総村スコアブック

総村悠司(Sohmura Hisashi)の楽曲紹介、小説掲載をしています。また、作曲家・佐藤英敏さんの曲紹介も行っております。ご意見ご感想などはsohmura@gmail.comまで。

小説『Spring in the Spring =跳躍の春=』(4/5)

 *****

 負ければ悔しくて、もう一局。
 勝てればうれしくて、もう一局。
 それがこのゲームの怖くて素晴らしいところ。

 *****

 

第四章 『木曜日』

 

 翌朝のホームルーム前、福路くんが1組を尋ねてきた。
 「昨日は本当に助かったよ。あの後、『字間違えててごめん……』って謝ったら、ちゃんと許してもらえて」
 額を指差して、「穏便にね」と付け加える。
 左様ですか。そいつは、めでたいことで……。
 「あ、そうだ。もし知っていたらでいいんだけど……」
 確か、福路くんは僕と別の中学出身だ。そこで、念のため聞いてみたいことがあった。
 「『織賀美月』って女子生徒、知ってる?」
 「え? あの可愛い一年女子ですよね。運動神経も頭も抜群、才色兼備の天才ってところですけど、あんまりに無表情だから何考えているか分からず絡みづらいという評判ですが。それがどうかしました?」
 「ああ、いや、なんでもないよ」
 「入学早々、告白仕掛けて玉砕して、人目をはばからず涙を流した男子生徒が数名いるとかいないとか。残念ながら、〈ラフテイカー(笑顔受取人)〉が来てくれる年齢でもないのですしね」
 「ラフ……テイカー? 南の方の食べ物……だったっけ?」
 「それは、ラフテーです! 噂はご存じないですか。
  孤独に泣いている子供のすぐ傍にすうっと現われて、笑顔にさせてしまうすごいヤツなんですが、その正体というのが……」
 そのとき、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り響き、僕と福路くんは慌ててそれぞれの教室へ戻ることとなった。
 話も脱線指定しまい、結局のところ持ち得ている情報以上の収穫は得られなかったのだった。

 *****

 朝の福路くんとの会話以来、僕は授業中を含めて一日中考え続けていた。
 美月が、なぜ将棋部に足を運び続けているのかということをだ。
 ここ数日、レクチャーを通してみた感想は『天才』だった。福路くんも評していたがそれに異論はない。
 一見、整った容姿の方に注目してしまいそうだが、異質なのはその処理能力だったのだ。
 一度理解したことをすぐに自分のものとして、正確無比に扱う。まるで、プログラムやコンピュータのようだ。
 そこで浮かぶのは、棋界を騒がせている冷谷山三冠のことだった。
 25歳でプロとなって以来、現在進行形で将棋界の記録を更新し続けている30歳の男だ。
 同業のプロ棋士からも「なぜプロ棋士になったのか」「他の分野であればもっと別の偉業を成していたのでは」と言わしめる天才だ。
 「天才は異質なものだ」冷谷山本人は何かのインタビューでそう言っていたそうだ。
 異質――つまり、凡人には天才は理解できない、ということならばそれ以上の探求は不可能ということになる。
 (結局は、考えるだけ無駄なのかな)
 僕はシャープペンシルを指先でクルクルと回しながら、5時間目の授業の終業時刻の到来を待ち望んでいた。

 そしていよいよ放課後。緊張しつつ部屋で待つと、美月は現れてくれた。そして、こちらが声を上げるより早く、
 「今日は、ちょっと付き合ってほしいところがあるんだ」
 と切り出してきた。口調は昨日の『笑窪事件』以前のものと変わりがない。しこりが残らなかったことにひとまず安堵しつつ、「付き合ってほしい」という言葉につい敏感に反応してしまう。さすがに、デートの誘い……というわけでもなさそうだが。
 「別にいいけど?」
 そっけない感じを装っているが、心臓は高鳴ってきている。
 「それなら、片付け片付け」
 美月に促され、将棋盤と駒を片付けて、校舎を後にした。
 向かった先は、駅の近くの繁華街だ。この辺りは、飲食店や本屋など様々な商店が立ち並んでいる。
 美月はそのうち、〈哲笠ビル〉と銘打たれている建物の前で立ちどまる。1階が喫茶店になっているようだ。
 (喫茶店で何か食べたいものがあるとか?)
 男と二人じゃないと食べられないものとは、果たしてなんだろうか。牛丼とか、串揚げみたいなゴツい食べ物ならありえるかもしれないが、喫茶店のメニューにそういう類のものなんかあるだろうか。
 二人分の量の甘味を食べたいが、一人で注文すると人目が気になるから、僕に一旦注文させようとでも言うことだったりして。
 しかし、僕の予想をあざ笑うように、美月は1階の喫茶店には入らず、近くにあったエレベータで5階のボタンを押して待っている。
 5階のプレートには〈(株)レンタルルームサービス〉なる文字が書いてある。なんとも分かり易い会社である。
 貸し部屋でいったい何をするつもりか、という問いの答えは一切見当がついていない。
 エレベータを降り、居室の中をなおも進むと〈Cルーム〉と書かれたドアが見えてくる。その前で美月は立ち止まり、「ここ」と指さして待っている。
 ドアに何か張り紙があるわけでもなく、鉄の扉の先は見えない状況だ。全く想像がつかない。
 しかし、ここで突っ立っているわけにもいかない。
 僕は意を決して、ドアを開いた。

 *****

 ドアを開くと、椅子に白髪の人物が座っているのが見えた。入口に立っている僕に声が掛けられる。
 「ようこそ。どうぞ、こちらに……」
 前髪を垂らし、サングラスを掛けているが、肌の具合やその声から同い年くらいであることが分かった。
 白髪に見えたが、髪はブリーチしているのだろうか。白髪と銀髪の違いは僕にはよくわからない。
 一歩一歩近づく。
 すると、口許の印象や、彼の手前に置かれているものがよく見えてきたことで僕の推理は100%に到達する。
 「お前……江辻か?」
 「ごぶさたしていますね。瀬田くん」
 満足気な声で江辻が応じる。後ろを振り返ると、美月が相変らず無表情な顔で立っている。
 「謀ったのか?」などと失礼なことは聞かない。僕が自分の意思で付いて来たことに違いはないのだから。
 ただ、これだけは確認しておきたかった。
 「美月、君に何のメリットがあったんだ?」
 江辻と美月の間にどんな関係があるのか。恋人同士だというならば、瀬田桂夜としては残念だけど、まあ妥当な理由と言える。
 ただ、脅迫されているような事実があったなら、それは見過ごすことはできない。
 「今は、言えない」
 数日の付き合いではあったが、美月のことは少しは分かってきているつもりだ。
 『言えない』のではなく『今は言えない』理由なら、まだ今の自分を納得させられる。
 数日間を含めて要するに、江辻は美月を通して、僕を呼び寄せた。そういうことだ。
 美月が僕に近づいたのも、僕と親しくなり、事を進めやすくするためだった、ということだろう。
 「事情はだいたい分かった」
 僕は、江辻の前に置かれている将棋盤を指差して言う。「要するに、きみとそれをすればいいんだろ?」
 人質がいるわけでもない、褒賞金が出るわけでもない、僕にはメリットがない話だ。それは理解している。
 しかし、ここで去れば江辻は確実に不完全燃焼だろう。江辻がそうなれば、美月も恐らくは十分な報酬を得ることはできないだろう。
 そして、そんな状況を生んだ張本人という後味の悪さが、僕には残る。
 だから。
 早く江辻を満足させて、こんな不快な状況から脱するに限る。
 部屋の奥に進み、将棋盤が近づくにつれ、駒の並びは初形ではなく差しかけのものだと分かった。
 そして気付く。
 「これは……っ」
 何度も夢で見た。うなされたこともある。最近は、やっと見なくなったというのに。
 見覚えがある局面。いや、むしろ忘れようがない局面。

 *****

 小学生の時、僕は将棋少年だった。将棋の駒などはいつもポケットに入れて持ち歩いており、近所では「ビスケットと駒を間違えているのでは?」という噂が立ったとか立たなかったとか。
 ルールは父から教わった。勝敗によって、おやつの量が増減するという仕組みが僕の心を熱くした。半年で父と同レベルまで成長し、一年後には父では相手にならなくなって、隣町の道場にも通うようになった。
 世の中は広い。通いはじめの頃は、負けることの方がずっと多かった。
 それでも、子供特有の才能が伸びる時期に合致したのか、将棋というゲームとの相性が良かったのか、僕は物凄い勢いで強くなっていった。
 地元の同世代ではもう勝てる者がいなくなった小学6年生のころ、全国の将棋大会に出場した。
 さすがに、全国の猛者が集まるだけあって、一筋縄ではいかない戦いばかりだったが、それでも予選を全勝で突破し、ベスト4までトーナメントを勝ち上がった。
 (この分なら、優勝できそうだ……)
 あと2勝で全国一の座が見えてきた。
 心に慢心があったかと言われれば、否定はできない。しかし、そうでなかったとしても。奴は強かった。
 名前は、確か江辻隆太といった。
 勝負自体は、序盤から中盤までほぼ互角だった。
 しかし、終盤になり、僕の方が僅差で有利になってきた。
 そして、長手順ではあるが相手の王将に詰みがありそうだと気付く。が、分岐が多く、非常に難解な手順だ。
 詰めに行くときは、多くの駒を相手に渡すことになる。仮に読み間違いで詰まなかったとしたら、逆にこちらが負けとなる。ボクシングで大振りのストレートを放つようなもので、空振りしたら手痛いストレートをお見舞いされることになるわけだ。
 より安全な手も勿論ある。しかし、この江辻という少年も強い。もしかしたら、一手緩めた瞬間にこちらが詰まされるおそれもありえた。
 さらに、大熱戦だということでギャラリーも一層増えてくる。踏み込むべきか、安全にいくべきか……。どっちが正解なのか……。
 ようやく、自分の中で方針を決めたその時。大きな落とし穴が待ち受けていたのだ。

 気づいたのはギャラリーを含めた、悲鳴のような脱力したような大きなざわめき声だった。
 将棋大会の対局中にそんな大声が巻き起こるとは不自然だ。誰か人でも倒れたのか、まさか目の前の江辻少年が?
 そう思い正面を向くと、彼の視線は将棋盤の外に向けられているのに気づいた。その先にあるのは、アナログ式のチェスクロックだった。赤い板が垂れ下がって揺れているのは、僕が時間切れで負けたことを意味していた。
 「あ……」
 一瞬、頭が真っ白になった。読みに集中していて、すっかり失念していた。
 ギャラリーは「あぁ……」という声を漏らしながら、一人二人と散っていく。
 あとには、放心状態の僕が残された。
 その当時、デジタル式のチェスクロックを子供の大会で使うことは珍しく、持ち時間を使い切ったら即負けというシビアな世界だった。
 迷わず指し続けていたら勝てていたはず、何であんなに慎重になりすぎてしまったんだ。自責の言葉ばかりが頭に浮かんでくる。
 結局、大会はその江辻が優勝した。それでも僕は3位決定戦を勝ち、記録上では3位の銅賞で終えることはできた。
 全国3位は、傍から見たらそれでも立派な成績だったのではないかと今でこそ思う。
 ただ、小学生にしてみたら、銅の色は、金色の輝きに比べたら随分とくすんだ色という印象でしかなかった。
 テストの点数が振るわなかった時も、リレーで抜き去られた時も、『自分には将棋がある。将棋なら、誰にも負けない』といった心の支柱があったから、今までやってこれていた。それがその日揺らいで、そして一気に折れてしまったのだ。その日以来、僕は駒と盤を部屋の奥底にしまい、本やテレビをはじめとするありとあらゆる将棋に関連するコンテンツから遠ざかった。

 (将棋なんて、ただのボードゲームだ)
 (そのうち、必勝法がいくつか確立されて、それを暗記するだけのゲームになってしまうんだ)
 (将棋は捨てる。将棋から離れる。将棋なんか……将棋なんか……)
 
 大会終了後、数日の間は両親も慰めや3位という実績の礼賛をしてくれていたが、僕の〈将棋断ち〉が本気であることを感じ取ったのか、その後は家庭の話題に上がることはなくなった。
 中学に入ると、当時はやっていた漫画の影響で、テニス部に入部した。練習もきつかったし、結局レギュラーになれなかったりと活躍はできなかったけれど、まあそれなりに充実した日々は過ごせた。
 なにより、将棋無しでもそれなりに楽しい学生生活を過ごせたことが新たな心の支えになりつつあった。
 (自分は、将棋だけじゃない。なんだって、やろうと思えばそれなりにできるんだ!)
 そうして、自分の中にあった将棋の存在にそっと埃をかぶせて行った。

 *****

 「どうしても、あの時の続きがしたくてね」
 「……」
 僕が江辻に時間切れで負けた、あの準決勝の対局のものだった。
 「いい性格になったんだな。おかげで、またしばらく悪夢には困らなさそうだよ」
 「あなたの手番からです。今日は持ち時間は無制限で」
 無制限と来たか。つまり、時間でなくて双方の実力のみであの試合の勝敗を確定させたいということだろう。
 江辻は完璧主義者だ。一局しか指していないが、将棋を通してそれは理解した。無駄駒を作らず、全ての駒が何かの役割を持つように動かすその指し手がそれを物語っていた。
 「……OK」
 僕は引き受けた。負けたところで、失うものは特にない。ただし、たとえ勝ったところで、得るものもない。僕にとって、将棋は既に心の支えではない。なにものでもないから。
 そしてこの局面で、指すべき方針も、指す手順もは既に3年前に決断していた。今はそれを再生するだけだ。ゆえに、持ち時間など、必要ない。
 
 ――パチッ………
 僕が攻める。
 「一つ、勘違いしないでほしい」
 美月が後方から話しかけてくる。通常、対局中に話掛けてくるのはマナー違反ではあるが、どういったことを話してくるか興味があったので、制したりはしなかった。
 
 ――スッ………
 江辻が金将を横にスライドさせて受ける。
 「依頼には条件があった」
 
 ――ピシッ………
 江辻の桂馬を銀将で取り、攻める。
 「『もし、ケーヤが将棋をやめていたら連れてこなくていい』って」
 
 ――カチチッ………
 江辻が銀将を取る。その手は僅かに覚束ない。
 「でも、ケーヤは将棋部に居た」
 
 ――ビシッ………
 盤の隅でくすぶっていた角行を中央に展開し、王手を掛ける。
 「将棋部で駒をいじってた」
 
 ――パチリッ………
 江辻が王将を真下に逃がす。王将は升目から僅かにはみ出ていた。
 「あたしに教えてるときも辛そうに見えなかった」
 (それは……。美月だったからだよ……)僕は心の中で呟く。
 
 ――ピシッ………
 持ち駒の歩兵を打ち、攻める。
 「念のため、3日間様子をみたけど」
 
 ――カチッ………
 江辻が王将を左下に逃がす。その際に僅かに左隣の香車に触れて、香車が斜めになった。
 「ケーヤの中で将棋はなくなってなかった」
 (美月からは、そう見えていたのか)
 当人のことは、当人にしか分からないことがほとんどだろう。しかし、当人だからこそ見えていないこともあるのかもしれない。鏡とか、写真とか、そういったものを使わないと、そもそも人間というものはは自分自身の顔さえ知ることができないのだ。
 美月で言えば『笑顔の魅力』だろう。僕はそう感じていた。
 僕で言えば、それは『将棋への想い』なのだろうか……。
 
 ――ピシッ………!
 ひときわ大きい音で持ち駒の銀将を打つ。後は簡単な追い詰めだ。江辻ほどの実力者なら既に理解しているだろう。
 勝敗は決したのだ。あの時の自分の読みが正しかったことが、3年の歳月を経て証明できた。
 「だから、今日、来てもらったの」
 美月の贖罪ともとれる話もちょうど終わったようだ。
 
 「……負けました」
 江辻が持ち駒に手を被せながら、頭を垂れる。それを見て、僕は静かに拳を握り締めた。
 しかし、勝利に喜んだわけではなかった。頭の中にあるのはもっと別のことだ。僕は、対局中に浮かんできた疑念を確信に変えるために問いただす。
 「……どうして、投了? そっちは詰まないけど?」
 僕が発した言葉に、江辻は虚を突かれたようだ。
 「持ち駒の桂馬でピッタリ詰むでしょう。簡単な手順です」
 (そうだ。確かに、桂馬があれば詰むけどな)
 「きみこそ、何を言っているんだ? 持ち駒に桂馬など持っていないけど?」
 僕の不意打ちに、江辻ははじめて動揺した様子を見せた。
 「7手前に、こちらの銀将と交換したでしょう」
 「どうだったかな、したかもしれない。でも、その桂馬は『物理的に、今、どこにある』んだ?」
 僕は両手を広げて肩をすくめてみせる。
 江辻は言葉に詰まった。その様子を見て僕は確信した。
 「なぁ、江辻。両眼、どうしちゃったんだよ……」
 僕は、広げていた右の掌から桂馬を駒台の上に転がした。カランという音が、部屋に広がる。
 この桂馬は先ほど、江辻が頭を下げて投了した後に素早く握り締めていたのだ。江辻にも美月にも分からないように。
 その後、江辻を挑発した際に目の前で広げて見せていたのに、彼はそれを指摘することができなかった。それは、彼が光を失っていることの何よりの証拠だ。
 「……ふぅ」
 観念したのか、江辻はもう動揺していなかった。そのかわりに一つ、小さな息を漏らす。
 「気づかれてしまいましたか……。実は、あの大会の直後からちょっとした病に罹り、今は全く見えていません」
 「……」

 恐らく、美月が対局中に不自然な話を延々と続けていたのは、僕の差し手を盲目の江辻に伝えるため、事前に取り決めをしていた〈通し〉の暗号だったのだろう。暗号のルールは全く見破れなかったが。
 江辻は、静かに語り始める。
 「……光を失い、最初は将棋なんてやめてやろうと自棄になったりもしました。しかし、時間が経っても、脳裏から将棋を追い出すことが一向にできませんでした。
  そのうち、逆にそれが将棋だけに専念できる環境だと考えることもできると気づいたのです。
  それから、毎日健常な人と同じように振舞えるような訓練を重ねました。……結局、まだまだ修行が足らなかったわけですが。気づいたら、3年が経っていました。
  よほど印象に残っていたのでしょう。その間も、あの対局のあの盤面が暗闇の中には、毎日のように浮かびました」
 「試合に勝って、勝負で負けた、という状況だったからだと思います。勝手な思い込みですが、この試合の顛末をきっちりと終わらせないと、私の第二の人生は始まらないと思ったのです」
 「それなら、今日が第二の人生のスタートだな」
 「ありがとうございます。次にお会いする時は、今の私と勝負をしてもらいますよ」
 「……ん。ああ」
 あいまいに答えたが、あいにく僕のほうには明日からも将棋をするつもりは全くなかった。
 将棋への歪んだ偏見。将棋の未来に僕が感じた閉塞感。それをここで語るのは容易い。
 しかし、江辻の将棋への情熱は本物だ。光を失った後は、それを基軸にして今日も生きているようだ。
 そんな人間に、僕の思いをぶつけるのはさすがにためらわれた。
 「ともかく、これで全部終わったはず。……俺は、学校に戻る。まだ部活動の時間が残ってるから」
 江辻は小さくゆっくりと頷いた。特に不満はなさそうだ。
 そして、美月は。相変わらず無表情な顔をしているが、部屋を出て行くことに異論はなさそうだ。
 ドアを閉める直前、最後にもう一度だけその姿をじっと見た。
 (『瀬田桂夜』じゃなくて、『江辻の依頼した人物』に用があったんだよな)
 自分が普通に生きていたのでは、話をするきっかけさえなかったであろう同い年の美少女。
 数日間のやりとりも、果たして、幸だったのか不幸だったのか。今はまだ判断が下せるほど心は冷静ではなかった。
 僕は、くすぶりはじめた想いを振り払うようにして、〈Cルーム〉を後にした。
 
 *****
 
 僕は、校舎に戻ってきた。部活動の時間は残り30分程度だ。勿論、軽音楽部の枠は開いていないだろう。
 しかし、顔を売っておけば、もしかしたら明日の最終日に潜り込めるチャンスが生まれるかもしれない。
 そんな淡い期待で音楽室を訪れた。
 例の「本日満員御礼 またきてね~♪」の張り紙はなかった。軽快な音楽に誘われるようにして、ドアを静かに開ける。
 入り口から中を覗いてみると、ギター、キーボード、ドラム、パーカッション。様々な楽器から、様々な音色が生まれて溢れ返っている。
 これこそ、僕の思い描いていた高校生活だ。
 「キミ、仮入部希望の子?」
 「あ、はい……」
 僕の存在に気付いた男の先輩が話しかけてきてくれた。
 「ちょうど、さっき早退しちゃった子がいるから、寄ってく? 今からだと30分もないけど」
 「えっ、あっ、はい! ぜひ!」
 その早退した子には悪いが、幸運としか言いようがない。僕は4日目にしてついに、音楽室のドアを越えることができた。
 「楽器は個人のを持ち込んでもいいし、備品を使ってもオーケー。ピアノは確実に順番待ちになるね。中にはジャズとかやる連中もいるので、吹奏楽部とかも交流があるよ」
 先輩は、あれこれ指差しながら部活動の説明を丁寧にしてくれる。
 「キミ、楽器は何かしてる?」
 「えーと、ギターやりたいんですけど……まだ独学ではじめたばかりで」
 「なるほどね、ギターは上手い奴が一人いて定期的に講座を開いているみたいだから、習うとあっというまに上達すると思うよ」
 想像以上に、素敵な部活動じゃないか……。きっと、顧問の先生もまともに違いない。
 もう決めた。僕はこの部活動に骨をうずめるぞと心に決める。本当にうずめてしまったら、事件になってしまうので、あくまでも比喩だ。
 辺りをしげしげと眺めていたが、ふと、不可解な光景を眼にした。
 「……曲がりくねったみーちー♪
 可愛らしい女の子の歌声とピアノやドラムの音が聞こえるのに、音楽の聞こえる方向には楽器を弾いている男子生徒が一人しかいないのだ。
 「……!?」
 じっと見ていると、男子生徒が近くにあったパソコンのキーを軽く叩く。すると、音楽も鳴り止んだ。
 (なんだ、録音か)
 これは、メンバーが集まらないときや、一人で繰り返し練習するには非常に重宝しそうだ。音楽も進化しているのだなと感じる。僕なんかはギターの初心者も初心者なので、最初のうちはこうして練習をするのが迷惑にならなくてよいかもしれない。
 僕の視線に気付いたのか、先輩が説明をしてくれた。
 「ああ、あれね。高楠くんがやっているのはDTMっていうんだ」
 「ディーティーエム、ですか?」
 「そう。デスクトップミュージック。あらかじめ、インプットしておいたとおりに、コンピュータで曲を演奏させることができるんだよ」
 「は、はぁ……」
 「そうだなぁ。例えば、ギター音を7音以上同時に出したり、とてつもなく速くて細かい動きも毎回完璧に演奏できたりも自由自在だよ」
 最初は、録音とどう違うのか、何がメリットなのか、図りかねていた僕にもだいぶ理解できてきた。これはなかなか便利そうだ。
 「つまり、ボーカル以外はコンピュータって演奏させたりできるってことですね」
 「お? いやいや、あのボーカルもコンピュータだよ。今はだいぶ種類も増えて、老若男女色々あるんだよ」
 「えっ、ボーカルもですか」
 僕は驚く。あれだけ滑らかに歌っていたのに……。確か、パソコンに付属しているようなテキストリーダーはもっとカタコトな話し方だった気がするけれど。音楽用は特別なのだろうか。
 「それだけじゃない。実は、作詞作曲編曲、今はこういったものも全部コンピュータで自動生成できるんだよ。和声法とか対位法って知ってる?」
 「い、いえ……。すみません」
 「えーと、まあ簡単に言うと、人間が『あ、いいな』って思える曲って、ある程度は法則化できるんだ。それをコンピュータでランダムに組み合わせたりすると、曲自体は簡単にできるんだ。詞もアレンジも同じ要領だね」
 突然の話に、なかなか頭が追いつかない。便利そうで、いいなとは思うんだけど。それって、つまりは。
 僕は膨れ上がってきた疑問を先輩に投げかけてみる。
 「でもそんなのがあったら、音楽やってる人たちみんな困らないですか? 新曲もコンピュータで作れて、完璧で凄い演奏もコンピュータでできちゃうなら、みんな、何を音楽に求めるんでしょうか?」
 決して、困らせるつもりで言ったわけじゃない。
 でも、先輩は僕の問いにすぐ答えられなかった。
 「……実は、さっき早退しちゃった子も同じような反応でね。最近、音楽CDが全然売れないのは知ってるよね。ミリオンヒットはいまや過去の話、音楽番組も視聴率を取れない。……今じゃ、音楽というものがゆっくりと衰退してるのかもしれないね」
 「そんな……」
 そんなことないですよね、と言いかけたが、言葉を続けることができなかった。

 *****

 その後、僕は部活動終了時間まで音楽室に入り浸っていた。結局、念願の仮入部は果たせ、過ごすこともできたものの、頭の中はすっきり晴れない状態だ。
 近くの窓から、眼下を見下ろすと生徒が徐々に下校していく様子が見えた。
 彼らは身体は疲れているはずだが、充実した表情を浮かべて楽しそうに見えた。楽しそうに見えるのは、一体何故だろう。
 (将棋も斜陽、音楽も衰退……か)
 楽しみにしていた高校生活がついに始まったかと思っていただけに、一層大きく感じられる閉塞感が僕を包みこんでしまったようだ。
 (一体、どうしたらいいのか。見当もつかないや……)
 夕陽が廊下に一筋の影を作った。視線を向ける。
 それは、よく知った人物――泉西先生だった。
 てっきり、「将棋部来ないで、軽音楽部に行ってたのか!」などと言われるのかと覚悟していたのだが、そうではなかった。
 「どうした瀬田、元気ないようだが」
 声色も普段と違っているように感じる。
 (みりゃわかるでしょ。でも泉西先生には僕の悩みなんてわかりっこないさ)
 「『みりゃわかるでしょ。でも泉西先生には僕の悩みなんてわかりっこないさ』って言わんばかりの顔だな。ってこら! お前、俺さまを相当見下してやがるなっ!?」
 思っていたことを一字一句ぴたりと言い当てられて、僕は驚愕する。まさか、読心術というやつだろうか。
 「『読心術』っちゃあ、『読心術』かもな。現国教師の力をなめるなよ。ちなみに、いい女性になかなか巡り合えず『独身術』もしっかり身につけてるがな。……って、余計なことしゃべらせるな!」
 「勝手にしゃべってんじゃないすか!」
 普段と違っているかと感じたが、どうやら思い違いだったようだ。
 はっはっは……と泉西先生はしばらく笑っていたが、急に真面目な顔になり、僕に向き直る。
 「迷ったら、何かやっとけ、だ」
 「え?」
 「信じるかどうかはお前に任せる。昔話&独り言だ。
  学生時代の俺は、この『読心術』っぽい能力のせいもあって、周りから必要以上に避けられていたな。『泉西に近づくと、秘密が覗かれるぞ!』ってな。落ち込んでいた俺に、担任の先生だけがこう言ってくれたよ。『君の力は実にすばらしい。将来は、その力できっと多くの人が救われることだろう』
  嬉しかったな。必要とされるってのは悪くねぇもんだ。この力を活かしつつ、できなかった楽しい学生生活をもう一度やり直したい、と思ったらスクールカウンセラーしかないと思ったんだ。目標ができたからな、勉強したよ。したけどさ、ダメだった。暗記物はさっぱりだった。
  気付けば、俺は動物園のペンギンの世話をしていた。北国の冬は寒かったが、ペンギンたちは可愛かったよ。楽しかったが、散歩中のペンギンに大脱走されて大渋滞を起こして、大目玉を食らってあっさりクビになったよ。ペンギンの心は全く読めなかったな。
  手っ取り早く稼ごうと思って、雀荘に入り浸ったらこれが予想通り大儲かりでな。儲かりすぎて、目をつけられて、跡もつけられて、海に沈められかけて。
  で、気づいたら、この高校で教師をしてた、というわけだ!」
 「……ぶっ飛びすぎでしょう」
 「まあとにかく、だ。こうやって、お前と話ができてるってことは、俺の昔の夢が一つ叶いかけてるってことだろ? どうしようもないことばっかだったけど、立ち止まったり、何もしなかったりしなかったのが良かったんだと思ってるぜ。……こう見えても、うれしさのあまり、俺の中では盛大にお祭りが開催されております」
 「は、はぁ……」
 気付けば、辺りは既に暗くなり、屋外では街灯が灯りつつある。
 「と、まあいろいろ言ったが。何かしてなきゃ何も変わらんもんだ。状況が勝手に変わることはめちゃレアだ。良い方向に変えたければなおさらだな。だから、何かやっとけ。学生時代は長いようで短いぞ!」
 最後にそれだけ言うと、泉西先生は踵を返し薄暗い廊下に消えていった。
 (何かしないと何も変わらん……か)
 状況が芳しくなくても、何もしないままだと事態は一向に良い方向に向かわない。その考えは奇しくもパスの許されない将棋も同じだ。
 明日の僕は、どんな決断を下すのだろうか。

 

 小説『Spring in the Spring =跳躍の春=』(5/5)に続く