総村スコアブック

総村悠司(Sohmura Hisashi)の楽曲紹介、小説掲載をしています。また、作曲家・佐藤英敏さんの曲紹介も行っております。ご意見ご感想などはsohmura@gmail.comまで。

小説『All gets star on August =星の八月=』(2/4)

 【第二章】 星

 *****

  ほし【星】〔名〕…星の光をかたどったしるし。

 *****

 

 ――と、こんな状況だろうか……。今でも信じられないような展開だった。
 いきさつを思い返していたのは時間にしたら、ほんの数分だったかもしれない。しかし、自分なりにここまでの流れをできるだけ詳細に整理できたように思う。
 周りを改めて見回す。薄暗くて、分かりづらいが、この部屋は僅かに見覚えがあった。風雷庵の〈倉庫〉だ。確かに、あの状況から監禁場所として選ぶには手頃な場所だろう。
 やがて、ギシ……と縄と椅子が擦れあう音が聞こえてきた。そちらを見ると、美月が顔を上げて僕の顔をじっと見つめていた。
 さて、話はもうまとめることができている。でも、まずは自己紹介――だよな。そうして、口を開こうとした矢先。
 「なんで、簡単に飲んだりするかなー」
 射るような目付きと言葉で僕は貫かれた。
 えっ? ということは……。
 「眠らされて……ない?」
 「ないよ。でも、一人で逃げるわけにはいかないでしょ」。
 そして、はなれている僕にも聞こえるようなため息を一つ。
 はは、は。それは説明の手間が省けて良かったといえば良かったのだが。
 「あ、じゃあもしかして……猫舌とか言ってたのも」
 「誰かみたいにゴクゴク飲まないための口実」
 うっ。非常にストレートな解説ありがとう。しかし、過去をくよくよしてもしょうがないのだ。とにかく今後のアクションを考えなければ。
 僕も美月も、椅子に腰掛けた状態で縛られている。固定箇所は数箇所、椅子の脚と自分の脚、椅子の背と胴体、そして手首も縛られている。
 無抵抗だった僕たちを今こうして閉じ込めていると言うことは、命の危険自体はなさそうだ。猿轡をされているわけでもなく、こうして会話も自由にできている。
 さきほど誰かが言っていたように、警察に引き渡すまでの監禁状態のつもりなのだろう。
 「……ここ、なんとか出られないかな」
 大人たちが去ってからしばらく経っているが、物音は特にしてこない。脱走を警戒するなら、一人くらい監視に残ってもよさそうだが、それもしていない。
 「なら、このロープをなんとかしないと。ちょっと苦しいし」
 言葉に反応して、改めて美月を観察して僕は慌てた。
 男なら、僕が今されているように無造作にぐるぐると縄を巻けばオシマイだが、女はそうはいかない。胴体に凹凸があるのだから。そして、理にかなった巻き方をすれば、その凹凸がより強調されるのは必定だ――。
 「と、とにかくそっちに行くよ」部屋が薄暗くて良かったかも知れない。僕は赤面を見られないように顔を背けながら立ち上がった。
 と、とと。両脚とも、椅子に固定されているため歩きは覚束ない。
 間近で見ると、美月も後ろ出に手首を結ばれ、胴体の結び目も右脇の方にあった。
 「手首の可動域と結び目からすると、相手の縄を解くのは難しくないね」
 僕の手首に結ばれている縄の状況を見て、美月はそう断じた。言われてみれば、指先は動く。
 自分の縄を解くのは難しいそうが、確かに相手の縄を解くくらいはできそうだ。しかし、二人で一緒に捕まったからこそ、脱出の芽が出てきたのだ。
 ……すみません、こっそり自分のうっかりを正当化しました。
 さて、そうなったらどちらかが先に解くことになるのだが。手首を動かしてみると、結構縄が擦れて痛いことが分かる。動かし続けたら、傷ができそうだ。
 美月の方も当然、同じ材質のものだ。ここで第三者に多数決をとったとしても、圧倒的多数で僕が作業をすることに決まるだろう。いやぁ、名誉だ。
 さてと、作業作業……。
 後ろ手で縛られているので、僕は一旦後ろ向きになって、椅子に腰掛けた状態で縄解体作業に取り掛かることになる。
 これは……すこぶるデンジャーな作業だ。指先の動きを少しでも間違えれば、年頃の女子の身体に触れてしまう可能性がある。爆弾解体班もスカイブルーな緊張感だ。
 後ろ向きにゆっくり近づいて、そろそろかなと思う辺りで止まり、椅子を着床させる。
 ふぅ。とりあえず、ここまでは問題なし、と。額には汗が浮かんできた。
 次に僕は前傾姿勢になり、同時に縛られている両手を後ろに伸ばしていく。
 「高さはあと4.6cm下ろして、それから3.3cm下がって」そんな僕に、背後の美月から指示が出る。
 「了解」言ったものの、そんなに正確には制御不能だ。自分の拳や指の大きさをイメージしながら、精一杯そのように進めていく。
 しかし。
 「あ」二人の声が綺麗に重なった。手のひらに触れた柔らかな感触と共に、背後に物凄い殺気を感じた。これは……、武術の達人でなくても感知できるレベルだ。
 「……なんでできないの? 的確に指示したのに」
 「できるかよっ! 俺は美月とは違うんだ!」俺からすれば正当な言い分だ。
 その後なんとか、無事結び目を探り当てて解き始める。ロープがそれなりの太さのものだったおかげで、結び目自体はそれほど頑固ではなかった。爪と指先をうまく隙間に入れると、徐々に解けていく。
 そして、まず美月の胴体の戒めを解くことができた。続いて、後ろに回りこみ、手首の方も外し始める。こちらは先程のような気遣いも無用だし、二回目の作業だったので難なく終了した。
 その後、美月は自らの脚を解いて、完全に開放された。
 首をひねって後方を見ると、僕の視線の先で少し伸びをして身体を動かす美月の後姿が見えた。いやぁ、良かった良かった。
 そして、向き直った美月は一言。
 「解いてほしい?」俺に問う。
 えーと、それはどういうことでしょうか……?
 いや、心当たりはあるんだけど。それは、不可抗力じゃないかなーと思うわけですよ。あれこれと思うところがありつつも、小さく頷く。
 「じゃ、先例に倣って――」美月が右手をすっと俺の目の前に出して構える。
 先例、ってそれは、もしかしてアレですか!?
 「これで勘弁したげる」

 ――ビッシィッッ……

 物凄い音が自分の額で響く。椅子に座っていて、しかも縛られている状態では避けようがない。強烈なデコピンが、脳天を揺さぶる。
 「……ってぇ」
 じわっと眼の端に涙が浮かんできた。
 しかし、本当にそれで気が晴れたのか、美月は俺の縄を解き始める。さすがに、処理能力には定評のある美月。後ろ手でないということもあるが、俺の数十倍の速度で解ききってしまった。
 紆余曲折(主に僕がだが)の末、僕たちは身体だけは自由になった。身体をくまなく探してみたが、やはり封筒は回収されていた。
 こんな事態とはいえ、交わした約束を守れなかったことに僕は僅かに落ち込む。
 財布は残っていたものの、二人とも携帯端末を回収されてしまっていた。元々、電波は弱そうな場所ではあるが、万が一外部と通信されては困ると思ったのだろう。
 それならばと扉に近づき、耳を当てる。物音の類はしない。ノブを静かに回して押し引きしてみるが、しかし扉が動くことはなかった。鍵が掛かっているようだが、こちら側には鍵の仕組みはない。恐らく、外からしか施錠できないのだろう。倉庫ならばそれも当然か。ここが監禁場所に選ばれたのもそういう理由からだろう。
 「ダメだ。開かない」
 かといって、窓の方も期待できそうにない。かなり高い位置にあるし、隙間が僅かにしか開かないタイプのようなので挑戦する価値自体低そうだ。
 そうすると、あとは棚に上げてきた諸々の謎を今のうちに推理しておくことくらいしかすることはない。
 まず、あの封筒の中身はなんだったのだろうか。
 手に取ったときの感触を思い出したが、厚みのあるものではなかった。札束とかカードの類が入っていたわけではなさそうに思える。
 手紙……。そういえば、誰かが『このところ御前さんは寝たきりだ』とか言っていた気がする。余命のことを意識していたならば、あれは遺書という可能性もありうるかもしれない。
 「そういえば、御前さんはなんで倒れていたんだろう……」
 元気そうなおばあさんに見えたが、強力な薬も毎日服用していたほどだというから、人の身体は分からない。
 やはり、あの4人の中に『犯人』がいるのだろうか。
 最近、命を狙われていると思った御前さんが、遺書や何かの権利書のようなものを僕たちと言う第三者に預け、今晩万が一のことがあっても大丈夫なようにしたとか……。
 「美月は、何か変だと感じたことない?」
 「ん……」美月は腕を組んで唸っている。「変かどうかは分からないけど、ケーヤに時間を聞いてからおばあさんの様子が慌しくなった、とか?」
 そう言われれば、そうだったかもしれない。
 「ちなみに、俺たちどんな会話してたっけ?」
 「ケーヤが『あ、えーと今は11時過ぎたところですね』。おばあさんが『本当だ! ちょっとうたた寝するつもりが随分寝てしまったんだね』」
 「ふーむ……」
 会話の中で特におかしいところはない気もするが、確かにその会話を交わした後から御前さんは慌しい様子だった。
 ……ん? ちょっと待てよ?
 僕の頭の中に〈跳躍(リープ)〉が訪れた。
 「あのさ、その時間を聞く直前はどんな会話だったっけ?」
 「ケーヤが『長居をしても申し訳ないので、僕たちはそろそろ。貴重な扇子も拝見できましたし、来て良かったです。でも、せっかくの綺麗な庭園が見れなかったので、欲を言えばもっと早くに来れば良かったです』。
  おばあさんが『もっと早く……? ちょいと今、なんどきだい!?』」
 もしかすると……そういうこと!? 可能性としてありうるけど。
 しかし、疑われている僕がそんなことを主張しても、果たして取り合ってくれるかどうか不安だ。
 第三者がその推理をしてくれれば説得力が出てきそうなのだが。せめて、第三者が立会ってくれている状態で、自説が展開できればと思うが、そう都合の良い展開が訪れるとも思いがたい。
 と、美月が扉のほうを向いて指を差した。
 「今、声がした。誰かが来たのかも」
 「誰かが?」
 あの4人のうちの誰かが戻ってきたのか。一人か全員か。
 場合によっては、扉を開けた瞬間に逃げ出す方策を取るべきかもしれない。あちらは、僕たちが拘束されている状態だと油断しているだろうから十分に隙はつけそうだ。
 扉に耳を当てる。
 「……ですから、特に何も怪しいことはございませんので」
 「ほう。なら、後ろめたいことならあるのか? 片っ端から見せてもらおうか」
 「そ、それは……」
 一人は館主のようだが、なんだか様子がおかしい。もう一人、新たな人物が現われて、この風雷庵を捜索しようとしている?
 警察? 刑事? いや、そういう雰囲気でもない。敵なのか、味方なのか。それも全くわからない。足音はどんどん大きくなる。
 どうする? 奇襲を掛けるか、それともこの謎の人物に頼ってみるか?
 戸惑っているうちに、扉は開錠され、あっさりと開け放たれた。
 目の前には茶色い髪を立たせた20台半ばくらいの男が立っていた。繁華街を歩いていたら、何人かはいそうな風貌だ。
 「あ、あなたは……」
 僕は言葉を失った。僕は、その人を知っている。でも、何故ここに、このタイミングで?
 立っていたのは、現在の将棋界の第一人者、冷谷山秋一三冠だった。
 
 冷谷山秋一。
 プロ前段組織への入会は24歳と異例の遅さであったものの、そこから連戦連勝で25歳で四段に昇級、プロとなる。その勢いのまま初年度にいきなり龍帝と騎帝という3大タイトルのうち2つを獲得し、一躍時の人となる。
 しかし、その実力は一過性のものではなくその後現在に至るまで両タイトルとも防衛を続けている。
 また、早指し戦も得意にしており、全国放送の棋戦〈みくの杯選手権〉では相手が指した瞬間にすぐに指すというパフォーマンスを貫きそのまま優勝もする離れ業を数年続けている。
 さらに、順位戦も5年という最短期間でA級まで駆けあがり、今年の6月末。須藤三冠から棋神のタイトルを奪取。入れ替わるように三冠を成し遂げてしまった。現在、前人未到の7冠制覇に最も近い男といわれている。
 ちなみに、冷谷山三冠はいずれのタイトル戦もフルセットの末の奪取をしている。その舞台はいずれもこの五稜亭旅館だ。つまり、この地では未だに負けなし。よほど相性が良いのだろう。
 三冠は扉近くにいた僕たちと部屋の中の様子とを観察してから「お前たち、監禁されてたんだな?」そう確認してきた。
 僕は小さく頷く。僕たちは椅子から立ち、縄は床に散らばっている。自力で解いてしまったため、そう判断してもらえないかもしれないという心配は無用だった。
 「まぁ、話はそっちの〈談話室〉に行ってからだな」三冠が視線で外に出るよう、促してきた。
 僕たちは三冠に付いていく。
 間近で見ると、その背中からは一般人にはないオーラを感じる。
 「あの……」
 「なんだ?」
 「何故、こんなところに?」僕は前を歩いている三冠に思い切って尋ねてみた。
 「こんなところ、か。ここは多少思い入れがある場所なんでな。プライベートで来てみた。それだけだ」
 プライベート……。
 もしかして、船着場で館主が言っていたVIPとはこの冷谷山三冠のことなのかもしれない。
 VIPといって差支えない人物だし、こうして今、館主が近くで案内に奔走をしている様子から僕はそう判断した。
 それにしても、何という幸運だろう。謀らずも、第三者を交えて弁明をするチャンスが急に舞い込んだのだから。

 〈談話室〉には館主以外の3人も集まっていた。メンツとしては、先ほどまでのメンバーに三冠が一人加わった形だ。
 「なぜこの小僧と小娘を監禁していたか、理由を聞こうか」
 小僧と小娘、か。確かにその通りかもしれないが、相変わらず口が悪い。実力者でありながら、平身低頭だった佐波九段とは間逆の存在だ。
 その口調から、プロ棋士仲間でもマスコミ関係者でも『礼に欠けている』と顔をしかめるものは多い。しかし、圧倒的な強さに惹かれる将棋ファンと面食いの女性ファンからは絶大な支持を受けているという。
 まさか、美月は冷谷山ファンになったりしないよな、と顔を伺うと「小娘って、あたしのこと?」と言わんばかりに僅かに眉をひそめていた。……この分なら、ひとまずは安心か。
 4人を代表して、館主がそれまでの経緯を語り始める。内容は僕たちが聞かされたときのものとほぼ同じだった。
 現オーナーが朝から行方不明で探していたところ、風雷庵で倒れているところに出くわした。そして、うわごとのように「封筒……」と呟いていた。
 ちょうど胸ポケットに封筒を挿していた少年少女に話を聞いてみると、「封筒は預かったものだ」という。
 「少年たちが、御前さまから封筒を奪ったと考えれば辻褄が合うと思ったのです」
 「抵抗する御前さまに無理やり薬を飲ませて、倒れさせたかもしれないわ」
 本当に散々な推理内容だ。御前さんは、僕たちが封筒を奪ったとは一言も言っていないんじゃないか。
 それに、薬がそんなに一日に一度しか飲んではいけない強力なものだなんて、今日この島にきたばかりの僕達が知っているはずもない。仮に僕が犯人だとしても、速攻で効き目の出るとは思えない経口投与などせず、ハンカチで薬を吸わせたり注射をするだろう。
 しかし、僕がわざわざ反論する必要はなかった。それよりも早く三冠が反応したのだ。
 「いかにも凡人が考えそうな、くだらん推理だな」腕を組みながら、三冠は4人を一瞥した。
 「よし。今度はお前たちの立場から状況を話してみろ。正確に、かつ、詳細にな」
 正確、かつ、詳細か。難しいことを言ってくれる。しかし、ついに念願の手番が回ってきた。
 僕が話してもいいが、先ほどある結論に至ってしまっている。それを意識すれば、作為的な事実だと誤解されるおそれがあるし、意識しなければ推理してもらう材料が不足してしまう。
 そうすると適任は――。
 「美月、頼めるか?」僕は小声で打診する。
 僅かに口許をへの字に曲げる。不服のサインだ。「なんであたしがそんな面倒なことを」と言わんばかりだ。
 いやいや、状況分かってますか? 冤罪のピンチなんだってば。
 ……。
 仕方ない。
 「……〈まめしば〉のアフタヌーンセット」僕は身を切り刻まれる思いで提案する。
 〈まめしば〉のアフタヌーンセット670円。好きなコーヒー一種と、デザート一種と、チョコレート2個のセットだ。
 夏休みは何かと金が掛かるというのに……。
 「取引成立」美月は小声で許諾した。
 「じゃあ、船を降りた辺りから、御前さまと別れて風雷庵を出たところまで……」
 「分かった。10時32分、ケーヤ下船。10時34分、あたし下船。船着場に4人で集まってから、10時38分、旅館に向けて徒歩で移動開始……」
 順調に僕たちの体験してきたストーリーが再生されていく。
 ただ、会話の一言一言や、パンフレットにあった温泉の成分までもあまりにも正確に諳んじている様子に、4人の大人だけでなく三冠も驚きの表情を浮かべている。
 そのため、「すみません、この子ちょっと頭良すぎるんです……」などと何故か僕が弁明する事態に見舞われた。
 「……で、おわり」
 そして、美月が話し終えた。目をつぶって黙考していた三冠は静かに眼を開き、開口一番「小僧、時計を見せてみろ」と言った。
 僕は三冠に見えるように腕を掲げて見せる。それを一瞥すると、「……アナログか。なるほど、もういいほぼわかった」と手を振った。
 
 「結論から言うと、小僧と小娘は無実だ。ばあさんは自分で薬を飲んで倒れたんだ」
 僕は思わず、心の中で拳を握り締めた。頭の中では『無罪確定』の垂れ幕を持った人たちが歓喜している。
 「自分で……って、あれは夜に飲むのよ。外も明るいうちから飲むはずが」
 「笑止。夜の11時と勘違いしたんだろう。〈管理室〉は外光が入らない位置にある。時を示すものがなければ、正確な時刻は分からん。
  『せっかくの綺麗な庭園が見れなかった』『もっと早くに来れば良かった』小僧のセリフだったな?
  小僧は、改装中のため室内から庭園が見られなかったというつもりで言ったんだろうが、ばあさんは夜になったから辺りが暗くて庭園が見られなかったと勘違いしたんだろう」
 そう、確かにあのとき僕はそのつもりで言っていた。もう少し具体的に話していたら誤解は起きなかったかもしれない、御前さんは倒れなくてすんだかもしれないと思うと、心が痛んだ。
 「さらに時計だ。小僧のつけているシンプルなアナログ時計では11時なのか23時なのか、判断できん。周囲の状況か、連続した記憶があれば判断はつくだろうがな」
 僕は、6月に風邪が長引いて毎日毎日寝込んでいたときのことを思い返していた。
 眼が覚めた瞬間、辺りが暗くて感じる違和感。時計を見ると5時を示している。あれ、なんでこんな状況? 泥のように眠って、もう翌朝なのか?
 ……いや、昼飯食べてすぐ寝たんだったか。今は夕方の5時なわけか。
 健康な人間ならいざ知らず、寝たきりが続いていた御前さんもきっと様々な角度からの情報がなければ、寝起きに正確な時刻を把握するのは困難だったのではないか?
 そこでふと思い至り、隣の美月の横顔を見つめる。表情は特に変わっていない。
 連続した記憶が保てず、毎朝、記憶がないところからスタートし、その都度情報をインプットしなおしている美月。そんなことを周りのニンゲンが気付かないような振る舞いを、何千何百回と続けているのだ。
 美月は、そのことをどう思っているのだろうか。それが『当たり前』で、不自由など感じていないのだろうか。
 「〈三人虎をなす〉ということですか……」館主が小さく呟いた。
 虎が出たなどという眉唾モノの話でも、三人ものニンゲンから耳にしてしまうと、もしかしたら本当かも! と信じてしまう。確か、そんな故事成語だったか。
 今回の件も、御前さんが11時を23時と勘違いしてしまう要素がいくつか重なってしまったことで悲劇が起きてしまった。
 「ま、世の中の事件なんてものは、大抵こんなもんだ」
 三冠がそう言って、一同を見回した。
 
 「はっはっは。よっしゃよっしゃ。もう、少年たちを疑うのは止め、としようや!」
 静まりかえっていた室内に、豪放磊落な声が突き抜ける。誰何するまでもなく、豪傑さんだった。
 眼が合う。その眼差しには既に友好的な色が戻ってきていた。それをみて少し安堵する。
 「……そうね」
 「なんというか……、縛ったりしてすいやせんでした」
 「私たちもすっかり動転していたようです。非礼をお許しいただけますでしょうか……」
 他の3人も徐々に疑惑を説き始めていたが、豪傑さんの言葉が、渡りに船となったようだ。
 僕たちの扱いも、容疑者から宿泊客へと無事戻ったといえそうだ。
 「あ、あの……」
 場が砕けてきた。それを感じて、僕は気になっていたことを口にした。
 「御前さんの容態は……?」
 場が再度、静寂に包まれた。丸井の4人が視線を送りあっている。口を開いたのは沙羅さんだった。
 柔和な表情を浮かべながら「御前様については気にしなくていいわ」。
 それを問題なく快復した、と捉えた僕は、続けて出てきた言葉に驚いた。
 「今夜がヤマでしょうからね」
 今夜がヤマ? それなのに、どうして平然としていられるのだろうか? こんなところにいる場合か?
 僕の顔に疑問が分かりやすく浮かんでいたのだろうか。沙羅さんが続けて補足する。
 「元々、意識があるのが奇跡的で、次に倒れたらもうダメだって円先生からは言われてたのよ。
  あの後、かろうじて心肺は回復したけど、急遽〈管理室〉に簡易ベッドを用意して今は面会謝絶。今は円先生がつきっきりで診てくれているわ」
 あの元気そうに見えた御前さんが。そんなことになるなんて。
 ここまで何度も聞かされてきたことながら、その事実にショックを感じる。一見元気そうに見える、両親や友達、そして美月もある日突然倒れてしまう可能性があるといわれているのに等しいと感じたからだ。
 「さて、考えなきゃならんことがもう一つあるな」三冠の発言に僕は現実に引き戻された。
 「封筒だ。ばあさんが倒れた今、明日の朝まで待つ必要もないだろう」
 封筒――。
 先程から、何人もの大人が行く末を注視しているその中身は僕だって気になっている。御前さんは僕たちに何を託そうとしたのだろうか。御前さんとの約束が頭によぎったが、三冠の言うとおり状況は大きく変わっている。
 面会謝絶の今、僕たちにできることは限られる。今、どんな形であれ御前さんはこの世に留まっているのだ。そのうちに、できることがあればしてあげたい。そう思うのは当然に思えた。
 「それに、早い方がいいこともあるだろう?」
 その言葉に丸井家の4兄弟が無言ではあるものの、身体の一部がそれぞれ敏感に反応しているのが見て取れた。
 死亡に伴い銀行口座などは凍結され、しばらく資金移動ができなくなる。その前に動ける最後のチャンスという意味合いだろう。
 以前に、琴羽野さんがそんな話を聞かせてくれたのを僕は思い出した。
 いつの間にか、左手に封筒、右手にペーパーナイフを持つ三冠を止める者はいなかった。
 
 ペーパーナイフが少しずつ滑り、封が開けられていく……。
 取り出されたのは、外観からしても至極真っ当なものだった。
 しかし、中から出てきたものの内容までを予想できた者は誰ひとりいなかっただろう。
 それは、御前様のような風情のひとがが作ったにしては非常に奇怪な代物だったから。
 入っていたのは折りたたまれた紙がたった一枚だけ。
 その中央には、赤い線で、星のマークが大きく描かれていたのだ。
 
 「ゴリョウセイ……?」
 言葉を最初に発したのは館主だった。
 ゴリョウセイ? あ、この形はもしかして。
 僕たちが今いる五稜亭旅館の構造そっくりじゃないか。
 「五芒星とは違うんですか?」僕は不思議に思って尋ねる。よく魔法陣などでも使われる星型の図形をそう呼んではいなかったか。
 「えぇ。五芒星は一筆書きでよく書くような、5本の線の組合せでできる形です。それに対して五稜星は中に線がないすっきりとした状態のものですね」
 五芒星と五稜星にはそういう違いがあったのか。言われると納得だ。
 そういえば、五稜亭旅館の中も5つの区画は壁で区切られてはいなかった。もし仕切りがあったなら、五芒亭という名前になっていたのだろうか。少なくとも語感はいまいちな印象になってしまう。
 「実は、この旅館も元をただすと五芒星に行き着くんですよ。丸井家の家紋は以前ご覧頂いたように、丸の中に井の字が入っていますね?
  井の字は4本の線でできています。そもそも〈子牛島〉が選ばれたのも、家紋の『格子状の縞模様』でコウシシマと連想してのようです。
  そして、さらなる繁栄をとの願いを込めて一つの線を足し、5本の線を使って模様を描こうとすると……五芒星になったのです」
 「結局まぁ、五芒星って呪術的な意味合いとかそういう暗いイメージもあるじゃない? だから、五稜星になるようにしたんだってさ」
 「はっはっは。おかげで、料亭なのか旅館なのか分からん、紛らわしい名前になっちまったわけだがな!」
 「やや、全部言わないで、あっしにも何かしゃべらせてくださいよ」
 僕の何気ない質問で硬直が解けたようで、それまでとは打って変わって丸井4兄弟が活気付いてきたようだ。
 一番最初に見たときの旅館従業員としての堅さもなく、僕たちに睡眠薬を盛ったときのような怖さもなく、これが彼らの本来の表情なのだろう。
 「しかし、どうして文字じゃなくて図形なのかしら」
 「何か、直接的には表せない事情があった、とかでしょうかね……」
 彼らの話題は徐々に『赤い星』の推理の方にシフトしていった。
 「赤い……星……」
 「うーむ……」
 部屋は沈黙に沈んでしまった。館主さんは顎に手を当て、豪傑さんは腕を組み、沙羅さんは手帳にペンを走らせ、スキンヘッドさんは頭をさすっている。
 4人は考え込んでいるが、三冠と美月は特に興味はなさそうだ。手近にあるお茶請けに手を伸ばしたりしている。
 僕はこの手の謎掛けにはつい反応してしまうタチなので、一応考え始めてはいる。しかし、今のところ何一つ浮かんでくるものはない。今までのように、真正面からお願いされたりというようなプレッシャーがないからかもしれない。
 「赤いホシってったら、梅干とかでしょうかね」スキンヘッドさんが言う。旅館の厨房を任されている彼ならではの考えかもしれない。
 しかし、何故梅干……。案の定、沙羅さんから厳しい突込みが入った。
 「つまり、どういう意味なわけよ?」
 「えっ? なんというか……。梅干は腐りにくくて、賞味期限が長いから……。つまり……えぇと、腐るな? いや、息長くがんばれとかそういう……」
 館主は眉間を押さえ、沙羅さんは深いため息を吐いた。他の面々はアクションこそなかったが、同じ心境だったろう。
 「他に、何かないでしょうかね……」虚空に向かって呟いたのは館主の優しさだったのかもしれない。
 「む!?」
 意外にも次に名乗りを上げたのは、豪傑さんだった。何かに気づいたのか、眼を大きく見開いている。……少し怖い。
 「はっはっは。これはどこから見ても赤い星だ!」そして、逞しい人差し指を卓上の紙に向けて言い放つ。見たまんまである。
 「そして、『ア・カ・ホ・シ』を五十音で一つずらすと……『イ・キ・マ・ス』になるぞ?」
 沙羅さんの厳しい突込みと、それを実は期待していた一同は、一瞬息を呑んだ。
 ――逝きます。
 もしそれが真のメッセージだとしたら、一大事だ。先ほどの一件が偶然の事故ではなく、故意の自殺だった可能性が浮上するのだ。
 しかし、一瞬ハッとさせられた意見も、
 「イマイチね。アカホシっていう読み方違和感あるんだけど。一般的な言葉かしら? アカボシやアカイホシとかならまだましだけど。
  なにより、一日に一回しか服用できない強力な薬を使ってでも生き続けようとする人よ? 自分から、命を絶つなんて考えられない」
 沙羅さんは手帳に目線を落としたまま、きっぱりと言い切る。それを聞いて他の3人が黙り込んでしまう様子からして、的を射ているのだろう。
 「そうだ、こういうのはどうでしょう」
 今度は、館主は手を打ち、切り出した。この人は見た目どおり慎重な意見を述べそうな気がする。期待できそうだ。
 「五稜星は、別名で五光星とも言われるのです」
 「それが?」
 「赤、五光星。赤子、後世。つまり、跡継ぎを早く作れということではないでしょうか?」
 「……確かに、あっしらはまだ独身で子供も当然いない。筋としてはありえなくはないすが……」
 全員独身とは少し意外な感じがした。4人とも、年齢は30台から40台くらいに見える。そういうことであれば、その推理も正解になりうるかもしれないなと思ったが。
 「あ、でも……」
 「なんですか?」
 「ここ数年は、『いざとなりゃ、養子でも取るかね』って呟いていた気がするわ」
 「そう言われてみれば、そうだったかもしれませんが……」
 「御前さまはあんまりあっしらのコト誇らしく思ってないフシがありましたしね」
 そして4人から、御前さんからなじられた思い出が次々と解き放たれた。
 苦い思い出の飛ばし合いが小康状態になったころ、沙羅さんがついに推理を披露した。
 「じゃあ、こういうのはどうかしら?」手帳をこちらに向ける。なにやら文字が書いてある。
 「これは、一つの赤い星、よ。つまり……『ONE RED STAR』。これを並べ替えると『ARREST ENDO』になるわ」
 アナグラム、か。なるほど、暗号なら王道かもしれない。
 「エンドウを……逮捕しろってこと?」
 「……しかし、旅館の従業員にエンドウという名前の者はいないはずです。過去のお客様でならばあるいは……」
 今の従業員にはいないのか……。しかし、過去の宿泊客にまで範囲を広げてしまうと、今度は収拾がつかない気がする。
 「だいたい、外国語なんて全然話せんでしょう」
 「確かに、御前さまはペンギンを企鵝(きが)と呼ぶような御方です。他の人物のメッセージならともかく、御前さまが外来語とは考えづらい――」
 「何よ! あんたたちの珍説よりは、よっぽど、断然まともでしょうが!」
 「姉貴はいつもそうす。自分が攻撃されるときは敏感で……。ヒステリックになりなさんなよ」
 「はっはっは。女性はカルシウムが不足しがちだからなぁ。牛乳だ、牛乳を飲めぃ!」
 「余計なお世話よ!」
 場が混沌としてきた。次々と推理は繰り広げられはするものの、生まれては消え生まれては消え。
 そして、昼食の時間帯が過ぎていく。そろそろ本格的に腹がすいてきた感じだのだが、皆はまだまだ頑張るつもりの様子だ。
 ここで、僕はもう一度御前さんの気持ちになって考えてみた。
 僕に一通の封筒を託して明日の朝に披露する。立ち会うのは恐らく、丸井の4人と僕と美月。
 中に描かれているのは『赤い星』。その意味を、例えば制限時間内に解かせ発表させる……。
 アクシデントが起こらなければ、そんなイベントを考えていたのかもしれない。
 とすると、これは計画的に考えられたイベントで、『赤い星』の意味も〈ダイイングメッセージ〉のような突発的、あるいは、性急な解読が必要なものではないと言えそうだ。
 再び、シンキングタイムが訪れた。興が湧いたのか、三冠も推理に参入したしたようだ。眼を瞑って身体を大きく反らせている。テレビ中継でも見たことのある、長考の時の姿勢だ。
 最初に口火を切ったのは、スキンヘッドさんだった。
 「花札では、〈五光〉という役がありやす。その札は、それぞれ〈松に鶴〉〈桜に幕〉〈芒に月〉〈柳に小野道風〉〈桐に鳳凰〉と言いましてね。
  ご存知のとおり、それぞれの札には〈1月〉〈3月〉〈8月〉〈11月〉〈12月〉と月が割り振られとります」
 「それで?」
 「これをばらしてつなげると、1381112。語呂合わせだと『遺産は1112』となるんですが、いかがでしょ?」
 「……つまり、『遺産は111に』相続させろと言う意味だって言いたいの?」
 「『111』とは誰のことを指しているのでしょうか?」
 「いやぁ、あっしは『1対1対1対2の割合』を意味してるんじゃないかと思っとるんですがね」
 遺産、というキーワードが出て丸井の4人の表情に緊張が走ったのが傍目にも分かった。
 丸井家は名家だ。この五稜亭旅館を見れば分かるとおり、総資産額は一般人の僕には想像もつかない。
 ましてや、推理の結果が正しいとするならば、一人だけ5分の2もらえるのだ。例えば、総資産がたったの5億だとしても、1億か2億かの違いになるわけだ。
 そして、問題は誰が2倍多くもらえるかということだが……。
 「生まれた順と捉えれば、あっしが2ということになりやすがね」スキンヘッドさんが困惑した表情で言う。御前さまが決めたことだから仕方ないですね、と言わんばかりだが内心ではほくそえんでいるかもしれない。
 「ちょっと待ちな。割合が1対1対1対2なのはいいとして、誰がそうかってのはもっと慎重に推理しないと!」
 「はっはっは。五十音順だと、おれが一番最後になるな」
 「誕生日なら12月生まれの私だわ」
 先ほどよりも議論が熱を帯びているのを感じる。これがお金の魔力というやつなのだろう。かくいう僕だって、当事者になったら分からないだろう。
 確かに、スキンヘッドさんの推理はこれまでの中では一番暗号解読らしい気はする。すると、これが……正解なのだろうか。

 ――パチン!
 
 乾いた空間を切り裂くような音が響いた。
 僕はこの音を知っている。扇子の音だ。こんな状況で、その音を出すのは一人しかない。
 「……そろそろオレの出番か」三冠が呟く。
 「他の家のばあさんならいざ知らず、あのばあさんが描いた星ならこの五稜亭旅館を連想したと考えるのが妥当だろう。
  この旅館はその区画ごとに名前が振られていたな?
  朱雀、玄武、青龍、白虎、麒麟。そして、これらはそれぞれ五行では〈火〉〈水〉〈木〉〈金〉〈土〉を示している」
 ……あ。
 こんなタイミングではあるが、そう言われて腑に落ちたのが各娯楽スペースにあった施設のことだ。
 朱雀と玄武の間には、温泉があった。これは、〈火〉〈水〉の間に位置するから、『温泉』だったのだ。
 彫刻展示場や陶芸展示場など、およそ旅館に存在するには違和感がある設備もそういう見方をすると一応辻褄が合っているように思える。
 「それぞれの名前にも五行の漢字が入っている。沙羅には〈水〉が。新吾には〈木〉が。鑑には〈金〉が。敬基には〈土〉が。
  そして、それらが赤で描かれている。赤の色を示すのは〈火〉。〈火〉の者がこれらを統べるよう、序列を定めたのだ」
 名前にキーワードが含まれているあたりが、〈五光〉の推理よりも確度が高いような気がした。
 しかし、「はっはっは。ちょっと、待たれよ? そこで出てくる〈火〉とは誰だ? 我々は4人兄弟だが……」当然の疑問を長男の豪傑さんが問う。
 三冠だけが悠々と扇子を仰いでいたが、やおらそれを止めて面々に向けて広げてみせる。
 「俺がいるだろう」
 室内の時間が一瞬だけ止まる。
 そこには、『神意 冷谷山秋一』という文字が揮毫されている。
 「まだ分からんか? 俺の名前に〈火〉が入っている」
 冷谷山……秋一。確かに、秋の字に〈火〉の字が入っているが。
 「そんな……偶然でしょ?」
 「これだけ言っても分からないか。では、『チヨコ』という名前を出したらどうだ?」
 三冠の挙げた名前に4人は反応する。
 「『チヨコ』と……『シュウイチ』!?」
 「ま、まさか。あなたは、お館さまの前妻の……」
 三冠は満足げに口の端をあげた。

 5人の間では、どうやら共通認識らしい。
 話についていけていない様子の僕(とついていくつもりのない美月)に、館主さんが説明をしてくれた。
 「御前さまから聞いた話です。前妻にチヨコさまという方がおられた、と。18でお館さまと結ばれたそうです。
  チヨコさまは元々、丸井家に仕える身でした。その誠実さや器量は大層すばらしかったそうですが、先々代は名家の娘と結ばせたかったらしく内心おもしろくなかったようです。
  また、様々な試みをなさったそうですが、5年間お子様に恵まれなかったようです。先々代は、それを大きな理由として離縁を言い渡してしまったのです。
  その後、私たちの母であるぼたんが後妻となり、私たち4兄弟を生みました。
  それから歳月が流れ、風の噂でチヨコさまがシュウイチという子供を育てているという話を聞くこととなったのです」
 「そして、その子がお館さまの血を継いでいるとも言われていたのよ」
  つまり、隠し子ということだろうか。丸井家のような名家にとっては、大きな問題だろう。
 「でも、そのシュウイチの年齢がどうにも妙なのよ。噂になった当時、チヨコさんが46歳で、シュウイチが8歳。逆算すると、38歳で生んだことになるじゃない?」
 「それに、チヨコさんがこの屋敷を出て行ったのは、25歳のときと聞いています。それから一歩も〈小牛島〉には足を踏み入れておりません。また、お館さまも〈小牛島〉から外へは出ていません。
  見ての通り、小さな島です。誰にも見咎められずに上陸することはまず不可能……」
 「なら、千兵衛じいさんの好物が〈タラの芽の天ぷら〉だったとか、〈貯蔵庫〉に漢字の〈心〉のような模様が入っている柱が2つある、と言ったらどうだ?」
 「そんなのは、探偵でも雇って元従業員に聞いたりすれば知り得るわ」
 「……やれやれ。結局、これの出番か」
 三冠は懐から封書を一通取り出すと、卓上に放り投げた。
 「DNA鑑定書だ」
 沙羅さんが封書を手にする。傍らにペーパーナイフもあったのに、それすら使う時間が惜しい様子で封筒を開けている。
 「嘘……。『冷谷山秋一は丸井千兵衛の実子と認める』……ですって!?」
 「よりによって、検査したのは円先生……ですか。それならば、お館さまのDNAを持っていても全く不思議はありませんが……」
 否定を続けても、キリがない。また新たな〈証拠〉が出てくるに違いない。先ほどの〈三人虎を成す〉ではないが、信じざるを得ない状況だ。
 場の空気はそんな風だった。
 三冠は腕を組んだまま、辺りを見回している。招かれざる5人目の兄弟が、次にどんな言葉を続けられるのか。丸井の4人も様子を伺っている。
 「冷静に考えてもみろ。こんな図形の謎を解いたところで、その内容が遺言になるはずがなかろうが。『謎を全て解いた最初に解いた者に相続させる』などという遺言書が別途見つかれば話は別だがな。
  だが安心しろ。俺は資産だの何だのそういうものに興味はない。俺の目的は、丸井家に俺の優秀さと母の存在をはっきりと認めさせることだけだったからな」
 室内には優雅に扇子を仰いでいるパタパタという音だけが響いている。三冠の表情は涼しげだ。
 一方、丸井の4人はまるで叱責された子供のように萎縮し、机の表面に目を落としている。
 この構図は確かに三冠の望んでいた一つの結末かもしれない。でも、何かが、間違っている気がする。
 「さ、さて、答えも出ましたし、もうこんな時間です。お開きにしますか」
 重苦しい雰囲気を打開するように、館主さんが腕時計をわざとらしく見つめながら切り出した。
 一同もこれ以上何かを言う気力も失われたようで、それを契機に席を立とうとする。いち早く、この場を離れたいというオーラがはっきりと眼に見えるようだ。
 こういうケースで、僕は普段声を上げることはない。発言を求められたら答えるけれど、積極的には動かない性格なのだ。出る杭になるのが苦手だから。
 しかし、どうにもこのままじゃいけないような気持ちがどんどん大きくなっていく。そして、それが飽和状態を迎えた。
 「あの、一つだけ……いいですか?」
 僕は意を決して切り出した。
 「なんでしょう?」
 場の収束ムードを遮る形になった僕の発言に、一同は僅かに懸念した様子だった。丸井4兄弟と三冠の視線が集中する。
 それは、以前、部活総会での奥地会長や他の部長のされたものと重なってみえ、思わず発言を取り下げてしまいたい衝動が爆発的にこみ上げてくる。
 しかし、今日は傍らに美月がいてくれている。それだけで心強くて、それだけで格好悪いところを見せたくないなと思って、顔の紅潮や声が上ずりそうな気配は驚くように霧消していた。
 小さく唾を飲み込んで、拳を握り締める。
 「少し考えてみたんです。それぞれの頂点がお互いに『両手』を伸ばすようにしたら、ちょうど星になるように見えるなあって。
  線も赤いし、暖かい血の通ったニンゲンの形容にも見えます」
 「……あらあ、ずいぶんロマンチックな推理だこと」沙羅さんは微笑む。一見、表情には嘲りは見えないものの、話し方にはわずかに失笑の成分が含まれているようだ。
 確かに、そこだけ聞いたら逆の立場でも噴飯しそうだ。でも、構わない。続ける。
 「美月、この星の内角って何度になるかな」
 「0.628318531……」
 「――ごめん、ラジアンじゃない方で」僕は慌てて制する。危く無限の世界に突入するところだった。
 「度数法ってこと? それなら36度でしょ」美月は即答する。もちろん、話をしようとする以上、僕も計算済みではあった。
 単純な割り算を彼女に尋ねるのは、掃除機の性能を確かめるために砂金を床に巻くような贅沢なものと言えるけど。まあ、こういうのは会話のリズム感のようなものだ。
 「そして、この線は定規は使っているようですけど、所詮ニンゲンが手書きをしたものです。だから、角度はピッタリ36度じゃない。約36度なんです」
 「それがなんなの?」沙羅さんは回りくどい説明は苦手なようだ。
 「ニンゲンの体温も約36度でしょう。これって果たして偶然でしょうか」
 丸井の4人は呆気に取られた表情を浮かべ、三冠は露骨に怪訝な顔を作っていた。しかし、まだ推理は言い切っていない。僕は構わず続ける。
 「つまり、遺産とかそういうの以前に、丸井さんたち4人と冷谷山三冠が手をつなぐようにして仲良くやっていってほしいというメッセージかと思ったんです、けども」
 生じた沈黙は一瞬だったはず。けれど、とても長く感じた。
 「はっはっは。こいつはいい!」
 「馬鹿馬鹿しいけど、今日一番の推理だったわよ」
 丸井の4兄弟は揃いも揃って、大爆笑だった。しかし、何もそんなに笑わなくても……。
 そんな中、三冠は「……下らんな」と、不快を一人あらわにしていた。
 綺麗に収まりかけた流れをふいにするかのような差し水と思われたのかもしれない。
 「出題者を貶めかねん答えといっても過言ではなかろう」
 言葉の内容は非常に厳しかった。5人の反応を見て、僕は、あぁやっぱり黙っておけば良かったかと思ってしまった。
 しかし、意外なことに三冠の発言に丸井4兄弟が猛反発した。
 「はっはっは。あんた、そりゃ言いすぎだろう。それなりに理屈は通っとるじゃないか?」
 「なんだ? 無能どもが集って吼えよるか」
 「正解不正解によらず、ゴールに行き着いたではありませんか。立派に答えの一つかと……」
 「ふん。本人がゴールだと思い込んでおるだけだ。愚かしい」
 「私も最初はおかしな答えと思ったけど、結構面白い回答じゃない。仮に正解だったとしても悪くないと思うわ」
 「莫迦を言うな、断じて正解なはずがない」
 「正解だよ」
 「誤答だ!」
 「本人が正解だと言っておるのだから、正解だ」
 「本人だろうが何だろうがそんな答えが認められるわけなかろう!」
 不意に浮かぶ違和感。
 全員の視線が違和感のした入口の方に集まる。
 「御前さま!」
 そこには、杖をついた御前さんが立っていた。脇には白衣の円医師が介添えについている。
 「なっ、ご無事でしたか!」
 「いつからそちらに!?」
 「……ふん。結構前から聞かせてもらっておったわ。様々な珍説、奇説をな」
 そして、鋭い視線で一同を見回す。
 「全く。遺産だのなんだの……。倒れたところまでは事実だが、まだ大人しくくたばるつもりなどないわ。
  こっちにも色々と都合があるから、円先生にお願いして誇張してもらってたんだ」
 「ひっひひ。申し訳ないね、ご子息方。御前さまのお願いとあっては断れませんからね」傍らに控えていた白衣の男が頭を掻く。
 この人が円医師か。視線が常に定まっておらず、左肩だけがいかり肩になったような姿勢をしている。言われないと、とても腕の良い医者だとは思えない怪しい男だ。
 二人は、近くに空いていた椅子に腰掛けた。
 「何故、俺のが正答じゃない!?」
 着座するやいなや、三冠が問い詰める。これほど感情を表に出しているところをみるのは初めてかもしれない。
 それは、激昂というより子供の癇癪のようにもみえる。だがしかし、
 「……何故、正答じゃないといけないんだい?」御前さんは動ぜず切り返した。
 「オレは、丸井の連中――あんたと爺さんと、その子供たちに優秀さを見せつける、その復讐のために今日、そしてこれまでやってきたんだ。
  母から聞かされたよ。最初、囲碁に縁のある優秀の〈秀〉の字をあてる予定だったところを季節の〈秋〉の字に変えたんだと。
  あんたがそう強く勧めたんだってな?」
 「ああ。相違ないよ」
 「俺が生まれたとき、既にそこのでかぶつが囲碁の院生になっていた。丸井家の悲願成就は目前って訳だ。
  見ての通り、俺は将棋でここまで結果を出してきた。きっと、囲碁を選んでいても同じように結果を出せただろう。
  もし俺が囲碁の道に進んだら、丸井家の障碍になりうる。そう思ったんだろう? 将棋を押し付けられた俺の気持ち、到底分かるまい」
 三冠は扇子を開閉する仕草を早めていく。それは、ほの暗い感情を増しているのを表しているかのようだ。
 「……将棋は嫌いかい?」
 「ああ。大嫌いだよ」
 はっきりと言い切った。その言葉は、僕に深い衝撃を与えた。
 将棋だけに限らない。その道で偉大な実績を挙げるほどの実力者は、その道を愛しているはずだ。そう思っていた。
 強くなるためには、上手くなるためにはたゆまぬ努力が必要だ。それは、好きでなければ続けられるものではない。
 負けたり、上手く行かなかったり、思い通りにならなかったとしても投げ出さず。自分自身がきっと今より上達することを信じて、立ち上がる。
 佐波九段は、敗戦した後も日付の変わった激戦のあとでも「将棋が好きです」「将棋が楽しめました」という言葉を残していた。
 同じ棋士という立場でありながら、どうしてこれまで対極的なのだろう。
 御前さんと三冠が視線を交錯しつ続ける。一人でも強烈な威圧感が、真っ向からぶつかっているのだ。場が緊張しないはずがない。
 「ひっひひ。ここは一つ、丸井家と付き合いもそれなりに長い私めが、一つ昔話をお話しましょうかね」
 意外な人物が声をあげた。円医師だ。
 「円先生、これは丸井家の問題――」御前さんが止めようとするが、「ぼたんサン、こういうのは第三者が言ったほうが、円滑になるモンですぜ」と引かない。
 「秋一クン、さっき自分で言っていただろう。自分の字に〈火〉が入っていると。
  下の名前は死ぬまで変わらない。それこそが、キミが丸井家の兄弟の一人なんだということを誰にも揺るがさせない証跡になるからだ。
  あと、世間的には将棋も平等に扱っているが、内々では丸井家は代々囲碁を贔屓にしてるんです。家紋由来でね。
  だが、千兵衛サンは将棋を圧倒的に溺愛してたのさ。そして、自分の子がモシモ将棋棋士になったらどんなにか、と願っていたのサ。
  ただ、頑固な先々代が許すはずもなく、棋の素養があった新吾クンは囲碁の道を歩んでいった」
 「……」
 「チヨコサンが、丸井家を出ることになったのは不幸なことでした。
  チヨコサンはその後、一人の子供を生む。辛い想い出を避けるように、囲碁や将棋を無理にさせるようなことはしなかった。むしろ遠ざけようとさえした。
  だが、その子はいつのまにか将棋を覚え、楽しみ始めていたんだ。まさに親子だ。
  その子供が、秋一クン、君だよ」
 「……今さら、そんなこと信じられるか!」
 三冠は立ち上がる。そして、そのまま逃げるように部屋を去っていく。
 誰も、追わない。追えない。御前さんも追わない。
 「円先生、ありがとうよ。伝えたいことはもう全部伝えられたよ。どう結論を出すかは、本人に任せるとしよう。
  大丈夫。あの子は強い子だ。時間は掛かるけど、必ず自分なりの答えを見つけられる子だ。チヨコさんもいつもそう言っていたよ……」
 そう言って、傍らに立てかけていた杖を床に叩きつける。カツンッと大きく響いた音に、一同が我に返ったようになる。
 「少年、今、なんどきだい?」
 不意打ちに驚いたが、慌てて時計を見せながら答える。今度は丁寧に、
 「昼の、午後の、1時です」
 それには御前さんも僅かに苦笑いを浮かべた。そして一言。
 「腹が空いたろう。アタシもだよ。昼飯にしようじゃないか」

 

 小説『All gets star on August =星の八月=』(3/4)に続く