総村スコアブック

総村悠司(Sohmura Hisashi)の楽曲紹介、小説掲載をしています。また、作曲家・佐藤英敏さんの曲紹介も行っております。ご意見ご感想などはsohmura@gmail.comまで。

小説『Fall on Fall =俯瞰の秋=』(4/4)

 *****
 「子供のころ、足し算引き算をやっとおぼえた頃だったかな。もう、将棋がね、楽しくて楽しくてしょうがなくて。勝ったらそりゃあ嬉しいんだけど、負けると10コの勝ちが吹っ飛ぶくらい悔しい思いをするんですな。
  だから、負けたくないなぁと。勝つためにはどうしたらいいかなぁと。考えて考えて。ずっと考えてましたな。いや、でもそうしているときも楽しかったですよ?
  それでね、先日ふと気が付いたらもうこんなオジサンになってたってなわけで。本当に驚きですよ」

                    ――『中飛車を差しこなす本(佐波九段) 第四巻 第二章コラム』より

*****

 

 第四章 『祭のあとの祭』

 

 天高く馬肥ゆる秋。将棋には『馬の守りは金銀三枚』と呼ばれる格言がある。角行の成駒である〈馬〉は守備として強力な金将銀将の3枚分もの価値があるという意味合いだ。将棋に特化した格言なので、特に意味はない。なんとなく頭に浮かんだだけだ。
 さて、待ちに待ったと言うべきか、来てしまったというべきか、大矢高校の学校祭当日となった。時刻は9時30分。学校祭開始まであと30分だ。
 教室内展示の最終確認をする。結局、展示の方は斎諏訪の作ったソフトウェア――〈ヴィシュヌ〉と〈オーディン〉――をアップグレードしたものをメインに据えることにした。
 〈ヴィシュヌ〉は問題を作成すると、制限時間後に解答を出すようにした。制限時間以内に正答した場合、脇に置いてあるプリンターから認定証も出せるようになっている。斎諏訪曰く、〈色つき詰将棋〉については即興での作成は困難とのことで、合計15問をランダムに出題するように留めた。
 〈オーディン〉はレベル調整ができるようにして、対戦した強さで勝てた場合、やはり認定証も出せるようにしている。
 これらのアイディアを斎諏訪はきっちりと作り上げてしまったのだから、さすがというほかない。
 そのソフトウェアのコーナーは廊下側のほうに配置した。〈ヴィシュヌ〉と〈オーディン〉をそれぞれ1台ずつのパソコンで利用できるようになっている。高校の学校祭で催す将棋部コーナーに人々が大挙して押し寄せることなど考えづらいから、十分な設備といえよう。
 第二部の部活動部員が聞いたら怒られそうだが、スペースは有り余っている。ゆとりがあるのはいいことだが、有り余ったスペースは寂しさを感じてしまう。ということで、窓際には人と人が自由に対局ができるように、5組の盤と駒を積んで〈自由対局コーナー〉と銘打っておいた。小さな子供にいたずらをされてしまうと面倒なので、盤と駒はとりあえず積み重ねておき、使うときだけ出すようにしてある。
 さて準備万端、あとは来訪者を温かく迎えるばかりだ。
 早々にセッティングも済ませてしまうと、我が将棋部はまったくやることがなくなってしまった。
 美月はカバンから飲料を取り出して喉を潤している。斎諏訪は窓の外から中庭を見下ろしているようだ。
 僕は、将棋盤の下に駒台を四つ足のように置くことで良い駒音が出ないだろうかと試みるが、なかなか上手く行かない。いくつかの検証の結果、組となる駒台同士の高さはピタリと合うのだが、5組の駒台の間では全く同じ高さがないことが原因と分かった。がっくり。
 そうだ、今のうちにアレを渡そう。僕は盤と駒台を元のように戻すと自分の鞄のところに行き、がさごそと目的の物を探し出す。手にしたものを持って、美月のもとに向かう。
 「美月、これ。前に扇子もらったときのお礼」
 「何?」
 美月に渡したのは、先日〈まめしば〉でマスターから受け取った小袋だ。美月が袋を開けると、中から例の円筒形が現れる。
 「コーヒーポプリだよ。中にコーヒー豆の粉が入ってるんだ」
 キャップを外すと、中からはコーヒーの香りがあふれ出す。普通なら、いい香りがする小物。それ以上でも以下でもない。しかし、眠気が大敵の美月にとっては、ある種のお守りのような役割があるのではないかと考えた。それは気休めかもしれないが、僕自身が真剣に考えて美月に送る初めてのプレゼントだ。
 聡い彼女は僕の意図を理解してくれたのか、それ以上質問をすることはなく、静かに自分の携帯端末にくくり付け始めた。以前にあげた、というか欲しそうにしていたから渡したクマッタのストラップの隣にぶら下げられている。
 いつものように表情を大きくは変えることなかったが、そのことが肯定的に捉えられている何よりの証拠に思えて胸をなでおろした。
 と、窓際にいた斎諏訪が唐突に呼びかけてきた。
 「ぉぃ瀬田、ぁれなんだろぅな?」
 斎諏訪が指差した先には向かいの校舎がある。
 「あれ、ってどれのことだよ?」歩み寄りながら窓の外に眼を遣る。
 「ぁれだよ、キョゥドケンキュゥブ」
 言われて探すと、ちょうど2階の真ん中あたりに4つの窓にそれぞれ『きょう』『ど』『研究』『部』と装飾をした窓を見つけることができた。
 「郷土研究部って部活があって、その展示場所なんじゃないのか?」
 確か、第一回の定例生徒総会の本年度部活動組織一覧で第二部にそんな名前が載っていたような気がする。斎諏訪は総会に参加していないから知らないのだろうが。
 「ぉぃぉぃ、違和感丸出しじゃねぇかょ。『キョゥド』がなんでひらがななんだょ。そのせぃで、文字がすげぇ窮屈になってんだろ?」
 む……なるほど、言われてみれば。『ど』や『部』は窓一杯に堂々と描かれているのに対して、『きょう』と『研究』はぎゅっと圧縮されてしまってなんだか窮屈に見える。バランスも正直なところ良いとは言えない。
 それでも、『研究』の装飾に関する推測はある程度できた。
 窓は4つ。それに対して描きたい文字は郷土研究部、と五文字だ。少なくともどれかは他の文字と同居しないといけない。仮に、前の『きょう』『ど』が漢字だったとしても、アピール性から考えて『郷土』の方が重要といえる。
 そして、『研・究部』よりは『研究・部』の方がまだ違和感は少ない。『研究』の事情はそんなところだろう。
 僕は、そこまでの推論を斎諏訪に展開する。
 「まぁ、そこまでは異論なぃがな……」
 しかし、会話はふとそこで止まってしまった。
 「それはそぅと。第二部の部活は大変なんだぜ? 同じ教室を2っの部活で折半しなきゃならんのだからな」
 やけに詳しいなと思ったが、そういえば斎諏訪は7月までは第二部の電算研究部だったから設立の際にでも説明されていたのだろう。
 「折半って、部屋の真ん中に仕切りを作ったりしてか?」
 「ほとんどはそぅらしぃが、前半と後半に分ける方式もぁるとか。音ゃ匂ぃを発する部活動同士は即席の仕切り程度じゃどぅにも防げんだろうからな……」
 音はともかく、匂いって……。あぁ、でもアロマ研究部とかも存在するわけだしな。時間で区切る方式は大変そうだ。僕の頭の中には、もっこや三度傘を手にして右往左往している郷土研究部の人たちのイメージ画像が流れていた。
 ……ん? 我ながらバカな想像をしたものだと思っていたが、〈跳躍(リープ)〉は突然やってきた。
 「あっ。もしかして……」
 無意識のうちに言葉が出ていたようだ。斎諏訪だけでなく、小袋の中の紙片――説明書だろうか――を読んでいた美月もこちらを向いているのに気づいた。
 こう注目されると、もし間違っていた場合は赤っ恥ではないか。しかし、もはや後には退けない。
 「なんだょ? もしかして、何か分かったのか?」
 「あ……、まぁ。多分、だけど」
 「随分自信たっぷりだな……。もし外れてたら、ハルコーロ・ノハナ農園のブラックな」
 「なっ、なんでそうなる!?」
 「じゃ、あたしはナニカ農園のラテ」ちゃっかりと後方からも声。
 「いいだろうっ。もし合ってたら、お前おごれよ?」
 僕は斎諏訪にビシッと指を突きつけてから、大股で駒箱の群れに近づき、そのうちの一つから〈香〉と〈歩〉をピックアップして戻ってきた。
 「とりあえず、これを『きょう』『ど』の窓だと思ってくれ」
 2つの駒を前後に少しだけずらした状態で机の上に立てた。〈歩〉の方は逆向きにしているので、二人の方からは〈香〉と〈と〉が見えていることになる。
 「で?」斎諏訪が急かしてくる。
 「まず、こう。窓を開ける」〈香〉を左にスライドさせた。その結果〈香〉は〈と〉の後ろに隠れて見えなくなったはずだ。
 もったいぶっても仕方ない。僕はあとを続ける。
 「で、今度はこちらの窓を開け……いや、閉めるになるのか?」そして、〈と〉を右にスライドさせる。
 「すると、『ど』『きょう』になる。経を読む、読経研究部ってのがあるんだよ。多分、郷土研究部と読経研究部は同じ教室を使うことになってるんだ。それも前半と後半の時間で区切る方式で。
  それで、少しでも交代時の時間を短縮できるようにしたんだと思う」
 「読経ねぇ……」斎諏訪は今ひとつ納得していない表情だ。「そんな部活ぁんのかょ」
 名前だけでいうなら、電算研究部の方がどんな部活か分かりづらいぞと心の中でつぶやく。
 なにか、立証できないものかなと思っていると、珍しく絶妙のタイミングで泉西先生がやってきた。その手には学園祭のパンフレットが丸められている。
 「諸君、元気に――」
 「――泉西先生、ちょっとそれ貸してください!」僕の真剣な表情に気圧されてか、これまた珍しく「お、おぉ」と素直にパンフレットを手渡してくれた。
 パンフレットを受け取ると同時に、ぱらぱらとページをめくる。
 斎諏訪と二人でそれを覗き込むと、僕の推理を裏付けるかのように『2-C教室 郷土研究部(10:00~13:25)、読経研究部(13:35~17:00)』という記載がされていた。
 渋面を浮かべる斎諏訪に僕は「男子バレー部がやってるジュースバーのバナナソーダでいいや」と声を投げ掛けてやった。
 「……ち」斎諏訪は舌打ちをしていたが、やがて良いことを思いついたと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべて「だが、時間までは指定してぃなかったのは手落ちだったな。投売りタイムになるまで待たせてもらぉぅ!」と嬉しそうに笑った。
 おごらなくて済んだだけで十分なので、僕は手を振って「はいはい」と合意をした。
 念のため、パンフレットの中に記載されている他の催し物やプログラムなどもチェックしてみた。数日前に奥地会長から教えてもらうことができた事前情報からは特に変更は入っていないようで一安心する。
 と。部屋に泉西先生の怒号が響き渡った。
 「瀬田! てめー、謀りやがったな!?」
 その指先には『評価もやってます』という貼り紙がある。将棋部で最も字が綺麗な美月が書いたものだ。
 「『ヒョウカもやってます』で妥結したじゃないですか。大人なら、自分の発言に責任持ってください」
 「ちょ、きぱぱぱぱぱちょきぱ……」泉西先生は不思議な音で唸り声を上げる。
 「なんすか、その奇怪な声は……」
 「『グゥ』の音が出なくなって、『パァ』『チョキ』の音しか出なくなったんだよ。そんくらい、分かれ!」
 「分かりませんよ……」
 「かくなるうえは……。祭の飲食物を独占し、倍の値段で販売して大儲けしてやる! ははは、今から俺のことは『飲食を牛耳る覇王・泉西潮成』と呼ぶことだな!」
 そう吐き捨てて、泉西先生は全速力で校庭に広がる模擬店テントに向かって行った。
 そのとき、絶好のタイミングで校内放送のチャイムが入った。
 「ただいまより、第52回大矢高校学校祭をはじめます。まず開会挨拶を奥地尚志生徒会長、お願いします……」
 よし、行動開始だ。
 「美月! 行くぞ!」
 「はいはい」
 僕は、今朝方お願いしていたあることのために、美月に合図を送った。
 「斎諏訪、あとは任せた」
 「ぁぃょ」
 
 早足で目的の場所に到着した。ドアを開けると、ふわっと何種類もの複雑な匂いが体を包み込んでくる。
 部屋の中を見回すと、正面置くに生徒が二人腰掛けている。恐らく、ここの部員だろう。僕たちは歩み寄るとそのうちの一人に話しかけた。
 「あ、えーと。アロマテスト挑戦したいんすけど」
 時間は10時5分。会場が10時だから、学校祭開始直後といっていい時間だ。特別棟4階の一室であるアロマ研究部展示室に一般客が来れるタイミングではない。
 「は、はぁ……」戸惑いを隠そうともせず、部員の一人は頷く。
 「……では、難易度はどうしましょう?」
 部員はA2サイズの画用紙を取り出すと、説明をはじめる。
 難易度は5段階に分かれており、難しいほど正解したときの景品が高額なものになっていくという分かり易いシステムになっていた。
 そして、レベル5の景品は奥地会長に聞いた前情報のとおり、つい先月発売されたばかりの据え置き型のゲーム機だった。当然、アロマ研究部としても目玉景品の位置づけだが――。
 僕は迷わず、最も難しいレベル5を選んだ。部員はそれを聞いて、口元をにやりとした。
 「それでは、まず最初にこれを覚えてください」そういって、木箱を一つ渡された。箱は5×6に区切られて、30個の小さなガラスびんが収められている。
 蓋のところには〈ユーカリ〉とか〈ローズマリー〉といった文字が書いてある。おそらく中に入っているアロマオイルの名称だろう。
 「まず、これで香りと名前を1分間で覚えていただき、このあと香りを数種類混ぜたものを正確に答えてもらう段取りです。それでは、スタート!」
 「わっ! いきなり?」
 突然スタートしたのにも驚いたが、30個のビンを1分間でというのは無茶苦茶だ。開ける・嗅ぐ・閉める、を1セットの動作と考えると、全て開ける時間すらなさそうだ。咄嗟にそう判断して、既に知っている〈ミント〉や〈バラ〉は手に取らず、〈イランイラン〉や〈ローズウッド〉といった耳慣れないものをピックアップしていく。
 それでも、鼻の中で匂いが混じってしまい、恐らくは正確な匂いは覚えられていない気がする。さすが、レベル5。想像以上に厳しい戦いだ。
 「そこまで!」掛け声と共に、ガラスびんは回収されていった。そして、入れ替わりに掌サイズのケースが手渡された。
 「レベル5なので、5種類混ぜてあります。制限時間は30秒です。では、どうぞ」
 蓋を取り、僕はゆっくりと匂いの判定を始める。なんだか、甘酸っぱいようなほろ苦いようなそれでいて切ない気持ちに……って初恋か!
 酸っぱいのは〈レモングラス〉か〈レモン〉の気がするが他の匂いと混じりあったせいで、どちらと断定できる程ではない。甘い香りも花というよりは果実っぽい気がするが特定の名前は浮かんでこない。ほろ苦いもの関しては意味不明だ。さっきの中にあっただろうか……。
 「はい、時間です。じゃあ、答えを……」
 部員に急かされながら、僕はぽつりぽつりと回答していく。自信は全くなかったが、答えは先程の30種類の中にあるわけだから、可能性はゼロではない。
 「……。……残念っ!」
 やや焦らした間を取りつつ、部員はやや嬉しそうにそう宣言した。とはいえ、結果は3つ当たっていた。我ながら健闘したほうではないか、と言い聞かせることにした。
 しかし、これで終わりではない。ここまではまだ計画の範囲内だ。僕は後方に眼で合図して席を立つ、応じるように美月が椅子に腰掛ける。
 僕がクリアできたらそれはそれで問題ないが、それは相当厳しいだろう。だから、僕はできるだけ多くの情報を引き出す先鋒に徹したのだ。
 出題形式や傾向を少しでも多く見ることで、本丸である美月の正答率はそこそこ補強できるはずだ。
 「説明は聞いてましたよね? じゃあ、はじめますよ……はい、スタート!」
 号令を聞くなり、美月は木箱を直角に回して横から縦にした。正面から見ると、縦6個、横5個になった格好だ。そして、びんを器用に右の4本の指で縦の3つずつ取り出し、左手の4つの指で一気に3つとも開ける。3つの匂いをかぎ終わると、逆再生のように、蓋を閉めて元あったように木箱に戻す。ここまできっちり6秒。それを同じように着実にこなしていく。
 なるほど、時間を6秒×10回に使う作戦を考えたようだ。蓋を開けるオーバーヘッドを考えると効率的に思える。と、同時に美月のウィークポイントを改めて感じさせられる。
 味や匂いといった文字に表現しづらい情報というのは、前日からの引継ぎが難しいのだろう。僕が嗅ぐまでもない、と飛ばしていた〈ミント〉や〈バラ〉の香りも美月は念のため『覚えなおす』必要があるのだ。それでも、一度覚えてしまえばきっと僕なんかより正確に記憶できるに決まっている。
 「そこまで!」僕のときと同様に、掌サイズのケースが手渡される。
 「制限時間は30秒です。では、どうぞ」
 部員の合図を聞き届け、蓋を開ける美月。僅かに眉根をひそめたのを見て、僕は一瞬ドキッとなる。もしかして、美月をもってしても分からない難問か? それとも、5種もの匂いが混じったことで不快な香りが生成されたということか?
 30秒が終わり、部員が回答を促す。それに対し、美月は淀みなく5つの香りの名称を答えた。
 「……せ、正……解で……す」呟いた部員の顔は若干引きつっていた。きっと、部員内で何度も検証を重ねた結果、誰一人当てられやしないということを確証していたのだろう。何故こんなものが分かるんだ、そう顔に書いてある。
 しかも、学校祭はまだ始まったばかり。一般客がやってくる前に、目玉商品は既になくなってしまっている……という不測の事態だ。
 「じゃあ早速景品を……」
 「い、いやぁ、あのーその、ちょっと、えーとお待ちいただけますか?」動揺しまくる部員。明らかに時間稼ぎだ。しばらく、押し問答をしていると、教室の扉が勢い良く開いた。
 現れたのは、男にしては睫毛の長い伊達男だった。傍らに居るのは、先程ここにいた部員その2だ。今は、僅かに息を切らせている。
 彼が急いで状況報告に行った相手ということは……この人がアロマ研究部部長か。
 「すみませんねぇ。彼は1年なんでちゃんと把握していなくて……」部屋の中をずんずんと入りながら、部長は話しかけてきた。そして、そのまま『関係者以外立ち入り禁止』の衝立の向こうへ消えていく。
 「ちょうど今朝準備をしているときに、三役で色々と検討を重ねましてね……」声は向こうからなおも聞こえてくる。
 「レベル5は問題を二つ出すことにしていたんですが。いやぁ、組織内の伝達不備があったことについては、まことに申し訳ない」そういって、新たなケースを美月に手渡してきた。
 「当方も高額商品がかかっておりますのでね、何卒ご理解を頂きますよう。さて、これは難問ですよ。ふふ……。こら、ボーっとしていないで開始の合図を」
 「は、はい。そ、それではスタート!」
 美月は受け取ったケースの蓋を開けた。すると、香ばしい芳香が僕のところまで漂ってきた。ん? これってもしかして……。
 「えぇ。お察しの通りコーヒーです。香水販売のところにもよくあるでしょ? 鼻腔をリセットするのにちょうどいいんですよ。アロマ研でも使ってるんです。さて……、今回のは厳密に――豆の種別とローストまであてて貰いましょうか。何せ、レベル5の2問目ですので」
 奥地会長からアロマ研部長の人物像は事前にいろいろと聞いてはいたものの、想像以上の食わせ者だ。
 明らかに、想定外の事態を受けて咄嗟に用意した追加問題としか思えない。しかし、悔しいことにこちらにそれを咎めるすべは無い。僕や美月がいかにコーヒー好きだと言っても、品種やローストの仕方までは普段意識していないし、当てずっぽうで当てられるほどの確率ではないだろう。
 「これで本当に最後?」美月がまっすぐに部長を見据えて尋ねる。「もちろんだよ」部長は眼を細めて言う。自信満々だ。
 美月はケースに鼻を近づけて芳香を確認している。そして、ケースをゆっくりと放し、蓋を閉めると、
 「ハルコーロ・ノハナ農園のカツーラ種、シティロースト」しっかりとした口調で答えた。
 余りに淀みなく流れ出たフレーズに部長の表情が自信満々のまま固まる。……って、おいおい、もしかして。
 「当たり、か?」僕の呟きに我を取り戻す部長。前髪をかき上げながら「……いやいや。紛らわしくて申し訳ない。あまりに唐突に回答されたものだから固まってしまったよ」
 「正解でしょ」
 だが、美月は引き下がらなかった。へらへらと笑っている部長の目を射抜くように見ている。
 「これと完全一致してるんだから」そういって、携帯端末のストラップを揺らしてみせた。
 「あ……」
 それは、僕がさっきプレゼントしたコーヒーポプリだった。そこで、ふと頭の中にあることが浮かび上がる。コーヒーポプリを受け取ったときに、同じ豆が売り切れていたことを。その買い手はこのアロマ研部長だったのだろう。
 嗅いだ匂いがどんな豆かを推測するのは、茫洋とした海をあてもなく漂うようなものだ。しかし、記憶に新しい匂いと一致しているかどうか判断すること自体は、精緻な処理能力を持つ美月にしてみれば容易な作業なのだろう。自信満々に正解を主張した理由がやっと理解できた。
 「そのコーヒー豆、昨日〈まめしば〉で買ったものですよね?」
 再び固まる部長の顔。今度は、少し右頬が引きつっているように見えた。その顔が、その通り、と雄弁に物語っている。
 「なんなら、マスターに公正にジャッジしてもらいますか? 今日、学校祭来るっていってたし」
 〈まめしば〉に通う者ならば、あのマスターのコーヒー豆に対する鬼嗅覚は熟知しているはずだ。
 トドメの言葉を聞いて、部長はガックリと肩を落としてうな垂れた。

 *****

 「あれで良かったの?」
 廊下を歩きながら美月が僕に尋ねてきた。
 あれ、というのはさっきの顛末のことだろう。

 「え? 祭が終わるまでは景品を預けておくだって?」
 「そうです。どうせ、あの最終問題を正解できる人はそうはいないでしょう?」それにアロマ研究部の部屋にそれほど多くの客が集まるとは思えないですし……、という台詞は心の中だけにしまっておいた。
 部長はこの申し出を喜んで受け入れた。恐らく、次はどんな手を使ってでも最終問題を正解にしない工作をするつもりだろう。とすれば、あとは最高額の景品がまだ存在してますよという体裁が整っていればよいのだ。
 「あ、祭後っていっても俺は音夜祭があるんで、代理を立てさせてもらいます。多分、手許を見てもらえば将棋部関係者だって分かると思いますんで」
 「うんうん」
 「その代理に景品を譲ろうと思うんですが、本人が特にいらないって言うようだったら渡さなくてもいいです」
 「うんうん」
 「最終的には、その代理の言うことに従ってもらえますか?」
 「うんうん」
 優秀なイエスマンと貸したアロマ研部長は僕の言葉に何度も何度も首を縦に振っていたのだった。

 将棋部の当番は、斎諏訪・美月・僕の順番になっていた。
 美月の担当時間が来るまで一緒に校内を巡ってみたり、甘味をおごらされたりした。
 美月と別れた後は、陸上部の焼きそばを約束どおり買いに行ったり、催し物の冷やかしをしたりして、初めての大矢高校学校祭を大いに満喫した。
 気が向いて、料理研究部の部屋を訪れると、部屋中に砂糖とバターを主成分とした甘くて良いかおりが漂っていた。
 丁寧に包装されたお菓子に囲まれるようにして料理部員達が売り子をやっている。その中に、おっとり縦ロール――蒼井さんの姿をみつけて声を掛けた。
 「ども」
 「……いらっしゃいませ~。……あら~? 瀬田くん~?」
 僕は視線を品々に巡らせる。と、その中に4つ重なったお菓子の箱を発見した。
 「……おかげさまで順調なの~。午前だけで6個売れてるの~」
 それは何より。あのチョコ、濃厚で美味しかったからなぁ。先日いただいた、お礼の1個を思い出すと口の中が幸せで満ち溢れる。きっと買った人たちも大満足だろう。
 「あ、『ハッピーボックス♪』って名前にしたんすね」
 「……ふふ~。なかなかでしょ~」
 サンプルもよく見えるように置かれているが、確かにネーミングもこうすると分かり易い。
 ちょうど、2×5の真ん中だけを3つに区切ってある構図だ。そう、間仕切りの部分を真上から見ると……『幸』の字のようになっているのだ。

 

図_ハッピーボックス

図_ハッピーボックス

 

 先日、僕が思いついたアイディアは蒼井さんに受け入れられ、それが購入という実績として何人ものお客さんにも受け入れられたのである。
 咄嗟の機転がここまでになったんだなと感慨にふける。今日の音夜祭に向けて縁起がいいなと思った。
 
 *****
 
 僕が担当の時間になったので、将棋部部室に戻り美月と交代した。
 本来は美月の担当時間帯だが、行きたい場所も特にないのか、斎諏訪も部室内にたむろしていた。
 「売り切れてたら、約束違反なわけだからすごいペナルティだぞ」
 日頃たかられてばかりなので、僕は少し脅してみた。
 「ちっ、しゃぁなぃ、男子バレー部のバナナソーダとゃらを買ぃに行ってくるか」斎諏訪はノートパソコンをパタンと閉じると、「小太りには階段昇降は心臓破りの苦役だとぃぅことを忘れるな」と声高に言い放って教室を出て行った。
 教室には人はなかなかやってこなかった。入り口辺りにちらほらと人が通っていく姿は見えるのだが、なかなか中にまで入ってくる人は少ない。かといって、飲食店でもないので呼び込みをするのも逆に入りにくさを助長してしまいそうだ。
 座っているのも疲れるので、席を立ち、窓際に立って伸びをする。遠くの方ではもう日が傾いてきていた。
 と、そのとき「まだ、やってる?」入口の方から声がした。
 見遣ると、ベージュのジャケットとスラックスを着たほっそりとした男の人が立っていた。雰囲気や物腰からして、高校生ではないと予感した。かといって、社会人といった感じでもない。消去法で大学生あたりだろう。
 「大丈夫ですよ。あと30分くらいですけれど」僕は壁掛け時計をみながら答えた。
 大学生は応じると、部屋の中に入り、展示物をゆっくりと見て回っていく。
 と、大学生は窓際の盤と駒の近くまで行くと、「君と、将棋もできるの?」と言ってきた。
 大学の将棋部だろうか。僕の実力を図り、眼鏡に適ったらスカウトすることが目的か? いや、だとしたらこんなに遅い時間に来る理由が分からない。
 ただ、特に断る理由もないので、僕は「もちろんです」と言って椅子から腰をあげた。
 「あ、いいよ。持っていくから」
 そういって、盤と駒、そして駒台を二つ持つとこちらへ歩み寄ってきた。
 時間もそれほどない。僕たちは手早く駒を並べて、振り駒まで手際よくこなす。僕が先手になった。
 戦型は急戦ではなく、相矢倉で駒組みを進めるじっくりとした展開になった。場が落ち着いていることもあってか、ぽつりぽつりと大学生の方から話しかけてきた。
 通常、対局中に会話をするのはあまり良いマナーとはいえない。中には、〈口三味線〉と呼ばれる盤外戦術を使う人もいる。例えば、「あぁ、こりゃもうダメだな……」と油断させるようなことをいいながら起死回生の一手を用意したり、「ここで仕掛けてくるようなバカはいなだろうからなぁ」と仕掛けの一手をけん制してみたり。
 しかし、この大学生の会話はそういったものではなく、将棋部の活動や今回の展示についてなど対局の内容とは関係のないものばかりだった。
 だから、僕はその会話に不快をいただくことなく丁寧に応じながら手を進めることができた。
 ここまで順調に進めてきたが、はたと大学生の手が止まった。確かにここは難しい局面だ。一歩間違えれば敗因になりそうで、逆に、的確に指せれば明確に優勢にできそうでもある。考えられるなら、5分でも10分でも考えたいところだ。
 しかし、大学生は数秒考えただけで「えい」と手を指した。
 その後は、お互いに手が止まることもなくすんなりと終局へと向かっていった。そして、結果的にその場面が勝負を分けたポイントとなった。
 「いやぁ、参りました。君、強いねぇ」
 大学生が投了し、対局は僕の勝ちで終了した。その結果に僕自身、思った以上の安堵を感じたことに気づく。
 最後に将棋を指したのが大会だから、あのときの2連敗以来、連敗を止める久し振りの勝ちとなったからだろう。
 何気なく壁掛け時計の方をみると、学校祭終了10分前だった。
 それに気づいて、大学生の方が「あ、すまないね。もう時間か」と駒の片付けを始める。
 「あ、そんなに急がなくても大丈夫ですよ。片づけも、俺達がやっておきますし」僕はそういって、手をかざす。
 それよりも。僕はずっと心の中にあって、徐々に大きくなってきている衝動を抑えきれなくなっていた。
 この機会を逃してしまったら、きっと後で後悔する。そう思ったから、思い切って口にすることにした。
 「人違いだったらすみません」僕はさらに続ける。「大矢高元将棋部の高砂千智先輩、ですよね……?」
 
 *****
 
 10月中旬の17時ともなれば、屋外はもう明るさが失われている。校庭に散在する照明も既に電源が入りはじめている。
 昼間の強烈な陽光がなくなり、相対的に蛍光灯に照らされている教室はとても明るく感じた。
 僕の問いに、しばらくの沈黙のあと、大学生は「どうして、そう思うんだい?」とだけ応じた。
 「まず外見から、高校生以上社会人未満かなと感じました。
  それに、部活の中には片付けをはじめるこの時間帯になっての来訪。この時間帯は教師が定期打ち合わせをする時間帯らしいですね。泉西先生がいない時間帯を狙ってきたようにも思えます。そして……」
 僕は自分の側の駒台と大学生の方の駒台を並べる。「やっぱり高さが合いましたね」
 対局をするために道具を取り出すあの一瞬で高さの同じ駒台を選んだのは、偶然でないとしたら、かつて使っていたことがある者と考えても乱暴ではないだろう。
 「……なるほど」僕が考えを伝えると、大学生は満足したように頷いた。「今日は、かき氷やらなかったの?」
 大学生、いや高砂先輩は辺りを見回す。
 「もしかして、先輩のときはやったんですか?」
 一瞬の間。過去の記憶がまざまざと蘇ったのだろうか、高砂先輩は破顔して口を開いた。
 「やった。やったよ……。泉西先生が絶対やるぞって強引にね。そう、それで泉西先生が用意した板氷が大きすぎて機械に入らなくて……。空手部に割らせようとして顧問同志が押し問答になるし、部屋はどんどん寒くなっていくし、結局、かき氷は一口も食べられなかったし、散々だったよ」
 高砂先輩は遠くのほうに焦点を合わせるようにして懐柔していた。どうやら泉西先生はどれだけ時間を前後させても挙動は変わっていないらしい。金太郎飴のような人である。
 「僕が転校することになる直前、部員は3年生が5人、2年生はゼロ、1年生は僕一人だった。だから翌年、将棋部は廃部になったと思っていたんだ。でも、高校のウェヴサイトを見ると毎年毎年将棋部のページは残っていてさ。
  『大江のじっちゃんとは仲がいいから、後片付けは俺が頼んどく』って泉西先生がいうからウェヴサイトの削除依頼は任せていたんだけど」
 あの泉西先生だ。もちろん、単に忘れていたり連絡不備をしていた可能性はある。しかし、将棋部が第一部として存続していたこともなにか裏を感じさせる。なかなか想像がしにくいが、僕たちの知らないところで、あの奇天烈な顧問は高校内で根回しや奔走をしていたのかもしれない。
 「で、つい最近アクセスしたら、ページががらっと変わっていて。大会で、優勝とか4位とか取ってるって知ってさ」
 頑張ってメンテしているページを観ているユーザ――それも僕たちの先輩――がいたことを知ったら、あの斎諏訪もさぞ喜ぶことだろう。
 「改めて、大会おめでとう。部活動自体は楽しいものだろうけど、大会で結果が残せるとまた違った充実感が出てくるだろうしね」
 正直なところ、4位という結果は未だに自分の中では消化し切れていないところでもあるのだが、ここは部活全体に対するお言葉だ。部長として、丁寧にお礼を述べた。
 しかし、逆に気になったのは高砂先輩の方だ。大会の日に泉西先生たちが話していた内容を聞く限り、高砂先輩は1年生に大矢高生として出場したのが高校生活最初で最後の大会となってしまっていたはずだ。
 「俺が言うのもなんですけど……長殖の今井先生も難しい人ですよね」僕は言葉を慎重に選びながら話した。
 後輩からとはいえ、同情されることで多少は傷が癒やすことはできないものだろうかという思いだったが、
 「なにがだい?」
 当の先輩には旨く伝わっていなかったのか、不思議そうな表情を浮かべている。
 「生え抜き優先で、大会に出場させてもらえなかったとか聞いたんですけど……」
 言い出してしまった手前、仕方なく具体的なキーワードを出しながら続けた。
 高砂先輩は静かに聴いていたが、やがて「……泉西先生がそう言っていたのかな?」とだけ返した。
 僕は首肯する。やや間があいて、高砂先輩は口を開いた。
 「確かに、今井先生は生え抜き優先主義なのは間違いない。だけど、ちょっと違うんだよ」
 「え?」
 高砂先輩は転がっていた駒の中から、すっと〈王〉を抜き出すと静かにカチッと盤に打ち付けた。綺麗な手つきだった。
 「僕は、自分から将棋をやめたんだ」
 
 *****
 
 「結局のところ、自分で気づいてしまったんだよ。自分がそれまで将棋で勝ち続けられていたのは、倍率が少なかったからなんだ、ってね。
  スポーツ、漫画、アニメ、テレビゲーム……世の中に面白いもの、楽しいものはいくらでもある。娯楽は時代とともに増えていく一方だ。そんな中で、将棋だけに時間を使い続けられる子供ってどのくらいいるだろうか。
  そして、子供だから実力にはムラがある。多少のミスをしても無理やり押し切れたり、ひっそり仕掛けた一発逆転の手をまんまと成功させることだってそこそこ起こりえた。
  でも、年齢が上がっていくと、次第に事情は変わってくる。伸び悩んだり、不思議と勝てなくなったりする。そう、本当の才能を持った奴には全く敵わなくなるんだ……」
 静かに耳を傾けていた僕は、自分の中で最後にわだかまっていたものが溶かされたのを感じた。
 この間の大会で感じた違和感。スランプなどではなく、自分自身の実力と伸びしろを客観的に感じ取ったのかもしれない。
 こういった過去のカミングアウトはさぞ苦渋の表情で語っているのだろうと思いきや、そっと窺ったその表情は随分とスッキリしていたのだった。
 「でもね? 将棋を捨てたわけじゃないんだ。まぁ一時期、全く近づいていないときも確かにあったけどね。
  部活やサークルに入っていないけど、時々コンピュータ将棋で対戦したり、遠くのタイトル戦をわざわざ観戦しに行ったりね。大学生は時間があるから……。
  あの頃の自分は勝つことしか頭になかったけど、今は指すこと自体が楽しいんだよね。勝っても負けてもさ」
 僕は理解した。高砂先輩は、少し遠回りしたけれど、『自分自身と将棋との適切な距離』を掴むことができたのだ。
 「おっと、ずいぶん話し込んじゃったようだ。僕はそろそろ行くよ」そういうと、立ち上がりドアの方へ素早く歩いていく。
 僕も見送るために慌てて後を追う。ドアの下をくぐろうとしたまさにそのとき、高砂先輩はピタッと立ち止まった。
 「たった3歳しか違わないから、偉そうなことを言えるような立場じゃないんだけど……。この高校で学んだことだからこそ言っておきたいんだ」
 そして、身体を僕の方へ正対させる。
 「本当につらい時に必要なのは栄光じゃない。くだらなかったり、馬鹿馬鹿しかったり、そのときは何てことない平凡なことが必要なんだ、って思った。
  毎日を、毎日の高校生活を大事にしてください」
 そういって、こちらに右手を指し伸ばしてきた。僕は右手でそれに応じた。
 
 *****
 
 高砂先輩が去ってから、しばらくして斎諏訪と泉西先生が戻ってきた。
 気合の入った部活は今日だけでは片づけきれず、明日の朝に再開するらしい。我が将棋部は気合いが入っていないので、片付けはそれほど人手も必要としない。
 僕はこの後〈音夜祭〉があるし、片付けの大半はコンピュータ関連のものなので、片付けは基本的に斎諏訪に一任している。将棋盤と駒といった備品の片付けだけ僕が行う段取りだ。
 (斎諏訪は「小太りには以下略~!」と叫んでいたが、聞こえないふりをする)
 時計を見ると時間は18時00分。長いようで短かった学校祭は無事終了した。
 「〈ヴィシュヌ〉が13人、〈オーディン〉が5人か。まぁ、まずまずか」斎諏訪は集計画面を開いて確認をしている。
 「課金の仕組みを作っておけば良かったのによー」この期に及んでそんなことを言う大人が一人。
 「じゃ、俺はそろそろ行って来ますんで」
 僕は、盤の上に駒やら駒台やらカバンやらを乗っけて教室を後にしようとする。と、泉西先生が目を細めながら近づいてくる。
 「おい、瀬田!」
 「なんです?」
 高砂先輩のことを探られるか、と思いきやどっこい大丈夫。今の僕は努力する必要もなく、心の中は音夜祭でいっぱいだ。
 しかし、泉西先生は僕の間近まで近づいてきてこんなことを言ってきた。
 「ちっ。やっぱ、同世代の方が話し易いってことか?」
 「なんのことです?」カマをかけられてると思い、瞬時に僕はすっとぼける。泉西先生は、懐からすっと何かを取り出す。それは……?
 「双眼鏡だ。対岸の屋上からな、良ーく見えんだよ。まぁ、もう三年もやってっから慣れたもんだぜ」
 三年、つまり高砂先輩が卒業してから毎年やっていたわけか……。本当にこの人は、色々な意味で教師の枠を外れすぎているといわざるを得ない。
 「まぁ、これで俺さまもあいつも一応整理がついたってとこだぜ」
 泉西先生は扇子を取り出すと、パタパタと仰ぎ始める。
 「……もしかしてなんすけど」
 「なんだよお前。……あ? ん……。うっせーな、違ぇよ! 金儲けだって言っただろうが。早く、緑黄色野菜だかなんだかに行っちまえよ!」
 僕は追い立てられるように部屋を後にすることになった。
 泉西先生は人の心の中も筒抜けに分かる能力を持っているくせに、自身の表情も筒抜けといっていいほど分かり易い。だから僕は得心したと同時に、今回ばかりは少し悪いことをしたかという気持ちになった。
 あんなにかき氷を執拗にやりたがってたのは、やはり高砂先輩に自慢のかき氷を食べさせたかったからだった、に違いないと僕は確信した。

 体育館の集合場所に着くと、既に高楠先輩と久慈くんがウォームアップを始めていた。
 音夜祭に出演する12組の順番は基本的に合議で決められた。
 最初と最後の3組は希望する人達が集中したので、話し合いやジャンケンで決まり、残りは特にこだわりもなかったのでアミダクジとなった。
 仏の思召しが何を意味するのか、僕たちの演奏順は最後から4番目だ。
 時間が経つのが長く感じるのか、短く感じるのかもよくわからない。徐々に緊張してくるのを感じる。しかし、上には上がいた。
 傍らに立ち、僕に緊張しないような施策要求を繰り返してきた高楠先輩は顔色が文字通り青く見える。
 「な、な、なぁ。き、今日、どうする?」
 「『どうする』って何がです?」
 「だから……、演奏……」
 「……まさか、ここまで来て『やめます』じゃないですよね!?」
 「だって、見、見てみ? あの、人、人、人!」
 「もう、みんなカボチャだと思ってください」
 「この国に、あんな広大なカボチャ畑はないよ!」
 もうわけが分からなくなってきた。
 「む、輪廻の如く演奏順来たり……」僕達とは違い、明鏡止水の境地だった久慈くんが冷静に呟いた。
 確かに、僕達の前に演奏する〈豆腐爆弾エイティーン〉が機材の片付けを始めている。
 いよいよ、僕たちの出番だ。出番が来てしまった! 高楠先輩は、どうするかと思ったが、どうやら腹をくくったようで指の運動を繰り返している。
 〈豆腐爆弾エイティーン〉と入れ替わるように、僕達は楽器と機材の準備に取り掛かる。
 「さて、次は『ハォット……ケェイ、クウェェイ!!」
 その間に、DJが軽快なノリで口上を続ける。おいおい、カッコつけすぎて全然聞き取れない発音になってるんですけど……。
 〈HOT K(ホット・ケー)〉というのが僕たちのバンドの名前だ。
 初期メンバーの瀬田桂夜・高楠九龍・久慈健造の3人のイニシャルには実に5つもKが表れる。Kは外せないな、というのは当初から考えられていた。
 そこから転じて、様々な案が浮かんでは消え浮かんでは消えしていたが、疲弊していた僕が何気なく〈跳躍(リープ)〉した言葉であっという間にそれに決まってしまった。
 一応、トリプルミーニングなものではあるとはいえ、その場のノリというものの恐ろしさを思い知った瞬間だ。
 後に、追加メンバーが2人加わったが、いずれもバンド名を気にするタイプでなかったため、そのまま現在に至る。
 エレキギターをアンプにつないだりしている間に、ステージ上には脇によけられていたグランドピアノが登場する。
 高楠先輩は鍵盤の蓋をあげ、椅子の位置やペダルの具合を確かめている。久慈くんはスネアの感触やシンバルの位置を確かめている。
 ミキサーの音量などはリハーサルで調整した数字に合わせる段取りだから、準備は間もなく完了する。
 僕たちの準備が順調に進んでいくのに比例して、会場のざわめきが大きくなっていく。
 元々、読経研究部エース(?)の久慈くんがバンドのドラムをやるという点も理由の一つだろうけど、大きな理由は残りの二人だろう。
 ドラムを挟んで向こう側に、ベースを持った美月がいる。これだけの観客を前にしても全く緊張している素振りが無い。さすがだ。
 本当は、美月の才能に頼らず観客側にいてもらって僕の演奏を見てもらいたかった気持ちもあった。しかし、それは同じステージ上でもいいじゃないかと開き直った。その方が僕たちが無理しない姿のような気がする。
 美月は、他のベーシストが弾いていた位置よりは、若干ステージ奥に位置していた。
 ステージにへばり付いている不埒な男子生徒の視線から避けるためだろう。
 そして、ざわめきのもう一つの要因。ステージの中央に観客に”背を向けて”立つのは、鋼鉄の数学教師――丹治先生だ。
 その顔は授業中のように険しい。その手に握られているのは、授業中にも使われているかなり年季の入った指揮棒だ。観客の視線は丹治先生およびその指揮棒に8割方が向いているように感じる。
 ――注目されて、緊張しないようにしたい。
 先輩のその依頼に対して、僕が用意した回答は十分合格点に値するように思えた。
 (さて、と)
 僕はピックを取り出す。それは一般的な三角形の形のものではなく、五角形の駒の形をしていた。表面には〈桂〉という漢字がプリントされている。
 向こうにいる美月も同じような駒の形のピックを持っている。文字は〈月〉だ。
 「将棋部の宣伝も兼ねているから」美月にベースを頼むとき、断られないようにするための口実の一つにしていたのだ。もちろん、口八丁で、お揃いの何かを持ちたいという気持ちが発端だ。
 二度、三度と深呼吸する。そして、僕たちの準備は完了した。
 (やっぱりだけど、緊張するなぁ……)
 丹治先生が指揮棒をすっと上げる。その仕草を見て、ざわついていた観客が条件反射のように静まった。

 この曲は、ピアノのソロから始まる。指揮棒が小さく予備動作をした後、ピアノの音色が3小節続き、ドラム・ギター・ベース、それぞれの音が一斉に合流して前奏が始まった。
 よし、指がちゃんと動いている。音量もちゃんと出せているようだ。
 前奏の8小節が終わり、男子3人が声を合わせてAパートを歌いだす。

  好きな事しているのに、
  君はなぜ苦しんでるの?
  それは平和な時代に生まれた贅沢なワガママなんだ。

 それを見て、鉄面皮の丹治先生が驚いた表情を見せる。それも無理からぬことだ。僕たちは『歌詞付きである』と一言も言っていなかったのだから。
 丹治先生に渡したデモテープは楽器の演奏部分だけを渡していた。
 ただでさえ、ポップスバンドの演奏に指揮者を据えるということ自体が風変わりだ。それが歌詞も付いているとなれば、ちぐはぐを通り越して奇怪とさえ言えそうだ。
 ――勉強ももちろん大事だが、君たちの3年間は将来の糧になり、お守りになるものだ。だから、やりたいことを。楽しいことを。なんでもいい、とにかく一生懸命やるように。
 部活担当教務の丹治先生が、新入生集会で僕たちに向けて放ったメッセージだ。非常に月並みで、つい右から左へと流してしまいそうなメッセージだ。
 あくまで噂でしか確認していないが、丹治先生はかつて指揮者を目指していたらしい。言われてみると、丹治先生が授業を毎日きっちりと時刻どおりにこなしている姿は、年末オーケストラが時間枠ギリギリに演奏を終了する匠の技を感じさせるものだ。恐らく、体内メトロノームが正確に時を刻んでいるのだろう。
 しかし、どうして高校の数学教師の道を選んだのかは謎に包まれている。利き腕を怪我したとか、才能が無かったとか、様々な憶測は聞くことができた。しかし、本当の理由は本人だけの胸の裡にそっと仕舞われているのだろう。
 ただ僕が事実として認識しているのは、丹治先生は今日に至るまで愛用の指揮棒を捨てなかったことだ。それは、過去にしがみついているのではなく、過去を認めているからだと僕は感じた。そうでなければ、あのメッセージは口から出てこなかったと思う。
 奇しくも、高砂先輩先ほど出会うことができ、話を聞くことができたことで、今の僕はこの詞と目をそらさずに本当に正対できるようになった気がする。

  「したくてもできなかった」
  そんな若者がかつて
  この国にたくさんいて、消えて行った事は知っているよね?

 言うまでもなく、この歌詞は僕自身にだって向けられている。不自由ない暮らしを与えてもらって、好きなことだってやれる時間も取れている。間違いなく、僕は恵まれた時代や環境下にいるはずだ。
 それにもかかわらず、贅沢な一喜一憂を繰り返していた。そんな自分に叱咤激励する気持ちを込めた。
 Aパートが終わり、次はBパートに入る。歌の核であるサビの前で少し落ち着けるところだが、リズムが少し変わるのでそこは気をつけないといけない。

  「パクリだ!」なんて揶揄された
  模倣的な作品たちも
  完走した二位なんだから、マラソンのように栄光を。
  
 視線の先に、奥地会長を通して招待した人物――辰野寿子副会長――が座っているのが見える。
 お祭り気分ではっちゃけている周囲と異なり、表情は泰然自若としたままだ。それは、元々の性分かもしれないが、歌詞の内容に対して思うところがあったからかもしれない。
 それでも、僕からのメッセージは一方的かもしれないが伝えることはできたはずだ。今年のポスター投票で惜しくも落選してしまった、星空の絵の作者に。

 盗難騒ぎの5つの品はいずれも一般的な88星座の中に含まれるものだった。
 そして、88星座には略号という表記方法があるようで、それぞれを拾っていくと、〈こぐま座〉は〈UMi〉、〈おおぐま座〉は〈UMa〉、〈ろ座〉は〈For〉、〈カメレオン座〉は〈Cha〉、〈へび座〉は〈Ser〉となる。
 これをさらに無理やり変換していく。
 〈UMi〉と〈UMa〉で海馬、脳にも記憶を司る器官があるが今回はその元々の意味である〈タツノオトシゴ〉と変換する。
 〈Cha〉と〈Ser〉はChaser(チェイサー)で、直訳すれば追撃機などになるが、アルコール度数の強い酒の後に飲む飲み物のこともそう呼ぶそうだ。日本語で言うと〈お口直し〉となる。
 最後にこれを一つにつなげると、『タツノオトシゴ For お口直し』、最終変換すると『辰野寿子 For 奥地尚志』となる。
 そう、それは辰野副会長から奥地会長への恋慕のメッセージだったのだ。しかし、こんな暗号は普通に考えていたら解けるはずがない。僕がその考えに至れたのは、ゴールを先に決めて――辰野副会長が奥地会長に恋しているのではないかと――その補完をするように外堀を埋めていったからだ。それを補うように、〈跳躍(リープ)〉も起きてくれた。
 中学生のときの社会の先生が『腹を空かせた者達が歴史を作ってきた』と言っていたのを思い出す。現状に満足できている人たちは現状を変えようとしない。逆に言うと、歴史となるような大きな事を起こすのは、現状に納得できていない人たちなのだ、という意味とのことだった。
 まず、最近の大矢高校生徒のうちで、最も現状に満足できていないのは、あの投票第2位で惜しくも当選を逃してしまったポスターの作者なのではないかと考えた。
 そのポスターをよく調べてみると、背景の夜空に浮かぶ星座のうち、鳥の向かう先にあったのは〈カメレオン座〉と〈へび座〉だった。その絵の作者がもし、そこまでも琴羽野さんと同じ思考に至って構想を練ったのだとしたら……、その〈カメレオン座〉と〈へび座〉が作者自身が勇気を出そうと思っている対象に他ならない。ただ、残念なことに願掛けは失敗に終わり、告白は断念することにしたのだろう。
 しかし、それだけでは終わらなかった。その後、校内では星空の作品に対する厳しい言葉が飛び交うことになったのは記憶に新しい。5つの盗難騒ぎはそれへの反発と、不完全燃焼に終わった告白の代償行為だったのかもしれない。幸か不幸か、盗難騒ぎの中に〈カメレオン〉と〈へび〉が含まれていたことで、僕が二つの間の関連性に気づくきっかけが生まれることとなった。
 『暗号化した告白』というのは、本人の中には確かに告白をしたと言う事実が残り、周囲のニンゲンはそれに気づかないという絶好の状況を生み出せる。片思いの状態から少しだけ楽になりたいような場合はそれなりに有用な手段といえる。そう、春先に実際に僕自身も取った手段だったから、それがすこぶる良く分かる。泉西先生の読心術のせいで、美月本人の前で暴かれ、結果としてより恥ずかしい思いをするハメになったわけだが。
 そして、辰野副会長は、少なくとも〈くじら座〉をすぐに認識できるレベルで星座に詳しい人だと、僕は将棋大会の帰路で知っていた。

  やろうかどうかで悩んだ時は迷わずやって大失敗しよう。
  結果、ついた傷痕は前よりも強くなり、君を守るだろう。

  名も無き虫達だって光へ迷わず進む!

 この秋、僕はいくつもの困難や挫折感を味わってきた気がする。それでも、なんとかここまでやってこれた。それは、周りの仲間の存在が大きいし、過去の自分が頑張ったおかげでもある。
 曲はクライマックスに向けて、間奏に突入した。この16小節の間奏部分は、高楠先輩の譜面では〈ad lib.(自由に)〉と位置づけられていた。
 さっきまで、「用意した譜面通りに弾く……」と弱気だったはずなのに、ピアノがリズミカルに低音から高音まで及ぶ自由な旋律を奏でていた。
 ちょうど、その高楠先輩と眼が合った。
 どうですか? 生の演奏は? 視線でそう問いかけてみたのだが、そうするまでも無かった。その表情は、音楽を楽しんでいる者にしか浮かべることのできないであろうものだったからだ。
 その流れで、僕は周囲を見回す。久慈くん、美月、丹治先生――。他のメンバーは揃いも揃って、表情の変化とは縁遠い者たちばかりだ。それでも、流れ続け、編まれ続けている曲の躍動を感じれば、それぞれの想いはしっかりと伝わってくる。
 僕の右手もこの後、使い物にならなくなるんじゃないか、と思うくらいの速さで弦を掻き鳴らしている。
 春先に、音楽の自動作曲の話をきいたとき、音楽の衰退を頭に浮かべてしまっていたことが思い出された。
 でも。
 高性能なカメラが生み出されたら、意味がないと思って風景画を描く人はいなくなるだろうか?
 すごくリアルな立体映像装置が発明されたら、意味がないと思って旅行に行く人はいなくなるだろうか?
 自分より優れた人たちばかりで溢れていたら、僕は何もしなくなってしまうだろうか?
 人間より優れた機械ばかりで溢れた世界になったら、人間は何もしなくなってしまうだろうか?
 ――好きだから、ただ、やるんだ 理由はそれでいいし、そもそも無くてさえ良い――
 まだ大人になってもいない、ちっぽけな僕の中でも、今ひとつの答えが出せた気がする。

  大事なものは結果じゃない。積み重ねてきた軌跡だ。胸を張っていいんだ。
  下手だって不器用だって生まれてきた全てが名作なんだから。

 歌詞を聴衆に放ち切り、曲はエンディングの17小節に突入した。
 今日限りのバンドによる、今日限りの歌だ。考えてみれば、随分とこんな刹那的なことに時間を費やしてきた。それでも、楽しかった。やって良かった。
 学校祭が終わる。音夜祭が終わる。準備のための大変な日々がこれで、終わる。僕の高校1年生の秋が終る。

 演奏が終わった僕たちに、会場から大音量の歓声が飛んできた。望外の喜びだ。顔を見合わせてから、一同で一礼。名残惜しいが、後にも演奏がまだ3組あるので急いで片付けに移る。
 ステージ裏に引き上げると、身体はほてり、額も少し汗ばんでいた。
 「瀬田くん、本当にありがとう。もう、高校生活に悔いはないよ。これも、君が無茶苦茶言ってくれたおかげだよ」高楠先輩は、僕をばしばし叩くと、出会った頃のおどおどした感じなど微塵も出さずにそう言ってきた。
 「それは私も同じだよ。ただ、来週からの生徒達の視線が気になるがね……」丹治先生も相好を崩して続く。なんとレアなご尊顔。
 久慈くんもまた「げに喜悦至極なり。拙僧、正座にも多少の覚えあり。将棋にも僅かな助力能うかな」などと冗談を飛ばしてくる。台詞まわしはいつもの調子だったが、その表情は歳相応の男子高校生そのものだった。
 たった一度だけ歌を歌うという経験を経ただけでニンゲンはこうも変わるものなのか、と僕は静かに驚いた。そんな中、美月は一人だけいつもと変わらない様子だったが……、『いつもどおり』、それはそれでいいかもしれない。
 せっかくだから近くのファミレスで打ち上げでもしようか、という場の流れになってきたところ、僕はまだやらなければならないことを思い出した。
 「あ、先に行っててください! すぐ追いつくんで」僕は言うなりすぐに飛び出した。目的はただ一つ。
 体育館の入口の辺りに差し掛かり、渡り廊下を向こうに歩み去っていく後ろ姿が眼に入った。ギリギリ間に合ったか……。急いでやってきて正解だ。
 「副会長」その背中に僕は話しかけた。
 振り返った副会長は僕の姿を認めると、一瞬驚いた表情を浮かべたものの、
 「あの詞、私のこと言っていたの?」すぐ真剣な表情で問いかけてきた。しかし、それは怒っているといった雰囲気ではなかった。
 「半分は、ですね」と僕は正直に言った。「俺もここのところ色々あったんで」
 「……そう」
 扉を閉め切っているはずの体育館からは、勢いある楽器の音とヒートアップした観客の声が奔流となって漏れ出てきている。それと対照的に、僕たちの間にはしばらく沈黙の間が生まれた。
 「奥地会長にはどこまで話したの?」
 「特には。副会長をあの席に座ってもらうようにお願いしただけです。一連の騒ぎの犯人ということは感づいていると思いますけど、それ以外は多分……。会長って、そっち方面は鈍そうですしね」
 「そう、ね。すごく、鈍い」そう言って、苦笑を浮かべた。
 「この後、謝りに行こうと思ってたのよ」
 「品を拝借した部活に、ですか?」
 副会長が小さく頷く。
 「会長も言っていたとおり。やっていることは窃盗と何ら変わりなかった。迷惑をかけた全ての人たちに謝ることが、まず私のすべきことだ、ってね」
 「……そうですね。もしなんなら、ご一緒しましょうか? 俺、意外に顔が効くんですよ」
 「冗談。これ以上、恥ずかしい思いをさせる気?」
 「仕方ないですね。じゃあ、手の甲にペナルティを描かせていただきます」
 「ペナ……なんでそうなるのよ?」
 反論を試みる副会長を気にも留めず、懐から水性マジックを取り出した。
 「会長から命じられた謎解きのおかげで、バンドの練習時間が結構削られたんですよ。おかげで、本番で14箇所も間違えました。これって、副会長のせいですよね?」
 強引極まりない暴論だが、負い目のある副会長はそれ以上何かを言う気はないようだった。きゅきゅ、と文字を描いていく僕をただ黙ってみている。
 「1、6、0、4、5? ……せめてもっと達筆で描いて欲しかったものだけど」それを副会長は一文字一文字読み上げていく。
 「心の声が漏れてますよー? まぁ、俺の受けた損害は大体このぐらいかなと」
 「1万6千、ねぇ。弁明するわけじゃないけど、そんなに演奏ミスっているようには見えなかったけど」
 「いい仲間に恵まれたおかげです」
 「羨ましい話ね」
 「何言ってるすか。先輩も、でしょう?」
 僕の切り返しに、副会長は肯定も否定もしてこなかった。
 「さて……と、行ってくるかな」
 謝罪行脚においても、一番の難所はあの曲者部長のいるアロマ研究部だろう。足許を見て、何か要求をつきつけてくるかもしれない。
 それでも、副会長はきっと、両手を身体の前で揃えて丁寧にお辞儀をすることだろう。そのとき、アロマ部部長の目には手の甲に一見汚く描かれたあの『16045』が、逆向きで『shogI』に見えることだろう。
 ――最終的には、その代理の言うことに従ってもらえますか?
 ――うんうん
 そう、残念ながらアロマ部部長にはお詫びを拒絶する権利などははじめから無いのだ。
 踵を返し、静かに去っていく副会長の背を見届けてから、僕も歩き出す。
 勢い良く落ちているものは、もしかしたら、勢い良く昇っていくものを逆向きに見ているだけかもしれない。視点を変えようと思い立ち、変えることができるのは自分自身だけだ。
 トランポリンでより大きなジャンプをするためには、一時的に大きく沈み込む必要だってあるだろう。
 僕が駆け足で過ごした、この秋はどんな意味があっただろうか。その答えはもう得られている気がする。
 ふと見上げた夜の空には、散りばめられた繊細な星々に囲まれながら、月が燦然と輝いていた。

 

 小説『Winner in Winter =勝利の冬=』に続く?