総村スコアブック

総村悠司(Sohmura Hisashi)の楽曲紹介、小説掲載をしています。

小説『Spring in the Spring =跳躍の春=』(1/5)

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風に 花の匂いが混じる頃 あなたとの物語ははじまった

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第一章 『月曜日』

 

 寒い冬を越えてやっと咲いた桜が、早くも散り始める4月上旬。
 季節は春、springである。springには〈跳躍〉といった意味もある。春は跳躍の季節。なるほど、なかなか的を射ている気もする。
 まだ慣れない教室をぐるりと見渡せば、みな一様に機体とファン……じゃなくて、期待と不安をみなぎらせているように見える。
 義務教育だった中学校から良くも悪くも開放されたのだ。誰でも大なり小なりの心境の変化は訪れていることだろう。
 教室の教壇側の上部に据えつけられている壁掛け時計の針は、間もなく午後のホームルーム終了を示す時刻になろうかというところだ。
 担任に急用ができたとかで、教壇の上では急きょ代理となった副担任が先日高校生活を始めたばかりの僕達に向けて、「き、君達の未来は、む、無限の可能性に溢れているっ……」などと成分の半分が無意味で構成された激励を発信していた。
 (早く終わってくれ……)
 それは、僕だけの感想ではない。周りを見渡してみると案の定、教室全体が『辟易した顔』のコピペを繰り返したような有様だった。
 いや、仮にこの教師が前職コメディアンの経歴を持っており、卓越した話術をもっていたとしても変わりはなかっただろう。僕達は、面白い話や有益な話を期待しているのではない。ホームルームの即刻終了、ただその一点のみを期待しているのだから。
 しきりに髪を撫でる者、脚を揺らす者、各々が『自身がストレスを感じた時にするしぐさを披露するタイム』を始めたようで教室の雰囲気も次第に重苦しさを増して行く。
 奇声とともにこの教師に襲い掛かる者が現れやしないかと、何故か僕がそんな心配をしかけたとき、
 「……それでは、あー、今日はこれでおしまいに、……とします。また、あした」
 副担任の締めの挨拶とほぼ同時にキンコンカンコン、とチャイムが鳴りはじめ、安堵する。
 いや、安堵している場合ではないんだ。
 安堵さえもショートカットした鋭敏な生徒達は、予めまとめておいた荷物を手早く掴むと、蜘蛛の子を散らすように、勢い良く教室を飛び出していった。
 僕も、流れに乗り遅れないよう、せわしなく教室を飛び出した。
 廊下に出ると、早くも人の群れ。7つあるどこの一年生の教室も似たような状況だったようだ。
 (しかしこれは、想像してたより、移動が難しそう……だ……)
 第三者的に見れば、この高校にバイオハザードでも起きたのかと思われるほどの混乱であるが、ここ大矢高校においては毎年繰り返される当たり前の光景らしい。受験生のみならず、他校でさえ有名になっている現象のため、ここで戸惑っているような奴は『他国のスパイ』か『地球外生命体』として生徒会に尋問されるという噂もある。
 と、多少大げさに言ってみたところで、その正体はなんと言うことはない。単に『部活動の仮入部期間スタート』なのである。それ以上でも以下でもない。普通は。
 しかし、大矢高校での部活動というのはただのお遊びや時間つぶしではない。時として、高校生活だけでなく、後の人生にまで大きな影響を与えうる重要な位置づけと認識されている。その理由は大きく3つある。
 1つめ。高校近辺にめぼしい娯楽施設や繁華街もないため、楽しみと言えば部活動に打ち込むくらいしかない。
 2つめ。高校側も部活動に対して、比較的多額の予算を割り当てており、施設も備品もそこそこ充実している。そのためか、部活のレベルが全国的に高く、各分野での有名人をそこそこ輩出している。必然、各界からは常にウォッチされており、その道に将来進もうと野望を持つ高校生にとっては大きなキャリアとなる。
 3つめ。部活を通じたカップル成立が非常に多い。多感な年頃の男女にとっては、これも重要だろう。場合によっては一番魅力的に映るかもしれない。
 (しかし、網諾寺の初詣でもこんな混雑しないぞ……!)
 まだ、校舎の構造を完全に把握していない新入生に加え、新入生の勧誘に必死になる上級生とが入り混じった結果、校舎内は複雑な攪拌運動の場と化している。なお、教師達はその光景を〈神の見えざる泡立て器〉と名付け、のんびりと教務室から茶をすすりながら観察しているらしい。なんとも他人事過ぎる話だが。
 本来の部活動に支障がでないように、仮入部は人数制限を設けているところが多い。シビアな世界なのだ。
 僕が狙っているのは〈軽音楽部〉。例年、人気ランキング5位には入る競争率の高い部である。部室は、別館最上階の一番端にある音楽室だ。僕の一組は一年の教室の中では一番音楽室から遠いロケーションにある。なんと、不遇で、長い道のりだろう。三蔵法師も真っ青だ。しかし、そんな荒行もバラ色の高校生活を思えばなんてことはない。非常に甘すぎる見通しかもしれないが、音楽をやる男はモテる!はずなんだ。
 既に、春休みのうちに中古のエレキギターを購入して、練習も始めている。スタートダッシュに向けての視界は良好だ。「ああ、勉強もこのぐらい真面目に予習しておいてくれればよかったのに!」と成人した未来の自分からのメッセージがタイムリーぷして聞こえてきそうだが、今はサイレントモードまたは着信拒否だ。
 明るい未来をモチベーションとして、僕は人ごみを掻き分けて進む。うん、段々慣れてきたようだ。別館への渡り廊下が間近に迫ってきた。とそのとき――、
 「おーい! 瀬田っ!」
 ざわめく廊下で、不意に名前を呼ばれて僕は思わず立ち止まる。人をかき分けかき分け、一際背の高い男が近づいてくるのが見えた。
 あれは……。同じ美節中出身の勝田ダイ(かつただい)くんだ。勝田くんとは、確か中学3年の時に一緒のクラスだったが、それほど親密だったわけというほどでもない。
 彼はいわゆるスポーツ好きなアウトドア派、インドア派の僕とは少し毛色が違うのだ。
 そして、なぜ、よりによってこのタイミングで? 僕は訝りながらも、さすがに失礼になるので、表情にそれを浮かべないようにして彼を待つ。
 「なんか、久し振り……だよな。ちょっと時間いいか?」
 「え……。あ、あー、うん」
 久し振り……だっただろうか。冷静に考えて、卒業式のあと春休みを挟んだだけだけど……。これが親父がよく口にしているシャコウジレイと言うヤツか? まあ、会話をしたかどうかで考えれば、確かに久し振りではあるなと僕は思うことにした。
 「ちょっと、そこ入ろう」
 とりあえず、この戦場のような廊下での立ち話は危険だということで、僕達は一旦近くの教室に入ることにした。
 教室のドアを閉めると、外の喧騒は一段階小さくなった。あの狂騒の中に後でまた戻るのかと思うと、身が引き締まる想いだ。
 「あれ? 随分と印象変わったなあ。まあ、今の方がカッコいいぜ」
 「あ、ありがとう。ところで、何か用事が?」
 「そうそう。悪いんだが、ちょっと協力してほしいことがあってさ……」
 制服のポケットから携帯端末を取り出して、勝田くんはストレートにそう告げる。
 せわしなく操作をし始めて、やがて「これなんだが」と携帯端末の画面をこちらに差し出してきた。
 なんだろうと思い、覗き込んだ僕は、「……あっ!」思わず声をあげていた。
 見間違いようもなく、それは将棋の初形――まだどちらも指していない初期状態だった。

図_本将棋初形

図_本将棋初形

 

 それは、僕にとっては一番見たくない画像だった。それをきっかけとして、頭の中に様々な映像や音声が流れ込んでくる。
 五感が乱れて、両目がうまく像をむすぶことができない。
 「……ーい。おーい、瀬田~?」
 勝田くんがやや心配そうな面持ちでこちらを伺っていた。
 「ん……? あ……あぁ、ごめんごめん」
 どうやら、しばらくの間フリーズしてしまっていたようだ。
 僕が将棋を止めてしまったことは、友達には言っていない。新聞の将棋大会の記事に、僕の名前が一切出なくなったことに気づくほどの『僕マニア』は両親くらいなものだ。だから、勝田くんが「将棋のことなら瀬田に聞こう」と発想したことは自然だし、僕がそれを無碍にするのは彼に失礼だ。だからひとまず、今日のところは彼の相談に耳を傾けることにした。
 「これは……。初形だね」
 「オヤジが経営会議で新規開拓の妙案を出したらしいんだが、それに対するジジイからの返事がこの図だった……らしいんだが」
 確か、勝田くんの家は総合商社で今は勝田くんの父親が社長を務めていたはずだ。しかし、初代社長であり、現会長のお爺さんが今も実質的な決定権を持っているとかいないとか。
 お爺さんは度々この手の謎かけをして、周囲の人々を試しているらしい。あるいは娯楽の一種なのかもしれない。
 「この図以外には文字も何もなかったそうだ。瀬田って、将棋得意だっただろ? だから、何かピンとくるものがないかなと思ってさ」
 「うーん……」
 正直なところ、これは将棋の実力とかそういったレベルの問題ではない気がしている。それなりに難解な局面だとか、エピソードのある有名な勝負の局面だとかならばまだ推理の取り掛かりがありそうなのだが。
 (初期状態……はじまっていない、とか最初の手を動かせないとか?)
 少し考えてみたが、すぐにはいい答えが出てくるような感覚がなかった。なんというか、直感的に、もっと別の解がありそうな気がするのだ。
 「期限とか、そういうのは?」
 「いや……。まあ、今日明日くらいに出てくればありがたいっちゃありがたいんだが。まあ、一方的な相談だし、何かひらめいたらで全然構わない」
 「うーん。ちょっと考えてはみるけど……」
 「悪いな。じゃあ、ちょっと俺は部活の方に行くんで。何か思いついたら、携帯のほうに連絡よろしく!」
 勝田くんは白い歯をニッと出して、教室を去っていった。なんと爽やかな笑顔だろう。僕も彼のようにイケメンだったら、労せずに女の子にもてるんだろうけどなぁ。
 「って、わああぁぁあ! もうこんな時間か!」
 教室の壁掛け時計を見ると、既にホームルーム終了から20分が経過していた。この出遅れは痛い、痛すぎる……。
 すっかり人もまばらになっている廊下を急ぎ足で駆け抜け、音楽室に近づくが
 ドアには無慈悲にも「本日満員御礼 またきてね~♪」という貼り紙が貼られているではないか。
 (……まあ、まだあと4日ある、し)
 仮入部期間は月曜日から金曜日までの5日間ある。初日はどのみち大混雑で、諸先輩方もてんやわんやで要領が上手くつかめていないことだろう。
 などと都合のいいことを頭に思い浮かべようとしたが、『隣の芝生』というか『すっぱいブドウ』というか、負け惜しみ全開なのは、自分が一番良くわかってる。
 仕方ないので、他の文化部の様子でも見てまわることにした。どうせ、本入部をしてしまったら、その後は見学や体験などをする機会自体がなくなるし、話のモノダネにもなりそうだ。料理研究部とかなら、お菓子をもらえたりするかもしれない。
 廊下の窓から、ふとグラウンドを見下ろすと、勝田くんがジャージ姿で準備運動をしているのが見えた。あの集団は、恐らく陸上部だろう。
 (あれだけ出遅れても参加できるとは羨ましいもんだ)
 陸上部は道具やスペースでそれほど制限を受けないためか、仮入部の定員オーバーというものが基本的に無いらしい。
 陸上部のほかにも、サッカー部や野球部など仮入部した一年生が見渡せた。さすがに、みな地道な筋力トレーニングや声出しなどの『下積み』をさせられているが、憧れの部活に参加している、という状況に目を輝かせている。(勿論、夜のネコのような輝き方はではない)
 さて、ずっと呆けているわけにはいかない。人生は短いのだ。こういう時間はもったいない。僕は廊下を歩き、順々に教室を覗いていった。書道部、演劇部、英語部……。物珍しさは感じるものの、今日一日を費やしてみようという気持ちまで起きるものはなかった。そして、とうとう教室の終端までたどり着く。
 (なんだ、ここは何部だ?)
 教室のドアは開け放たれているが、中からは人の気配が全くしない。恐る恐る覗いてみるが、やはり予想通り人は一人もいなかった。
 (未使用の部室か……? いや、大矢高校は部室が与えられない第二部の部活も多々あるって聞いたことがあるし。たまたま留守? 便利なシモベ……じゃなくてかわいい後輩を獲得するという長重要期間の初日に?)
 気になって、ついふらっと部室の中に足を踏み入れた。広さは教室の半分ほどあるものの、備品はほとんどない。部屋の中央に会議室にあるような長机とパイプ椅子が数脚配置されている。
 部室の中央まで進んだところで、壁に何かが斜めに垂れ下がっているのに気づいた。
 「……なんだか、今日はとってもツイてるな」
 僕が目にしたのは、油性マジックで〈将棋部〉と殴り書きにされた画用紙だった。しかも、ひどい。あまりにもひどい。とても部員勧誘に力を入れているとは言い難いぞんざいな代物だ。
 他の部ではとっくに活動を始めている時間なのに、入部希望の新入生おろか、先輩部員や顧問もいないこの有様。もしかしたら、やっているように見せかけてひっそりと閉店している田舎のロードサイドのラーメン屋のように、既に数年前に廃部してそのまま現在に至っている可能性もあり得る。
 (まあ、そんなもんか。今どき将棋を指すヤツなんてどうかしてる)
 今からめぼしい部活が見つかったとしても時間が微妙だ。かといって、部活に打ち込んでいる一年生がいる中でこのまま帰宅するのは気持ちが進まない。とりあえず、将棋部の関係者が来るまで、できるなら下校時間まではここで時間を潰させてもらうことにした。
 (そうと決まったら……)
 この暑い部屋をどうにかしよう。
 4月上旬とはいえ、今日は日差しがとても強い。日当たりの良い部屋のようで、かつ、窓は全て閉まっているためか、室内はけっこう暑かった。窓際に歩み寄って僕は順々に窓を開けていった。クレセント錠は特に掛かっていなかったので、全ての窓をあっという間に全開にできた。
 今日はそれなりに風があるようで、しばらくすると徐々に部屋の中の熱気が逃げていった。
 (涼しくなったのはいいけど、風が強くて目にホコリが入りそうだな……)
 グラウンド側ではなく、中庭側の部室なので砂はあまり心配なさそうだけど、強い風はあまり好ましくない。
 ふと部屋の隅の方に眼をやると、金属製のロッカーが鎮座しているのに気付く。
 もしやと思い扉を開くと、中には薄い盤と木の駒箱が8組ずつ並べて積まれてあった。
 飴色をした木の盤を一つ抜き取って、観察してみる。決して高級なものではなさそうだが、高校の部活動の備品としてみれば十分で、かなり使い込まれていた感じを受けた。
 駒箱も観察してみることにした。蓋を開けると、中身は木製の駒だった。こちらもかなり年季が入っている代物だ。
 学校の部活動なら、ベニヤ板に桝目をマジックで書いた簡素な盤や、安価なプラスチック駒でも十分だと思うのだが、思った以上に備品がしっかりしたことに驚かされた。さすがそこは大矢高校というべきだろう……。
 (昔は、それなりに賑わっていたんだろうな……)
 手にしていた盤と駒を一組、なんとなしに長机の上に広げてみる。そして、
 
 ――ピシィッッッ
 
 僕は、無意識のうちに駒の中から〈王将〉を選び出し、盤に打ち付けていた。
 楽器とは異質の、それでいて妙に響き渡る澄んだ音。手に伝わってくる反動の感触。どれもずいぶんと久し振りのものだ。
 ただ、相変わらずいい音だとは思ったものの、また将棋をしたいという気持ちは起こらなかった。
 今日ここに寄ったのは、ただの気まぐれで、偶然の重なった結果にすぎないのだ。明日からは、僕は当初の予定通り、軽音楽部の仮入部員になり、音楽に高校時代を捧げることになるだろう。
 などと考えていたのに、指は条件反射のように勝手に駒を摘んで初形を並べきっていた。自分の中にすっかり染み付いていた将棋に呆れを通り越して驚嘆した。
 と、そのとき。教室の脇の廊下を歩く人の気配を感じた。
 (もしや、関係者?)
 だとしたら面倒な話だ。備品を勝手に引っ張り出したりしている以上、将棋に興味がないなどと言っても説得力がなさそうだ。
 少なくとも、初形を並べられる知識はあることが明白だし、流れによってはそのまま一局……などとなりかねない。
 僕の意思は実に堅く、将棋部に入る意志などこれっぽっちもないわけだが、情や賄賂でごり押しされ、仮入部させられるような事態になったら一大事だ。僕のバラ色の高校生活が一気に、退廃と虚無へと変わり果ててしまう。
 「……いるの誰?」
 僕に投げ掛けられた声は、大人の声でも、男の声でもなかった。それに応じる間もなく、声の主が部屋の中に入ってきた。
 (……!?)
 僕のボキャブラリーが貧困であるという言い訳をしつつ、一言で表すならば『美少女』というやつだった。
 背丈は、男子の中では低い方の僕よりも、さらに一回り低いくらい。さらりとしたストレートの髪をポニーテールにしている。
 顔立ちや容姿の整いかたは間違いなく平均以上で、テレビや雑誌に出ている芸能人が大矢高校の制服を着て目の前に現れたといわれても不思議に思わないレベルだ。
 だが一点……その優位を台無しにしかねない程に愛想がなかった。特に、意図的に目を細めたり睨んだりはしていないようだが。これでは惚れるより前に逃げる男の方が多そうだ。
 ただし、僕は不思議とネガティブなイメージを感じなかった。こういうとき、平均以上に色恋沙汰に縁のない僕はあたふたしたり、自ら接点を閉ざしてしまったりしてきたのだがこの瞬間は彼女の視線をしっかりと受け止めきれていた。
 「将棋部の人?」
 投げ掛けられた質問に、ハッとなる。想定外の出来事にすっかり〈長考〉してしまっていたようだ。
 この部屋には、今は僕しかいない。当然、僕に対してされた質問だ。
 「あー、えーと……?」
 視線は平気だったものの、質問については参った。どう言ったものだろう。もちろん部員ではないし、仮入部員になるつもりもない、名実ともに将棋部とは全く関係のない立場だ。
 しかしけれども、「ならばなんでここにいるのか」と聞かれても答えに詰まってしまう。それだけではない。質問の意図からするに、将棋部と関係がない生徒には用はないと判断されるだろう。
 そして、僕の理性は彼女ともう少しだけでいいから何か話をし続けてみたいという欲求を訴えて続けている。
 ぐるぐると再び〈長考〉をしている僕に、予期しない考えが頭に跳び込んできた。そして、気づいたときには僕はそれを言い終えてしまっていた。
 「あ……のさ、そこの窓を閉めてったのはきみ?」
 その後、訪れる静寂。僕がビシッと窓の一つを指差した直後のまま時間だけが流れていく。
 「……っ」
 言ってから後悔する。何で、もっと気の利いた台詞を言うことができないんだろうか……。だから『生存年数=彼女いない歴』の状態絶賛更新中なのだ。
 案の定、彼女は無言でこちらの様子を伺っている。心なしか、視線も鋭さを増したように感じる。変なことをいう奴だと怪しまれただろうか。しかし、事態は思わぬ方向へ転がった。
 「……何でそう考えたの? 教えて」
 特段、責めるような口調ではなかった。そのことにひとまず安堵する。むしろ、僕の言葉に興味を持っているような反応にも思えた。
 ただ、困ったことがある。僕自身が、何でそう考えたのか、それが分からないからだ。分からないけど、頭に跳び込んできたのだ。
 昔からこういうことはよくあった。難しい問題に直面した時など、必ずではないけれど、時折妙なアイディアがふと浮かぶのだ。よく言えば、閃き、というやつかもしれない。僕はそれを勝手に〈跳躍(リープ)〉と呼んでいた。
 そう正直に説明してもよかったかもしれない。しかし、運がいいことに視界の端に斜めに垂れ下がった画用紙が入ったのを機に、一気にその裏づけについての理屈が流れるように浮かんできた。
 「ちょっと待って、分かったかもしれない」
 「分かったかも? って、今?」
 「まあまあ」
 僕は〈将棋部〉と書かれた画用紙の手前まで進み、そのさらに高い部分をじっと観察する。すると、良く見るとそこにはテープの切れ端が壁に残っていた。やはり。
 「多分、この画用紙は元々はあの高さに張られていたんだ。それが、一旦落ちてしまっていた。
  君はそれを張りなおしたんだけど、背丈からして元の高さまでは届かないから結果的に左上だけで留めることになってしまった」
 とはいえ、椅子を使って背伸びをすれば貼れない高さではない。しかし、スカート姿の女子がわざわざそんな真似はしないだろう、と心の中で補足する。
 「画用紙が落ちた理由は、窓から入ってきた風の可能性が高い。元々2点で留まっていたものが1点だけに減ったわけだから、風が吹き込み続けたらまた落ちる可能性は高い。それで窓を閉めたんだ。クレセント錠まで閉めなかったのは、また戻ってくるつもりだったからか部室を開けた人が最終的に下校時間に施錠しにくると考えたから、かな?」
 言い終えた自分の推測を思い返したが、矛盾やこじつけすぎた論理展開は無かったように思える。
 「……」
 彼女は腕を組んで少し考え混んでいる。推測が合っているかどうかは分からなかったが、僕にとってはもうどうでもよいことだ。
 「まぁいいや。ところでさっきの答えは?」
 「えーと、なんだっけ?」
 「将棋部の人なの? 違うの?」
 「うぅ……」
 そういえば、元はそういう話だった。しかし、うまい理由の方は浮かびそうに無かったし、嘘で塗り固めて最後に破綻するよりはと思い、僕は高校以前の過去部分は除いて正直に話すことにした。
 「――というわけで、目当ての軽音楽部が運悪く定員オーバーだったから、せっかくだと思ってぶらぶらと部活見学をしていたんだ。そうしたら、ここが空き部屋みたいになっていたから気まぐれで入って……」
 「気まぐれで盤と駒を出したりするんだ?」
 指差した先には、僕が並べていた駒があった。
 そういえば、彼女、僕が来る前に部屋を訪れていたんだった。
 「結局、部員であろうと無かろうとどっちでも構わないんだけど」
 一体、何を言い出すんだろう?
 いきなり「あたしと付き合ってくれない?」さすがにそれは都合よすぎの早すぎか……。そんな少年漫画のような奇跡的な展開は一切無いことをこの瀬田桂夜自身が一番自覚している。
 不安半分、期待半分でドキドキしていたら。 

 「将棋のルールくらいは知ってるんだよね?」
 (――!)
 この言葉には正直不意を突かれ、そして、絶句してしまった。道を歩いていたプロ野球選手が、「バットの握り方って知ってますか?」と言われたらこんな気持ちになるのだろうか。いくら、僕が元全国3位の実力の持ち主と彼女が知らないとしても、あんまりな物言いである。僕は、どんな表情を浮かべていただろう。
 結局、「あ、ああ一応は」というなんとも即妙当意でない返答を返してしまい、我ながら呆れてしまう。ここで、「こう見えても、実は元全国3位なんだけどね」とかさらっと言えていたら、「わぁ、凄いじゃん!」となって、少しお近づきになるきっかけにできたかもしれないというのに!
 彼女が何を求めているかは知らないが、凡人を求めている雰囲気はない。自分の数少ないアピールポイントを活かして、この子と一気に会話をつなげられるチャンスだったかもしれないのに。
 こういう積み重ねが、彼女いない歴=年齢の最大要因なんだろう、と頭の中が物凄い勢いで負のスパイラルに入りかける。
 「じゃあ、あたしに将棋教えてよ」
 「え!?」
 「だから、しばらくあたしに色々教えて欲しいんだけど」
 「え!?」
 「きみ、驚くの好きだね……」
 急展開、急転直下、青天の霹靂としか言いようがない。彼女がどこまでを求めているかは分からないが、数分で話尽くせるほど将棋は浅いものでもない。必然的に、しばらくは二人で話ができる時間が得られてことになるわけだ。
 頭の中に、和洋折衷の様々な祝詞がこだましている。さっきまでの暗い自分よ、お帰りはそこのドアからどうぞっ。
 僕の反応がなかなか帰ってこないので、彼女は立ち上がり、「イヤなら別に、他の人探すからいいよ。顧問のセンセもできるのかな……」などとてきぱきとアクションを起こそうとする。
 僕は、慌てて「そんなことないよ。任せといて。昔、けっこう本格的にやってた時期もあるし」と言って、引き止める。ちゃっかりと今度はアピールすることもできた。
 「そうなの? じゃ、よろしく」
 そう言って、彼女は再び椅子に腰を下ろした。
 
 *****
 
 「さて、教えるっていっても、色々あるんだけど?」
 教壇に立ち、黒板にさらさらと字を書きながら僕は背後に話しかける。
 
 A:駒の種類、駒の動かし方。
 B:ルール(成り、持ち駒、反則など)
 C:手筋、戦法、囲いなど

 「戦法の『戦』と『囲い』、の書き順が違うね」
 (うっ……結構細かそうな子だ)
 今はただ、ラポール形成に集中すべきだ。
 「AからCでいうと、どこまで分かる?」
 「全部知らないけど」
 (……左様ですか)
 「でも、Cって要するに応用テクでしょ? AとBが分かれば十分かな」
 年頃の女の子が、駒の動かし方も分からない状態から、将棋を覚えたいという動機が非常に気になるが、藪蛇になっても悔やまれる。
 「じゃあ、とりあえずAのところからやろうか」愚直に講座を続けることにした。
 

表_駒の種類

表_駒の種類

 

図_歩の動き

図_歩の動き

図_香の動き

図_香の動き

図_桂の動き

図_桂の動き

図_銀の動き

図_銀の動き

 

図_金の動き

図_金の動き

図_角の動き

図_角の動き

図_馬の動き

図_馬の動き

図_飛の動き

図_飛の動き

図_龍の動き

図_龍の動き

 

 「っと、こんな感じかな。ところで……」
 黒板に文字と図を書きながら、〈桂〉書いているときに、まだ互いに自己紹介をしていないことに気がついた。
 「自己紹介、まだだったよね。ぼ……俺は瀬田桂夜」
 さらさらと黒板の空いているスペースに漢字を書く。
 「あ、ケイってそう書くんだ。なんだかミラクルだね」
 ミラクルと言われ、少し救われた気がした。将棋から離れていた期間、僕は名前がイヤでイヤでしょうがなかった。
 まず、名前に〈桂〉という駒の名前が含まれている。あらゆるものに名前を書く際にそれを見なければならないのは苦痛だった。
 英単語の勉強をしていて、〈桂〉(K)と夜(NIGHT)で騎士(KNIGHT)じゃないか、うわ、カッコいいと思ったのはつかの間。
 騎士(キシ)は棋士(キシ)と同音であることに気づき、随分と凹んだものだ。
 「あたしはオリガミツキ。機織のオリ、年賀状のガ、美しい月でミツキ。苗字は濁点入っていて好きじゃないから、美月って呼んで」
 「あ……えと、俺も似たような感じだから、桂夜で」
 自らの歴史を振り返っても、別に苗字が嫌いだったことはない。しかし、歴史とは都合よく塗り替えられるものなのだ。気になる女の子と名前で呼び合う、これは幸福の極みとしか言いようがない。
 美月は「こうした方が覚えやすいから」と言って携帯端末を構えると、黒板を撮影しようとする。僕は気を遣って黒板から離れようとしたが、
 「ついでに覚えるから」と『瀬田桂夜』の隣に立たされてフレームインさせられてしまう。嬉しいような、恥ずかしいような。
 「じゃあ、実際に最初の状態から動かしてみよう。勝ち負けは二の次で」
 「はいよ」
 美月は左の方にある角行に手を伸ばす。
 (まさか!?)
 そして、角行を持ち上げると、すぐ左上の歩兵の上に「ガチッ」と重ねたではないか。
 初手、9七角――。
 僕は思わず呼吸をするのを数秒忘れた、口をぽかんと開けたままフリーズしてしまった。
 多分、将棋を指し慣れた人たちであれば、一様にみな同じ表情を浮かべるのではないだろうか。もし、将棋ファンを100人唖然とさせることができたら100万円!といった企画があれば、是非使いたいものだ。
 「ねえ、今度はそっちの番でしょ。固まってないで、早くしてよ」
 美月は全く自分の手に不備があるとは思っていないようだ。
 「えーとさ、自分の駒の上に、自分の駒を重ねるのは無しなんだ」
 僕は、初心者の心を傷つけないように言葉を選びながらそのことを伝えようとする。
 「でも、さっきそんな説明してないよね?」
 痛いところを突かれた。確かに、そういう説明は全く言及していなかったが。
 「すまん。確かに言ってはいなかったよ。厳密に言うと、他の駒があるときは、こういう風になる。

図_香の動き(改)

図_香の動き(改)

図_桂の動き(改)

図_桂の動き(改)

図_角の動き(改)

図_角の動き(改)

図_馬の動き(改)

図_馬の動き(改)

図_飛の動き(改)

図_飛の動き(改)

図_龍の動き(改)

図_龍の動き(改)


 「相手の駒はどかしてそこに行くことはできるけど、自分の駒の場合はダメってことでOK?」
 「そういうこと」
 「この桂馬は? 前塞がってても飛び越えられるの?」
 「そうそう。香車も飛車も角も。龍や馬という駒でさえ、間に障害物があるとその先に突き進むことはできないんだけど、
   桂だけはそれがないんだ。こんな風に壁があってもピョンって越えられるんだよ。
 「次元を越える駒ってことね」
 「えっ?」
 「ほら。跳び越えられるんだから、桂だけ動きが三次元」
 なるほど、言われてみれば確かに。他の駒は二次元的な動きなのに対して、桂馬の動きは特殊だ。
 物心付いたときからやっていて『そういうもの』がスタートだったためか、正直「そういう考え方もあるのか」と感心してしまった。
 結局、丁寧に説明を重ねたことで、この件に関してはなんとか納得してもらえたようだ。
 「じゃあ……」
 美月はしぶしぶ、飛車の上にある歩兵を手に取り、ひとつ前に進める。
 恐らく、先ほどの件で角行が少し嫌いになったのだろう、飛車の方ををひいきにするつもりらしい。非常に動機が不純ではあるが。
 (お、なかなか)
 なかなか筋がいい手だ。飛車は強力な駒だ。その駒を活用する上で、〈飛車〉の前にある歩を進めていく手は非常に効率が良いのだ。
 ここは褒めて伸ばしてやるところか、と思ってほめ言葉を考えていたのだが、「この桂ってやつも最初から使えないやつなのか……」などと呟いて桂馬の駒をぐりぐり押している。
 (使えない……ですか)
 ハハハッ。なんだか、自分を貶められているようで、僕、少しカチンときたぞ。
 
 山あり谷ありだったが、その後は順当に進んだ。美月はなかなか学習能力が高く、『成り駒』も含めて駒の動きをあっという間に覚えてしまった。
 相変わらず、表情は無愛想なままだったが、不満はないように見える。
 おさらいにもう一度初形からやろうか、それともルールに移ろうかと思案していると、ドアの方に人影が見えた。
 「おー!? 二人も集まったのかっ!」
 入ってきたのは……1組、つまり僕のクラスの担任だった。
 「あ、もしかして顧問だったんですか!?」
 「いっかっにっもっ」
 もしかして、と言ったのには訳がある。先生の服装だ。紺色の和服に身を包み、手許では扇子をパチパチと鳴らしている。いかにも、「将棋やろうぜ」といった風情だ。
 「扇子まで持ってる。それっぽい感じ……」
 女子に煽てられて気をよくしたのか、先生は「かーっかっかっ」と笑い、「常ー識だよ常識。顧問の扇子で、コモンセンス、なんてな!」などと訳の分からないことを言っている。この先生、とんだコメディアンじゃないか……。
 「将棋は、お強いんですか?」
 僕は思いきって尋ねてみた。繰り返しになるが、大矢高校は部活動に力を入れている。教師としての才能より、部活の顧問をこなせるかどうかが採用の決め手となる、という噂があるくらいだ。
 こんなにふざけておどけていたりするが、元アマチュア名人だとか、物凄い経歴の持ち主である可能性もあるのだ。
 「くく、将棋か……、やったことねぇな! より正確に言うなれば、駒を持ったことも……ねぇ!」
 「はい?」
 「いやあ、和服着るのが好きでさ。和風な部活の顧問になったら、放課後ずっと着ていられるだろう? 茶道部や華道部はさすがに荷が重そうだったから、将棋部を選んだわけさっ」
 そうか~、なるほど~。将棋部荒廃の一端は垣間見れた気がするぞ~。
 まあ、どうせ、一期一会。明日からは僕は軽音楽部に行くのだから、ここは軽く笑って聞き流すことにした。
 (む。一期一会……?)
 ふと考え込む。
 正直、将棋部に入る気は無い。顧問の登場で、その思いはむしろ炭化ジルコニウム程度まで堅くなったと言っていい。
 しかし、将棋部という接点を失うと、この美月との接点もなくなってしまうことに気づく。
 (それはそれで、もったいないよな……)
 ああでもない。こうでもない。将棋の次の一手を考えるように、頭の中で様々な手を読み、最良の解を探す。
 (いや、部活動じゃなくても学校で会えばいいだけじゃないか。連絡先、いや、まずは何組かだけでも分かれば……)
 しかし、「あ。もうこんな時間か。 あたし、ちょっと用事あるから。また明日ね」美月はカバンを肩に下げると、声を掛ける間もなく教室を出て行ってしまった。
 とりあえず、明日の過ごし方については決まってしまったようだ。まあ、仮にあしたも将棋部に来たとして、仮入部期間はまだ3日ある。十分だ。
 美月が出て行ったドアをボーっと眺めながら、そんなことを考えていた。すると、
 「少年っ!」
 「わぁ、なんです?」
 突然、両肩をわっしと掴まれて僕はびくんとなる。目の前には和服姿の顧問。そして。
 「汝、仮入部しちゃいなよ?」と迫ってきた。どこかの事務所社長か。
 「いやです」
 「なんでだよ。少年、将棋詳しそうじゃん」
 黒板の文字と、僕の顔を交互に扇子で指し示しながらそう言う。将棋が詳しいことは否定しないが、それと仮入部は別問題だ。
 「たまたまの、通りすがりの、事故だったんです。第一志望は軽音楽部なんで」
 「なーにー? けいおんだとぅ? あんな発泡スチロールみたいなところの何が良いんだ?」
 「別に、軽量とは関係ないです。あと、将棋部はいやです」
 「音楽なんて、授業でもやってんだろ。あとは通学路で鼻歌でもうたってりゃ、人生の定量分に達するだろうが」
 「音楽にもいろいろ種類があるんです。あと、将棋部はいやです」
 「どうしてもいやか?」
 「どうしてもいやです」
 僕の態度が頑なと見ると、顧問は「むむむ……」と唸って考え込んでしまった。
 そして、はっと何かを思いついたようで、ニヤリとしながらこう言ってきた。
 「よしっ、中間テストの現代国語の点をサービスしちゃる。採点は匙加減だからなぁ。はっはっは」
 「……なに、考えてるんすか! 校長に言いつけますよ!?」
 一瞬、甘い誘惑に乗りそうだったが、軽音楽部への情熱と良心の呵責とで思いとどまる。
 (さて、美月も帰ったし。面倒なことになる前に退散するか)
 僕は、使っていた駒を手際よく元の木箱に収めて、盤と共に元あった場所に戻す。
 横目でちらりと顧問を伺うと、「うああ、部員ゼロからの脱却があ……」とか「超便利なシモベができたと思ったのに……」と頭を抱えて苦悩している。
 カバンを手に取り、「じゃ、俺も帰りますんで」と小声で言って教室を後にしようとするが、先に進まない。はて、と思い振り返ると、顧問がむんずと僕の制服の裾を掴んでいるではないか。
 (まだ、何か取り引きを持ちかけてくるつもりなのか……?)僕が訝っていると、思わぬ方向から攻めてきた。
 「……じゃあ、明日はここは閉める。備品も使わせない」
 「えっ?」
 予想外の攻撃。少なくとも、そんなことをされたら美月との明日の約束が果たせないことは確かだ。
 (それは……やだ、けど)
 というか、そもそも将棋盤と駒は学校の備品であり、顧問の権限濫用ではないか。その点を重点的にアピールするが全く取り合おうとしない。それどころか、勝機ありと見て猛攻を仕掛けてきた。
 「ふっふっふっ。少年よ、あの娘に恋をしておろう? 仮入部くらい、減るもんじゃないし、むしろ、しといちゃいなよ!」
 「うぐっ……」
 「あの娘、かわいかったもんなー。あぁもったいないもったいない。ご縁も本日限りか……ふぅ」
 「っ……」
 「今日限り? やべ……。それ、顧問的にももったいなくね? お、おい、少年! どうしよう……あわわわ」
 「先生がパニくってどうするんすか!」
 仕方なく、僕はカバンの中からシャープペンシルを取り出し、教壇の上にあった仮入部届をさらさらと埋めていく。
 「……おい、偽名じゃなかろうな?」
 「さすがにひどい物言いですよ!」
 ともかく、この場は仮入部でも何でもして離れるのが良策と判断した。
 仮入部届を出さないと、本入部届を出すことはできない。しかし、仮入部届を出したからといって必ず本入部をしなければならないという決まりはない。
 顧問の要望は「仮入部をしてほしい」で僕の要望は「とにかく、明日もこの部屋と備品を使いたい」だ。冷静に考えたところ、両者の希望は両立可能だと気づいたのだ。
 僕が仮入部届を書いているのを満足そうに覗き込んでいる顧問。
 「ほほう。少年の名は瀬田桂夜というのか」
 僕は天を仰いだ。
 「先生、担任でしょ。生徒の顔くらい覚えといてくださいよ……」
 「バッキャローめ。名前なんて覚えられねーよ! 生徒から見たら担任は一人だけど、担任から見たら生徒は30人なんだ! 負け戦だろうよ。しかも、毎年毎年、慣れてきたころにシャッフルしやがって……! というか、未だに芥川龍之介太宰治の見分けがついてない俺さまに高度なテクを要求するな!」
 私立高校は個性的な教師が多いと聞いていたが、少し覚悟が足りなかったと思い知らされた。何故か自省をしていた僕に、顧問が謎の反撃をしてきた。
 「お前こそ、教師に向かって呼び捨てとは聞き捨てならないぞ!」
 「へ?」
 「初日のホームルームの時に自己紹介しただろうが。泉西潮成と!」
 (センセーショナリー? センセイシオナリ……?)
 記憶の糸を手繰り寄せれば、確かに指摘された通りの映像がよみがえる。紛らわしい名前である。センセイとだけ呼ぶと、泉西なのか先生なのか特定というわけだ。
 センセイセンセイと呼べば、一応は泉西先生と解釈できそうなので、これからはそのように意識することにした。
 「失礼しました、泉西先生」
 「ふっ、ダブル呼び捨てとは、良い度胸だなっ! これからも覚悟しておけい」
 あぁ、誰か。僕を助けてください……。

 *****

 さすがにダブル呼び捨ての件は、泉西先生のブラックユーモアだったらしい。書き上げた仮入部届を手渡すと嬉しそうに受け取り、備品の管理場所や教室の鍵のかけ方などを非常に簡潔に説明してくれた。
 そして、泉西先生は仮入部届をくるくる丸めると、舞うように、というか実際に舞いながら教室を出て行った。
 (よし、あの人のことはしばらく忘れよう)
 部活終了時刻まではまだ少し余裕がある。それならば、明日の計画を考えておこうと考えた。
 とりあえず、明日のインフラと機会については整ったが、明後日以降はグレーと言わざるを得ない。泉西先生がいつ気まぐれを起こすか分からないから、明日中に美月とは将棋以外の接点を作るようにしたいところだ。
 (携帯電話の番号とか? メールアドレスとか?)
 色恋沙汰の経験が皆無の自分には、どういう話の流れで聞き出せばいいか見当もつかない。当たって砕けろ、の精神が大事なのだろうか。しかし、砕けちゃいけないだろう、という気もする。
 (それにしても)
 僕はふっと先ほどの出来事を思い出していた。初手9七角。歩兵の上に角行を重ねた時のことだ。
 あの時はただ意表を突かれていたから、深く考えなかったが、言われてみれば角と桂は初形では全く動かせないことに気づく。
 (ん?)

 ――かくとけいは動かせない。
 
 ――けいとかくは動かせない。
 
 ――けい、かくは動かせない。
 
 僕の頭に〈跳躍(リープ)〉が舞い降りた。間もなく、部活終了時刻。僕は携帯端末を手に取り、勝田くんに放課後話したいことがある、とメールを送信した。
 
 *****
 
 「わりぃ、待たせたな!」
 高校の近くにあるファミレスのドリンクバーで3種類目の炭酸ジュースであるバナナソーダを飲み始めた頃、勝田くんは現れた。
 部活の後片付けをしていたのだろう。顔やジャージに少し砂ぼこりがついていた。
 「で、どうだった? 解けたのか?」ストレートに聞いてくる。
 自信がないわけではないが、最適解といった類のものなので「まあ、それなりに」とだけ答えておく。
 僕は、もう一回例の図を携帯端末のディスプレーに表示してもらい、それを二人で覗き込むようにして話を始めた。
 「まず、これは将棋の初形で間違いない。だから、最初は『始まっていない』『始めるのは待て』といったメッセージかと思ったんだ。しかし、それだと将棋以外――例えば、オセロやチェスといったゲームの図面でもよくなってしまう」
 「確かにな」
 「次に、各駒の状況について考えてみたんだ。新規開拓の案、つまり、最初の一手に関するものなんじゃないかなとね」
 僕は、画面の角と桂を指差す。
 「実は、全ての駒のうち、桂と角だけが、最初の一手では絶対に動かせないんだ。言葉遊びっぽいけど、つまり『けい、かくは動かせない』、『計画は動かせない』となるわけ」
 「おおっ!? 確かに、ジジイのセンスに合ってそうな気がする! オヤジに早速連絡しよう」
 その反応に、僕は自説が強化された手ごたえを感じた。
 「ちょっと待って。まだ続きがあるんだ」
 携帯の画面を通話モードに切り替えようと手繰り寄せようとする勝田くんを制して続ける。
 「確かに『計画は動かせない』状態ではあるけど、それは条件付きなんだ。例えば、この角の右上の歩をひとつ前に進めるだけで、桂と角はすぐに動かせるようになる」
  つまり、『歩を進めないかぎり計画は進められない』、逆に言えば、『勇気をもって最初の一歩を踏み出しさえすれば計画は進めていける』ということなんじゃないかな」
 僕は、計画を進めるのが正解という解を提示した。相談を受けたときの感じからして、勝田くんは親父さんの案にゴーサインが出ることを望んでいるように見えたから、喜んでくれると思っていたが。
 「うーむ……」
 勝田くんは渋い顔で考え込んでしまった。
 「まだ気がかりなことが?」
 「あ~、つまりはさ、最初の方も理屈的には間違ってないわけだから、どっちも正解になりえると思えるんだよなぁ……。こっちがどっちを選んでも、ジジイが反対の方を正解だって主張しちまうと絶対に正解になれないっていうか……」
 確かに。そうなのだ。その点は、僕も考えていた。しかし、僕の答えは変わらない。
 「そう。この問題の答えは多分、計画を進める進めないどちらでも回答になりうると思う。
  お父さんがどうしても計画を進めたい、自信があると思うなら、計画を進める方の回答、かつ、お爺さんが正解である必要があるはずだよ。
  お爺さんは、どちらを選ぶかでお父さんの計画に対する自信と情熱が計れると思ったんじゃないかな」
 「なるほどなぁ。とりあえず、家に帰ったらオヤジに提言してみるよ」

 気づけば、自室のベッドの上に仰向けに転がっていた。
 色々なことがあって、色々なことを考え続けていためだろうか。帰宅して、晩飯を食べたはずだが、良く覚えていない。
 勝田くんの件もそうだけど、無事に軽音楽部に仮入部できるのかとか、将棋部(変な顧問含む)のこととか、昼間は授業もあるし、あぁ高校生ってなんて大変なんだ。
 そして、
 「みつき、か」
 僕は呟くと、ふと気になって、普段は全く使われずうっすらとホコリをかぶっていた漢和辞典やら国語辞典やらを引っ張り出してページを手繰る。
 桂という植物があることは小学生のときの課題(生い立ちの記、とかいう名前だったか)でうっすら調べたことはあったが、改めて調べてみると『月の中にあるという高い理想』を表しているらしい。
 月の中といっても、月面のことだろうけれど、都合よく変換すれば、美月の中にある高い理想が桂である、ということか……。
 また、月と桂が両方入る『月桂冠』は古代ギリシアで勝利と栄光のシンボルといわれているようだ。
 (二人がそろえば、勝利と栄光のシンボルになるのか……)
 両方とも、単なるこじつけといわれればそれまでだが、何だかとても運命的なものを勝手に感じてしまった。
 とそのとき「おーい、桂夜いるか?」と僕を呼ぶ声が聞こえた。父だ。
 リビングに行くと、父が夕食を食べているところだった。
 「珍しく、帰るの早かったんだね」
 僕は、テーブルの上に転がっている「瀬田海洋(Seta Kaiyou)」と書かれた社員証を見ながら尋ねる。
 父は中小企業でシステムエンジニアとして働いている。日常的に仕事量が多く、トラブルが発生するとあっというまに終電コースで、夜に会えない日も少なくない。
 「あぁ。今年は、配属したばかりの新人に『素敵な日常』を見せないように、との優しい幹部からのお達しがあったからな」
 「はは……そうなんだ」
 なるほど、当たり前のことだけど、4月は新たに社会人一年生になる人たちもいる。僕もあと7年くらいしたら同じ状況になるんだな。
 「今年は優秀な人が入ってきてくれたの?」
 「能力は問題なさそうだが、リテラシーはまだまだ教育が必要だな。パスワードをそのままディスプレイに貼り付けていたからな。それじゃあ、やりたい放題してくださいと言っているようなもんだ」
 僕は少しどきりとする。僕はパスワードの類を一枚の紙にパスワード一覧としてまとめて管理していたからだ。状況は似たようなものだ。
 「じゃあ、お父さんはどうしてるの?」
 「簡単なものなら、〈自分なりのルール〉を心の中に決めておくのが手早いな。数字なら2つ進めるとか、英字なら1つ戻すとか、数字と英字の間にはパーセントを入れるとか。で変換する前の文字をメモしておく。これだけで随分違う」
 「……なるほどね」
 社会人で評価されるには、学校で教わることだけじゃダメそうだなあ。

 

 小説『Spring in the Spring =跳躍の春=』(2/5)に続く