小説『Sum a Summer =総計の夏=』(2/5)
第二章 『7月2日(水)』
心臓が痛い。
といっても、別に悪い病気にかかったとか、昨日の寿司ネタが傷んでいたとか、古い雑誌やマンガの魔力で夜を無為に過ごしてしまったとか、そういうことではない。極度の緊張が原因だ。
恐るべきことに、大矢高校ではテストの翌日朝一番から期末テストの成績発表を行うのだ。
初日や二日目のテストなら、まだ採点の時間はそれなりに確保できるのかもしれない。しかし、一学年300人近くいることを考えると、神の業としか思えない。身体をサイボーグ化した教師がいるらしいとか、地下に大量のコビトさんが待機しているとかいう噂もあるようだ。何故か、そのあたりのカラクリを生徒は誰一人知らないため学園の七不思議の一つとなっている。
といっても、実名を発表されるのは各科目の上位10名までだ。名前が載るならひたすら名誉だし、載らなかったとしてもビリなのか11位なのかは本人のみぞ知ることで、やはり緊張は無用とは頭では分かっているのだが。
英語は答案を回収された時点で惨憺たる有様だった。なので、はじめから期待していない。倫理と現代国語はまずまずの手ごたえだったので、それだけが数少ない希望の光だ。
学校に着くと、屋外掲示板には早くも人だかりができていた。
思えば、高校の合格発表もここで大喜びしてたもんだなぁ。つい昨日のことのようだが、もう3ヶ月も前のできごとだ。
生徒と生徒の間から貼り紙を伺う。これは、英語か。まぁ、これは捨てだからな! と思いつつ、恐る恐る10位のところから上に視線を移していく。
……ない、……ない、……ない、……ない、……ない。
というか、あんな意地の悪い問題ばかりで高得点を取れるこいつら、おかしくないか? きっと、奥地会長みたいな典型的ガリ勉タイプばかりに違いない。
乗りかけた舟だ、残りの5人も見届けてやるか。見上げた僕は息を呑んだ。
織賀美月 100点
……おかしい奴が存外身近にいたようだ。おかげで先程までのドキドキ感は一気に霧散してしまった。
その後、物理・歴史・数学でも一文字違わぬ表示を目の当たりにすることとなった。
最後が国語だ。さすが、カオスの伝道師たる泉西潮成というべきか。最高点が79点であった。すっかり、「織賀美月 100点」に見慣れてきたところだが、国語の美月の点は68点で9位だった。
あの美月にも不得手があるのかと思うと、少し安心したような不思議な気持ちになった。それでも10位以内に入るあたりはさすがなのかもしれない。
残念なことに僕の名前はなかった。どうやら、泉西マジックにみごとにはまったようだ。手ごたえがそれなりにあっただけに微妙なショックを感じる。
肩を落として、教室に向かおうとすると見覚えのある顔と目が合った。
銀縁のメガネのブリッジをくいっと持ち上げて、挨拶をしてくる。
「お、瀬田くん。ご無沙汰ですね」
「福路くん、久し振り」
彼は、福路浩二。科学部に在籍しており、以前ちょっとした相談ごとをきっかけに知り合うことになった。
「福路くん、科学部だったね。化学とかどうだった?」
「全然さ。白衣が泣いているよ」
福路くんは少し大げさに天を仰いで「昼休みにヒトミに慰めてもらおうかな……」と呟いた。
福路くんは中学から付き合っている彼女がいるんだよなぁ。羨ましいことだ。二人揃えば、悲しさ半減嬉しさ倍増だよなぁ。
僕の表情に羨望が浮かんだのを感じ取ったか、福路くんは顔を近づけてくる。
「……ときに瀬田くん。彼女は作らないのかい?」
あまりにストレートな問いかけに、息が詰まった。そりゃ、作れるものなら作りたいけれど、彼女などそう簡単にできるものではない。
「福路くんはどうやって蒼井さんと?」
話題をそらすの半分と、学び半分との気持ちでそう切り返した。
「僕らは都市伝説マニアっていう共通の趣味があったからね」
「都市伝説?」
「そう。『ラフテイカー』とか『中央駅のA3出口脇の壁』とか、『童謡作者の無念』とか、『眠れずの薬』とかね。」
「へ、へぇー……」
うーむ、オーソドックスなカップルかと思っていたが意外だ。
「あとやっぱり、元々幼馴染だったというのが何より大きいかなぁ。気軽に話しかけられるから、接触機会は自然と増える。……でも、やっぱり早いうちにアタックしたのが決め手だろうね」
「そっかぁ」
将棋は、攻めが大好きで『攻撃は最大の防御』と揮毫した扇子を作りたいくらいだが、色恋沙汰は四枚穴熊状態だ。やはり、そこら辺が今後のテーマだと痛感する。
「性急過ぎるのは失敗の元だけど、慎重過ぎるのはもっといけない。先手必勝だね。将棋でも言えることだよね」
先手必勝、という言葉には納得できたのだが、将棋も同じという意見はちょっと気になった。
「福路くん、ちょっとだけ脱線なんだけど、将棋って最近は後手のほうが勝率の方が良くなってきているって知ってる?」
「えっ、そうなの!? 知らない知らない」
自分も最近になって知ったことなのだが、どうもそうらしいのだ。
一般的なイメージで考えると、先に指す方は作戦を自分で選べるし、先に攻撃を仕掛けられる。
ところが、『先に指す』ということは裏を返すと『先に戦略を晒さなければならない』ということでもある。
つまり、後手は先手の作戦を見てそれを迎撃できる最良の布陣をしいてカウンターを狙うことが有効だと言う考え方が近年急速に広がってきているのだ。
福路くんがなにやら難しそうな顔を浮かべていたので、より単純化した例えを即興で考えてみた。
グー、チョキ、パーを公開したまま交互に捨てていき、残った一枚で勝負するというゲームがあるとする。
先手は必ず負ける。
先手がグーを捨てたら、後手はパーを捨てる――というように後手が先手の捨てたものに勝つカードを捨てていく選択をすると最後には後手が勝つカードの組合せにできるからだ。
話し終えて、福路くんが「うんうん、それは確かに分かり易い道理だね」と言ってくれたので、僕もすっかり嬉しくなってしまった。
と、将棋は置いておいて、先手必勝の件は真面目に考えないとだなぁ。テストの成績発表で、美月の知名度は一気に上がったに違いない。倍率は一体どこまで跳ね上がるやら……。競争が狂騒を呼ぶ、今日そうならないとも限らない。って僕は何を言ってるんだ。
いや、僕は良く戦ったよ。大善戦だ。開始後それぞれ15分は耐えられたんだから。
食後の4時間目に数学の丹治延登先生、5時間目に英語の石井英美先生の直列つなぎは反則だ。僕も含めて多くの生徒が屍となった。あの人たちは、プロの催眠術師か不眠症セラピストになった方がいい。
とはいえ、今日の授業は無事終わり、ホームルームが始まっている。そして、泉西先生が無駄に高いテンションで教室をドンびかせている。
恐らく、採点が終わった開放感だろう。……まぁ、我々も昨日はこんなだったんだな。「人の振り見てなんとやら」を身体を張って教えてくれているのだ、と僕はプラスに解釈してあげることにした。
さて、待ちかねた放課後だ。軽音楽部の部長、琴羽野先輩からは「将棋部が落ち着くまでは無理してこなくてもちゃんと籍はあるから。皆にも言っておいてあげるよ」という暖かいお言葉をいただいている。
何か将棋部の存在や実績をアピールできることがないか、考えに考えなければならない。
それにはまず美月と泉西先生に現状を伝えて、一緒に考えてもらうのが最善だろう。一人より、二人。二人より三人だ。
あと、泉西先生にはパソコンが使えないかどうかの相談もしたいところだ。昨日はばたばたしてしまい、結局アクションを何も起こせなかった。
白物家電研究部がウェヴサイトで実績を上げたことを思い出し、ITの力も何かの役に立ちそうだというおぼろげな感触がある。
……しかし、なにぶんどちらもランダムにしか現れないのが悩みの種だ。RPGのキャラクターだったら、さぞかし経験値が高いことだろう。
とりあえず、備品を準備して教室で待つことにする。カバンから詰将棋の本を出して、ひたすらレアキャラの登場を待つ。
しばらくすると、和服姿の泉西先生が現れた。僕は待ってましたとばかりにマシンガントークで泉西先生に畳み掛ける。
「白物家電の研究だあ? ふざけた連中だ。あとでお得な冷蔵庫についてたっぷりと事情聴取してやる!」
「そこですか!」
前言撤回、どうやら頭数が増えてもダメなケースもありそうだ。貴重な人生経験になった。しかし、パソコンについては「大江室長に話しといたる。明日、サーバールームを訪ねてみよ!」と存外にまともな回答をくれた。大方、将棋部名目で借りて何か私用で使う算段でも立てているのではないだろうか。
とりあえず、パソコンの件は一歩前進、したのかな。
大矢高校が誇るトラブル発生機が職員室の方向に消えたのを見届け、カバンから緑茶のペットボトルを取り出す。さっき購買部で買ったものだ。これで一息つこう。
ボトルの脇におまけが貼り付いていた。これは……。最近、ひそかにブームになっている〈クマッタ〉のストラップか。
勉強とか料理とか会社経営とか、とにかく色々なことをはじめるのだがいつも困難にぶち当たる。そのときに「クマッタなぁ……」と困り顔で頭をかく姿が意匠になっているクマのキャラクターらしい。
こういうタイプは色々と手を出すなよ! と僕でさえ思ってしまうわけだが、どうも老若男女問わず人気があるらしい。確かに、シンプルな顔や茶色を基調とした色合いは男性にも抵抗が少ない気はする。
ストラップは一旦外して机の上に置き、緑茶を流し込む。
さてと。泉西先生とは話ができた。残りは美月だ。僕の極秘の美月統計情報によると、泉西先生登場の後に美月が登場したことは一度もない。よって、早くとも明日以降でないと会えないという結論になる。
今日はもう帰ってしまうか。いや、生徒会が抜き打ちチェックに来て「活動の実態がない!」などとこれ以上マイナス要因を増やされたらたまらないか。すると、ちょっと駒を並べておくくらいはしておいた方がよさそうだ。
というか、部員一人だけの時に見られたらまずいよな……。一日ならまだしも、毎日毎日来られたら実質的に僕一人だとばれてしまう。事態収束までは、毎日ある程度は顔を出してもらうようにお願いをしなければ。
「あぁ、美月ぃ~」天を仰いで、思わず虚空に呟く。
「何よ?」
思索に耽っていたため、突然横から返事が来て仰天する。そして、次には恥ずかしさが込み上げてくる。
僕の発見した法則はあっさりと崩れてしまったわけだが、いやこれはむしろ天の采配と考えるべきだろうか……。
よし。将棋部に訪れている危機を伝えようと向き直ったが、美月の視線は何故か下を向いていた。
視線の先を目で追ってみると、そこにあったのはクマッタのストラップだった。
「もしかして、これが欲しい……とか?」
「……」
返事はない。しかし、視線は外れていなかった。
「どうせ捨てようと思ってたところなんだけどな」敢えてそういう表現をしてみた。
すると、「なら、もらう」と言って、携帯端末の穴に通し始めた。
作業が終わると携帯端末からぶらさがったクマッタと向かい合って、「……まぁまぁかな」と呟いている。
タダでもらったストラップとはいえ、プレゼントしたものを受け取ってもらい、所有物に付けてもらうということ。
自惚れは百も承知だが、婚約指輪を受け取ってもらえた男性は、きっとこういう気持ちになんだろうなぁと思った。
「この部屋暑いなー」
照れ隠しにそういって近くの窓を開く。下を見遣ると、中庭には部活なのか不明だがそこそこの生徒がおり、男子女子が親しげに話している姿が何組か目に入った。
胸の中が妙にざわつく。
――慎重過ぎるのはもっといけない
――先手必勝
「あのさ」僕はゆっくりと振り返る。
いや、ちょっと待て。僕は、自分自身がコントロールを失い、瀬田桂夜という存在から切り離されているような不思議な感覚に襲われた。こいつ、まさか。しかし、動き始めた自分を止める方法が分からなかった。
「何?」
「俺と……。付き合って、くれないか」
その言葉を待っていたかのように、突然僕の背後から一陣の風が吹き抜けていった。美月は前髪が煽られ、顔を覆っている。そして、風が過ぎた後も姿勢はそのままだった。
あまりに。あまりに唐突過ぎるじゃないか? なんていうことをしてくれたんだ……っ。
自分自身がやらかした奇行に未だに自分自身が一番戸惑っている有様だ。
美月も美月で、せめていつものように「ヒマじゃないから無理」などとあっさりばっさり切り捨ててくれれば、「悪い悪い。ちょっとキザなセリフってやつを言ってみたくてつい」などと笑ってごまかるかと思っていたのに。
「……24時間考えさせて」それだけ言うと、足早に部室を出て行ってしまった。窓を開けてから、本当にあっという間の出来事だった。
後に残されたのは、盤と駒と飲みかけのペットボトルと、脱力しきった恋愛下手な16の男子高校生だけだ。
しばらくの間、窓際からは動くことができなかった。背中には夏の日差しがちりちりと突き刺さってくる。先程の突風は幻だったかのように、今は凪の状態が続いている。
「……総会の話、できなかったな」
やっと出てきたのはそんな言葉だった。
家に帰っても、気分はうわの空だった。夕食に何を食べたかの記憶も定かでない。ピーマンを知らずに食ってたらと思うと鳥肌ものだが。
将棋部の第一部維持の対策検討。琴羽野さんの相談ごと。宿題や予習もろもろ。ギターだってまだ全然上手くなっていない。
色々と進めなければならないタスクがあるはずなのに、一向に頭がそちらに向こうとしてくれない。
なんとなく、リビングにある共用パソコンでインターネットサーフィンを始めてしまった。インターネットは有限さを感じさせないほど、際限が無い世界だ。少し暇つぶしに、と思っていたのに気づけば1時間が経っていたということはざらにある。浦島太郎が行ったという竜宮城とは、インターネットの海の中にあったのかもしれないな、などとくだらないことを思った。
午後8時ちょうどになり、テレビからは威勢のいい声が聞こえてきた。「このあとは、芸能界、スポーツ伝説!」
確か、売り出し中の若手の芸能人が本物のアスリートと混じって特殊な運動競技を勝負する番組だったか。普段はおどけている芸能人の意外な身体能力、普段は真面目なアスリートの意外なバラエティ能力、そういったものが観られるということで幅広い視聴層を獲得している。勝敗を結果が出るまでに送信して、当たれば抽選で商品をもらえるという企画も同時並行しており、こちらも視聴者の底上げをしているようだ。
我が家では家族3人が一緒に観る(ただし、父に関しては奇跡的に定時あがりできたときのみ)、数少ない番組の一つだ。今は野球がシーズンの真っ最中なので、父の観る動機になる野球選手は登場しないが、なんとなくこの時間はリビングにいるような感じだ。そういうリズムになっているのだろう。
『伝説』という単語で、昼間に福路くんが話していた『都市伝説』を思い出した。えーと、何だったか。中央駅の壁とか童謡とかだったかな。
うろ覚えなので、それらのキーワードと『都市伝説』で検索を掛けてみた。32件。思っていたよりも結果は多くないな……。とりあえず、一番上に出てきたページを開いてみた。
随分シンプルなページだった。インターネット黎明期に自分でタグを組んで作られたページだろう。逆に言うと、そのくらい前から存在していた都市伝説ということが言える。
トップページの下部にシンプルな一覧があった。項目がリンクになっていて、詳細はその先で見られるようだ。ざっと眺めると、『中央駅の壁』『眠れずの薬』が眼に留まった。福路くんが話していたものだ。あれ? もう一個くらいあったような気がするけど、なんだったか。
もう一度、上から順に眺めていくと、おや?と思われる項目があった。
『ちいさなもりのおおきなき』の悲劇
奇しくも、久々に昨日耳にした童謡の名前がそこにあった。それにしても、悲劇って一体……? あんなに無邪気な童謡にどんな秘密があるのだろうか。急にドキドキとしてきた。あぁ、これがもしかして都市伝説の魅力ってヤツなのだろうか。福路くんと蒼井さんがハマる気持ちが少し理解できた気がする。
はやる気持ちを抑えながら、クリックをする。現れたページは次のようなものだった。
今では、多くの人に親しまれている童謡『ちいさなもりのおおきなき』であるが、その歌詞は作者の意図に反し大きく改変されてしまっている。
本来の歌詞では、〈おおきなき〉は人によって切り倒されて切り株にされてしまう末路となっているのだ。当時、商工業環境と住環境のために山地の整地や干潟の干拓などを国策で行っていた。童謡制作の依頼をした教育機関としては、他の組織との軋轢をなるべく避けるため改変を求めた。
作者は抵抗を続けたが、様々な工作により、最終的には同意をさせられた。
同じページ内に、その本来の歌詞が載っていたが、長さも内容も確かに僕がこれまで歌っていたものとは違う箇所が目立つ。
元々、わらべ歌や童謡は物悲しいメロディーのものが多い。『とおりゃんせ』『かごめかごめ』などがいい例だろう。昔の子供達はよくこんな歌を歌っていたものだと感心する。
『花いちもんめ』『めだかの学校』『しゃぼん玉』などメロディーが明るめの歌でも、少し見方を変えて歌詞を読んだとき、背筋に寒いものを感じるものもある。童謡は、物心ついたときには、記憶の奥深くに刷り込まれているものだ。それが実は全く異質のものだったという恐怖心。例えば、化け物から追われて安全な建物の中に逃げ込んだのに、その中には別の化け物が既に潜んでいたような感覚だろうか。
この『ちいさなもりのおおきなき』の話は後者の方に近い感覚だ。
まぁしかし、都市伝説は都市伝説。裏づけが得られないからこそ、伝説であり噂どまりなのだ。
僕は次のページ、『中央駅の壁』をクリックした。こちらは、文字よりも画像が多いページだった。その画像を見てあっとなる。
この中央駅というのは、隣町の中央駅のことだったのか。全国区であろう童謡の話と同じレベルでページが作られていたから、少し虚を突かれてしまった。
先程、ヒット数が32件程度だったのもこの都市伝説がローカル過ぎるためだったのか。
内容はというと、A3出口の近くの壁が僅かに周囲の色と違うのだという。これが、工事中に起きた事故を隠蔽するためだとか、隠し部屋があるだとかいう伝説となっているらしい。記憶にはあまりないが、実際に掲載されている画像を見る限りでは確かに異なっていた。今度、駅に行ったときに見てみるかな。
トップページに戻り、なんとなしにページの右上を見ると「By 29652」とあった。最初はアクセスカウンターかなにかかと思っていたけれど。
ふくろこーじ = 29652 ?
もしかしてこれは、福路くんのページなのか? 思い返してみると、文体とかセンスが福路くんぽい感じがしてくる。
と、そのときテレビの方から「みなさんこんばんは! 今週も張り切ってまいりましょう。芸能界、スポーツ伝説!」という音声が聞こえてきた。午後8時ちょうどになったようだ。
食器洗いを済ませたらしい母がエプロンを外して、リビングにやってきた。手にはピーナッツ入りの容器を持っている。母の大好物だ。これから、テレビ番組を見ながら食べるつもりだろう。
父はいつものようにシステム手帳のリフィルの整理を黙々としている。傍から見たら、何が面白いのか分からないが、本人いわく『趣味の情報整理をしている』らしい。
テレビ画面の中では、新進気鋭の芸人が池に浮かべられたビート版を走り抜けるといった競技を行っていた。踏んだビート版が沈む前に、次のビート版に進みと繰り返していくわけだ。一見すると非常に単純明快、簡単そうな競技だが、チャレンジャーは次々に失敗して池に落ちていく。
動かなければ、沈んでしまうと思って動いた。しかし、動いた結果僕は沈んでしまった。
母は、僕の様子に気付くはずもなく、時々笑い声を上げながらピーナッツを頬張っている。
僕はというと、笑い声を上げるような気持ちには全然なれなかった。いつも楽しみにしている番組なのにな……。
きっと気持ちの中に、しょっぱいものが混じってしまったせいだろう。まさしくこれが本当の沸点上昇だ。
番組がCMに突入しても、母と僕はそれぞれ画面を向いたままでテーブルの腰掛けていた。
「女の子の心って、どうしたらを掴めるんだろうなー」
答えを特に期待していたわけではなかったが、気持ちを紛らわすためだけにそんなことを聞いてみた。
「そうねぇ……。『君がいないと、僕の人生は暗黒物質だ』とか訳の分からないことを言ってみるとか?」
なんだそりゃ、と思うのと同時に、父がばつの悪い表情を浮かべながら「さて、風呂の湯加減でも見てくるか」とリビングを出て行く。
そういうことか。わざとらしい物言いに思わず苦笑する。我が家の風呂の水温は自動調整式のはずだ。
「お母さん、こう見えて、可愛くて頭良くて、運動神経も良くて、人脈も広くて、そりゃもう超絶女子だったのよ?」
「……へいへい。それがなんでまた、あんな父と一緒になったのか、お聞かせ願おうか?」
「いいわよ。あれは大学1年の頃……」
あっさりと応じられて、少し戸惑う。しかし、今まであれこれ突付いても飄々とかわされてきた両親の馴れ初めの話だ。興味がないといえば嘘になるし、今は気を紛らわすことになると思って、静かに耳を傾けていることにした。
僕の母、いのりは大学入学直後、学部の新歓コンパに参加していた。
新入生歓迎とはあくまで名目上のことで、その実態は新入生を上級生が酒で酔い潰させるという悪習であった。当時は今ほど娯楽が多いわけでもなかったし、「自分達がされたから、俺達もやる」そういう悪循環が格好悪いと思われていない時代でもあった。
いのりは予行演習として、事前に酒を少し飲んでみた。その結果、ある程度飲める体質であることを知っていた。
下級生全てが酔いつぶれてしまったら後始末も大変であり、派手にやりすぎると大学側としても黙認してくれない面があり、上級生から狙われる人数はある程度の人数に限られていた。
逆に、最後まで生き残った新入生は『ツワモノ』としてその後一目置かれることにもなる。いのりは上級生に促されるまま、ひたすら飲んだ。
しかし、飲める体質といっても当然限界はあるし、本当にザルのような酒豪も世の中には存在する。
酒の恐ろしいところは、『自分が酔っている』と判断する部分でさえ麻痺させられてしまうことだ。とりわけ、大勢の人と一緒に飲むときは自分のペースが乱れてしまうため、この現象も現れやすい。
この時のいのりも例外ではなかった。知らず知らずのうちに、身体は傾き始め、眼はとろんとし始めていた。
「ウーロンハイのひとー?」
「あ、はい!」
自分の頼んだ飲みものを呼ぶ声が聞こえたので、いのりは応じた。
手を上げたいのりの手元に、すっとグラスが置かれる。
「ほら、おかわりがきたよ! いのりちゃん、ぐっといって! ぐっと!」
「は、はい」
脇にいた体格のいい角刈りの大男が促すのに併せて、一口飲む。
(ん? あれ、これ……?)
いかに酩酊状態になったからといって、アルコールが入っているか否かくらいの判別はまだ可能であった。
今飲んだウーロンハイだと思ったものは、ただのウーロン茶だった。
「ん? どうしたのー?」
「いえ、美味しいです!」
「本当に強いなー。オレも負けてられないぜ~」
一体、何が起きたか分からなかったが、変な反応をしてこれ以上飲む量を増やされても面倒だと思い平静を装うことにした。
一杯とはいえアルコールの入っていない飲み物を飲んだせいか、少し頭と胃の方が落ち着いてきた。次はグレープフルーツサワーを頼んだ。
しかし、その変な現象は再び起こった。届いたのはグレープフルーツジュースだった。
(一体、どうして……?)
いのりは毎回グラスを運んでくるのは同じ男子上級生であることには気づいていた。印象的な腕時計をしていたからだ。
次に、日本酒のグラスが運ばれてきたとき、いのりはその男の顔を窺った。
むすっとしたへの字口、服装は野暮ったくて、どう甘く採点をしても女子ウケする第一印象ではない。
男もいのりの視線に気づいた。
「……こんなことで、無理すんな」
いのりにだけ聞こえるギリギリの声量でそれだけ言って、グラスを置いて去っていった。
いのりは、周りの人が日本酒と呼んでいる、ただの水を飲みながら考えた。一体、あの人は何者なんだろうか、と。
そのあと間もなく、先程の男子上級生が急性アルコール中毒で倒れたという話が伝わってきた。
いのりの集団はもとより店内も騒然となった。当然ながら、散会の流れとなりいのりは開放された。
「ったく、やらかしやがったの、瀬田かよーっ」「酒飲めねぇ奴はコンパくんなよっ」そして、周囲にいた上級生は、ソフトドリンクばかり飲んでいたはずなのに倒れるとは、摩訶不思議・迷惑千万の呆れたやつだと悪態をつきながら店を出て行った。
いのりは直感した。恐らく、私の飲み物と同じような色の飲み物を注文し、それを交換し続けていたためだろう。
その後、二人はどちらからともなく近づいて、その末、付き合うことになった。学部内では、あまりに不釣合いな二人に、あらぬ噂を立てられることもあったが卒業まで貫き通したのだった。
「まぁ。今、総括したみたら、一番かっこよかったのは、結局その時だけだったわね」
「おいおい」
「でも、それでいいんだと思う。あの人は私にとってエアバッグみたいな存在なのかもしれないと思うわ。普段はありがたみも特に感じないまま近くにいるだけだけど、本当に困った時には身体を張って守ってくれる。私にはそれが一番大事だったんだろうね。世の中には、『いつも愛していてくれないとイヤだ』って人や『年収が低いと論外』って人も多いけど。今、不幸でないのは事実だし」
自ら淹れた緑茶を啜りながら、僕の顔をじっと見つめてくる。
「あんた、振られたでしょ」
「……あっさり当てるなよ」
馴れ初め話を語ったのは、親心か。
「ナナちゃんのときはこんなに落ち込まなかったのに。よほど逃げられた魚が大きかったのね」
「……」
「気分をすぐに切り替えることね。他の失敗ごとも同じだけど。世の中の半分は女の子なんだからさ」
「……残りの半分は競争相手じゃん」
まぁ、気分をすぐに切り替えるのは間違っていない気がする。過去は変えることができないのだから。認識の方を変えるしかない。
元から、高嶺の花だったのだ。今まで、お近づきになれていた期間があっただけでもプラスに思わなければ。
僕、今日無事に寝つけるかな……。