総村スコアブック

総村悠司(Sohmura Hisashi)の楽曲紹介、小説掲載をしています。

小説『Spring in the Spring =跳躍の春=』(3/5)

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一日は短い 悩むにはもったいないから
今日もベストの自分をイメージして走ろう!

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第三章 『水曜日』

 

 翌朝、僕は始業前に2組の琴羽野さんを訪ねた。なんだか気恥ずかしいので、昨日と同じ別館の廊下にばらばらに移動してから、話を始めることにした。
 「あれから、どうだった?」
 まずは、そこから。既に解決済みであれば、僕の出番は不要だ。
 「全然ダメ。年月日じゃなくて、歩数とか戦場とかでも色々と調べてみたんだけど、歴史研究家じゃないから詳しくもないし……」
 「そもそも、おじいさん、歴史好きだったの?」
 「えっ!? えーと、いやそういうのは、あんまりなかったかなぁ……」
 「あと、暗証番号って、自分で設定できるものなのかな」
 「それはできるみたい。古い金庫だったけど、製造メーカーとか製造型番から調べられて」
 そうすると、縁のない番号に語呂合わせをあてがったりしたわけではなく、自分で覚えやすい番号を設定できたわけだ。
 金庫に貼り付けられた紙は間違いなく暗証番号を意味するだろう。ただ、そのまま番号を張り付けたのでは鍵をしていないのと変わらない。
 自分しか知りえない番号を守り続けるためには、歳を取っても思い出し続けられる〈自分なりのルール〉を持っていたはずだ。
 「おじいさんって、囲碁とか将棋とかやってた?」
 突然投げられた直球の質問に琴羽野さんはかわいそうなくらい狼狽する。
 「えっ? えーと……。確か……将棋はやってた気がする。というか、和室の押し入れに盤と駒と『なかとびぐるまをさしこなす本』っていう本も何冊かあった気がする」
 (それは、佐波九段の『中飛車(なかびしゃ)を差しこなす本』のことだな。……僕も持ってる)
 「ありがとう」
 そうすると、想定した番号の裏付けがかなり高まった。
 将棋でいう天王山とは盤面の中央部分、俗に5五の位と呼ばれる枡目のことを意味している。
 歩数はおそらく、歩いた数のホスウではなく、歩の数――歩兵の駒の数のことだろう。すると、敵味方の双方9枚ずつで合計18枚となる。
 ここまでで、55、18という数が一旦浮かび上がってくる。そして、『戦場の下』。
 将棋で戦場と言えば、将棋盤のことだろう。その下には盤の脚がある。その脚は〈クチナシ〉が象られている。
 昨日、リビングにあるPCで色々と調べてみたところ、クチナシ(サンシシ)は黄疸の症状に効能があるという記述が見つかった。
 琴羽野さんのおじいさんの症状は黄疸のそれとよく似ていた。死因も肝不全だったことを考えると、生前に日常的にサンシシを飲んでいて、暗号に使うことを思いついたという可能性はそれなりに高いように考えたのだ。
 55、18、そしてサンシシ(344)。
 「5518344、もしかしたら、最後の344はクチナシがひっくり返っているから5518443かもしれないけど」
 少なくとも、失敗しても時限爆弾のように爆発することは無いはずだ。
 「早速、試してもらうね」と自宅にいる母親へ通話している様子をドキドキとしながら見守る。高校受験の合格発表が再来したかのように鼓動が高鳴り続けている。
 しばらく、静かな時間が流れる……、そして。
 「――っ! 開いたって!」
 「おぉっ!」
 二人して思わず歓声を上げる。
 速報によると金庫の中には、土地の権利書や株券と一緒に、似顔絵や小物をはじめ、家族がこれまでにおじいさんにプレゼントしたものがぎっしりと大切にしまわれていたようだ。
 家族が大好きだったのだろう、自分の最期を何となく感じて、大切な一日一日を宝物と一緒に宝物の近くで過ごしたかったのだろう。
 「おじいちゃん……」
 琴羽野さんの眼の端に、光るものが見えた。しかし、それは悲しさからは格別した、別の感情から生まれているもののような気がした。
 「瀬田くん、本当にありがとう。今度、きっとお礼するから……」
 純粋にパズルが解けた喜びもうれしかったし、家族のありがたみを再確認させてくれたのもうれしかったけど。
 人からありがとうって言われるのもやっぱり、嬉しいなと思った。
 
 *****
 
 3時間目の英語の授業が終わった。
 高校の授業は、教室移動が面倒だ。中学のときは、これほど頻繁に移動した記憶はない。
 (次は……、また1階に戻るのか)
 午前中からこんなに移動をしていると、弁当の質量に不安を感じる。果たして、十分なエネルギーを補えるだろうか。頼れる炭水化物の塊――コロッケパン――を補充する計画など立てておいたほうがいいかもしれない。
 (うん? なんだこれ?)
 席を立つ前に、机の下を確認すると、見慣れないノートが置いてあるのに気付いた。
 (僕のはここにあるしな……)
 おもて表紙を見ると、〈4組 蒼井妃冨〉とあった。下の名前は難読だけど、苗字はアオイさん、で当確だろう。
 4組なら、1組に戻るルートの途中で寄るとしてもそれほど徒労ではない。ここはひとつ、届けてあげるのが紳士と言うものだろう。
 階段を降り切った後、右手側に4組はある。
 「ちょっと、すみません、蒼井さんって今いますか?」
 教室の入口で、立ち話をしていた女子3人組に話しかける。昨日までに、美月とそれなりに会話を重ねたせいか、思ったよりも自然に会話ができたことに自分自身驚いた。
 「あ、いるよー。呼んでこようか?」
 「いや、そこまでの用事じゃないからいいです。これ、ノートの忘れ物っぽいので。渡してもらえますか?」
 「そういうことね。OK」
 英語ノートを手渡すと、僕は4組を後にした。
 今日は、朝から着実に善行を積んでいる気がする。これは、きっとよいことが起こる予兆なのではあるまいか。

 (なんてこった。まさか、ど真ん中に埋め込んでくるとは……)
 よいことどころか、楽しいはずの昼食の時間は、突然襲ってきた厄災により崩壊した。きっと、かつて大繁栄し、突如理不尽な隕石によって絶滅した恐竜達も似たような感情を抱いたことだろう。
 そう。好物の鶏の唐揚げの中心部に、僕の不倶戴天の敵――ピーマン――が何故か入っていたのだ。
 思い切ってほお張った僕も完全に油断していた。三国志で言えば、勢い良く追撃をかけたものの、銅鑼の音と共に待ち伏せを喰らった負け軍師のようだ。
 咀嚼したものを出すのはさすがに憚られた。思い切って、ペットボトルの緑茶で流し込む。
 (はぁ……。ヒドいめに合った……)
 敵ながら天晴れだったのが、市販の唐揚げそっくりだった点だ。僕がピーマンを拒絶するのに比例して、母の加工技術が飛躍的進歩を遂げているのを感じる。ノーベル食品工学賞がもしあったなら、一躍時の人になれそうだ。
 とはいえ、喉もと過ぎればなんとやら。せめて、胃酸にもまれてもがき苦しんでいる(?)宿敵――ピーマンの悲鳴を夢想しながらうたたねでもしてるか。
 そう思い、机に伏せようとしたが……。
 「瀬田くん、4組の福路くんが呼んでたよ」
 (袋? 復路?)
 うたたねのチャンスはあっさりと失われた。昨日の女子が僕のところにそう告げに来たのだ。このパターンはまさか……。
 廊下に出ると、銀縁メガネをした男子生徒がおずおずとしながら廊下に立っていた。
 「えーっと、君がフクロくん?」
 「ということは、君が噂のセタくんなんだねっ」
 フクロくんはそういう性格なのか、「こういう者です」と言うと、生徒手帳に書かれている名前を名刺のように差し出して自己紹介をしてきた。
 (福路、浩二……ね)
 名前を確認してから見上げると福路くんの表情に、昨日の琴羽野さんと同じものを感じたので、念のため確認してみる。
 「もしかすると、何か相談事だったり……」
 「うおっ。さすが、名探偵だ!」
 これは、うかつだった。自らハードルを高くしてしまう結果となってしまった。
 福路くんは目を輝かせたかと思うと、次の瞬間には神妙な顔つきとなり顎に手をあてながら話し始めた。
 「実は、数日前から彼女の態度が急に冷たくなった気がしてて……。思い当たるふしが全然無くて、八方塞がりなんだ」
 「へ、へぇ……」
 これまで奇跡的に相談事を解決へと導けていた僕だったけれど、恋愛沙汰の問題となると、これは全く力が及ぶ気がしなかった。
 女の子の気持ちなんて、山の天気のようなものだろう。きっと些細なことなんだろうけど、本人にはとても重要で、そんなこと第三者の僕が予想できそうな気がしない。
 さりげなく、当人に聞き込みをするにしても、見ず知らずの女子に近づくのは非常に難易度が高いように思われる。奇跡的に、美月が知り合いで、仲介をしてくれるとかがあれば話は別だけど。
 「ちなみに、その彼女っていうのは、4組のアオイヒトミっていうんだけど。知らないよね……」
 「えっ?」
 「えっ!?」
 僕の反応に、福路くんも驚く不思議な状況になってしまった。
 アオイ、ヒトミ? もしかして。
 「知ってるかも! えーと、ヒトミのヒが女偏に己のヒだったりする?」
 「そうそう! えっ、なんで知ってるの?」
 僕は、さっきの英語ノートの忘れ物の件を簡潔に話した。「納得納得。小中の頃から忘れ物おおい子だったんですよね……」としきりに頷いている。どうやら、人物像は一致したようだ。
 入学式を終えてまだ数日しか経っていない段階で、「彼女の態度が冷たくなった」という関係とのことだから、ある程度予想はできていたが、そういうことだったか。
 (それなら、もしかしたら少し取っ掛かりがある……かな)
 依然として不安感は拭いきれないが、ここで無下に相談を拒否するのも憚られた。高校生活は始まったばかりなのだ。仮に解決できなくても僕に損はないし、もし解決できたらできたできっとプラス評価となるだろう。
 「うーん、じゃあちょっと調べてみるから」
 「本当かい!? それはとても助かるよ」
 「まあ、でも。あんまり、期待しすぎないでね」
 保険をかけておこうと思って被せようとしたセリフをを聞き終わるよりも早く、福路くんは足取り軽く立ち去ってしまった。
 どうやら彼氏の方もけっこう早とちりしそうなタイプみたいだなぁ。

 高校生としての任務から解放され、放課後になった。
 慣れた足取りで将棋部の部室に向かい、手際よく、盤と駒を準備する。
 春のうららかな日差しを浴びながら、美月はまだだろうか、と思いを馳せる。

 って。

 良く考えたら、仮入部期間は既に三日目に突入してしまっている。美月へのレクチャーはそれなりに充実した時間であることは否定しないが、それは平日の放課後である必要は無い。今日こそ、なんとか別のつながりを作って軽音楽部で音楽活動をスタートせねば。
 僕は、駒を並べ始める。美月が来たら、いきなりレクチャーに入ってしまう作戦だ。余計な時間は極力カットだ。
 ところが、駒自体は初形に並べられたものの、妙にしっくりこない。
 もしやと思い、8つある駒箱とその中に入っている駒を改めると、どうやら何種類かの駒がごちゃまぜになっているようだ。
 将棋の駒にも、材質や書体など様々ある。単純に使うだけならば役目として問題はないけれど、なんだかこうすっきりとしない感じだ。
 あれこれ見比べながら、盤に広げた1組とその他7組を照合していく。
 (あぁ、何やってんだろう。こんな状態で美月が来てしまったら、作戦台無しじゃないか……!)
 噂をすればなんとやら、幸いにもちょうどすべてが終えたくらいに美月は部室に現れた。
 「あ、今日はもう並んでる」
 「ん、ああ。ちょっと時間があったから」
 (はー、作戦無事成功……。ってもう疲れてどうするんだよ)
 そう思ったのもつかの間。
 椅子に座って盤面を見回した美月はぽつりと一言「あれ? いつもと違う」などと不思議なことを言う。
 「え? 違くないよ。いつもどおりだよ」
 人生でこれまで、何度、この初形を並べてきただろうか。間違えるなどと言うことは断じてありえない。それだけに、僕も少しムキになって反論した。しかし美月も譲らない。
 「ねえ、大丈夫? 駒だよ駒。〈王将〉じゃなくて、〈玉将〉になってる。」
 「はい?」
 そう言われて、やっと僕も気づいた。確かに、美月の方だけ〈玉将〉と書かれた駒が並んでいたのだ。
 しかし、それは。
 「ああ、それはそれでいいんだ。欠陥じゃないよ」
 「……?」
 美月は、眉根を寄せて「訳が分からない」といった表情を浮かべている。
 美月のように、知らない人は知らないし、僕のように、知っている人は当然知っている事実。
 将棋の駒には、〈王将〉と〈玉将〉の二種類が存在する。通常の駒のセットならば、一つずつ入っている。
 〈王将〉という言葉の方が圧倒的に耳馴染みがあるだけに、玉将という言葉自体「王将の間違いでは?」という考え方は確かに自然かもしれない。
 しかし歴史的にみると、むしろ初期の将棋では〈玉将〉しかなかったとさえ言われている。現存する最古の駒には玉将は3枚含まれていたが、〈王将〉は一切含まれていなかったという事実もある。
 元々、将棋の駒は『お宝』を現していたようだ。〈金将〉〈銀将〉は言わずもがなゴールドとシルバー、桂馬は肉桂(シナモン)、香車は香木といった具合だ。
 この流れでいえば、〈玉将〉の玉は宝玉のことだ、と言う説を聞いてしまうと〈王将〉より〈玉将〉のほうがしっくりする気さえする。
 その後、時代が進むにつれて、王と玉の字が似ていること、三国志にも登場する『天に二日なく、地に二王なし』――王は二人もいらない――、といった趣向と交じり合い、いつの間にか〈玉将〉と〈王将〉を1枚ずつ使うようになったと言われている。
 さっき、8組の駒箱を再整理し終えたけど、昨日までは〈王将〉と〈玉将〉の組合せがごちゃ混ぜで使っていたのだろう。
 といった内容を僕は淀みなく話す。
 が。
 ……美月さん、目付きが鋭いままなんですけど。
 「そんな説明、今まではなかったよね?」
 将棋を指している人間にとっては、『どっちでもいい』ことだ。
 しかし、この将棋初心者にはそれは通じなかった。元々、猛禽類のように鋭い美月の目線は今にも襲い掛かってきそうに見え、僕は思わず視線をそらす。
 ここは一つ、怒りの矛先をそらすために、架空の叔父さんに登場いただくことにした。
 「まあまあ、落ち着いて。親戚に『大』きいに『志』でタイシっていう名前の叔父さんがいて、しょっちゅう漢字を『太』いに『志』ってに間違えられたり、ヒロシって呼ばれたりしてるんだけど、『どっちもそんなに変わらんしな』ってぜんぜん気にしていないんだ。確かに、」
 「……」
 が。
 ……美月さん、目付きがもっと鋭くなってるんですけど。
 「……デコピン」
 「はい?」
 「デコピン1発で勘弁したげる」
 ……どうやら、判決が下されたようだ。まあでも僥倖だろう。デコピン一つでこの局面が打開できるならありがたい。表面上は「しょうがないな」という表情を作っている僕の顔に、美月の指が伸びてきて――。
 
 ビシィッッッッ……!!
 
 「っ痛あっ!!」
 額に、衝撃が走る。なんてパワーだ。とても年頃の女子のものとは思えない。骨伝導のせいなのか、凄い音がした気がする。脳に悪影響が出なかっただろうかと不安になる。
 昔から、将棋盤に遠慮なくビシバシ駒を叩きつけていたが、その報いが今まさにまとめてやってたとでもいうのか……。
 その衝撃を受けて、身体のバランスを崩し、椅子ごと後ろに倒れこんだ。そして、黒板の下の壁に身体がぶつかり、その衝撃でちょうど上にあった黒板消しが頭の上に落下してくる。
 僕は額の苦悶、チョークの粉でむせてしまう。なんとも情けない姿だ。しかし、悲劇はそれで終わらなかった。
 鼻がむずむずする。
 (やばっ、よりによってこんなときに……!)
 僕の願いも空しく、それは起こる。
 「――っぐわあっくしょおおおぉい!!!!」
 豪傑の咆哮のような爆音と、対比的に訪れる静寂。
 人に言えない恥ずかしい秘密の上位に位置する”見かけによらず、くしゃみが派手”が、知られたくな人物に知られてしまったのであった。
 「……っ。ははっ」
 見上げた美月の顔は、年相応の女子の顔で笑っていた……。左頬には笑窪も見える。
 (……なんだよ、フツーに笑えるんじゃん)
 そして、その笑顔を見て反則的に可愛いと感じる。瀬田桂夜は織賀美月に惚れているのだ、と何故か冷静に感じてしまった。思わず、額の痛みや恥ずかしさも忘れてその笑顔をまじまじと見つめてしまった。
 しかし、それは刹那の出来事だった。
 苦しんでいるはずの僕が急におとなしくなり、美月も、自分が無意識のうちに笑顔になっていたことに気づいたようだ。顔はいつもの無表情なものに戻っていた。
 「……見た?」
 「えっ?」
 「笑ってるとこ、見たでしょ」
 「え、あ、まあ……見たといえば見た……けど」
 すると、美月はカバンを手にして、すっと立ち上がる。
 「あたし、笑窪って嫌いなの。人に見られるのがヤなの」
 (もしかして、いつも無表情なのって……)
 そういう理由なのか? だとすれば、それはどれだけもったいないことか。
 しかし、笑窪のできる人には、できる人なりの悩みがあるのかもしれない。笑窪のできない僕に、そういう人達に向かって単純に「笑窪万歳」と礼賛する権利はないのだろう。
 表情こそ変わらないが、美月の眼と声には普段以上の力強さがあった。つまり、美月にとってそれは重要な事柄だというなによりの証拠だ。僕は圧倒されて、沈黙してしまう。
 そもそも、僕だってさっきのくしゃみだけでなく、高校の同級生には大っぴらにしたくないことがいくつかあるのだ。
 僅かな沈黙の時間のあと、「今日はもう帰る」そう言って、美月はすたすたと教室を出て行ってしまった。
 引き止めるのは無理だったにしても、せめて「そんなことないよ」という気落ちだけでもなんとか伝えておけなかったものだろうか。それだけが悔やまれた。
 しかし、一つ救いがあるとするならば。
 美月は「今日『は』帰る」と言っていた。それは、明日も来る、ということの裏返しではないだろうか。それは、都合のよい考えだろうか。
 結局、今日の二つの計画はあえなく両方とも完遂することができなかった。せめて、首の皮一枚繋がっていればと願うばかりだ。
 さて、美月が去ってしまった今、この部屋にいる理由は全く無い。手早く撤収しないと、ヤツが姿を現すおそれがある。
 「ハロー!!」
 (間に合わなかったか!)
 こういう時ばかり直感が優れているのも空しいものだ。現れた泉西先生を見て、僕は小さくため息をつく。
 「少ね……いや、瀬田よ。今、例の可愛い女子生徒がスカートを翻して走り去っていったが、痴情のもつれか? ……痴情? お前、ここは学校だぞ! 聖職者として断固許さん! お前の通知表の現国を史上初のマイナス値にしてやろうか?」
 「はいはい……、聖職者の泉西先生は、常にまず落ち着いてください……」
 「ふー……、ふー……」
 僕は、興奮した泉西先生にでもわかりやすいように、噛み砕いて先程の出来事を話してみた。
 「なるほどな。国語教師の立場からすると、テストだったらペケだな。」
 「ペケ、ですか」
 「まあ、男としての立場なら『どーでもいい』だがな。相手は女子だぞ。別種族だぞ。点があるとかないとか、そういう細かいの気にするんじゃね?」
 泉西先生はどうやらナイスアドバイスができたと満足したのか、美月が不在となったからか、それだけ言うと大人しく教室を出て行ってしまった。
 (僕に絡んでくるやつは、どうしてこんなにマイペースなのばっかりなんだろう……)
 なんだか、高校生のうちにストレスで毛が抜け始めるんじゃないかと不安がこみ上げてきた。ただでさえ、父の頭頂部が最近危なくなってきている今日この頃だというのに。
 誰もいなくなり、すっかり静かになった教室の中で僕は一人片づけを始めた。駒と盤をしまい、ドアの施錠をする。カチリという金属音がした時、不意にさっきの泉西先生の言葉が浮かび上がってきた。
 
 ――点があるとかないとか――
 
 ――細かいの気にする――
 
 そして。
 今度は、自分の頭の中にもでカチリという音が聞こえた気がした。

 僕は科学部の部室を尋ねていた。入口から福路くんの姿を伺っていると、白衣を着た福路くんはこちらに気づいたようで、先輩に一言二言断ってからこちらにやってきた。
 「瀬田くん、もしかして?」
 「うん、なんとなく分かった気がする」
 「えっ、本当に!?」
 福路くんは実のところ、それほど期待はしていなかったのかもしれない。驚き具合からそう思えてしまうが、それは些事だ。まあ気にしないこととする。
 僕は、鞄からルーズリーフを一枚取り出して、「ここにさ、蒼井さんの名前、フルネームで書いてもらえる?」とペンを渡して促した。
 「? そのくらい、なんてことはないけど……」
 福路くんは不思議そうにしながらも、一文字ずつ字を書いていく。
 
 蒼 井 妃 富
 
 「音は簡単なんだけど、字が結構難しいんですよね……。さすがにもう書けるようになりましたが」
 福路くんはペンとルーズリーフをこちらに返しながらそう言う。
 ルーズリーフを受け取った僕は確信する。やはり、これが原因な気がする、と。
 「ありがとう。でね、言いづらいんだけど……」
 「?」
 僕は、福路くんの文字の隣に一つ字を書いて、続けた。
 「名前の漢字、間違ってると思うんだ……」
 「えぇ!?」
 福路くんは本気で驚いたようで、ルーズリーフをひったくると自分の文字と僕の文字をまじまじと見比べる。
 「点が……、無いっ!?」
 「実は先日、蒼井さんの名前を見る機会があったんだけど、トミは上の点が漢字の方だったんだ」
 『富』と『冨』、どちらも『トミ』と読み、形もほとんど同じで非常に紛らわしい。
 福路くんは「まさか、こんなワナが仕掛けられていたとは……。ということは、中学のときから間違えていたのか……」と呟き、わなないている。
 彼自身が言ったように、蒼井さんの名前は音の方は非常にシンプルで間違えようが無い。しかし、文字の方はなかなか手強かったのだ。
 『蒼』や『妃』という文字は日常生活ではなかなか目にする機会がない文字で少し珍しい。さらに、これを「間違えないように……」と強く意識すると、相対的に『冨』の方が疎かになってしまったのだろう。
 これが、王と玉のようにせめて読み方も異なっていれば、今回の悲劇は生まれなかったのだろうけど。
 「なんとか、仲直りする方法も考えないとだなぁ。……そうだ! 親戚で『富』の字が入る叔父さんがいて、間違えてしまったんだ……、とかどうでしょう」
 「うん。経験者の意見を述べさせてもらうなら、素直に謝った方がベストかな」
 僕は、額の赤くなったデコピン跡地を指差してアドバイスした。

 振り返ってみると、今日も色々と山あり谷ありな一日だった。
 琴羽野さんの依頼解決から始まり、ピーマン事変、美月のデコピンおよび笑顔、そして福路くんの依頼解決、と。
 家に帰り、ドアを開けると、玄関にまで美味しそうなあの匂いが充満していた。
 (カレーか!)
 カレーは僕の大好物である。365日カレーでも構わない。来世はインド人になるつもりでいるから、地理の授業中の度に、地図帳でインドの都市名をインプットことにしている。
 台所に入ると、匂いはますます強くなる。僕レベルになると、この段階で今日はチキンカレーで具にジャガイモと玉ネギとほうれん草が入っていることまでお見通しだ。
 僕は弁当箱を夕飯の支度に勤しんでいる母に手渡した。母は僕の弁当箱が空になっているのを確認すると、小さくガッツポーズを取っていた。
 (くっ……。明日は勝つ!)
 妙に挑戦心を煽られてしまう。母も、なんだか当初の目的を忘れて、純粋にバトルを楽しんでいるように思えてきた。

 

 小説『Spring in the Spring =跳躍の春=』(4/5)に続く