したのが高校生活最初で最後の大会となってしまっていたはずだ。
 「俺が言うのもなんですけど……長殖の今井先生も難しい人ですよね」僕は言葉を慎重に選びながら話した。
 後輩からとはいえ、同情されることで多少は傷が癒やすことはできないものだろうかという思いだったが、
 「なにがだい?」
 当の先輩には旨く伝わっていなかったのか、不思議そうな表情を浮かべている。
 「生え抜き優先で、大会に出場させてもらえなかったとか聞いたんですけど……」
 言い出してしまった手前、仕方なく具体的なキーワードを出しながら続けた。
 高砂先輩は静かに聴いていたが、やがて「……泉西先生がそう言っていたのかな?」とだけ返した。
 僕は首肯する。やや間があいて、高砂先輩は口を開いた。
 「確かに、今井先生は生え抜き優先主義なのは間違いない。だけど、ちょっと違うんだよ」
 「え?」
 高砂先輩は転がっていた駒の中から、すっと〈王〉を抜き出すと静かにカチッと盤に打ち付けた。綺麗な手つきだった。
 「僕は、自分から将棋をやめたんだ」
 
 *****
 
 「結局のところ、自分で気づいてしまったんだよ。自分がそれまで将棋で勝ち続けられていたのは、倍率が少なかったからなんだ、ってね。
  スポーツ、漫画、アニメ、テレビゲーム……世の中に面白いもの、楽しいものはいくらでもある。娯楽は時代とともに増えていく一方だ。そんな中で、将棋だけに時間を使い続けられる子供ってどのくらいいるだろうか。
  そして、子供だから実力にはムラがある。多少のミスをしても無理やり押し切れたり、ひっそり仕掛けた一発逆転の手をまんまと成功させることだってそこそこ起こりえた。
  でも、年齢が上がっていくと、次第に事情は変わってくる。伸び悩んだり、不思議と勝てなくなったりする。そう、本当の才能を持った奴には全く敵わなくなるんだ……」
 静かに耳を傾けていた僕は、自分の中で最後にわだかまっていたものが溶かされたのを感じた。
 この間の大会で感じた違和感。スランプなどではなく、自分自身の実力と伸びしろを客観的に感じ取ったのかもしれない。
 こういった過去のカミングアウトはさぞ苦渋の表情で語っているのだろうと思いきや、そっと窺ったその表情は随分とスッキリしていたのだった。
 「でもね? 将棋を捨てたわけじゃないんだ。まぁ一時期、全く近づいていないときも確かにあったけどね。
  部活やサークルに入っていないけど、時々コンピュータ将棋で対戦したり、遠くのタイトル戦をわざわざ観戦しに行ったりね。大学生は時間があるから……。
  あの頃の自分は勝つことしか頭になかったけど、今は指すこと自体が楽しいんだよね。勝っても負けてもさ」
 僕は理解した。高砂先輩は、少し遠回りしたけれど、『自分自身と将棋との適切な距離』を掴むことができたのだ。
 「おっと、ずいぶん話し込んじゃったようだ。僕はそろそろ行くよ」そういうと、立ち上がりドアの方へ素早く歩いていく。
 僕も見送るために慌てて後を追う。ドアの下をくぐろうとしたまさにそのとき、高砂先輩はピタッと立ち止まった。
 「たった3歳しか違わないから、偉そうなことを言えるような立場じゃないんだけど……。この高校で学んだことだからこそ言っておきたいんだ」
 そして、身体を僕の方へ正対させる。
 「本当につらい時に必要なのは栄光じゃない。くだらなかったり、馬鹿馬鹿しかったり、そのときは何てことない平凡なことが必要なんだ、って思った。
  毎日を、毎日の高校生活を大事にしてください」
 そういって、こちらに右手を指し伸ばしてきた。僕は右手でそれに応じた。
 
 *****
 
 高砂先輩が去ってから、しばらくして斎諏訪と泉西先生が戻ってきた。
 気合の入った部活は今日だけでは片づけきれず、明日の朝に再開するらしい。我が将棋部は気合いが入っていないので、片付けはそれほど人手も必要としない。
 僕はこの後〈音夜祭〉があるし、片付けの大半はコンピュータ関連のものなので、片付けは基本的に斎諏訪に一任している。将棋盤と駒といった備品の片付けだけ僕が行う段取りだ。
 (斎諏訪は「小太りには以下略~!」と叫んでいたが、聞こえないふりをする)
 時計を見ると時間は18時00分。長いようで短かった学校祭は無事終了した。
 「〈ヴィシュヌ〉が13人、〈オーディン〉が5人か。まぁ、まずまずか」斎諏訪は集計画面を開いて確認をしている。
 「課金の仕組みを作っておけば良かったのによー」この期に及んでそんなことを言う大人が一人。
 「じゃ、俺はそろそろ行って来ますんで」
 僕は、盤の上に駒やら駒台やらカバンやらを乗っけて教室を後にしようとする。と、泉西先生が目を細めながら近づいてくる。
 「おい、瀬田!」
 「なんです?」
 高砂先輩のことを探られるか、と思いきやどっこい大丈夫。今の僕は努力する必要もなく、心の中は音夜祭でいっぱいだ。
 しかし、泉西先生は僕の間近まで近づいてきてこんなことを言ってきた。
 「ちっ。やっぱ、同世代の方が話し易いってことか?」
 「なんのことです?」カマをかけられてると思い、瞬時に僕はすっとぼける。泉西先生は、懐からすっと何かを取り出す。それは……?
 「双眼鏡だ。対岸の屋上からな、良ーく見えんだよ。まぁ、もう三年もやってっから慣れたもんだぜ」
 三年、つまり高砂先輩が卒業してから毎年やっていたわけか……。本当にこの人は、色々な意味で教師の枠を外れすぎているといわざるを得ない。
 「まぁ、これで俺さまもあいつも一応整理がついたってとこだぜ」
 泉西先生は扇子を取り出すと、パタパタと仰ぎ始める。
 「……もしかしてなんすけど」
 「なんだよお前。……あ? ん……。うっせーな、違ぇよ! 金儲けだって言っただろうが。早く、緑黄色野菜だかなんだかに行っちまえよ!」
 僕は追い立てられるように部屋を後にすることになった。
 泉西先生は人の心の中も筒抜けに分かる能力を持っているくせに、自身の表情も筒抜けといっていいほど分かり易い。だから僕は得心したと同時に、今回ばかりは少し悪いことをしたかという気持ちになった。
 あんなにかき氷を執拗にやりたがってたのは、やはり高砂先輩に自慢のかき氷を食べさせたかったからだった、に違いないと僕は確信した。

 体育館の集合場所に着くと、既に高楠先輩と久慈くんがウォームアップを始めていた。
 音夜祭に出演する12組の順番は基本的に合議で決められた。
 最初と最後の3組は希望する人達が集中したので、話し合いやジャンケンで決まり、残りは特にこだわりもなかったのでアミダクジとなった。
 仏の思召しが何を意味するのか、僕たちの演奏順は最後から4番目だ。
 時間が経つのが長く感じるのか、短く感じるのかもよくわからない。徐々に緊張してくるのを感じる。しかし、上には上がいた。
 傍らに立ち、僕に緊張しないような施策要求を繰り返してきた高楠先輩は顔色が文字通り青く見える。
 「な、な、なぁ。き、今日、どうする?」
 「『どうする』って何がです?」
 「だから……、演奏……」
 「……まさか、ここまで来て『やめます』じゃないですよね!?」
 「だって、見、見てみ? あの、人、人、人!」
 「もう、みんなカボチャだと思ってください」
 「この国に、あんな広大なカボチャ畑はないよ!」
 もうわけが分からなくなってきた。
 「む、輪廻の如く演奏順来たり……」僕達とは違い、明鏡止水の境地だった久慈くんが冷静に呟いた。
 確かに、僕達の前に演奏する〈豆腐爆弾エイティーン〉が機材の片付けを始めている。
 いよいよ、僕たちの出番だ。出番が来てしまった! 高楠先輩は、どうするかと思ったが、どうやら腹をくくったようで指の運動を繰り返している。
 〈豆腐爆弾エイティーン〉と入れ替わるように、僕達は楽器と機材の準備に取り掛かる。
 「さて、次は『ハォット……ケェイ、クウェェイ!!」
 その間に、DJが軽快なノリで口上を続ける。おいおい、カッコつけすぎて全然聞き取れない発音になってるんですけど……。
 〈HOT K(ホット・ケー)〉というのが僕たちのバンドの名前だ。
 初期メンバーの瀬田桂夜・高楠九龍・久慈健造の3人のイニシャルには実に5つもKが表れる。Kは外せないな、というのは当初から考えられていた。
 そこから転じて、様々な案が浮かんでは消え浮かんでは消えしていたが、疲弊していた僕が何気なく〈跳躍(リープ)〉した言葉であっという間にそれに決まってしまった。
 一応、トリプルミーニングなものではあるとはいえ、その場のノリというものの恐ろしさを思い知った瞬間だ。
 後に、追加メンバーが2人加わったが、いずれもバンド名を気にするタイプでなかったため、そのまま現在に至る。
 エレキギターをアンプにつないだりしている間に、ステージ上には脇によけられていたグランドピアノが登場する。
 高楠先輩は鍵盤の蓋をあげ、椅子の位置やペダルの具合を確かめている。久慈くんはスネアの感触やシンバルの位置を確かめている。
 ミキサーの音量などはリハーサルで調整した数字に合わせる段取りだから、準備は間もなく完了する。
 僕たちの準備が順調に進んでいくのに比例して、会場のざわめきが大きくなっていく。
 元々、読経研究部エース(?)の久慈くんがバンドのドラムをやるという点も理由の一つだろうけど、大きな理由は残りの二人だろう。
 ドラムを挟んで向こう側に、ベースを持った美月がいる。これだけの観客を前にしても全く緊張している素振りが無い。さすがだ。
 本当は、美月の才能に頼らず観客側にいてもらって僕の演奏を見てもらいたかった気持ちもあった。しかし、それは同じステージ上でもいいじゃないかと開き直った。その方が僕たちが無理しない姿のような気がする。
 美月は、他のベーシストが弾いていた位置よりは、若干ステージ奥に位置していた。
 ステージにへばり付いている不埒な男子生徒の視線から避けるためだろう。
 そして、ざわめきのもう一つの要因。ステージの中央に観客に”背を向けて”立つのは、鋼鉄の数学教師――丹治先生だ。
 その顔は授業中のように険しい。その手に握られているのは、授業中にも使われているかなり年季の入った指揮棒だ。観客の視線は丹治先生およびその指揮棒に8割方が向いているように感じる。
 ――注目されて、緊張しないようにしたい。
 先輩のその依頼に対して、僕が用意した回答は十分合格点に値するように思えた。
 (さて、と)
 僕はピックを取り出す。それは一般的な三角形の形のものではなく、五角形の駒の形をしていた。表面には〈桂〉という漢字がプリントされている。
 向こうにいる美月も同じような駒の形のピックを持っている。文字は〈月〉だ。
 「将棋部の宣伝も兼ねているから」美月にベースを頼むとき、断られないようにするための口実の一つにしていたのだ。もちろん、口八丁で、お揃いの何かを持ちたいという気持ちが発端だ。
 二度、三度と深呼吸する。そして、僕たちの準備は完了した。
 (やっぱりだけど、緊張するなぁ……)
 丹治先生が指揮棒をすっと上げる。その仕草を見て、ざわついていた観客が条件反射のように静まった。

 この曲は、ピアノのソロから始まる。指揮棒が小さく予備動作をした後、ピアノの音色が3小節続き、ドラム・ギター・ベース、それぞれの音が一斉に合流して前奏が始まった。
 よし、指がちゃんと動いている。音量もちゃんと出せているようだ。
 前奏の8小節が終わり、男子3人が声を合わせてAパートを歌いだす。

  好きな事しているのに、
  君はなぜ苦しんでるの?
  それは平和な時代に生まれた贅沢なワガママなんだ。

 それを見て、鉄面皮の丹治先生が驚いた表情を見せる。それも無理からぬことだ。僕たちは『歌詞付きである』と一言も言っていなかったのだから。
 丹治先生に渡したデモテープは楽器の演奏部分だけを渡していた。
 ただでさえ、ポップスバンドの演奏に指揮者を据えるということ自体が風変わりだ。それが歌詞も付いているとなれば、ちぐはぐを通り越して奇怪とさえ言えそうだ。
 ――勉強ももちろん大事だが、君たちの3年間は将来の糧になり、お守りになるものだ。だから、やりたいことを。楽しいことを。なんでもいい、とにかく一生懸命やるように。
 部活担当教務の丹治先生が、新入生集会で僕たちに向けて放ったメッセージだ。非常に月並みで、つい右から左へと流してしまいそうなメッセージだ。
 あくまで噂でしか確認していないが、丹治先生はかつて指揮者を目指していたらしい。言われてみると、丹治先生が授業を毎日きっちりと時刻どおりにこなしている姿は、年末オーケストラが時間枠ギリギリに演奏を終了する匠の技を感じさせるものだ。恐らく、体内メトロノームが正確に時を刻んでいるのだろう。
 しかし、どうして高校の数学教師の道を選んだのかは謎に包まれている。利き腕を怪我したとか、才能が無かったとか、様々な憶測は聞くことができた。しかし、本当の理由は本人だけの胸の裡にそっと仕舞われているのだろう。
 ただ僕が事実として認識しているのは、丹治先生は今日に至るまで愛用の指揮棒を捨てなかったことだ。それは、過去にしがみついているのではなく、過去を認めているからだと僕は感じた。そうでなければ、あのメッセージは口から出てこなかったと思う。
 奇しくも、高砂先輩先ほど出会うことができ、話を聞くことができたことで、今の僕はこの詞と目をそらさずに本当に正対できるようになった気がする。

  「したくてもできなかった」
  そんな若者がかつて
  この国にたくさんいて、消えて行った事は知っているよね?

 言うまでもなく、この歌詞は僕自身にだって向けられている。不自由ない暮らしを与えてもらって、好きなことだってやれる時間も取れている。間違いなく、僕は恵まれた時代や環境下にいるはずだ。
 それにもかかわらず、贅沢な一喜一憂を繰り返していた。そんな自分に叱咤激励する気持ちを込めた。
 Aパートが終わり、次はBパートに入る。歌の核であるサビの前で少し落ち着けるところだが、リズムが少し変わるのでそこは気をつけないといけない。

  「パクリだ!」なんて揶揄された
  模倣的な作品たちも
  完走した二位なんだから、マラソンのように栄光を。
  
 視線の先に、奥地会長を通して招待した人物――辰野寿子副会長――が座っているのが見える。
 お祭り気分ではっちゃけている周囲と異なり、表情は泰然自若としたままだ。それは、元々の性分かもしれないが、歌詞の内容に対して思うところがあったからかもしれない。
 それでも、僕からのメッセージは一方的かもしれないが伝えることはできたはずだ。今年のポスター投票で惜しくも落選してしまった、星空の絵の作者に。

 盗難騒ぎの5つの品はいずれも一般的な88星座の中に含まれるものだった。
 そして、88星座には略号という表記方法があるようで、それぞれを拾っていくと、〈こぐま座〉は〈UMi〉、〈おおぐま座〉は〈UMa〉、〈ろ座〉は〈For〉、〈カメレオン座〉は〈Cha〉、〈へび座〉は〈Ser〉となる。
 これをさらに無理やり変換していく。
 〈UMi〉と〈UMa〉で海馬、脳にも記憶を司る器官があるが今回はその元々の意味である〈タツノオトシゴ〉と変換する。
 〈Cha〉と〈Ser〉はChaser(チェイサー)で、直訳すれば追撃機などになるが、アルコール度数の強い酒の後に飲む飲み物のこともそう呼ぶそうだ。日本語で言うと〈お口直し〉となる。
 最後にこれを一つにつなげると、『タツノオトシゴ For お口直し』、最終変換すると『辰野寿子 For 奥地尚志』となる。
 そう、それは辰野副会長から奥地会長への恋慕のメッセージだったのだ。しかし、こんな暗号は普通に考えていたら解けるはずがない。僕がその考えに至れたのは、ゴールを先に決めて――辰野副会長が奥地会長に恋しているのではないかと――その補完をするように外堀を埋めていったからだ。それを補うように、〈跳躍(リープ)〉も起きてくれた。
 中学生のときの社会の先生が『腹を空かせた者達が歴史を作ってきた』と言っていたのを思い出す。現状に満足できている人たちは現状を変えようとしない。逆に言うと、歴史となるような大きな事を起こすのは、現状に納得できていない人たちなのだ、という意味とのことだった。
 まず、最近の大矢高校生徒のうちで、最も現状に満足できていないのは、あの投票第2位で惜しくも当選を逃してしまったポスターの作者なのではないかと考えた。
 そのポスターをよく調べてみると、背景の夜空に浮かぶ星座のうち、鳥の向かう先にあったのは〈カメレオン座〉と〈へび座〉だった。その絵の作者がもし、そこまでも琴羽野さんと同じ思考に至って構想を練ったのだとしたら……、その〈カメレオン座〉と〈へび座〉が作者自身が勇気を出そうと思っている対象に他ならない。ただ、残念なことに願掛けは失敗に終わり、告白は断念することにしたのだろう。
 しかし、それだけでは終わらなかった。その後、校内では星空の作品に対する厳しい言葉が飛び交うことになったのは記憶に新しい。5つの盗難騒ぎはそれへの反発と、不完全燃焼に終わった告白の代償行為だったのかもしれない。幸か不幸か、盗難騒ぎの中に〈カメレオン〉と〈へび〉が含まれていたことで、僕が二つの間の関連性に気づくきっかけが生まれることとなった。
 『暗号化した告白』というのは、本人の中には確かに告白をしたと言う事実が残り、周囲のニンゲンはそれに気づかないという絶好の状況を生み出せる。片思いの状態から少しだけ楽になりたいような場合はそれなりに有用な手段といえる。そう、春先に実際に僕自身も取った手段だったから、それがすこぶる良く分かる。泉西先生の読心術のせいで、美月本人の前で暴かれ、結果としてより恥ずかしい思いをするハメになったわけだが。
 そして、辰野副会長は、少なくとも〈くじら座〉をすぐに認識できるレベルで星座に詳しい人だと、僕は将棋大会の帰路で知っていた。

  やろうかどうかで悩んだ時は迷わずやって大失敗しよう。
  結果、ついた傷痕は前よりも強くなり、君を守るだろう。

  名も無き虫達だって光へ迷わず進む!

 この秋、僕はいくつもの困難や挫折感を味わってきた気がする。それでも、なんとかここまでやってこれた。それは、周りの仲間の存在が大きいし、過去の自分が頑張ったおかげでもある。
 曲はクライマックスに向けて、間奏に突入した。この16小節の間奏部分は、高楠先輩の譜面では〈ad lib.(自由に)〉と位置づけられていた。
 さっきまで、「用意した譜面通りに弾く……」と弱気だったはずなのに、ピアノがリズミカルに低音から高音まで及ぶ自由な旋律を奏でていた。
 ちょうど、その高楠先輩と眼が合った。
 どうですか? 生の演奏は? 視線でそう問いかけてみたのだが、そうするまでも無かった。その表情は、音楽を楽しんでいる者にしか浮かべることのできないであろうものだったからだ。
 その流れで、僕は周囲を見回す。久慈くん、美月、丹治先生――。他のメンバーは揃いも揃って、表情の変化とは縁遠い者たちばかりだ。それでも、流れ続け、編まれ続けている曲の躍動を感じれば、それぞれの想いはしっかりと伝わってくる。
 僕の右手もこの後、使い物にならなくなるんじゃないか、と思うくらいの速さで弦を掻き鳴らしている。
 春先に、音楽の自動作曲の話をきいたとき、音楽の衰退を頭に浮かべてしまっていたことが思い出された。
 でも。
 高性能なカメラが生み出されたら、意味がないと思って風景画を描く人はいなくなるだろうか?
 すごくリアルな立体映像装置が発明されたら、意味がないと思って旅行に行く人はいなくなるだろうか?
 自分より優れた人たちばかりで溢れていたら、僕は何もしなくなってしまうだろうか?
 人間より優れた機械ばかりで溢れた世界になったら、人間は何もしなくなってしまうだろうか?
 ――好きだから、ただ、やるんだ 理由はそれでいいし、そもそも無くてさえ良い――
 まだ大人になってもいない、ちっぽけな僕の中でも、今ひとつの答えが出せた気がする。

  大事なものは結果じゃない。積み重ねてきた軌跡だ。胸を張っていいんだ。
  下手だって不器用だって生まれてきた全てが名作なんだから。

 歌詞を聴衆に放ち切り、曲はエンディングの17小節に突入した。
 今日限りのバンドによる、今日限りの歌だ。考えてみれば、随分とこんな刹那的なことに時間を費やしてきた。それでも、楽しかった。やって良かった。
 学校祭が終わる。音夜祭が終わる。準備のための大変な日々がこれで、終わる。僕の高校1年生の秋が終る。

 演奏が終わった僕たちに、会場から大音量の歓声が飛んできた。望外の喜びだ。顔を見合わせてから、一同で一礼。名残惜しいが、後にも演奏がまだ3組あるので急いで片付けに移る。
 ステージ裏に引き上げると、身体はほてり、額も少し汗ばんでいた。
 「瀬田くん、本当にありがとう。もう、高校生活に悔いはないよ。これも、君が無茶苦茶言ってくれたおかげだよ」高楠先輩は、僕をばしばし叩くと、出会った頃のおどおどした感じなど微塵も出さずにそう言ってきた。
 「それは私も同じだよ。ただ、来週からの生徒達の視線が気になるがね……」丹治先生も相好を崩して続く。なんとレアなご尊顔。
 久慈くんもまた「げに喜悦至極なり。拙僧、正座にも多少の覚えあり。将棋にも僅かな助力能うかな」などと冗談を飛ばしてくる。台詞まわしはいつもの調子だったが、その表情は歳相応の男子高校生そのものだった。
 たった一度だけ歌を歌うという経験を経ただけでニンゲンはこうも変わるものなのか、と僕は静かに驚いた。そんな中、美月は一人だけいつもと変わらない様子だったが……、『いつもどおり』、それはそれでいいかもしれない。
 せっかくだから近くのファミレスで打ち上げでもしようか、という場の流れになってきたところ、僕はまだやらなければならないことを思い出した。
 「あ、先に行っててください! すぐ追いつくんで」僕は言うなりすぐに飛び出した。目的はただ一つ。
 体育館の入口の辺りに差し掛かり、渡り廊下を向こうに歩み去っていく後ろ姿が眼に入った。ギリギリ間に合ったか……。急いでやってきて正解だ。
 「副会長」その背中に僕は話しかけた。
 振り返った副会長は僕の姿を認めると、一瞬驚いた表情を浮かべたものの、
 「あの詞、私のこと言っていたの?」すぐ真剣な表情で問いかけてきた。しかし、それは怒っているといった雰囲気ではなかった。
 「半分は、ですね」と僕は正直に言った。「俺もここのところ色々あったんで」
 「……そう」
 扉を閉め切っているはずの体育館からは、勢いある楽器の音とヒートアップした観客の声が奔流となって漏れ出てきている。それと対照的に、僕たちの間にはしばらく沈黙の間が生まれた。
 「奥地会長にはどこまで話したの?」
 「特には。副会長をあの席に座ってもらうようにお願いしただけです。一連の騒ぎの犯人ということは感づいていると思いますけど、それ以外は多分……。会長って、そっち方面は鈍そうですしね」
 「そう、ね。すごく、鈍い」そう言って、苦笑を浮かべた。
 「この後、謝りに行こうと思ってたのよ」
 「品を拝借した部活に、ですか?」
 副会長が小さく頷く。
 「会長も言っていたとおり。やっていることは窃盗と何ら変わりなかった。迷惑をかけた全ての人たちに謝ることが、まず私のすべきことだ、ってね」
 「……そうですね。もしなんなら、ご一緒しましょうか? 俺、意外に顔が効くんですよ」
 「冗談。これ以上、恥ずかしい思いをさせる気?」
 「仕方ないですね。じゃあ、手の甲にペナルティを描かせていただきます」
 「ペナ……なんでそうなるのよ?」
 反論を試みる副会長を気にも留めず、懐から水性マジックを取り出した。
 「会長から命じられた謎解きのおかげで、バンドの練習時間が結構削られたんですよ。おかげで、本番で14箇所も間違えました。これって、副会長のせいですよね?」
 強引極まりない暴論だが、負い目のある副会長はそれ以上何かを言う気はないようだった。きゅきゅ、と文字を描いていく僕をただ黙ってみている。
 「1、6、0、4、5? ……せめてもっと達筆で描いて欲しかったものだけど」それを副会長は一文字一文字読み上げていく。
 「心の声が漏れてますよー? まぁ、俺の受けた損害は大体このぐらいかなと」
 「1万6千、ねぇ。弁明するわけじゃないけど、そんなに演奏ミスっているようには見えなかったけど」
 「いい仲間に恵まれたおかげです」
 「羨ましい話ね」
 「何言ってるすか。先輩も、でしょう?」
 僕の切り返しに、副会長は肯定も否定もしてこなかった。
 「さて……と、行ってくるかな」
 謝罪行脚においても、一番の難所はあの曲者部長のいるアロマ研究部だろう。足許を見て、何か要求をつきつけてくるかもしれない。
 それでも、副会長はきっと、両手を身体の前で揃えて丁寧にお辞儀をすることだろう。そのとき、アロマ部部長の目には手の甲に一見汚く描かれたあの『16045』が、逆向きで『shogI』に見えることだろう。
 ――最終的には、その代理の言うことに従ってもらえますか?
 ――うんうん
 そう、残念ながらアロマ部部長にはお詫びを拒絶する権利などははじめから無いのだ。
 踵を返し、静かに去っていく副会長の背を見届けてから、僕も歩き出す。
 勢い良く落ちているものは、もしかしたら、勢い良く昇っていくものを逆向きに見ているだけかもしれない。視点を変えようと思い立ち、変えることができるのは自分自身だけだ。
 トランポリンでより大きなジャンプをするためには、一時的に大きく沈み込む必要だってあるだろう。
 僕が駆け足で過ごした、この秋はどんな意味があっただろうか。その答えはもう得られている気がする。
 ふと見上げた夜の空には、散りばめられた繊細な星々に囲まれながら、月が燦然と輝いていた。

 

 小説『Winner in Winter =勝利の冬=』に続く?

 

小説『Fall on Fall =俯瞰の秋=』(3/4)

 *****

 「ハイレベルなプレーと言うのは、多くの人からは知覚してもらえないものだ。
  プロ野球のファインプレー集が分かりやすい。
  あれは、脚力が二流の選手が能力ギリギリのところを際どくカバーしたプレーばかりではないか。
  真のファインプレーとは、優れた脚力と素早い判断力によって当たり前のように余裕でこなされているものを言うのではないのか?
  つまり、だ。天才は、凡人に評価を求めてはならぬし、それによって揺らぐことなどあってはならないのだ」

                    ――『週刊ビジネスウィング9月号 冷谷山三冠インタヴュー』より

*****

 

 第三章 『祭までの日々』

 

 授業中にしょっちゅう寝入ってしまう僕だが、不思議と朝は強い。両親が休日も5時起きをする家に生まれたからかもしれない。
 そんなわけで、小学生から今の高校生に至るまで僕は毎日7時には教室にいる。
 中学生のときはテニス部だったから、朝練習というものがあったが、将棋部にはそのシステムはない。
 だから、これまでは教室で本を読んだり、携帯端末をいじったりして過ごしてきたが最近は少し事情が違ってきている。
 「……でね、二つの石像がどかんといるおかげで毎年展示スペースで一苦労しているらしいの」
 僕の前の席の椅子に腰掛け、琴羽野さんが楽しそうに話しかけてきている。
 「どこか引き取ってくれる人がいてくれれば喜んで引き渡すんだけど、って部長たちも嘆いていて。瀬田くんのおうちって一戸建てだよね? どう? 要らない?」
 「うーん、両親の趣味の品々で手一杯だしなぁ……」
 嘘はついていないが、どちらかというと要らないと言わないための配慮である。僕も随分大人になった。
 「あ、そうだ。ちょっと話が変わるんだけど、一つ聞きたいことがあるんだ……」
 「なになに?」
 僕は、気になっていた人物の名前を出した。クラスが違うから、ダメで元々と思っていたのだが、
 「あ、彼なら選択授業の書道で一緒だから知ってるよ」
 「そうなんだ。琴羽野さんの選択は美術かと思い込んでたよ」
 「うーん、第一希望だったんだけど人数が多くてね……。
  私も一応美術部員だし、筆捌きには自信があったけど、彼はもう反則だよね。本職だもん。え? 性格? ……うーん、基本的に寡黙で自分から積極的に話したりはしないけど、ぶっきらぼうってわけじゃないみたい。挨拶も丁寧だし、真面目ないい人だよ?」
 その言葉を聞いて、僕は安堵した。そして、作戦決行の決心を固めた。
 
 1時間目の休み時間、僕は1年3組に向かっていた。
 「君……が、久慈くんだよね?」
 教室すぐ脇の廊下で、僕は目的の人物と会うことができた。実家が寺である将来のお坊さん候補生、久慈健造くんである。
 身の丈は平均的ながら、年齢以上に大人びた表情を浮かべているその頭髪は一分刈り。いわゆる坊主頭。野球部員でもここまでしている生徒はいない。これは後ろからでも間違えようが無い。
 「左様だが……?」
 そして、低くそれでいて良く通る伸びのある声。イメージどおりだ。
 「はじめまして。そして、単刀直入にお願いがあるんです」僕は一歩踏み出して「僕たちのバンドのドラマーになって欲しいんだ!」
 
 *****
 
 その日の昼休み。僕たちは場を改めて話の続きをしていた。
 「いやはや、夢か現か。すっかり動揺いたした。拙僧、まだまだ修行不足なり」
 「いや、こちらこそゴメン。善は急げとばかり突然切り出してしまって……」
 二人して屋上の手摺にもたれながら、そんな会話を交わす。
 僕は、事情を詳細に説明する。今年の音夜祭で演奏をしたいこと、そのためにドラマーやヴォーカリストなどを探していること。そこで浮かんできたのが、木魚と読経で基礎能力が鍛えられているであろう久慈くんの存在だったこと。
 久慈くんは少し考え込んだ。音楽やバンドの経験などは当然ないと返されたが、それは僕も同じことだと切り返した。しかし、別の懸念点があるのか再び考え込む。やや間があって、
 「しかし、一斗和尚がなんと申すか……」
 一斗和尚、つまりは久慈くんのお父さんのことのようだ。普段は優しい表情を浮かべているが、修験者の前には鬼の形相で喝を入れる〈不動明翁〉として現れるという噂を聞いたことがある。
 読経研究部の活動の一環なら、許可も容易に下りたのだろうけど、なにしろ今度はバンド活動だ。羽目を外しすぎだと指摘されても強く反論できないところではある。
 「さすれば、一計あり。最近、寺にて奇っ怪な事件が起こりて、拙僧も和尚も頭を悩ませておる次第……」
 久慈くんはあらましを説明しはじめた。

 彼曰く、網諾寺の敷地にある墓地のうちのある区画で、墓石の向きが逆向きにされるといういたずらが頻発しているのだという。
 図を書いて説明したいと言うので、僕の生徒手帳とシャープペンシルを提供した。こうすることで、ちょっとした時間にも考えを進めることができそうだ。
 久慈くんはさらさらと図を書き進めていく。マス目を書き始める。これが区画らしい。1、2、3、4……。ちょうど、4×4で16マスある。
 次に、マスの中に移る。墓石の主の苗字でも書いていくのかと思っていたが、
 「って、これもしかして墓石のカタチ?」
 「いかにも」
 久慈くんが動かしたペンのあとには、文字ではなくイラストが描かれていた。象や、馬、お城なんかもある。コミカルなタッチのため、久慈くんののイメージからは少し違和感がある。
 完成した図は次のようなものだった。

 ・一番奥の列は左から順に、未使用、未使用、〈球の墓石〉、〈魚の墓石〉。
 ・奥から二番目の列は左から順に、〈馬の墓石〉、未使用、〈塔の墓石〉、未使用。
 ・奥から三番目の列は左から順に、未使用、未使用、未使用、〈城の墓石〉。
 ・一番手前の列は一番左に、〈象の墓石〉があり、あとは全て未使用。

 

図_墓地3.5

図_墓地3.5

 

 墓石は6個あるが、このうち〈馬の墓石〉と〈城の墓石〉の2つがいたずらの対象になっているのだという。
 「破壊損傷の類無く、被害軽微なり。されど……」
 寺の事務もあるため常に人を張り付ける訳にも行かず、厳粛な空間であるため監視カメラの類の導入も憚られる。墓石が損傷している訳でないが、こうしたいたずらを野放しにしておくわけにもいかない、という状況らしい。
 また、いつエスカレートするとも限らない。いたずらを寺側の管理不行届きだと主張する『モンスター檀家』が現れないとも限らない。
 そういったリスク的問題も少なからずあるが、一番の理由は「悪戯を改心させること、それが網諾寺の使命なり」だそうだ。精神の修行を重んじる網諾寺の思想は噂どおりのようだ。
 ぱっと見て思いつくような共通項や法則性はない。ある意味、盗難騒動よりも取っ掛かりが難しそうだ。
 うーむ、まずは少し考えてみるか。そうしないことには何も進まない。ちょうど、5時間目は地理の授業だ。
 何がちょうどなのかというと、地理の先生は要所を押さえた質の高い授業をしてくれるのだが、生徒を指名して答えさせる方式を一切とらない。そのため、授業中の〈内職〉がしやすいのだ。
 僕はドラマー獲得のため、5時間目の地理を大いに活用することにした。
 
 放課後の将棋部の部室に僕はいた。今日は元々僕が軽音楽部の練習の方に出ることもあって、将棋部の活動は休みとしていた。しかし、音響設備は共用なので、使用はローテーションになっている。順番が廻ってくるまでまだ時間があったので一人で思索しようと思い、将棋部の方にやってきていたのだ。
 「はぁ、ダメだ全然浮かばないや」
 僕は、にらめっこしていた生徒手帳を閉じて机の上に放り出す。あぁ、とにかく時間がない。久慈くんのドラマー参入も大事だが、僕のギターの方も課題を抱えているのだ。
 演奏曲で頻繁に出てくる、A♭などの人差し指で6本の弦を押さえるようなコードが綺麗な音を出せないのだ。指が短いのか、押さえようとするとかなりきつくて、攣りそうになってしまう。
 美月みたいに指先が器用だったらなんてことないんだろうな。この間の大会の際に、左手で見事な消しゴム印鑑を彫っていたのを思い出して僕は嘆息する。
 鞄から適当に裏地の白いプリントを取り出して、左手にペンを持つ。そして、戯れに文字を書いてみた。左手で字を書くというのは、案外良いトレーニングになるんじゃないかと考えたのだ。
 しかし、生まれ出されたのはへろへろっとのたくった、力のない文字だ。ま、まぁ最初から上手くいくとは思ってなかったけどさ……。
 改めて自分の潜在能力のなさに軽い衝撃を受けていると、机の上に置いた携帯端末が振動していることに気づく。音声着信だ。
 「あ、はい」
 「あ、ちょっと時間いいかな」
 相手は高楠先輩だった。この間、電話番号を交換していたことを思い出す。
 「なんでしょう?」
 「あー、バンドのメンバーのことなんだけどさ……。もう一人か二人人数増やせないかなぁ」
 「もうちょっと……って合計4、5人ってことすか? 条件その1は『あと一人追加』って話だったですよね……?」
 久慈くんの参入も確定していない今、さらなる人員増はもう無理だ。思わず悲鳴を上げたくなる。
 「まぁ、確かにそう言ってたのは事実だけどさ、音夜祭だよ? 考えても見てよ、すごい人数が集まるんだ。そうしたら……きっと緊張するだろ?」
 「そ、そりゃそうでしょう」
 「だからだよ。人数が多ければ多いほど、ほら、視線が分散されるじゃないか。じゃないと……元のDTMの形式に戻そうかと思う」
 あぁ、段々頭が痛くなってきた……。いや、折れるな桂夜、高楠先輩だけが今年の音夜祭に出るためのキーマンなのだ。ほら、こんなときこそ、泉西先生の悪逆非道を思い出し、それに比べたら――と考えるべし!
 「わ、分かりましたから。考えておきます」
 「頼んだよ。あ、あと今日の練習は16:30からだから」
 「はい、もうしばらくしたら向かいます」
 やっと通話を終え、大きく息を吐き出す。親父が仕事の繁忙期に神経性胃炎の薬をもよく飲んでいたが、僕にもそろそろそういう類が必要かもしれない。
 さて、少し早いけど移動を始めるか。のんびりしていて泉西先生に絡まれでもしたら厄介だ。などと考えていたところ、戸口から声を掛けられた。
 「ケーヤ?」
 美月だった。土曜日の大会の後から、三日しか時間が空いていないはずだが、もう半年も会っていなかったかのような感覚だ。
 今までと変わらない雰囲気で話しかけられたことが逆に、大会後なんとなく僕が持ち始めてしまった彼女との距離感とのズレを生じさせて戸惑ってしまう。
 「きょ、今日は休みって言ってなかったっけか? どうして?」
 「なんとなく」そう言って部屋の中に入ってくる。
 美月は、あの日の僕のことを何と日記に書いたのだろう。こうして変わらぬ態度でいるということは、悪いようには書いていないのか。いや、そもそも記述に値する出来事と扱われていなかったとか――。
 詮無いことと分かっていても、ついそんな些細なことが気になってしまう。
 「あ、それは……」
 美月が僕の左手訓練に使ったプリントを手にしているのを見て、慌てて立ち上がる。
 「1、6、0、4、5……。何なの? この汚い字」
 「1……? って、汚い字で悪かったな。ギターの訓練のために左手で字を書いてたんだよ」
 僕はプリントを鞄の中にくしゃっと押し込んだ。
 「それはともかく……。そろそろ軽音の方に行く時間だから。まだ居るなら、鍵置いてくけど?」
 「じゃあ、あたしも帰るよ」
 結局、今日美月と交わした会話はそれだけだった。もっと、何か話すことがあったんじゃないか? 自分が変わらなければいけないんじゃないか?
 あの日以来、僕は将棋の勝ち方だけでなく、美月との接し方も見失ってしまったのかもしれない。
 音楽室へと向かう足取りはなんだか重かった。

 はじめての合同練習の結果は凄惨たる結果に終わった。僕のギタースキルは自分で思っているほど上達していなかったのだ。
 個々のコード自体はそれなりに押さえられるようになってきているものの、流れるようには弾けなかったり、音の強さが安定していなかったりと課題が次々と浮かび上がってきた。
 演奏曲の方も、曲のメロディーや構成が高楠先輩の納得の域に達していないらしく、細かな範囲ではあるが刻一刻と変化し続けている状態だ。
 「これは、練習量を増やさないとどうにもならないかな……」と呟くものの、そんな時間を生み出せるほど余裕は無かった。
 盗難騒ぎの解決、久慈くん勧誘のための墓事件の解決、将棋や美月との関係性……。まるで、雪かきをしている最中にも新たな雪に見舞われているような気分だ。
 ふと気づくと、携帯端末が振動していた。どうやら、琴羽野さんからのメールのようだ。こんな時間になんだろう……。

 ちょっとすごいもの見つけたから、美術室来てみない?
 
 『ちょっと』と『すごい』っていうのはくっつくものなのか? と思ったが、どうせ、この後は帰るだけだし、すごいものというキーワードに惹かれたので訪ねてみることにした。
 美術室に着くと、中には琴羽野さんだけしかいなかった。こんな時期に部活が休みとなるとは、美術部の学校祭準備計画はばっちりということなのだろうか。
 「美術部の準備は順調なの?」
 「うーん、順調……かな? 美術部はやることが毎年変わらないの。各自にスペースを割り振って展示品を飾るだけっていう……。私の代になったら、全員で合作を作るとか、画集を出すとかもっと色々と挑戦してみたいんだけどねー……」
 なるほど、良く考えれば、先輩がいるというのも良いことばかりじゃないんだろうな。
 美術準備室に入ると、どかんと大きな二つの石像が立っていた。
 「あ……、もしかしてこれが?」
 「そう。今朝話していた〈王女の像〉と〈騎士の像〉だよ」
 これは確かに立派だけれど、同時にスペースもかなり取ってしまっている。ありがたいような、ありがたくないような。どこかの顧問と同じ存在といえる。
 琴羽野さんは慣れた手つきで戸棚の一番下の引き出しを開けた。取り出したのは2冊のスケッチブックだ。そのうちの一つをパラパラとめくると、あるページで止めて僕に手渡してきた。
 「でもすごいものは、こっちの方! 見てみて」
 受け取って、指し示された左下の辺りをまじまじと見てみると。
 「ん……? これ、もしかしてクマッタ?」細部こそ異なっていたものの、それは最近ちょっとしたブームになっているクマッタに良く似たイラストだった。ページ自体は花瓶をスケッチしたものだったが、その端っこにいたずら書きのように描かれていた。
 「でね、ここに『N.ANDOH』ってあるでしょ?」今度は右下のサインの部分を指し示される。確かに、言われたとおりになっている。
 「これ、イラストレーターのアンドウ・ナツさんの学生時代のスケッチだったの」
 「え!?」大矢高校のOB・OGに著名人が多いことは知っていたが、急に知らされた事実だったので派手に驚いてしまった。クマッタとこんなところでつながりがあったとは。
 「いや、ビックリしたけど、貴重なものが見られたよ。ありがとう」
 僕がスケッチブックを丁寧に返すと、「いえいえ、どういたしまして」と琴羽野さん猫の口のように口角を上げて嬉しそうに受け取った。
 「それで、もう一つ。私、瀬田くんのことが好きなんだ。いつか、付き合ってもらえる?」
 「ん、ん? えっ!? 今なんて……」
 「こういうこと何度も言わせないで欲しいんだけど? いつか付き合って欲しいの」
 泉西先生のせいで、突然のことには強くなったと思っていた自信は完全に撤回することになったようだ。肌寒い部屋に居るはずなのに掌には汗が浮かび、頭の方は少しぼうっとしている。僕は生まれてはじめて受けた告白に自律神経が乱れているのを感覚した。
 「で……も、『いつか』っていうのは?」しかし、そんな中でも僕は琴羽野さんの台詞の中にあった不自然な箇所を条件反射的に確認していた。
 しかし、大人しい女の子と思っていた琴羽野さんは今日は随分と堂々と答えてくる。しかも、僕がもっと心が乱れるようなうなことを。
 「瀬田くん、織賀さんのことが好きなんでしょ?」
 「……!」
 僕が美月と彼氏彼女の関係にあることは、学内だと福路くんにしか言っていないことだ。
 「別に隠さなくてもいいんだよ。こういうのって、第三者からだとよーく分かるんだ。
  ……で、相手が織賀さんじゃ、今の私じゃ悔しいけど勝ち目がないと思うの。でも未来は分からないじゃない?
  いつか、瀬田くんが私の方がステキだと思ってくれる日が来るかもしれない。だから、本当に勝手だけど今は答えを言わないで欲しいの」
 少しずつ琴羽野さんの意図が理解できてきた。琴羽野さんは、圧倒的不利を認識しているからこそ、時間を味方にすることにしたのだ。
 「本来であれば、こんなの不平等だって分かってる。でも、瀬田くん、ちょっと鈍そうだし……。だから、私の方が勇気出さなきゃって」
 そういいながら、琴羽野さんはもう一つのスケッチブックをゆっくりと開いていく。
 「これは……」
 現れた線画に僕は息を呑んだ。それは、今年の学校祭ポスターに決まった、『夜空の月に向かって飛ぶ鳥』に間違いなかった。
 「願掛けしてたの。カント・リケージの〈夜の月〉っていう小説の中に出てくるんだけど、『夜と月とは切っても切り離せない関係』だと思ってたから。
  そんな夜と月に向かって飛ぼうとしている姿を見て、多くの人が票を入れてくれたら、応援してくれたなら告白しようって」
 「……」
 僕はうまい返事が思いつかないでいた。
 これが先週だったら、僕は「気持ちは嬉しいんだけど……」と返事を返していたかもしれない。答えを言わないで欲しいといわれても、僕が美月を大切にし続けるという意思は揺るがないと思ったことだろうし、琴羽野さんを保険のようにするような自分は絶対に許せなかっただろうから。
 しかし、今日の僕は事情が違っている。美月とのアンバランスを感じはじめている。
 琴羽野さんは美人というほどではないが、愛嬌があり、一緒にいてとてもリラックスできる女の子だ。未だに緊張することのある美月といるときよりも、飾らない自分が出せている気はする。
 僕が黙考して佇んでいるのを見て、琴羽野さんはスケッチブックを戸棚に戻し始める。
 しばらくお互いに無言のまま、部屋を出る。琴羽野さんは施錠をして戸が開かないことを確認すると振り返る。その表情は、大人しそうないつもの琴羽野さんだった。
 「お願いだから、次に会ったときもいつもどおり接してね……。じゃないと、私の勇気が無駄になっちゃうから……」
 そう言うと、呼び止める間もなく廊下を足早に去っていってしまった。
 
 自室に戻り、ベッドの上に寝転がる。
 生徒手帳をパラパラとめくり、『やること/考えること』と冒頭に書かれたページを開く。その多さに、思わずため息が出た。
 一つ一つクリアしていくしかないのだろうけれど、どうにもエンジンがかかってこない。
 「疲れた……」
 睡魔が襲ってくる。寝ている暇などないのに、酷い奴らだ。眠気を取ろうと、カラーボックスの上に置いてあるミントのガムに手を伸ばす。しかし、睡魔のジャブを既に受けているためかうっかり取り落としてしまった。
 それでも力を振り絞り、床に転がりながら、ガムを手にしようとして、視線の延長線上にある本が眼に入ってきた。
 『佐波九段名局集』、僕が尊敬する今は亡きプロ棋士の言行をまとめた本だ。
 小学生の頃に欲しい欲しいと言って親父に買ってもらったものの、活字の多さに辟易し、本棚の中に入れたままにしていたのだ。
 寝ている暇さえないはずだったのに、僕は無意識のうちにその本を開いていた。
 
 ――たまたま私の指した将棋が最後に見る一局になる可能性だってあるでしょう。
 ――だから、常に誠心誠意の将棋を指し続ける。それが、この佐波新継の生きる意味なんですな

 ――人に好かれたいとか、人に認めてもらいたいと常々思っておられる方は、まず己自身が己自身を好いて、認めるとよいでしょう。

 死に瀕したわけでもないのに、頭の中に走馬灯のような映像が流れ始める。次に、僕は今年の日記帳を手に取った。
 自由にさせるのが教育方針だと常々口にする親父が唯一僕に強要したのが、日記を欠かさず付けることだった。
 「未来には、過去の自分はもういないんだ。未来の自分はそれをいいことに、簡単に約束を破るんだ。だから、過去の自分が未来にも生きられるように日記はつけておけ」頭の中に親父の言葉が蘇る。
 今年の春から順々に見ていった。
 4月最初のころは軽音楽部に絶対入る、といったことばかり書いてある。やがて、将棋部の話や美月の記述が現れる。そして、学業と音楽と将棋の鼎立で高校生活を頑張るという文がでかでかと現れる。
 7月中旬頃、美月の秘密を知るところとなり、何に代えても協力するということが力強い筆跡で書かれていた。
 いずれも、書いたのは他人じゃない。紛れも無く過去の自分なのだ。過去の自分は、未来を知っていたらこんなことを書かなかっただろうか。そんなことはない気がした。
 そして僕は、パーンと一回両頬を打った。じんわりと痛みが引いていくのと同時に、僕の中にあったわだかまりも少しずつ解けていくのを体感する。
 「美月……」
 毎日不変のように見えるあの美月も、次の日のために、未来のために毎日バトンをつないでいるじゃないか。
 そう、未来は現在の延長線上にあるのだ。明日の答えなら、今日のどこかにしかない。

 *****

 週のど真ん中の水曜日。週末が待ち遠しい気持ちと文化祭までの日数は減って欲しくないジレンマが僕を攻め立てる。
 気力は復活したものの、絶対的な時間が足りないという事実は変えようが無い。
 不意に鳴った予鈴にはっとなる。どうやら、気が付いたらもう昼休みの時間になっていたようだ。
 最近考えることが多すぎて、授業の内容が全く頭に入ってないことが多発していたが、今日に至ってはタイムリープしたようなレベルだ。学校祭に力を入れている生徒の中には似たような連中もきっといるはず、いや絶対いる。……正直、次のテストが心配だ。
 さて昨日と同じく、屋上で久慈くんと話をする約束となっていた。ただし、今日は昼飯を食べるところからだ。早速、弁当を持って屋上に向かうと、寒空に相性の悪そうな坊主頭は既に待っていた。
 「ゴメン、寒くなかった?」通り過ぎていった冷たい風に首を縮めながら僕は尋ねたが、
 「否、朝5時の本堂の境内と比べればこれしきは」
 さすがに、鍛え方が違うなと僕は舌を巻いた。
 「あれ? 久慈くんの弁当は?」彼が両手に何も持っていないことを指摘すると、答えはすぐに返ってきた。
 すうっと持ち上げたのは竹の皮に包まれた古風な包みと竹筒だった。どうやら、腰のベルト辺りからぶら下げていたようだ。
 「すごい……、こういうの時代劇でしか見たこと無いよ」
 「裏山に広大な竹林があるゆえ」
 「えーと、そっちじゃなくて……。もしかして、中身もおにぎりとか?」
 「左様。塩むすびとしば漬けなり」
 まだしていなかったお互いの詳細な自己紹介や趣味などしばらくは他愛のない談笑をしていたが、やがて自然と墓場の謎について話が及んでいった。
 「色々と考えてはいるんだけど、まだこれといった推論が立てられていないんだ」
 「左様か。当方はお知恵をお借りしている身。本来、ゆるりと思索いただきて問題なけれども……」
 「音夜祭は刻一刻だからなぁ……」
 そう、今日を入れてもあと10日程しか時間は無い。それだけでも、相当厳しい。せめて、今日か明日中にはなんとか久慈くん参入を完了しないと僕の音夜祭は不戦敗に終わってしまいそうだ。
 「将棋部の方はしばらく一時中断するかな……」僕はなんとなくそう呟いていた。
 明日と来週2日、学校祭までの間に一応将棋部は3日分集まることにしていた。しかし、現実的に考えて今の僕にその時間は非常に貴重に思われた。
 斎諏訪のプログラム改修は恐らく問題なく進むだろう。あとは学校祭当日にぶっつけでもなんとかなるのではないかと考え始めていた。
 つい、頭の中が脱線してしまったなと久慈くんの方を伺うと、
 「一時中断……」彼は何かに気づいたような表情を浮かべている。
 「申し損ねていたやもしれぬ。実を申せば、以前にも同様事象ありけり」
 「えっ? なに? どういうこと?」
 彼によると、墓石に対するいたずらは『再発した』というのが正確らしい。
 以前に起きたときの対象は〈馬の墓石〉と〈象の墓石〉だったとのこと。今回は〈馬の墓石〉と〈城の墓石〉なわけだから……、
 「〈馬の墓石〉は毎度いたずらの対象となっているのか。……あるいは、逆の見方をするなら、〈象の墓石〉は何故いたずらされなくなったか、だ」 
 〈象の墓石〉についてはもう気が済んだとか。いたずらの対象は2つが限界で、〈城の墓石〉を対象に変えたからとか。
 「御仏の威光ある〈塔の墓石〉が入りしことで、ひとたびは改心したものなりか」
 「御仏、ねぇ」
 ……。……?
 「久慈くん、そこのところもう少し詳しくきかせて」
 「〈塔の墓石〉は五重塔のような形式になっており――」
 「――あ、そっちじゃなくて……『入りし』ってとこで」
 静的な図ばかり眺めていたためすっかり考えから抜け落ちていたことだが、墓石のできた順番というものが事件に関係しているのではないかと思ったのだ。
 教えてもらった追加情報は次のようなものだった。

 

図_墓地0

図_墓地0

 

 かねてから申込のあった〈球の墓石〉〈魚の墓石〉〈馬の墓石〉は供用開始にともなって一番最初に入ってきた。

 

図_墓地1

図_墓地1

図_墓地2

図_墓地2



 その後、〈象の墓石〉、〈塔の墓石〉、〈城の墓石〉の順に入ってきたのだという。
 そして、はじめにいたずらが起きはじめたのが、〈象の墓石〉ができた直後だったという。
 その後、〈塔の墓石〉ができてからしばらくはピタリと止んでおり、一番最近できた〈城の墓石〉に入ってきた後、再開したとのこと。
 そして、不意に〈跳躍(リープ)〉は訪れた。
 この『一つ置き』というリズム感はもしかして……。僕は図面を見たまま頭を回転させていく。条件に当てはまるのは、どの墓だ? 一つずつ慎重に検討していく。その結果、対象は一つに定まった。
 とすると、そのいたずらをやめさせるためにはどうしたらいい? 何か打開する手立てはあるだろうか?
 この一件は、真相を突き止めるだけでは片手落ちなのだ。そう、依頼主である網諾寺の使命も満たさなければならない。
 「……瀬田殿?」
 突然黙りこんだためか、久慈くんが心配顔で覗き込んでくる。
 僕にとっての長考は、〈跳躍(リープ)〉で瞬間的に思いついた手を正解と全面的に信用して、それが正しいことを時間を掛けて立証していく作業に他ならない。
 地道に、積み重ね積み重ね、その結果たどり着くような努力型のものでなく、もっとこう、横着な答えの出し方だ。それゆえに、時間さえあればいつか答えにたどり着けるような確実さはない。
 僕は今までこの現象を長所だとか特技だと思うことはできないでいた。しかし、今日ははっきりとそれが訪れたことを誇りに思うことができた。
 「……多分、分かったよ」
 眼を丸くしている久慈くんに、僕は考えの全てを伝えた。久慈くんはその内容と僕の提案にやや驚きつつもその全てを全面的に受け入れてくれた。
 同意が得られたところで、僕は携帯端末である人物に電話をかけた。
 「……あ、勝田くん? 実は急で突拍子もないお願いがあるんだけど……。できるかどうか聞かせてもらいたいんだ」
 僕は仔細を伝える。すると、「ちょっと待っててくれ。親父に電話するから。また折り返すよ」とのこと。
 しばらくすると、携帯端末が鳴った。随分と早いなと思い、画面をみるとメールの方を受信していたのだった。差出人は奥地会長だ。
 もしやまたどこかで――と思い開いてみると案の定、
 
 爬虫類研究会『カメレオン』盗まれる。
 
 という内容だった。
 「いかがされた?」久慈くんに問いかけられて我に返る。
 「いや、なんでもないよ。我が家の晩飯の話」咄嗟に小さな嘘をつく。この件は秘密裡に動かなければならないのだ。
 それにしてもカメレオン、か。図鑑のページなのか、模型なのか、ぬいぐるみなのか。メールからは判断できないが、実際に本物と言うことはないだろうけど。
 クマ、クマ、コウロ、カメレオン。いずれもカ行ではじまる言葉だが、何か意味があるのだろうか。
 児童文化研究部、映像研究部、アロマ研究部、爬虫類研究部。部活で考えると、いずれも文化部であり『研究部』という単語が入っている。
 うーん、やはり現段階では浮かんでこないな…。果たして、先程の墓石の件のように〈跳躍(リープ)〉は起こってくれるのだろうか。
 あれこれと思索しているうちに、再び携帯端末が鳴った。
 「もしもし?」
 「おっす、おれだよ。おれ」今度こそ勝田君だった。
 「で、どう……?」
 「親父に話はついたぜ。すぐに手配してくれるってさ」
 「良かったぁ」僕は胸を撫でおろす。これで、問題の解決の第一歩に踏み出せたといえる。
 「親父もだけどおれも嬉しいぜ。やっと恩返しができたんだからな。って、まだ足りないか?」
 「そんなことないって。これでもう十分だよ」
 勝田くんが言っているのは、春先に僕が問題解決した一件のお礼のことだ。勝田くんの実家は商社で、勝田くんの父が社長、おじいさんが会長を務めている。社長提案の事業計画に対する回答を謎掛けで返した会長の意図を解き明かしたことで、随分と感謝されたのである。
 「また、何かあったら遠慮なく言ってくれよ? あ、学校祭の日、余裕があったら陸上部の焼きそばもヨロシク!」
 「もちろん。部員分買いに行くよ」
 「じゃ、またな」
 携帯端末の通話を切り、久慈くんに向かって指で小さな丸を作ってOKを伝える。
 「じゃ、今日の放課後に予定通り進めようか」
 「御意」
 
 *****
 
 放課後になり、学校前からバスに乗ること20分。『網諾寺前』という停留所で降りた。
 自宅の前にバス停があるというのはなんとも羨ましい限り話だが、お墓参りにくるご老人も多かろうことを考えると、理に適っている。
 「遠方より、ありがたきかな」
 正門のところには先に帰宅をしていた久慈くんが待っていた。服装こそ制服のままだったが、面白いことに、その言葉遣いやたたずまいは寺の雰囲気と周囲に溶け込んでいて違和感がなかった。
 秋も深まりつつあることを示すように、寺の境内にある木々は赤や黄色の装いをしはじめている。ついこの間までは日差しを遮る緑色の葉に感謝していたと思っていたから、時間がたつのは早い。
 手水場を横切り、石畳を歩んでいく。その先は正面に本堂、その脇に道が左右に分かれていた。
 「あちらが墓地なり」久慈くんは左側を指差して言う。
 目的の人物はまだ現れていないようなので墓地と間逆の方にある社務所で待つことにした。
 戯れにおみくじを引いて小吉を出してみたり、絵馬に次の大会で優勝できるようにと書いてみたりしていると、小さな人影がすすっと墓地の方に向かっていく様子が見えた。
 「あの御方なり」どうやら目的の人物が現れたようだ。
 急いで墓地区画の方に向かうと、ちょうどその人物はこちら向きに戻ってくるところだった。奥の墓地のほうからは何人かの声が聞こえてくる。僕が手配をお願いした人たちが作業をしているらしい。なるほど、目を瞑り合掌するには少しにぎやか過ぎるし、なにより『いたずらもしにくいと感じた』のだろう。
 距離がだいぶ近づき、相手も僕達の存在に気付いたようだ。
 背の丈は僕達より少し低く、髪はヤマアラシのようにツンツンと立たせている。制服はそこそこ着崩され、通学カバンには大小様々な装飾品が付けられていた。
 「……どーも」言葉もぶっきらぼうなものだったが、平日の夕暮れに墓参りをするくらいだ、根は案外真面目なやつなのかもしれない。
 「……君、栗井虫中の3年生だよね?」僕は単刀直入に尋ねた。
 その制服は非常に見覚えがあった。栗井虫中学校は、僕の母校、美節中学校の隣の校区だ。何度か訪れたことがある。また、Yシャツのボタンの外し方、カバンの汚れ具合。雑多で細かな情報から恐らく3年生だということが予想できた。
 「そうすけど……?」
 「今日は動かさないんだ。墓石」
 「……!」
 すぐさまヤマアラシの表情を伺うと、突然ナイフを喉元に押し付けられたかのように眼を見開いていた。なんとも分かり易いことである。
 「……証拠。そう、証拠なんてないだろ? 言いがかりもいい加減に――」
 「――監視カメラには気づかなかったのか? まぁ、最近のは精巧にできてるから無理もないけどね」
 「監……」
 もちろん、嘘だ。しかし、急に尋問を受けた彼にとっては非常にインパクトのあるキーワードだったようで、急に言葉を失うと視線をそらしてしまった。その様子が彼自身がいたずらをしたことを認めた証左となってしまっている。
 「一体全体なにゆえ……?」ヤマアラシの顔色が思わしくないのを見て、久慈くんが静かに問う。
 しかし、ヤマアラシは敷石の脇に転がっている小石をじっと見つめたまま答えない。それは、しらばっくれるという類ではなく、どうせ理解などしてはもらえまいという諦観であると僕は読み取った。
 そこで僕は丁寧に語りかけた。
 「……〈魚の墓石〉がおじいさんの墓なんだよな。その〈チェックメイト〉を外すため、だろ?」
 僕がさらりと言ってのけたためか、ヤマアラシは一呼吸遅れてからやっと顔を上げた。その表情はさっきとはまた違った種類の驚きの表情だ。
 〈チェックメイト〉はチェスの用語で、将棋で言うところの〈詰み〉にあたる。キングに〈王手〉がかかっており、かつ、どこに移動しても必ず捕獲されてしまうような状態だ。
 「……なんで、そんな」
 「まぁ、だてに高校生じゃないよ」
 1歳しか年下でないヤマアラシを前にしてつい見栄を張ってしまったが、かなりの試行錯誤はした。
 〈馬〉もあることだし、初めは将棋の〈馬〉かと思っていたがそれではどうやっても〈詰み〉にはならなかった。
 あれこれと考えているうちに、これはチェス盤のようにも見えるんじゃないかと思いついたのだ。チェスの盤は8×8。現在は4×4の第参区画が全て供用された暁には8×8になる。そうして改めて見ると、墓石の形の中にはチェスの駒に見立てられそうなものが幾つかあった。
 〈馬〉はナイト、〈球〉はポーン、〈象〉はビショップ、〈城〉と〈塔〉はルークと見立てることができる。
 そして、2度の墓石へのいたずらの結果いずれも〈チェックメイト〉を免れるのは……〈魚〉の墓石のみだったのだ。
 「……で、警察呼ぶんすか?」ヤマアラシは僕の様子を伺うように言う。中学三年の10月、高校受験が次第に迫っている時期だ。気になるところだろう。
 「いや、そんなことはしないよ。ただ、君にはもうこんなことは二度として欲しくない。それも、できれば納得してもらった上でね」僕は毅然として言う。
 「でも、そんなこと――」
 「――そんなこと、無理だって思うか?」
 ヤマアラシの言いたいことは大体分かる。少しチェスができる者がこの〈局面〉を見たら、チェックメイトだと思うだろう。
 〈魚の墓石〉は今、〈城の墓石〉によってチェックがかかっているが、間にどんな駒を埋めて防ごうとしても〈球〉が利いているため無意味なのだ。だからこそ、ヤマアラシは〈城〉の向きを変えて味方側にすることでチェックを外したり、〈馬〉の向きを変えて味方側にすることで〈球〉を取りながら逃げられるようにしていたのだ。
 「無理だ。どう考えても」
 「本当にそう思うのか?」僕は少し挑発的に再度問う。
 「……絶対、無理だ!」
 その叫びは、挑発に対する怒りというよりは、そんなことできるならやってくれよという身を切るような哀願にも思えた。
 「よし。じゃあ俺が〈プレイヤー〉になろう」そう言って、僕は生徒手帳を取り出す。
 手招きに応じて、ヤマアラシと久慈くんが傍らに寄ってくる。
 「今の局面は、俺たち側の手番だ。そこで僕はここにクイーンを引き寄せる」僕は〈魚の墓石〉と〈城の墓石〉の間にイラストを書き入れる。クイーンを示す冠のマークだ。

 

図_墓地4

図_墓地4

 

 「だから、そこはポーンが利いているから――」
 「取れると思うか?」僕はヤマアラシの目をしっかりと見据えて言う。
 「いいか。これはチェス盤を模しているが、それ以前に墓地なんだ。この入居したばかりの〈城の墓石〉が〈クイーンの墓石〉を押し退けるようにして墓を移すなんて手を指せるか?」
 「それは……」
 「なんなら、この見えないマスの先にルーク辺りが控えていると考えてもいい。それなら、クイーンを取られてもさらに取り返せる」
 ヤマアラシは僕の言わんとしていることをとりあえずは了解したらしい。しかし、まだ簡単には引き下がらない。
 「百歩譲って、当座はそれで凌げるってことでいい。……けど、この局面はリスクがまだ残っているよな? こことここの2箇所に」指差したのは〈塔の墓石〉の横に接した空間だ。

 

図_墓地4.5

図_墓地4.5

 

 「ここにナイトを連想させるような墓石が入ってきたとしたら、今度こそ防ぎようがない。ナイトの利きは防ぎようがないんだ!」
 そう。そこまで考えないと、片手落ちなのだ。彼を納得させることはできない。僕は小さくうなずき、
 「だから、次の手でここに〈騎士〉の駒を置くんだ」僕は〈象〉の上のマスに馬の絵を書き入れて指差す。

 

図_墓地5

図_墓地5



 

 「そうすると、もう〈チェック〉は不可能になる。だろ?」僕はヤマアラシの様子を伺う。
 「各プレーヤーの持ちうる〈ナイト〉は2つだけ、ってことか……?」
 「もっと言うと、この局面は〈ステイルメイト〉っぽくなっている」
 「……た、しかに」ヤマアラシはハッとなったように手帳を覗き込む。
 この4×4の外がどうなっているかは不定なのだから厳密には確実ではない。しかし、元々が本人の心の問題なのだ。本人が認めたなら、それは〈ステイルメイト〉となる。
 「だけどよ、今のは仮の話だ。将来、そんなに都合よく〈クイーン〉や〈ナイト〉が入ってくるかは分からないだろ?」
 やはり、そうきたか。しっかりと準備をしておいてよかった。
 「じゃあ、これから見に行こうか」
 そういうと、事情がすぐに飲み込めないのかヤマアラシはその場に突っ立っている。
 「墓地の方、行くぞ?」
 「あ……?、あぁ」
 
 墓地に着くと、運送業者の人たちが待っていた。
 「おつかれさまです、ご依頼どおり王女さんのほうは先に置いておきましたんで」
 「どうもありがとうございます。では、これから騎士の方もお願いできますか?」
 「がってん。……おい、サブ! タケ! 持ち上げ準備だ!」
 「へい!」
 運送業者の人たちが作業に入ったところで、僕は王女の見える角度にヤマアラシを誘導する。それは、美術部で持て余されていたあの王女の石像だった。
 「あれが〈クイーン〉。そして、今、持ち上げられて……下ろされているのが〈騎士〉だ。よくできているだろ?」
 指差した先には、もう一つの騎士の石像。まさに土台に載せられて向きを調整させられているところだ。
 「な……んで」
 「美術部の知り合いに事情を話したら、喜んで提供してくれたよ」嘘ではないので、そんなこともさらりと言えた。
 「正式なる入居者が現れし日まで、石像置くこと能うなり。無論、今後の墓石配置の折は可及的配慮する所存なり」
 久慈くんがいつの間にか取り出していた数珠を手首に通し、合掌して宣言する。
 ふと視線を戻すと、手前に王女、その先に騎士が見える。騎士の石像の方も作業が終わったようだ。綺麗に位置が定まり、土台の方には転倒時に備えて目立たない範囲での補強が加えられている。
 陽光を受けて見た石像はいずれも屋内の蛍光灯の下で見たときよりもリアリティが感じられた。
 この石像も本来であれば、去年の学校祭で一度役目を終えている。祭の後で処分されていてもおかしくなかった存在だ。それが墓地とはいえ、こうして再び役目を帯びて立像することになった。将棋の持ち駒のように。
 「……がとう」
 傍らに居たヤマアラシが小さな声で礼を言ってくれた。それはほとんど聞き取れない言葉だったが、僕は敢えて聞き返そうとは思わなかった。

 和尚の務めが終わるまで、僕は寺の手伝いをしたり、談話をして過ごしたりしていた。
 気づけばすっかり日も暮れてきていた。和尚が本堂に待っていると聞いて、僕たちは向かうことにした。
 本堂はとても広く、たった3人では落ち着かないほどであった。用意されていた座布団に正座をする。将棋道場で多少鍛えられているといっても、普通の男子高校生よりはと……いうレベルだと思う。久慈くん、僕の足が痺れる前に速攻で決めてくれ! そう心の中で祈ることにした。
 「一斗和尚、折り入っての話があり……」そして、久慈くんは切り出した。
 墓石のいたずらの謎がとけたこと。いたずらの主が改心してくれこと。
 謎が解明し、事態も収束できたと一斗和尚は普段以上に柔和な表情を浮かべている。機は熟したと見て、久慈くんは続けて本題に入った。
 僕がバンドのメンバーを捜していたこと。そのバンドのドラマーとしてスカウトされたこと。しばらく、その練習に時間を使いたいこと。
 すると、一斗和尚の顔からは次第に笑顔が失われていった。山頂の雲の流れのような急激な変化だ。
 やがて、一斗和尚は完全なる無表情になり、久慈くんの話をじっと聞いている。
 僕は微動だにできず、握り締めた拳の内側にじわじわと汗を浮かべることしかできない。これが、噂に聞く〈不動明翁〉。なんという威圧感だ。
 しかし、久慈くんも負けてはいない。その威圧感に声を震わせることもなく、話を続ける。血のつながっている親だから気にならない、ということではないだろう。日々の鍛錬の賜物だろうと感じた。
 久慈くんが話を終えて室内には静けさが訪れた。余りに静か過ぎて、耳の奥でキーンという高音が鳴っているような気さえしてきた。
 じっとしているのがこんなに辛いことだとは。
 やがて、一斗和尚が静かに口を開いていき、出てきた言葉は。


 「――っ喝!!」

 

 寺の建築物としての寿命が10年は縮みそうな大声が部屋一杯に響いた。
 これには、僕だけでなくさすがの久慈くんも肩をびくつかせる。
 「だからお前は未熟なのだ。助力を求められたにもかかわらず、二つ返事で引き受けぬとは! 人助けこそ大いなる修行の一環。明日といわず、今宵から準備をせい!」
 圧倒的な声量のせいで、僕たちはすぐに意味が理解できなかった。しかし、言葉の内容を消化しきると、互いに顔を見合わせて破顔した。
 ふと見ると、一斗和尚はいつもの柔和な表情に戻って茶をすすっていた。部屋の外で、秋の虫がリリリと彼らの音夜祭を始めていた。
 
 *****
 
 こうして、僕たちのバンドは準備が整った。次の日、久慈くんは早速ドラムの使い方を覚えるため、一緒に練習に参加してくれることになった。
 始めこそ、木魚と楽器との勝手の違いに戸惑っていたが、飲み込みは早く基本的なリズムは瞬く間に習得してしまった。元々、音楽的センスも良いのだろう。
 はじめは、心配顔だった高楠先輩も今ではすっかり表情を穏やかにしている。
 また、睨んだとおり、手を動かしつつ歌うことも問題がないどころか、お手の物だった。僕と高楠先輩が高めの声なので、低音ボイスなのもバランスとして非常に都合が良い。3人で歌えば心強い。これで、ヴォーカルの問題も解決しそうだ。
 順風満帆、いいことづくめのようにも思われたのだが、一つだけ欠点があった。それは脚だ。
 キックドラムだけは何度練習しても一向に上達しなかった。「正座を続けるは容易なれど……」と坊主頭を掻く。それどころか、椅子の上に正座をしたほうがやりやすいと申告したのだ。
 これは、ドラマーとしては致命的か、一体どうなってしまうのかと暗澹たる気持ちに包まれかけたが、ここは高楠先輩が一肌脱いだ。
 腕のスキルは全く問題ないと判断し、ハイタム・ミドルタム・ロータムを思い切って取り外し、キックドラムを横倒しにして据えつけた。そして、楽譜もタムを使わないようなアレンジに変更をした。
 「まあ、場合によっては、コンピュータの方に打ち込んじゃうこともできるから」
 キックドラムをキックしないなんて、禅問答のようだったが、試してみたところこれは非常に上手い具合にはまった。
 「拙僧のために忝い……」久慈くんはポケットから数珠を取り出すと、高楠先輩に手を合わせる。ってすごいな、数珠を携帯してるのか。
 僕のギターの方も、日々の練習の甲斐があったのかはじめのころからは見違えるようになってきた。少なくとも、失敗しても明らかなミスと思われないようにできるレベルには達してきている。
 ブブブブ……、卓上に置いてあった僕の携帯端末が振動した。発信元を見ると奥地会長だ。
 「はい、瀬田です」
 「瀬田部長、5件目が発生した。今度はヘビの様子。しかし、少し今回は不可解な点があり。口頭説明が難しいため、生徒会室までご足労いただきたく」
 不可解? しかし、ここで考えていても仕方ない。奥地会長の言うとおり、対面で説明を聞く方が早いだろう。
 ちょうど練習時間も終了になったので、僕はすぐに生徒会室へ向かうことにした。
 生徒会室の扉を開けると、奥地会長と脇に初対面の男子生徒がいた。体格はどちらかというと痩せ型だが、眉が太くてたくましい。
 「本郷部長。こちらが、先程話していた特別調査顧問瀬田部長です。瀬田部長、ご足労感謝します」
 「いえいえ」
 「まずはこれを」
 奥地会長が僕に紙を手渡してくる。それにはこうあった。

 『しなやかなヘビの模型。しばらくの間、お借りします』
 
 紙の大きさや活字のサイズもこれまでと全く同じだ。一連の流れの一つと見て間違いないだろう。
 「どうしてあんなマニアックなのだけ狙われたのか……。いや、全部持っていかれても困るんだが、訳が分からなくてさ。君もおかしいと思うよな? 祭の展示にも使おうと思っていたのに……」本郷部長が頭を掻き毟りながらため息をつく。
 「確かに訳は分からないですけど……。たて――」
 立て続けに災難ですね、と言いかけたところをすんでで飲み込んだ。もしかして……。
 「あ、いや、すみません。念のために確認させていただきたいんですが、正式名称は何部というのでしたっけ?」
 「正式名称? ああ、海洋生物研究部だよ」
 その答えを聞いて、僕はほっとした。被害がヘビと聞いて、僕はてっきり爬虫類研究会だと思い込んでいたから、うっかり盗難事件が複数起こっていることを漏らしてしまうところだった。本郷部長が『どうしてあんなマニアックなのだけ』と言ってくれたおかげで助かった。
 やりとりを見ていた奥地会長も、僕に部活や盗品についての説明を十分にしていなかったことに思い至ったようで、
 「そう、実際に盗まれたのはオオウナギの模型だったにもかかわらず、置かれていた声明文には『ヘビ』とあり」と補足を入れてくれた。
 確かに、妙な話だ。今までは盗品と声明文は一致していたのに、今回は違っている。一致していないといけないというルールなどないのだが、犯人の行動がデタラメになってしまうと推理の難しさは跳ね上がってしまうだろう。
 すると、本郷部長がはっとした表情を浮かべて、恐る恐るこう言った。
 「奥地くん……。これ、もしかして『ヘビ研の呪い』なんじゃ……?」
 ヘビ研?
 「もう3年以上前の話。それは考えづらく」奥地会長も否定はするものの、その表情は険しいままだ。知らないのはどうやら僕だけのようだ。
 「すみません、『ヘビ研の呪い』というのは?」
 「あ、あぁ、元々は生徒会や一部の部活の連中しか知らないことだしな……」そう言って説明をしてくれた。
 数年前、大矢高校にヘビ研究部という部活があった。部員はたった1人、しかしヘビへの執着心が物凄いこともあり、陰ではマムシと呼ばれていたそうだ。
 マムシは大矢高校でヘビを扱うのはヘビ研のみであるべきだ、という偏屈家で、爬虫類研究部がヘビを取り扱うことだけでなく美術部員がヘビを描くといったことさえ禁止しようとした。
 いくつかの部活からの嘆願を受け、当時の生徒会もヘビ研への勧告を出したものの、今度は表立たない陰湿な手口の被害が続いたと言う。
 それ以来、ヘビを取り扱う可能性のある文科系部活動ではマムシが卒業した今もヘビをタブーとして扱っているらしい。
 しかし、5件目だけ考えるならまだしも、1件目から4件目についてはそれだと腑に落ちない気がした。
 オオウナギをヘビだと主張するなど、『馬鹿の故事成語』のようだ。犯人は、見間違えたのだろうか。それとも……

 どうしても、『ヘビを盗んだ』という事実を作りたかった理由でもあるのだろうか。

 *****

 夕飯の後、リビングのソファのところに行くと、母が食後のコーヒーを飲んでいた。
 「……桂夜も飲む?」
 「いや、いいよ。こんな時間に飲むと眠れなくなるから」
 親父は基本的にテレビを観ないが、夜のニュース番組だけは欠かさず観ている。理由は簡単で、我が家は新聞を朝しかとっていないからだ。
 ニュース番組の間に、大手コンビニチェーンがクマッタとのコラボレーション商品を販売している旨のCMが流れた。
 「あ、あのクマッタの原作者って、大矢高校出身なんだって」
 「……ほぉ。さすが、大矢高だな」
 ニュース番組の内容は、とてつもなく大きなカボチャが実ったとか、紅葉シーズンに向けて準備を進める地域の話題などが中心だった。つまり、今日も平和な一日だったということだ。
 「……さて寝るか」
 ニュース番組が終わり、親父が立ち上がる。ただいま、夜の20時。早寝早起きにも程がある。よくコーヒー飲んですぐ眠れるものだと感心する。
 入れ替わりに母親がやってきた。そうか、推理もの番組の時間だ。母はバラエティが好きだが、推理もの番組はもっと好きなのだ。
 番組のオープニングミュージックが流れている中、母は卓上の新聞を手に取るとラテ欄を開き、
 「今日の犯人はこの俳優ね」と呟いている。
 「あのさ、それじゃ面白さ半減しない?」僕は思わず突っ込みを入れる。
 「だって、トリックの方に集中したいでしょう」
 まぁ、確かに大御所俳優が見せ場の無いまま、番組終了というのはテレビ的にはまず無い話だろう。その時点で小説よりテレビの方が分が悪いんだろうなぁ。
 「ふむふむ、俳句教室の師匠が被害者か……。すると、その設定を活かしてダイイングメッセージが俳句とか、季語あたりを暗号にするとか……」母はぶつぶつと呟いている。本当に番組制作者泣かせである。
 とそのとき、予期せず〈跳躍(リープ)〉がやってきた。
 あの盗難騒ぎがなんらかのメッセージを訴える類のものだとしたら大失敗だ。これまでに、生徒会や各部をはじめ、僕たちは何も理解できていないのだから。
 逆に、これは知られては欲しくない類のメッセージ、と考えるべきなのではないだろうか。そして、知られたくないメッセージ――暗号を作るならば、自分が他人より詳しいものを題材に選ぶはずだ。
 僕は、そのままリビングの家族共用パソコンに向かい、WEBブラウザを立ち上げた。そして、携帯端末を開きながら調べを進めていく。
 すると、僕の考えを裏付けるようなページがいくつかヒットしはじめる。そして、散り散りだった情報が意味を成し、一つにまとまり始める。
 そして、確かあの人たちのフルネームは……。自室に戻り、念のため確認して確証を得た。僕は、携帯端末を操作して電話を掛けはじめる。
 「……あ、夜分すみません。瀬田です」
 「瀬田部長。もしや」
 「はい。犯人の目星がつきました」電話の相手、奥地会長は「おぉ」と小さく声を漏らした。しかし、本題はそれだけではない。
 「ただ、今はまだ静観してほしいんです」
 僕が続けたその言葉に、電話の向こうから奥地会長が一瞬息を詰まらせた様子が聞こえてくる。
 「……アロマ研究部部長が、事と次第によっては、教員側に報告をすると相当息巻いており。生徒会としても、被害がこれ以上続くのは――」
 「――続きません。恐らくは」
 そして、再び数秒の沈黙が生まれた。先に言葉を発したのは奥地会長のほうだった。
 「……承知した。この件について、瀬田部長を信任したのは私自身。
  ところで、『今はまだ』ということは何かしらの策があると?」
 「はい。この件は、犯人が自分から行動の過ちに気づいて、納得しないと終われないんです」僕の脳裏に、網諾寺の教えがよぎる。
 「今から言う人を、音夜祭の俺たちのバンドの演奏のときに、できるだけ前で見物するようにしてほしいんです」
 「お、音夜祭に?」声の調子から、さすがの奥地会長もやや虚を突かれたようだ。
 それでも、確証めいたものを感じてくれたのか、乗りかけた船に開き直ったのか、それ以上問い返さず一言「承知した」と応じてくれた。

 *****

 金曜日の放課後になった。学校祭、そして音夜祭まではあと一週間だ。軽音楽部の部室の片隅で、僕は緊張の面持ちで腰掛けていた。
 視線先には、紙面を真剣に見詰める高楠先輩の姿。読んでいるのは、僕が書き上げた詞――音夜祭で僕たちが歌うことになる歌用の――だ。
 素人が数日で作り上げたものだ、ダメ出しが出るのは当然、そう心に言い聞かせ続けているが、やはり否定的な言葉はなるべく聞きたくないのが心情だ。
 やがて、高楠先輩が口を開いた。
 「うーん……、選択したキーワードとか、統一性みたいなものがやっぱりアマチュアっぽいけど……全体的にいいんじゃないだろうか」
 「あ、ありがとうございます……」最悪、作り直しを命じられるところまで覚悟していただけに、ありがたい限りだ。もしかしたら、残り日数が少ないことのほうを心配してのおまけ合格といった位置づけかもしれないけれど。
 「拙僧も好感なり。意図するところ、網諾寺の説法にも通ずるところあり。今宵、和尚にも……」
 「わっ、勘弁勘弁! さすがに、それは恥ずかしすぎるから」
 その後、練習のローテーションが回ってきて、僕たちは初めて歌詞入りで曲の練習を行った。初めてということもあって、歌詞はところどころ間違えたり、演奏の方がおろそかになったりと散々だった。
 「……」
 しかし何か、大きなものを一緒に作り上げている、そんな感覚が今まで以上に得られた。片付けをして、部屋を他のバンドに譲った後も余韻は残っていた。それは二人も同じだったようだ。少ない時間に少し焦りを感じていた表情は、明らかに良いほうに変化してきている。
 「それじゃ、土日も頑張ろう」高楠先輩の言葉に、僕も久慈くんも力強く頷いた。
 
 *****
 
 それから一週間は瞬く間に過ぎた。
 生徒会からの依頼もめどがついており、音楽の方が軌道にのってきたおかげで、学業や将棋部の方も並行して進めることができている。非常に良い状態だ。
 明日が本番となる金曜日、音夜祭のリハーサルを体育館で行った。体育館は今まで練習してきた場所に比べ、圧倒的に広い。これは相当音量を出さないと会場を盛り下げることになってしまうだろう。
 もう、この音量で練習をできる機会ないだろうから、ある意味では一発勝負という状況は避けられそうに無い。
 廊下で高楠先輩らと別れて、どうしたものかと思っていると、携帯端末が揺れているのに気づく。詳細を確認してみると、福路くんからのメールだった。
 どうやら困りごとが起きているとのことで、僕は求められるままに1年4組の教室へ向かった。
 教室に着いて入口から見回すと、見慣れた銀縁メガネを発見した。と、傍らに一人の女子がいる。
 「おぉ。瀬田くん。待っていたよ」
 形式的な挨拶もそこそこに、傍らの女子を紹介してくれた。
 「こちらが、蒼井妃冨さん、だよ」
 「……はじめまして~」
 お、やっぱり。二人の間の距離感からおそらく恋人同士の関係、とくれば福路くんの彼女である蒼井さんだろうとは思っていたが。
 緩い縦ロールに少し眠そうに垂れた瞳。その全体的におっとりした雰囲気は『お嬢様』と呼ぶのが相応しそうなものだった。とても、名前の漢字を間違えただけで口もきいてくれなくなるように人は見えない。
 「彼が瀬田桂夜くん。困ったことがあったら、彼に相談するのが一番なんだ」今度は僕の紹介か。簡単に「瀬田です」といって会釈する。
 「それで、用件っていうのは……?」
 事情は蒼井さんのほうが話してくれた。
 「……実は~、学校祭で~チョコをね~出す予定なんだけど~」
 きっと話し方のせいだが、内容の割りには、非常に長い説明だった。まとめると次のようなものだった。
 蒼井さんは料理研究部に所属しており、学校祭で事前に作ったクッキーなどのお菓子を販売するのだという。蒼井さんは箱入りのチョコを出す予定なのだそうだ。しかし、チョコを一回り大きくしてしまったため、反比例するように個数が少なくなってしまったのだと言う。
 「ホントにおっちょこちょいなんだよ。数を確認してたらまだ溶かして作り直せたのに、ココアパウダー掛けてから気づくんだからなぁ。」
 12個入りを10箱作る予定だったため120個必要なところ、出来上がった個数は117個。3個も足りない。
 売上ノルマもあるため、なんとかして10箱分作りたいのだというが……。
 「困ったわよね~」頬に手をあてて小首をかしげる蒼井さん。その様子だけでは困り具合が今ひとつ伝わってこない。
 「11個入りを10箱作るんじゃダメなの?」
 「普通に考えたら、そう思うよね」福路くんがそう言いながら、意味ありげに蒼井さんの方に視線を移す。
 「でも~、そうして3×4のに入れると、1つ空いちゃうじゃない~? クレームがきちゃうと困るわ~」
 まあ、買った商品の中身に空の部分があったら入れ忘れだと思うのが普通かもしれない。予め説明をしていたとしても、文句を言う人は「説明不足だ」などごねてくるだろう。
 「箱の区切り方を変えることはできないの? 2×5とか」
 「間仕切りはまだ作ってないからできるわよ~。でも~」
 「でも?」
 「10個で500円じゃ高いって思われそうじゃない~」
 10個だと少なすぎ、11個だとうまく配置できない。そういう不思議な悩みなのだ、と僕は理解した。視線を移すと、福路が苦笑いしているのが見えた。恐らく、このほわわんとした雰囲気と裏腹になかなかの頑固者なのだろう。
 「そういうことだとすると、個数は11個。で、いかに不自然じゃなく配置するか、ってことでOK?」
 「そうね~」
 11個、11個。頭の中に色々な配置パターンを考えてみるが、なかなかしっくりくるものはない。
 「こうやって中心から放射状に仕切れば、一応、11等分になるけど……」
 「箱は長方形だから、ちょっと苦しいわね~」
 「じゃあ、一列に11個並べるのもダメか……」
 その後も20本のタバコの7・6・7の収納の方法を参考に、4・3・4の並べ方も試してみたがやはりうまくない。もし「なんで真ん中だけ3つなの?」と問われたとして、それに答えられないのだから。
 こうしてああでもないこうでもないと、3人で考えているうち、僕は先日の将棋部の展示の会議のことを思い出していた。あのときも、美月の一言から次々と面白いアイディアが浮かんできたんだっけか。
 「ん、待てよ……」
 〈跳躍(リープ)〉してきたイメージをキャッチし、手帳に線を引いていく。ここが枠だから、線の数はこうなって……。
 「こんな感じのはどうかな」
 二人が覗き込んでくる。が、表情は冴えない。「えーと、どういうことだい?」ややあって、福路くんがおもむろにそう切り出した。
 改めて自分の作図を覗いてみて納得。試行錯誤したり、慌てて描いたためか、線が歪んでいたり補助線が邪魔になったりしている。
 僕は、最終的な線を太く濃くトレースして、再び二人に提示する。「これなら、どうだろう?」
 「……」
 4つの眼が僕の描いた線をじっくりトレースしている。そして、
 「これ、僕はナイスアイディアだと思うよ! ね、ひとみん?」
 「そうね~♪」
 一番の難関は、蒼井さんが納得できるかだと思っていたが、どうやらそれもクリアできたようだ。安堵していると、蒼井さんが何やら手許の布袋をごそごそといじっている。そして、中から白い紙袋を取り出した。
 「それは?」
 「これが、例のチョコよ~」そういって、紙袋を広げる。中には、ピンポン玉より一回り小さいくらいの茶色い玉がたくさん入っていた。ココアパウダーがまぶされているのか、表面は粉がふいたようになっている。
 「それ、どうするんだい?」
 「え~? こうするにきまってるでしょ~」
 言うなり、蒼井さんは中の一つをぱくりと口に頬張ったではないか。そして、
 「11個詰めだから、7個は余るわけでしょ~。二人もどう~?」
 なんとも、マイペースな人だ。しかし、ありがたい申し出ではある。福路くんとしばし顔を見合わせていたが。
 「じゃ、遠慮なく」甘い誘惑に勝てるほど、昨今の男子高校生は強い生き物ではない。

 今思い出しても、口の中にチョコレートの甘さが蘇るようだ。
 僕は〈まめしば〉へ向かっていた。ちょうど、入荷された新豆を親父に頼まれていたこともあるが、僕の方も以前にマスターに頼んでいたあるものを受け取ろうと思っていた。
 「こんちは、マスター」
 「い、い、いらっしゃい」
 マスターは僕の姿を見るなり、手際よく豆の計量をはじめた。いかにも常連客という扱いだ。
 「例のアレ、できてます?」
 ザザザと豆を袋に詰めているマスターに尋ねる。マスターは振り返ると、小さく頷いた。戸棚から、小さな袋を取り出すと僕の方に差し出してきた。
 「あ、あ、開けてみて」
 マスターに促されて小袋を開くと、中からリップクリームをふた周りほど小さくしたような円筒形のものが出てきた。その先には細い紐が輪を作っている。うん、イメージどおりだ。
 「ありがとうマスター、イメージどおりすよ」
 「そ、そ、それは良かった」マスターは嬉しそうな顔を浮かべる。な、な、中には、〈ヴォンレスファーム〉のを入れてみたよ。あ、あ、あそこのは香りが一際いいから……」
 しかし、カウンターの下にあるショーケースを覗いてみると、ちょうど〈ヴォンレスファーム〉の籠だけが空っぽになっていた。
 「あの、〈ヴォンレスファーム〉ってもう無いんですか?」
 「ご、ご、ごめんね。れ、れ、例のアレ作った後にちょうどお客さんが来て、全部買ってっちゃったんだよ」
 「そうなんですか……」
 せっかくなら、そのコーヒー豆自体も自分用にキープしておきたかったのだが、そこまで予めお願いしていなかったのは手落ちだった。致し方ない。
 視線を少し右に移すと、カウンターの脇のもう一つショーケースの異変に気づいた。中には、小さなチーズケーキやミルクレープなどが陳列されていた。はて、以前はここもコーヒー豆が入っていた気がするが……。
 「あれ? ここってケーキ入ってましたっけ?」
 「そ、そ、そのケーキはね。じ、じ、実は……」
 マスターの話を聞いて、僕は驚いた。なんと、これらのケーキは、あの極度のあがり症の女性記者・加納瑛子さんの手作りなのだというのだ。
 元々、ケーキ屋を開きたいと思っていた加納さんはどんな経緯か新聞社に就職して力を発揮できずに悶々としていたところ、この〈まめしば〉に出会った。
 コーヒーの美味しさを堪能するうち、昔の夢を思い出したという。お金を払ってでも自作のケーキを置かせて欲しいという加納さんは嘆願した。本来であればあまりに突飛なお願いと思えたが、そのケーキを一口食べると、マスターは快諾したという。
 お互いに、人付き合いはそれほど得意ではないものの、自分の信念は妥協せず突き進める強さは持ち合わせている。当人達が気づいているかは分からないけど、なかなか良いコンビなのではないだろうか?
 代金を支払い、マスターに別れを告げる。
 「が、が、学校祭、明日だったかな。す、す、少しだけ遊びに行くよ」
 「お待ちしてます」
 せっかくだから、加納さんと一緒に来たらどうですか? 僕は、心の中だけでそう付け加えた。

 

 小説『Fall on Fall =俯瞰の秋=』(4/4)に続く

 

小説『Fall on Fall =俯瞰の秋=』(2/4)

 *****

 「将棋ファンのみなさんにはご高齢の方も多いですから、たまたま私の指した将棋が最後に見る一局になる可能性だってあるでしょう。
  もちろん、私自身だっていつお迎えが来るか分かりません。
  だから、常に誠心誠意の将棋を指し続ける。それが、この佐波新継の生きる意味なんですな」

 「人に好かれたいとか、人に認めてもらいたいと常々思っておられる方は、まず己自身が己自身を好いて、認めるとよいでしょう。
  世界に一人は自分のことを好いてくれたり、認めてくれる人がまず存在することになるわけです。
  私は私が好きですよ? まあ、もう少し顔のシワが減ってくれるとありがたいんですがね。ははは」

                    ――『佐波九段名局集』より

*****

 

 第二章 『失踪したありきたりな日常』
 
 月曜日の3時間目。休み明けのしんどさとお腹の空き具合がだいぶ辛くなってくる頃合だ。
 僕たちのクラスは丹治先生による数学の授業だ。丹治先生といえば、英語の石井先生と並び眠くなる授業の権威だが、一つ生徒に喜ばれていることがある。
 「では、今日はここまで」
 丹治先生は教科書やら指示棒を手際よく取りまとめると、すっと教室を後にした。扉が閉まる音と同時にお昼休みのチャイムが鳴った。
 時間はジャスト11時50分。3時間目に限らないが、丹治先生の授業はきっちりと終わる。逆に短く終わることもないわけだが、この学校の先生は全体的に時間オーバーをする教師が多いとの統計情報も存在するため、相対的に生徒からは好評である。
 ここまでくると、堅物できっちりとした性格が良く体現されているな、と感心してしまう。
 って、感心している場合ではなかった。僕はカバンから、弁当一式を取り出すと早足に一年四組に向かった。
 「あ、福路くん」
 目的の人物は、財布を手に教室から出て行こうとしていたところだった。どうやら、ぎりぎり間に合ったようだ。
 「たまには一緒に昼どう?」
 「もちろん、いいに決まっているよ。でも月曜日に珍しいね」
 二人ともクラスに友人もいるし、普段はその友人達と昼食をとることが多い。ただ、たまにこうして一緒に昼をとることもある。僕は木曜日以外は母の手づくり弁当なので、福路くんと食べるときは買い食いをすることとなる木曜日が多かった。
 お互いに波長が合うというか、相性がいいというか、少し込み入った話をしやすい友人関係だ。
 昨日、副会長に心のわだかまりを一旦は吐き出して『音楽との合わせ技』という道を得かけたものの、今年の参加が相当難しそうだと知ってから頭の中に再び迷路が再構築されてきていた。福路くんとしては迷惑な話かもしれないが、僕もしょっちゅう福路くんの愚痴を聞かされているので差し引き問題ないだろうと思う。
 福路くんと購買部へ向かう。彼は毎日買い食いだ。なんでも、両親共働きなのだそうだ。僕としては、毎日好きなものが選べて羨ましいなとも思えるのだが、それはきっと贅沢な悩みなのだろう。
 カレーパンとチョコクロワッサンと珈琲牛乳を手に、福路くんが戻って来た。惣菜系と菓子系のパンを一つずつ選ぶのがポイントらしい。前回は確か、焼きそばパンとクリームパンだった。
 僕たちは校庭の行きつけの場所に向かう。古い大木の下、なだらかな傾斜になった芝生の上だ。夏は葉が日傘になり、秋になったいまは枯れ葉が徐々に落ち始めて、柔らかな日差しが差し込んできている。まるで、童謡『ちいさなもりのおおきなき』の世界だ。
 僕たちは、小さく折りたたんでいた新聞紙をそれぞれのポケットから取り出して広げる。制服を汚さないようにするためだ。
 「……さて、織賀さんと何があったんだい?」
 腰を下ろすなり、福路くんは柔和な表情で問うてきた。本当に、こういう方面は鋭いよなぁ、福路くん……。
 「あっ、まぁ、えーと……」
 福路くんには僕が美月と彼氏彼女の関係である、と言ってあるのだ。実際は、彼女という表現は微妙に適切でない。美月自身が持つ『記憶の初期化』という大きな問題を解決するための協力者といったところが近いかもしれない。
 しかし、美月の秘密を本人の許諾もなく広めるわけにもいかないし、そもそもそんな事象を上手く説明をできるはずもなく、信じてもらえなさそうな話である。少し照れくさいが、やはり彼氏彼女という間柄が一番手軽ではある。
 僕は、昨日の大会のことを少しずつ話した。内容はほとんど副会長に昨晩話したものと同じだ。
 実力不足で、入賞に至らなかったこと。対する美月はあっさりと優勝を成し遂げてしまったこと。心からおめでとうと言ってあげられなかったこと。ふがいない気持ち、美月をうらやむ気持ち。何を寄る辺にしたら良いか分からない落ち着かない気持ち。
 「まぁ、彼女があの織賀さんじゃあなぁ……。瀬田くんは大変だ。僕らはまぁ、似たり寄ったりな感じだからね」。
 「やっぱ、釣り合ってないのかな……」
 これは今までも、何度となく思ってきたことだ。美月は僕に期待してくれている。でもそれは過大評価しすぎなんじゃないか、と。
 「そんなことはないと思うけどさ。あ、でも僕は僕で大変だよ。同じクラスだからね。さっきも、数学の授業でウトウトしていたら丹治先生に『久慈の家で喝を入れてもらってこい!』って怒られちゃったよ。ああ、恥ずかしい……」
 「久慈? 喝って?」
 「そう。一年三組の。彼はあの〈網諾寺(あみだくじ)〉の長男坊だよ。将来の住職だね。ちなみに、読経研究部のエースらしい」
 網諾寺は街の北部にある小さな寺だ。武家に愛された宗派のようで、あまり宗教っぽさがなく、座禅などの精神の修行所として巷で有名らしい。近所でも、網諾寺の檀家になっている家が幾つかあった気がする。それにしても、
 「読経研究部……そんなのあったんだ」
 「ははは。さすが大矢高校だよね。まぁ、それはおいといて。
  僕は将棋をよく知らないけど、科学は失敗ばかり、というか失敗しているうちに何故か成功しちゃったってというばっかりだよ。ここまでの半年、一体どれほどの試薬を無駄にしてしまったことか……。自腹でないのが救いさ。
  でも失敗すると、『あ、こうすると失敗するんだな』ということが明らかになるんだよね。それって、もう失敗の定義じゃなくなっている気がしたりね。
  うーむ、何を言いたいか良く分からないことを喋ってしまったなぁ。はは」
 そういいながら、少し遠くの空を見上げている福路くんの横顔はおどけていながらも、僕なんかよりも少し大人びて見えた。

 *****

 放課後になり、僕は大会議室へ向かった。10月の定例生徒総会に参加するためだ。
 前列には生徒会の主要な面々が並び、中央には奥地会長、その脇には副会長の姿もあった。今日は、いつもの模範的な女学生ルックだ。改めてみると、ヒントがないと分からないレベルの変わりっぷりだ。
 徐々に他の部長も集まり、前回と同じような厳粛な雰囲気で総会は始まった。だが、今回は全く緊張の度合いが少なかった。たった1回、7月に経験しただけで慣れてしまうのだから不思議なものだ。 僕は、先日行われた大会の結果報告――男子個人はベスト4とベスト8が1名ずつ、女子個人は優勝を成し遂げた――をよどみなく報告することができた。
 前回と今回の間で夏休みが丸々入っていたこともあってか、他の部活も活動報告が充実していた。おかげで、前回よりも30分ほど時間が長くなっている。その後、生徒会から今月に行われる学校祭に関する諸注意などが伝えられた。
 「――では、以上で定例生徒総会を終わります」奥地会長がメガネのブリッジをくいっとあげながら厳かに告げた。
 僕は静かに一息つく。活動報告も無難に済ませられたし、前回持ち上がった『将棋部降格騒動』が再燃する気配が全くなかったことが何よりだ。
 他の部長たちと同様、配布された資料をクリアファイルに納めて僕は大会議室をあとにしようとする。すると、
 「将棋部部長」不意に呼び止められた。振り向く前に声の主は分かる。
 ゆっくりと振り返ると、奥地会長はテーブル上に肘をつき、手を組んでいた。「少し、この場に残って頂きたく」
 言葉だけで考えると、いかにも選択権はこちらにがありそうな錯覚を持ちそうだが、実際はそうではないだろう。
 僕は、「はい」と小さく応じると、近くの椅子に腰掛けた。そして、他の部長や生徒会役員が大会議室を去っていくのを静かに待つことになった。
 部屋の中が二人だけになったことを確認すると、奥地会長はやっと口を開いた。
 「瀬田部長。最近は、随分と活躍の様子と噂を耳にしております」
 「いえ……。久々とはいえ、3位も取れませんでした。それより女子部員の織賀さんのほうが優勝して、素晴らしい活躍をしています」
 随分と皮肉がきいているな、僕は内心でそんな風に思った。
 「いや、そちらではなく。これまでに学内外で起こっている、ミステリアスな事象を柔軟な思考で解決しているとか」
 「え?」
 「私も独自の情報ネットワークを色々と保有しており」
 「は、はぁ……」
 てっきりまた第二部降格の話を蒸し返されるのかと思っていたので、少し拍子抜けしたと同時に安堵した。
 しかし、柔軟な思考と言われると少し恥ずかしい限りだ。自分としては、突拍子もない〈跳躍(リープ)〉がたまたまヒットしていたということが多いのだから。
 「さて、本題に入らせていただきたく」奥地会長は、目を細めてドアの外を伺う。人影も気配もない。
 やはり来たか、と身構える。関係のなさそうな話で油断させておいて、ずばりと本題を切り出すという話術は、つい先日に副会長からされたばかりなので少し耐性がついていた。贔屓目に見ても、今回の将棋部の実績は第一部継続としては十分に思える。これ以上、強引に進めてくるようならこちらも騒ぎを大きくして反撃に出るよりない。
 しかし、奥地会長の口から出てきた言葉は僕の想像の斜め上をいくものであった。
 「最近、2つの部活から盗難と思しき事件が報告されており。それを調査して頂きたく」

 大会議室の時計の分針がカチリと動く。
 「盗難事件……ですか?」
 「いかにも。被害に貴賎などを言うのは不敬だが、いずれも高価なものでなく、各部の報告も便宜上といった色合いが強く」
 「具体的にはどういったものが盗まれているんです?」
 僕の問いに、会長は内ポケットからピシッと折りたたまれた紙を取り出した。広げてみると、プリンタで出力された文字列が列挙されていた。
 
 10月2日(木) 熊のぬいぐるみ(児童文化研究部)
 10月3日(金) ヒグマの写真(映像研究部)

 熊……ヒグマ……。頭の中に、クマッタの困ったような表情が浮かんできた。
 「クマ……ですか」僕はそう呟いていた。
 確かに2つ部活とは言われたが、事件というからにはもっとたくさんのものが被害にあっていると予想していたので、少し意外だった。
 「そう、クマなのだ。共通項としてはそれくらいで、現場にはこのような紙面が置かれていたとのこと」
 奥地会長は先程と同じく、内ポケットから紙面を2つ取り出した。
 開いてみると、それぞれこうあった。
 
 『大きな熊のぬいぐるみ。しばらくの間、お借りします』
 『小さなヒグマの写真。しばらくの間、お借りします』
 
 紙のサイズや書体も全く同じところを見ると、どちらかが模倣犯という可能性は低そうだ。つまり、同一犯による連続盗難といえそうだ。
 「あれ? お借りします、ってありますけど……?」
 さっきから、奥地会長は盗難事件と言い続けていたので違和感を抱いてそう尋ねる。しかし、奥地会長は眼光を鋭くしてこう言い放つ。
 「返却される保証などない以上、盗難と同様である。生徒会内部でもそのように扱っており」
 そう言われればそうかもしれないけれど。少し大げさな気もする。そういえば、奥地会長の父親は弁護士だったか。本人も将来は弁護士を目指しているとも聞いている。と思っていたら、
 「本来であれば、規律に従い、学校側へエスカレーションした上で判断を仰ぐべきところである。しかし……だ。
  この事件がおおごととなり、学校祭中止に転ずるようなことに至れば――最後の学校祭を心待ちとしていた多くの3年生は落胆をすることだろう……」
 てっきり、学校祭が中止になろうとも厳粛に悪を裁くタイプの人かと思い込んでいたのでやや意外な感があった。将来の弁護士がそれで良いかどうかはわからないところだけれど……。
 「我々生徒会のメンバーも優秀なのだが、私を含めてこういった類の問題解決は得意としていないのだ。加えて、我々が動くのは目立ちすぎる」
 つまり、生徒会としては盗難騒動のエスカレーションを学校祭終了までは隠し通す方針でいるが、騒動が解決できればそれに越したことはない。僕に白羽の矢が立ったのも、柔軟な思考うんぬんよりは、将棋部に対しては『第二部降格』という切り札が使えると見込んでいるからかもしれない。
 ただ、これは僕にとってもチャンスかもしれない。何せ、生徒会長とのホットラインを作ることができるのだ。学生自治を重んじる大矢高校の生徒会に集まらない情報はない。
 「分かりました。尽力します」僕は、協力の意向を伝えた。
 と、そのときブーブーブーッとモーター音が鳴り響いた。太腿に感触が伝わって来なかったので僕ではない。
 案の定というべきか、奥地会長が制服のポケットから携帯端末を取り出すと「失礼」といい、すぐに通話体勢になる。
 ……うむ、うむ……ご苦労――。会長はそんな言葉を通話の相手に伝えると携帯端末をポケットにしまいこんだ。
 一体なにごとだろうか。そう思っていると、
 「瀬田部長、一旦それを返していただきたく」と会長が手を差し伸ばしてきた。それ、と言われて、渡された数枚の紙を手にしたままだったことに気づく。
 会長は僕から紙を受け取ると、プリンタ用紙を机の上に置き、胸ポケットのボールペンの背をノックしてそれに文字を書き足していく。

 10月6日(月) 香炉(アロマ研究部)

 会長が文字を書き始めたときに既に気づいていたことだが、どうやら3つめの盗難騒ぎが発生したようだ。『お借りします』の紙も置かれていたらしい。今度はクマとは一見関係がなさそうだが、同一犯である可能性は極めて高いだろう。
 まるで僕の挑戦を嘲笑うかのように知らされた新たな盗難だ。このペースで盗難を続けられたら、事件を局所的範囲で抑え続けることが難しくなってしまうかもしれない。あまり猶予はなさそうだ。
 そう、あまり猶予はないのだ。僕は手がかりとなりそうな情報を生徒手帳に書き写すと、調査を早速開始する旨を伝えた。
 「生徒会としては早期解決を望みますが、将棋部の活動優先で願います」
 敵対すると厄介だが、味方だとなかなか話せる人なのかもしれない。僕は頷くと、大会議室を後にした。
 廊下を歩いているうちに、先程の『優先』というキーワードで土曜日の夜の副会長が話していた音夜祭の話を思い出した。

 ――3年生の参加希望が優先される

 たとえ、3年生の希望が10組に留まり、2組の枠が余ったとする。しかし、その次に優先されるのは2年生だろう。すると1年生が参加できる可能性としては、3年・2年の希望が11組以内である場合――となるが、その可能性はまずなさそうに思える。
 しかし、音夜祭に出たいという想いは強くなるばかりだ。何か、手はないだろうか。先輩方の顔を思い浮かべていく。しかし、いずれの先輩もバンド仲間が固定化されており、飛び入りで1年生が入り込める余地などあるはずがない。
 そのとき、家族からのメール着信を知らせる音がした。時間帯から考えてきっと母親だろう。たまに、夕食の献立に悩むと僕に意見を求めてくることがあるのだ。
 ……電子音?
 頭の中にある人物の顔が〈跳躍(リープ)〉してきた。あの人は確か、3年生だった気がする。もしかしたらいけるかもしれない!
 僕は足早に軽音楽部の部室に向かった。

 *****

 校舎が黄金色に染まるはじめ、部員が次々と楽器を片付けはじめている。そんな中、一人だけ楽器でないものを片付けている3年生に声を掛けた。
 「高楠(こうくす)先輩。あの……一つご相談したいことがあるんですけど……」
 「ん? キミは……。ゴメン、誰だっけ?」
 振り向いたのは、細面の大人しい雰囲気の男子生徒。軽音楽部にあって、楽器を使っていない異色の部員だ。
 高楠先輩の使うものは、パソコン。DTM(デスクトップミュージック)――端的に言えばコンピュータに打ち込んだものを機材に演奏させる――をしている。元々、将棋部と掛け持ちをしている上に、普段はギター講座の輪の中に入ってばかりなので、交流の機会は全くと言っていいほどない。辛うじて覚えていたのは、春の仮入部の際に高楠先輩が使っていたDTMのことを上級生が遠くから説明をしてくれていたおかげだった。
 「1年の瀬田と言います。突然であれなんですけど、あの……先輩、今年の音夜祭って出ますでしょうか?」
 「あ、うーん……一応、エントリーはしてみてはいるけど、ね」
 その言葉にまずは安堵する。強制でない以上、3年生とはいえ出場しない可能性もあったからだ。
 「演奏は、DTMを流す感じなんですか?」
 「そうだねぇ……。キーを叩けばそれでやることはなくなってしまうけど、それじゃあさすがに味気ないからキーボードくらいは弾いている振りをしようかとは思うけどね……はは」
 そして、再び安堵。それならば、まだ望みはつながっている。僕は、姿勢を改めて伸ばして先輩に正対する。
 「唐突過ぎて、無茶苦茶であることも分かってます。僕も、一緒に演奏に加わらせて頂けないでしょうか」
 高楠先輩は無言のまま、ノートパソコン上のアプリケーションを終了していく。少しでも気持ちが本物であることが伝わればと思い、視界の中に入っていないことは分かっていながらも僕は直立不動の姿勢をし続けた。
 「……確かに唐突だね」
 ノートパソコンをパタンと閉じると、そう言われた。その視線は天井のさらに先を見ているようだった。、
 音夜祭まではもう2週間を切っている。普通ならば、曲目や演奏方式を定めて、それを完璧にするための練習に明け暮れている時期だ。DTM使いの高楠先輩ならばその時間的ゆとりやメンバー枠に余裕があると望みを掛けたのだが……。
 しかし、さすがにこの時期では無茶苦茶だったか。お詫びの言葉を述べようと口を開こうとしたら、「……いや。条件次第ではその話、呑んでもいいよ」とそんな答えが返ってきたのだ。
 「本当ですか!?」僕は思わず聞き返す。
 「実はさ……、生のバンド演奏っていうの、前からやってはみたかったんだ。でも、自分のミスで他の人に迷惑を掛けやしないかって考えてしまってさ……」
 「ちなみに、楽器はなにができるんですか?」
 「ピアノ。小学生にあがる前から中学生までずっとやってたんだ。ただ、アンサンブルはやったことがない」
 「へぇ……」
 「皆でわいわい演奏する軽音楽部に入ったのも、そのためだったんだ。でも、結果は見ての通りだよ……」
 高楠先輩は、オーディオコードを機材から抜き、手際よくケースにしまっていく。この作業を3年続けてきたのだろう。ケースを閉じると、こちらに指を1本立ててきた。
 「条件は3つ。その1、バンド形式にしたいから、メンバーを、あと一人……、ヴォーカルかドラマーかベーシストを探してほしい」
 確かに、せっかくバンド演奏にするなら人数は3人以上は欲しい気はするが……。先輩は構わず、指を2本にして続ける。
 「その2、音夜祭に向いた新しい曲を作り下ろしたいんだ。曲はそれにさせてもらいたい」
 「作曲、できるんですか?」
 「作曲ってのは誰でもできるもんだよ。というか、既に世界に人知れず存在しているんだ。それを再現、あるいは、記録してあげているだけに過ぎないと僕は思っているよ。上手か下手かは別としてね。
  ところで、君はギターが弾けるんだっけ?」
 「え、あっ、はい」つい勢いで答えてしまった。が、まあいいか。嘘は言っていない。上手か下手かは別としよう。
 先輩は、立てていた指を3本にする。
 「その3、僕が作った曲に君が詞をあてて欲しい。前言がくすみそうだが、作詞は苦手なんだ……」そういうと、先輩は苦笑する。
 え? 作詞? 僕が? 急に飛んできたキラーパスに僕は戸惑う。そして僕は、心の中でこう叫んだ。
 ――作詞ってのは誰でもできるもんじゃないんですか!? 
 
 自宅のベッドの上に寝転がり、僕は天井を見つめながら考えごとをしていた。
 結局、僕は3つの条件をクリアすべく動くこととなった。どれも易々とクリアできるようなものではない気がするのだが、もう他に当ても無いのだ。
 条件その2に異論は無い。もともと演奏曲に強いこだわりはなかったし、コピーバンドでないほうが演奏レベルを誤魔化せそうだとか、場合によってはギターのアレンジを大幅に簡単にしてもらうなどの柔軟さがありそうだから一概にマイナス要素ではないかもしれない。
 直後は戸惑ったものの、条件その3もそれほど大きな問題ではない気がしてきた。曲に詞をあてるなんてやったことなどないけれど、音符の数と言葉の数が最低限一致していれば大ハズレすることはないだろう。
 やはり、条件その1、これがネックになるだろう。今の時期に、どこのバンドにも所属していないベーシストやらドラマーなんているだろうか。……まず、いないだろうな。
 この間の泉西先生じゃないが、大矢高生の振りをして他校から助っ人を呼んでくるような荒業も考えられなくは無い。しかし、音夜祭は内部のイベントだ。やはり気が進むものではない。
 たとえば、今はやっていないが過去にバンドをやっていたという経験者はいないだろうか。頭に知り合いの姿を次々と思い浮かべるが、やはり思い当たらない。敢えて挙げるなら美月だろう。
 きっと、彼女なら当日の朝に習得して、夕方の音夜祭で演奏することくらいできる気がする。しかし、それでいいのかと思う自分がいる。将棋大会でも借りを作ってしまったばかりなのに。

 

 小説『Fall on Fall =俯瞰の秋=』(3/4)に続く

 

小説『Fall on Fall =俯瞰の秋=』(1/4)

 *****

 秋。
 運動の秋。
 読書の秋。
 芸術の秋。
 食欲の秋。
 秋という季節には、人のモチベーションを高める不思議な力がきっとある。

 そして、秋は月が美しい季節でもある。
 月は自ら光を放つことはないので、それはとても弱い光である。
 しかし、弱いがゆえに人の眼でも直接見ることができる、ともいえる。
 されど、それは夜の帳があればこそ。
 夜と月とは切っても切り離せない関係なのである。

                    ――カント・リケージ『夜の月』より

 *****

 

 第一章 『秋季将棋選手権大会』

 

 残暑がやっと落ち着いて過ごしやすくなってきた今日この頃。
 そして、9月末の期末テストが一段落して落ち着いて過ごせるようになった今日この頃。
 僕が通う大矢高校では学校祭が2週間後に迫り、数多くの部活が本格的な準備をはじめていた。
 文武両道を掲げ、四期制を採用するここ大矢高校では3ヶ月ごとに期末テストが訪れる。また、学業が疎かになれば特待生といえども簡単に部活禁止となってしまう恐怖のシステムが存在している。
 それゆえ、学園祭の準備でさえ綿密な計画のもとに行っていく必要がある。極端な話だが、学校祭が終わったらすぐ来年の学校祭に向けた準備が進められるくらいの意気込みが必要らしい。
 しかしながら。
 僕が部長をつとめる将棋部は、準備という準備を全くせず、ここまで来てしまっている。
 理由は大きく2つ考えられた。
 1つ。学園祭までのスケジュール感を持った先輩が一人もいなかったこと。3人の部員はみな1年生、今年の4月までは部員自体がゼロだったのだからこれは大きなマイナスポイントだ。
 2つ。友人の様子や、掛け持ちしている軽音楽部の様子から『何かおかしいな』と感づき、期末テスト前に顧問の泉西先生に尋ねたまでは良かったが、
 「そんなに心配すんなって。まだ慌てる時間じゃねー」
 自信たっぷりにそんなことを言っていたものだから、すっかり安心しきってしまっていた。喉元過ぎて熱さ忘れる、二日酔いになるたびに母がぼやいていたが、ニンゲンは都合の悪いことはつい忘れてしまう傾向があるようだ。今までの経験から冷静によーく考えてみれば、そこで安心するのが大いなる過ちだったのであるが、期末テストのことで頭がいっぱいで思考停止してしまっていた。
 そして、今日その話を再開していたところなのである。
 「催し物だあ? そんなの、かき氷に決まってんだろ。原価率がすげぇ低いんだよ。俺さまはバイトしたことあるから分かんだよ」
 扇子の開き具合をチェックしていた泉西先生は器用に逆切れ50%、高慢50%の配分で僕に言い返してきた。
 ……えーっと、はい?
 「面倒がらずにツッコミますね? なんで、将棋部の催し物が食品販売になるんですか?」
 「なんで、って。儲かるからに決まってるだろうが! 将棋部の予算は少ねーんだから」
 「八月の合宿、ポケットマネーだって言ってたのに、部の予算を使い込んだ人は誰でしたっけね。
  ……だいたい、かき氷なんて10月に食べたいと思う人なんていないですよ」
 「バッキャロー。地球は順調に温暖化してんだ。まさに追い風産業だろうが。それに10月っていっても、当日はべらぼうに暑い可能性があんだろ。
  っていうか、ガタガタぬかす前にこっそり校舎内に暖房入れて熱くしちまおうZE!」
 放課後の教室で、生徒と教師――いや、将棋部部長と将棋部顧問の激しい論戦が繰り広げられている。内容が至ってくだらないものであるのがなんとも情けない。
 その僕たちの両脇では、二人の将棋部部員が黙々とそれぞれがやりたいことをやっている。
 ガタタタタッ……。一人は、男子部員の斎諏訪徹(さいずわとおる)だ。体型は自他共に認める小太り。冬服への衣替えを最後まで抵抗していた生徒の一人でもある。
 ITスキルの高さを活かして、将棋部のウェヴサイトを管理している。その彼は小さなパソコンを物凄い速さで操作している。また何か、プログラミングをしているのかもしれない。
 ス、ススス……。もう一人、器用に片手で携帯端末を操作し続けているのは女子部員の織賀美月(おりがみつき)だ。今日も、端正な顔立ちながら無愛想な表情を浮かべて、トレードマークのポニーテールを結わえている。
 また、そんな外見とは裏腹に、一冊の辞書を丸ごと暗記したり、5桁同士の暗算をほぼ一瞬で計算できるほどの恐ろしい頭脳の持ち主でもある。ただし、欠点が一つある。意識が途切れると――つまりひとたび寝てしまうと――それまでの記憶が全てクリアしてしまうらしいのだ。そのため、毎日毎日律儀に行動記録や新たに得た知識を〈引き継ぎ〉する必要があるとのこと。ちなみに、このことを知っているのは僕と美月本人だけだ。
 「二人も何か言ってやってくれよ」
 しかし、二人は反応を示さない。まぁ、それも当然といえば当然かもしれない。
 将棋部の活動を通して『泉西潮成』という強烈なキャラクターを文字通り体験し、『干渉しないことが最良の策』と学習しているのだ。困ったことに僕も同意であり、事実なのでそれ以上何も求められない。
 「……分かりました。泉西先生のご意見、参考にさせていただきます」
 「おぉ! 瀬田も随分と物分りがよくなったな」
 「ただし。将棋部なので、あくまで将棋系の展示が基本にはしますよ? なお、『かき氷』だとストレートすぎるんで、『ヒョウカもやってます』とかにさせてもらいます」
 「氷菓……か。微妙に違うが、まあ、風情で押しきれそうだな! 風情万歳だっ。名機ダイヤモンドダストをメンテナンスせねばな! ふぉぉおおおおぅ、燃えてきたぜぇっ」
 泉西先生は鬨の声をあげて、砂嵐のように教室から消えていった。
 「ぉぃぉぃ、ぁんな約束しちまって平気かょ?」
 泉西先生の気配が完全になくなったのを確認して、斎諏訪がディスプレーから目を離して突っこんでくる。時折、真夏の夜の蚊のように、去ったと見せかけて舞い戻ってくるケースがあるのだ。
 「まぁ、なんとかごまかすさ。ただ、展示の概要は生徒会に予め提示する必要があるみたいで。生徒総会が月曜にあるからとりあえず今日中になんとか催し物はまとめないと、だ」
 学校祭における催し物は大きく2つに分けられる。販売系と展示系だ。
 販売系は、たこ焼きとか喫茶店といった飲食物を提供するもの。元々展示が難しい運動部や人手が割ける大所帯の部活が行うことが多い。うまく黒字にすれば部費に転嫁することができるため毎年一定以上の数があるらしい。
 展示形は、文字通り部活に関連するものの展示閲覧や体験を提供するもの。多くの人々に部の魅力や実績を伝えることで、地域からの支援や将来の部員の確保につながる可能性がある。文化系の部活にとっては一年のうちで重要なイベントの一つである。
 大矢高は街の中央にでんと位置しているため、学校祭における一般客の割合は他校に比べて多いらしい。それゆえ、どの部も気合は十分である。
 「今のところ考えているのは、盤と駒をいくつか置いて自由に対局ができるコーナーと、斎諏訪の将棋プログラムの二本立て、だな」
 「まぁ、妥当なところか」
 斎諏訪の作った将棋ソフトウェア――〈オーディン〉と〈ヴィシュヌ〉――は非常に優れており、学外からも高い評価を受けている。
 〈オーディン〉は対局型ソフトウェア、〈ヴィシュヌ〉は詰将棋を作成するソフトウェアだ。ちなみに、もう一つ〈シヴァ〉という詰将棋を解くソフトウェアもある。
 今年の夏、斎諏訪を将棋部に引き込むために、僕と美月と泉西先生(おまけのおまけで含めよう……)はこれら3つのソフトウェアと対決した。
 それゆえに、ソフトウェア自体のレベルの高さは身をもって知っているわけだ。それに、僕たち3人が展示スペースに一日中拘束されずに済むというメリットが何より大きいと思えた。せっかくの学校祭だ。参加者としても楽しみたい。
 「でもょ、それじゃっまんなくね?」
 確かに、物足りなさは感じる。他の部が少しでも祭を盛り上げようと一分一秒を惜しんで活動しているのを見ると尚更だ。とはいえ、案を考えるにも準備をするにも今からでは時間が足りなさ過ぎる。泉西先生め……。
 「なぁ、機能追加しようとしたら、学校祭までに間に合うか?」
 斎諏訪は3つのプログラムを僅か数日でゼロから作り上げている。機能追加であれば、残された時間でも十分余裕があるのではないか。
 「仕様がブレなければ楽勝だがな」斎諏訪が腕を組んで答える。これは、虚勢でもなく本心からの言葉のようだ。
 「例えば、〈オーディン〉に強さのレベル調整をできるようにして、勝ったらプリンタで認定証を出せるようにする……とか」
 「ぅぅむ……。前者は、評価関数で二番目とか三番目とか最高値を選ばねぇょぅすることで擬似的に弱くできるだろぅから……1時間ってとこか。後者は、プリンタ制御なぞやったこたなぃが、APIかライブラリをマニアがどっかWeb上に転がしてそぅだから……4時間ってとこか」
 「いや、十分だ」
 よしよし、いい感じに回ってきたぞ。ふと、傍らでここまで座って黙っていた美月に気づく。
 「美月はなんかあるか?」
 正直な話、その場の雰囲気で聞いてみたのだったが、思わぬ答えが返ってきた。
 「詰将棋で、最後にカラフルな絵が浮かび上がると面白くない?」
 「カラフルな」「絵?」男二人がそろって頓狂な声をあげてしまった。
 「ディスプレイに詰将棋を出すにしても、リアルの盤と駒の茶色にこだわることはないでしょ」
 えーと、つまり……? 僕は頭の中に意図するところを思い描いていく。すると、タイルで作られた絵のようなものが浮かんできた。
 盤を青く、駒を白にして、大空を飛ぶかもめの群れが。
 盤を黒くして駒を黄色や白したら、夜空に浮かぶ天体が。
 将棋に慣れきっていない美月ならではの発想と言っていいだろう。僕たちには全く浮かんでこない発想だった。詰まっていた排水溝が一気に流れ出すように、僕にも様々なアイディアが浮かんできた。
 「あ、じゃあ。駒の通った軌跡が図形を描くとか――」
 「――軌跡同士が交叉したときにどちらかがオーバーライドしたり、混色になったりすると複雑さが増して最後にあっとなりやすいかもね」
 「あと、指した手に応じて、音符が選択されていって、正解だったら最後に綺麗なメロディーができるようにするとか――」
 なんだか、だんだん楽しくなってきたぞ。
 ふと、美月と入れ替わりに斎諏訪が静かになってしまったことに気づく。そちらを見遣ると、奴は肩をすくめてぽつりと言った。
 「……ゃれゃれ、しばらくは暇を心配しなくてょさそぅだな」
 
 生まれて来たアイディアは実に30に上った。ただし、どれを取捨選択するかは実際に作業を行う斎諏訪に一任することにした。
 「さて、学校祭関係はこんなとこかな。あとは、明日からの大会も重要だな……」
 7月の第一回生徒総会で僕たち将棋部は第二部降格の可能性を示唆されていた。部員が僕と美月の二人だけで部活動の基本人数である三人を下回っていたこと、ここ数年の実績に乏しいこと(部員がゼロだったのだから当然だが)、逆に第一部昇格要望を出していた白物家電研究部が実績をあげていることが大きな理由だった。
 紆余曲折の結果、当時一人で電算研究部を立ち上げていた斎諏訪を将棋部に吸収し、斎諏訪の開発したソフトウェアもまた一定の評価を得たことで現状は一部を維持できている。しかし、やはり部活動たるもの大会やコンクールにおける実績が最重要のアピールポイントだ。
 部室や予算などの恩恵が得られる第一部と比べて、第二部は扱いが非常に質素になってしまう。なんとしても、第一部はキープしていきたいところなのだ。
 「ぁ~、久々でちょっと緊張してきたかもしんねぇ」斎諏訪がそんなことを言う。
 言われてみると、それは僕も同じだ。
 将棋を再開したのは4月だが、それ以来指しているのはいずれも元々勝手知ったる連中ばかりだ。大会のように、慣れない会場、初対面の相手と指すのはそれこそ小学6年生以来だから3年ぶりくらいとなる。
 しかし、僕しか知らないことだが、ここにはそれを上回るもっとすごい部員がいたのだった。
 「美月、明日大丈夫だよな?」
 毎日が初体験の連続である美月だが、将棋大会のような特殊な環境に飛び込むのは未知の世界のはずだ。部員ではあるが、何も無理を圧して参加する必要はない。ただ、明日の心配を今日の美月がしているとは思えないが、僕は思わず聞かずにはいられなかった。
 「大丈夫。ちゃんとメモもしたから」はっきりと言い切って、携帯端末をカバンにしまっている。「私服じゃなくて、制服で。部屋が寒い可能性があるから暖かい格好で。集合は9時半、大会は10時開始、18時から〈まめしば〉で反省会」
 そっちかい。って、反省会の予定までちゃっかりと……。〈まめしば〉は僕たち将棋部員共通の楽しみである『美味しいコーヒー』が堪能できる個人経営の喫茶店だ。まさか、また僕におごらせるつもりじゃないだろうな。
 「ぉぉ、『まめしば(部長奢り)』の予定なら俺のスケジューラにも登録してぁるぜ」そういって、斎諏訪は目の前のノートパソコンを指でトントンと叩いている。
 愛用の珈琲店〈まめしば〉で大会後に反省会を開こうとは言った記憶はあるし、威勢良く『好成績が出たら俺が奢るよ』と宣言した記憶も悔しいかな確かにある。
 ……今夜、財布の中身をしっかりチェックしていかないとなぁ、僕は小さくため息をついた。

 日付が変わって、10月4日。放射冷却の影響か、天気はいいものの少し肌寒い朝だ。
 自宅からまず駅前に向かい、そこからバスに乗る。流れていく秋めいた風景を眺めながら、10分ほど揺られていると、クリーム色を基調とした質実剛健な建物が見えてきた。
 東部地区の文化センターだ。敷地内には大小合わせて5つものホールがあり、音楽コンサートや演劇といったイベントにも使われている。先日も、劇団〈温暖湿潤気候〉を招き、ミュージカル『光の詩』と『奇跡の夜』を催していた。
 その一つ、研修棟の中には会議や講座が催される研修室があり、長机やパイプ椅子が処狭しと並んでいる。将棋の大会はそういった場所で行われるのだ。
 僕はバスの間隔のせいで、9時10分には到着してしまっていた。しばらく待っていると、斎諏訪がやってきた。
 「金もったぃ無ぃから、チャリで来たぜ。っぅか、暑ぃな今日」斎諏訪は上着を脱ぐと、シャツの中に冷気を取り込んでいる。
 「いやいや、全然暑くないだろ! 見ろって世間様を」
 僕が指差した方向にちょうどよく、秋風が巻き上げた木の葉がやってきたが、どうも軽い運動した後の小太りには通じないようだ。
 「そぅぃゃ、〈ラフテイカー〉って知ってるか? 孤独に泣ぃてぃる子供のすぐ傍にすぅっと現われて、笑顔にさせてしまうすごぃヤツらしぃんだが、その正体ってのが――」
 そのとき、ぞろぞろと人の群れがセンターの方に歩いてくるのが見えた。次のバスが到着したのだろう。
 その一団の中に、3人目の部員、美月が混じっていた。
 彼女はブラウンのコートに、白いマフラーといういでたちにで登場したのだが。
 「何なの?」男子二人の視線がそろって足許に集中したのを受けて、不可解そうに彼女は言う。
 「その格好、絶対浮くぞ……?」
 「ぁぁ……、そぅだな」
 美月がしてきたのは脛を覆うように、だぶだぶとなった靴下――いわゆるルーズソックスというやつだ。
 「別に普通でしょ? 大矢高にも似たような格好の子、たくさんいるし」
 「いや、確かにそうなんだけど。今日は女子の層が違うというか……。だよな、斎諏訪?」
 「ぉ、ぉぅ」
 「っていうか、ストッキングという選択肢はなかったのか?」
 「あれ、足先の方が寒いでしょ。暖かいカッコしてこいって言ったの、誰?」
 僕たちは視線を交わして、諦めることとした。押し問答になるだけだし、今から着がえてこさせるわけにもいくまい。
 こうなったら、実際に理由を身をもって本人が確認させるよりなさそうだ。まぁ、しかし確認したところで狼狽をするような性格ではないと思うが……。
 
 *****
 
 部員も揃ったことだし、待ち合わせの9時30分より早いけれど中に入ろうか、としていたところ、はるか遠方より叫び声が聞こえた。残念ながら、非常に聞き覚えのある声だ。
 「くおらあー、待ちゃーがれー」
 走ってくる人物は、紺色の和服姿。世界一残念な顧問、泉西潮成の登場である。僕たちにやっと追いつき、はぁ、はぁと息を切らしている。
 さすがに、バス会社の人たちも空気を読んで運行休止という特別サービスはしてくれなかったようだ。というか、何故本人が試合をするわけでもないのに和服? いや、ここで突っこんだら負けなのだ。
 泉西先生は深呼吸で息を整えて、「顧ー問(こーもん)様を置いていく奴があるか!」開口一番そういった。
 「部員が全員揃ったんだから問題ないでしょう」
 「問題ない……だと?」
 僕は当然の理論を突きつけたつもりだったが、泉西先生は余裕げな表情を浮かべている。
 「くくく、笑わせてくれるぜ瀬田。実はな、この大会では出場申込書に顧問の押印が必要なんだ。さてさて、俺さまを置いていっていいのかな? ん?」
 ぐ、なんて面倒な仕組みなんだ。しかし、悔しいことにここで反発するのは賢明ではないことも明らかだ。
 「……分かりました。一緒に行きましょう」
 「うむうむ。瀬田、お前、将来出世するぞ」
 「そう願いたいもんですよ」

 4人してエスカレーターで3階に向かう。目的地は研修室のフロアだ。気づくと、両方の掌にじんわりと汗が浮かんできているようだ。しかし、前後をみればそこには顔見知りの部員や顧問がいる。一人で会場に乗り込むことと比べれば、それだけで随分と気持ちは楽なはずだ。仲間の大切さを感じる。
 すると、先頭に陣取っていた泉西先生ががばっと返り返る。どんなことを言い出すかと思えば、
 「あぁ~、すっげぇ緊張してきた」
 「泉西先生がしてどうするんですか」
 「あ? お前らが優勝しまくったら、顧問の俺さまに取材が殺到するのは必定だろうが」
 「甲子園の観すぎです。それに、優勝前提を語って微妙にプレッシャー掛けてこないでくださいよ」
 とはいえ、くだらなすぎるやり取りのせいで緊張が少しほぐれたのは確かだ。本人が意図してやっているのであれば優秀な顧問といえるのだろうが。
 さらに、エスカレーターの終わりに気づかず、際に草履の踵を引っ掛けて盛大によろめく。
 「うっ、わぁっ、っと……。アブネェアブネェ。……いいかお前ら! これは、最後まで油断禁物だと言う俺さまからのありがたい訓示と思えよ!」
 「はいはい」
 泉西先生は本当に優秀な教師です。分類としては反面教師ですけど……。心に浮かびかけた言葉を慌てて将棋の内容で塗り替えてごまかす。
 3階にたどり着くとすぐ脇に『東部地区高校生秋季将棋選手権大会会場→』の看板が立っていた。矢印の方向をみると、細長い机がいくつかと、そこに座る大人の姿が見えた。机の一つには、受付の文字も見える。
 受付の脇のところには、個人戦用と団体戦用の出場申込書が置かれており、これにそれぞれ記入を済ませてから受付をするらしい。
 個人戦出場申込書は各々が、団体戦出場申込書は泉西先生が記入をした。それらを僕がまとめて係員のところに提出することにした。
 「じゃあ、泉西大先生。押印をなにとぞよろしくおねがいいたしますっ」
 少しイヤミを込めて3枚の紙を手渡す。臥薪嘗胆極まりないが、印鑑さえもらってしまえばしばらく頭を下げる機会もないだろうと思い、ぐっとこらえた。
 泉西先生は平安時代の公家がごとくすまし顔で「ふむ」と紙を受け取ると、袂に手を入れる。そして、取り乱した。
 バタバタと和服や身体じゅうを触りまくったかと思うと、周囲の床を隅々まで見回したりしている。
 「え? あの、もしかしてなんですが……。印鑑、ないんすか?」
 「HAHAHA。君は不思議なことを言う少年だなぁ」
 「正直に言ってください! あと少しで受付終了ですよ!?」
 「……無ぇよ!」
 「なんで、逆ギレするんですか……」
 部員全員で泉西先生に厳しい尋問を行ったところ、どうやら昨日の夜に町内の回覧板に押印した際にテーブルに放置したままで忘れたのではないかという推理に至った。
 「斎諏訪、いつも十徳ナイフかなんか持ってなかったけか?」
 「ぁるが? ま、まさかつぃに刺すのか?」
 「気持ちはその域だが、さすがにそれはまずいだろ……。血判でもしてもらったらどうかと」
 「バ、バカヤロッ! 指が傷物になってお婿に行けなくなったらどうすんだよ!?」
 「元々お相手なんか見つかりそうにないじゃないすか」
 「こいつ……! それに、それに。そんなん、痛すぎだろう!」
 部員と顧問の激しい応酬、傍らで申込書を書こうとしている他校の生徒が顔を引きつらせている様子が眼に入った。とりあえず、この調子では血判は無理そうなので(元々、そんなので受付受理されるかも怪しいところだ)、なんとか印鑑を入手する方法を考えるべきだろう。
 「家まで往復でどのくらいかかるんすか?」
 「タクシーでもだいたい40分はかかる、と思う……」
 「通りの向こうにホームセンターなかったっけ? 印鑑どっかで買うとか……」
 「『泉西』なんて苗字の印鑑、そうそうねぇよ!」
 「だから逆ギレしないでくださいよ」
 試合前に、思わぬところに落とし穴があったものだ。団体戦は、今日申込で試合自体は明日だからそちらに注力するということもできるが……。個人戦が不戦敗で終わってしまう、そんな消化不良な展開は素直に受け入れられるはずもない。何か、何か手はないものか。
 と、そのとき、美月がふらっと受付の方に向かい、再び戻って来た。右手には、朱肉と消しゴムを持っている。そして、消しゴムを僕たちの方に突き出してきて、
 「これで、作ろうよ」
 作る……消しゴムで……?
 理解するのに一瞬時間を要してしまったが、なるほど、それはありかもしれない。顧問の印が必要といっても、役所に印鑑登録しているものが必要ということでもないだろう。
 美月は、椅子に腰掛けて消しゴムの未使用面を剥き出しにする。そして、傍らに立っていた斎諏訪に無言で左手を指し伸ばした。
 「な、なんだょ……」
 はじめは戸惑っていた斎諏訪も、それがナイフを催促しているのだと気づき、尻ポケットから取り出すと、刃を起こしてから手渡した。
 「さてと……」
 斎諏訪の十徳ナイフを受け取ると、美月はその真っ白な直方体にすぅっと刃を入れ始める。
 ん? 左利きだったっけ? と言いかけたセリフを慌てて飲み込む。聞いたところで、ちょうど左手で持ってたから、というような切り返しをされるだけなのだ。
 そして、下書きも何もなく、美月は1平方センチメートル程のスペースに丁寧に『泉西』の逆さ文字を削っていった。
 
 *****
 
 「じゃ、受付に行ってきますよ」
 「おう。印鑑に難癖つけられたら、『印鑑は現地で作成すべし、という泉西家代々の家訓に従ったまでだ!』と逆ギレしてこい」
 「逆ギレって……。というか、多分これ見抜かれないですよ」
 『泉西』の2文字は逆さにしてもそれほど変化はない。だが、それを差し引いても、美月の印鑑は良くできていた。インクの乗りを良くするため、表面に浅く切れ目も入れたらしい。なんだか、イカの調理みたいだが、おかげで4枚の紙にはしっかりとした押印がなされている。
 おかげで、僕は気楽な気持ちで受付に向かうことができた。
 「大矢高校です」
 「はい、少々お待ちください」
 係員は手際よく手続きを進めていたが、「おや?」と呟いて脇にいた別の係員と相談をしている。
 何か記入漏れがあったかな、まさか印鑑を見抜かれたとか……などと思っていると、一瞬耳を疑うような返事を聞くことになった。
 「えーとですね、申込書のフォーマットが古いままで申し訳ないのですが、今回から団体戦は男女別になってるんですね。それでですね、一応確認なんですが、この先鋒の『織賀美月』さんというのは男性ということでお間違いないですよね……?」
 男女別……?
 ん? 男は僕と斎諏訪だけだ。とすると、団体戦出られないんじゃ?
 「ちょっとすみません、記入ミスの可能性があるので、確認してきます」
 何かしら手があるかもしれない、そう思って、僕はとっさに即答せずに後方のソファで座っている皆の方に戻っていく。
 「おぉ、優勝の手続きは済んだか?」泉西先生は扇子をパタパタ仰ぎながらそんな軽口を飛ばしてくる。
 「えーと……ですね」
 かくかくしかじか。僕は事態を手短に説明する。斎諏訪は目を丸くしている。泉西先生も、一瞬ぽかんとしていたもののすぐに何かに気づいた様子で「俺に名案がある!」と言い放った。
 「織賀が女装した男子生徒だってことにしようぜ! さすがに体調べられたりはしな――、ギャーーース!」
 言葉が途切れたのは、美月の全力デコピンが泉西先生の後頭部に直撃したからだ。
 まぁ、理論的には全くありえないわけじゃない、ないけれど。
 僕は、美月の方をちらっと窺う。……やっぱり無理だ。『織賀美月』に関しては成立しないだろう。
 整った顔立ちと容姿。『なんで、僕の身近にこんな子がいるんだろう。いつか絶対に生命の危機が立て続けに起こりそうな塞翁が馬レベル』の女子高生に化けられる男はまず存在しないからだ。
 そして、美月自身がトドメの一言。「あたしが男だってことにしたら、〈女子の部〉の方出れないでしょ」
 「か、かくなるうえは……」
 後頭部をさすりながらよろよろと蘇生した泉西先生が和服の袂からすっと布袋を取り出す。
 「こんなこともあろうかと持ってきたこいつで」そして、布袋から取り出したのは金髪カツラとパーティ用鼻眼鏡だった。
 「俺さまがこいつで天才帰国子女センセ・イショナ・リーとして出場してやろうじゃねぇか!」
 場は沈黙する。他校の生徒の視線が集まっているのは気のせいじゃないだろう。もちろん、先ほどの係員二人も訝しそうにこちら側を凝視している。
 「……はい。面倒ですけどツッコミます。何ですかその鼻眼鏡は!? 怪しさ3割増じゃないすか。普段からですけど、とにかく泉西先生は目立ちすぎなんです! 今から変装してもバレバレでしょう? それに、将棋できないじゃないすか……」
 そう、和服マニアの隠れ蓑として将棋部を選んだだけで、泉西先生は将棋ができない。顧問なのに。顧問なのに。顧問なのに。
 床に手足を着き、大げさにうな垂れる顧問を尻目に僕は決断した。しかたない、団体戦は諦めよう、と。
 「こうなったら仕方ない、個人戦だけでなんとか好成績を目指そう」
 個人戦は約8校、50人ほどが参加する。そこで3位以内に入賞できれば十分実績をアピールするには足るはず。トラブルを引き摺らず、今はできることをやるだけだ。
 僕は、個人戦の用紙を持って受付に向かった。

 ****

 試合会場の中は騒がしいようで静かな、不思議な雰囲気に包まれていた。そう、試験が始まる直前に似ている。
 とはいえ、勝負が始まるまでは久し振りに会う顔馴染みとの交流モードだ。学校の集団に関係なく会話を交わしているようだ。
 「なんか、居場所無ぃょな」
 「……ぁぁ、想像以上だ」
 隣のパイプ椅子に腰掛けている斎諏訪も同じ感想だったようだ。
 それに二人とも、小学生以来の大会だ。小学生くらいだと、必ずといっていいほど親が付き添いで来てくれるので、待ち時間なども話し相手や居場所に困ることはなかった。
 今日集まった中には、そのときに戦ったことのある奴がいるかもしれないが、確信がもてるレベルの生徒はぱっと見て、いない。勝負をしているときも基本的には盤面しか見ていないし、かすかに覚えていたとしても顔つきも昔とは随分変わってしまっていることだろう。
 僕と斎諏訪も一応は日頃より顔を合わせる間柄ではあるが、淀みなく話が続くほど豊富な話題を持っているわけではない。他校はだいたい5人から10人くらいは部員がいるようで、話の種や話し相手には事欠かないようだ。結果として、僕たちは試合が始まるのをただひたすらに待つ状態が続いているのであった。
 ふと女子の部の方を伺うと、そこもある種の人の集まり、コミュニティというかコロニーが出来上がっていた。
 「今回も水田さんの優勝で決まりかなぁ?」
 「いや、勝負はやってみないと分からないよ? 板池さんも最近調子いいって聞いてるよ?」
 「えっ、わ、私はそんな……」
 際立って話している3人はどうやら大会常連のようだ。緊張感というものが既に存在していない。うち2人はなんとなく見覚えがある。小学生のとき、女子の部で出ていたような気がする。
 視線を少しずらすと、一人ぼっちでパイプ椅子に座り、頬杖をつきながら携帯端末をいじっている美月の姿が見えた。
 大矢高校から女子の部に出場するのは美月一人だけなので、僕たち以上に『蚊帳の外』状態になってしまうのはいたしかたないところではある。
 それよりも気になるのは、周囲の視線が徐々に、その美月に集まっていることだった。
 僕と斎諏訪が思ったとおり、美月の制服姿、特にルーズソックスは非常によく目立つ。会場の女子はほぼほぼ紺か白の膝下ソックスで、スカートも長めだ。野暮ったい――じゃなくて、模範的で真面目な女学生といった風情の人たちで占められている。
 加えて、あれだけ愛想がないのに、多くの男子にあの子かわいいよな、と思わせるあの容貌。
 まぁ……、一言で言うならば『場違い』だよな。例の女子3人も美月の存在に気づいたらしく、何やらひそひそと話をしている。
 
 ――なに? あの子、知ってる?
 ――罰ゲームで来させられてる……とか?
 ――まぁまぁ、『将棋』でさ。少し思い知らせてあげればいいじゃない? 場違いってことを。
 
 そんなベタな少女漫画のいじわる役みたいな会話をしているとは思えないが、僕の方からはそれに伍する内容を想像させる視線だったのだ。
 とりあえず女子の部は例年より熱い戦いとなることは間違いないだろう。
 
 あと数分で試合が一斉に始まる、という頃になって僕達は泉西先生に呼ばれて、集まった。
 「お前ら、長殖学園にだけは負けてくれるなよ!?」鼻息を荒くして、そうまくし立てた。
 私立長殖学園高等部。学力偏差値も、部活の力の入れ具合も僕たちの大矢高校とほぼ同じくらい。
 ただ、潤沢な資本がある分、設備も生徒数も大矢高校の1.5倍くらいの規模があるようだ。今回の大会にも、14人という大所帯で参戦している。
 陸上部も、野球部も、料理研究部も、地区大会などでは大矢高校の前には長殖学園が立ちふさがるらしい。まさにライバル校といって過言ではない。
 それにしても、泉西先生の気合いの入り方は異常だ。すると、その後ろから人影が現れた。
 「相変わらず、賑やかですねぇ。ミスター泉西?」
 声の主を見ると、なんというか、一言でいうと怪しい男が立っていた。
 髪はオールバックに撫で付けられ、真四角の金縁メガネに白いスーツ。大きなカフスボタンフラクタル柄のネクタイはまだ良いとして、胸ポケットから出ている臙脂色のスカーフには度肝を抜かれた。
 「現れたな、上から読んでも何とやらめっ」唸り声を上げながら扇子を構えて過剰に反応するが、それを意に介した様子は無い。もしかしたら、泉西先生との付き合いがそれなりに長いのかもしれない。
 「諸君、はじめまして。私が長殖学園高等部将棋部第11代顧問のイマイです」
 イマイと名乗った男は、なんと名刺を差し出してきた。そこには『今井ケネス』とある。もしかして、ハーフなのだろうか。確かに、このファッションセンスは周囲にはいない類のものだ。
 「諸君、敗退してもちゃんと表彰式まで残っていてくださいよ? ギャラリーが少ないとせっかくの表彰式が盛り上がりませんからねぇ」
 「うっせぇ、その言葉そっくりそのままコピペで返したるぜ。今年はな逸材ぞろいなんだよ。こいつなんかな、将棋だけじゃなくて、俺の肩を絶妙な力加減で揉むテク、購買部のバナナジュースを往復3分で買ってこれる脚力を持ってんだぜ!?」
 泉西先生が得意げに僕の方をビシッと指差す。あの、全然嬉しくないんですけど。
 「おい、そういえばタカサゴは元気なのか?」
 「タカサゴ? あぁ、彼なら奨励会を諦めて大学に進学したようですがね」
 「ヨウデスガネ? てめぇ、連絡は取ってないのかよ。在学中はあんなに熱心だったじゃねーかっ」
 「ふ、そんなこともありましたかね。第一、毎年毎年大勢の生徒を見なければいけない立場で、卒業した生徒なんて構っていられませんからね。製品メーカーじゃないんです。充実したアフターサービスより在校している生徒に全力の指導を与える、それがあるべき教師の姿ではありませんか?
  大矢高校のように、和服かぶれの国語教師や、年中二日酔いの養護教諭、音楽家くずれの数学教師に、日本語のおかしな英語教師などなど素敵な聖職者たちなら実現可能かもしれませんがね」
 「はっはっは、謙遜すんじゃねぇよ。場末のお笑い芸人もどきの世界史教師に虚弱体質の体育教師やげっ歯類マニアの生物教師を擁する長殖学園教師陣にはとても適わないZE!」
 それまで涼しい表情をしていた今井の表情が豹変する。『お笑い芸人もどき』といった辺りが禁句だったのかもしれない。
 バチバチと、二人の間に平賀源内の作ったエレキテルを超えるかと思われる放電現象を観測した、気がした。そして、そのまま睨み合いが続く。
 先に視線を外したのは今井だった。腰の辺りから金色の懐中時計を取り出すとわざとらしく咳払いをする。
 「まぁ、威勢がいいのも今のうち。大会の結果が確定した頃、またお会いしましょう」そういって長殖学園の生徒達の方へ立ち去っていった。

 *****

 大会は予選と本戦、大きく二段階に分かれている。まず、予選として全員でスイスドロー方式の予選が行われる。
 スイスドロー方式とは、次のようなものだ。
 まず、初戦はランダムな組合せで対決させる。
 次に、二回戦は初戦で勝った者同士、負けた者同士で対決させる。
 それ以降も全勝は全勝同士、2勝1敗は2勝1敗同士というように、成績の似た者同士が対決するように繰り返していく。
 そして、最終的に成績が良いものから順に本戦のトーナメントに出場することができるのだ。会場の人数とトーナメントの枠の数を見る限り、2勝2敗でも十分本戦に出られそうだが、油断は禁物だ。
 いよいよ初戦だ。小脇にあるチェスクロックの時間を15分に合わせる。チェスクロックは持ち時間を対戦者自身が管理できるようにするための道具で、アマチュアの大会では良く使われる。
 時間を表示するディスプレイが横に二つ並んでおり、それぞれのディスプレイの上には押しボタンがある。自分の手を指したら自分側のボタンを押すのだ。すると、自分側の時計はとまり、相手側の時計が動き出す仕組みだ。
 最近はデジタルのものが増えてきたが、以前はアナログ式のものが主流だった。
 自分側のボタンを押したら、自分側の時計が止まり、相手側の時計が動き出す――という動作自体は同じだが、ボタンが押されると相手のボタンが上がるというシーソーのような動きをしたり、針が一番上の12の数字付近に近づくにつれ針が小さな板を押し上げていき、時間が切れるとその板がぶらーんと垂れ落ちて、時間が切れたことを示すといったギミックが面白い。
 相手が振り駒をして、先手後手を決めることになった。〈歩〉が3枚出て、僕は後手に決まった。
 「それでは、初めてください」
 大会委員の号令に従って、随所で「お願いします」という声が上がる。僕はすぐにチェスクロックのボタンを押した。
 自然と気合いが漲ってきた。目の前の勝負にまず勝ちたい、という純粋な想いも勿論あるし、今回は将棋部の実績作りという集団としての目標もある。
 そしてもう一つ。先ほど加わった、『打倒・長殖学園』だ。
 泉西先生の発破に単純に呼応したわけではない。先ほど、今井が去って言った後、泉西先生が珍しく真面目な表情で事情を話したのだ。
 「お前たちの3つ上の世代にな、タカサゴって男子生徒がいたんだよ。そいつ、なかなか強ぇ奴でさ。ちょうど3年前のこの秋季大会でいきなり3位になったんだよ。1年でだぞ? 奴も俺さまも大喜びだった」
 初めて聞く話だった。あの部室で、将棋を指している先輩がいた。僕が入学した時点で、将棋部は存在していたのだから考えてみれば当然の話ではある。しかし、第二部降格騒動などで奮闘している日々の中で、すっかりそんなことを忘れかけていたようだ。
 「あいつは、無口で物静かな奴だった。だけど、表情が隠せないタイプらしくてな。瀬田の次くらいに考えてることだだ漏れしてる奴だったよ。
  口には出さなかったが、ずっとプロの将棋棋士になりたいって思い続けてたんだよ。プロってのはよ、狭き門なんだろ? もしなれなかったらそっから別の職を探さねぇとダメだ。大学くらい出とかないと就職も難しい世の中だ。でも、家があんまり裕福じゃない。大矢高校なら、家から近いから奨学金とアルバイトしながらでなんとか通えると思ったんだな。
  実際、平日朝と土日の時間はアルバイトに費やしていたようだがな……。と、そこに現れたのが今井だ」
 泉西先生は、来賓席に脚を組んで腰掛けている今井を一瞥する。
 「ヤローが『特待生としてウチに来れば授業料は免除しますよ』とか唆してきやがった。俺さまは躍起になって止めようとした。今井の手口を知ってたからな。でも、あいつは2年になる直前、転校しちまったよ。
  今井はな、くだらねぇ完璧主義者なんだ。大会では男子の部・女子の部共に1位から3位までを独占しないと気がすまない。大方、3位になったタカサゴが、後々優勝争いに絡んでくるのを恐れたんだろう。つまり、引き抜きってわけだ。
  だが、話はこれで終わりじゃない。あいつは完璧主義者だって言っただろ? ヤローは、『生え抜きにあらずんば生徒にあらず』という歪んだ信条を持ってるんだ。長殖学園に転校して以来、俺はタカサゴの姿を大会で見かけたことは一度も無い。あいつはよ、生殺しにされたんだ」
 僕は対局が始まってからも、泉西先生の話の内容を反芻し続けていた。
 タカサゴ先輩は3歳年上だから、もし転校がなかったのだとしても直接会うことはなかっただろう。しかし、それでも将棋部の先輩であることに変わりは無い。
 単純に泉西先生の視点からの言葉で煽られるのは問題かもしれない。それでも、優勝のためには『打倒・長殖学園』は必然だ。久々の大会参加ということもある。僕は、大会の雰囲気に呑まれないように、敢えて〈敵討ち〉のような気持ちを自分の中に取り込むことにしたのだ。
 ちょうど初戦の対戦相手は長殖学園の1年生だった。初戦はランダムとはいえ、1年生は1年生という風に当てているのかもしれない。これは僕にとっては好都合だ。
 目の前の彼が中学生も将棋部で大会慣れしていたとしても、高校生の大会というものは初めてのはずだ。ならば、『地の利』の差は少しは小さいことになる。
 そして、戦法は四間飛車を選択した。これは、小学生のときの僕の作戦の一つでもある。
 四間飛車は定跡化された手順が多く、序盤から細心の注意を払うケースが比較的少ない。だから、緊張しやすい僕が、緊張がほぐれるまでの時間稼ぎとしてはもってこいなのだ。
 しばらく指し手がすすみ、局面は次第に明らかになってきた。
 相手は居飛車で5七銀左戦法で急戦を仕掛けようとし、僕は四間飛車でそれを迎え撃とうという構えだ。
 相手が長考に入る。先手の駒組みは飽和状態だ。恐らく、戦いを仕掛けるかどうかの最終チェックをしているのだろう。
 少し間があいたので僕は周囲の様子に気を向ける余裕ができた。さすがに、小学生のときに比べて大会の規模も大きい。
 遠くで、早くも対局を終えているのが2組ほど見えた。力戦振り飛車のような超急戦の戦型だったのだろうか。
 いや、この速さはどちらかがうっかり大悪手を指してしまった可能性のほうが高いかもしれない。駒から手が離れた瞬間に〈指し手〉は確定される。(逆に言うと、手さえ離れていなければ駒を元に戻すことはできる)縁台将棋のような〈待った〉はもちろん公式戦では通用しない。
 タンッとボタンを叩く音を聞いて、僕は相手が手を指したことに気づいた。
 やはり、仕掛けてきたか。僕もちょうど、大会の雰囲気に馴染んできたところだ。迎え撃ってやろうじゃないか。
 ――ピシィッ
 僕は突きつけられた相手の歩を堂々と取り除くと、高らかに〈歩〉を前進させた。

 研修室に付けられたルームエアコンが特別手当てを要求してもおかしくないくらい、部屋の中には高校生の呼気と熱気が渦巻いている。
 「ありません……」搾り出すような声だ。
 目の前の相手のその声を聞き届け、僕はふうと息を吐き出す。心臓がまだ高鳴っている。これで3連勝だ。
 勝っている方が、何故か最後までドキドキする。将棋は大逆転の多いゲームで勝勢の側は最後まで油断できない。逆に、負けるときは案外早い段階である種の覚悟というか諦観に包まれるので、気持ちの整理をつけやすいということがあるのかもしれない。
 斎諏訪のほうもそこそこ順調なようで、2勝1敗。二人とも、本戦出場自体はまず確定といったところだ。残る一戦の結果で本戦トーナメントのシードなどが決まるとはいえ、ある程度の消化試合ムードは避けられない。
 それに、次にあたる相手は僕と同じく3戦全勝のはずだ。本戦で再度あたる可能性が高い。敢えて主力戦法を温存して、手の内はできるだけ晒さないという考え方もある。
 一方、女子の部の方は参加人数が12人程度、男子ほど多くない。そのため、予選は本戦トーナメントのシードを決める目的のために行われるようだ。
 対局の合間にちらっと見た感じだと、もう1戦目は終わっており、今は2戦目に入っているところのようだ。
 男子のスケジュールは過密で、本来は満足な休憩時間はない。しかし、早指しが得意な僕は3戦目を比較的短時間で終えていた。
 そのおかげで、女子の部の様子を観にいく余裕が生まれていた。
 壁に貼られている結果表を見ると、例の3人組は順当に勝利したようだ。名前を探すと、美月も無事初戦を勝利で飾っていた。
 対局場の方を伺うと、辺りにはちょっとした人だかりができていた。
 人と人の間、視線の先に美月の後ろ姿が見えた。背筋を伸ばし、高い位置で結わえられたポニーテールはまるで剣道少女のようだ。
 その対戦相手は、よりによって先ほど大会三連覇を噂されていた水田とかいう女子生徒のようだ。これは強敵である。
 果たして、作戦通り上手くやれているだろうか。
 僕は今回の大会に向けて、美月に作戦を提案していた。名付けて、『速攻攪乱作戦』だ。変なネーミングだが、作戦の要諦をきっちりと押さえている気はする。
 同じ人類とは思えないほどの高い処理能力を持つ美月は序盤から終盤に至るまで思考に安定感がある。特に、詰みに関しての認識は確実でコンピュータ将棋の正確性に通じるものがある。
 ただし、敢えて言うなら序盤がウィークポイントだった。
 何を作っているかを当てる映像クイズのように、序盤は無限大に近い変化の可能性を持っている。その段階から、あらゆる可能性を計算しようとすることはほぼ不可能だし、時間がいくらあっても足りない。
 通常、そこで登場するのが定跡だ。定跡とは、ある程度実績のある有力な手順のことで、滅茶苦茶に駒を動かすのと比較して効率的に攻めたり守ったりすることができる。表現を変えるなら、記述式の回答が選択式になるようなもので、アマチュアにとっても棋力向上には欠かせない。
 しかし、それを敢えて外す。それも序盤から。いきなり大混戦にするのだ。
 定跡から外れた大混戦は、『うっかり』から一気に勝負が決まってしまうことが多々ある。すると、一手一手を時間を掛けて考えることになる。これは思考の早い美月には大きなアドバンテージとなる。
 そして、大混戦は中盤をとばして、序盤から終盤に一気に推移することも少なくない。美月の強みである終盤にいきなり引きずり込んでしまえるのである。
 もう一つ、心理的仕掛けもある。
 美月は初出場、それもいかにも将棋なんてやりっこなさそうな見た目だ。定跡とは程遠い手を指したとしたら、きっとこう思うに違いない。
 ――はは。なんだ、定跡も知らない初心者か。
 それが精査を阻み、油断を生み出す可能性が大いにあると考えたのだ。
 もっと近づいて盤面も見てみたいが、そこで「大矢高校、瀬田くん」と係員の呼び出しがかかってしまった。予選の4戦目がこれから始まるのだ。
 相手が難敵だったとしても、美月ならきっと大丈夫。心にそう言い聞かせて、僕は踵を返した。
 手合票を受け取り、盤の前に腰掛けたとき。遠くで、小さなざわめきが聞こえた。あれは……美月たちが座ってたあたりだ。勝負が終わったようだ。
 優勝候補の水田が勝ったところで、ギャラリーが騒ぐはずがないだろう。
 ということは、どうやら僕の心配は全くの杞憂だったようだ。美月は2戦全勝という最高のすべり出しをしたのだった。
 
 いよいよ、僕の予選4試合目が始まる。やはり、3戦全勝の相手だった。スイスドロー式の対戦で3連勝する実力者なわけだ。一体、どんな相手なのだろう?
 手合票を見ると名前は『園手賀 篤貴』と書かれている。
 フリガナには『ソノテガ アツタカ』と書かれていたが、音の響きにも顔にも全く記憶に当てはまる人物はいなかった。
 駒を並べていく。すると、不思議なことに気づく。駒の並べ方が独特すぎるのだ。
 駒の並べ方は、大きく〈大橋流〉と〈伊藤流〉に分かれる。
 〈大橋流〉は、〈王〉をまず置き、一番下の列を〈金〉〈金〉〈銀〉〈銀〉と左右交互に並べていき、〈飛〉と〈角〉を並べたのち、最後に一番上の〈歩〉を左右交互に並べていく。順番が分かりやすいし、力強く打ち付けてずれないように整える動きが物理的に無駄なく行えるためか、非常に人気が高い。
 〈伊藤流〉は途中までは、〈大橋流〉と同じだが、〈飛〉〈角〉を並べる前に、一番上の〈歩〉を並べていく形式だ。
 しかし、目の前の相手は、それどころか〈歩〉から最初に並べ始めたのだ。そして、一番下も、一番端の〈香〉から順に並べていき、最後に〈飛〉〈角〉、〈王〉と並べ終えた。
 駒の並べ方は自由で、どう並べても自由だ。僕が気になったのはこの風変わりなこの並べ方。昔、どこかで……。僕は古い記憶を手繰り寄せる。
 そして、僕は思い出した。
 小学生のとき、大会で何度か相手になったことがあったはずだ。近くにいた知り合いの子いわく「『主役級は後から入るべき』なんだそうだよ」
 確かに、少し我が強くて風変わりな面はあったが、実力はそこそこあった気がする。基本形や手筋は確実に抑えており、大きく崩れたりはしない。コンスタントに勝ち星を挙げて、大会でも常にベスト8くらいにはなっていたはずだ。
 しかし、優勝争いをするような強さでもなかった。記憶に間違いがなければ、大会で10戦以上はしているが、一度も負けたことは無かったはずだ。
 極力客観的に分析すると、僕の指し手の特徴は昔から『相手が予想をしていないような鬼手を、直感的に思いつく』といえる。彼は恐らく、小さくポイントを稼いで最終的にその累積でもって勝つというスタイルであり、相性のようなものが僕に有利だったのかもしれない。
 ふと見ると、園手賀が僕の手合票をじっと見ている。その後、僅かに目が合った。果たして、園手賀は僕のことを覚えているのだろうか。
 3年間のブランクを経て戻ってきたわけだが、それを尋ねられた場合反応や回答に困る。しかし、昔持っていた苦手意識のようなものを喚起できるなら勝負の上では有利に働きそうでもある。どちらだったとしても一長一短があるわけだが……。
 しかし、先後も決まり準備も全て整うと園手賀のほうから「はじめましょうか」と言ってきた。その表情を見ても、過去の云々について意識している風はない。
 これ以上詮索してもキリがないので。一旦思考を休止することにする。僕は「そうですね」と応じた。チェスクロックが押され、戦いは静かにはじまった。
 
 戦形は〈横歩取り〉となった。〈横歩取り〉とは古くからある相居飛車の戦法の一つだ。激しい急戦になる可能性が高い。しかも、日々研究が進んでおり、付け焼刃の知識では逆に足許をすくわれてしまうこともありうる。
 序盤から神経を使う将棋となってしまった。時間を気にしつつ、クールダウンするためにペットボトルの緑茶を一口呷る。
 相手の手番だが、少し思考モードに入ったようだ。僕の方に少し余裕が生まれたので、相手の容姿を改めて観察することができる。
 髪は緩やかな癖毛だ。左右の長さが違うのか、洒落っ気で分け目をいじっているのか、左目に前髪が少しかかっている。
 姿勢は、背中を反らして、あごに手をあてた状態だ。まるで、参謀が作戦を練っているようだ。プロでも熱中すると前かがみになりがちな将棋指しとしては珍しいタイプな気がする。そして、例の少年も当時からそんなスタイルで対局していた。
 間違いない、僕は彼――園手賀篤貴を知っている。
 そう思うと、気持ちが少しリラックスしてきた。無敗というジンクスが僕の頭に広がっていく。ギャンブルやテストと同じく、将棋もリラックスしている方が結果を出しやすい。
 僕がもう一度口を湿らせようかとペットボトルに手を伸ばしたそのときだった。
 ――パチッ
 園手賀が指した。
 だが、その手の意味はすぐには理解できないものだった。〈飛〉を一段下に引いただけの、まるで一手パスのような手なのだ。
 盤面を広く見回し、数秒考えてみたが、全く分からない。そのとき、たまたま持ち時間が1分減ったことを示す小さな電子音がピッとなって僕は肝を冷やす。時間切れで敗退したときのことを思い出したのだ。
 持ち時間自体はまだまだ8分もあるが、相手の意図が分からない状態で手拍子で指すのは経験上危険だ。一体、何を狙っているんだ……?
 将棋はパスができないので、自陣が最善形の場合に相手に攻めてもらうためにパスのような手を指すテクニックも確かにあることはある。しかし、持久戦ならまだしも、この急戦の局面ではその可能性は薄い。
 こんなとき、自分が泉西先生だったら相手の頭の中身が分かるのに……。そんな、叶わない空想にとらわれてしまう。
 時間もこれ以上は消費できない。僕は思い切って攻めることにした。

 *****

 盤上の駒は散り散りに乱れ、終局間近と言う状態となっている。残り時間も互いになくなり、一手30秒の状態がもう十数手続いている。
 結局、あの局面で攻めに行ったのがあだとなり、拮抗していた形勢がそこから徐々に不利になっていってしまった。
 将棋は逆転の多いゲーム。こういうときは、差が広がらないように気をつけつつ、相手のミスを待つべし。しかし、なかなか逆転につなげられそうな機会は現れない。
 相手は、着実にポイントを累積していくスタイルだから、相手の勝ちパターンに既に入りかけている印象だ。
 と、そのとき、ある手が頭に浮かぶ。それは、ゆっくりとマサカリを振り被り、必殺の一撃を繰り出そうとような一か八かの手だ。
 ただし、一撃を恐れずこれまでどおり攻め続けられたら、その機会は訪れず僕の負けは確実となる。しかし、少しでも攻めを鈍らせればたちまち混沌として逆転の礎は生まれる。
 ――ピシッ
 僕の手を見て、優位にある園手賀は手を止めた。眉を寄せて、あごに手を当てている。
 僕は内心で一息つく。対戦しているのは感情や性格を持ったニンゲンなのだ。大胆な人間、慎重な人間。様々な将棋指しがいる。そして、僕の記憶が正しければ、園手賀は石橋を叩いて渡る性格だったはずだ。
 必ず一旦受けの手を指してくるはず。盤上を混沌の海として、ここから反撃だと気合を入れなおそうとした僕は、眼を疑った。
 園手賀は駒台に手を伸ばすと〈銀〉を一つ摘まんで僕の陣の方に打ち下ろした。それは、弱気でも慎重でもなく、一直線に攻め合うことを意味する手だった。
 
 元々、攻め合いに持ち込まれた時点で敗勢になっていくことは覚悟していたが、あの園手賀が僕の知る園手賀でなくなっていたことに強い衝撃を受けて、思考が乱れに乱れていた。
 その後、僕は数十手ほど進めたが、勝負手が悉く空を切り、勝ち目はなくなってしまっていた。
 それならば、あんな賭けのような手で踏み込まず、もう少し気長に機会をうかがっていれば方がよかったか。目の前の盤面を考えず、そんな後悔ばかり頭の中を堂々巡りするようになってきてしまった。
 そして、「負け……ました」と駒台に手を添えて、僕は搾り出すように言った。
 僕が密かに心に描いていた『久々の大会でいきなり全戦全勝優勝』というひそかな野望は潰えたのだった。
 
 *****
 
 激しい戦いが終わった反動か、頭の中がまだぼうっとしている。いや、これは軽い放心状態かもしれない。
 しかしとにかく、予選の4戦が終わり、午後1時までは昼食休憩だ。予選は問題なく通過できているのだ。気持ちを切り替えていかなければ。
 昼食は、大会運営のほうから仕出し弁当と缶入り緑茶が支給されたので、それをみんなと別室で食べることにした。
 緑茶をビールのようにぐいぐいと飲み、一息つくと、泉西先生は缶を握りつぶさんばかりの力をこめつつ語り始める。
 「っかー。〈野郎の部〉の全勝は長殖学園の奴らが独占か。しかし、本戦はこれからだしな。せいぜい今のうちにぬか喜びしてるがいい」
 おそらく、休憩直前に今井に自慢話を聞かされたのだろう。というか、何気に〈野郎の部〉って随分な言いようだ。
 「まぁ、こちらには天才少女がいるがな!」
 「……箸で指さないでよ」
 美月は優勝候補の水田からも大金星をあげ、2戦全勝という文句なしの成績で予選を終えている。堂々のシード決定だ。
 これで実力は申し分ないことは確認できたが、あの常連3人も黙ってはいないだろう。先程は油断があったり、予選だから多少手を抜いていたという可能性もある。大会で好成績を修める者は、メンタルのコントロールも上手いものだ。午後の本戦は実力をはっきりと認めた上で勝負を挑んでくることだろう。
 「あのぅ……」
 突如、団欒している僕たちの輪の中に、蚊の羽音がエコーしたような、か細いビブラートの声が投げ掛けられた。それまで気配もなかっただけに、僕は驚いた。
 声のしたような気がする方向に顔を向けると、いまどき珍しい真ん丸メガネを掛けた女性がおどおどとして立っていた。長い髪を三つ編みにして前に垂らしている。歳は20歳前後くらいだろうか。
 「なんですか?」
 「ひぃっ!」
 僕の返事を聞くなり、女性は小さく悲鳴をあげて飛び退いた。まるで、猫のような俊敏な動きだ。というか、丁寧に応対したつもりだし、そちらから話しかけてきたんじゃないか、失礼な……。
 女性は手にしたボードの陰からこちらを伺っている。
 「あのぅ……。その……」
 一体何者なのだろう。大会関係者か、斎諏訪や美月の知り合いか、まさか他校のスパイか?
 すると、泉西先生がおもむろに立ち上がり女性をビシッと指差す。
 「そこの女! 『社会面の取材行けって言われて会社を出たものの、極度のあがり症の私がまともに取材できるはずないじゃない。人気の無さそうな、コーヒー屋さんで休憩していたらちょうど地元の大矢高校が将棋大会に出ているっていうから来たものの……。高校生の将棋大会ってこんなに人がいるものなの? あぁ、もう倒れそう。大矢高生自体は部員が少なそうだから思い切って話しかけてみたけど、そもそも将棋のルールなんて全然知らないし、なんて話題を進めたらいいのか分からない! というか、この顧問っぽい人、なんで私の心の中をずばずば言い当ててくるの? 怖い……というか気持ち悪……』……ってなんだとうっ」
 「ひっ!」
 「取材?」
 「ぁ、確かにカードがぁるな」
 斎諏訪が指差した先、女性の腹のあたりにネックストラップに付いたカードがぶら下がっていた。そこには、地域では知名度の高い地方新聞社の名称が記載されていた。名前は『加納瑛子(カノウエイコ)』とある。
 新聞の取材、か。これは願ってもない幸運じゃないか。部の活動を学内外に広くアピールするのに大いに役立ちそうだ。しかし、肝心の記者がこれでは問題だ。話のしようがない。この調子ではきっと、これまでもまともな取材などできなかったのだろう。ここは、僕たちから歩み寄るしかない。
 「えーと、加納さん?」
 「ひゃあ」
 「ボイスレコーダーか何か持ってません?」
 僕の言葉を聞いて、加納さんが手提げ鞄の中をガサゴソと漁り始め、やがて銀色の細長い物体を僕の方に差し出してきた。さすがに記者だけあって、装備だけはしっかりしているようだ。依然としてボードを盾のようにしており、表情は伺えない。
 「僕が使うわけじゃなくて。質問とかに答えますから、一旦録音して後で一人で文章に起こしたらどうです? 質問は、この人が聞けますから、質問するときだけ一瞬ボードから顔を出してください」
 「えっ、えっ? どういう……」
 「なんだよなんだよ、俺さまにタダ働きさせるつもりかよっ」
 「こんなときくらい、1ミリくらい役立ってくださいよ」
 その後、掛け合い漫才のようなやりとりを経つつも、数秒後、なんとか取材と思しき会話のキャッチボールは成立しはじめた。
 そして、数分後には部員の紹介や斎諏訪の作ったソフトウェアの紹介など、伝えたいことを全て話しきることができた。
 「あの……、どうもありがとうございました」ボイスレコーダーのスイッチをオフにしながら、加納さんはお礼を述べる。ただし、相変らずボードの陰からだが。
 「いいか! ちゃんと、偉大なる天才国語教師・泉西潮成の武功を天下に知らしめるような文章を書き遂げるんだぞ。それがお前がこの世に生まれてきた意味と知れ!」
 「ひいっ」
 「大きな声出したら怖がらせちゃうでしょう。武功たって、変装してポケットティッシュを往復して3個もらうとか意味不明ですよ……。そもそも、アピールするのは部活動の方でしょ」
 泉西先生をうまく宥めつつ、大矢高校将棋部を今回の記事の中に含めてくれることを承諾してもらうことができた。
 元々、数年ぶりに1年生部員たった3人だけでの参加、最終結果はまだ未確定ながら3人とも予選を突破しているという健闘ぶりは話題性としても問題ないとの判断だろう。
 「じゃあ……、私は一旦ここで……」
 加納さんはじりじりと後ずさりをしながら部屋を出て行こうとする。しかし、その先にあるのは非常階段だ。
 「あれ? 最後まで見ていかないんすか?」
 「いえ……。このフロア、どこもかしこも人だらけだから……。そこの踊り場は人気がなくてちょうどいいの」
 「……」
 人と接するには人に接しない休憩時間が必要――これではまるで、ウミガメの息継ぎだ。
 ちらと他のメンバーを見回す。泉西先生、美月、斎諏訪。皆、一癖も二癖もある連中だ。
 きっと日頃思っているであろうことだけど、改めて感じたことは、僕はなんて普通なんだろうということだった。
 
 *****
 
 いよいよ、午後の本戦がはじまった。ただし、美月はシードなので対戦はない。熱気を帯びた部屋にいるのは疲れるので、少し気晴らしをしてくると言い残して外に出ていってしまった。
 休憩を挟んだことで、脳の栄養補給や気持ちの切り替えは万全だ。昔、将棋道場に行っていたときに『調子のいいときは飯を食っちゃダメだ。逆に、調子の悪いときは飯を食って流れを変えるもんだ』と常連のおじさんから言われたことを不意に思い出した。そのおじさんは特に将棋が強いわけでもなく、ご飯ばかり食べている満腹おじさんと呼ばれていたのはご愛嬌だ。
 さて、ここからは一戦も油断できない。うっかりミスをしないように落ち着いていこう。
 戦形は双方が矢倉囲いに組む、相矢倉となった。矢倉も歴史のある形だ。駒の性質をよく活かしており、多くのプロ棋士も好んで使っている。
 ちなみに、将棋の戦法や囲いには著作権はない。だから、たとえ長年の研究や深い思考の末にたどり着いた戦法だったとしても、誰でもすぐに真似をすることができる。
 もちろん、第一人者として書籍を出して間接的に収入につながることもあるが、せめてプロ同士の対局の場合は著作権が発生しても面白いのではないかと個人的には思う。
 特に最近ではインターネットなどを通じて、情報は瞬間的に広がってしまう。そして、すぐにその対策も編み出されてしまう。
 野球のピッチングフォームやバッティングフォームなどだって同じ事情といえるかもしれないが、将棋を指す者としては少し寂しいものを感じることがある。
 著作権で思い出したが、大矢高校学校祭でも先日ちょっとした盗作騒動があった。
 毎年、学校祭のポスターは匿名で全生徒が投票して決められる。今年は7作品のノミネートがあったのだが、そのうちの2つが非常に似た構図だった。
 学校祭のテーマは『飛翔』。だから、5つの作品が天使やドラゴンや鳥や風船……と種類は違えど優雅に空を飛んでいる構図の絵だったことには誰も違和感を抱かなかった。
 そんな中、残りの2つが『まさに今飛び立とうとする直前の鳥』つまり『まだ飛んでいない鳥』だったのが、『飛翔』というテーマから考えても非常に目立ったのだ。唯一異なっていたのは、それぞれの鳥が向かっていた対象物のみ。片や、〈月〉。片や、〈星空〉だった。
 鳥の位置やポーズなど、構図がことごとく似ており、色使いや繊細さまでも似ていることからまず浮かんできたのは重複ノミネート疑惑だ。しかし、生徒会が公式に『製作者は別人である』声明を出したことから、自体は盗作疑惑に発展していった。
 
 どちらが模倣したのか、様々な噂や憶測も飛び交った。本来であれば、7つの作品から1つを選ぶのがあるべき姿だが、そんな中で、投票は行われたものだから〈月〉と〈星空〉のどちらに投票するかという雰囲気が校内には蔓延していった。
 結果として、得票数一位でポスターに選ばれたのは、〈月〉の方だった。二位は〈星空〉でその差はわずか4票というものだった。
 すると、僅差にもかかわらず、生徒の大勢は〈星空〉の方が〈月〉の方をパクった、〈星空〉の作者よ恥を知れ、という意見が共通認識となって広がっていった。
 当時の僕はというと、〈星空〉の作者に妙に肩入れをしたい気持ちになっていた。もし別の年だったなら、当選されていてもおかしくない発想や出来栄えだったのだ、運が悪かったとしか言いようがないと思ったのだ。ポスター化されないのはもったいないと、高画質モードで撮影して携帯端末に保存しておいたほどだ。
 結果は大事だ。だけど、そこに至る過程や軌跡も大事だし、もっと評価の対象となるべきなのではないだろうか?
 そのときの気持ちを思い出して、つい駒を打ちつける手にも少し力が入ってしまっていた。
 やや攻めが細いかと心配したが、端攻めをいいタイミングで絡めたのが功を奏し、敵方の矢倉は少しずつ崩壊を始めている。自陣はまだ手付かずだから、このまま押し切れるだろう。
 その見立て通り、数分後相手は投了、僕は本戦トーナメント1回戦を突破した。
 
 簡単に感想戦をしてから、係員のもとに向かう。トーナメント表を見ると、斎諏訪もどうやら1回戦を突破できたようだ。赤い線が上の方へ延びている。
 部屋の中を探すと、斎諏訪が小さく手を挙げているのが見えたので、そちらに向かう。
 「順当に勝ったよぅだな」
 「まあ、な」
 こういった大会では基本的に勝者が係員のもとに結果を報告に行く。その姿をここから見られていたのかもしれない。
 「そぅそぅ、これ見てみろょ」斎諏訪が携帯端末を手渡してくる。
 画面には、ドキュメント編集アプリケーションが立ち上がっており、表がいくつか作成されていた。
 「ここ数年のここぃらの中学・高校生大会の結果をまとめてみたぜ」
 改めて表に眼を落として、息を呑んだ。
 ずらりとならぶ名前は、今日の予選でも好成績を修めている者たちばかりでほとんどが占められていた。いずれも長殖学園の部員達だ。
 女子の独占状態は特に顕著で、例の常連女子3人組が常に3位までの名前を埋めているではないか。
 「どぅも〈御三家〉と呼ばれてぃるらしぃぜ」
 そんなことをしていると、美月が部屋に戻ってくるのが見えた。手には、缶コーヒーが握られている。美月は僕らに気づき、向かってきた。
 「ぉぃ、織賀も見てみろょ、この面々」
 斎諏訪が差し出した携帯端末を受け取り、ちらりと眺める美月。しかし、すぐにそれを返してくる。
 「過去なんて、今日のあたしには関係ないから」そういって、プルタブを起こして飲み始め、興味の矛先を缶コーヒーの方に移してしまっている。
 美月の事情を知らない斎諏訪はそれを表現の一種ととらえ、ひゅうと小さな口笛を鳴らした。
 しかし、僕はその言葉の延長線を解釈してしまい少し複雑な心境になる。今の言葉を言い換えれば、こうだ。
 「今日なんて、明日のあたしには関係ないから」
 
 しばらくして3人とも対局の時間となったのでそれぞれの戦場へと散っていった。
 盤面は相振り飛車の中盤になっている。僕の囲いは二枚金というやや古風な構えだ。悪形である壁銀を自ら作ることになり発展性に乏しいものの、上部に手厚い特徴がある。上部から攻められることのが多い相振り飛車ならではの構えといえる。相手は穴熊だ。二枚金の方が手早く囲いが完成するため、僕が積極的に穴熊を攻略していく局面となっている。
 順調に指し続けてつつも、頭に浮かんでくるのは他のメンバーのことばかりだった。
 斎諏訪は善戦しているだろうか。相手は予選全勝の強敵、園手賀だ。久々の大会での緊張、頭の体力のペース配分など不安要素は多い。斎諏訪は気分屋だ。もし、手痛い敗戦をして部活をやめると言い出したら……。この大会に出場したこと自体が裏目だったことになってしまう。
 美月は善戦しているだろうか。予選で一度当たって勝利を収めており実力も御三家には及ばない相手ではあるものの、どんなハプニングが起こるかわからない。例えば、連戦の疲れで意識が一瞬飛んでしまったら……。もちろん、勝負どころではないし、気づいたら、部屋の中には大勢の人、目の前には謎の木製品だ。どういう反応を示すかも想像できない。
 泉西先生は来賓席で大人しくしているだろうか。他の来賓に迷惑をかけてはいないか。……いや、もうこの人のことは考えてもキリがないので放っておこう。
 穴熊には端攻め、セオリーどおり仕掛けていく。こちらは〈香〉〈桂〉〈角〉〈飛〉の4枚の攻めだ。俗に〈4枚の攻めは切れない〉と言われる。相手はそれを意識したのか、攻め合いを選んできた。
 先程から盤外のことばかり考えているが、とりわけ美月については別の想いも浮かんでいた。夏に『記憶リセット状態の告白』を受け、進んで協力を申し出ていながら、なんら解決に向けて進展できてないということだ。
 現実的に考えるなら、なにかしらの検査や医療処置を受ける方法が一番の王道だろう。しかし、美月自身はその方法を取ろうという姿勢を見せていない。一般の医療機関で手に負えるものではないと確信しているのか、あるいは問題の解決よりも、ことが公になったときの面倒さを警戒しているのではないかと推測している。
 最低限の秘密を維持したままハイレベルな医療を受けようするのはかなり難しいと思われる。ただ、天才的な名医については一人だけ心当たりがあった。この夏、子牛島で出会った円孔雀医師だ。言動こそ不気味で怪しいものの、世界中のVIPからの信頼も厚く、外科でも内科でも何でもこなせる腕前だという。
 しかし、その天才医師に診てもらうには一体どれほどの資金が必要なのだろう。僕には想像もつかない。そのとき、ふと同じときに出会ったもう一人の有名人のことを思い出した。
 棋界を代表する天才棋士、冷谷山三冠だ。タイトル戦を勝ち続け、獲得賞金額が早くも歴代3位に及んでいると聞いている。
 「あ……」
 思わず、口から言葉が漏れていた。相手が怪訝そうにこちらを見る。僕が悪手を指してそれに気づいてしまったと思ったのか、しきりに盤上を見回している。しかし、僕が思い至ったのはそういうことではなかった。
 確か、プロのタイトル戦のいくつかはアマチュアにも開放されていたはずだ。もちろんトッププロとは違い、予選からの出場で何勝も勝ち上がっていかないといけないし、その予選自体も何らかのアマチュア大会で優勝するなどの実績を修めていないと出場不可能だ。
 だけど、何のとりえも才能もない僕が、プロスポーツ選手や起業して若社長になることに比べたら、可能性としては僅かに高いのではないかと思えた。
 他人にこんなこと話したら、きっと笑われるに違いない。それでも、美月のためにできることが他に思い浮かばないのだから、とりあえずそれに真っ直ぐ向かうことは決して無意味ではないと思うのだ。
 相手が着手し終えたのを見て、僕は7七にいた桂馬を摘みあげる。
 今日からは電撃殺虫器に突っこんでいく虫たちのことを笑えないな、そんなことを考えながら8五の地点に力強く打ち付けた。
 
 結果から言うと、僕はその後無難に優勢を拡大して勝利できた。しかし、斎諏訪は奮闘空しく完敗だったようだ。
 「ぁぃつ、相当強ぃぜ……」
 斎諏訪はそういって、唇を噛み締めている。しかし、そう呟いたときの眼は死んでいなかった。今回は負けたが、次はきっと勝ってやるという眼だ。この眼をしているものはまだまだ強くなる。
 美月は本戦の初戦も無事勝ち上がったようで、トーナメント表の赤い線が先へと伸びている。そして、今は既に準決勝の戦いの準備を始めているようだ。その相手は、御三家の一人である大木夏海だ。
 大木は高校1年頃までは大会で優勝をするのが当然というほどの常勝女帝だったが、ここ最近は水田にことごとく優勝を奪われて準優勝が続いている。同じ長殖高校ということもあり、個人戦での意気込みは相当なものがあるはずだ。
 「……じゃあ、ぉれは、織賀の戦ぃを見届けてくる」そういうと斎諏訪は野次馬の群れの中に小太りの身体を溶け込ませていく。あれはなかなかすごいスキルだな……。
 幸か不幸か、僕には戦いの続きがある。本当は、斎諏訪と同じく美月の戦いが気になってしょうがない。といっても、フィクションのスポーツの世界ならいざ知らず、背後に立つことで棋力を上げる効果が与えられる訳でもない。今は、自分の戦いに集中するべきときだ。
 それに呼応したかのように、自分の名前を呼ぶ声があがった。そして、難敵の名前を呼ぶ声も。
 
 本戦の3回戦。別の言い方をするならば、準決勝。あと2回勝てば優勝というところまで来た。
 そして、いよいよリベンジのときだ。今は相当な実力者になったようだが、かつて相性の良かった相手に一日に二度も負けるわけには行かない。
 序盤は無難な展開になった。元々、慎重派の園手賀も緩やかな進みは望むところのようで、定跡をなぞるような手が続いた。
 と、そこで僕は少しその流れを外した。園手賀の表情に少し戸惑いが浮かんだのが分かる。
 戦法や定跡にも流行り廃りがある。研究速度の早い昨今では、それほど日進月歩だ。プロでさえ、流行を過ぎた定跡は覚えておらず局面が現れて苦慮することがあると聞いたことがある。
 今指したのは、ちょうど僕が将棋を一時やめる前くらいに廃れ始めていた定跡だ。3年のブランクがある僕にとってはちょっと前だが、その間ずっと将棋を続けていた園手賀にとっては随分と昔の忘れかけた定跡の可能性がある。
 ただし、諸刃の選択でもあった。僕がやめていたその間に、明確な定跡が確立してしまっているのなら、相手は深く考える必要もなく有利な展開に持ち込めるのだから。しかし、園手賀の浮かべた戸惑いを見て、心配無用を感じた。
 将棋指し――だけでなく全ての人間にも言えそうだが――には、大きく2タイプいる。
 表情が豊かな者と、そうでないもの、だ。
 勝負事では一般的にポーカーフェイスの方が有利という風潮があるが、必ずしもそうでない場合もある。
 例えば、圧倒的敗勢でこれはもうダメだという局面で、とりあえずそろそろ形作りだけでもするかと力なく駒を動かす。小さくため息の一つもつきながら。
 しかしその弱々しい一手は、相手を油断させて一発逆転となりうる一手だったりするのである。表情や仕草が見えてしまう、人対人ならではの盤外戦術である。
 こうして考えると、人の表情や仕草と言うのはとても大きな情報源である。
 そこまで考えて、僕は美月のことを連想する。
 これまで、美月が表情を極力変えずに淡々として振舞っているのは、周囲のニンゲンに『必要以上の情報を渡さないため』の生存戦略ではないかと思えてきたのだ。
 きっと、本当はもっと自由に笑ったり怒ったりしたいんじゃないだろうか。その方が自然だし、楽だろう。僕だって、嬉しいと思う。
 盤上は中盤に差し掛かっている。序盤でポイントをあげたと思っていたが、ここにきて五分五分の形勢になっているような気がした。どこかで疑問手を指していたかと思い返すが、心当たりはない。
 いや、指してしまったものを今考えていても仕方ない。改めて、ポイントを稼がないと。遊んでいた桂馬を活用すべく、僕は角行を展開した。園手賀はそれを見越したかのように先んじて〈銀〉を繰り出してくる。
 双方の持ち時間も同様に減ってきている。ここが正念場だ。今持てる力を全て発揮するんだ。熱くなってきた頭を一旦冷やすべく、飲み物を一口含み、一つ深呼吸して脳内に新鮮な酸素を取り込む。
 
 ――ここで一気に攻める!
 
 僕は〈歩〉を突き出し、溜めに溜めていた攻め駒達に喝を入れる。数手の応酬がはじまる。
 さすがは難敵、対応が的確だ。すぐには囲いを破れそうにない。しかし、仕掛けはこちらの方が一手早い。5筋は今は〈飛〉〈角〉〈銀〉〈桂〉が集中しているため、攻めが切れないように5筋に戦線を拡大する。これなら、同歩と取っても、〈銀〉の方を取られても5筋から敵陣になだれ込める。自陣はまだ磐石。これは決まったか。
 そう気持ちが一瞬緩んだ瞬間だった。
 ――ピシッ
 放たれた手は同歩でも〈銀〉取りでもなく、攻め合いの一手。まさかの手抜きだ。それならば、こちらも攻め続けるのみ……と思い、そこで気づいた。
 なんと不思議な局面だろう。自分の攻めは確かに理想的だった。しかし、進めた駒はそれぞれ伸びきっており、相手が応じてくれないとそれ以上の手がないのだ。まるで、猫が小さな穴の中に隠れているねずみを捕えようとするようなもので、穴から出てくれないとどうしようもない。手を入れれば、逆に穴の脇から齧られてしまうことになる。
 思わぬ好手に動揺しないよう、一旦僕の方が受けに回ることにした。機はいずれ巡ってくる。それまでの辛抱だ。
 しかし、細いと思われていた攻めは、程よいタイミングでの突き捨てや端攻めと絡まって、次第に激しさを増してきた。北風と太陽じゃないが、受ければ受けるほど攻めが強くなってくるようだ。
 そして、ついに僕は組み上げた美濃囲いを放棄して、脱出を図る。しかし、まだ勝負が決したわけではない。囲いは犠牲になったものの、そこで入手した敵の駒もある。反撃の機会を伺うのだ。
 やがて、やっと手番が回ってきたところで、僕は構想を描いていた勝負手を放つ。不利な局面の場合は、とにかく複雑に混沌とさせるのがセオリーだ。逆転の種はそこに潜んでいる。運がよければ、逆転。僅かにでも効果があがれば、一手違いくらいまで持っていけるかもしれない。
 園手賀が〈金〉を掴む。僕はそれを見て、〈王〉を逃げるための予備動作を取ろうとする。
 「……っ!」
 しかし、その途中で僕は固まった。指された手は、自陣を万全にするための補強の〈金〉打ちだった。こうされると、僕の方からはもう有効な手がない。
 これは、俗に言う〈受け潰し〉というものだ。勝ちに行く手というよりは、相手にギブアップさせるための手で、求道的なプロやトップアマにはあまり好まれない。そこで、思い出す。対戦相手は、石橋を叩いて渡る、園手賀篤貴であることを。
 チェスクロックが、僕の胸中を知らず機械的にピッと小さな音を立てた。しかし、心中は既に固まっていた。
 これまでか……。そう思うと、身体のほてりが徐々に醒めていくのを感じた。聞こえなかった周りのざわつきやそこかしこの駒音も妙にしっかりと耳に入ってくる。
 「……ました」かすれた、小さな声で負けを告げる。気づけば、喉がからからだった。ペットボトルに手を伸ばす。
 目立った悪手も指した記憶が無いし、今もっている力は全て出せたつもりだ。相手がそれを上回る手を指したということだろう。
 勝者である園手賀が立ち上がり、一言だけ話して大会委員のいる机の方に向かていった。
 僕はすぐに立ち上がれなかった。頭の中に、言われた台詞がぐるぐると渦巻いていた。

 ――三年ぶりに、何しに来たの?
 
 *****
 
 園手賀は僕のことを知っていた。過去の相性も知ったうえで戦って、勝ちを2度も拾っていった。そのことに僕はただの2敗したということ以上の痛みを感じていた。
 彼の言葉に、肚に沸上がるものがあったことは否定しない。ただ、それはきっとお門違いなのだ。
 彼は、この三年間、雑念に唆されることなく自分を磨き続けていたのだ。その土俵において、僕は何も申し開きはできない。
 先程、僕が投了をしていたころ、美月は御三家の一人、大木夏海を見事に打ち破っていたようだ。ずっと観戦していた斎諏訪によると、女子同士とは思えない壮絶な攻め合い将棋だったとのことだ。
 そして今、向こう側の机では、男子の部・決勝戦が行われている。そして僕は、3位決定戦の対局の最中だ。
 また、あちら側にいけなかった。どうして、僕はいつも1位になれないのだろう。集中力の持続しないのだろうか、そもそも実力不足ということだろうか。
 今日最後の対局かつ順位が決まるだというのに、これから指し始めてからも違和感は続いている。自分の指したい方向性のようなものが全く定まらないのだ。
 優勝という一点を目標にしていたから、その可能性がついえた今、モチベーションが失われてしまったのか。先ほど、敗因が分からないままに負けてしまったことで、どうやったら勝てるのか、勝ち方を忘れてしまったのかもしれない。飛び方を忘れてしまった鳥、インコースを攻められてアウトコースに踏み込めなくなった打者、そんなイメージが頭に浮かぶ。
 そこからは散々だった。小さなミスが新たなミスを誘発し、形勢は大差がついてしまっている。今日一番、いや将棋を再開してから一番酷い展開かもしれない。
 そして、僕は今日3回目の投了をした。
 3位が確定した対戦相手は喜びも隠さず、感想戦もしないで急いで席を立っていってしまった。恐らく、大会で初めて3位以内に入ったのだろう。今は人と会話をするのが億劫だったので、むしろありがたかった。
 不幸中の幸いか、僕たちの戦いはほとんどギャラリーはいなかった。それに少し救われた。大勢の野次馬の中での投了は堪えるものだから。
 今、会場の人々の関心は、男子の部・女子の部それぞれの決勝戦の方に向いている。
 男子の部は、一年生の園手賀と三年生で部長でもある司馬による長殖学園同士の対決だ。園手賀が勝てば十数年ぶりの一年生優勝、司馬が勝てば昨年からの公式戦14連勝と大会二連覇となる注目の対決だ。
 女子の部は、一年生の美月と三年生の水田の対決だ。予選第二戦と同じカードで、優勝最有力候補の水田としては二度の敗戦はあってはならないこと、もはや油断も侮りもなく全力で勝負に力を注いでいるはずだ。
 野次馬は多いものの、ちょうど座っている位置からもその両方の試合が眺められた。
 さっきまでは、時間さえあれば、美月の近くでその戦う姿を見届けたいという気持ちでいっぱいだったが、今はそうはなれなかった。手許のペットボトルを傾けるが、とうに空になっていた。
 やがて、女子の部の方に動きがあった。対局が終わったようだ。会場のざわめきが治まらないところを見れば、結果は明らかだ。散っていく人々の間から、立ち上がる美月の姿と、うな垂れる水田の姿がちらりと見えた。
 その後まもなく、男子の部でも対局が終了した。どうやら、園手賀が勝利し、1年生で無敗優勝を成し遂げたものの話題性としては今ひとつだった。
 中学生大会でもそれなりに好成績を修めていた園手賀に対し、全くの無名から御三家を破って一年生無敗優勝をした美月の方が話題性として抜群であるからだろう。
 園手賀にしてみれば、ファイブカードを出して満場の注目を独占できると思っていたところ、思わぬところからロイヤルストレートフラッシュを出されてしまったような心境だろう。
 御三家はちょうどスライドするように2位、3位、4位の上位成績となったものの、その表情は一様に憮然としている。その視線の先には、他校の男子高校生や男性記者に取り囲まれる美月の姿があった。
 「すごく強いんですねぇ」
 「見かけたの初めてなんですけど、大会に出るのはは初めて?」
 正確無比な差し回しと、あの容姿。注目を浴びるのは当然といえば当然かもしれない。
 「将棋はいつ頃覚えたんですか?」男性記者の一人がボイスレコーダーを美月に向けて尋ねる。
 それに対する彼女の答えは、「今朝」。
 ずっと気持ちが沈んでいた僕も、そこでは思わず苦笑してしまった。美月に限っては確かに間違いじゃないけれども。
 事情を知らないギャラリーがみな、ぽかんと口を開けていたのがとても印象的だった。

 ドラキュラにはニンニク、鬼には炒り豆、と世の中には理解困難な好き嫌いを持つ者達がいる。なんでそんなものを、と思う一方、僕自身はピーマンが嫌いなわけなので理由というのはその人にしか理解不能なものなのだろう。
 少なくとも今日、将棋部にとってはそれに伍する有益情報を入手することとなった。
 「コーヒーかよ! 絶ッ体行かねえ!」叫んだのは、我らが顧問である。大会の表彰式終了後、予定通り〈まめしば〉で反省会を行おうと移動する直前のことだ。元々、部員3人だけで行くつもりだったのだが、野生の嗅覚で感づいたらしく僕らの後をついてこようとしていた。
 恐らく、前世はスッポンか路上のガムだろう。一度くらいついたらなかなか離れてくれない。のらりくらりと話を反らそうとしたのだが無理で、仕方なくこれから反省会をしようと思っていた旨を泉西先生に伝える。
 反省会と聞き、泉西先生は興奮気味だった。何だかんだで一日中観戦側に回っていて不完全燃焼だったせいもあったのだと思われる。
 ところが、行く先がコーヒー専門店だと聞き、先程の叫びへとなった。
 コーヒーを心から愛する男・加笛が経営する〈まめしば〉には酒やソフトドリンクはなく、店内もコーヒーの香りが充満していると聞くと、すっかり付いてくる気はなくなったらしい。昔、コーヒーを自棄飲みして三日間眠れず苦しんだことがトラウマになったらしいが真偽の程は定かではない。「チクショウ。俺さまは自宅で一人酒盛りしたる。……お前ら、くれぐれもハメ外しすぎんなよ!?」という捨て台詞を残して去っていった。その言葉、近未来の自分に使用してください。

 僕たち3人が〈まめしば〉に到着すると、マスターは温かく迎えてくれた。
 店内の喫茶スペースはL字型になっており、一番奥のコの字型の席は静かでゆったりとした時間を過ごせる。常連客には一番人気の場所だ。
 ありがたいことに、少し前に大会後に押しかけますと話していただけなのに、その特等席をリザーブしてくれていたようなのだ。即席で作ったと思われる、手書きの〈予約席〉の札を片付けながらマスターはオーダーを取ってカウンターへ戻っていった。
 「はぁ~、疲れた疲れた」斎諏訪が眼鏡を外して眼の周辺をマッサージしたり、肩を揉んだりしている。
 将棋はスポーツのように身体を動かしまくるわけではないが、脳は相当疲弊する。会場はだいたい普段利用しないような場所だし、相手だっている。細かな時間に終われ、少しのミスで全てが台無しになると言う状況下に一日置かれるのだ。
 大会では、1試合40分~50分を6試合くらいはやるわけで、学校の期末テストの一日分くらいの疲労度は少なくともあると考えている。
 オーダの品を持ってマスターがやってきた。
 僕は、ハルコーロ・ノハナ農園のフレンチローストのブラックとクッキーのセット。
 美月は、アポロニウス農園のカフェラテとチョコレートのセット。
 斎諏訪は、ナニカ農園のシティローストのブラックと一口バウムクーヘンのセットだ。
 と、一つ注文した覚えのない小さなホールケーキが並んでいることに気づいた。
 「マスター、これ頼みましたっけ?」
 ケーキを指差した僕にマスターは不器用な笑みを浮かべて、
 「こ、こ、これはそっちの子の優勝祝い。え、え、遠慮しなくていいからね……」
 優勝祝い……。ケーキ自体は既製品を皿に載せただけのような感じではあるけれど、それにしても準備が早すぎはしないだろうか。
 もしかして、元々買って準備してくれていたとか。誰かが好成績を修めたらそれを名目にするし、そうでない場合も慰労という名目でやはり出すことはできるだろう。
 しかし、待てよ。誰か、マスターに今日の成績を話してたっけか。入店してすぐにここに案内されて、オーダーの会話しかしていないはずだ。なら、何でマスターは美月が優勝したことを知っているんだろう。
 と、頭の中に突如としてある推測が〈跳躍(リープ)〉してきた。
 「マスター。加納さんから教えてもらったんですか?」僕はマスターの背中にそう投げ掛けた。
 マスターは振り返ると、やや驚いた顔をしていたが、「よ、よ、よく分かったね」という答えが帰ってきた。
 やっぱり、そうか。さっき、泉西先生が加納さんを読心したときに言っていた『人気の無さそうな、コーヒー屋さん』とは〈まめしば〉のことだったのだ。〈まめしば〉と大矢高校将棋部のつながりで考えると、消去法で残るのは加納さんくらいだった。理由は分からないが、加納さんが将棋大会の結果を僕たちが表彰式などをしている間にでもマスターに連絡したのだろう。
 そうならば、僕たちがここまで移動する時間に〈予約席〉の準備をしたり、優勝祝いのケーキの準備をするのは難しくないだろう。
 さて、もやっとした謎が解けたところで、「じゃ、まずは祝杯?」僕はカップを持ち上げる。
 「だな。まさかとは思ったが、初出場初優勝とはな恐れ入るぜ」斎諏訪が応じる。
 美月も静かにカップを持ち上げたのを見届けて、「今日はおつかれでした、アンド、おめでとう」と発声した。
 疲れた頭に甘い菓子と暖かいコーヒーは格別だった。
 僕たちは今日の反省とねぎらいをしたり、学校祭の展示の進捗状況、『泉西先生とは一体なんなんだ』といったくだらない話を展開したりした。
 談話もたけなわであるが、僕はさりげなく腕時計と各人のカップや皿の状態を確認する。
 「……さて、今日はそろそろお開きにしようか」
 「ぉぃぉぃ、まだ40分しか経ってなぃだろ。何か予定でもぁるのかょ?」
 「そういうわけじゃないけど。俺たち大会慣れしてないし、意外に疲れが溜まってるんじゃないか? 人数もギリギリだから、今誰かに倒れられると、学校祭が危なくなるだろ?」
 「まぁ、それは確かにそぅだがょ」
 「これ以上ゆっくりしていると、追加注文のリスクもあるしな」空になったカップや皿を指して僕は言う。
 僕は急かすように二人を追い立てると、マスターのところで支払いを行う。というか、本当におごりにさせられたよ……。
 そして、店先で二人と別れの挨拶をする。二人の背中が見えなくなったところを見届けて、僕はため息を着いて帰路についた。

 外気は涼しいというより、やや肌寒いくらいだ。帰り道、帰路の半分くらいのところにある公園にふらりと立ち寄って、時計の真下にあるベンチに腰掛ける。
 ふう、と一息つく。「少し強引だったかな……」先程の反省会の終わらせ方を思い出して一人呟いた。
 コン、コンと音がするので何かと思い頭上を見上げると、街灯のガラスに虫たちがぶつかっている音だった。その光景を見て、先程抱いた大望を思い返して笑いがこみ上げてきた。
 トップアマになって、プロのタイトル戦で賞金を稼ぎ、美月が医療を受けられるようにする……?
 同じ高校生相手に一日に3敗もするような体たらくで、そんなことを夢想していたことが今となっては非常に滑稽に思える。
 その美月はあっさりと全勝優勝を成し遂げている。そもそも、そんな方法をとるならば、僕などより美月自身がした方が遥かに可能性が高いように思える。
 美月はかつて、僕に時折訪れる〈跳躍(リープ)〉の発想に期待していると言ってくれた。そのときは、僕も嬉しくなって大言壮語も吐いてしまった。でも、世の中は広い。他を探せば、もっと発想の豊かな天賦の才能を持ったニンゲンがたくさんいることだろう。
 だとすると、僕が美月の傍にいることは、むしろそういう人物と美月が出会う機会を少なくしてしまっているだけなんじゃないか。
 考えれば考えるほど、訳が分からなくなってくる。気づけば、頭を抱えてベンチでうずくまっていた。
 「ちょっと、君?」
 不意に声を掛けられて僕はびくっとなる。誰かと思い、声のしたほうを向くと声の主は犬を連れた女性だった。同い年か少し上くらいに見える。
 非常に分かり易いことに、上下のスポーツウェアを着て運動靴を履いている。『私は犬の散歩中ですよ』と言っているようなものだ。
 体型はさして特徴はないものの、肩口まで伸ばしたストレートの黒髪は艶やか。顔つきも目立つパーツはないものの左右均等に配置されているため清楚で美人に分類しても咎められることはないだろう。
 と同時に、僕はこの人の名前を必死で脳内検索していた。そう、僕はどこかで会っている気がする。それは間違いないのだが……。
 無言でじっと眼を見つめ返されたことを妙に思ったのか、女性の方が口を開いた。
 「同じ高校の生徒がこんな時間に公園に座ってたから、念のため声を掛けただけよ。世の中物騒な事件も多いからさ」
 ありがたいことに、その言葉が大きなヒントとなった。
 髪の毛を三つ編みにして、メガネを掛けさせて、うちの制服を規則どおりにきっちりと身にまとわせれば――。
 「もしかして、ふ、副会長ですか?」
 「呆れた。今頃気付いたの?」
 僕が驚いたのも無理はない。休日の犬の散歩とはいえ、雰囲気が普段の堅苦しいものからは随分と乖離しているのだ。これは探偵がする変装の域だ。
 「部活動の帰り? あ、いや……? 将棋部は今日秋季大会だったっけね」
 思わず、肩が震えてしまった。生徒会にはありとあらゆる情報が集まると言う話はあながち誇張ではないようだ。
 「で? こんなところにうな垂れているってことは、散々な結果だったってわけね?」副会長は小さくため息をつく。
 実際は成績はその想像よりは良いものであるが、僕個人にフォーカスを当てるなら『散々な結果』という表現については異論はない。
 「マーク。お座り」
 何かと思ったが、マークというのは副会長の連れていたゴールデンレトリバーの名前らしく、茶色い犬が大人しく座っている。
 そして、副会長は僕の隣に腰掛けるとこういった。
 「王様の耳はなんとやら。話せば少し楽になるんじゃない?」
 
 ゴールデンレトリバーというのは忍耐力が非常に強いと聞くが、それは本当のようだ。僕が今日のあらすじを話している約4分間、表情を変えることなくただそこにたたずんでいた。
 また、飼い犬は飼い主に似るとも聞くが、その点も隣で表情を変えることなく僕の話を黙って聞いている副会長を見て実証できた。
 しばらくして、「確かに、イマイチな内容かもね」静かに聴いていた副会長は、開口一番そういった。多少は覚悟していたが、なかなか手厳しいレスポンスだ。
 「実力を証明するには実績を作るしかない。それも一番、一等、一位といった、ね。一番以外は、二位もビリも同じ。世界で二番目に有人飛行に成功したのは誰? 世界で二番目に大きな岩はどこにある? そういうことを知っている人はどれくらいいるでしょうね」
 副会長は流れるように話を展開する。つい引き込まれそうな話術だ。1年生の頃から奥地会長と組んで、大矢高校生徒会を回してきたと評される女傑の実力を垣間見せられているようだ。
 やはり、気持ちを切り替えて次のチャンスをものにするしかないか。まずは今回明るみになった中盤力を鍛えなければならないだろう。『次の一手』問題を中心に毎日一定量の研究を行おうか。あと、対人戦の雰囲気慣れするために久々に街の将棋センターに顔を出してみようか。
 「でも、一番になれない者達にも、逆に強みや勝ち目はある」
 そんな思考を始めていた僕に、副会長が意外な言葉を投げ掛けてきた。僕は思わず「えっ?」と聞き返していた。「どういうことですか!?」
 しかし、自分から話を振ってきたにも関わらず、副会長は少し不機嫌そうに眉根を寄せた。
 「君、少し考えようよ。ほら、もっと視線を上げて」そう言って、指を星空に向ける。
 視線……? その先には柄杓のような形をした星座が浮かんでいる。あの形は確か、
 「北斗七星、ですか?」
 「は? あれはくじら座でしょ? そもそも北斗七星は春の星座……ってそういう細かなことじゃなくて!」
 副会長は星空に向けていた指先を、僕の眉間のど真ん中に移して続けた。
 「将棋を指している姿ってさ、一見、盤を見渡しているようだけど、もっと上の存在――例えば、ああいう星達からの目線から見下すと、下向いて俯いているように見えるんじゃない? って言いたかったの」
 「は、はぁ……」相変らず厳しい物言いだが、不思議と腹が立ったりすることはなかった。
 「特別サービス。柔道で一本技が下手な選手が勝ちたい場合、どうすればいい?」
 柔道で、一本以外……。そこまで言われて、副会長の言わんとすることがやっと分かってきた。
 「合わせ技、ですか?」
 「よろしい。例えば、背泳ぎで市内2位の子がいるとする。どうしても1位の子には勝てない。背泳ぎという一つの物差しで見たら、その子はイマイチかもしれない。
  でも、その子にはほかに意外な特技があって、文章が得意なのだとする。例えば、市内でベスト5に入るくらいとしようか。
  文章力と水泳は相関が弱いと言えるから『水泳ができて、執筆能力が高い』という物差しで見るならばその子は市内を飛び越えてる存在となりうるわ。
  さらに、クロールや平泳ぎと違って、背泳ぎはニッチだから、一気に国内トップレベルと扱われる可能性もあるでしょうね。
  背泳ぎに関するエッセイとか小説とかそういうものはその子に与えられた特権になりえるわ」
 副会長の言葉を聞いているうちに、僕の中にあることが浮かび上がってきた。
 4月の抱負。学業と、将棋と、音楽の鼎立。そのうち、音楽にこれまで力が入れられていないことに気づいたのだ。ちょうど、将棋と音楽の相関は弱いと思える。音楽の実力はまだ全然大したことが無いかもしれないが、もしこの才能を伸ばすことができたら、副会長の言う合わせ技にできるのではないだろうか。
 伸びしろの分からなくなった将棋だけでなく、やりたいと取り組み始めたギターを上達させること。
 短絡的すぎる考えかもしれない。それでも、今のように動かずに悶々としているよりは随分と楽だと思えた。
 そのためには、分かり易い目標――欲を言えば、実績にもつながるような目標があるといいのだが……。
 「……副会長、唐突なんですが」
 「なに?」
 「高校で、音楽関連の発表の場ってどういうものがありましたっけ?」
 「そういうのは、音楽系の部長連中の方が詳しいと思うけど? まぁ、主だったところでは――」
 副会長はいくつかの名前を挙げてくれたが、いずれも各学校で数組とか非常に狭き門らしいとのことで、心が折れそうになる。そもそも、演奏レベルだって評価をしてもらえる域まで達していない。
 「それなら、まずは〈音夜祭〉でも目標にしてみたら?」僕の顔に翳が差したことに気づいたのか新たな提案をしてくれた。
 「オンヤサイ、ですか」
 「知らないの? まぁ、完全に大矢高生内部で閉じたイベントだから、知らない人も多いけど、まさか軽音楽部なのに知らないなんてね……」
 副会長は呆れを通り越して、笑いを催してきたようだ。こまめに呼吸を整えて、笑いを堪えている感じだ。
 ただ、世話を焼くのは苦と思わない性格のようで、尋ねたら懇切丁寧に教えてくれた。
 音夜祭は大矢高校学校祭の後に行われる後夜祭の一つで、夜18時から20時の2時間、体育館のステージを使って行われる音楽イベントだ。
 参加資格は、体育館ステージで音楽を行いたい者でジャンルは不問というシンプルなものだ。
 しかし、持ち時間は準備と片付けの時間も含めて10分。だから曲の長さは5分程度のものを1つするのが基本となる。つまりその10分間を12組で行うのが限度だ。
 昼間の学校祭開催時間帯でも、体育館や講堂だけでなく各部室自前のステージなどがフル回転しており、演奏したい者達は1年生であってもそれなりに演奏する機会は得られる状況下にある。
 では、外部の来客もいなくなった音夜祭が人気の理由は何か。一言で言うなら、学内アピールである。
 学校祭自体が終了している時間帯のため、展示番を一日中宿命付けられるような生徒達も観ようと思えば観ることができる。また、一旦は終わった祭の余韻や夕暮れ時という人間心理で観客の盛り上がりも期待できる。ノリのいい観客がたくさんとなれば、演奏する者としては申し分ない舞台だ。
 さらに噂では、想い人にアピールする絶好のチャンスにもなっているとか。
 そこまで聞いて、僕の心はすっかり音夜祭に憑りつかれていた。学内イベントなら、美月にも観てもらえるかもしれない。さて、問題はどうやってその12組に選ばれるかだが……。詳細は明日にでも軽音楽部の先輩方に探りを入れてみよう。
 僕の表情から翳りが去っていたのだろう。副会長は自分の役目は終わった、とばかりに目を細めて立ち上がる。
 マークがそれに反応して、すっくと立ち上がる。僕も立ち上がり、「色々とお話聞かせていただいて、ありがとうございました」副会長に感謝の意を伝える。

 副会長とマークの後ろ姿見送ってから、僕は一つため息をついていた。先程までの昂揚した気分も、急速にクールダウンしていた。
 それは、副会長が去り際に話していった言葉によるものだった。
 「音夜祭の出演者は、最後のチャンスである3年生の参加希望が優先されるから。まぁ、上手いに越したことはないけどね。あと2年間あるわけだからゆっくり準備なさい」

 

  小説『Fall on Fall =俯瞰の秋=』(2/4)に続く

 

小説『All gets star on August =星の八月=』(4/4)

 【第四章】 星

 *****

  ほし【星】〔名〕…期待され、もてはやされる人。花形。スター。

 *****

 

 眼が覚めて、寝床の感触に違和感を感じる。数秒のち、そうだ今は合宿の二日目だったのだと思い出す。
 そうだ、美月は? 跳ね起きると、「おはよう」そんな声を窓際から聞いた。
 首を捻ると、そこには既に水色のワンピースに着替えている美月の姿があった。手にはコーヒーカップを持っている。
 「具合はどう?」
 「ん? 良好だけど?」
 そうか、コーヒー飲みまくったことは引継ぎ対象外だったんだな……。まぁ、無事なら問題ないけど。
 時計を見ると、時刻は8時だ。僕は布団を(自分なりに)丁寧に畳み、美月の向かいの椅子に腰掛けた。
 そして、昨日のメモを手にしながら、ざっくりと昨日のできごとと出会った人物のことを伝えた。
 本当は、もっと感情も織り交ぜて詳細に伝えたい気持ちもあったが、それを今日の美月に言うことに大きな意味はないと思えた。
 全く目処など経っていないが、いつの日か、語るべき機会があったとき、それは伝えよう、そう思った。
 一応、最低限の情報は伝えたられたものの、僕の方で写真などの画像は無しだ。風雷庵で閉じ込められる直前くらいまでは、昨日の美月がいくらか写真に収めていたようだが。
 少々不安ではあるが、そこはこれまでを何事もないかのように切り抜けてきた、美月先生のスキルに期待するしかない。
 「さて、どうしようか。チェックアウトは10時だからまだ余裕があるけど」
 今日の美月はまだ温泉を体験していない、長湯はできないがそういう時間の使い方もありだろう。
 しかし、「温泉はいいや」「どうせなら、庭園がいいかな」という回答だった。
 昨日といい、美月はけっこう自然が好きなのかもしれない。僕たちが暮らしている街の自然はどうにも人工的だ。
 今度、少し離れた自然が豊かなところに遊びに行く計画でも立ててみようか、そんなことをぼんやりと思った。
 鍵をかけ、僕たちは庭園に向かった。
 
 昼間の庭園に降り立つのはこれで2度目になるが、昨晩の七夕祭を見た後だとそれまで抱かなかった簡素さや侘しさを感じるようになっていた。
 ゆっくりと、石でできた道の上を歩く。耳を澄ませば、どこかで鳴っている獅子おどしの音やカメの飛び込む音が聞こえる。
 道沿いに、昨日は気づかなかったのか、細い道を見つけ、僕は美月を呼んだ。
 「こっち、行ってみよう」
 その先に、僅かに屋根のようなものが見えたのだ。ゆっくりとは言え、少し体温が上がってきた。日陰で少し休憩でもしようかと、奥に進むと、
 「小僧と小娘か。妙なところで会うな」
 東屋の中から現れたのは、三冠だった。昨日、風雷庵以来の再開だ。
 三冠は眼を細めながら、美月の様子をじっと観察していた。
 はっと人目を引く容姿を持つ美月だが、どうも三冠の視線はそういった類のものではなさそうに見えた。
 「どんなカラクリなんだ?」不意に呼びかける。
 カラクリ? 一体どういうことだろうか。
 「あの記憶量は、明らかにただ頭がいいというだけでは説明がつかんからな……」
 記憶量……。風雷庵で美月が行動の説明をしたときのことを言っているのだろう。念には念を入れたかったとはいえ、あれは確かに目立ち過ぎたか。
 背中に一筋の汗が流れる。
 三冠は懐から扇子を取り出すと、パチ……パチ……と音を立て始める。
 「まあいい。非凡の才を持つ小娘と、オレに苦杯を味わわせた小僧か。久しく無かった興を提供した褒美にオレが一ついいことを教えてやろう。
  将棋で勝ちたいか? 連戦連勝、美しい手順で、勝ちたいか?」
 僕に扇子の先端を向けた後、パチンと一つ音を立てる。
 将棋で勝つ。それは、将棋を指す者に共通する望みだ。佐波九段や冷谷山三冠のように指せたら、それは夢のような話だ。
 僕は小さく頷く。それをみて、三冠は続けた。
 「オレは、脳のほぼ全ての領域を自在に使えるんだ」
 ニンゲンは、脳細胞のほんの一部しか使われていないと聞いたことがある。
 しかし、それが一体何を意味するというのか。
 異常なまでの強さ。そして、シナリオがあるかのような勝敗劇。僕の脳裏にあるイメージが〈リープ〉してきた。
 「もしかして……」
 「勘だけは非凡なようだな、小僧。オレの頭の中には、実現可能な棋譜が全て納まっている」三冠はこめかみを人差し指で指し示しながら、不敵に笑う。
 「無論、情報の圧縮やインデックス化といった加工をし、類似形やゴミのようなものは無駄だから納めてはいないがな。要するに――」
 「……考えていたのではなく、棋譜を再生していただけ、と言いたいんですか」
 「物分りがいいな。昨日の一件もまぐれというわけじゃないようだ」台詞を横取りしたにも関わらず、三冠は満足げな様子だった。
 もし、話が本当ならば、勝敗を操作することは造作も無いことだろう。
 そう、わざと3勝3敗のフルセットにした末、最終地の五稜亭旅館で圧勝をしてみせる離れ技を3回もやることさえ。
 今の僕だからきっと、その告白を正しく理解して、信じて、受け止めることができた。
 高校に入るまでの――美月や泉西先生に出会う前の――僕だったら、そんなニンゲン離れした能力など、到底信じることのできなかっただろう。「嘘だ」と叫んでいただろう。
 そして、小学生の――将棋に夢中になって明け暮れていた――僕だったら、『将棋というゲームはもう、終わってるんだよ』という告白なんて受け入れられなかっただろう。
 しかし、僕の心中はとても動揺していた。先日、将棋を大嫌いだと言い放ったとき以上に。
 「……そうして勝って、嬉しかったですか」
 「嬉しかったか、だと? 憶えていないな。優秀さの証明にはなっただろうがな。
  神の棋譜庫には想い出やら何やら不要なものは一切保存していないからな。
  どうした? 変な顔をしているが。オレのように強くなりたくないのか?」
 僕はどんな顔をしていただろう。泣きそうな表情だったかもしれないし、哀れみの表情を浮かべていたかもしれない。
 「総じて、天才とは異質なものだ。多くの凡人は天才になりたがるが、異質なる者、畏怖される者は御免だなどと勝手をぬかす」
 そして、今度は美月に扇子の先端を向け、同じように音を立てる。
 「天才の思考は、天才にしか理解できぬものだ。小娘、お前なら分かるだろう?」
 「……」美月は答えない。
 「容易には懐かんか。まあ、いい。いずれ分かるであろう。その小僧にお前の全てを受け止めるキャパシティはない。
  オレは意外に寛容なんだ。お前が、自らの足でオレの元にやってくることを心待ちにしているぞ」
 そういうと、三冠は僕たちの脇を通り過ぎ、そのまま去っていってしまった。
 
 チェックアウトをつつがなく済ませ、やって来たときと同じような青空の下、僕たちは再び潮風に吹かれていた。
 違うのは、持ち帰る荷物の量と、船着場にいる人たち。そして、扱いも……。
 「彦、姫。来夏もきっと遊びに来るんじゃぞ」
 昨日の七夕祭の後から、僕たちは何故か旅館の人たちに彦、姫と呼ばれるようになっていた。
 恐らく、姫というのは美月が織姫をやったからだと思われる。僕の方の彦は彦星を意味しているのだろうが、便宜上という雰囲気がひしひしだ。情けないことだが。
 「ホント。来年の七夕祭もやってちょうだいよ? あんな織姫見せつけられたんじゃ、もう来年以降やる自信ないわ……」沙羅さんが手をひらひらとさせておどけてみせる。
 「山側の青龍も良い景色でお勧めでございますよ」
 「ここらは、夏以外の食材もなかなか絶品ですぜ」
 チェックアウトとチェックインの間の忙しい時間のはずなのに、わざわざ高校生2人のためにこうして見送りに来てくれたのだ。本当に嬉しいことだ。
 僕は、左手にバッグ、右手にお土産の五稜温泉饅頭(五稜星の形をした、もみじ饅頭とちょっと似た温泉饅頭)2箱の入った紙袋を下げて頭を下げる。
 間もなく出港となる。タラップを渡ろうとしたとき、御前さんが杖をつきながら近づいてきた。ちょいちょい、と耳を貸すようにとジェスチャーをする。
 「実はな……昨日の問題でアタシが用意していた答え。あれは、本当は秋一の言った方が正解だったんじゃ」御前さんが僕の耳元で呟いた。
 「……やっぱり、そうでしたか」それは、僕にとっては意外なことではなかった。
 無理やりこじつけたような僕の答えより、三冠の答えの方が圧倒的にピースが綺麗に埋まっている感じはしていたのだ。
 それでも、あんな状態であの場を解散にしたくない、その想いだけが暴走して思いついたことをつらつらと述べてしまったのだ。
 「あ、でも。線が赤かったのは何か意味があったんですか?」
 「ありゃ、〈封じ手〉の趣向だったんじゃ。一応、〈管理室〉の金庫にも同じものを入れたりしとったんじゃが」
 なるほど。確かに、将棋の〈封じ手〉は赤い色で手を記入したり、立会人と金庫に一通ずつ同じものを保管するなどの手続きがある。
 「もともと『あの5人が、協力して、生きていって欲しい』それが起点で考えた問題だったんじゃ。だからこそ、あの時は彦の答えを正解にしたんじゃよ。
  角度と体温が約36度とは恐れ入ったがねぇ!
  いいかい。単なるマルなんてものは、知識があればもらえることもあるさ。でも、出題者の意図を真に理解しようと思わない限り大きな花マルはもらえないんだよ」
 その言葉を聞いて、僕は何故か泉西先生と以前した会話を思い出していた。
 
 「あんなメタな視点の問題、アリなんすか? 泉西先生も答え分からないでしょ」
 「うん。だから、ちゃーんと文章になってれば全員丸だぜ。問いに対して何にもレスポンスをしないヤツは社会で生きていけないぜ~、という、実は俺からのありがたい処世術伝授問題なのだ!」
 
 あのときはふざけた話だと、はなから決めて掛かっていたが、今改めて考えてみるとその意味するところが少しは理解できた気がする。
 「どうしたんだい?」
 「えっ、あ、あぁ。ちょうど、今回来られなかった顧問の先生が似たようなことを言っていたような気がしたような気がしまして……」
 「まぁ、いい先生じゃないか」
 「いやいや! 本当に、そんなことないんです! いつもいつも困らされていて、どっちが教師なんだか分かったモンじゃないんです。この間だって――」
 「そうかそうか。なら、やっぱりいい先生じゃないかい」
 そのとき、船のエンジンが掛かった。出港は近い。いろいろあった合宿もこれでおしまいだ。
 船がゆっくりと離れていく。だんだんと、声も届かなくなっていく。大きく手を振ることで、船着場にいる人たちに精一杯別れを惜しむ気持ちを伝えた。
 やがて、その姿も見えなくなり、やがて、子牛島もついには見えなくなった。
 隣には美月。美月は眼を閉じている。今日の美月は、今、何を考えているところだろう。

 そういえば、七夕祭の最後。揺れた美月の短冊には何の字も書かれていなかった。美月は、字を書いた振りをしていただけということになる。
 豪奢な和服を着ていたから、わざわざ字を書くのが大変だったのかもしれない。
 あるいは、願い事を読まれるのが恥ずかしくて、抱いていたものを文字に表さなかったのかもしれない。
 普段の美月の性格からしたら、『願いなんて全部自分の力でどうにでもできるよ』という強い意思表示だったのかもしれない。
 でも、もし。
 仮に、僕が全て満足している幸せなときや、今後願いが叶う見通しがあるときに「願いごとはなんですか?」と問われとしたらどうだろう。
 「願いごとは、ありません」と答えるんじゃないだろうか。
 あのときの答えを知る出題者は既にこの世にいない。そもそも、問題というものでもなく、一方的に問題にしてしまったようなものだ。
 だから、僕は自分なりに思い描いたその答えは、今日は無理でもいつかは、美月に回答したい。その時は、花マルがもらえるといいけれど。
 水しぶきを上げながら進む船の上には、来たときと同じような青空が水平線の彼方まで広がっていた。

 

 小説『Fall on Fall =俯瞰の秋=』に続く

 

小説『All gets star on August =星の八月=』(3/4)

 【第三章】 星

 *****

  ほし【星】〔名〕…夜空に小さく光って見える天体。

 *****

 

 甲殻類はどうして美味しい身体を持ってしまったんだろう。進化の過程で、不味い身体になっていったなら、今頃は見向きもされず海の中で悠々と繁栄できたかもしれないのに。
 いかに固い殻といえども、文明の利器を持つ『考える葦』の前では無力である。
 そんな哲学なようで、そうでない思いを抱きながら僕はカニの刺身を頬張っていた。
 なんて美味しさだ。カニなんて、ボイルされたものしか食べたことがなかったから、そもそも生で食べるという発想自体がなかった。
 「お味はいかがです? 島の近くで取れるニイチガニといいましてね。少量しか取れないんで、一般にはあまり流通せんもんです」
 調理帽をかぶったため、スキンヘッドであることがすっかり分からなくなった敬基さんが説明してくれる。
 僕たちは御前さんの取り計らいで、旅館関係者が利用する裏手の部屋で昼食をとっていた。
 初日の昼食は別料金のため、ありがたいお誘いだと思って応じたら、思わぬ豪勢な食事を出してもらって戸惑っているところだ。
 「まかないなんで、あんまり綺麗なものじゃございやせんが……」
 「そんなことないですよ、味も本当に美味しくて」
 〈小牛島〉の近海で取れる魚介類、そして山菜を中心とした品が5~6品はある。
 美月は静かに食べているが、普段よりペースがゆっくりに感じる。舌で味わっているのだろう。
 「今晩のお祭ではもっと凝った料理を出しますから、そちらも堪能してくださいよ」
 「お祭……ですか?」
 「あれ? ご存じない? 今夜は七夕祭やるんですよ」
 七夕? 今は八月だけど。僕の頭上に『?』が浮いたのに気づいたか、
 「この島では、旧暦にやってるんですよ」と説明してくれた。なるほど、旧暦だから一ヶ月遅れなのか。
 「無料で浴衣の貸し出しもやってるんです。この浴衣がなかなかの高級品でね。着物好きの方には垂涎ものですよ。
  人間国宝の着物職人一族と丸井家とがちょっとご縁があるのでできたイベントでして」
 将棋部顧問でありながら、駒の動かし方すら怪しい泉西先生が何故この旅館を選んだのか。その訳が今やっと分かった気がする。
 
 食事を終えて、僕たちは再び五稜亭旅館のメインフロアに戻ってきた。
 なんだか、随分色々あった気がするが時計を見ればまだ1時47分だ。
 とりあえず、チェックインを済ませてしまおう。
 クロークで預けていた荷物を受け取り、フロントで「3名で予約のセンセイです」と名乗って手続きを進める。
 鍵を渡されるのかと思ったら、男性が一人回り込んできて僕たちの荷物をひょいと持ち出した。
 「それでは、ご案内いたします」
 う、うわぁ……。
 忘れかけていたが、ここは高級旅館なのだ。なんだか、とても緊張する。この人が運び屋……じゃなくて、ポーターの役割の人かな。
 これって、荷物を運んでもらった後に「ココロヅケ」とかいうものを渡さないといけないんだっけか? うーむ、さっぱり分からない。
 とりあえず、こういうところに宿泊する経験をさせてくれなかった両親に怨念のオーラを送信した。父は深爪に顔をしかめ、母はジャムの瓶がちっとも開けられずに苦しむことだろう。
 息子が、彼女の前で赤っ恥をかく危機なのだ。当然の報いである。
 ドキドキ感は自分で持ち運びながら、僕たちの荷物を持ったポーターさんに着いて歩く。エレベータで5階に上がり、5方向のうち麒麟の方に案内された。
 「こちらでございます」
 開けてもらったドアの先に進んで、言葉を失う。
 床の間には、値の張りそうな掛け軸と活け花。窓からの眺望は視界いっぱいに海が広がり、非現実的な高揚感がこみ上げてくる。
 しかし。
 「す、すみません。本当にこの部屋であってますか?」僕は不安になって尋ねてしまった。
 一介の教師に過ぎない泉西先生が、良質な着物が着られるというだけでこんなに高級な部屋を取っているはずがない。別の客と間違えているのではないかと考えるのが自然だと思ったのだ。
 すると意外な答えが返ってきた。
 「えぇと、こちらにご宿泊予定の丸井新吾さまがお二人の部屋と交換するように……と頼まれまして」
 「丸井6段が?」
 「はい。『元々、一人で宿泊するには広すぎるし、二人には借りがあるのだ』と言われておりました」
 豪傑さんの豪放磊落な性格を考えると、十分に信憑性のある話だ。
 「こちらのお部屋はキーは一つですが、中は鍵のかかるお部屋がいくつか分かれております。もし、不都合がございましたら、元に戻すよう手配いたしますが?」
 ポーターさんは美月の方に尋ねる。
 鍵が掛かるとはいえ、年頃の女の子だ。近くに男が寝泊りするのは気になったとしても不自然ではない。
 美月は珍しく即答せず、しばらく考え込んだ後、「せっかくだし、ここでいい」そう答えた。
 きっと、この部屋が気に入ったというのが理由だろうけど、僕はその答えは自分の存在を肯定されたような気がして、少しばかり嬉しくなってしまった。
 「承知しました。それでは、ごゆっくりお過ごしください。なお、当旅館のサービス料は宿泊料込みで頂いておりません、ご了承くださいませ」
 そう言って慇懃に一礼をして去っていった。ココロヅケの心配もなくなって、一安心だ。もしかしたら、僕がそわそわとポケットの財布を出そうか出すまいか逡巡していたのに気づいていたのかもしれない。
 こうして、僕は念願の二人きりの状態を2時過ぎになってようやく得られたのだった。
 
 「コーヒーでも飲もうか?」
 僕は切り出した。情けないことに、間がもたなくなったのだ。美月は自分から積極的に話すほうではないし、僕も会話上手というわけではない。きっと父親似だ。父に怨念オーラを追加送信、と。
 もし、あと数秒遅れていたら、美月は暇つぶしに4乗の計算でも始めそうな雰囲気だった。我ながら、ファインプレーと言わざるを得ない。
 戸棚を探してみると、あったのは風雷庵にもあったインスタントパックだった。どうやら、シリーズもので何種類かあるらしい。
 「あたしがやるよ。あっちに戻ってて」
 美月が近づいて、ポットの前にカップを並べていく。
 「じゃあ、俺はこれで」
 たまには変わったものでも飲むかとフルーティーな香りのする種類を選んでみた。
 座布団の上に戻って、座り心地を堪能していたが、落ち着かない。働かざる者食うべからず、というか、人が何かしているときにぼーっとしているのが苦手なのだ。
 コーヒーの匂いがだいぶ強くなってきたので、そろそろだろうと思い再び美月の近くに向かう。と、
 「あれ?」
 見ると、二つのカップの上にそれぞれインスタントのパックが載っており、僕が選んでいない種類が一つ使い終わったように避けられていたのだ。
 「二つ使ったの?」
 「ちょっと濃いのが飲みたかったから……」
 「もしかして、眠い?」
 今日は乗り物での移動もあったし、ちょっとした騒動に巻き込まれもした。美味しい昼食もおなか一杯頂いたとなれば、眠気がわいても不思議ではない。
 「眠気は平気。……ケーヤのはちょうどできたから、持っていって」
 「ん、あぁ」
 カップを受け取って先に戻る。程なくして、美月も戻ってきた。そして、揃ってから飲み始める。
 うん、こういうのもなかなか美味しいじゃないか。
 コーヒーは、コーヒーっぽいのが一番! と、普段から苦味系のものばかり飲んできたけれど、これは発見だ。
 「にが……」
 見ると、美月が少し舌を出してそう呟いていた。
 「やっぱり……。少しお湯で薄めたらいいのに」
 たまりかねて、僕はそう助言したものの、美月はマイペースに飲み続ける。
 コーヒーの刺激が良かったのか、僕の頭には奇跡的にも次から次へと話題が沸いてきた。
 「そういえば、ラフ……テイカーって知ってる? 孤独に泣いている子供のすぐ傍にすうっと現われて、笑顔にさせてしまうすごいヤツらしいんだけど、」
 言いかけて、その先を知らないことにはたと気づく。しまったか……と思ったが、今の僕はなんだか冴えていた。
 「まるで煙みたいなヤツだよね。あ、そういえば、俺、煙草の煙って全然平気でさ」
 「見かけによらず、不良なの?」
 「頭は不良だけどね。じゃなくて、基本的に将棋道場ってさ大人ばっかりなんだ。
  小学生の頃は周りでみんなぷかぷかふかしていてさ。扇子でいくらあおいでも、煙は回り込んでくるから結局吸ってしまう。今は道場もそうかは分からないけど。
  でも、対局中は将棋に集中してたから煙のことなんて気にしてられなくて、気づいたらそうでないときも感じなくなっちまったってわけ」
 勝田くんの家族のこと、琴羽野さん兄弟のこと、福路くんと蒼井さんのこと、父と母の馴れ初めのこと(これはばれたら小遣い減額されそうなリスクがあったが!)。
 そんな他愛のないことを話していたら、時刻はもう18時近くになっていた。ミラクルだ。楽しいときは早く過ぎるというが。外もまだ明るいから全く気づかなかった。さすが8月だ。
 「そろそろ、下に行く?」
 こくり。それを合図に、僕たちは荷物をまとめはじめた。
 下のフロアには、温泉と、夕食会場があるのだ。
 
 久し振りの温泉は最高だった。脱衣所に戻ってからは、汗をかかないように身体をゆっくりと冷ましてから、服に着替える。
 後でマニア垂涎の着物とやらを着てみようかと思っているので、部屋に置かれていた浴衣は持ってきていない。
 裏返った『殿』と書かれた暖簾をくぐると、先に美月が待合所の椅子に座って待っていた。
 「待った?」
 「さっき出たばっかり」
 見ると、僅かに髪がしっとりとしている。
 夕食会場はたくさんの人が既に食事を始めていた。どうやら、メインの食事とは別にドリンクや副菜はブッフェ形式で取れるようになっているらしい。
 僕たちは『麒麟 508』と札に書かれた卓についた。
 卓上には小さな四角い提灯が置かれていた。中に入っているのは蝋燭なのか、光がゆらゆらと揺れている。
 オーダーを尋ねられ、僕はイセエビの香草焼き、美月は舌平目のムニエルを選んだ。
 前菜のマグロのカルパッチョをつついていると、「ようこそ、いらっしゃいました」憶えのある声がした。
 柔和な表情を浮かべ、立っていたのはやはり館主さんだった。
 「温泉はいかがでしたか?」
 「気持ちよかった」
 「温度もちょうど良くて、露天は景色も良かったです」
 「それは嬉しいお言葉。ありがとうございます。お夕食の後は、庭園で七夕祭を催す予定でございます。ご都合がよろしければ是非。お召し物につきましては、この会場の出入り口にいるものにお尋ねくださいませ」
 館主さんは一礼をして、別のテーブルへと挨拶に向かっていった。忙しい身なのに、わざわざ気に掛けてくれて何だか申し訳ない気持ちになる。
 やがてメインディッシュが運ばれてきた。ハーブの香りに包まれ、赤々としたイセエビが手許に置かれる。口の中はもう準備万端だとばかりに、潤っている。
 大きな身を取り出して、一口。
 ……。
 こらこら、誰ですか? 口の中で楽園建設をし始めてくれちゃってるのは? まぁ、建設許可出しますけど。
 食感といい、味といい、こういうものを16歳のうちから食べてしまっていいのだろうか。舌が肥えてしまって、人生不幸にならないか。そんな謎の不安が頭をよぎる。
 皿の脇に避けられていた、イセエビの上体と眼(?)が合う。二つのハサミを逞しく構えてはいるが、さっきのニイチガニと同じく、君も美味しく生まれてきてしまったのが不幸の源だったのだね。
 「そういえばさ」
 「何?」
 「小さい頃、桂馬の動きを覚えるときに、『エビのハサミ』をイメージしていたんだ」
 「どういうこと?」
 「ほら。桂馬のいた位置から一マスまず進んで、そこから左上と右上……だろ? 
 僕は指で卓上をとんとん、と示しながら説明する。
 「人によっては、それをY字とイメージしたかもしれないし、『左上に進んでひとつ前』と『右上に進んでひとつ前』っていう覚えかたをしたかもしれないけど」
 『エビのハサミ』の話をしたら、父にしては珍しく声をあげて笑ったものだった。「そうか、桂夜にはそう見えたのか」と。話はそこでおしまいだったが、もしかしたら父も小さい頃は似たような憶え方をしていて、親子であることの不思議さ、滑稽さを感じていたのかもしれない。
 冷谷山三冠とそのお父さんは、同じイメージを抱いたのだろうか。それは、もう誰にも分からないことだが。
 「星座みたいだね」美月が言った。
 「星座か……。そうかもしれない」
 個をいくつも結びつけて、新しい個を生み出す。それは、良くも悪くもニンゲンが昔から持っている才能だ。
 単体の星同士をいくつも結びつけて、大きな星座を描くこともできる一方、様々な誤解を結びつけてしまい大切な絆を見失ってしまうことだってある。
 デザートのフルーツを幾つか摘んでから、僕たちは出口へと向かった。
 
 出口にはいくつかの長テーブルがあり、人だかりができていた。間から覗き見ると、どうやら短冊と着物の整理券を配っているようだ。
 列に並び、順番が巡ってくると、小さな短冊を渡された。幼稚園のときにもこういうのやったなぁ、と懐かしい気持ちになる。と同時に、初恋の相手、ナナちゃんとの苦い想い出が蘇りそうになり、慌てて封印し直す。
 「はい短冊です。できるだけ具体的に書いてくださいね。願いごとが叶いやすくなりますから」
 「筆記用具は衣裳部屋の出入り口付近にございます。書き終えた短冊は外の会場までお持ちください。お祭の最後に笹に結ぶ機会がございます」
 短冊を受け取ると、その先が衣装の受付になっているようだ。
 「あら、きみたち」
 聞き覚えのある声がした。顔を上げると、女将である沙羅さんが立っていた。お祭りに備えてか、髪や着物も一段としっかりとした装いとなっており、遠くから見ただけでは気づかなかったかもしれない。
 「はい、じゃあ、きみはそっちの部屋。彼女は一緒にこっちの部屋に来てね」
 短冊を受け取り、僕は衣裳部屋に入った。老若さまざまだが、高校生くらいの年齢層はあまりいないようだ。
 部屋の中には、特段華美でないながらも上質な反物で作られたと思われる浴衣がずらりと並んでいた。
 僕は、さほど迷わず、紺色の浴衣を選んだ。
 あの佐波九段が愛用していた和服も紺色だったからだ。
 「はは。タイトル戦にからっきし縁がないものですから、四段になったときに背伸びして買ったものが長持ちして、ずっと使っているだけなんですな」和服についてのインタビューでそう笑っていた佐波九段が懐かしい。
 見た目は熱そうに見えるが、意外に風通しがよく、これなら大丈夫そうだ。
 部屋の入口脇にある机で、筆記用具を手にして願い事を考えることにした。
 本当に願いが一つ叶うなら、『願いをまず10個増やす』だとか真剣に考えたいところだけど、余興の一種だしなぁ。
 とはいえ、今や知り合いになってしまった丸井さんたちの企画したイベントには真摯に臨みたい気持ちもある。
 そうだなぁ……。
 
 『小遣い2000円アップ』うーん、何だか欲丸出しというか……。これは、自分自身に落胆しそうだ。
 『一年間、病気・怪我なし』あえて神頼みしなくてもという気がするか。
 『棋力向上』、『学年順位、10位以内』これらも、先ほどのに類する気がする。そもそも、自分自身の努力が必要なものであり、逆に言えば自分自身で制御可能ということでもある。
 
 そこで、はたと気づく。他人はコントロールできない。だからこそ、それが現実化できたならそれは神にしかできない願い事になるのではないか、と。
 さらさらと、筆を走らせる。書家のような筆捌きを気取って書いたせいか、正直自分でも読みづらい文字になってしまった。
 まぁ、人に願い事を見られても恥ずかしくないと思うと、むしろ良かったのかもしれない。
 僕は、浴衣に乱れがないことを確認して、衣裳部屋をあとにした。
 
 部屋の外に出ると、およそ和服の似合わない知り合いが仁王立ちしていた。
 ベートーベンのようなウェーヴの効いた髪と前方に力強く伸びているもみ上げ。豪傑さんだ。
 「はっはっは。また会ったな!」
 「どうも、丸井六段。お部屋、ありがとうございました」
 お礼を述べつつ、この人の髪型は風呂上りでもずっとこのままの超クセ毛なのか、わざわざセットしているのかが気になる、などと考えてしまった。
 「あの、みつ……連れの女の子見ませんでしたか?」
 「はっはっは。あのアイドルっ子か。ちょうど、外の会場に向かっていくのを見たぞ?」
 「外に、ですか」
 確かに、衣裳部屋の前で待ち合わせをするなんて約束はしていなかったが、それにしてもマイペース過ぎじゃないか。
 外は大分暗くなっている。多少照明はあるだろうけど、この場所より合流しづらいはずだ。
 「はっはっは。そんなに広い庭園でもない。すぐに見つかるだろう、さあ行くぞいくぞ!」
 そういって、バンバンと背中を叩かれて推進させられてしまった。
 
 記憶を手繰り寄せる限り、僕はビンゴ大会でビンゴが揃ったことがない。どれだけの運のなさだろう。しかし、それは今日で終わりを迎えることとなった。
 「七夕祭の会場はこちらでござい」
 会場への入口で、丸井4兄弟の末弟、敬基さんが宿泊客の出迎えをしていた。
 「はっはっは。敬基までかりだされたのか」
 「今年は少し人手不足でしてね。お祭もあともドリンクとちょっとした食べ物を出すだけすから」
 「あの、俺の連れの女の子、会場に入っていきましたか?」
 「え、あぁ。ちょいと前に入ってきました。きっとどこかにおられるでしょう」
 その言葉を聞いて安心した。僕は敬基さんに一礼をして庭園に降り立った。
 真夏の夜のはずなのに、庭園は涼しかった。霧吹きなどで丁寧に打ち水をしたのか、身近な草木はわずかに湿り気を帯びていた。
 先ほどの夕食会場のように、照明はおぼろげで所々に配置されており、せっかく生まれた宵闇を無碍に消したりすることはなかった。しかし、そのせいで僕は未だに美月の姿を探せないでいる。
 一体、どこにいるのやら。美月のほうは僕を探している最中なのだろうか。
 実は、一人になりたくて離れているのだとしたら……?
 何故、夢は寝ているときに見るのか、それは外部からの情報が入ってきにくい睡眠時に脳の中を再整理しているためで、夢はそれを知覚したものだから滅裂な内容が多い。そんな説を聞いたことがある。
 ただでさえ特殊な事情がある美月だ。一人きりの時間、頭の中を整理するのはとても大切なものなのかもしれない。ここまでずっと、近くには誰か(主に僕)がいた。都合の良い考えかもしれないが、僕に気を遣ってはぐれた振りをしてくれているのかもしれない。
 いずれにしても、『508』の鍵は僕が持っている。祭が終わった後には合流しなければならないのだ。庭園の入口は一箇所。そこで待っていれば、さすがに合流できるだろうけど。
 豪傑さんが、身近な卓上からグラスワインを手に取った。なんとなくだが、僕はアルコールが強い気がする。体質は、母親に似ているところが多い気がするからだ。
 それでも、未成年なので僕もソフトドリンクに手を伸ばした。正直なところ、興味はあるのだけど、そういうことにはけじめをつけたい。
 あれこれと考えていたせいか、柑橘系のそのドリンクは少しすっぱく感じた。

 「あっ、ちょっとしばらく離れます」
 僕は、ある人物が遠目に見えて、豪傑さんから離れた。
 僕は、輪からずいぶんと離れて暗がりでグラスを傾けている人物に声を掛ける。
 「円先生、少しお時間をいただいてもよろしいですか?」
 白衣を和服に変えると、すっかり素浪人のような格好になった名医は「ひっひひ。まったく構わないよ」と手をひらひらとさせた。
 医者という立場上、患者の情報を簡単に話すわけにはいかない。それを気遣って切り出した。
 「ちょっとしたフィクションを思いついたんです。せっかくなので、誰かに聞いてもらえたらと思って。
  先生は昔、千兵衛さんとチヨコさんの不妊治療も担当していた。そのとき、なんとか受精卵まで至ったものの、時間がわずかに及ばずチヨコさんは丸井家から出されてしまった。
  しかし、そのときの受精卵は大事に凍結されていた。〈子牛島〉を離れたチヨコさんの落ち込みは歳月が過ぎても変わらなかった。
  それを見かねた先生は40近い身体で出産などに踏み切らないだろうと、二人の相性が悪いわけではなかった、と受精卵の話をしてしまう。
  チヨコさんは先生が折れるほど強く望んだ。そして生まれたのが冷谷山秋一だった……」
 「……」
 物理的な問題と、時間的な問題を考えると、これが僕に思いつく唯一の解だった。いかに〈子牛島〉の出入りに丸井家の眼が光っているとはいえ、医療道具の中身までは細かくチェックされなかっただろう。
 「そして、成長した冷谷山秋一にあなたは様々な手助けをした。御前さんの主治医も務める先生は、御前さんが謎掛けの計画をしているのを知り、冷谷山秋一に伝えてあげた。
  いや、あるいは冷谷山秋一が来ることを御前さんに伝えて計画を進めたかもしれないです」
 「ひっひひ。フィクションじゃなかったのかい?」
 「フィクションです」
 円医師は黙って、グラスを傾ける。僕も一気に話して喉が渇いていたので、同じように流し込んだ。数秒の沈黙の後、
 「ひっひひ。その医者がね、1か月早く治療に着手できていたら、そもそもそのフィクションは成立しないねぇ。だとすると、とんだヤブ医者だ」
 円医師は、一気にグラスの中身を飲み干した。
 「戦いが始まる前に端歩を突いておけばよかったとか、一手辛抱すれば良かったとか、後悔することって将棋でも良くあります。
  将棋って運が絡まなくて、指した悪手は全部自分のせいになるんです。だから、すごく辛いんです。自己嫌悪になって。
  でも、ずっと悪手だと思っていた手が、最後の最後で効いてきて勝ちにつながったりすることもあったりして。
  最後まで投げ出さなかった人が必ず勝つわけじゃないですけど、勝った人って必ず最後まで投げ出していないんです」
 僕はグラスを一気に飲み干して、
 「ってフィクションの探偵役はカッコつけて言ってるみたいなんですよ」と続けた。
 とても遠回りで、時間も掛かったけれど。見方によれば、新しい治療が再び始まったばかりかもしれないけれど。
 丸井家に巣食っていた呪詛はきっとやがて消えうせる。そんな予感をおぼろげに抱いた。
 「……ひっひひ。さて、そろそろ戻るか。いつ急患が来るか分からない職業なんでね」
 円医師は立ち上がって卓上にグラスを置いた。
 そして、「ひっひひ。将棋……か。私めも少し興味が沸いてきたよ」去り際にそう言って闇夜の向こうに消えていった。
 
 豪傑さんのところに戻ると、彼は薄暗い中でも分かるほど顔を高潮させていた。言動はまだ変わりないものの、立派な酔っ払いだ。
 父は全く酒を飲まないので、典型的な酔っ払いというのをこれほど間近でみるのは初めてだ。
 しばらく時間が流れて、控えめなボリュームで案内が入った。館主さんの声だ。
 「……皆様こんばんは、館主の丸井鑑でございます。本日は五稜亭旅館へのご宿泊ならびに七夕祭へのご参加ありがとうございます。
  毎年恒例のこの行事も、ちょうど30回目となりました。
  この島、〈小牛島〉は小さな牛と書きます。今宵の皆様はお一人お一人は、牽牛星――彦星さまでございます。
  それぞれの願い事を、織姫さまに託し、天に奉じさせていただきます。」
  それでは皆様、そろそろ短冊をご用意ください。間もなく、織姫さまがお見えになります」
 先ほどまでは微かなざわめきさえあった会場が静まり返る。そして、僕も言葉を失った。
 朱、白、金、銀。様々な色が主張しながら、調和するという不思議な表現が何故か頭に浮かぶ。
 現れたのは、そんな豪奢な和服を身に纏った美月だった。表情はいつものとおりだが、それがかえって神秘性をぐんと引き立てているように思えた。
 すぐにでも出したい言葉は色々とあった。
 なんで、そんなところに。そんな役回り引き受けるタイプじゃないだろ? でも……とても綺麗だ。とか。
 そもそも、織姫は七夕という日をどういう想いで迎えるのだろうか。壇上の織姫の表情をみて、僕以外にも考えた人がいたかもしれない。
 一年に一度、出会えるとはいえ、その後また会えない日が続くのだ。始めこそ明るい表情を浮かべているかもしれないが、別れ際になればなるほど沈痛な面持ちになっていくに違いない。日曜日の夕方のように。
 それでも、織姫は幸せだと言える。その想い出を大切に日々過ごせるし、一年が経てば再び想い出の人と出会えるのだから。僕以外のニンゲンが、美月の事情を知らないとはいえ、そんな役を美月が演じているのはひどく心が痛んだ。
 「はっはっは。これは想像以上だな。ますます、アシスタントにできなかったのが無念だ」
 「苦労したよ。和服ってのは、洗濯板と寸胴の方が似合うようにできてるんだ。あれじゃ……艶々しすぎるよ」
 「まったくで。去年までの姉貴じゃ、こうはいかねぇ」
 「あんたは、一言多いよ!」
 いつの間にか、沙羅さんと敬基さんが傍らに立っていた。
 って、そういうことか……。
 「謀った……んですか?」
 「謀ったとは人聞きが悪いわ。演出よ、演出。若い二人を見ると、どうにも色々とちょっかい出したくなるのよね」
 「あと、大人としては昼の推理合戦で完敗した分、あっと言わせたい想いがありやしてね」
 思い出すと、ずっと受付にいた沙羅さんが美月が来たとたん一緒に衣裳部屋に向かったのは不自然だったし、二人に美月は会場にいると言われて全然見つけられなかった。
 何とも迂闊な自分が呪わしい。仕方ない、自分自身に自戒の怨念オーラ送信だ。
 そうこうしているうちに、織姫への列は進んでいく。僕はどんな顔をしたら良いかも決めかねているうちに、豪快な右手で背中を押されてそのまま列の最後尾につくことになった。
 列が進んでいく。美月は、受け取った短冊を丁寧に笹に括りつけていく。こんなときでも、演算してちょうど良くなるようにバランスを取っているのだろうか。
 そして、僕の番がやってきた。
 せめて、「綺麗だね」とか「似合ってるよ」とか気の聞いた言葉が出てくれば良かったのだが、ドギマギしてしまい何もしゃべれない。
 それどころか、早く短冊を渡して戻りたい、そう思ってしまった。
 僕は、最後の抵抗として短冊を伏せて渡したが、あえなくあらためられてしまう。
 そこには、
 
  『美月が、幸せになりますように』
 
 僕の汚い字でそう書いてあった。
 「……」
 美月は表情を変えず、それまでと同じように最後の短冊を手際よく笹にくくりつけた。
 段を降りながら、僕は掌に汗をかいていることにやっと気づいた。一番情けない〈彦星〉だったかもしれない。
 「それでは、最後に織姫さま自身の短冊を結んでいただいて、無事終了となります」
 女官に扮したの従業員が、一枚の短冊を仰々しく織姫に手渡す。織姫は短冊に筆をすすっと走らせると、手早く笹に括りつけられる。
 一体なんと書いたのだろう。その内容が気になったものの、辺りは薄暗く、ここからでは一番手前の短冊の内容さえ良く見えない。
 女官に促され、織姫は去っていく。今、笹に近寄ればそれは分かる。しかし、周りの雰囲気はそんな無粋な行為を許すものではなかった。
 その後に笹を持った衛士が続く。
 そのとき。
 笹が揺れ、僅かに織姫のつけた短冊が裏返った。
 その内容に、僕は戸惑う。それって、どういうことなんだよ……?
 考える間もなく、バンバンと背中を叩かれた。力がだいぶ強い。酔いが回ってきているのだろう。
 「はっはっは。着がえ終わったら、ロビーに連れて行くと姉貴が言っとったよ」
 僕は頷き、ぞろぞろと館内に向かって引き上げていく宿泊客の後について歩き始める。
 見上げると、星空が良く見えた。コンタクトレンズを入れているとはいえ、あまり視力はよくない。どれが天の川でどれが織姫、彦星であるかは分からなかった。
 
 ロビーに着くと美月が既に日中から来ている白いワンピース姿に戻っていた。そのシンプルさを見ると、まるで先ほどの織姫は幻覚だったかのようだ。
 「お、おつかれ」
 美月は小さく頷く。そして、「……これ、あげる」と細い紙袋を僕に差し出してきた。
 「いったい何?」言いながら、中身を取り出すとそれは一本の扇子だった。
 ゆっくりと広げてみる。
 それは……風雷庵の管理室で手にした、佐波九段の扇子だった。
 え? え? え? 訳が分からない。
 「織姫役のバイト代よ。御前さまにも許可はとってあるわ」傍らにいた沙羅さんが補足する。
 確かに、こんな扇子をもらったら僕は大喜びだし、それに見合う対価かもしれない。でも、誕生日でもないのにそんなことをしてもらう謂れが……。
 戸惑いの収まらない僕に、美月は携帯端末を突き出してくる。そして、その機体にぶら下がっていたのは、クマッタのストラップ。
 「これの借り、まだ返してなかったから」
 ……。
 ……おいおい。
 そんな、おまけの携帯ストラップと佐波九段の扇子、全然レベルが違うだろう……。
 これじゃ、逆に僕が何百倍も借りを作ってしまったことになってしまうじゃないか。
 でも……、嬉しい。それは、レアなものだからじゃなくて、美月が僕のために身体を張って用意してくれたものだってことだからだと思う。
 満面の笑顔を浮かべたかったけど、あまりに唐突なことだったので、僕は困ったような表情を浮かべてしまっている気がする。
 眼の前にぶらさがる、このクマッタみたいに。
 「ほら、彼氏! こういうときはどうすんの?」沙羅さんがそんな表情の僕に見かねたのか、しっかりと喝を入れられてしまった。
 「あり……がと」
 美月はゆっくりと一回だけ瞬きをして応じた。
 ……。
 ……?
 ハッと気づいて、周囲を見ると丸井さんたちだけでなく、他の宿泊客が微笑ましそうにこちらを伺っているではないか!
 うっわぁ……。
 体が熱い。僕は、頬が紅潮し、耳が赤くなっていくのを感じた。
 「部屋に……戻ろう、か」
 美月は小さく頷く。これでやっと落ち着けるかと思ったが、
 「今日はお疲れさま」
 「綺麗だったわよ」
 ロビー、廊下、エレベーター。
 通り過ぎる人々から、(美月が)様々な言葉を頂戴し、そのたびに(僕が)お礼の頭を下げることを何度繰り返したことか。
 十数分後、僕は『508』の内側から鍵をかけ、なんとか落ち着ける部屋まで戻ることができたのだった。
 
 「とりあえず、飲み物作る」
 美月はポットの前に向かう。そうか、衣装着替えしたりずっと織姫役をやっていたから飲み物など飲む暇はなかったことだろう。
 僕はさっき、なんだかんだとソフトドリンクを4杯は飲んでいるのであまり飲み物は欲していない。
 美月が飲み物を作っている間、所在無くテレビの電源を入れる。大きな画面だ。父が奮発して買った自宅のものよりさらに3~4まわりは大きい。
 ザッピングしてみる。
 料理番組。げっ、食材にピーマンが出てきた。チェンジ。
 ニュース番組。せっかく旅先に来ているのに、日常に戻りそう。チェンジ。
 バラエティ番組。普段は楽しそうなこの雰囲気も、なんだか今夜は騒々しく思えてしまう。チェンジ。
 結局、消去法であたり障りのなさそうな自然ドキュメンタリー系の番組にしておくことにした。
 やがて、美月がカップを持ってやってきた。中身は……コーヒーのようだ。
 「大丈夫か? 眠れなくなるぞ?」
 「平気だよ」
 まぁ、あのインスタントコーヒーは結構美味しいから気持ちは分からないでもないけど。もう夜の9時だぞ……。俺も、コーヒーは好きだけど、夜の6時以降は飲まないように心がけているのだ。
 テレビの中では、ジャングルの中を極彩色の鳥やサルたちが縦横無尽に飛び回っていた。
 この合宿は一泊二日だ。したがって、夜が明けて明日になればもう午前中にはこの島を離れることになる。
 来るときまではどう時間をつぶせばよいものやらと思っていたが、謀らずもイベント盛りだくさんの結果となった。
 美月はコーヒーを飲み終えたのか、歯を磨き始めている。僕もそろそろ磨くか。
 洗面台に向かい、無言で(口を開けないのだから当然だが)歯を磨く。
 鏡の中に、美月と並んで歯を磨いている姿に困惑する。これじゃあ、まるで夫婦じゃないか。とはいえ、間もなく先に磨いていた美月が終えて去っていったので僅かな時間のことだったが。
 居間に戻ると、美月が携帯端末を操作し始めていた。日記やら、メモやらを始めたのだろう。
 僕は、お土産チェックリストでも作成チェックすることにしよう。メモ帳と筆記用具を取り出して、左上に『みやげリスト』と銘打った。
 まず、一番はずせないのは泉西先生だな。忘れようものなら、第二四半期の国語の評価が悲惨なことにさせられかねない。
 あと、斎諏訪も。結果論でいうなら、この二人旅をお膳立てしてくれたようなものだし、将棋部のサイト管理という任務もしてくれている。部長という立場としてもねぎらいのお土産を渡しておきたいところだ。
 散々、怨念オーラを送信したものの、諸々の件で両親の存在について思うところもある。二つ追加、と。
 色々とお世話になったりということを考えると、勝田くんとお姉さん、琴羽野さんとお兄さん、福路くんと蒼井さんにもかな。
 あ、でも食べ物にしてしまうと夏休み明けまでもつかな……。意外に考えることが多いぞ。
 ふと、何と無しに美月の方を見る。
 (……?)
 「美月?」
 良く見ると、その手許は痙攣している。
 「どうした?」
 「な、なんでもない」
 「なんでもなくはないだろう」
 慌てて側に駆け寄るが、ぷいとそっぽを向かれてしまう。
 「体調でも崩したか? ってもしかして……」
 僕は、ポットの近くに近づいてなんとなく分かった気がした。
 「今日、コーヒー何杯飲んだ?」
 「……11杯」
 それは、なかなか。俺と一緒でないときも、ちょこちょこ飲んでいたのか。時計を見ると、9時半だ。
 「あ、んなに飲んだのに。眠く、なってきた」美月がふらりと立ち上がる。「引継ぎ、まだ全然進んでないのに……」
 カフェインにいかに覚醒作用があろうとも、今日は本当に色々なことがあったのだ。ただでさえ華奢なその身体は疲労困憊に違いない。頭の方だって、随分と使っていた。
 それでも、美月の気持ちはなんとなく分かる気がする。こんなに濃い、非日常の一日はそうそう訪れない。今、記録しておかないと、もうインプットすることさえ不可能になってしまう。
 僕が明日、明日の美月に伝えることはできる。だけど、今日の美月が感じ、思ったものは、今日の美月にしか表せないことなのだ。
 「水とか……飲むか?」
 「いい。念のため、もう向こうに行くよ……」
 美月が、鍵のかけられる別室の方を指差す。歩き出した足取りは覚束ないが、その背中は『一人にさせて』と訴えているようにも見えた。
 扉の閉まる音、そして鍵の掛かる音。美月は、引継ぎをまだ試みているのだろうか。
 僕は、『みやげリスト』をめくり、まっさらなページに急いで短い文章を書く。そして、それを手に、美月の入っていった部屋の前に立つ。
 「まだ起きてるか?」
 「……起きてるよ」
 「ドアの下からメモ渡すから、取っておいてくれ」
 そう言って、手にしていた紙切れをすっと差し込む。ほんの僅かだけ僕からも見えるように角を残して。
 その角が見えなくなり、美月に渡ったことを見届けた後、僕は居間に戻った。そして、メモ帳に今日起こった出来事をできるだけ仔細に書きつけ始める。
 多少箇条書きになってもいい、後から僕だけでも思い出せるように。自分の目線でしか書けないのがもどかしい。それでも、ないよりは絶対にましなはずだ。
 腕が痙攣するか、睡魔に惨敗するまで続けよう。そう心に誓って僕は書き続ける。
 眼を凝らしてみると、先ほどよほど強い筆圧で書いたのか、文章の跡が残っていた。
 『8/7のことは
  オレが全部おぼえとく
   ケイヤ』と。

 

 小説『All gets star on August =星の八月=』(4/4)に続く

 

小説『All gets star on August =星の八月=』(2/4)

 【第二章】 星

 *****

  ほし【星】〔名〕…星の光をかたどったしるし。

 *****

 

 ――と、こんな状況だろうか……。今でも信じられないような展開だった。
 いきさつを思い返していたのは時間にしたら、ほんの数分だったかもしれない。しかし、自分なりにここまでの流れをできるだけ詳細に整理できたように思う。
 周りを改めて見回す。薄暗くて、分かりづらいが、この部屋は僅かに見覚えがあった。風雷庵の〈倉庫〉だ。確かに、あの状況から監禁場所として選ぶには手頃な場所だろう。
 やがて、ギシ……と縄と椅子が擦れあう音が聞こえてきた。そちらを見ると、美月が顔を上げて僕の顔をじっと見つめていた。
 さて、話はもうまとめることができている。でも、まずは自己紹介――だよな。そうして、口を開こうとした矢先。
 「なんで、簡単に飲んだりするかなー」
 射るような目付きと言葉で僕は貫かれた。
 えっ? ということは……。
 「眠らされて……ない?」
 「ないよ。でも、一人で逃げるわけにはいかないでしょ」。
 そして、はなれている僕にも聞こえるようなため息を一つ。
 はは、は。それは説明の手間が省けて良かったといえば良かったのだが。
 「あ、じゃあもしかして……猫舌とか言ってたのも」
 「誰かみたいにゴクゴク飲まないための口実」
 うっ。非常にストレートな解説ありがとう。しかし、過去をくよくよしてもしょうがないのだ。とにかく今後のアクションを考えなければ。
 僕も美月も、椅子に腰掛けた状態で縛られている。固定箇所は数箇所、椅子の脚と自分の脚、椅子の背と胴体、そして手首も縛られている。
 無抵抗だった僕たちを今こうして閉じ込めていると言うことは、命の危険自体はなさそうだ。猿轡をされているわけでもなく、こうして会話も自由にできている。
 さきほど誰かが言っていたように、警察に引き渡すまでの監禁状態のつもりなのだろう。
 「……ここ、なんとか出られないかな」
 大人たちが去ってからしばらく経っているが、物音は特にしてこない。脱走を警戒するなら、一人くらい監視に残ってもよさそうだが、それもしていない。
 「なら、このロープをなんとかしないと。ちょっと苦しいし」
 言葉に反応して、改めて美月を観察して僕は慌てた。
 男なら、僕が今されているように無造作にぐるぐると縄を巻けばオシマイだが、女はそうはいかない。胴体に凹凸があるのだから。そして、理にかなった巻き方をすれば、その凹凸がより強調されるのは必定だ――。
 「と、とにかくそっちに行くよ」部屋が薄暗くて良かったかも知れない。僕は赤面を見られないように顔を背けながら立ち上がった。
 と、とと。両脚とも、椅子に固定されているため歩きは覚束ない。
 間近で見ると、美月も後ろ出に手首を結ばれ、胴体の結び目も右脇の方にあった。
 「手首の可動域と結び目からすると、相手の縄を解くのは難しくないね」
 僕の手首に結ばれている縄の状況を見て、美月はそう断じた。言われてみれば、指先は動く。
 自分の縄を解くのは難しいそうが、確かに相手の縄を解くくらいはできそうだ。しかし、二人で一緒に捕まったからこそ、脱出の芽が出てきたのだ。
 ……すみません、こっそり自分のうっかりを正当化しました。
 さて、そうなったらどちらかが先に解くことになるのだが。手首を動かしてみると、結構縄が擦れて痛いことが分かる。動かし続けたら、傷ができそうだ。
 美月の方も当然、同じ材質のものだ。ここで第三者に多数決をとったとしても、圧倒的多数で僕が作業をすることに決まるだろう。いやぁ、名誉だ。
 さてと、作業作業……。
 後ろ手で縛られているので、僕は一旦後ろ向きになって、椅子に腰掛けた状態で縄解体作業に取り掛かることになる。
 これは……すこぶるデンジャーな作業だ。指先の動きを少しでも間違えれば、年頃の女子の身体に触れてしまう可能性がある。爆弾解体班もスカイブルーな緊張感だ。
 後ろ向きにゆっくり近づいて、そろそろかなと思う辺りで止まり、椅子を着床させる。
 ふぅ。とりあえず、ここまでは問題なし、と。額には汗が浮かんできた。
 次に僕は前傾姿勢になり、同時に縛られている両手を後ろに伸ばしていく。
 「高さはあと4.6cm下ろして、それから3.3cm下がって」そんな僕に、背後の美月から指示が出る。
 「了解」言ったものの、そんなに正確には制御不能だ。自分の拳や指の大きさをイメージしながら、精一杯そのように進めていく。
 しかし。
 「あ」二人の声が綺麗に重なった。手のひらに触れた柔らかな感触と共に、背後に物凄い殺気を感じた。これは……、武術の達人でなくても感知できるレベルだ。
 「……なんでできないの? 的確に指示したのに」
 「できるかよっ! 俺は美月とは違うんだ!」俺からすれば正当な言い分だ。
 その後なんとか、無事結び目を探り当てて解き始める。ロープがそれなりの太さのものだったおかげで、結び目自体はそれほど頑固ではなかった。爪と指先をうまく隙間に入れると、徐々に解けていく。
 そして、まず美月の胴体の戒めを解くことができた。続いて、後ろに回りこみ、手首の方も外し始める。こちらは先程のような気遣いも無用だし、二回目の作業だったので難なく終了した。
 その後、美月は自らの脚を解いて、完全に開放された。
 首をひねって後方を見ると、僕の視線の先で少し伸びをして身体を動かす美月の後姿が見えた。いやぁ、良かった良かった。
 そして、向き直った美月は一言。
 「解いてほしい?」俺に問う。
 えーと、それはどういうことでしょうか……?
 いや、心当たりはあるんだけど。それは、不可抗力じゃないかなーと思うわけですよ。あれこれと思うところがありつつも、小さく頷く。
 「じゃ、先例に倣って――」美月が右手をすっと俺の目の前に出して構える。
 先例、ってそれは、もしかしてアレですか!?
 「これで勘弁したげる」

 ――ビッシィッッ……

 物凄い音が自分の額で響く。椅子に座っていて、しかも縛られている状態では避けようがない。強烈なデコピンが、脳天を揺さぶる。
 「……ってぇ」
 じわっと眼の端に涙が浮かんできた。
 しかし、本当にそれで気が晴れたのか、美月は俺の縄を解き始める。さすがに、処理能力には定評のある美月。後ろ手でないということもあるが、俺の数十倍の速度で解ききってしまった。
 紆余曲折(主に僕がだが)の末、僕たちは身体だけは自由になった。身体をくまなく探してみたが、やはり封筒は回収されていた。
 こんな事態とはいえ、交わした約束を守れなかったことに僕は僅かに落ち込む。
 財布は残っていたものの、二人とも携帯端末を回収されてしまっていた。元々、電波は弱そうな場所ではあるが、万が一外部と通信されては困ると思ったのだろう。
 それならばと扉に近づき、耳を当てる。物音の類はしない。ノブを静かに回して押し引きしてみるが、しかし扉が動くことはなかった。鍵が掛かっているようだが、こちら側には鍵の仕組みはない。恐らく、外からしか施錠できないのだろう。倉庫ならばそれも当然か。ここが監禁場所に選ばれたのもそういう理由からだろう。
 「ダメだ。開かない」
 かといって、窓の方も期待できそうにない。かなり高い位置にあるし、隙間が僅かにしか開かないタイプのようなので挑戦する価値自体低そうだ。
 そうすると、あとは棚に上げてきた諸々の謎を今のうちに推理しておくことくらいしかすることはない。
 まず、あの封筒の中身はなんだったのだろうか。
 手に取ったときの感触を思い出したが、厚みのあるものではなかった。札束とかカードの類が入っていたわけではなさそうに思える。
 手紙……。そういえば、誰かが『このところ御前さんは寝たきりだ』とか言っていた気がする。余命のことを意識していたならば、あれは遺書という可能性もありうるかもしれない。
 「そういえば、御前さんはなんで倒れていたんだろう……」
 元気そうなおばあさんに見えたが、強力な薬も毎日服用していたほどだというから、人の身体は分からない。
 やはり、あの4人の中に『犯人』がいるのだろうか。
 最近、命を狙われていると思った御前さんが、遺書や何かの権利書のようなものを僕たちと言う第三者に預け、今晩万が一のことがあっても大丈夫なようにしたとか……。
 「美月は、何か変だと感じたことない?」
 「ん……」美月は腕を組んで唸っている。「変かどうかは分からないけど、ケーヤに時間を聞いてからおばあさんの様子が慌しくなった、とか?」
 そう言われれば、そうだったかもしれない。
 「ちなみに、俺たちどんな会話してたっけ?」
 「ケーヤが『あ、えーと今は11時過ぎたところですね』。おばあさんが『本当だ! ちょっとうたた寝するつもりが随分寝てしまったんだね』」
 「ふーむ……」
 会話の中で特におかしいところはない気もするが、確かにその会話を交わした後から御前さんは慌しい様子だった。
 ……ん? ちょっと待てよ?
 僕の頭の中に〈跳躍(リープ)〉が訪れた。
 「あのさ、その時間を聞く直前はどんな会話だったっけ?」
 「ケーヤが『長居をしても申し訳ないので、僕たちはそろそろ。貴重な扇子も拝見できましたし、来て良かったです。でも、せっかくの綺麗な庭園が見れなかったので、欲を言えばもっと早くに来れば良かったです』。
  おばあさんが『もっと早く……? ちょいと今、なんどきだい!?』」
 もしかすると……そういうこと!? 可能性としてありうるけど。
 しかし、疑われている僕がそんなことを主張しても、果たして取り合ってくれるかどうか不安だ。
 第三者がその推理をしてくれれば説得力が出てきそうなのだが。せめて、第三者が立会ってくれている状態で、自説が展開できればと思うが、そう都合の良い展開が訪れるとも思いがたい。
 と、美月が扉のほうを向いて指を差した。
 「今、声がした。誰かが来たのかも」
 「誰かが?」
 あの4人のうちの誰かが戻ってきたのか。一人か全員か。
 場合によっては、扉を開けた瞬間に逃げ出す方策を取るべきかもしれない。あちらは、僕たちが拘束されている状態だと油断しているだろうから十分に隙はつけそうだ。
 扉に耳を当てる。
 「……ですから、特に何も怪しいことはございませんので」
 「ほう。なら、後ろめたいことならあるのか? 片っ端から見せてもらおうか」
 「そ、それは……」
 一人は館主のようだが、なんだか様子がおかしい。もう一人、新たな人物が現われて、この風雷庵を捜索しようとしている?
 警察? 刑事? いや、そういう雰囲気でもない。敵なのか、味方なのか。それも全くわからない。足音はどんどん大きくなる。
 どうする? 奇襲を掛けるか、それともこの謎の人物に頼ってみるか?
 戸惑っているうちに、扉は開錠され、あっさりと開け放たれた。
 目の前には茶色い髪を立たせた20台半ばくらいの男が立っていた。繁華街を歩いていたら、何人かはいそうな風貌だ。
 「あ、あなたは……」
 僕は言葉を失った。僕は、その人を知っている。でも、何故ここに、このタイミングで?
 立っていたのは、現在の将棋界の第一人者、冷谷山秋一三冠だった。
 
 冷谷山秋一。
 プロ前段組織への入会は24歳と異例の遅さであったものの、そこから連戦連勝で25歳で四段に昇級、プロとなる。その勢いのまま初年度にいきなり龍帝と騎帝という3大タイトルのうち2つを獲得し、一躍時の人となる。
 しかし、その実力は一過性のものではなくその後現在に至るまで両タイトルとも防衛を続けている。
 また、早指し戦も得意にしており、全国放送の棋戦〈みくの杯選手権〉では相手が指した瞬間にすぐに指すというパフォーマンスを貫きそのまま優勝もする離れ業を数年続けている。
 さらに、順位戦も5年という最短期間でA級まで駆けあがり、今年の6月末。須藤三冠から棋神のタイトルを奪取。入れ替わるように三冠を成し遂げてしまった。現在、前人未到の7冠制覇に最も近い男といわれている。
 ちなみに、冷谷山三冠はいずれのタイトル戦もフルセットの末の奪取をしている。その舞台はいずれもこの五稜亭旅館だ。つまり、この地では未だに負けなし。よほど相性が良いのだろう。
 三冠は扉近くにいた僕たちと部屋の中の様子とを観察してから「お前たち、監禁されてたんだな?」そう確認してきた。
 僕は小さく頷く。僕たちは椅子から立ち、縄は床に散らばっている。自力で解いてしまったため、そう判断してもらえないかもしれないという心配は無用だった。
 「まぁ、話はそっちの〈談話室〉に行ってからだな」三冠が視線で外に出るよう、促してきた。
 僕たちは三冠に付いていく。
 間近で見ると、その背中からは一般人にはないオーラを感じる。
 「あの……」
 「なんだ?」
 「何故、こんなところに?」僕は前を歩いている三冠に思い切って尋ねてみた。
 「こんなところ、か。ここは多少思い入れがある場所なんでな。プライベートで来てみた。それだけだ」
 プライベート……。
 もしかして、船着場で館主が言っていたVIPとはこの冷谷山三冠のことなのかもしれない。
 VIPといって差支えない人物だし、こうして今、館主が近くで案内に奔走をしている様子から僕はそう判断した。
 それにしても、何という幸運だろう。謀らずも、第三者を交えて弁明をするチャンスが急に舞い込んだのだから。

 〈談話室〉には館主以外の3人も集まっていた。メンツとしては、先ほどまでのメンバーに三冠が一人加わった形だ。
 「なぜこの小僧と小娘を監禁していたか、理由を聞こうか」
 小僧と小娘、か。確かにその通りかもしれないが、相変わらず口が悪い。実力者でありながら、平身低頭だった佐波九段とは間逆の存在だ。
 その口調から、プロ棋士仲間でもマスコミ関係者でも『礼に欠けている』と顔をしかめるものは多い。しかし、圧倒的な強さに惹かれる将棋ファンと面食いの女性ファンからは絶大な支持を受けているという。
 まさか、美月は冷谷山ファンになったりしないよな、と顔を伺うと「小娘って、あたしのこと?」と言わんばかりに僅かに眉をひそめていた。……この分なら、ひとまずは安心か。
 4人を代表して、館主がそれまでの経緯を語り始める。内容は僕たちが聞かされたときのものとほぼ同じだった。
 現オーナーが朝から行方不明で探していたところ、風雷庵で倒れているところに出くわした。そして、うわごとのように「封筒……」と呟いていた。
 ちょうど胸ポケットに封筒を挿していた少年少女に話を聞いてみると、「封筒は預かったものだ」という。
 「少年たちが、御前さまから封筒を奪ったと考えれば辻褄が合うと思ったのです」
 「抵抗する御前さまに無理やり薬を飲ませて、倒れさせたかもしれないわ」
 本当に散々な推理内容だ。御前さんは、僕たちが封筒を奪ったとは一言も言っていないんじゃないか。
 それに、薬がそんなに一日に一度しか飲んではいけない強力なものだなんて、今日この島にきたばかりの僕達が知っているはずもない。仮に僕が犯人だとしても、速攻で効き目の出るとは思えない経口投与などせず、ハンカチで薬を吸わせたり注射をするだろう。
 しかし、僕がわざわざ反論する必要はなかった。それよりも早く三冠が反応したのだ。
 「いかにも凡人が考えそうな、くだらん推理だな」腕を組みながら、三冠は4人を一瞥した。
 「よし。今度はお前たちの立場から状況を話してみろ。正確に、かつ、詳細にな」
 正確、かつ、詳細か。難しいことを言ってくれる。しかし、ついに念願の手番が回ってきた。
 僕が話してもいいが、先ほどある結論に至ってしまっている。それを意識すれば、作為的な事実だと誤解されるおそれがあるし、意識しなければ推理してもらう材料が不足してしまう。
 そうすると適任は――。
 「美月、頼めるか?」僕は小声で打診する。
 僅かに口許をへの字に曲げる。不服のサインだ。「なんであたしがそんな面倒なことを」と言わんばかりだ。
 いやいや、状況分かってますか? 冤罪のピンチなんだってば。
 ……。
 仕方ない。
 「……〈まめしば〉のアフタヌーンセット」僕は身を切り刻まれる思いで提案する。
 〈まめしば〉のアフタヌーンセット670円。好きなコーヒー一種と、デザート一種と、チョコレート2個のセットだ。
 夏休みは何かと金が掛かるというのに……。
 「取引成立」美月は小声で許諾した。
 「じゃあ、船を降りた辺りから、御前さまと別れて風雷庵を出たところまで……」
 「分かった。10時32分、ケーヤ下船。10時34分、あたし下船。船着場に4人で集まってから、10時38分、旅館に向けて徒歩で移動開始……」
 順調に僕たちの体験してきたストーリーが再生されていく。
 ただ、会話の一言一言や、パンフレットにあった温泉の成分までもあまりにも正確に諳んじている様子に、4人の大人だけでなく三冠も驚きの表情を浮かべている。
 そのため、「すみません、この子ちょっと頭良すぎるんです……」などと何故か僕が弁明する事態に見舞われた。
 「……で、おわり」
 そして、美月が話し終えた。目をつぶって黙考していた三冠は静かに眼を開き、開口一番「小僧、時計を見せてみろ」と言った。
 僕は三冠に見えるように腕を掲げて見せる。それを一瞥すると、「……アナログか。なるほど、もういいほぼわかった」と手を振った。
 
 「結論から言うと、小僧と小娘は無実だ。ばあさんは自分で薬を飲んで倒れたんだ」
 僕は思わず、心の中で拳を握り締めた。頭の中では『無罪確定』の垂れ幕を持った人たちが歓喜している。
 「自分で……って、あれは夜に飲むのよ。外も明るいうちから飲むはずが」
 「笑止。夜の11時と勘違いしたんだろう。〈管理室〉は外光が入らない位置にある。時を示すものがなければ、正確な時刻は分からん。
  『せっかくの綺麗な庭園が見れなかった』『もっと早くに来れば良かった』小僧のセリフだったな?
  小僧は、改装中のため室内から庭園が見られなかったというつもりで言ったんだろうが、ばあさんは夜になったから辺りが暗くて庭園が見られなかったと勘違いしたんだろう」
 そう、確かにあのとき僕はそのつもりで言っていた。もう少し具体的に話していたら誤解は起きなかったかもしれない、御前さんは倒れなくてすんだかもしれないと思うと、心が痛んだ。
 「さらに時計だ。小僧のつけているシンプルなアナログ時計では11時なのか23時なのか、判断できん。周囲の状況か、連続した記憶があれば判断はつくだろうがな」
 僕は、6月に風邪が長引いて毎日毎日寝込んでいたときのことを思い返していた。
 眼が覚めた瞬間、辺りが暗くて感じる違和感。時計を見ると5時を示している。あれ、なんでこんな状況? 泥のように眠って、もう翌朝なのか?
 ……いや、昼飯食べてすぐ寝たんだったか。今は夕方の5時なわけか。
 健康な人間ならいざ知らず、寝たきりが続いていた御前さんもきっと様々な角度からの情報がなければ、寝起きに正確な時刻を把握するのは困難だったのではないか?
 そこでふと思い至り、隣の美月の横顔を見つめる。表情は特に変わっていない。
 連続した記憶が保てず、毎朝、記憶がないところからスタートし、その都度情報をインプットしなおしている美月。そんなことを周りのニンゲンが気付かないような振る舞いを、何千何百回と続けているのだ。
 美月は、そのことをどう思っているのだろうか。それが『当たり前』で、不自由など感じていないのだろうか。
 「〈三人虎をなす〉ということですか……」館主が小さく呟いた。
 虎が出たなどという眉唾モノの話でも、三人ものニンゲンから耳にしてしまうと、もしかしたら本当かも! と信じてしまう。確か、そんな故事成語だったか。
 今回の件も、御前さんが11時を23時と勘違いしてしまう要素がいくつか重なってしまったことで悲劇が起きてしまった。
 「ま、世の中の事件なんてものは、大抵こんなもんだ」
 三冠がそう言って、一同を見回した。
 
 「はっはっは。よっしゃよっしゃ。もう、少年たちを疑うのは止め、としようや!」
 静まりかえっていた室内に、豪放磊落な声が突き抜ける。誰何するまでもなく、豪傑さんだった。
 眼が合う。その眼差しには既に友好的な色が戻ってきていた。それをみて少し安堵する。
 「……そうね」
 「なんというか……、縛ったりしてすいやせんでした」
 「私たちもすっかり動転していたようです。非礼をお許しいただけますでしょうか……」
 他の3人も徐々に疑惑を説き始めていたが、豪傑さんの言葉が、渡りに船となったようだ。
 僕たちの扱いも、容疑者から宿泊客へと無事戻ったといえそうだ。
 「あ、あの……」
 場が砕けてきた。それを感じて、僕は気になっていたことを口にした。
 「御前さんの容態は……?」
 場が再度、静寂に包まれた。丸井の4人が視線を送りあっている。口を開いたのは沙羅さんだった。
 柔和な表情を浮かべながら「御前様については気にしなくていいわ」。
 それを問題なく快復した、と捉えた僕は、続けて出てきた言葉に驚いた。
 「今夜がヤマでしょうからね」
 今夜がヤマ? それなのに、どうして平然としていられるのだろうか? こんなところにいる場合か?
 僕の顔に疑問が分かりやすく浮かんでいたのだろうか。沙羅さんが続けて補足する。
 「元々、意識があるのが奇跡的で、次に倒れたらもうダメだって円先生からは言われてたのよ。
  あの後、かろうじて心肺は回復したけど、急遽〈管理室〉に簡易ベッドを用意して今は面会謝絶。今は円先生がつきっきりで診てくれているわ」
 あの元気そうに見えた御前さんが。そんなことになるなんて。
 ここまで何度も聞かされてきたことながら、その事実にショックを感じる。一見元気そうに見える、両親や友達、そして美月もある日突然倒れてしまう可能性があるといわれているのに等しいと感じたからだ。
 「さて、考えなきゃならんことがもう一つあるな」三冠の発言に僕は現実に引き戻された。
 「封筒だ。ばあさんが倒れた今、明日の朝まで待つ必要もないだろう」
 封筒――。
 先程から、何人もの大人が行く末を注視しているその中身は僕だって気になっている。御前さんは僕たちに何を託そうとしたのだろうか。御前さんとの約束が頭によぎったが、三冠の言うとおり状況は大きく変わっている。
 面会謝絶の今、僕たちにできることは限られる。今、どんな形であれ御前さんはこの世に留まっているのだ。そのうちに、できることがあればしてあげたい。そう思うのは当然に思えた。
 「それに、早い方がいいこともあるだろう?」
 その言葉に丸井家の4兄弟が無言ではあるものの、身体の一部がそれぞれ敏感に反応しているのが見て取れた。
 死亡に伴い銀行口座などは凍結され、しばらく資金移動ができなくなる。その前に動ける最後のチャンスという意味合いだろう。
 以前に、琴羽野さんがそんな話を聞かせてくれたのを僕は思い出した。
 いつの間にか、左手に封筒、右手にペーパーナイフを持つ三冠を止める者はいなかった。
 
 ペーパーナイフが少しずつ滑り、封が開けられていく……。
 取り出されたのは、外観からしても至極真っ当なものだった。
 しかし、中から出てきたものの内容までを予想できた者は誰ひとりいなかっただろう。
 それは、御前様のような風情のひとがが作ったにしては非常に奇怪な代物だったから。
 入っていたのは折りたたまれた紙がたった一枚だけ。
 その中央には、赤い線で、星のマークが大きく描かれていたのだ。
 
 「ゴリョウセイ……?」
 言葉を最初に発したのは館主だった。
 ゴリョウセイ? あ、この形はもしかして。
 僕たちが今いる五稜亭旅館の構造そっくりじゃないか。
 「五芒星とは違うんですか?」僕は不思議に思って尋ねる。よく魔法陣などでも使われる星型の図形をそう呼んではいなかったか。
 「えぇ。五芒星は一筆書きでよく書くような、5本の線の組合せでできる形です。それに対して五稜星は中に線がないすっきりとした状態のものですね」
 五芒星と五稜星にはそういう違いがあったのか。言われると納得だ。
 そういえば、五稜亭旅館の中も5つの区画は壁で区切られてはいなかった。もし仕切りがあったなら、五芒亭という名前になっていたのだろうか。少なくとも語感はいまいちな印象になってしまう。
 「実は、この旅館も元をただすと五芒星に行き着くんですよ。丸井家の家紋は以前ご覧頂いたように、丸の中に井の字が入っていますね?
  井の字は4本の線でできています。そもそも〈子牛島〉が選ばれたのも、家紋の『格子状の縞模様』でコウシシマと連想してのようです。
  そして、さらなる繁栄をとの願いを込めて一つの線を足し、5本の線を使って模様を描こうとすると……五芒星になったのです」
 「結局まぁ、五芒星って呪術的な意味合いとかそういう暗いイメージもあるじゃない? だから、五稜星になるようにしたんだってさ」
 「はっはっは。おかげで、料亭なのか旅館なのか分からん、紛らわしい名前になっちまったわけだがな!」
 「やや、全部言わないで、あっしにも何かしゃべらせてくださいよ」
 僕の何気ない質問で硬直が解けたようで、それまでとは打って変わって丸井4兄弟が活気付いてきたようだ。
 一番最初に見たときの旅館従業員としての堅さもなく、僕たちに睡眠薬を盛ったときのような怖さもなく、これが彼らの本来の表情なのだろう。
 「しかし、どうして文字じゃなくて図形なのかしら」
 「何か、直接的には表せない事情があった、とかでしょうかね……」
 彼らの話題は徐々に『赤い星』の推理の方にシフトしていった。
 「赤い……星……」
 「うーむ……」
 部屋は沈黙に沈んでしまった。館主さんは顎に手を当て、豪傑さんは腕を組み、沙羅さんは手帳にペンを走らせ、スキンヘッドさんは頭をさすっている。
 4人は考え込んでいるが、三冠と美月は特に興味はなさそうだ。手近にあるお茶請けに手を伸ばしたりしている。
 僕はこの手の謎掛けにはつい反応してしまうタチなので、一応考え始めてはいる。しかし、今のところ何一つ浮かんでくるものはない。今までのように、真正面からお願いされたりというようなプレッシャーがないからかもしれない。
 「赤いホシってったら、梅干とかでしょうかね」スキンヘッドさんが言う。旅館の厨房を任されている彼ならではの考えかもしれない。
 しかし、何故梅干……。案の定、沙羅さんから厳しい突込みが入った。
 「つまり、どういう意味なわけよ?」
 「えっ? なんというか……。梅干は腐りにくくて、賞味期限が長いから……。つまり……えぇと、腐るな? いや、息長くがんばれとかそういう……」
 館主は眉間を押さえ、沙羅さんは深いため息を吐いた。他の面々はアクションこそなかったが、同じ心境だったろう。
 「他に、何かないでしょうかね……」虚空に向かって呟いたのは館主の優しさだったのかもしれない。
 「む!?」
 意外にも次に名乗りを上げたのは、豪傑さんだった。何かに気づいたのか、眼を大きく見開いている。……少し怖い。
 「はっはっは。これはどこから見ても赤い星だ!」そして、逞しい人差し指を卓上の紙に向けて言い放つ。見たまんまである。
 「そして、『ア・カ・ホ・シ』を五十音で一つずらすと……『イ・キ・マ・ス』になるぞ?」
 沙羅さんの厳しい突込みと、それを実は期待していた一同は、一瞬息を呑んだ。
 ――逝きます。
 もしそれが真のメッセージだとしたら、一大事だ。先ほどの一件が偶然の事故ではなく、故意の自殺だった可能性が浮上するのだ。
 しかし、一瞬ハッとさせられた意見も、
 「イマイチね。アカホシっていう読み方違和感あるんだけど。一般的な言葉かしら? アカボシやアカイホシとかならまだましだけど。
  なにより、一日に一回しか服用できない強力な薬を使ってでも生き続けようとする人よ? 自分から、命を絶つなんて考えられない」
 沙羅さんは手帳に目線を落としたまま、きっぱりと言い切る。それを聞いて他の3人が黙り込んでしまう様子からして、的を射ているのだろう。
 「そうだ、こういうのはどうでしょう」
 今度は、館主は手を打ち、切り出した。この人は見た目どおり慎重な意見を述べそうな気がする。期待できそうだ。
 「五稜星は、別名で五光星とも言われるのです」
 「それが?」
 「赤、五光星。赤子、後世。つまり、跡継ぎを早く作れということではないでしょうか?」
 「……確かに、あっしらはまだ独身で子供も当然いない。筋としてはありえなくはないすが……」
 全員独身とは少し意外な感じがした。4人とも、年齢は30台から40台くらいに見える。そういうことであれば、その推理も正解になりうるかもしれないなと思ったが。
 「あ、でも……」
 「なんですか?」
 「ここ数年は、『いざとなりゃ、養子でも取るかね』って呟いていた気がするわ」
 「そう言われてみれば、そうだったかもしれませんが……」
 「御前さまはあんまりあっしらのコト誇らしく思ってないフシがありましたしね」
 そして4人から、御前さんからなじられた思い出が次々と解き放たれた。
 苦い思い出の飛ばし合いが小康状態になったころ、沙羅さんがついに推理を披露した。
 「じゃあ、こういうのはどうかしら?」手帳をこちらに向ける。なにやら文字が書いてある。
 「これは、一つの赤い星、よ。つまり……『ONE RED STAR』。これを並べ替えると『ARREST ENDO』になるわ」
 アナグラム、か。なるほど、暗号なら王道かもしれない。
 「エンドウを……逮捕しろってこと?」
 「……しかし、旅館の従業員にエンドウという名前の者はいないはずです。過去のお客様でならばあるいは……」
 今の従業員にはいないのか……。しかし、過去の宿泊客にまで範囲を広げてしまうと、今度は収拾がつかない気がする。
 「だいたい、外国語なんて全然話せんでしょう」
 「確かに、御前さまはペンギンを企鵝(きが)と呼ぶような御方です。他の人物のメッセージならともかく、御前さまが外来語とは考えづらい――」
 「何よ! あんたたちの珍説よりは、よっぽど、断然まともでしょうが!」
 「姉貴はいつもそうす。自分が攻撃されるときは敏感で……。ヒステリックになりなさんなよ」
 「はっはっは。女性はカルシウムが不足しがちだからなぁ。牛乳だ、牛乳を飲めぃ!」
 「余計なお世話よ!」
 場が混沌としてきた。次々と推理は繰り広げられはするものの、生まれては消え生まれては消え。
 そして、昼食の時間帯が過ぎていく。そろそろ本格的に腹がすいてきた感じだのだが、皆はまだまだ頑張るつもりの様子だ。
 ここで、僕はもう一度御前さんの気持ちになって考えてみた。
 僕に一通の封筒を託して明日の朝に披露する。立ち会うのは恐らく、丸井の4人と僕と美月。
 中に描かれているのは『赤い星』。その意味を、例えば制限時間内に解かせ発表させる……。
 アクシデントが起こらなければ、そんなイベントを考えていたのかもしれない。
 とすると、これは計画的に考えられたイベントで、『赤い星』の意味も〈ダイイングメッセージ〉のような突発的、あるいは、性急な解読が必要なものではないと言えそうだ。
 再び、シンキングタイムが訪れた。興が湧いたのか、三冠も推理に参入したしたようだ。眼を瞑って身体を大きく反らせている。テレビ中継でも見たことのある、長考の時の姿勢だ。
 最初に口火を切ったのは、スキンヘッドさんだった。
 「花札では、〈五光〉という役がありやす。その札は、それぞれ〈松に鶴〉〈桜に幕〉〈芒に月〉〈柳に小野道風〉〈桐に鳳凰〉と言いましてね。
  ご存知のとおり、それぞれの札には〈1月〉〈3月〉〈8月〉〈11月〉〈12月〉と月が割り振られとります」
 「それで?」
 「これをばらしてつなげると、1381112。語呂合わせだと『遺産は1112』となるんですが、いかがでしょ?」
 「……つまり、『遺産は111に』相続させろと言う意味だって言いたいの?」
 「『111』とは誰のことを指しているのでしょうか?」
 「いやぁ、あっしは『1対1対1対2の割合』を意味してるんじゃないかと思っとるんですがね」
 遺産、というキーワードが出て丸井の4人の表情に緊張が走ったのが傍目にも分かった。
 丸井家は名家だ。この五稜亭旅館を見れば分かるとおり、総資産額は一般人の僕には想像もつかない。
 ましてや、推理の結果が正しいとするならば、一人だけ5分の2もらえるのだ。例えば、総資産がたったの5億だとしても、1億か2億かの違いになるわけだ。
 そして、問題は誰が2倍多くもらえるかということだが……。
 「生まれた順と捉えれば、あっしが2ということになりやすがね」スキンヘッドさんが困惑した表情で言う。御前さまが決めたことだから仕方ないですね、と言わんばかりだが内心ではほくそえんでいるかもしれない。
 「ちょっと待ちな。割合が1対1対1対2なのはいいとして、誰がそうかってのはもっと慎重に推理しないと!」
 「はっはっは。五十音順だと、おれが一番最後になるな」
 「誕生日なら12月生まれの私だわ」
 先ほどよりも議論が熱を帯びているのを感じる。これがお金の魔力というやつなのだろう。かくいう僕だって、当事者になったら分からないだろう。
 確かに、スキンヘッドさんの推理はこれまでの中では一番暗号解読らしい気はする。すると、これが……正解なのだろうか。

 ――パチン!
 
 乾いた空間を切り裂くような音が響いた。
 僕はこの音を知っている。扇子の音だ。こんな状況で、その音を出すのは一人しかない。
 「……そろそろオレの出番か」三冠が呟く。
 「他の家のばあさんならいざ知らず、あのばあさんが描いた星ならこの五稜亭旅館を連想したと考えるのが妥当だろう。
  この旅館はその区画ごとに名前が振られていたな?
  朱雀、玄武、青龍、白虎、麒麟。そして、これらはそれぞれ五行では〈火〉〈水〉〈木〉〈金〉〈土〉を示している」
 ……あ。
 こんなタイミングではあるが、そう言われて腑に落ちたのが各娯楽スペースにあった施設のことだ。
 朱雀と玄武の間には、温泉があった。これは、〈火〉〈水〉の間に位置するから、『温泉』だったのだ。
 彫刻展示場や陶芸展示場など、およそ旅館に存在するには違和感がある設備もそういう見方をすると一応辻褄が合っているように思える。
 「それぞれの名前にも五行の漢字が入っている。沙羅には〈水〉が。新吾には〈木〉が。鑑には〈金〉が。敬基には〈土〉が。
  そして、それらが赤で描かれている。赤の色を示すのは〈火〉。〈火〉の者がこれらを統べるよう、序列を定めたのだ」
 名前にキーワードが含まれているあたりが、〈五光〉の推理よりも確度が高いような気がした。
 しかし、「はっはっは。ちょっと、待たれよ? そこで出てくる〈火〉とは誰だ? 我々は4人兄弟だが……」当然の疑問を長男の豪傑さんが問う。
 三冠だけが悠々と扇子を仰いでいたが、やおらそれを止めて面々に向けて広げてみせる。
 「俺がいるだろう」
 室内の時間が一瞬だけ止まる。
 そこには、『神意 冷谷山秋一』という文字が揮毫されている。
 「まだ分からんか? 俺の名前に〈火〉が入っている」
 冷谷山……秋一。確かに、秋の字に〈火〉の字が入っているが。
 「そんな……偶然でしょ?」
 「これだけ言っても分からないか。では、『チヨコ』という名前を出したらどうだ?」
 三冠の挙げた名前に4人は反応する。
 「『チヨコ』と……『シュウイチ』!?」
 「ま、まさか。あなたは、お館さまの前妻の……」
 三冠は満足げに口の端をあげた。

 5人の間では、どうやら共通認識らしい。
 話についていけていない様子の僕(とついていくつもりのない美月)に、館主さんが説明をしてくれた。
 「御前さまから聞いた話です。前妻にチヨコさまという方がおられた、と。18でお館さまと結ばれたそうです。
  チヨコさまは元々、丸井家に仕える身でした。その誠実さや器量は大層すばらしかったそうですが、先々代は名家の娘と結ばせたかったらしく内心おもしろくなかったようです。
  また、様々な試みをなさったそうですが、5年間お子様に恵まれなかったようです。先々代は、それを大きな理由として離縁を言い渡してしまったのです。
  その後、私たちの母であるぼたんが後妻となり、私たち4兄弟を生みました。
  それから歳月が流れ、風の噂でチヨコさまがシュウイチという子供を育てているという話を聞くこととなったのです」
 「そして、その子がお館さまの血を継いでいるとも言われていたのよ」
  つまり、隠し子ということだろうか。丸井家のような名家にとっては、大きな問題だろう。
 「でも、そのシュウイチの年齢がどうにも妙なのよ。噂になった当時、チヨコさんが46歳で、シュウイチが8歳。逆算すると、38歳で生んだことになるじゃない?」
 「それに、チヨコさんがこの屋敷を出て行ったのは、25歳のときと聞いています。それから一歩も〈小牛島〉には足を踏み入れておりません。また、お館さまも〈小牛島〉から外へは出ていません。
  見ての通り、小さな島です。誰にも見咎められずに上陸することはまず不可能……」
 「なら、千兵衛じいさんの好物が〈タラの芽の天ぷら〉だったとか、〈貯蔵庫〉に漢字の〈心〉のような模様が入っている柱が2つある、と言ったらどうだ?」
 「そんなのは、探偵でも雇って元従業員に聞いたりすれば知り得るわ」
 「……やれやれ。結局、これの出番か」
 三冠は懐から封書を一通取り出すと、卓上に放り投げた。
 「DNA鑑定書だ」
 沙羅さんが封書を手にする。傍らにペーパーナイフもあったのに、それすら使う時間が惜しい様子で封筒を開けている。
 「嘘……。『冷谷山秋一は丸井千兵衛の実子と認める』……ですって!?」
 「よりによって、検査したのは円先生……ですか。それならば、お館さまのDNAを持っていても全く不思議はありませんが……」
 否定を続けても、キリがない。また新たな〈証拠〉が出てくるに違いない。先ほどの〈三人虎を成す〉ではないが、信じざるを得ない状況だ。
 場の空気はそんな風だった。
 三冠は腕を組んだまま、辺りを見回している。招かれざる5人目の兄弟が、次にどんな言葉を続けられるのか。丸井の4人も様子を伺っている。
 「冷静に考えてもみろ。こんな図形の謎を解いたところで、その内容が遺言になるはずがなかろうが。『謎を全て解いた最初に解いた者に相続させる』などという遺言書が別途見つかれば話は別だがな。
  だが安心しろ。俺は資産だの何だのそういうものに興味はない。俺の目的は、丸井家に俺の優秀さと母の存在をはっきりと認めさせることだけだったからな」
 室内には優雅に扇子を仰いでいるパタパタという音だけが響いている。三冠の表情は涼しげだ。
 一方、丸井の4人はまるで叱責された子供のように萎縮し、机の表面に目を落としている。
 この構図は確かに三冠の望んでいた一つの結末かもしれない。でも、何かが、間違っている気がする。
 「さ、さて、答えも出ましたし、もうこんな時間です。お開きにしますか」
 重苦しい雰囲気を打開するように、館主さんが腕時計をわざとらしく見つめながら切り出した。
 一同もこれ以上何かを言う気力も失われたようで、それを契機に席を立とうとする。いち早く、この場を離れたいというオーラがはっきりと眼に見えるようだ。
 こういうケースで、僕は普段声を上げることはない。発言を求められたら答えるけれど、積極的には動かない性格なのだ。出る杭になるのが苦手だから。
 しかし、どうにもこのままじゃいけないような気持ちがどんどん大きくなっていく。そして、それが飽和状態を迎えた。
 「あの、一つだけ……いいですか?」
 僕は意を決して切り出した。
 「なんでしょう?」
 場の収束ムードを遮る形になった僕の発言に、一同は僅かに懸念した様子だった。丸井4兄弟と三冠の視線が集中する。
 それは、以前、部活総会での奥地会長や他の部長のされたものと重なってみえ、思わず発言を取り下げてしまいたい衝動が爆発的にこみ上げてくる。
 しかし、今日は傍らに美月がいてくれている。それだけで心強くて、それだけで格好悪いところを見せたくないなと思って、顔の紅潮や声が上ずりそうな気配は驚くように霧消していた。
 小さく唾を飲み込んで、拳を握り締める。
 「少し考えてみたんです。それぞれの頂点がお互いに『両手』を伸ばすようにしたら、ちょうど星になるように見えるなあって。
  線も赤いし、暖かい血の通ったニンゲンの形容にも見えます」
 「……あらあ、ずいぶんロマンチックな推理だこと」沙羅さんは微笑む。一見、表情には嘲りは見えないものの、話し方にはわずかに失笑の成分が含まれているようだ。
 確かに、そこだけ聞いたら逆の立場でも噴飯しそうだ。でも、構わない。続ける。
 「美月、この星の内角って何度になるかな」
 「0.628318531……」
 「――ごめん、ラジアンじゃない方で」僕は慌てて制する。危く無限の世界に突入するところだった。
 「度数法ってこと? それなら36度でしょ」美月は即答する。もちろん、話をしようとする以上、僕も計算済みではあった。
 単純な割り算を彼女に尋ねるのは、掃除機の性能を確かめるために砂金を床に巻くような贅沢なものと言えるけど。まあ、こういうのは会話のリズム感のようなものだ。
 「そして、この線は定規は使っているようですけど、所詮ニンゲンが手書きをしたものです。だから、角度はピッタリ36度じゃない。約36度なんです」
 「それがなんなの?」沙羅さんは回りくどい説明は苦手なようだ。
 「ニンゲンの体温も約36度でしょう。これって果たして偶然でしょうか」
 丸井の4人は呆気に取られた表情を浮かべ、三冠は露骨に怪訝な顔を作っていた。しかし、まだ推理は言い切っていない。僕は構わず続ける。
 「つまり、遺産とかそういうの以前に、丸井さんたち4人と冷谷山三冠が手をつなぐようにして仲良くやっていってほしいというメッセージかと思ったんです、けども」
 生じた沈黙は一瞬だったはず。けれど、とても長く感じた。
 「はっはっは。こいつはいい!」
 「馬鹿馬鹿しいけど、今日一番の推理だったわよ」
 丸井の4兄弟は揃いも揃って、大爆笑だった。しかし、何もそんなに笑わなくても……。
 そんな中、三冠は「……下らんな」と、不快を一人あらわにしていた。
 綺麗に収まりかけた流れをふいにするかのような差し水と思われたのかもしれない。
 「出題者を貶めかねん答えといっても過言ではなかろう」
 言葉の内容は非常に厳しかった。5人の反応を見て、僕は、あぁやっぱり黙っておけば良かったかと思ってしまった。
 しかし、意外なことに三冠の発言に丸井4兄弟が猛反発した。
 「はっはっは。あんた、そりゃ言いすぎだろう。それなりに理屈は通っとるじゃないか?」
 「なんだ? 無能どもが集って吼えよるか」
 「正解不正解によらず、ゴールに行き着いたではありませんか。立派に答えの一つかと……」
 「ふん。本人がゴールだと思い込んでおるだけだ。愚かしい」
 「私も最初はおかしな答えと思ったけど、結構面白い回答じゃない。仮に正解だったとしても悪くないと思うわ」
 「莫迦を言うな、断じて正解なはずがない」
 「正解だよ」
 「誤答だ!」
 「本人が正解だと言っておるのだから、正解だ」
 「本人だろうが何だろうがそんな答えが認められるわけなかろう!」
 不意に浮かぶ違和感。
 全員の視線が違和感のした入口の方に集まる。
 「御前さま!」
 そこには、杖をついた御前さんが立っていた。脇には白衣の円医師が介添えについている。
 「なっ、ご無事でしたか!」
 「いつからそちらに!?」
 「……ふん。結構前から聞かせてもらっておったわ。様々な珍説、奇説をな」
 そして、鋭い視線で一同を見回す。
 「全く。遺産だのなんだの……。倒れたところまでは事実だが、まだ大人しくくたばるつもりなどないわ。
  こっちにも色々と都合があるから、円先生にお願いして誇張してもらってたんだ」
 「ひっひひ。申し訳ないね、ご子息方。御前さまのお願いとあっては断れませんからね」傍らに控えていた白衣の男が頭を掻く。
 この人が円医師か。視線が常に定まっておらず、左肩だけがいかり肩になったような姿勢をしている。言われないと、とても腕の良い医者だとは思えない怪しい男だ。
 二人は、近くに空いていた椅子に腰掛けた。
 「何故、俺のが正答じゃない!?」
 着座するやいなや、三冠が問い詰める。これほど感情を表に出しているところをみるのは初めてかもしれない。
 それは、激昂というより子供の癇癪のようにもみえる。だがしかし、
 「……何故、正答じゃないといけないんだい?」御前さんは動ぜず切り返した。
 「オレは、丸井の連中――あんたと爺さんと、その子供たちに優秀さを見せつける、その復讐のために今日、そしてこれまでやってきたんだ。
  母から聞かされたよ。最初、囲碁に縁のある優秀の〈秀〉の字をあてる予定だったところを季節の〈秋〉の字に変えたんだと。
  あんたがそう強く勧めたんだってな?」
 「ああ。相違ないよ」
 「俺が生まれたとき、既にそこのでかぶつが囲碁の院生になっていた。丸井家の悲願成就は目前って訳だ。
  見ての通り、俺は将棋でここまで結果を出してきた。きっと、囲碁を選んでいても同じように結果を出せただろう。
  もし俺が囲碁の道に進んだら、丸井家の障碍になりうる。そう思ったんだろう? 将棋を押し付けられた俺の気持ち、到底分かるまい」
 三冠は扇子を開閉する仕草を早めていく。それは、ほの暗い感情を増しているのを表しているかのようだ。
 「……将棋は嫌いかい?」
 「ああ。大嫌いだよ」
 はっきりと言い切った。その言葉は、僕に深い衝撃を与えた。
 将棋だけに限らない。その道で偉大な実績を挙げるほどの実力者は、その道を愛しているはずだ。そう思っていた。
 強くなるためには、上手くなるためにはたゆまぬ努力が必要だ。それは、好きでなければ続けられるものではない。
 負けたり、上手く行かなかったり、思い通りにならなかったとしても投げ出さず。自分自身がきっと今より上達することを信じて、立ち上がる。
 佐波九段は、敗戦した後も日付の変わった激戦のあとでも「将棋が好きです」「将棋が楽しめました」という言葉を残していた。
 同じ棋士という立場でありながら、どうしてこれまで対極的なのだろう。
 御前さんと三冠が視線を交錯しつ続ける。一人でも強烈な威圧感が、真っ向からぶつかっているのだ。場が緊張しないはずがない。
 「ひっひひ。ここは一つ、丸井家と付き合いもそれなりに長い私めが、一つ昔話をお話しましょうかね」
 意外な人物が声をあげた。円医師だ。
 「円先生、これは丸井家の問題――」御前さんが止めようとするが、「ぼたんサン、こういうのは第三者が言ったほうが、円滑になるモンですぜ」と引かない。
 「秋一クン、さっき自分で言っていただろう。自分の字に〈火〉が入っていると。
  下の名前は死ぬまで変わらない。それこそが、キミが丸井家の兄弟の一人なんだということを誰にも揺るがさせない証跡になるからだ。
  あと、世間的には将棋も平等に扱っているが、内々では丸井家は代々囲碁を贔屓にしてるんです。家紋由来でね。
  だが、千兵衛サンは将棋を圧倒的に溺愛してたのさ。そして、自分の子がモシモ将棋棋士になったらどんなにか、と願っていたのサ。
  ただ、頑固な先々代が許すはずもなく、棋の素養があった新吾クンは囲碁の道を歩んでいった」
 「……」
 「チヨコサンが、丸井家を出ることになったのは不幸なことでした。
  チヨコサンはその後、一人の子供を生む。辛い想い出を避けるように、囲碁や将棋を無理にさせるようなことはしなかった。むしろ遠ざけようとさえした。
  だが、その子はいつのまにか将棋を覚え、楽しみ始めていたんだ。まさに親子だ。
  その子供が、秋一クン、君だよ」
 「……今さら、そんなこと信じられるか!」
 三冠は立ち上がる。そして、そのまま逃げるように部屋を去っていく。
 誰も、追わない。追えない。御前さんも追わない。
 「円先生、ありがとうよ。伝えたいことはもう全部伝えられたよ。どう結論を出すかは、本人に任せるとしよう。
  大丈夫。あの子は強い子だ。時間は掛かるけど、必ず自分なりの答えを見つけられる子だ。チヨコさんもいつもそう言っていたよ……」
 そう言って、傍らに立てかけていた杖を床に叩きつける。カツンッと大きく響いた音に、一同が我に返ったようになる。
 「少年、今、なんどきだい?」
 不意打ちに驚いたが、慌てて時計を見せながら答える。今度は丁寧に、
 「昼の、午後の、1時です」
 それには御前さんも僅かに苦笑いを浮かべた。そして一言。
 「腹が空いたろう。アタシもだよ。昼飯にしようじゃないか」

 

 小説『All gets star on August =星の八月=』(3/4)に続く