総村スコアブック

総村悠司(Sohmura Hisashi)の楽曲紹介、小説掲載をしています。また、作曲家・佐藤英敏さんの曲紹介も行っております。ご意見ご感想などはsohmura@gmail.comまで。

小説『All gets star on August =星の八月=』(3/4)

 【第三章】 星

 *****

  ほし【星】〔名〕…夜空に小さく光って見える天体。

 *****

 

 甲殻類はどうして美味しい身体を持ってしまったんだろう。進化の過程で、不味い身体になっていったなら、今頃は見向きもされず海の中で悠々と繁栄できたかもしれないのに。
 いかに固い殻といえども、文明の利器を持つ『考える葦』の前では無力である。
 そんな哲学なようで、そうでない思いを抱きながら僕はカニの刺身を頬張っていた。
 なんて美味しさだ。カニなんて、ボイルされたものしか食べたことがなかったから、そもそも生で食べるという発想自体がなかった。
 「お味はいかがです? 島の近くで取れるニイチガニといいましてね。少量しか取れないんで、一般にはあまり流通せんもんです」
 調理帽をかぶったため、スキンヘッドであることがすっかり分からなくなった敬基さんが説明してくれる。
 僕たちは御前さんの取り計らいで、旅館関係者が利用する裏手の部屋で昼食をとっていた。
 初日の昼食は別料金のため、ありがたいお誘いだと思って応じたら、思わぬ豪勢な食事を出してもらって戸惑っているところだ。
 「まかないなんで、あんまり綺麗なものじゃございやせんが……」
 「そんなことないですよ、味も本当に美味しくて」
 〈小牛島〉の近海で取れる魚介類、そして山菜を中心とした品が5~6品はある。
 美月は静かに食べているが、普段よりペースがゆっくりに感じる。舌で味わっているのだろう。
 「今晩のお祭ではもっと凝った料理を出しますから、そちらも堪能してくださいよ」
 「お祭……ですか?」
 「あれ? ご存じない? 今夜は七夕祭やるんですよ」
 七夕? 今は八月だけど。僕の頭上に『?』が浮いたのに気づいたか、
 「この島では、旧暦にやってるんですよ」と説明してくれた。なるほど、旧暦だから一ヶ月遅れなのか。
 「無料で浴衣の貸し出しもやってるんです。この浴衣がなかなかの高級品でね。着物好きの方には垂涎ものですよ。
  人間国宝の着物職人一族と丸井家とがちょっとご縁があるのでできたイベントでして」
 将棋部顧問でありながら、駒の動かし方すら怪しい泉西先生が何故この旅館を選んだのか。その訳が今やっと分かった気がする。
 
 食事を終えて、僕たちは再び五稜亭旅館のメインフロアに戻ってきた。
 なんだか、随分色々あった気がするが時計を見ればまだ1時47分だ。
 とりあえず、チェックインを済ませてしまおう。
 クロークで預けていた荷物を受け取り、フロントで「3名で予約のセンセイです」と名乗って手続きを進める。
 鍵を渡されるのかと思ったら、男性が一人回り込んできて僕たちの荷物をひょいと持ち出した。
 「それでは、ご案内いたします」
 う、うわぁ……。
 忘れかけていたが、ここは高級旅館なのだ。なんだか、とても緊張する。この人が運び屋……じゃなくて、ポーターの役割の人かな。
 これって、荷物を運んでもらった後に「ココロヅケ」とかいうものを渡さないといけないんだっけか? うーむ、さっぱり分からない。
 とりあえず、こういうところに宿泊する経験をさせてくれなかった両親に怨念のオーラを送信した。父は深爪に顔をしかめ、母はジャムの瓶がちっとも開けられずに苦しむことだろう。
 息子が、彼女の前で赤っ恥をかく危機なのだ。当然の報いである。
 ドキドキ感は自分で持ち運びながら、僕たちの荷物を持ったポーターさんに着いて歩く。エレベータで5階に上がり、5方向のうち麒麟の方に案内された。
 「こちらでございます」
 開けてもらったドアの先に進んで、言葉を失う。
 床の間には、値の張りそうな掛け軸と活け花。窓からの眺望は視界いっぱいに海が広がり、非現実的な高揚感がこみ上げてくる。
 しかし。
 「す、すみません。本当にこの部屋であってますか?」僕は不安になって尋ねてしまった。
 一介の教師に過ぎない泉西先生が、良質な着物が着られるというだけでこんなに高級な部屋を取っているはずがない。別の客と間違えているのではないかと考えるのが自然だと思ったのだ。
 すると意外な答えが返ってきた。
 「えぇと、こちらにご宿泊予定の丸井新吾さまがお二人の部屋と交換するように……と頼まれまして」
 「丸井6段が?」
 「はい。『元々、一人で宿泊するには広すぎるし、二人には借りがあるのだ』と言われておりました」
 豪傑さんの豪放磊落な性格を考えると、十分に信憑性のある話だ。
 「こちらのお部屋はキーは一つですが、中は鍵のかかるお部屋がいくつか分かれております。もし、不都合がございましたら、元に戻すよう手配いたしますが?」
 ポーターさんは美月の方に尋ねる。
 鍵が掛かるとはいえ、年頃の女の子だ。近くに男が寝泊りするのは気になったとしても不自然ではない。
 美月は珍しく即答せず、しばらく考え込んだ後、「せっかくだし、ここでいい」そう答えた。
 きっと、この部屋が気に入ったというのが理由だろうけど、僕はその答えは自分の存在を肯定されたような気がして、少しばかり嬉しくなってしまった。
 「承知しました。それでは、ごゆっくりお過ごしください。なお、当旅館のサービス料は宿泊料込みで頂いておりません、ご了承くださいませ」
 そう言って慇懃に一礼をして去っていった。ココロヅケの心配もなくなって、一安心だ。もしかしたら、僕がそわそわとポケットの財布を出そうか出すまいか逡巡していたのに気づいていたのかもしれない。
 こうして、僕は念願の二人きりの状態を2時過ぎになってようやく得られたのだった。
 
 「コーヒーでも飲もうか?」
 僕は切り出した。情けないことに、間がもたなくなったのだ。美月は自分から積極的に話すほうではないし、僕も会話上手というわけではない。きっと父親似だ。父に怨念オーラを追加送信、と。
 もし、あと数秒遅れていたら、美月は暇つぶしに4乗の計算でも始めそうな雰囲気だった。我ながら、ファインプレーと言わざるを得ない。
 戸棚を探してみると、あったのは風雷庵にもあったインスタントパックだった。どうやら、シリーズもので何種類かあるらしい。
 「あたしがやるよ。あっちに戻ってて」
 美月が近づいて、ポットの前にカップを並べていく。
 「じゃあ、俺はこれで」
 たまには変わったものでも飲むかとフルーティーな香りのする種類を選んでみた。
 座布団の上に戻って、座り心地を堪能していたが、落ち着かない。働かざる者食うべからず、というか、人が何かしているときにぼーっとしているのが苦手なのだ。
 コーヒーの匂いがだいぶ強くなってきたので、そろそろだろうと思い再び美月の近くに向かう。と、
 「あれ?」
 見ると、二つのカップの上にそれぞれインスタントのパックが載っており、僕が選んでいない種類が一つ使い終わったように避けられていたのだ。
 「二つ使ったの?」
 「ちょっと濃いのが飲みたかったから……」
 「もしかして、眠い?」
 今日は乗り物での移動もあったし、ちょっとした騒動に巻き込まれもした。美味しい昼食もおなか一杯頂いたとなれば、眠気がわいても不思議ではない。
 「眠気は平気。……ケーヤのはちょうどできたから、持っていって」
 「ん、あぁ」
 カップを受け取って先に戻る。程なくして、美月も戻ってきた。そして、揃ってから飲み始める。
 うん、こういうのもなかなか美味しいじゃないか。
 コーヒーは、コーヒーっぽいのが一番! と、普段から苦味系のものばかり飲んできたけれど、これは発見だ。
 「にが……」
 見ると、美月が少し舌を出してそう呟いていた。
 「やっぱり……。少しお湯で薄めたらいいのに」
 たまりかねて、僕はそう助言したものの、美月はマイペースに飲み続ける。
 コーヒーの刺激が良かったのか、僕の頭には奇跡的にも次から次へと話題が沸いてきた。
 「そういえば、ラフ……テイカーって知ってる? 孤独に泣いている子供のすぐ傍にすうっと現われて、笑顔にさせてしまうすごいヤツらしいんだけど、」
 言いかけて、その先を知らないことにはたと気づく。しまったか……と思ったが、今の僕はなんだか冴えていた。
 「まるで煙みたいなヤツだよね。あ、そういえば、俺、煙草の煙って全然平気でさ」
 「見かけによらず、不良なの?」
 「頭は不良だけどね。じゃなくて、基本的に将棋道場ってさ大人ばっかりなんだ。
  小学生の頃は周りでみんなぷかぷかふかしていてさ。扇子でいくらあおいでも、煙は回り込んでくるから結局吸ってしまう。今は道場もそうかは分からないけど。
  でも、対局中は将棋に集中してたから煙のことなんて気にしてられなくて、気づいたらそうでないときも感じなくなっちまったってわけ」
 勝田くんの家族のこと、琴羽野さん兄弟のこと、福路くんと蒼井さんのこと、父と母の馴れ初めのこと(これはばれたら小遣い減額されそうなリスクがあったが!)。
 そんな他愛のないことを話していたら、時刻はもう18時近くになっていた。ミラクルだ。楽しいときは早く過ぎるというが。外もまだ明るいから全く気づかなかった。さすが8月だ。
 「そろそろ、下に行く?」
 こくり。それを合図に、僕たちは荷物をまとめはじめた。
 下のフロアには、温泉と、夕食会場があるのだ。
 
 久し振りの温泉は最高だった。脱衣所に戻ってからは、汗をかかないように身体をゆっくりと冷ましてから、服に着替える。
 後でマニア垂涎の着物とやらを着てみようかと思っているので、部屋に置かれていた浴衣は持ってきていない。
 裏返った『殿』と書かれた暖簾をくぐると、先に美月が待合所の椅子に座って待っていた。
 「待った?」
 「さっき出たばっかり」
 見ると、僅かに髪がしっとりとしている。
 夕食会場はたくさんの人が既に食事を始めていた。どうやら、メインの食事とは別にドリンクや副菜はブッフェ形式で取れるようになっているらしい。
 僕たちは『麒麟 508』と札に書かれた卓についた。
 卓上には小さな四角い提灯が置かれていた。中に入っているのは蝋燭なのか、光がゆらゆらと揺れている。
 オーダーを尋ねられ、僕はイセエビの香草焼き、美月は舌平目のムニエルを選んだ。
 前菜のマグロのカルパッチョをつついていると、「ようこそ、いらっしゃいました」憶えのある声がした。
 柔和な表情を浮かべ、立っていたのはやはり館主さんだった。
 「温泉はいかがでしたか?」
 「気持ちよかった」
 「温度もちょうど良くて、露天は景色も良かったです」
 「それは嬉しいお言葉。ありがとうございます。お夕食の後は、庭園で七夕祭を催す予定でございます。ご都合がよろしければ是非。お召し物につきましては、この会場の出入り口にいるものにお尋ねくださいませ」
 館主さんは一礼をして、別のテーブルへと挨拶に向かっていった。忙しい身なのに、わざわざ気に掛けてくれて何だか申し訳ない気持ちになる。
 やがてメインディッシュが運ばれてきた。ハーブの香りに包まれ、赤々としたイセエビが手許に置かれる。口の中はもう準備万端だとばかりに、潤っている。
 大きな身を取り出して、一口。
 ……。
 こらこら、誰ですか? 口の中で楽園建設をし始めてくれちゃってるのは? まぁ、建設許可出しますけど。
 食感といい、味といい、こういうものを16歳のうちから食べてしまっていいのだろうか。舌が肥えてしまって、人生不幸にならないか。そんな謎の不安が頭をよぎる。
 皿の脇に避けられていた、イセエビの上体と眼(?)が合う。二つのハサミを逞しく構えてはいるが、さっきのニイチガニと同じく、君も美味しく生まれてきてしまったのが不幸の源だったのだね。
 「そういえばさ」
 「何?」
 「小さい頃、桂馬の動きを覚えるときに、『エビのハサミ』をイメージしていたんだ」
 「どういうこと?」
 「ほら。桂馬のいた位置から一マスまず進んで、そこから左上と右上……だろ? 
 僕は指で卓上をとんとん、と示しながら説明する。
 「人によっては、それをY字とイメージしたかもしれないし、『左上に進んでひとつ前』と『右上に進んでひとつ前』っていう覚えかたをしたかもしれないけど」
 『エビのハサミ』の話をしたら、父にしては珍しく声をあげて笑ったものだった。「そうか、桂夜にはそう見えたのか」と。話はそこでおしまいだったが、もしかしたら父も小さい頃は似たような憶え方をしていて、親子であることの不思議さ、滑稽さを感じていたのかもしれない。
 冷谷山三冠とそのお父さんは、同じイメージを抱いたのだろうか。それは、もう誰にも分からないことだが。
 「星座みたいだね」美月が言った。
 「星座か……。そうかもしれない」
 個をいくつも結びつけて、新しい個を生み出す。それは、良くも悪くもニンゲンが昔から持っている才能だ。
 単体の星同士をいくつも結びつけて、大きな星座を描くこともできる一方、様々な誤解を結びつけてしまい大切な絆を見失ってしまうことだってある。
 デザートのフルーツを幾つか摘んでから、僕たちは出口へと向かった。
 
 出口にはいくつかの長テーブルがあり、人だかりができていた。間から覗き見ると、どうやら短冊と着物の整理券を配っているようだ。
 列に並び、順番が巡ってくると、小さな短冊を渡された。幼稚園のときにもこういうのやったなぁ、と懐かしい気持ちになる。と同時に、初恋の相手、ナナちゃんとの苦い想い出が蘇りそうになり、慌てて封印し直す。
 「はい短冊です。できるだけ具体的に書いてくださいね。願いごとが叶いやすくなりますから」
 「筆記用具は衣裳部屋の出入り口付近にございます。書き終えた短冊は外の会場までお持ちください。お祭の最後に笹に結ぶ機会がございます」
 短冊を受け取ると、その先が衣装の受付になっているようだ。
 「あら、きみたち」
 聞き覚えのある声がした。顔を上げると、女将である沙羅さんが立っていた。お祭りに備えてか、髪や着物も一段としっかりとした装いとなっており、遠くから見ただけでは気づかなかったかもしれない。
 「はい、じゃあ、きみはそっちの部屋。彼女は一緒にこっちの部屋に来てね」
 短冊を受け取り、僕は衣裳部屋に入った。老若さまざまだが、高校生くらいの年齢層はあまりいないようだ。
 部屋の中には、特段華美でないながらも上質な反物で作られたと思われる浴衣がずらりと並んでいた。
 僕は、さほど迷わず、紺色の浴衣を選んだ。
 あの佐波九段が愛用していた和服も紺色だったからだ。
 「はは。タイトル戦にからっきし縁がないものですから、四段になったときに背伸びして買ったものが長持ちして、ずっと使っているだけなんですな」和服についてのインタビューでそう笑っていた佐波九段が懐かしい。
 見た目は熱そうに見えるが、意外に風通しがよく、これなら大丈夫そうだ。
 部屋の入口脇にある机で、筆記用具を手にして願い事を考えることにした。
 本当に願いが一つ叶うなら、『願いをまず10個増やす』だとか真剣に考えたいところだけど、余興の一種だしなぁ。
 とはいえ、今や知り合いになってしまった丸井さんたちの企画したイベントには真摯に臨みたい気持ちもある。
 そうだなぁ……。
 
 『小遣い2000円アップ』うーん、何だか欲丸出しというか……。これは、自分自身に落胆しそうだ。
 『一年間、病気・怪我なし』あえて神頼みしなくてもという気がするか。
 『棋力向上』、『学年順位、10位以内』これらも、先ほどのに類する気がする。そもそも、自分自身の努力が必要なものであり、逆に言えば自分自身で制御可能ということでもある。
 
 そこで、はたと気づく。他人はコントロールできない。だからこそ、それが現実化できたならそれは神にしかできない願い事になるのではないか、と。
 さらさらと、筆を走らせる。書家のような筆捌きを気取って書いたせいか、正直自分でも読みづらい文字になってしまった。
 まぁ、人に願い事を見られても恥ずかしくないと思うと、むしろ良かったのかもしれない。
 僕は、浴衣に乱れがないことを確認して、衣裳部屋をあとにした。
 
 部屋の外に出ると、およそ和服の似合わない知り合いが仁王立ちしていた。
 ベートーベンのようなウェーヴの効いた髪と前方に力強く伸びているもみ上げ。豪傑さんだ。
 「はっはっは。また会ったな!」
 「どうも、丸井六段。お部屋、ありがとうございました」
 お礼を述べつつ、この人の髪型は風呂上りでもずっとこのままの超クセ毛なのか、わざわざセットしているのかが気になる、などと考えてしまった。
 「あの、みつ……連れの女の子見ませんでしたか?」
 「はっはっは。あのアイドルっ子か。ちょうど、外の会場に向かっていくのを見たぞ?」
 「外に、ですか」
 確かに、衣裳部屋の前で待ち合わせをするなんて約束はしていなかったが、それにしてもマイペース過ぎじゃないか。
 外は大分暗くなっている。多少照明はあるだろうけど、この場所より合流しづらいはずだ。
 「はっはっは。そんなに広い庭園でもない。すぐに見つかるだろう、さあ行くぞいくぞ!」
 そういって、バンバンと背中を叩かれて推進させられてしまった。
 
 記憶を手繰り寄せる限り、僕はビンゴ大会でビンゴが揃ったことがない。どれだけの運のなさだろう。しかし、それは今日で終わりを迎えることとなった。
 「七夕祭の会場はこちらでござい」
 会場への入口で、丸井4兄弟の末弟、敬基さんが宿泊客の出迎えをしていた。
 「はっはっは。敬基までかりだされたのか」
 「今年は少し人手不足でしてね。お祭もあともドリンクとちょっとした食べ物を出すだけすから」
 「あの、俺の連れの女の子、会場に入っていきましたか?」
 「え、あぁ。ちょいと前に入ってきました。きっとどこかにおられるでしょう」
 その言葉を聞いて安心した。僕は敬基さんに一礼をして庭園に降り立った。
 真夏の夜のはずなのに、庭園は涼しかった。霧吹きなどで丁寧に打ち水をしたのか、身近な草木はわずかに湿り気を帯びていた。
 先ほどの夕食会場のように、照明はおぼろげで所々に配置されており、せっかく生まれた宵闇を無碍に消したりすることはなかった。しかし、そのせいで僕は未だに美月の姿を探せないでいる。
 一体、どこにいるのやら。美月のほうは僕を探している最中なのだろうか。
 実は、一人になりたくて離れているのだとしたら……?
 何故、夢は寝ているときに見るのか、それは外部からの情報が入ってきにくい睡眠時に脳の中を再整理しているためで、夢はそれを知覚したものだから滅裂な内容が多い。そんな説を聞いたことがある。
 ただでさえ特殊な事情がある美月だ。一人きりの時間、頭の中を整理するのはとても大切なものなのかもしれない。ここまでずっと、近くには誰か(主に僕)がいた。都合の良い考えかもしれないが、僕に気を遣ってはぐれた振りをしてくれているのかもしれない。
 いずれにしても、『508』の鍵は僕が持っている。祭が終わった後には合流しなければならないのだ。庭園の入口は一箇所。そこで待っていれば、さすがに合流できるだろうけど。
 豪傑さんが、身近な卓上からグラスワインを手に取った。なんとなくだが、僕はアルコールが強い気がする。体質は、母親に似ているところが多い気がするからだ。
 それでも、未成年なので僕もソフトドリンクに手を伸ばした。正直なところ、興味はあるのだけど、そういうことにはけじめをつけたい。
 あれこれと考えていたせいか、柑橘系のそのドリンクは少しすっぱく感じた。

 「あっ、ちょっとしばらく離れます」
 僕は、ある人物が遠目に見えて、豪傑さんから離れた。
 僕は、輪からずいぶんと離れて暗がりでグラスを傾けている人物に声を掛ける。
 「円先生、少しお時間をいただいてもよろしいですか?」
 白衣を和服に変えると、すっかり素浪人のような格好になった名医は「ひっひひ。まったく構わないよ」と手をひらひらとさせた。
 医者という立場上、患者の情報を簡単に話すわけにはいかない。それを気遣って切り出した。
 「ちょっとしたフィクションを思いついたんです。せっかくなので、誰かに聞いてもらえたらと思って。
  先生は昔、千兵衛さんとチヨコさんの不妊治療も担当していた。そのとき、なんとか受精卵まで至ったものの、時間がわずかに及ばずチヨコさんは丸井家から出されてしまった。
  しかし、そのときの受精卵は大事に凍結されていた。〈子牛島〉を離れたチヨコさんの落ち込みは歳月が過ぎても変わらなかった。
  それを見かねた先生は40近い身体で出産などに踏み切らないだろうと、二人の相性が悪いわけではなかった、と受精卵の話をしてしまう。
  チヨコさんは先生が折れるほど強く望んだ。そして生まれたのが冷谷山秋一だった……」
 「……」
 物理的な問題と、時間的な問題を考えると、これが僕に思いつく唯一の解だった。いかに〈子牛島〉の出入りに丸井家の眼が光っているとはいえ、医療道具の中身までは細かくチェックされなかっただろう。
 「そして、成長した冷谷山秋一にあなたは様々な手助けをした。御前さんの主治医も務める先生は、御前さんが謎掛けの計画をしているのを知り、冷谷山秋一に伝えてあげた。
  いや、あるいは冷谷山秋一が来ることを御前さんに伝えて計画を進めたかもしれないです」
 「ひっひひ。フィクションじゃなかったのかい?」
 「フィクションです」
 円医師は黙って、グラスを傾ける。僕も一気に話して喉が渇いていたので、同じように流し込んだ。数秒の沈黙の後、
 「ひっひひ。その医者がね、1か月早く治療に着手できていたら、そもそもそのフィクションは成立しないねぇ。だとすると、とんだヤブ医者だ」
 円医師は、一気にグラスの中身を飲み干した。
 「戦いが始まる前に端歩を突いておけばよかったとか、一手辛抱すれば良かったとか、後悔することって将棋でも良くあります。
  将棋って運が絡まなくて、指した悪手は全部自分のせいになるんです。だから、すごく辛いんです。自己嫌悪になって。
  でも、ずっと悪手だと思っていた手が、最後の最後で効いてきて勝ちにつながったりすることもあったりして。
  最後まで投げ出さなかった人が必ず勝つわけじゃないですけど、勝った人って必ず最後まで投げ出していないんです」
 僕はグラスを一気に飲み干して、
 「ってフィクションの探偵役はカッコつけて言ってるみたいなんですよ」と続けた。
 とても遠回りで、時間も掛かったけれど。見方によれば、新しい治療が再び始まったばかりかもしれないけれど。
 丸井家に巣食っていた呪詛はきっとやがて消えうせる。そんな予感をおぼろげに抱いた。
 「……ひっひひ。さて、そろそろ戻るか。いつ急患が来るか分からない職業なんでね」
 円医師は立ち上がって卓上にグラスを置いた。
 そして、「ひっひひ。将棋……か。私めも少し興味が沸いてきたよ」去り際にそう言って闇夜の向こうに消えていった。
 
 豪傑さんのところに戻ると、彼は薄暗い中でも分かるほど顔を高潮させていた。言動はまだ変わりないものの、立派な酔っ払いだ。
 父は全く酒を飲まないので、典型的な酔っ払いというのをこれほど間近でみるのは初めてだ。
 しばらく時間が流れて、控えめなボリュームで案内が入った。館主さんの声だ。
 「……皆様こんばんは、館主の丸井鑑でございます。本日は五稜亭旅館へのご宿泊ならびに七夕祭へのご参加ありがとうございます。
  毎年恒例のこの行事も、ちょうど30回目となりました。
  この島、〈小牛島〉は小さな牛と書きます。今宵の皆様はお一人お一人は、牽牛星――彦星さまでございます。
  それぞれの願い事を、織姫さまに託し、天に奉じさせていただきます。」
  それでは皆様、そろそろ短冊をご用意ください。間もなく、織姫さまがお見えになります」
 先ほどまでは微かなざわめきさえあった会場が静まり返る。そして、僕も言葉を失った。
 朱、白、金、銀。様々な色が主張しながら、調和するという不思議な表現が何故か頭に浮かぶ。
 現れたのは、そんな豪奢な和服を身に纏った美月だった。表情はいつものとおりだが、それがかえって神秘性をぐんと引き立てているように思えた。
 すぐにでも出したい言葉は色々とあった。
 なんで、そんなところに。そんな役回り引き受けるタイプじゃないだろ? でも……とても綺麗だ。とか。
 そもそも、織姫は七夕という日をどういう想いで迎えるのだろうか。壇上の織姫の表情をみて、僕以外にも考えた人がいたかもしれない。
 一年に一度、出会えるとはいえ、その後また会えない日が続くのだ。始めこそ明るい表情を浮かべているかもしれないが、別れ際になればなるほど沈痛な面持ちになっていくに違いない。日曜日の夕方のように。
 それでも、織姫は幸せだと言える。その想い出を大切に日々過ごせるし、一年が経てば再び想い出の人と出会えるのだから。僕以外のニンゲンが、美月の事情を知らないとはいえ、そんな役を美月が演じているのはひどく心が痛んだ。
 「はっはっは。これは想像以上だな。ますます、アシスタントにできなかったのが無念だ」
 「苦労したよ。和服ってのは、洗濯板と寸胴の方が似合うようにできてるんだ。あれじゃ……艶々しすぎるよ」
 「まったくで。去年までの姉貴じゃ、こうはいかねぇ」
 「あんたは、一言多いよ!」
 いつの間にか、沙羅さんと敬基さんが傍らに立っていた。
 って、そういうことか……。
 「謀った……んですか?」
 「謀ったとは人聞きが悪いわ。演出よ、演出。若い二人を見ると、どうにも色々とちょっかい出したくなるのよね」
 「あと、大人としては昼の推理合戦で完敗した分、あっと言わせたい想いがありやしてね」
 思い出すと、ずっと受付にいた沙羅さんが美月が来たとたん一緒に衣裳部屋に向かったのは不自然だったし、二人に美月は会場にいると言われて全然見つけられなかった。
 何とも迂闊な自分が呪わしい。仕方ない、自分自身に自戒の怨念オーラ送信だ。
 そうこうしているうちに、織姫への列は進んでいく。僕はどんな顔をしたら良いかも決めかねているうちに、豪快な右手で背中を押されてそのまま列の最後尾につくことになった。
 列が進んでいく。美月は、受け取った短冊を丁寧に笹に括りつけていく。こんなときでも、演算してちょうど良くなるようにバランスを取っているのだろうか。
 そして、僕の番がやってきた。
 せめて、「綺麗だね」とか「似合ってるよ」とか気の聞いた言葉が出てくれば良かったのだが、ドギマギしてしまい何もしゃべれない。
 それどころか、早く短冊を渡して戻りたい、そう思ってしまった。
 僕は、最後の抵抗として短冊を伏せて渡したが、あえなくあらためられてしまう。
 そこには、
 
  『美月が、幸せになりますように』
 
 僕の汚い字でそう書いてあった。
 「……」
 美月は表情を変えず、それまでと同じように最後の短冊を手際よく笹にくくりつけた。
 段を降りながら、僕は掌に汗をかいていることにやっと気づいた。一番情けない〈彦星〉だったかもしれない。
 「それでは、最後に織姫さま自身の短冊を結んでいただいて、無事終了となります」
 女官に扮したの従業員が、一枚の短冊を仰々しく織姫に手渡す。織姫は短冊に筆をすすっと走らせると、手早く笹に括りつけられる。
 一体なんと書いたのだろう。その内容が気になったものの、辺りは薄暗く、ここからでは一番手前の短冊の内容さえ良く見えない。
 女官に促され、織姫は去っていく。今、笹に近寄ればそれは分かる。しかし、周りの雰囲気はそんな無粋な行為を許すものではなかった。
 その後に笹を持った衛士が続く。
 そのとき。
 笹が揺れ、僅かに織姫のつけた短冊が裏返った。
 その内容に、僕は戸惑う。それって、どういうことなんだよ……?
 考える間もなく、バンバンと背中を叩かれた。力がだいぶ強い。酔いが回ってきているのだろう。
 「はっはっは。着がえ終わったら、ロビーに連れて行くと姉貴が言っとったよ」
 僕は頷き、ぞろぞろと館内に向かって引き上げていく宿泊客の後について歩き始める。
 見上げると、星空が良く見えた。コンタクトレンズを入れているとはいえ、あまり視力はよくない。どれが天の川でどれが織姫、彦星であるかは分からなかった。
 
 ロビーに着くと美月が既に日中から来ている白いワンピース姿に戻っていた。そのシンプルさを見ると、まるで先ほどの織姫は幻覚だったかのようだ。
 「お、おつかれ」
 美月は小さく頷く。そして、「……これ、あげる」と細い紙袋を僕に差し出してきた。
 「いったい何?」言いながら、中身を取り出すとそれは一本の扇子だった。
 ゆっくりと広げてみる。
 それは……風雷庵の管理室で手にした、佐波九段の扇子だった。
 え? え? え? 訳が分からない。
 「織姫役のバイト代よ。御前さまにも許可はとってあるわ」傍らにいた沙羅さんが補足する。
 確かに、こんな扇子をもらったら僕は大喜びだし、それに見合う対価かもしれない。でも、誕生日でもないのにそんなことをしてもらう謂れが……。
 戸惑いの収まらない僕に、美月は携帯端末を突き出してくる。そして、その機体にぶら下がっていたのは、クマッタのストラップ。
 「これの借り、まだ返してなかったから」
 ……。
 ……おいおい。
 そんな、おまけの携帯ストラップと佐波九段の扇子、全然レベルが違うだろう……。
 これじゃ、逆に僕が何百倍も借りを作ってしまったことになってしまうじゃないか。
 でも……、嬉しい。それは、レアなものだからじゃなくて、美月が僕のために身体を張って用意してくれたものだってことだからだと思う。
 満面の笑顔を浮かべたかったけど、あまりに唐突なことだったので、僕は困ったような表情を浮かべてしまっている気がする。
 眼の前にぶらさがる、このクマッタみたいに。
 「ほら、彼氏! こういうときはどうすんの?」沙羅さんがそんな表情の僕に見かねたのか、しっかりと喝を入れられてしまった。
 「あり……がと」
 美月はゆっくりと一回だけ瞬きをして応じた。
 ……。
 ……?
 ハッと気づいて、周囲を見ると丸井さんたちだけでなく、他の宿泊客が微笑ましそうにこちらを伺っているではないか!
 うっわぁ……。
 体が熱い。僕は、頬が紅潮し、耳が赤くなっていくのを感じた。
 「部屋に……戻ろう、か」
 美月は小さく頷く。これでやっと落ち着けるかと思ったが、
 「今日はお疲れさま」
 「綺麗だったわよ」
 ロビー、廊下、エレベーター。
 通り過ぎる人々から、(美月が)様々な言葉を頂戴し、そのたびに(僕が)お礼の頭を下げることを何度繰り返したことか。
 十数分後、僕は『508』の内側から鍵をかけ、なんとか落ち着ける部屋まで戻ることができたのだった。
 
 「とりあえず、飲み物作る」
 美月はポットの前に向かう。そうか、衣装着替えしたりずっと織姫役をやっていたから飲み物など飲む暇はなかったことだろう。
 僕はさっき、なんだかんだとソフトドリンクを4杯は飲んでいるのであまり飲み物は欲していない。
 美月が飲み物を作っている間、所在無くテレビの電源を入れる。大きな画面だ。父が奮発して買った自宅のものよりさらに3~4まわりは大きい。
 ザッピングしてみる。
 料理番組。げっ、食材にピーマンが出てきた。チェンジ。
 ニュース番組。せっかく旅先に来ているのに、日常に戻りそう。チェンジ。
 バラエティ番組。普段は楽しそうなこの雰囲気も、なんだか今夜は騒々しく思えてしまう。チェンジ。
 結局、消去法であたり障りのなさそうな自然ドキュメンタリー系の番組にしておくことにした。
 やがて、美月がカップを持ってやってきた。中身は……コーヒーのようだ。
 「大丈夫か? 眠れなくなるぞ?」
 「平気だよ」
 まぁ、あのインスタントコーヒーは結構美味しいから気持ちは分からないでもないけど。もう夜の9時だぞ……。俺も、コーヒーは好きだけど、夜の6時以降は飲まないように心がけているのだ。
 テレビの中では、ジャングルの中を極彩色の鳥やサルたちが縦横無尽に飛び回っていた。
 この合宿は一泊二日だ。したがって、夜が明けて明日になればもう午前中にはこの島を離れることになる。
 来るときまではどう時間をつぶせばよいものやらと思っていたが、謀らずもイベント盛りだくさんの結果となった。
 美月はコーヒーを飲み終えたのか、歯を磨き始めている。僕もそろそろ磨くか。
 洗面台に向かい、無言で(口を開けないのだから当然だが)歯を磨く。
 鏡の中に、美月と並んで歯を磨いている姿に困惑する。これじゃあ、まるで夫婦じゃないか。とはいえ、間もなく先に磨いていた美月が終えて去っていったので僅かな時間のことだったが。
 居間に戻ると、美月が携帯端末を操作し始めていた。日記やら、メモやらを始めたのだろう。
 僕は、お土産チェックリストでも作成チェックすることにしよう。メモ帳と筆記用具を取り出して、左上に『みやげリスト』と銘打った。
 まず、一番はずせないのは泉西先生だな。忘れようものなら、第二四半期の国語の評価が悲惨なことにさせられかねない。
 あと、斎諏訪も。結果論でいうなら、この二人旅をお膳立てしてくれたようなものだし、将棋部のサイト管理という任務もしてくれている。部長という立場としてもねぎらいのお土産を渡しておきたいところだ。
 散々、怨念オーラを送信したものの、諸々の件で両親の存在について思うところもある。二つ追加、と。
 色々とお世話になったりということを考えると、勝田くんとお姉さん、琴羽野さんとお兄さん、福路くんと蒼井さんにもかな。
 あ、でも食べ物にしてしまうと夏休み明けまでもつかな……。意外に考えることが多いぞ。
 ふと、何と無しに美月の方を見る。
 (……?)
 「美月?」
 良く見ると、その手許は痙攣している。
 「どうした?」
 「な、なんでもない」
 「なんでもなくはないだろう」
 慌てて側に駆け寄るが、ぷいとそっぽを向かれてしまう。
 「体調でも崩したか? ってもしかして……」
 僕は、ポットの近くに近づいてなんとなく分かった気がした。
 「今日、コーヒー何杯飲んだ?」
 「……11杯」
 それは、なかなか。俺と一緒でないときも、ちょこちょこ飲んでいたのか。時計を見ると、9時半だ。
 「あ、んなに飲んだのに。眠く、なってきた」美月がふらりと立ち上がる。「引継ぎ、まだ全然進んでないのに……」
 カフェインにいかに覚醒作用があろうとも、今日は本当に色々なことがあったのだ。ただでさえ華奢なその身体は疲労困憊に違いない。頭の方だって、随分と使っていた。
 それでも、美月の気持ちはなんとなく分かる気がする。こんなに濃い、非日常の一日はそうそう訪れない。今、記録しておかないと、もうインプットすることさえ不可能になってしまう。
 僕が明日、明日の美月に伝えることはできる。だけど、今日の美月が感じ、思ったものは、今日の美月にしか表せないことなのだ。
 「水とか……飲むか?」
 「いい。念のため、もう向こうに行くよ……」
 美月が、鍵のかけられる別室の方を指差す。歩き出した足取りは覚束ないが、その背中は『一人にさせて』と訴えているようにも見えた。
 扉の閉まる音、そして鍵の掛かる音。美月は、引継ぎをまだ試みているのだろうか。
 僕は、『みやげリスト』をめくり、まっさらなページに急いで短い文章を書く。そして、それを手に、美月の入っていった部屋の前に立つ。
 「まだ起きてるか?」
 「……起きてるよ」
 「ドアの下からメモ渡すから、取っておいてくれ」
 そう言って、手にしていた紙切れをすっと差し込む。ほんの僅かだけ僕からも見えるように角を残して。
 その角が見えなくなり、美月に渡ったことを見届けた後、僕は居間に戻った。そして、メモ帳に今日起こった出来事をできるだけ仔細に書きつけ始める。
 多少箇条書きになってもいい、後から僕だけでも思い出せるように。自分の目線でしか書けないのがもどかしい。それでも、ないよりは絶対にましなはずだ。
 腕が痙攣するか、睡魔に惨敗するまで続けよう。そう心に誓って僕は書き続ける。
 眼を凝らしてみると、先ほどよほど強い筆圧で書いたのか、文章の跡が残っていた。
 『8/7のことは
  オレが全部おぼえとく
   ケイヤ』と。

 

 小説『All gets star on August =星の八月=』(4/4)に続く