総村スコアブック

総村悠司(Sohmura Hisashi)の楽曲紹介、小説掲載をしています。また、作曲家・佐藤英敏さんの曲紹介も行っております。ご意見ご感想などはsohmura@gmail.comまで。

小説『All gets star on August =星の八月=』(4/4)

 【第四章】 星

 *****

  ほし【星】〔名〕…期待され、もてはやされる人。花形。スター。

 *****

 

 眼が覚めて、寝床の感触に違和感を感じる。数秒のち、そうだ今は合宿の二日目だったのだと思い出す。
 そうだ、美月は? 跳ね起きると、「おはよう」そんな声を窓際から聞いた。
 首を捻ると、そこには既に水色のワンピースに着替えている美月の姿があった。手にはコーヒーカップを持っている。
 「具合はどう?」
 「ん? 良好だけど?」
 そうか、コーヒー飲みまくったことは引継ぎ対象外だったんだな……。まぁ、無事なら問題ないけど。
 時計を見ると、時刻は8時だ。僕は布団を(自分なりに)丁寧に畳み、美月の向かいの椅子に腰掛けた。
 そして、昨日のメモを手にしながら、ざっくりと昨日のできごとと出会った人物のことを伝えた。
 本当は、もっと感情も織り交ぜて詳細に伝えたい気持ちもあったが、それを今日の美月に言うことに大きな意味はないと思えた。
 全く目処など経っていないが、いつの日か、語るべき機会があったとき、それは伝えよう、そう思った。
 一応、最低限の情報は伝えたられたものの、僕の方で写真などの画像は無しだ。風雷庵で閉じ込められる直前くらいまでは、昨日の美月がいくらか写真に収めていたようだが。
 少々不安ではあるが、そこはこれまでを何事もないかのように切り抜けてきた、美月先生のスキルに期待するしかない。
 「さて、どうしようか。チェックアウトは10時だからまだ余裕があるけど」
 今日の美月はまだ温泉を体験していない、長湯はできないがそういう時間の使い方もありだろう。
 しかし、「温泉はいいや」「どうせなら、庭園がいいかな」という回答だった。
 昨日といい、美月はけっこう自然が好きなのかもしれない。僕たちが暮らしている街の自然はどうにも人工的だ。
 今度、少し離れた自然が豊かなところに遊びに行く計画でも立ててみようか、そんなことをぼんやりと思った。
 鍵をかけ、僕たちは庭園に向かった。
 
 昼間の庭園に降り立つのはこれで2度目になるが、昨晩の七夕祭を見た後だとそれまで抱かなかった簡素さや侘しさを感じるようになっていた。
 ゆっくりと、石でできた道の上を歩く。耳を澄ませば、どこかで鳴っている獅子おどしの音やカメの飛び込む音が聞こえる。
 道沿いに、昨日は気づかなかったのか、細い道を見つけ、僕は美月を呼んだ。
 「こっち、行ってみよう」
 その先に、僅かに屋根のようなものが見えたのだ。ゆっくりとは言え、少し体温が上がってきた。日陰で少し休憩でもしようかと、奥に進むと、
 「小僧と小娘か。妙なところで会うな」
 東屋の中から現れたのは、三冠だった。昨日、風雷庵以来の再開だ。
 三冠は眼を細めながら、美月の様子をじっと観察していた。
 はっと人目を引く容姿を持つ美月だが、どうも三冠の視線はそういった類のものではなさそうに見えた。
 「どんなカラクリなんだ?」不意に呼びかける。
 カラクリ? 一体どういうことだろうか。
 「あの記憶量は、明らかにただ頭がいいというだけでは説明がつかんからな……」
 記憶量……。風雷庵で美月が行動の説明をしたときのことを言っているのだろう。念には念を入れたかったとはいえ、あれは確かに目立ち過ぎたか。
 背中に一筋の汗が流れる。
 三冠は懐から扇子を取り出すと、パチ……パチ……と音を立て始める。
 「まあいい。非凡の才を持つ小娘と、オレに苦杯を味わわせた小僧か。久しく無かった興を提供した褒美にオレが一ついいことを教えてやろう。
  将棋で勝ちたいか? 連戦連勝、美しい手順で、勝ちたいか?」
 僕に扇子の先端を向けた後、パチンと一つ音を立てる。
 将棋で勝つ。それは、将棋を指す者に共通する望みだ。佐波九段や冷谷山三冠のように指せたら、それは夢のような話だ。
 僕は小さく頷く。それをみて、三冠は続けた。
 「オレは、脳のほぼ全ての領域を自在に使えるんだ」
 ニンゲンは、脳細胞のほんの一部しか使われていないと聞いたことがある。
 しかし、それが一体何を意味するというのか。
 異常なまでの強さ。そして、シナリオがあるかのような勝敗劇。僕の脳裏にあるイメージが〈リープ〉してきた。
 「もしかして……」
 「勘だけは非凡なようだな、小僧。オレの頭の中には、実現可能な棋譜が全て納まっている」三冠はこめかみを人差し指で指し示しながら、不敵に笑う。
 「無論、情報の圧縮やインデックス化といった加工をし、類似形やゴミのようなものは無駄だから納めてはいないがな。要するに――」
 「……考えていたのではなく、棋譜を再生していただけ、と言いたいんですか」
 「物分りがいいな。昨日の一件もまぐれというわけじゃないようだ」台詞を横取りしたにも関わらず、三冠は満足げな様子だった。
 もし、話が本当ならば、勝敗を操作することは造作も無いことだろう。
 そう、わざと3勝3敗のフルセットにした末、最終地の五稜亭旅館で圧勝をしてみせる離れ技を3回もやることさえ。
 今の僕だからきっと、その告白を正しく理解して、信じて、受け止めることができた。
 高校に入るまでの――美月や泉西先生に出会う前の――僕だったら、そんなニンゲン離れした能力など、到底信じることのできなかっただろう。「嘘だ」と叫んでいただろう。
 そして、小学生の――将棋に夢中になって明け暮れていた――僕だったら、『将棋というゲームはもう、終わってるんだよ』という告白なんて受け入れられなかっただろう。
 しかし、僕の心中はとても動揺していた。先日、将棋を大嫌いだと言い放ったとき以上に。
 「……そうして勝って、嬉しかったですか」
 「嬉しかったか、だと? 憶えていないな。優秀さの証明にはなっただろうがな。
  神の棋譜庫には想い出やら何やら不要なものは一切保存していないからな。
  どうした? 変な顔をしているが。オレのように強くなりたくないのか?」
 僕はどんな顔をしていただろう。泣きそうな表情だったかもしれないし、哀れみの表情を浮かべていたかもしれない。
 「総じて、天才とは異質なものだ。多くの凡人は天才になりたがるが、異質なる者、畏怖される者は御免だなどと勝手をぬかす」
 そして、今度は美月に扇子の先端を向け、同じように音を立てる。
 「天才の思考は、天才にしか理解できぬものだ。小娘、お前なら分かるだろう?」
 「……」美月は答えない。
 「容易には懐かんか。まあ、いい。いずれ分かるであろう。その小僧にお前の全てを受け止めるキャパシティはない。
  オレは意外に寛容なんだ。お前が、自らの足でオレの元にやってくることを心待ちにしているぞ」
 そういうと、三冠は僕たちの脇を通り過ぎ、そのまま去っていってしまった。
 
 チェックアウトをつつがなく済ませ、やって来たときと同じような青空の下、僕たちは再び潮風に吹かれていた。
 違うのは、持ち帰る荷物の量と、船着場にいる人たち。そして、扱いも……。
 「彦、姫。来夏もきっと遊びに来るんじゃぞ」
 昨日の七夕祭の後から、僕たちは何故か旅館の人たちに彦、姫と呼ばれるようになっていた。
 恐らく、姫というのは美月が織姫をやったからだと思われる。僕の方の彦は彦星を意味しているのだろうが、便宜上という雰囲気がひしひしだ。情けないことだが。
 「ホント。来年の七夕祭もやってちょうだいよ? あんな織姫見せつけられたんじゃ、もう来年以降やる自信ないわ……」沙羅さんが手をひらひらとさせておどけてみせる。
 「山側の青龍も良い景色でお勧めでございますよ」
 「ここらは、夏以外の食材もなかなか絶品ですぜ」
 チェックアウトとチェックインの間の忙しい時間のはずなのに、わざわざ高校生2人のためにこうして見送りに来てくれたのだ。本当に嬉しいことだ。
 僕は、左手にバッグ、右手にお土産の五稜温泉饅頭(五稜星の形をした、もみじ饅頭とちょっと似た温泉饅頭)2箱の入った紙袋を下げて頭を下げる。
 間もなく出港となる。タラップを渡ろうとしたとき、御前さんが杖をつきながら近づいてきた。ちょいちょい、と耳を貸すようにとジェスチャーをする。
 「実はな……昨日の問題でアタシが用意していた答え。あれは、本当は秋一の言った方が正解だったんじゃ」御前さんが僕の耳元で呟いた。
 「……やっぱり、そうでしたか」それは、僕にとっては意外なことではなかった。
 無理やりこじつけたような僕の答えより、三冠の答えの方が圧倒的にピースが綺麗に埋まっている感じはしていたのだ。
 それでも、あんな状態であの場を解散にしたくない、その想いだけが暴走して思いついたことをつらつらと述べてしまったのだ。
 「あ、でも。線が赤かったのは何か意味があったんですか?」
 「ありゃ、〈封じ手〉の趣向だったんじゃ。一応、〈管理室〉の金庫にも同じものを入れたりしとったんじゃが」
 なるほど。確かに、将棋の〈封じ手〉は赤い色で手を記入したり、立会人と金庫に一通ずつ同じものを保管するなどの手続きがある。
 「もともと『あの5人が、協力して、生きていって欲しい』それが起点で考えた問題だったんじゃ。だからこそ、あの時は彦の答えを正解にしたんじゃよ。
  角度と体温が約36度とは恐れ入ったがねぇ!
  いいかい。単なるマルなんてものは、知識があればもらえることもあるさ。でも、出題者の意図を真に理解しようと思わない限り大きな花マルはもらえないんだよ」
 その言葉を聞いて、僕は何故か泉西先生と以前した会話を思い出していた。
 
 「あんなメタな視点の問題、アリなんすか? 泉西先生も答え分からないでしょ」
 「うん。だから、ちゃーんと文章になってれば全員丸だぜ。問いに対して何にもレスポンスをしないヤツは社会で生きていけないぜ~、という、実は俺からのありがたい処世術伝授問題なのだ!」
 
 あのときはふざけた話だと、はなから決めて掛かっていたが、今改めて考えてみるとその意味するところが少しは理解できた気がする。
 「どうしたんだい?」
 「えっ、あ、あぁ。ちょうど、今回来られなかった顧問の先生が似たようなことを言っていたような気がしたような気がしまして……」
 「まぁ、いい先生じゃないか」
 「いやいや! 本当に、そんなことないんです! いつもいつも困らされていて、どっちが教師なんだか分かったモンじゃないんです。この間だって――」
 「そうかそうか。なら、やっぱりいい先生じゃないかい」
 そのとき、船のエンジンが掛かった。出港は近い。いろいろあった合宿もこれでおしまいだ。
 船がゆっくりと離れていく。だんだんと、声も届かなくなっていく。大きく手を振ることで、船着場にいる人たちに精一杯別れを惜しむ気持ちを伝えた。
 やがて、その姿も見えなくなり、やがて、子牛島もついには見えなくなった。
 隣には美月。美月は眼を閉じている。今日の美月は、今、何を考えているところだろう。

 そういえば、七夕祭の最後。揺れた美月の短冊には何の字も書かれていなかった。美月は、字を書いた振りをしていただけということになる。
 豪奢な和服を着ていたから、わざわざ字を書くのが大変だったのかもしれない。
 あるいは、願い事を読まれるのが恥ずかしくて、抱いていたものを文字に表さなかったのかもしれない。
 普段の美月の性格からしたら、『願いなんて全部自分の力でどうにでもできるよ』という強い意思表示だったのかもしれない。
 でも、もし。
 仮に、僕が全て満足している幸せなときや、今後願いが叶う見通しがあるときに「願いごとはなんですか?」と問われとしたらどうだろう。
 「願いごとは、ありません」と答えるんじゃないだろうか。
 あのときの答えを知る出題者は既にこの世にいない。そもそも、問題というものでもなく、一方的に問題にしてしまったようなものだ。
 だから、僕は自分なりに思い描いたその答えは、今日は無理でもいつかは、美月に回答したい。その時は、花マルがもらえるといいけれど。
 水しぶきを上げながら進む船の上には、来たときと同じような青空が水平線の彼方まで広がっていた。

 

 小説『Fall on Fall =俯瞰の秋=』に続く

 

小説『All gets star on August =星の八月=』(3/4)

 【第三章】 星

 *****

  ほし【星】〔名〕…夜空に小さく光って見える天体。

 *****

 

 甲殻類はどうして美味しい身体を持ってしまったんだろう。進化の過程で、不味い身体になっていったなら、今頃は見向きもされず海の中で悠々と繁栄できたかもしれないのに。
 いかに固い殻といえども、文明の利器を持つ『考える葦』の前では無力である。
 そんな哲学なようで、そうでない思いを抱きながら僕はカニの刺身を頬張っていた。
 なんて美味しさだ。カニなんて、ボイルされたものしか食べたことがなかったから、そもそも生で食べるという発想自体がなかった。
 「お味はいかがです? 島の近くで取れるニイチガニといいましてね。少量しか取れないんで、一般にはあまり流通せんもんです」
 調理帽をかぶったため、スキンヘッドであることがすっかり分からなくなった敬基さんが説明してくれる。
 僕たちは御前さんの取り計らいで、旅館関係者が利用する裏手の部屋で昼食をとっていた。
 初日の昼食は別料金のため、ありがたいお誘いだと思って応じたら、思わぬ豪勢な食事を出してもらって戸惑っているところだ。
 「まかないなんで、あんまり綺麗なものじゃございやせんが……」
 「そんなことないですよ、味も本当に美味しくて」
 〈小牛島〉の近海で取れる魚介類、そして山菜を中心とした品が5~6品はある。
 美月は静かに食べているが、普段よりペースがゆっくりに感じる。舌で味わっているのだろう。
 「今晩のお祭ではもっと凝った料理を出しますから、そちらも堪能してくださいよ」
 「お祭……ですか?」
 「あれ? ご存じない? 今夜は七夕祭やるんですよ」
 七夕? 今は八月だけど。僕の頭上に『?』が浮いたのに気づいたか、
 「この島では、旧暦にやってるんですよ」と説明してくれた。なるほど、旧暦だから一ヶ月遅れなのか。
 「無料で浴衣の貸し出しもやってるんです。この浴衣がなかなかの高級品でね。着物好きの方には垂涎ものですよ。
  人間国宝の着物職人一族と丸井家とがちょっとご縁があるのでできたイベントでして」
 将棋部顧問でありながら、駒の動かし方すら怪しい泉西先生が何故この旅館を選んだのか。その訳が今やっと分かった気がする。
 
 食事を終えて、僕たちは再び五稜亭旅館のメインフロアに戻ってきた。
 なんだか、随分色々あった気がするが時計を見ればまだ1時47分だ。
 とりあえず、チェックインを済ませてしまおう。
 クロークで預けていた荷物を受け取り、フロントで「3名で予約のセンセイです」と名乗って手続きを進める。
 鍵を渡されるのかと思ったら、男性が一人回り込んできて僕たちの荷物をひょいと持ち出した。
 「それでは、ご案内いたします」
 う、うわぁ……。
 忘れかけていたが、ここは高級旅館なのだ。なんだか、とても緊張する。この人が運び屋……じゃなくて、ポーターの役割の人かな。
 これって、荷物を運んでもらった後に「ココロヅケ」とかいうものを渡さないといけないんだっけか? うーむ、さっぱり分からない。
 とりあえず、こういうところに宿泊する経験をさせてくれなかった両親に怨念のオーラを送信した。父は深爪に顔をしかめ、母はジャムの瓶がちっとも開けられずに苦しむことだろう。
 息子が、彼女の前で赤っ恥をかく危機なのだ。当然の報いである。
 ドキドキ感は自分で持ち運びながら、僕たちの荷物を持ったポーターさんに着いて歩く。エレベータで5階に上がり、5方向のうち麒麟の方に案内された。
 「こちらでございます」
 開けてもらったドアの先に進んで、言葉を失う。
 床の間には、値の張りそうな掛け軸と活け花。窓からの眺望は視界いっぱいに海が広がり、非現実的な高揚感がこみ上げてくる。
 しかし。
 「す、すみません。本当にこの部屋であってますか?」僕は不安になって尋ねてしまった。
 一介の教師に過ぎない泉西先生が、良質な着物が着られるというだけでこんなに高級な部屋を取っているはずがない。別の客と間違えているのではないかと考えるのが自然だと思ったのだ。
 すると意外な答えが返ってきた。
 「えぇと、こちらにご宿泊予定の丸井新吾さまがお二人の部屋と交換するように……と頼まれまして」
 「丸井6段が?」
 「はい。『元々、一人で宿泊するには広すぎるし、二人には借りがあるのだ』と言われておりました」
 豪傑さんの豪放磊落な性格を考えると、十分に信憑性のある話だ。
 「こちらのお部屋はキーは一つですが、中は鍵のかかるお部屋がいくつか分かれております。もし、不都合がございましたら、元に戻すよう手配いたしますが?」
 ポーターさんは美月の方に尋ねる。
 鍵が掛かるとはいえ、年頃の女の子だ。近くに男が寝泊りするのは気になったとしても不自然ではない。
 美月は珍しく即答せず、しばらく考え込んだ後、「せっかくだし、ここでいい」そう答えた。
 きっと、この部屋が気に入ったというのが理由だろうけど、僕はその答えは自分の存在を肯定されたような気がして、少しばかり嬉しくなってしまった。
 「承知しました。それでは、ごゆっくりお過ごしください。なお、当旅館のサービス料は宿泊料込みで頂いておりません、ご了承くださいませ」
 そう言って慇懃に一礼をして去っていった。ココロヅケの心配もなくなって、一安心だ。もしかしたら、僕がそわそわとポケットの財布を出そうか出すまいか逡巡していたのに気づいていたのかもしれない。
 こうして、僕は念願の二人きりの状態を2時過ぎになってようやく得られたのだった。
 
 「コーヒーでも飲もうか?」
 僕は切り出した。情けないことに、間がもたなくなったのだ。美月は自分から積極的に話すほうではないし、僕も会話上手というわけではない。きっと父親似だ。父に怨念オーラを追加送信、と。
 もし、あと数秒遅れていたら、美月は暇つぶしに4乗の計算でも始めそうな雰囲気だった。我ながら、ファインプレーと言わざるを得ない。
 戸棚を探してみると、あったのは風雷庵にもあったインスタントパックだった。どうやら、シリーズもので何種類かあるらしい。
 「あたしがやるよ。あっちに戻ってて」
 美月が近づいて、ポットの前にカップを並べていく。
 「じゃあ、俺はこれで」
 たまには変わったものでも飲むかとフルーティーな香りのする種類を選んでみた。
 座布団の上に戻って、座り心地を堪能していたが、落ち着かない。働かざる者食うべからず、というか、人が何かしているときにぼーっとしているのが苦手なのだ。
 コーヒーの匂いがだいぶ強くなってきたので、そろそろだろうと思い再び美月の近くに向かう。と、
 「あれ?」
 見ると、二つのカップの上にそれぞれインスタントのパックが載っており、僕が選んでいない種類が一つ使い終わったように避けられていたのだ。
 「二つ使ったの?」
 「ちょっと濃いのが飲みたかったから……」
 「もしかして、眠い?」
 今日は乗り物での移動もあったし、ちょっとした騒動に巻き込まれもした。美味しい昼食もおなか一杯頂いたとなれば、眠気がわいても不思議ではない。
 「眠気は平気。……ケーヤのはちょうどできたから、持っていって」
 「ん、あぁ」
 カップを受け取って先に戻る。程なくして、美月も戻ってきた。そして、揃ってから飲み始める。
 うん、こういうのもなかなか美味しいじゃないか。
 コーヒーは、コーヒーっぽいのが一番! と、普段から苦味系のものばかり飲んできたけれど、これは発見だ。
 「にが……」
 見ると、美月が少し舌を出してそう呟いていた。
 「やっぱり……。少しお湯で薄めたらいいのに」
 たまりかねて、僕はそう助言したものの、美月はマイペースに飲み続ける。
 コーヒーの刺激が良かったのか、僕の頭には奇跡的にも次から次へと話題が沸いてきた。
 「そういえば、ラフ……テイカーって知ってる? 孤独に泣いている子供のすぐ傍にすうっと現われて、笑顔にさせてしまうすごいヤツらしいんだけど、」
 言いかけて、その先を知らないことにはたと気づく。しまったか……と思ったが、今の僕はなんだか冴えていた。
 「まるで煙みたいなヤツだよね。あ、そういえば、俺、煙草の煙って全然平気でさ」
 「見かけによらず、不良なの?」
 「頭は不良だけどね。じゃなくて、基本的に将棋道場ってさ大人ばっかりなんだ。
  小学生の頃は周りでみんなぷかぷかふかしていてさ。扇子でいくらあおいでも、煙は回り込んでくるから結局吸ってしまう。今は道場もそうかは分からないけど。
  でも、対局中は将棋に集中してたから煙のことなんて気にしてられなくて、気づいたらそうでないときも感じなくなっちまったってわけ」
 勝田くんの家族のこと、琴羽野さん兄弟のこと、福路くんと蒼井さんのこと、父と母の馴れ初めのこと(これはばれたら小遣い減額されそうなリスクがあったが!)。
 そんな他愛のないことを話していたら、時刻はもう18時近くになっていた。ミラクルだ。楽しいときは早く過ぎるというが。外もまだ明るいから全く気づかなかった。さすが8月だ。
 「そろそろ、下に行く?」
 こくり。それを合図に、僕たちは荷物をまとめはじめた。
 下のフロアには、温泉と、夕食会場があるのだ。
 
 久し振りの温泉は最高だった。脱衣所に戻ってからは、汗をかかないように身体をゆっくりと冷ましてから、服に着替える。
 後でマニア垂涎の着物とやらを着てみようかと思っているので、部屋に置かれていた浴衣は持ってきていない。
 裏返った『殿』と書かれた暖簾をくぐると、先に美月が待合所の椅子に座って待っていた。
 「待った?」
 「さっき出たばっかり」
 見ると、僅かに髪がしっとりとしている。
 夕食会場はたくさんの人が既に食事を始めていた。どうやら、メインの食事とは別にドリンクや副菜はブッフェ形式で取れるようになっているらしい。
 僕たちは『麒麟 508』と札に書かれた卓についた。
 卓上には小さな四角い提灯が置かれていた。中に入っているのは蝋燭なのか、光がゆらゆらと揺れている。
 オーダーを尋ねられ、僕はイセエビの香草焼き、美月は舌平目のムニエルを選んだ。
 前菜のマグロのカルパッチョをつついていると、「ようこそ、いらっしゃいました」憶えのある声がした。
 柔和な表情を浮かべ、立っていたのはやはり館主さんだった。
 「温泉はいかがでしたか?」
 「気持ちよかった」
 「温度もちょうど良くて、露天は景色も良かったです」
 「それは嬉しいお言葉。ありがとうございます。お夕食の後は、庭園で七夕祭を催す予定でございます。ご都合がよろしければ是非。お召し物につきましては、この会場の出入り口にいるものにお尋ねくださいませ」
 館主さんは一礼をして、別のテーブルへと挨拶に向かっていった。忙しい身なのに、わざわざ気に掛けてくれて何だか申し訳ない気持ちになる。
 やがてメインディッシュが運ばれてきた。ハーブの香りに包まれ、赤々としたイセエビが手許に置かれる。口の中はもう準備万端だとばかりに、潤っている。
 大きな身を取り出して、一口。
 ……。
 こらこら、誰ですか? 口の中で楽園建設をし始めてくれちゃってるのは? まぁ、建設許可出しますけど。
 食感といい、味といい、こういうものを16歳のうちから食べてしまっていいのだろうか。舌が肥えてしまって、人生不幸にならないか。そんな謎の不安が頭をよぎる。
 皿の脇に避けられていた、イセエビの上体と眼(?)が合う。二つのハサミを逞しく構えてはいるが、さっきのニイチガニと同じく、君も美味しく生まれてきてしまったのが不幸の源だったのだね。
 「そういえばさ」
 「何?」
 「小さい頃、桂馬の動きを覚えるときに、『エビのハサミ』をイメージしていたんだ」
 「どういうこと?」
 「ほら。桂馬のいた位置から一マスまず進んで、そこから左上と右上……だろ? 
 僕は指で卓上をとんとん、と示しながら説明する。
 「人によっては、それをY字とイメージしたかもしれないし、『左上に進んでひとつ前』と『右上に進んでひとつ前』っていう覚えかたをしたかもしれないけど」
 『エビのハサミ』の話をしたら、父にしては珍しく声をあげて笑ったものだった。「そうか、桂夜にはそう見えたのか」と。話はそこでおしまいだったが、もしかしたら父も小さい頃は似たような憶え方をしていて、親子であることの不思議さ、滑稽さを感じていたのかもしれない。
 冷谷山三冠とそのお父さんは、同じイメージを抱いたのだろうか。それは、もう誰にも分からないことだが。
 「星座みたいだね」美月が言った。
 「星座か……。そうかもしれない」
 個をいくつも結びつけて、新しい個を生み出す。それは、良くも悪くもニンゲンが昔から持っている才能だ。
 単体の星同士をいくつも結びつけて、大きな星座を描くこともできる一方、様々な誤解を結びつけてしまい大切な絆を見失ってしまうことだってある。
 デザートのフルーツを幾つか摘んでから、僕たちは出口へと向かった。
 
 出口にはいくつかの長テーブルがあり、人だかりができていた。間から覗き見ると、どうやら短冊と着物の整理券を配っているようだ。
 列に並び、順番が巡ってくると、小さな短冊を渡された。幼稚園のときにもこういうのやったなぁ、と懐かしい気持ちになる。と同時に、初恋の相手、ナナちゃんとの苦い想い出が蘇りそうになり、慌てて封印し直す。
 「はい短冊です。できるだけ具体的に書いてくださいね。願いごとが叶いやすくなりますから」
 「筆記用具は衣裳部屋の出入り口付近にございます。書き終えた短冊は外の会場までお持ちください。お祭の最後に笹に結ぶ機会がございます」
 短冊を受け取ると、その先が衣装の受付になっているようだ。
 「あら、きみたち」
 聞き覚えのある声がした。顔を上げると、女将である沙羅さんが立っていた。お祭りに備えてか、髪や着物も一段としっかりとした装いとなっており、遠くから見ただけでは気づかなかったかもしれない。
 「はい、じゃあ、きみはそっちの部屋。彼女は一緒にこっちの部屋に来てね」
 短冊を受け取り、僕は衣裳部屋に入った。老若さまざまだが、高校生くらいの年齢層はあまりいないようだ。
 部屋の中には、特段華美でないながらも上質な反物で作られたと思われる浴衣がずらりと並んでいた。
 僕は、さほど迷わず、紺色の浴衣を選んだ。
 あの佐波九段が愛用していた和服も紺色だったからだ。
 「はは。タイトル戦にからっきし縁がないものですから、四段になったときに背伸びして買ったものが長持ちして、ずっと使っているだけなんですな」和服についてのインタビューでそう笑っていた佐波九段が懐かしい。
 見た目は熱そうに見えるが、意外に風通しがよく、これなら大丈夫そうだ。
 部屋の入口脇にある机で、筆記用具を手にして願い事を考えることにした。
 本当に願いが一つ叶うなら、『願いをまず10個増やす』だとか真剣に考えたいところだけど、余興の一種だしなぁ。
 とはいえ、今や知り合いになってしまった丸井さんたちの企画したイベントには真摯に臨みたい気持ちもある。
 そうだなぁ……。
 
 『小遣い2000円アップ』うーん、何だか欲丸出しというか……。これは、自分自身に落胆しそうだ。
 『一年間、病気・怪我なし』あえて神頼みしなくてもという気がするか。
 『棋力向上』、『学年順位、10位以内』これらも、先ほどのに類する気がする。そもそも、自分自身の努力が必要なものであり、逆に言えば自分自身で制御可能ということでもある。
 
 そこで、はたと気づく。他人はコントロールできない。だからこそ、それが現実化できたならそれは神にしかできない願い事になるのではないか、と。
 さらさらと、筆を走らせる。書家のような筆捌きを気取って書いたせいか、正直自分でも読みづらい文字になってしまった。
 まぁ、人に願い事を見られても恥ずかしくないと思うと、むしろ良かったのかもしれない。
 僕は、浴衣に乱れがないことを確認して、衣裳部屋をあとにした。
 
 部屋の外に出ると、およそ和服の似合わない知り合いが仁王立ちしていた。
 ベートーベンのようなウェーヴの効いた髪と前方に力強く伸びているもみ上げ。豪傑さんだ。
 「はっはっは。また会ったな!」
 「どうも、丸井六段。お部屋、ありがとうございました」
 お礼を述べつつ、この人の髪型は風呂上りでもずっとこのままの超クセ毛なのか、わざわざセットしているのかが気になる、などと考えてしまった。
 「あの、みつ……連れの女の子見ませんでしたか?」
 「はっはっは。あのアイドルっ子か。ちょうど、外の会場に向かっていくのを見たぞ?」
 「外に、ですか」
 確かに、衣裳部屋の前で待ち合わせをするなんて約束はしていなかったが、それにしてもマイペース過ぎじゃないか。
 外は大分暗くなっている。多少照明はあるだろうけど、この場所より合流しづらいはずだ。
 「はっはっは。そんなに広い庭園でもない。すぐに見つかるだろう、さあ行くぞいくぞ!」
 そういって、バンバンと背中を叩かれて推進させられてしまった。
 
 記憶を手繰り寄せる限り、僕はビンゴ大会でビンゴが揃ったことがない。どれだけの運のなさだろう。しかし、それは今日で終わりを迎えることとなった。
 「七夕祭の会場はこちらでござい」
 会場への入口で、丸井4兄弟の末弟、敬基さんが宿泊客の出迎えをしていた。
 「はっはっは。敬基までかりだされたのか」
 「今年は少し人手不足でしてね。お祭もあともドリンクとちょっとした食べ物を出すだけすから」
 「あの、俺の連れの女の子、会場に入っていきましたか?」
 「え、あぁ。ちょいと前に入ってきました。きっとどこかにおられるでしょう」
 その言葉を聞いて安心した。僕は敬基さんに一礼をして庭園に降り立った。
 真夏の夜のはずなのに、庭園は涼しかった。霧吹きなどで丁寧に打ち水をしたのか、身近な草木はわずかに湿り気を帯びていた。
 先ほどの夕食会場のように、照明はおぼろげで所々に配置されており、せっかく生まれた宵闇を無碍に消したりすることはなかった。しかし、そのせいで僕は未だに美月の姿を探せないでいる。
 一体、どこにいるのやら。美月のほうは僕を探している最中なのだろうか。
 実は、一人になりたくて離れているのだとしたら……?
 何故、夢は寝ているときに見るのか、それは外部からの情報が入ってきにくい睡眠時に脳の中を再整理しているためで、夢はそれを知覚したものだから滅裂な内容が多い。そんな説を聞いたことがある。
 ただでさえ特殊な事情がある美月だ。一人きりの時間、頭の中を整理するのはとても大切なものなのかもしれない。ここまでずっと、近くには誰か(主に僕)がいた。都合の良い考えかもしれないが、僕に気を遣ってはぐれた振りをしてくれているのかもしれない。
 いずれにしても、『508』の鍵は僕が持っている。祭が終わった後には合流しなければならないのだ。庭園の入口は一箇所。そこで待っていれば、さすがに合流できるだろうけど。
 豪傑さんが、身近な卓上からグラスワインを手に取った。なんとなくだが、僕はアルコールが強い気がする。体質は、母親に似ているところが多い気がするからだ。
 それでも、未成年なので僕もソフトドリンクに手を伸ばした。正直なところ、興味はあるのだけど、そういうことにはけじめをつけたい。
 あれこれと考えていたせいか、柑橘系のそのドリンクは少しすっぱく感じた。

 「あっ、ちょっとしばらく離れます」
 僕は、ある人物が遠目に見えて、豪傑さんから離れた。
 僕は、輪からずいぶんと離れて暗がりでグラスを傾けている人物に声を掛ける。
 「円先生、少しお時間をいただいてもよろしいですか?」
 白衣を和服に変えると、すっかり素浪人のような格好になった名医は「ひっひひ。まったく構わないよ」と手をひらひらとさせた。
 医者という立場上、患者の情報を簡単に話すわけにはいかない。それを気遣って切り出した。
 「ちょっとしたフィクションを思いついたんです。せっかくなので、誰かに聞いてもらえたらと思って。
  先生は昔、千兵衛さんとチヨコさんの不妊治療も担当していた。そのとき、なんとか受精卵まで至ったものの、時間がわずかに及ばずチヨコさんは丸井家から出されてしまった。
  しかし、そのときの受精卵は大事に凍結されていた。〈子牛島〉を離れたチヨコさんの落ち込みは歳月が過ぎても変わらなかった。
  それを見かねた先生は40近い身体で出産などに踏み切らないだろうと、二人の相性が悪いわけではなかった、と受精卵の話をしてしまう。
  チヨコさんは先生が折れるほど強く望んだ。そして生まれたのが冷谷山秋一だった……」
 「……」
 物理的な問題と、時間的な問題を考えると、これが僕に思いつく唯一の解だった。いかに〈子牛島〉の出入りに丸井家の眼が光っているとはいえ、医療道具の中身までは細かくチェックされなかっただろう。
 「そして、成長した冷谷山秋一にあなたは様々な手助けをした。御前さんの主治医も務める先生は、御前さんが謎掛けの計画をしているのを知り、冷谷山秋一に伝えてあげた。
  いや、あるいは冷谷山秋一が来ることを御前さんに伝えて計画を進めたかもしれないです」
 「ひっひひ。フィクションじゃなかったのかい?」
 「フィクションです」
 円医師は黙って、グラスを傾ける。僕も一気に話して喉が渇いていたので、同じように流し込んだ。数秒の沈黙の後、
 「ひっひひ。その医者がね、1か月早く治療に着手できていたら、そもそもそのフィクションは成立しないねぇ。だとすると、とんだヤブ医者だ」
 円医師は、一気にグラスの中身を飲み干した。
 「戦いが始まる前に端歩を突いておけばよかったとか、一手辛抱すれば良かったとか、後悔することって将棋でも良くあります。
  将棋って運が絡まなくて、指した悪手は全部自分のせいになるんです。だから、すごく辛いんです。自己嫌悪になって。
  でも、ずっと悪手だと思っていた手が、最後の最後で効いてきて勝ちにつながったりすることもあったりして。
  最後まで投げ出さなかった人が必ず勝つわけじゃないですけど、勝った人って必ず最後まで投げ出していないんです」
 僕はグラスを一気に飲み干して、
 「ってフィクションの探偵役はカッコつけて言ってるみたいなんですよ」と続けた。
 とても遠回りで、時間も掛かったけれど。見方によれば、新しい治療が再び始まったばかりかもしれないけれど。
 丸井家に巣食っていた呪詛はきっとやがて消えうせる。そんな予感をおぼろげに抱いた。
 「……ひっひひ。さて、そろそろ戻るか。いつ急患が来るか分からない職業なんでね」
 円医師は立ち上がって卓上にグラスを置いた。
 そして、「ひっひひ。将棋……か。私めも少し興味が沸いてきたよ」去り際にそう言って闇夜の向こうに消えていった。
 
 豪傑さんのところに戻ると、彼は薄暗い中でも分かるほど顔を高潮させていた。言動はまだ変わりないものの、立派な酔っ払いだ。
 父は全く酒を飲まないので、典型的な酔っ払いというのをこれほど間近でみるのは初めてだ。
 しばらく時間が流れて、控えめなボリュームで案内が入った。館主さんの声だ。
 「……皆様こんばんは、館主の丸井鑑でございます。本日は五稜亭旅館へのご宿泊ならびに七夕祭へのご参加ありがとうございます。
  毎年恒例のこの行事も、ちょうど30回目となりました。
  この島、〈小牛島〉は小さな牛と書きます。今宵の皆様はお一人お一人は、牽牛星――彦星さまでございます。
  それぞれの願い事を、織姫さまに託し、天に奉じさせていただきます。」
  それでは皆様、そろそろ短冊をご用意ください。間もなく、織姫さまがお見えになります」
 先ほどまでは微かなざわめきさえあった会場が静まり返る。そして、僕も言葉を失った。
 朱、白、金、銀。様々な色が主張しながら、調和するという不思議な表現が何故か頭に浮かぶ。
 現れたのは、そんな豪奢な和服を身に纏った美月だった。表情はいつものとおりだが、それがかえって神秘性をぐんと引き立てているように思えた。
 すぐにでも出したい言葉は色々とあった。
 なんで、そんなところに。そんな役回り引き受けるタイプじゃないだろ? でも……とても綺麗だ。とか。
 そもそも、織姫は七夕という日をどういう想いで迎えるのだろうか。壇上の織姫の表情をみて、僕以外にも考えた人がいたかもしれない。
 一年に一度、出会えるとはいえ、その後また会えない日が続くのだ。始めこそ明るい表情を浮かべているかもしれないが、別れ際になればなるほど沈痛な面持ちになっていくに違いない。日曜日の夕方のように。
 それでも、織姫は幸せだと言える。その想い出を大切に日々過ごせるし、一年が経てば再び想い出の人と出会えるのだから。僕以外のニンゲンが、美月の事情を知らないとはいえ、そんな役を美月が演じているのはひどく心が痛んだ。
 「はっはっは。これは想像以上だな。ますます、アシスタントにできなかったのが無念だ」
 「苦労したよ。和服ってのは、洗濯板と寸胴の方が似合うようにできてるんだ。あれじゃ……艶々しすぎるよ」
 「まったくで。去年までの姉貴じゃ、こうはいかねぇ」
 「あんたは、一言多いよ!」
 いつの間にか、沙羅さんと敬基さんが傍らに立っていた。
 って、そういうことか……。
 「謀った……んですか?」
 「謀ったとは人聞きが悪いわ。演出よ、演出。若い二人を見ると、どうにも色々とちょっかい出したくなるのよね」
 「あと、大人としては昼の推理合戦で完敗した分、あっと言わせたい想いがありやしてね」
 思い出すと、ずっと受付にいた沙羅さんが美月が来たとたん一緒に衣裳部屋に向かったのは不自然だったし、二人に美月は会場にいると言われて全然見つけられなかった。
 何とも迂闊な自分が呪わしい。仕方ない、自分自身に自戒の怨念オーラ送信だ。
 そうこうしているうちに、織姫への列は進んでいく。僕はどんな顔をしたら良いかも決めかねているうちに、豪快な右手で背中を押されてそのまま列の最後尾につくことになった。
 列が進んでいく。美月は、受け取った短冊を丁寧に笹に括りつけていく。こんなときでも、演算してちょうど良くなるようにバランスを取っているのだろうか。
 そして、僕の番がやってきた。
 せめて、「綺麗だね」とか「似合ってるよ」とか気の聞いた言葉が出てくれば良かったのだが、ドギマギしてしまい何もしゃべれない。
 それどころか、早く短冊を渡して戻りたい、そう思ってしまった。
 僕は、最後の抵抗として短冊を伏せて渡したが、あえなくあらためられてしまう。
 そこには、
 
  『美月が、幸せになりますように』
 
 僕の汚い字でそう書いてあった。
 「……」
 美月は表情を変えず、それまでと同じように最後の短冊を手際よく笹にくくりつけた。
 段を降りながら、僕は掌に汗をかいていることにやっと気づいた。一番情けない〈彦星〉だったかもしれない。
 「それでは、最後に織姫さま自身の短冊を結んでいただいて、無事終了となります」
 女官に扮したの従業員が、一枚の短冊を仰々しく織姫に手渡す。織姫は短冊に筆をすすっと走らせると、手早く笹に括りつけられる。
 一体なんと書いたのだろう。その内容が気になったものの、辺りは薄暗く、ここからでは一番手前の短冊の内容さえ良く見えない。
 女官に促され、織姫は去っていく。今、笹に近寄ればそれは分かる。しかし、周りの雰囲気はそんな無粋な行為を許すものではなかった。
 その後に笹を持った衛士が続く。
 そのとき。
 笹が揺れ、僅かに織姫のつけた短冊が裏返った。
 その内容に、僕は戸惑う。それって、どういうことなんだよ……?
 考える間もなく、バンバンと背中を叩かれた。力がだいぶ強い。酔いが回ってきているのだろう。
 「はっはっは。着がえ終わったら、ロビーに連れて行くと姉貴が言っとったよ」
 僕は頷き、ぞろぞろと館内に向かって引き上げていく宿泊客の後について歩き始める。
 見上げると、星空が良く見えた。コンタクトレンズを入れているとはいえ、あまり視力はよくない。どれが天の川でどれが織姫、彦星であるかは分からなかった。
 
 ロビーに着くと美月が既に日中から来ている白いワンピース姿に戻っていた。そのシンプルさを見ると、まるで先ほどの織姫は幻覚だったかのようだ。
 「お、おつかれ」
 美月は小さく頷く。そして、「……これ、あげる」と細い紙袋を僕に差し出してきた。
 「いったい何?」言いながら、中身を取り出すとそれは一本の扇子だった。
 ゆっくりと広げてみる。
 それは……風雷庵の管理室で手にした、佐波九段の扇子だった。
 え? え? え? 訳が分からない。
 「織姫役のバイト代よ。御前さまにも許可はとってあるわ」傍らにいた沙羅さんが補足する。
 確かに、こんな扇子をもらったら僕は大喜びだし、それに見合う対価かもしれない。でも、誕生日でもないのにそんなことをしてもらう謂れが……。
 戸惑いの収まらない僕に、美月は携帯端末を突き出してくる。そして、その機体にぶら下がっていたのは、クマッタのストラップ。
 「これの借り、まだ返してなかったから」
 ……。
 ……おいおい。
 そんな、おまけの携帯ストラップと佐波九段の扇子、全然レベルが違うだろう……。
 これじゃ、逆に僕が何百倍も借りを作ってしまったことになってしまうじゃないか。
 でも……、嬉しい。それは、レアなものだからじゃなくて、美月が僕のために身体を張って用意してくれたものだってことだからだと思う。
 満面の笑顔を浮かべたかったけど、あまりに唐突なことだったので、僕は困ったような表情を浮かべてしまっている気がする。
 眼の前にぶらさがる、このクマッタみたいに。
 「ほら、彼氏! こういうときはどうすんの?」沙羅さんがそんな表情の僕に見かねたのか、しっかりと喝を入れられてしまった。
 「あり……がと」
 美月はゆっくりと一回だけ瞬きをして応じた。
 ……。
 ……?
 ハッと気づいて、周囲を見ると丸井さんたちだけでなく、他の宿泊客が微笑ましそうにこちらを伺っているではないか!
 うっわぁ……。
 体が熱い。僕は、頬が紅潮し、耳が赤くなっていくのを感じた。
 「部屋に……戻ろう、か」
 美月は小さく頷く。これでやっと落ち着けるかと思ったが、
 「今日はお疲れさま」
 「綺麗だったわよ」
 ロビー、廊下、エレベーター。
 通り過ぎる人々から、(美月が)様々な言葉を頂戴し、そのたびに(僕が)お礼の頭を下げることを何度繰り返したことか。
 十数分後、僕は『508』の内側から鍵をかけ、なんとか落ち着ける部屋まで戻ることができたのだった。
 
 「とりあえず、飲み物作る」
 美月はポットの前に向かう。そうか、衣装着替えしたりずっと織姫役をやっていたから飲み物など飲む暇はなかったことだろう。
 僕はさっき、なんだかんだとソフトドリンクを4杯は飲んでいるのであまり飲み物は欲していない。
 美月が飲み物を作っている間、所在無くテレビの電源を入れる。大きな画面だ。父が奮発して買った自宅のものよりさらに3~4まわりは大きい。
 ザッピングしてみる。
 料理番組。げっ、食材にピーマンが出てきた。チェンジ。
 ニュース番組。せっかく旅先に来ているのに、日常に戻りそう。チェンジ。
 バラエティ番組。普段は楽しそうなこの雰囲気も、なんだか今夜は騒々しく思えてしまう。チェンジ。
 結局、消去法であたり障りのなさそうな自然ドキュメンタリー系の番組にしておくことにした。
 やがて、美月がカップを持ってやってきた。中身は……コーヒーのようだ。
 「大丈夫か? 眠れなくなるぞ?」
 「平気だよ」
 まぁ、あのインスタントコーヒーは結構美味しいから気持ちは分からないでもないけど。もう夜の9時だぞ……。俺も、コーヒーは好きだけど、夜の6時以降は飲まないように心がけているのだ。
 テレビの中では、ジャングルの中を極彩色の鳥やサルたちが縦横無尽に飛び回っていた。
 この合宿は一泊二日だ。したがって、夜が明けて明日になればもう午前中にはこの島を離れることになる。
 来るときまではどう時間をつぶせばよいものやらと思っていたが、謀らずもイベント盛りだくさんの結果となった。
 美月はコーヒーを飲み終えたのか、歯を磨き始めている。僕もそろそろ磨くか。
 洗面台に向かい、無言で(口を開けないのだから当然だが)歯を磨く。
 鏡の中に、美月と並んで歯を磨いている姿に困惑する。これじゃあ、まるで夫婦じゃないか。とはいえ、間もなく先に磨いていた美月が終えて去っていったので僅かな時間のことだったが。
 居間に戻ると、美月が携帯端末を操作し始めていた。日記やら、メモやらを始めたのだろう。
 僕は、お土産チェックリストでも作成チェックすることにしよう。メモ帳と筆記用具を取り出して、左上に『みやげリスト』と銘打った。
 まず、一番はずせないのは泉西先生だな。忘れようものなら、第二四半期の国語の評価が悲惨なことにさせられかねない。
 あと、斎諏訪も。結果論でいうなら、この二人旅をお膳立てしてくれたようなものだし、将棋部のサイト管理という任務もしてくれている。部長という立場としてもねぎらいのお土産を渡しておきたいところだ。
 散々、怨念オーラを送信したものの、諸々の件で両親の存在について思うところもある。二つ追加、と。
 色々とお世話になったりということを考えると、勝田くんとお姉さん、琴羽野さんとお兄さん、福路くんと蒼井さんにもかな。
 あ、でも食べ物にしてしまうと夏休み明けまでもつかな……。意外に考えることが多いぞ。
 ふと、何と無しに美月の方を見る。
 (……?)
 「美月?」
 良く見ると、その手許は痙攣している。
 「どうした?」
 「な、なんでもない」
 「なんでもなくはないだろう」
 慌てて側に駆け寄るが、ぷいとそっぽを向かれてしまう。
 「体調でも崩したか? ってもしかして……」
 僕は、ポットの近くに近づいてなんとなく分かった気がした。
 「今日、コーヒー何杯飲んだ?」
 「……11杯」
 それは、なかなか。俺と一緒でないときも、ちょこちょこ飲んでいたのか。時計を見ると、9時半だ。
 「あ、んなに飲んだのに。眠く、なってきた」美月がふらりと立ち上がる。「引継ぎ、まだ全然進んでないのに……」
 カフェインにいかに覚醒作用があろうとも、今日は本当に色々なことがあったのだ。ただでさえ華奢なその身体は疲労困憊に違いない。頭の方だって、随分と使っていた。
 それでも、美月の気持ちはなんとなく分かる気がする。こんなに濃い、非日常の一日はそうそう訪れない。今、記録しておかないと、もうインプットすることさえ不可能になってしまう。
 僕が明日、明日の美月に伝えることはできる。だけど、今日の美月が感じ、思ったものは、今日の美月にしか表せないことなのだ。
 「水とか……飲むか?」
 「いい。念のため、もう向こうに行くよ……」
 美月が、鍵のかけられる別室の方を指差す。歩き出した足取りは覚束ないが、その背中は『一人にさせて』と訴えているようにも見えた。
 扉の閉まる音、そして鍵の掛かる音。美月は、引継ぎをまだ試みているのだろうか。
 僕は、『みやげリスト』をめくり、まっさらなページに急いで短い文章を書く。そして、それを手に、美月の入っていった部屋の前に立つ。
 「まだ起きてるか?」
 「……起きてるよ」
 「ドアの下からメモ渡すから、取っておいてくれ」
 そう言って、手にしていた紙切れをすっと差し込む。ほんの僅かだけ僕からも見えるように角を残して。
 その角が見えなくなり、美月に渡ったことを見届けた後、僕は居間に戻った。そして、メモ帳に今日起こった出来事をできるだけ仔細に書きつけ始める。
 多少箇条書きになってもいい、後から僕だけでも思い出せるように。自分の目線でしか書けないのがもどかしい。それでも、ないよりは絶対にましなはずだ。
 腕が痙攣するか、睡魔に惨敗するまで続けよう。そう心に誓って僕は書き続ける。
 眼を凝らしてみると、先ほどよほど強い筆圧で書いたのか、文章の跡が残っていた。
 『8/7のことは
  オレが全部おぼえとく
   ケイヤ』と。

 

 小説『All gets star on August =星の八月=』(4/4)に続く

 

小説『All gets star on August =星の八月=』(2/4)

 【第二章】 星

 *****

  ほし【星】〔名〕…星の光をかたどったしるし。

 *****

 

 ――と、こんな状況だろうか……。今でも信じられないような展開だった。
 いきさつを思い返していたのは時間にしたら、ほんの数分だったかもしれない。しかし、自分なりにここまでの流れをできるだけ詳細に整理できたように思う。
 周りを改めて見回す。薄暗くて、分かりづらいが、この部屋は僅かに見覚えがあった。風雷庵の〈倉庫〉だ。確かに、あの状況から監禁場所として選ぶには手頃な場所だろう。
 やがて、ギシ……と縄と椅子が擦れあう音が聞こえてきた。そちらを見ると、美月が顔を上げて僕の顔をじっと見つめていた。
 さて、話はもうまとめることができている。でも、まずは自己紹介――だよな。そうして、口を開こうとした矢先。
 「なんで、簡単に飲んだりするかなー」
 射るような目付きと言葉で僕は貫かれた。
 えっ? ということは……。
 「眠らされて……ない?」
 「ないよ。でも、一人で逃げるわけにはいかないでしょ」。
 そして、はなれている僕にも聞こえるようなため息を一つ。
 はは、は。それは説明の手間が省けて良かったといえば良かったのだが。
 「あ、じゃあもしかして……猫舌とか言ってたのも」
 「誰かみたいにゴクゴク飲まないための口実」
 うっ。非常にストレートな解説ありがとう。しかし、過去をくよくよしてもしょうがないのだ。とにかく今後のアクションを考えなければ。
 僕も美月も、椅子に腰掛けた状態で縛られている。固定箇所は数箇所、椅子の脚と自分の脚、椅子の背と胴体、そして手首も縛られている。
 無抵抗だった僕たちを今こうして閉じ込めていると言うことは、命の危険自体はなさそうだ。猿轡をされているわけでもなく、こうして会話も自由にできている。
 さきほど誰かが言っていたように、警察に引き渡すまでの監禁状態のつもりなのだろう。
 「……ここ、なんとか出られないかな」
 大人たちが去ってからしばらく経っているが、物音は特にしてこない。脱走を警戒するなら、一人くらい監視に残ってもよさそうだが、それもしていない。
 「なら、このロープをなんとかしないと。ちょっと苦しいし」
 言葉に反応して、改めて美月を観察して僕は慌てた。
 男なら、僕が今されているように無造作にぐるぐると縄を巻けばオシマイだが、女はそうはいかない。胴体に凹凸があるのだから。そして、理にかなった巻き方をすれば、その凹凸がより強調されるのは必定だ――。
 「と、とにかくそっちに行くよ」部屋が薄暗くて良かったかも知れない。僕は赤面を見られないように顔を背けながら立ち上がった。
 と、とと。両脚とも、椅子に固定されているため歩きは覚束ない。
 間近で見ると、美月も後ろ出に手首を結ばれ、胴体の結び目も右脇の方にあった。
 「手首の可動域と結び目からすると、相手の縄を解くのは難しくないね」
 僕の手首に結ばれている縄の状況を見て、美月はそう断じた。言われてみれば、指先は動く。
 自分の縄を解くのは難しいそうが、確かに相手の縄を解くくらいはできそうだ。しかし、二人で一緒に捕まったからこそ、脱出の芽が出てきたのだ。
 ……すみません、こっそり自分のうっかりを正当化しました。
 さて、そうなったらどちらかが先に解くことになるのだが。手首を動かしてみると、結構縄が擦れて痛いことが分かる。動かし続けたら、傷ができそうだ。
 美月の方も当然、同じ材質のものだ。ここで第三者に多数決をとったとしても、圧倒的多数で僕が作業をすることに決まるだろう。いやぁ、名誉だ。
 さてと、作業作業……。
 後ろ手で縛られているので、僕は一旦後ろ向きになって、椅子に腰掛けた状態で縄解体作業に取り掛かることになる。
 これは……すこぶるデンジャーな作業だ。指先の動きを少しでも間違えれば、年頃の女子の身体に触れてしまう可能性がある。爆弾解体班もスカイブルーな緊張感だ。
 後ろ向きにゆっくり近づいて、そろそろかなと思う辺りで止まり、椅子を着床させる。
 ふぅ。とりあえず、ここまでは問題なし、と。額には汗が浮かんできた。
 次に僕は前傾姿勢になり、同時に縛られている両手を後ろに伸ばしていく。
 「高さはあと4.6cm下ろして、それから3.3cm下がって」そんな僕に、背後の美月から指示が出る。
 「了解」言ったものの、そんなに正確には制御不能だ。自分の拳や指の大きさをイメージしながら、精一杯そのように進めていく。
 しかし。
 「あ」二人の声が綺麗に重なった。手のひらに触れた柔らかな感触と共に、背後に物凄い殺気を感じた。これは……、武術の達人でなくても感知できるレベルだ。
 「……なんでできないの? 的確に指示したのに」
 「できるかよっ! 俺は美月とは違うんだ!」俺からすれば正当な言い分だ。
 その後なんとか、無事結び目を探り当てて解き始める。ロープがそれなりの太さのものだったおかげで、結び目自体はそれほど頑固ではなかった。爪と指先をうまく隙間に入れると、徐々に解けていく。
 そして、まず美月の胴体の戒めを解くことができた。続いて、後ろに回りこみ、手首の方も外し始める。こちらは先程のような気遣いも無用だし、二回目の作業だったので難なく終了した。
 その後、美月は自らの脚を解いて、完全に開放された。
 首をひねって後方を見ると、僕の視線の先で少し伸びをして身体を動かす美月の後姿が見えた。いやぁ、良かった良かった。
 そして、向き直った美月は一言。
 「解いてほしい?」俺に問う。
 えーと、それはどういうことでしょうか……?
 いや、心当たりはあるんだけど。それは、不可抗力じゃないかなーと思うわけですよ。あれこれと思うところがありつつも、小さく頷く。
 「じゃ、先例に倣って――」美月が右手をすっと俺の目の前に出して構える。
 先例、ってそれは、もしかしてアレですか!?
 「これで勘弁したげる」

 ――ビッシィッッ……

 物凄い音が自分の額で響く。椅子に座っていて、しかも縛られている状態では避けようがない。強烈なデコピンが、脳天を揺さぶる。
 「……ってぇ」
 じわっと眼の端に涙が浮かんできた。
 しかし、本当にそれで気が晴れたのか、美月は俺の縄を解き始める。さすがに、処理能力には定評のある美月。後ろ手でないということもあるが、俺の数十倍の速度で解ききってしまった。
 紆余曲折(主に僕がだが)の末、僕たちは身体だけは自由になった。身体をくまなく探してみたが、やはり封筒は回収されていた。
 こんな事態とはいえ、交わした約束を守れなかったことに僕は僅かに落ち込む。
 財布は残っていたものの、二人とも携帯端末を回収されてしまっていた。元々、電波は弱そうな場所ではあるが、万が一外部と通信されては困ると思ったのだろう。
 それならばと扉に近づき、耳を当てる。物音の類はしない。ノブを静かに回して押し引きしてみるが、しかし扉が動くことはなかった。鍵が掛かっているようだが、こちら側には鍵の仕組みはない。恐らく、外からしか施錠できないのだろう。倉庫ならばそれも当然か。ここが監禁場所に選ばれたのもそういう理由からだろう。
 「ダメだ。開かない」
 かといって、窓の方も期待できそうにない。かなり高い位置にあるし、隙間が僅かにしか開かないタイプのようなので挑戦する価値自体低そうだ。
 そうすると、あとは棚に上げてきた諸々の謎を今のうちに推理しておくことくらいしかすることはない。
 まず、あの封筒の中身はなんだったのだろうか。
 手に取ったときの感触を思い出したが、厚みのあるものではなかった。札束とかカードの類が入っていたわけではなさそうに思える。
 手紙……。そういえば、誰かが『このところ御前さんは寝たきりだ』とか言っていた気がする。余命のことを意識していたならば、あれは遺書という可能性もありうるかもしれない。
 「そういえば、御前さんはなんで倒れていたんだろう……」
 元気そうなおばあさんに見えたが、強力な薬も毎日服用していたほどだというから、人の身体は分からない。
 やはり、あの4人の中に『犯人』がいるのだろうか。
 最近、命を狙われていると思った御前さんが、遺書や何かの権利書のようなものを僕たちと言う第三者に預け、今晩万が一のことがあっても大丈夫なようにしたとか……。
 「美月は、何か変だと感じたことない?」
 「ん……」美月は腕を組んで唸っている。「変かどうかは分からないけど、ケーヤに時間を聞いてからおばあさんの様子が慌しくなった、とか?」
 そう言われれば、そうだったかもしれない。
 「ちなみに、俺たちどんな会話してたっけ?」
 「ケーヤが『あ、えーと今は11時過ぎたところですね』。おばあさんが『本当だ! ちょっとうたた寝するつもりが随分寝てしまったんだね』」
 「ふーむ……」
 会話の中で特におかしいところはない気もするが、確かにその会話を交わした後から御前さんは慌しい様子だった。
 ……ん? ちょっと待てよ?
 僕の頭の中に〈跳躍(リープ)〉が訪れた。
 「あのさ、その時間を聞く直前はどんな会話だったっけ?」
 「ケーヤが『長居をしても申し訳ないので、僕たちはそろそろ。貴重な扇子も拝見できましたし、来て良かったです。でも、せっかくの綺麗な庭園が見れなかったので、欲を言えばもっと早くに来れば良かったです』。
  おばあさんが『もっと早く……? ちょいと今、なんどきだい!?』」
 もしかすると……そういうこと!? 可能性としてありうるけど。
 しかし、疑われている僕がそんなことを主張しても、果たして取り合ってくれるかどうか不安だ。
 第三者がその推理をしてくれれば説得力が出てきそうなのだが。せめて、第三者が立会ってくれている状態で、自説が展開できればと思うが、そう都合の良い展開が訪れるとも思いがたい。
 と、美月が扉のほうを向いて指を差した。
 「今、声がした。誰かが来たのかも」
 「誰かが?」
 あの4人のうちの誰かが戻ってきたのか。一人か全員か。
 場合によっては、扉を開けた瞬間に逃げ出す方策を取るべきかもしれない。あちらは、僕たちが拘束されている状態だと油断しているだろうから十分に隙はつけそうだ。
 扉に耳を当てる。
 「……ですから、特に何も怪しいことはございませんので」
 「ほう。なら、後ろめたいことならあるのか? 片っ端から見せてもらおうか」
 「そ、それは……」
 一人は館主のようだが、なんだか様子がおかしい。もう一人、新たな人物が現われて、この風雷庵を捜索しようとしている?
 警察? 刑事? いや、そういう雰囲気でもない。敵なのか、味方なのか。それも全くわからない。足音はどんどん大きくなる。
 どうする? 奇襲を掛けるか、それともこの謎の人物に頼ってみるか?
 戸惑っているうちに、扉は開錠され、あっさりと開け放たれた。
 目の前には茶色い髪を立たせた20台半ばくらいの男が立っていた。繁華街を歩いていたら、何人かはいそうな風貌だ。
 「あ、あなたは……」
 僕は言葉を失った。僕は、その人を知っている。でも、何故ここに、このタイミングで?
 立っていたのは、現在の将棋界の第一人者、冷谷山秋一三冠だった。
 
 冷谷山秋一。
 プロ前段組織への入会は24歳と異例の遅さであったものの、そこから連戦連勝で25歳で四段に昇級、プロとなる。その勢いのまま初年度にいきなり龍帝と騎帝という3大タイトルのうち2つを獲得し、一躍時の人となる。
 しかし、その実力は一過性のものではなくその後現在に至るまで両タイトルとも防衛を続けている。
 また、早指し戦も得意にしており、全国放送の棋戦〈みくの杯選手権〉では相手が指した瞬間にすぐに指すというパフォーマンスを貫きそのまま優勝もする離れ業を数年続けている。
 さらに、順位戦も5年という最短期間でA級まで駆けあがり、今年の6月末。須藤三冠から棋神のタイトルを奪取。入れ替わるように三冠を成し遂げてしまった。現在、前人未到の7冠制覇に最も近い男といわれている。
 ちなみに、冷谷山三冠はいずれのタイトル戦もフルセットの末の奪取をしている。その舞台はいずれもこの五稜亭旅館だ。つまり、この地では未だに負けなし。よほど相性が良いのだろう。
 三冠は扉近くにいた僕たちと部屋の中の様子とを観察してから「お前たち、監禁されてたんだな?」そう確認してきた。
 僕は小さく頷く。僕たちは椅子から立ち、縄は床に散らばっている。自力で解いてしまったため、そう判断してもらえないかもしれないという心配は無用だった。
 「まぁ、話はそっちの〈談話室〉に行ってからだな」三冠が視線で外に出るよう、促してきた。
 僕たちは三冠に付いていく。
 間近で見ると、その背中からは一般人にはないオーラを感じる。
 「あの……」
 「なんだ?」
 「何故、こんなところに?」僕は前を歩いている三冠に思い切って尋ねてみた。
 「こんなところ、か。ここは多少思い入れがある場所なんでな。プライベートで来てみた。それだけだ」
 プライベート……。
 もしかして、船着場で館主が言っていたVIPとはこの冷谷山三冠のことなのかもしれない。
 VIPといって差支えない人物だし、こうして今、館主が近くで案内に奔走をしている様子から僕はそう判断した。
 それにしても、何という幸運だろう。謀らずも、第三者を交えて弁明をするチャンスが急に舞い込んだのだから。

 〈談話室〉には館主以外の3人も集まっていた。メンツとしては、先ほどまでのメンバーに三冠が一人加わった形だ。
 「なぜこの小僧と小娘を監禁していたか、理由を聞こうか」
 小僧と小娘、か。確かにその通りかもしれないが、相変わらず口が悪い。実力者でありながら、平身低頭だった佐波九段とは間逆の存在だ。
 その口調から、プロ棋士仲間でもマスコミ関係者でも『礼に欠けている』と顔をしかめるものは多い。しかし、圧倒的な強さに惹かれる将棋ファンと面食いの女性ファンからは絶大な支持を受けているという。
 まさか、美月は冷谷山ファンになったりしないよな、と顔を伺うと「小娘って、あたしのこと?」と言わんばかりに僅かに眉をひそめていた。……この分なら、ひとまずは安心か。
 4人を代表して、館主がそれまでの経緯を語り始める。内容は僕たちが聞かされたときのものとほぼ同じだった。
 現オーナーが朝から行方不明で探していたところ、風雷庵で倒れているところに出くわした。そして、うわごとのように「封筒……」と呟いていた。
 ちょうど胸ポケットに封筒を挿していた少年少女に話を聞いてみると、「封筒は預かったものだ」という。
 「少年たちが、御前さまから封筒を奪ったと考えれば辻褄が合うと思ったのです」
 「抵抗する御前さまに無理やり薬を飲ませて、倒れさせたかもしれないわ」
 本当に散々な推理内容だ。御前さんは、僕たちが封筒を奪ったとは一言も言っていないんじゃないか。
 それに、薬がそんなに一日に一度しか飲んではいけない強力なものだなんて、今日この島にきたばかりの僕達が知っているはずもない。仮に僕が犯人だとしても、速攻で効き目の出るとは思えない経口投与などせず、ハンカチで薬を吸わせたり注射をするだろう。
 しかし、僕がわざわざ反論する必要はなかった。それよりも早く三冠が反応したのだ。
 「いかにも凡人が考えそうな、くだらん推理だな」腕を組みながら、三冠は4人を一瞥した。
 「よし。今度はお前たちの立場から状況を話してみろ。正確に、かつ、詳細にな」
 正確、かつ、詳細か。難しいことを言ってくれる。しかし、ついに念願の手番が回ってきた。
 僕が話してもいいが、先ほどある結論に至ってしまっている。それを意識すれば、作為的な事実だと誤解されるおそれがあるし、意識しなければ推理してもらう材料が不足してしまう。
 そうすると適任は――。
 「美月、頼めるか?」僕は小声で打診する。
 僅かに口許をへの字に曲げる。不服のサインだ。「なんであたしがそんな面倒なことを」と言わんばかりだ。
 いやいや、状況分かってますか? 冤罪のピンチなんだってば。
 ……。
 仕方ない。
 「……〈まめしば〉のアフタヌーンセット」僕は身を切り刻まれる思いで提案する。
 〈まめしば〉のアフタヌーンセット670円。好きなコーヒー一種と、デザート一種と、チョコレート2個のセットだ。
 夏休みは何かと金が掛かるというのに……。
 「取引成立」美月は小声で許諾した。
 「じゃあ、船を降りた辺りから、御前さまと別れて風雷庵を出たところまで……」
 「分かった。10時32分、ケーヤ下船。10時34分、あたし下船。船着場に4人で集まってから、10時38分、旅館に向けて徒歩で移動開始……」
 順調に僕たちの体験してきたストーリーが再生されていく。
 ただ、会話の一言一言や、パンフレットにあった温泉の成分までもあまりにも正確に諳んじている様子に、4人の大人だけでなく三冠も驚きの表情を浮かべている。
 そのため、「すみません、この子ちょっと頭良すぎるんです……」などと何故か僕が弁明する事態に見舞われた。
 「……で、おわり」
 そして、美月が話し終えた。目をつぶって黙考していた三冠は静かに眼を開き、開口一番「小僧、時計を見せてみろ」と言った。
 僕は三冠に見えるように腕を掲げて見せる。それを一瞥すると、「……アナログか。なるほど、もういいほぼわかった」と手を振った。
 
 「結論から言うと、小僧と小娘は無実だ。ばあさんは自分で薬を飲んで倒れたんだ」
 僕は思わず、心の中で拳を握り締めた。頭の中では『無罪確定』の垂れ幕を持った人たちが歓喜している。
 「自分で……って、あれは夜に飲むのよ。外も明るいうちから飲むはずが」
 「笑止。夜の11時と勘違いしたんだろう。〈管理室〉は外光が入らない位置にある。時を示すものがなければ、正確な時刻は分からん。
  『せっかくの綺麗な庭園が見れなかった』『もっと早くに来れば良かった』小僧のセリフだったな?
  小僧は、改装中のため室内から庭園が見られなかったというつもりで言ったんだろうが、ばあさんは夜になったから辺りが暗くて庭園が見られなかったと勘違いしたんだろう」
 そう、確かにあのとき僕はそのつもりで言っていた。もう少し具体的に話していたら誤解は起きなかったかもしれない、御前さんは倒れなくてすんだかもしれないと思うと、心が痛んだ。
 「さらに時計だ。小僧のつけているシンプルなアナログ時計では11時なのか23時なのか、判断できん。周囲の状況か、連続した記憶があれば判断はつくだろうがな」
 僕は、6月に風邪が長引いて毎日毎日寝込んでいたときのことを思い返していた。
 眼が覚めた瞬間、辺りが暗くて感じる違和感。時計を見ると5時を示している。あれ、なんでこんな状況? 泥のように眠って、もう翌朝なのか?
 ……いや、昼飯食べてすぐ寝たんだったか。今は夕方の5時なわけか。
 健康な人間ならいざ知らず、寝たきりが続いていた御前さんもきっと様々な角度からの情報がなければ、寝起きに正確な時刻を把握するのは困難だったのではないか?
 そこでふと思い至り、隣の美月の横顔を見つめる。表情は特に変わっていない。
 連続した記憶が保てず、毎朝、記憶がないところからスタートし、その都度情報をインプットしなおしている美月。そんなことを周りのニンゲンが気付かないような振る舞いを、何千何百回と続けているのだ。
 美月は、そのことをどう思っているのだろうか。それが『当たり前』で、不自由など感じていないのだろうか。
 「〈三人虎をなす〉ということですか……」館主が小さく呟いた。
 虎が出たなどという眉唾モノの話でも、三人ものニンゲンから耳にしてしまうと、もしかしたら本当かも! と信じてしまう。確か、そんな故事成語だったか。
 今回の件も、御前さんが11時を23時と勘違いしてしまう要素がいくつか重なってしまったことで悲劇が起きてしまった。
 「ま、世の中の事件なんてものは、大抵こんなもんだ」
 三冠がそう言って、一同を見回した。
 
 「はっはっは。よっしゃよっしゃ。もう、少年たちを疑うのは止め、としようや!」
 静まりかえっていた室内に、豪放磊落な声が突き抜ける。誰何するまでもなく、豪傑さんだった。
 眼が合う。その眼差しには既に友好的な色が戻ってきていた。それをみて少し安堵する。
 「……そうね」
 「なんというか……、縛ったりしてすいやせんでした」
 「私たちもすっかり動転していたようです。非礼をお許しいただけますでしょうか……」
 他の3人も徐々に疑惑を説き始めていたが、豪傑さんの言葉が、渡りに船となったようだ。
 僕たちの扱いも、容疑者から宿泊客へと無事戻ったといえそうだ。
 「あ、あの……」
 場が砕けてきた。それを感じて、僕は気になっていたことを口にした。
 「御前さんの容態は……?」
 場が再度、静寂に包まれた。丸井の4人が視線を送りあっている。口を開いたのは沙羅さんだった。
 柔和な表情を浮かべながら「御前様については気にしなくていいわ」。
 それを問題なく快復した、と捉えた僕は、続けて出てきた言葉に驚いた。
 「今夜がヤマでしょうからね」
 今夜がヤマ? それなのに、どうして平然としていられるのだろうか? こんなところにいる場合か?
 僕の顔に疑問が分かりやすく浮かんでいたのだろうか。沙羅さんが続けて補足する。
 「元々、意識があるのが奇跡的で、次に倒れたらもうダメだって円先生からは言われてたのよ。
  あの後、かろうじて心肺は回復したけど、急遽〈管理室〉に簡易ベッドを用意して今は面会謝絶。今は円先生がつきっきりで診てくれているわ」
 あの元気そうに見えた御前さんが。そんなことになるなんて。
 ここまで何度も聞かされてきたことながら、その事実にショックを感じる。一見元気そうに見える、両親や友達、そして美月もある日突然倒れてしまう可能性があるといわれているのに等しいと感じたからだ。
 「さて、考えなきゃならんことがもう一つあるな」三冠の発言に僕は現実に引き戻された。
 「封筒だ。ばあさんが倒れた今、明日の朝まで待つ必要もないだろう」
 封筒――。
 先程から、何人もの大人が行く末を注視しているその中身は僕だって気になっている。御前さんは僕たちに何を託そうとしたのだろうか。御前さんとの約束が頭によぎったが、三冠の言うとおり状況は大きく変わっている。
 面会謝絶の今、僕たちにできることは限られる。今、どんな形であれ御前さんはこの世に留まっているのだ。そのうちに、できることがあればしてあげたい。そう思うのは当然に思えた。
 「それに、早い方がいいこともあるだろう?」
 その言葉に丸井家の4兄弟が無言ではあるものの、身体の一部がそれぞれ敏感に反応しているのが見て取れた。
 死亡に伴い銀行口座などは凍結され、しばらく資金移動ができなくなる。その前に動ける最後のチャンスという意味合いだろう。
 以前に、琴羽野さんがそんな話を聞かせてくれたのを僕は思い出した。
 いつの間にか、左手に封筒、右手にペーパーナイフを持つ三冠を止める者はいなかった。
 
 ペーパーナイフが少しずつ滑り、封が開けられていく……。
 取り出されたのは、外観からしても至極真っ当なものだった。
 しかし、中から出てきたものの内容までを予想できた者は誰ひとりいなかっただろう。
 それは、御前様のような風情のひとがが作ったにしては非常に奇怪な代物だったから。
 入っていたのは折りたたまれた紙がたった一枚だけ。
 その中央には、赤い線で、星のマークが大きく描かれていたのだ。
 
 「ゴリョウセイ……?」
 言葉を最初に発したのは館主だった。
 ゴリョウセイ? あ、この形はもしかして。
 僕たちが今いる五稜亭旅館の構造そっくりじゃないか。
 「五芒星とは違うんですか?」僕は不思議に思って尋ねる。よく魔法陣などでも使われる星型の図形をそう呼んではいなかったか。
 「えぇ。五芒星は一筆書きでよく書くような、5本の線の組合せでできる形です。それに対して五稜星は中に線がないすっきりとした状態のものですね」
 五芒星と五稜星にはそういう違いがあったのか。言われると納得だ。
 そういえば、五稜亭旅館の中も5つの区画は壁で区切られてはいなかった。もし仕切りがあったなら、五芒亭という名前になっていたのだろうか。少なくとも語感はいまいちな印象になってしまう。
 「実は、この旅館も元をただすと五芒星に行き着くんですよ。丸井家の家紋は以前ご覧頂いたように、丸の中に井の字が入っていますね?
  井の字は4本の線でできています。そもそも〈子牛島〉が選ばれたのも、家紋の『格子状の縞模様』でコウシシマと連想してのようです。
  そして、さらなる繁栄をとの願いを込めて一つの線を足し、5本の線を使って模様を描こうとすると……五芒星になったのです」
 「結局まぁ、五芒星って呪術的な意味合いとかそういう暗いイメージもあるじゃない? だから、五稜星になるようにしたんだってさ」
 「はっはっは。おかげで、料亭なのか旅館なのか分からん、紛らわしい名前になっちまったわけだがな!」
 「やや、全部言わないで、あっしにも何かしゃべらせてくださいよ」
 僕の何気ない質問で硬直が解けたようで、それまでとは打って変わって丸井4兄弟が活気付いてきたようだ。
 一番最初に見たときの旅館従業員としての堅さもなく、僕たちに睡眠薬を盛ったときのような怖さもなく、これが彼らの本来の表情なのだろう。
 「しかし、どうして文字じゃなくて図形なのかしら」
 「何か、直接的には表せない事情があった、とかでしょうかね……」
 彼らの話題は徐々に『赤い星』の推理の方にシフトしていった。
 「赤い……星……」
 「うーむ……」
 部屋は沈黙に沈んでしまった。館主さんは顎に手を当て、豪傑さんは腕を組み、沙羅さんは手帳にペンを走らせ、スキンヘッドさんは頭をさすっている。
 4人は考え込んでいるが、三冠と美月は特に興味はなさそうだ。手近にあるお茶請けに手を伸ばしたりしている。
 僕はこの手の謎掛けにはつい反応してしまうタチなので、一応考え始めてはいる。しかし、今のところ何一つ浮かんでくるものはない。今までのように、真正面からお願いされたりというようなプレッシャーがないからかもしれない。
 「赤いホシってったら、梅干とかでしょうかね」スキンヘッドさんが言う。旅館の厨房を任されている彼ならではの考えかもしれない。
 しかし、何故梅干……。案の定、沙羅さんから厳しい突込みが入った。
 「つまり、どういう意味なわけよ?」
 「えっ? なんというか……。梅干は腐りにくくて、賞味期限が長いから……。つまり……えぇと、腐るな? いや、息長くがんばれとかそういう……」
 館主は眉間を押さえ、沙羅さんは深いため息を吐いた。他の面々はアクションこそなかったが、同じ心境だったろう。
 「他に、何かないでしょうかね……」虚空に向かって呟いたのは館主の優しさだったのかもしれない。
 「む!?」
 意外にも次に名乗りを上げたのは、豪傑さんだった。何かに気づいたのか、眼を大きく見開いている。……少し怖い。
 「はっはっは。これはどこから見ても赤い星だ!」そして、逞しい人差し指を卓上の紙に向けて言い放つ。見たまんまである。
 「そして、『ア・カ・ホ・シ』を五十音で一つずらすと……『イ・キ・マ・ス』になるぞ?」
 沙羅さんの厳しい突込みと、それを実は期待していた一同は、一瞬息を呑んだ。
 ――逝きます。
 もしそれが真のメッセージだとしたら、一大事だ。先ほどの一件が偶然の事故ではなく、故意の自殺だった可能性が浮上するのだ。
 しかし、一瞬ハッとさせられた意見も、
 「イマイチね。アカホシっていう読み方違和感あるんだけど。一般的な言葉かしら? アカボシやアカイホシとかならまだましだけど。
  なにより、一日に一回しか服用できない強力な薬を使ってでも生き続けようとする人よ? 自分から、命を絶つなんて考えられない」
 沙羅さんは手帳に目線を落としたまま、きっぱりと言い切る。それを聞いて他の3人が黙り込んでしまう様子からして、的を射ているのだろう。
 「そうだ、こういうのはどうでしょう」
 今度は、館主は手を打ち、切り出した。この人は見た目どおり慎重な意見を述べそうな気がする。期待できそうだ。
 「五稜星は、別名で五光星とも言われるのです」
 「それが?」
 「赤、五光星。赤子、後世。つまり、跡継ぎを早く作れということではないでしょうか?」
 「……確かに、あっしらはまだ独身で子供も当然いない。筋としてはありえなくはないすが……」
 全員独身とは少し意外な感じがした。4人とも、年齢は30台から40台くらいに見える。そういうことであれば、その推理も正解になりうるかもしれないなと思ったが。
 「あ、でも……」
 「なんですか?」
 「ここ数年は、『いざとなりゃ、養子でも取るかね』って呟いていた気がするわ」
 「そう言われてみれば、そうだったかもしれませんが……」
 「御前さまはあんまりあっしらのコト誇らしく思ってないフシがありましたしね」
 そして4人から、御前さんからなじられた思い出が次々と解き放たれた。
 苦い思い出の飛ばし合いが小康状態になったころ、沙羅さんがついに推理を披露した。
 「じゃあ、こういうのはどうかしら?」手帳をこちらに向ける。なにやら文字が書いてある。
 「これは、一つの赤い星、よ。つまり……『ONE RED STAR』。これを並べ替えると『ARREST ENDO』になるわ」
 アナグラム、か。なるほど、暗号なら王道かもしれない。
 「エンドウを……逮捕しろってこと?」
 「……しかし、旅館の従業員にエンドウという名前の者はいないはずです。過去のお客様でならばあるいは……」
 今の従業員にはいないのか……。しかし、過去の宿泊客にまで範囲を広げてしまうと、今度は収拾がつかない気がする。
 「だいたい、外国語なんて全然話せんでしょう」
 「確かに、御前さまはペンギンを企鵝(きが)と呼ぶような御方です。他の人物のメッセージならともかく、御前さまが外来語とは考えづらい――」
 「何よ! あんたたちの珍説よりは、よっぽど、断然まともでしょうが!」
 「姉貴はいつもそうす。自分が攻撃されるときは敏感で……。ヒステリックになりなさんなよ」
 「はっはっは。女性はカルシウムが不足しがちだからなぁ。牛乳だ、牛乳を飲めぃ!」
 「余計なお世話よ!」
 場が混沌としてきた。次々と推理は繰り広げられはするものの、生まれては消え生まれては消え。
 そして、昼食の時間帯が過ぎていく。そろそろ本格的に腹がすいてきた感じだのだが、皆はまだまだ頑張るつもりの様子だ。
 ここで、僕はもう一度御前さんの気持ちになって考えてみた。
 僕に一通の封筒を託して明日の朝に披露する。立ち会うのは恐らく、丸井の4人と僕と美月。
 中に描かれているのは『赤い星』。その意味を、例えば制限時間内に解かせ発表させる……。
 アクシデントが起こらなければ、そんなイベントを考えていたのかもしれない。
 とすると、これは計画的に考えられたイベントで、『赤い星』の意味も〈ダイイングメッセージ〉のような突発的、あるいは、性急な解読が必要なものではないと言えそうだ。
 再び、シンキングタイムが訪れた。興が湧いたのか、三冠も推理に参入したしたようだ。眼を瞑って身体を大きく反らせている。テレビ中継でも見たことのある、長考の時の姿勢だ。
 最初に口火を切ったのは、スキンヘッドさんだった。
 「花札では、〈五光〉という役がありやす。その札は、それぞれ〈松に鶴〉〈桜に幕〉〈芒に月〉〈柳に小野道風〉〈桐に鳳凰〉と言いましてね。
  ご存知のとおり、それぞれの札には〈1月〉〈3月〉〈8月〉〈11月〉〈12月〉と月が割り振られとります」
 「それで?」
 「これをばらしてつなげると、1381112。語呂合わせだと『遺産は1112』となるんですが、いかがでしょ?」
 「……つまり、『遺産は111に』相続させろと言う意味だって言いたいの?」
 「『111』とは誰のことを指しているのでしょうか?」
 「いやぁ、あっしは『1対1対1対2の割合』を意味してるんじゃないかと思っとるんですがね」
 遺産、というキーワードが出て丸井の4人の表情に緊張が走ったのが傍目にも分かった。
 丸井家は名家だ。この五稜亭旅館を見れば分かるとおり、総資産額は一般人の僕には想像もつかない。
 ましてや、推理の結果が正しいとするならば、一人だけ5分の2もらえるのだ。例えば、総資産がたったの5億だとしても、1億か2億かの違いになるわけだ。
 そして、問題は誰が2倍多くもらえるかということだが……。
 「生まれた順と捉えれば、あっしが2ということになりやすがね」スキンヘッドさんが困惑した表情で言う。御前さまが決めたことだから仕方ないですね、と言わんばかりだが内心ではほくそえんでいるかもしれない。
 「ちょっと待ちな。割合が1対1対1対2なのはいいとして、誰がそうかってのはもっと慎重に推理しないと!」
 「はっはっは。五十音順だと、おれが一番最後になるな」
 「誕生日なら12月生まれの私だわ」
 先ほどよりも議論が熱を帯びているのを感じる。これがお金の魔力というやつなのだろう。かくいう僕だって、当事者になったら分からないだろう。
 確かに、スキンヘッドさんの推理はこれまでの中では一番暗号解読らしい気はする。すると、これが……正解なのだろうか。

 ――パチン!
 
 乾いた空間を切り裂くような音が響いた。
 僕はこの音を知っている。扇子の音だ。こんな状況で、その音を出すのは一人しかない。
 「……そろそろオレの出番か」三冠が呟く。
 「他の家のばあさんならいざ知らず、あのばあさんが描いた星ならこの五稜亭旅館を連想したと考えるのが妥当だろう。
  この旅館はその区画ごとに名前が振られていたな?
  朱雀、玄武、青龍、白虎、麒麟。そして、これらはそれぞれ五行では〈火〉〈水〉〈木〉〈金〉〈土〉を示している」
 ……あ。
 こんなタイミングではあるが、そう言われて腑に落ちたのが各娯楽スペースにあった施設のことだ。
 朱雀と玄武の間には、温泉があった。これは、〈火〉〈水〉の間に位置するから、『温泉』だったのだ。
 彫刻展示場や陶芸展示場など、およそ旅館に存在するには違和感がある設備もそういう見方をすると一応辻褄が合っているように思える。
 「それぞれの名前にも五行の漢字が入っている。沙羅には〈水〉が。新吾には〈木〉が。鑑には〈金〉が。敬基には〈土〉が。
  そして、それらが赤で描かれている。赤の色を示すのは〈火〉。〈火〉の者がこれらを統べるよう、序列を定めたのだ」
 名前にキーワードが含まれているあたりが、〈五光〉の推理よりも確度が高いような気がした。
 しかし、「はっはっは。ちょっと、待たれよ? そこで出てくる〈火〉とは誰だ? 我々は4人兄弟だが……」当然の疑問を長男の豪傑さんが問う。
 三冠だけが悠々と扇子を仰いでいたが、やおらそれを止めて面々に向けて広げてみせる。
 「俺がいるだろう」
 室内の時間が一瞬だけ止まる。
 そこには、『神意 冷谷山秋一』という文字が揮毫されている。
 「まだ分からんか? 俺の名前に〈火〉が入っている」
 冷谷山……秋一。確かに、秋の字に〈火〉の字が入っているが。
 「そんな……偶然でしょ?」
 「これだけ言っても分からないか。では、『チヨコ』という名前を出したらどうだ?」
 三冠の挙げた名前に4人は反応する。
 「『チヨコ』と……『シュウイチ』!?」
 「ま、まさか。あなたは、お館さまの前妻の……」
 三冠は満足げに口の端をあげた。

 5人の間では、どうやら共通認識らしい。
 話についていけていない様子の僕(とついていくつもりのない美月)に、館主さんが説明をしてくれた。
 「御前さまから聞いた話です。前妻にチヨコさまという方がおられた、と。18でお館さまと結ばれたそうです。
  チヨコさまは元々、丸井家に仕える身でした。その誠実さや器量は大層すばらしかったそうですが、先々代は名家の娘と結ばせたかったらしく内心おもしろくなかったようです。
  また、様々な試みをなさったそうですが、5年間お子様に恵まれなかったようです。先々代は、それを大きな理由として離縁を言い渡してしまったのです。
  その後、私たちの母であるぼたんが後妻となり、私たち4兄弟を生みました。
  それから歳月が流れ、風の噂でチヨコさまがシュウイチという子供を育てているという話を聞くこととなったのです」
 「そして、その子がお館さまの血を継いでいるとも言われていたのよ」
  つまり、隠し子ということだろうか。丸井家のような名家にとっては、大きな問題だろう。
 「でも、そのシュウイチの年齢がどうにも妙なのよ。噂になった当時、チヨコさんが46歳で、シュウイチが8歳。逆算すると、38歳で生んだことになるじゃない?」
 「それに、チヨコさんがこの屋敷を出て行ったのは、25歳のときと聞いています。それから一歩も〈小牛島〉には足を踏み入れておりません。また、お館さまも〈小牛島〉から外へは出ていません。
  見ての通り、小さな島です。誰にも見咎められずに上陸することはまず不可能……」
 「なら、千兵衛じいさんの好物が〈タラの芽の天ぷら〉だったとか、〈貯蔵庫〉に漢字の〈心〉のような模様が入っている柱が2つある、と言ったらどうだ?」
 「そんなのは、探偵でも雇って元従業員に聞いたりすれば知り得るわ」
 「……やれやれ。結局、これの出番か」
 三冠は懐から封書を一通取り出すと、卓上に放り投げた。
 「DNA鑑定書だ」
 沙羅さんが封書を手にする。傍らにペーパーナイフもあったのに、それすら使う時間が惜しい様子で封筒を開けている。
 「嘘……。『冷谷山秋一は丸井千兵衛の実子と認める』……ですって!?」
 「よりによって、検査したのは円先生……ですか。それならば、お館さまのDNAを持っていても全く不思議はありませんが……」
 否定を続けても、キリがない。また新たな〈証拠〉が出てくるに違いない。先ほどの〈三人虎を成す〉ではないが、信じざるを得ない状況だ。
 場の空気はそんな風だった。
 三冠は腕を組んだまま、辺りを見回している。招かれざる5人目の兄弟が、次にどんな言葉を続けられるのか。丸井の4人も様子を伺っている。
 「冷静に考えてもみろ。こんな図形の謎を解いたところで、その内容が遺言になるはずがなかろうが。『謎を全て解いた最初に解いた者に相続させる』などという遺言書が別途見つかれば話は別だがな。
  だが安心しろ。俺は資産だの何だのそういうものに興味はない。俺の目的は、丸井家に俺の優秀さと母の存在をはっきりと認めさせることだけだったからな」
 室内には優雅に扇子を仰いでいるパタパタという音だけが響いている。三冠の表情は涼しげだ。
 一方、丸井の4人はまるで叱責された子供のように萎縮し、机の表面に目を落としている。
 この構図は確かに三冠の望んでいた一つの結末かもしれない。でも、何かが、間違っている気がする。
 「さ、さて、答えも出ましたし、もうこんな時間です。お開きにしますか」
 重苦しい雰囲気を打開するように、館主さんが腕時計をわざとらしく見つめながら切り出した。
 一同もこれ以上何かを言う気力も失われたようで、それを契機に席を立とうとする。いち早く、この場を離れたいというオーラがはっきりと眼に見えるようだ。
 こういうケースで、僕は普段声を上げることはない。発言を求められたら答えるけれど、積極的には動かない性格なのだ。出る杭になるのが苦手だから。
 しかし、どうにもこのままじゃいけないような気持ちがどんどん大きくなっていく。そして、それが飽和状態を迎えた。
 「あの、一つだけ……いいですか?」
 僕は意を決して切り出した。
 「なんでしょう?」
 場の収束ムードを遮る形になった僕の発言に、一同は僅かに懸念した様子だった。丸井4兄弟と三冠の視線が集中する。
 それは、以前、部活総会での奥地会長や他の部長のされたものと重なってみえ、思わず発言を取り下げてしまいたい衝動が爆発的にこみ上げてくる。
 しかし、今日は傍らに美月がいてくれている。それだけで心強くて、それだけで格好悪いところを見せたくないなと思って、顔の紅潮や声が上ずりそうな気配は驚くように霧消していた。
 小さく唾を飲み込んで、拳を握り締める。
 「少し考えてみたんです。それぞれの頂点がお互いに『両手』を伸ばすようにしたら、ちょうど星になるように見えるなあって。
  線も赤いし、暖かい血の通ったニンゲンの形容にも見えます」
 「……あらあ、ずいぶんロマンチックな推理だこと」沙羅さんは微笑む。一見、表情には嘲りは見えないものの、話し方にはわずかに失笑の成分が含まれているようだ。
 確かに、そこだけ聞いたら逆の立場でも噴飯しそうだ。でも、構わない。続ける。
 「美月、この星の内角って何度になるかな」
 「0.628318531……」
 「――ごめん、ラジアンじゃない方で」僕は慌てて制する。危く無限の世界に突入するところだった。
 「度数法ってこと? それなら36度でしょ」美月は即答する。もちろん、話をしようとする以上、僕も計算済みではあった。
 単純な割り算を彼女に尋ねるのは、掃除機の性能を確かめるために砂金を床に巻くような贅沢なものと言えるけど。まあ、こういうのは会話のリズム感のようなものだ。
 「そして、この線は定規は使っているようですけど、所詮ニンゲンが手書きをしたものです。だから、角度はピッタリ36度じゃない。約36度なんです」
 「それがなんなの?」沙羅さんは回りくどい説明は苦手なようだ。
 「ニンゲンの体温も約36度でしょう。これって果たして偶然でしょうか」
 丸井の4人は呆気に取られた表情を浮かべ、三冠は露骨に怪訝な顔を作っていた。しかし、まだ推理は言い切っていない。僕は構わず続ける。
 「つまり、遺産とかそういうの以前に、丸井さんたち4人と冷谷山三冠が手をつなぐようにして仲良くやっていってほしいというメッセージかと思ったんです、けども」
 生じた沈黙は一瞬だったはず。けれど、とても長く感じた。
 「はっはっは。こいつはいい!」
 「馬鹿馬鹿しいけど、今日一番の推理だったわよ」
 丸井の4兄弟は揃いも揃って、大爆笑だった。しかし、何もそんなに笑わなくても……。
 そんな中、三冠は「……下らんな」と、不快を一人あらわにしていた。
 綺麗に収まりかけた流れをふいにするかのような差し水と思われたのかもしれない。
 「出題者を貶めかねん答えといっても過言ではなかろう」
 言葉の内容は非常に厳しかった。5人の反応を見て、僕は、あぁやっぱり黙っておけば良かったかと思ってしまった。
 しかし、意外なことに三冠の発言に丸井4兄弟が猛反発した。
 「はっはっは。あんた、そりゃ言いすぎだろう。それなりに理屈は通っとるじゃないか?」
 「なんだ? 無能どもが集って吼えよるか」
 「正解不正解によらず、ゴールに行き着いたではありませんか。立派に答えの一つかと……」
 「ふん。本人がゴールだと思い込んでおるだけだ。愚かしい」
 「私も最初はおかしな答えと思ったけど、結構面白い回答じゃない。仮に正解だったとしても悪くないと思うわ」
 「莫迦を言うな、断じて正解なはずがない」
 「正解だよ」
 「誤答だ!」
 「本人が正解だと言っておるのだから、正解だ」
 「本人だろうが何だろうがそんな答えが認められるわけなかろう!」
 不意に浮かぶ違和感。
 全員の視線が違和感のした入口の方に集まる。
 「御前さま!」
 そこには、杖をついた御前さんが立っていた。脇には白衣の円医師が介添えについている。
 「なっ、ご無事でしたか!」
 「いつからそちらに!?」
 「……ふん。結構前から聞かせてもらっておったわ。様々な珍説、奇説をな」
 そして、鋭い視線で一同を見回す。
 「全く。遺産だのなんだの……。倒れたところまでは事実だが、まだ大人しくくたばるつもりなどないわ。
  こっちにも色々と都合があるから、円先生にお願いして誇張してもらってたんだ」
 「ひっひひ。申し訳ないね、ご子息方。御前さまのお願いとあっては断れませんからね」傍らに控えていた白衣の男が頭を掻く。
 この人が円医師か。視線が常に定まっておらず、左肩だけがいかり肩になったような姿勢をしている。言われないと、とても腕の良い医者だとは思えない怪しい男だ。
 二人は、近くに空いていた椅子に腰掛けた。
 「何故、俺のが正答じゃない!?」
 着座するやいなや、三冠が問い詰める。これほど感情を表に出しているところをみるのは初めてかもしれない。
 それは、激昂というより子供の癇癪のようにもみえる。だがしかし、
 「……何故、正答じゃないといけないんだい?」御前さんは動ぜず切り返した。
 「オレは、丸井の連中――あんたと爺さんと、その子供たちに優秀さを見せつける、その復讐のために今日、そしてこれまでやってきたんだ。
  母から聞かされたよ。最初、囲碁に縁のある優秀の〈秀〉の字をあてる予定だったところを季節の〈秋〉の字に変えたんだと。
  あんたがそう強く勧めたんだってな?」
 「ああ。相違ないよ」
 「俺が生まれたとき、既にそこのでかぶつが囲碁の院生になっていた。丸井家の悲願成就は目前って訳だ。
  見ての通り、俺は将棋でここまで結果を出してきた。きっと、囲碁を選んでいても同じように結果を出せただろう。
  もし俺が囲碁の道に進んだら、丸井家の障碍になりうる。そう思ったんだろう? 将棋を押し付けられた俺の気持ち、到底分かるまい」
 三冠は扇子を開閉する仕草を早めていく。それは、ほの暗い感情を増しているのを表しているかのようだ。
 「……将棋は嫌いかい?」
 「ああ。大嫌いだよ」
 はっきりと言い切った。その言葉は、僕に深い衝撃を与えた。
 将棋だけに限らない。その道で偉大な実績を挙げるほどの実力者は、その道を愛しているはずだ。そう思っていた。
 強くなるためには、上手くなるためにはたゆまぬ努力が必要だ。それは、好きでなければ続けられるものではない。
 負けたり、上手く行かなかったり、思い通りにならなかったとしても投げ出さず。自分自身がきっと今より上達することを信じて、立ち上がる。
 佐波九段は、敗戦した後も日付の変わった激戦のあとでも「将棋が好きです」「将棋が楽しめました」という言葉を残していた。
 同じ棋士という立場でありながら、どうしてこれまで対極的なのだろう。
 御前さんと三冠が視線を交錯しつ続ける。一人でも強烈な威圧感が、真っ向からぶつかっているのだ。場が緊張しないはずがない。
 「ひっひひ。ここは一つ、丸井家と付き合いもそれなりに長い私めが、一つ昔話をお話しましょうかね」
 意外な人物が声をあげた。円医師だ。
 「円先生、これは丸井家の問題――」御前さんが止めようとするが、「ぼたんサン、こういうのは第三者が言ったほうが、円滑になるモンですぜ」と引かない。
 「秋一クン、さっき自分で言っていただろう。自分の字に〈火〉が入っていると。
  下の名前は死ぬまで変わらない。それこそが、キミが丸井家の兄弟の一人なんだということを誰にも揺るがさせない証跡になるからだ。
  あと、世間的には将棋も平等に扱っているが、内々では丸井家は代々囲碁を贔屓にしてるんです。家紋由来でね。
  だが、千兵衛サンは将棋を圧倒的に溺愛してたのさ。そして、自分の子がモシモ将棋棋士になったらどんなにか、と願っていたのサ。
  ただ、頑固な先々代が許すはずもなく、棋の素養があった新吾クンは囲碁の道を歩んでいった」
 「……」
 「チヨコサンが、丸井家を出ることになったのは不幸なことでした。
  チヨコサンはその後、一人の子供を生む。辛い想い出を避けるように、囲碁や将棋を無理にさせるようなことはしなかった。むしろ遠ざけようとさえした。
  だが、その子はいつのまにか将棋を覚え、楽しみ始めていたんだ。まさに親子だ。
  その子供が、秋一クン、君だよ」
 「……今さら、そんなこと信じられるか!」
 三冠は立ち上がる。そして、そのまま逃げるように部屋を去っていく。
 誰も、追わない。追えない。御前さんも追わない。
 「円先生、ありがとうよ。伝えたいことはもう全部伝えられたよ。どう結論を出すかは、本人に任せるとしよう。
  大丈夫。あの子は強い子だ。時間は掛かるけど、必ず自分なりの答えを見つけられる子だ。チヨコさんもいつもそう言っていたよ……」
 そう言って、傍らに立てかけていた杖を床に叩きつける。カツンッと大きく響いた音に、一同が我に返ったようになる。
 「少年、今、なんどきだい?」
 不意打ちに驚いたが、慌てて時計を見せながら答える。今度は丁寧に、
 「昼の、午後の、1時です」
 それには御前さんも僅かに苦笑いを浮かべた。そして一言。
 「腹が空いたろう。アタシもだよ。昼飯にしようじゃないか」

 

 小説『All gets star on August =星の八月=』(3/4)に続く

 

小説『All gets star on August =星の八月=』(1/4)

 【第一章】 星

 *****

  ほし【星】〔名〕…警察関係で、犯人・容疑者をいう隠語。

 *****


 「しばらく、ここでおとなしくしていてもらうわよ」
 凛とした声が投げ掛けられた。そして、複数の足音が徐々に離れていく。
 「は、なしを……聞いてくだ……」呂律がうまく回らない。はっきりとしない意識の中で、僕は必死に訴えた。
 記憶がうまくつながってない。どういうことだろう。もしかしたら睡眠薬のようなものでも飲まされたのか。
 身体を動かそうとして、それも叶わないことを思い知った。椅子に腰掛けさせられており、その状態で両手だけでなく全身を縄で固定されていたのだ。
 徐々に、バラバラだった記憶の欠片が集まり始める。しかし、再構成されたそれはどうにも非現実的なものとしか思えなかった。

 この人たち、本当に僕たちを犯人だと思い込んでる……!

 でも。本当に、断じて、無実だ。物証だってない。
 動機だって、ここに今日来たばかりの僕たちにあるはずなんかないじゃないか。冷静に考えればおかしいことだらけのはずなのに……!
 しかし、無情にもギィィ……と扉は閉ざされていく。
 「ぼ、くた……は」
 〈死人に口無し〉と言うが、言葉の使えないニンゲンの無力さというものに僕は絶望した。
 扉から差し込んでくる光が徐々に細くなり、僕たちのいる部屋は反比例して暗くなっていく。
 そして、バタン……という重音とともに、僕たちは「容疑者」という立場を確定的なものにされてしまった。
 ……。
 このあと、一体どうなってしまうのだろうか。
 警察を呼ばれる分にはまだ願ったりかなったりかもしれない。僕たちは、当然自分たちが犯人ではないと確信している。だから、何かを隠す必要も演技する必要もない。自然体でいればおのずと身の潔白が証明できるだろう。
 しかし、真犯人にとって、僕たちが動けないこの状況下は格好の偽装工作の場となるだろう。もし巧妙に冤罪工作でもされてしまったら――。
 警察だって人間だ。そして、人間は間違える生き物だ。世の中には明るみになっていない冤罪などたくさんあるはずだ。僕は急速に不安になる。
 まさか、自分がそういう厄介ごとに巻き込まれるなんて想像もしていなかった。今日選んだ選択肢のうち、どれか一つでも違うものを選んでいれば避けられた事態だったのだろうか。
 ここは小さな離島だ。恐らく、本島の警察がやって来るまではまだ猶予があるはずだ。その間に、僕たちが無罪であることの証明、そこまで行かなくても不利にならない状況を作っておく必要がある。
 信じられるのは、僕たち自身――瀬田桂夜(せたけいや)そして織賀美月(おりがみつき)――だけだ。
 そのためには、まず身動きの取れないこの状況をなんとかしなければならないのだが。
 微動だにしない扉から視線をすぐ脇に移すと、美月が同じように椅子に縛りつけられているのがみえた。意識を失っているのかうつむいたままだ。
 飲まされた薬が似たようなものならば、もうしばらくしたら起きるかもしれない。しかし、何とも説明がしづらい状況だ。説明がしづらい、というのには少し込み入った訳がある。
 理由は本人も分からないらしいが、美月は特殊な脳構造――人並み外れた処理能力と一時記憶と引き替えに、永続記憶がほとんどできない。つまり単純に言えば、頭がすごくいいが、寝ると記憶をほぼ全て失ってしまう――の持ち主なのだ。
 普段は、目覚めたあとに日記帳や携帯端末のメモを元に、それまでの記憶を再度インプットし直しているらしいのだが、この手足が縛られた状況ではそういったことが不可能だ。美月としても初の体験だろう。
 この状況を打開するのに、美月の力は絶対に必要だ。一秒でも早く強力なパートナーに戻ってもらう必要がある。
 そのためにも、今のうちに、僕が何者で何故こんな状況になってしまったのか、そういったことを丁寧にかつ手短に説明してあげる必要がある。
 そうすると、いつからになるだろう……。
 僕は頭の中に今日のここまでの出来事を思い出し始める。始まりは、そう、午前の船上あたりからで十分だろうか。

 *****

 水しぶきを上げながら進む船の上は、とても心地よい。
 8月ともなれば、夏は本番だ。日差しは相当強力になってきている。当たったところは、熱さだけでなく押されているような感覚だ。宇宙ヨットの仕組みを、まさに肌で感じている。
 船の欄干に近づくと、海風をより強く身体に感じる。それは夏の日差しさえ一時忘れさせてくれるような清涼感に溢れていた。
 都内最南端の小尾湾(おびわん)からの連絡船に乗り込み、僕は五稜亭旅館(ごりょうていりょかん)という場所に向かっていた。それには深い、あるいは不快な理由がある。
 僕が所属する将棋部の顧問である泉西先生が「合宿やるぜ! 有無は言わさん! 『うむっ』とだけ肯定せよ!」と騒ぎ出したのだった。いつもながら、突拍子もない話だ。大方、学園ドラマで夏合宿であれやこれや騒動が起きるのを観てその気になったのだろう。
 夏休みのど真ん中にそんな計画を急に立案されて将棋部員にとってはいい迷惑、どころか存分に悪い迷惑である。部長として、僕は断固抗議することにした。
 ところが。
 「行き先は五稜亭旅館というところだ」
 その名を泉西先生が口にした瞬間、僕の心はあっという間に反転した。自分にも『忍法・心変わりの術』が使えたのか、と感心してしまった。
 というのも、この五稜亭旅館は将棋のタイトル戦でもしばしば使われることがある、いわば将棋ファンにとっては聖地の一つなのである。
 余談になるが、タイトル戦は先にどちらかが勝ち越し決定をした時点で終了となる。
 逆に言うと、5番勝負の場合の4,5戦目、7番勝負の場合の5,6,7戦目の開催予定地は、必ず使われるという保証は無い。
 それゆえ、一般的な宿泊施設では敬遠されがちだ。しかし、囲碁と将棋の愛好家でもあったこの五稜亭旅館の創業者は、タイトル戦の黎明期から進んで最終戦開催地の依頼を引き受けてきた。
 言うまでも無く、最終戦はどちらもカド番であり、必ず最終勝者が確定するという大事な一戦だ。必然、後世に残るような多くの名勝負を生んできた。
 僕の尊敬するプロ棋士、故・佐波新継(さばあらつぐ)九段が病魔と闘いながら挑戦者として戦った〈棋神戦〉。
 現在将棋界の第一人者と言われている、冷谷山秋一(れいやさんしゅういち)三冠がプロ入り最短でそれぞれタイトルを取得した〈龍帝戦〉〈騎帝戦〉そして〈棋神戦〉。
 いずれも、五稜亭旅館の最終戦での出来事だ。
 あぁ、いけないいけない。将棋のことでつい頭がいっぱいになってしまっていた。
 先ほどから、僕、僕と言ってきたけれど、それは正確ではない。この旅は、同行者がいるのだ。
 欄干から振り返ると、日陰で腕組みをしている少女と眼が合った。同じ将棋部員の織賀美月だ。関係性は非常に説明が難しい。理解者とか協力者という感じが近そうだが、客観的に見たら彼女ということになるだろうか。
 今日は白いワンピースドレスに白い帽子を身につけ、ストレートの髪も下ろしている。普段のポニーテールと制服姿を見慣れているせいか、そのギャップによってドキドキしてしまう。
 その姿は、まるで深窓の令嬢のようだ。はたまた、地上に舞い降りた天使のようだ。表情の乏しさを除けば――。
 美月は表情をほとんど変えない。神掛かったまでの無表情だ。例えば、
 美味しい菓子を食べているときは、眼を2mmほど大きくして喜ぶ。
 約束の時間に5分遅れると、線のような口許を僅かにへの字にして怒る。
 ただ少し、ほんの少しだけ普通の女の子並みに微笑むというひと手間をかけるだけで、才色兼備の美少女ができあがるというのに――。せめて、辞書の〈天は二物を与えず〉の項目の事例に是非使ってほしい。そんなことを思う。
 それでも、4月の出会ったばかりの頃に比べれば、最近はいくらか表情が豊かになってきたような気がする。いやいや、僕の観察眼が鋭くなったのか、ハードルが下がったのか……。
 「こっち来ない? 涼しいよ」手招きをする。船の縁は風が物凄い勢いで吹き抜けており涼しい。
 「いい」美月は動かない。
 おや? 僕は訝しがる。こういう展開って……。僕は、少しニヤニヤしながら、「もしかして泳げないとか? とからかってみる。
 すると、美月は眼を細めてこちらを睨んできた。僕はそれを図星という意味合いだと思ったのだが……。
 「もしかして、バカなの?」お馴染みの言葉を頂いてしまった。「日焼けするからに決まってるでしょ」
 なるほど。夏の日差しは乙女の敵、そんな標語をどこかで聞いたことがあったかもしれない。言われれば納得である。
 腕時計を見ると、出発から30分が経とうというところだ。僕の方から彼女の方に近づいていった。
 「あと5分くらいかな」出港前に島までは約35分と説明を受けている。
 それにしても、トラブルが実体化したような存在である泉西先生がここにいないのがなんと素晴らしいことか。
 勝手な想像だが、もしこの船に乗り込んできていたらここまで穏やかな時間は過ごせなかっただろう。
 「俺に操縦させろ! そう、自由に」とか叫んで船員と揉めごとを起こしたり、「海、一番乗りぃ」とか言って海面に飛び込んで救出騒動を起こしたりした可能性が考えられる。
 その泉西先生は出港直前になってドタキャンの連絡を入れてきた。曰く「二日酔いだ。死んでも船なんかにゃ乗らねーぞ」。
 ええ、構いませんよ? 僕としては、「死んでも船にゃ乗せねーぜ」とさえ思っていたのだから、願ったり叶ったりというやつである。
 そして、もう一人の男子部員である斎諏訪徹(さいずわとおる)も今回の旅を欠席している。こちらは、随分と前から決まっていたことだ。
 斎諏訪は「離島だと通信速度が遅すぎて話にならんのです。将棋部のウェヴサイトのメンテに支障が出ます」と泉西顧問に主張し、それはいとも容易く受け入れられた。たまには気晴らしによさそうなものだが、〈超インドア派〉の斎諏訪にとっては「合宿などはもってのほか」なのだそうだ。
 まぁ、僕としては最終結果として美月と二人旅(代金は泉西先生が事前に支払い済み)と言う最高最良の展開を得られたのだった。

 しばらくして、進路方向に目指す島が見えてきた。海の真ん中に急に山が現れたような形状で、いかにも造山帯を思わせる。なるほど、温泉も出るわけだ。
 そして5分後。僕たちは無事、小牛島(こうしじま)に到着した。
 「美月、降りるぞー」声を掛ける。しかし、反応は無い。
 視線の先を追うと、白い鳥がたくさん空を舞っている。僕にとっては、類型も合わせれば何十回も見たことがあるような、なんということのない光景だ。
 しかし、毎日記憶がリセットされてしまう美月にとっては、こういう光景のひとつひとつは斬新なのかもしれない。ちょうど、写真でしか見たことのない場所に初めて訪れた旅人のように。
 ただし、この光景もまた明日には消えてしまうだろう。それでも、こういう瞬間が美月にとって無駄になるとは思わなかったので、僕は先に降りることにした。
 「この微妙な揺れは苦手だ。先に降りてるよ」
 元々、乗り物はあまり得意なほうではない。美月への配慮と、自分への配慮の半々でそう告げてから僕はタラップをさくさくと降りていく。
 船着場のコンクリートの上に降り立つと、その周辺には船の到着を待っていた人たちが集まってきており、賑わっていた。
 「スクーバダイビングの方はこちらにどうぞー」
 「テニスの方はこちらにお願いします」
 時間はまだ朝の10時半だ。チェックインする前に、少し遊んでからという人も多いのだろう。
 「五稜亭旅館へ直接向かうお客様はいらっしゃいますかー?」黒ぶちメガネの少し痩せぎすの中年男性が声をあげている。羽織っている上着には五稜亭旅館の文字が入っていた。恐らく、旅館の従業員だろう。
 近くには、大柄の男性が背筋をビシッと伸ばして立っている。こちらは、客だろう。ベートーヴェンのようなウェーヴの効いた髪と前方に力強く伸びているもみ上げが印象的だ。ティアドロップのサングラスを掛けている。ダークグレーのスーツを着こなしていなかったら、先ほどの連絡船の関係者と決めつけてしまいそうなところだ。
 「あ、はい!」僕は手を挙げて応じる。「3名で宿泊予定の泉西です」
 「泉西様ですね。ご予約承っております」中年男性は一旦にこやかに応じたものの、「あの……もう一名様はどうなさいましたか?」すぐに問いかけてくる。僅かな変化ではあったが、その表情に新たに不審の色が混じったように見えた。普段から、美月の表情を見続けてきた賜物かもしれない。
 最初は人数減による宿泊費用の精算関係かと思ったが、どうも僕たち自身の方にフォーカスが当てられているような印象を受けた。
 振り返ると、ちょうど美月が一人で降りてくるところが見えた。最後の一人だったようだ。船はすぐに再出航の準備をはじめている。
 大人1人に、高校生2人の予約のはずだから消去法で大人1人が不在であることは明白だ。
 確か部屋は男女別々にとっていたはずだけど、もしかして高校生だけでは宿泊不可なのだろうか。
 伝統のある旅館だから、少しでも問題がありそうな宿泊客の場合は丁重にお断り……ということは考えられなくもない。僕は咄嗟に、
 「ちょっと乗船前に具合が悪かったようなので、先に2人で来ました。次の便で来れるかと……」
 と答えていた。完全な嘘である。
 とんぼ帰りなんて絶対にイヤだ。無意識にそう思っていたのかもしれない。
 あとになって思いかえすと、このとき正直に「僕たち2人は将棋部員です。顧問が体調を崩して来られません」とでも言っておくのが正解だったかもしれなかった。
 「左様でしたか。小牛島には名医がおりますので、何かございましたらお取次ぎいたしますよ」
 「名医……ですか?」
 「ツブラ・クジャクというお医者さまです。百円の円の字に、鳥の孔雀というお名前です。まだお若いからご存じないかもしれませんね」
 「は、はい。すみません……」
 「円先生の腕は相当なもので、世界のVIPの間でも有名なのですよ。外科、内科、産科なんでもできる上、天才的な腕前なのです」
 「そんな方がこの島に?」
 「どうやら、あの岬の上の一軒屋がお気に召したようで……」
 指を指した先には、遠目にも古びた一軒家が見えた。うーむ、天才の気持ちが僕には良く分からない。
 「私どもは旅館内にお住まいいただくこともご提案したのですが。ですから、旅館からお呼びするときは15分程度はかかってしまいまけどね」
 この島で1泊する間に大怪我や病気にかかる確率など相当なものだ。とりあえず、すごい名医がいたという土産話くらいにはなりそうだなぁと思って僕は相槌だけ打つことにした。
 「あ、はい。分かりました」
 そしてちょうど、美月も合流した。結構な数の乗客が下船したはずだが、結局、残ったのは僕と美月、そして豪傑風の大男と旅館の男性の4名だけだった。
 連絡船は、乗客の下船と諸々のチェック終えたのか、再び海原へと進んで行くのが見えた。
 「……どうやら、他にはおられないようですので、参りましょうか」黒ぶちメガネの中年男性がそう切り出した。「わたくし、五稜亭旅館の館主、マルイカガミと申します」
 この人が、館主!?
 つい驚愕が、表情に出てしまったかもしれない。物腰は穏やかだが、館主の貫禄というか、オーラみたいなものがこの痩せぎすの男性からはどうも感じられない。そして何より、館主自らがこういった出迎えに来る、ということになにか違和感を感じた。
 豪傑さんは特に気にした様子もない。美月も特に表情の変化は見られない。まぁ、このくらいで動じるタイプではないが……。
 「あの……。いつも、館主さんがこうしてお出迎えにいらっしゃるんですか?」
 このタイミングを逃したらもう聞くチャンスがなくなって、もやもや感が残りそうだ。失礼にあたるのかもしれないが、僕は気になってつい聞いてしまった。
 「あ、実は午前中にちょっとしたVIPが来館予定でして。どうやら次の11時の便のようですね……」
 「VIPですか」
 何ともぼかした言い方だが、よく考えればプライベートな話だ。質問をした僕にも十分に配慮をした回答をしてくれたといえるだろう。
 VIPとはもしかして、名医だという円孔雀先生の診察に訪れる患者なのだろうか。
 「あ、VIPといえば、こちらも――」館主が豪傑さんの方を向き、僕らの注意を集めようとする。
 この風貌だ。プロレスラーだ、と言われても大いに頷ける。と、豪傑さんが不意にサングラスをはずしてこう言った。
 「はっはっは。おれの名前は、マルイシンゴだっ」
 マルイシンゴ……。この、眼の感じといい……。
 「あっ、もしかして……!」
 合点の言った様子の僕に、豪傑さんもうんうんと頷いて言葉を待っている。
 「お二人は、兄弟なんですか?」
 てっきり、「正解!」という反応が得られると思っていたのだが、当ては外れた。豪傑さんは目頭を押さえてしまう。
 「あ、実はそれも正解なんですが……」館主さんは苦笑いを浮かべている。
 「音だけだとピンと来ないのか? 字は、新しいに五の口、で新吾という名前なんだが……、分からんかなぁ」
 丸井新吾……か。うーん。やはり、頭の中に浮かんでくる人物は特にいない。申しわけなさそうな顔で「すみません……」と答えた。
 「はっはっは。若い子達だから、まぁしょうがないかっ。これでも、一応プロの6段なんだがなぁー」
 プロの6段?
 僕が聞きなおそうとする前に、豪傑さんは踵を返してしまった。てっきり、気分を害してしまったかと思ったのだが、鼻歌を歌い始めたので特に気にする必要はなさそうだ。僕は胸をなでおろした。 
 観光がメインの土地柄のためか、島内は全体的に非常に整っていた。情緒のある古さと清潔感のある新しさが程よく混ざり合っているのに非常に好感が持てる。
 美月はどう思う? そう尋ねようとして、彼女が呪文のような言葉が呟いていて不審に思う。
 「……八十八万四千七百三十六。九十一万二千六百七十三……」
 「なにしてるの?」一応聞いてみる。
 「暇だったから、三乗の計算をしてただけ」
 うーん、僕には少し理解困難な暇のつぶし方だ。
 道は基本的に坂道だった。歩くのが大変と言うほどでもないが、じわりじわりと疲労が溜まっていきそうな予感がする。
 港から離れ、島の中心部に近づくにつれ、次第に道の両脇が緑で覆われていく。この季節の日陰は本当にありがたい。
 隣を向くと、さっきまでいたはずの美月の姿がない。はてと思って後ろを向くと、少し離れて彼女は歩いていた。しかし、僕たちのペースが早いというわけではなさそうで、周りの景色を眺めながら歩いているのがその理由のようだった。
 相変わらずマイペースだなぁ……。
 そして、顔を前に戻そうとして、ぎょっとなった。目の前に、豪傑さんの顔がどアップで迫っていたのだ。「な、なんでしょうか?」と尋ねるより早く、豪傑さんにしてはややボリュームを落として話しかけてきた。
 「君の連れの子、もしかしてアイドルとかかい?」
 アイドル……?
 唐突な質問に、僕はすぐに返事ができなかったが、徐々にその意味を理解し始める。
 自分が彼氏バカであることを差し引き、極力客観性を重んじて評価しても、美月は分類上は美少女といっても過言はないだろう。
 危く、「あんな無愛想のエキスパートのアイドルがいるでしょうか?」という言葉が喉元まであがってきたが、美月に聞かれては気まずい。
 「だとして、こんなに要領の悪そうなマネージャーはおかしくないですか?」僕は、自分を指差してそんな言葉を返した。
 「はっはっは。それもそうか」豪傑さんは即座に納得する。
 そこは、少し考え込むなり、謙遜するなとか言って欲しかった!
 「はっはっは。一般人とは、残念残念。来年、テレビ番組で講座を頼まれたからアシスタントに是非どうかと思ったのだが。なかなか人生上手くいかんもんよなー」
 「アシスタント……ですか」
 プロ……6段……テレビで講座……でも、僕は知らない……。
 それらの情報を組み立てていくと、一つの予想が立った。
 「もしかして、囲碁のプロ棋士をなさっている……?」控えめな声でそう尋ねると、豪傑さんは目を丸くして僕を見つめ返してきた。
 あれ? また外したか?
 と。
 「やっと気づいてくれたか! はっはっは。はっはっは……!」豪傑さんは突如大きな笑い声をあげると、僕の背中をばしんばしんと叩いてくる。おかげで、坂道を2mほど楽に登れ……じゃなくて、痛いんですけど。
 それから気を良くしたのか、豪傑さんはプロ棋士としての矜持や、ポリシーを熱く語り始めた。僕はそれを聞きながら、坂道をひた登り続ける。後ろに、美月の気配を感じながら。
 あぁ、本当なら一秒たりとも無駄にしたくない貴重な二人きりの時間が……。
 豪傑さんの隙を縫い、ちらりと後ろを振り向けば。
 時折吹く風に帽子をさらわれないように押さえながら、木々を仰ぎ見る美月の横顔が見えた。
 さっきの豪傑さんの言葉をそのまま借りるならば――なかなか人生上手くいかんもんよなー。
 
 濃緑の葉を繁らせる林道を抜けると、目の前に巨大な建物が視界一杯に広がった。写真では観たことがあったものの、実物は非常に大きく見えた。
 「五稜亭旅館、到着でございます」
 建物に入ると、正面に円形のソファが見える。大型のディスプレイや、水槽、土産の販売コーナーなどがそれを取り囲むようにしている。ロビーの脇には飲食用の受付コーナーがあり、喫茶の場として使うこともできるようだ。
 「はっはっは。ではおれは一足に先に失礼するよ」豪傑さんは荷物を係員に渡すこともなく、そのまま奥のほうにあるエレベーターに向かって歩いていってしまった。
 チェックインの手続きも特にすることなく、非常にフリーダムな行動だ。まぁ、豪傑さんにとっては実家なのだから、問題はないのだろうけど。
 「兄が何かと騒がしくて、すみませんでした」豪傑さんがいなくなったのを確認し、館主さんがわずかに表情を崩しながらそう言ってくる。それはビジネスの表情ではなく、知り合いに対してするような表情に近い。
 「いえいえ。色々と、面白い話も聞けましたし……」僕はあたり障りのない返答をする。
 「当旅館のご利用は初めてでございますか?」
 僕がうなずくと、館主さんは館内案内図の前に僕らをわざわざ誘導して、館内の説明をしてくれた。
 五稜亭旅館は非常に珍しい構造をしていた。

図_五陵亭旅館(B1F)

図_五陵亭旅館(B1F)

図_五陵亭旅館(1F)

図_五陵亭旅館(1F)

図_五陵亭旅館(2F-5F)

図_五陵亭旅館(2F-5F)




 上から見ると、敷地は正五角形になっており、それぞれの頂点を結ぶように区画されている。別の表現をするならば、一筆書きで星型を描き、5つの頂点をさらにつないだような形状だ。三角形と五角形ばかりになるので、狭い土地で建てようものならば大いなる無駄が生じそうだ。
 そして、星型のそれぞれの5つの区画は時計回りに朱雀、玄武、青龍、白虎、麒麟という名称が割り当てられており、宿泊用の区画として使われているようだ。
 その宿泊スペースの間には、娯楽用の区画が設けられている。
 朱雀と玄武の間に、旅館一番の売りである温泉が位置している。二酸化炭素泉で、皮膚にしゅわしゅわとした微炭酸の泡がつくのが心地よいらしい。
 玄武と青龍の間には、大小5つの池が散在する庭園がある。地熱のためか、一年を通して豊かな自然が遊覧できるらしい。
 これら2つは、屋外にある施設だ。それに対して、残りの3つは屋内施設だ。
 青龍と白虎の間には彫刻展示場、白虎と麒麟の間には、宝石展示場、麒麟と朱雀の間には、陶芸展示場といった具合だ。
 いずれも、少量ではあるものの、島内でとれる木材、鉱物、貴金属、粘土を使用した作品が閲覧できるとのこと。一部は一般販売もされているらしい。
 静かな古湯を愛した多くの芸術家が湯治の折、あるいは、後日お礼に寄贈したものが多数あるようだ。
 なるほど、外が悪天候の場合はこういった場所で過ごすのもありかもしれない。
 今、僕たちがいるのはこのメインフロアの直下である地下1階だ。メインフロアが高台の上に作られているから、便宜上そうなっているらしい。
 「チェックインまではまだ時間がございますので、それまでの間、こちらをごらん頂くとちょうど良いかも知れません。いずれもお代は頂いておりません」館主さんが彫刻展示場、宝石展示場、陶芸展示場を指差して言う。
 チェックインは13時以降だったか。12時から一時間お昼を食べてつぶすことを考えると、まだたっぷりと1時間半はある。
 「あの、庭園って見て回っても大丈夫ですか?」
 「庭園ですか……? ええ、温泉以外は全て大丈夫です。ただ、お若いお二人には、あまり面白味はないかもしれませんが……」
 「いえ、ありがとうございます」
 「あ、お荷物はチェックイン前でもお預かりできますのでご遠慮なくどうぞ」
 説明を終えると、館主さんは丁寧にお辞儀をして去っていった。
 ふと見ると、案内板の前にはパンフレットが置かれていた。手に取って開いてみると、目の前の案内板と同じ図面、そして写真や文章がいくつかが載っていた。
 左上に『館主よりご挨拶』が載っている。写真は、先ほどまでの柔和な笑みをそのまま写したような仕上がりだ。末尾には直筆で『丸井 鑑』とある。
 その下に、続けて『女将よりご挨拶』があった。こちらは少し気の強そうな表情の中年女性だ。末尾には直筆で『丸井 沙羅』とある。ということは、きょうだいだろうか。
 真ん中には礼の館内案内図、そして右上には『料理長よりご挨拶』があった。もしやと思ってみると『丸井 敬基』とある。
 親戚か、従兄弟か、兄弟かは不明だが、どうやら五稜亭旅館は名実共に丸井家が執り仕切っていることを十二分にうかがわせる内容だ。
 さてと。
 「どこか行ってみたいところある?」
 僕は、隣で案内板を覗き込んでいる美月に尋ねる。
 「ここ、プール無いんだ。せっかく水着持ってきたのに」
 「……!?」
 ミズギ……ミツキ? 違う違う、水着!! 心臓を鷲掴みにされるとは、こういうときのことを言うのか。無意識のうちに、美月の身体を上から下まで眺めてしまっていることに気づき、慌てて視線を逸らす。いかにもわざとらしい動きだが、幸い気づかれなかった。
 そもそも、将棋部の合宿じゃなかったか、などという野暮な突っこみは一切しない。僕も成長したものだ。男子三日会わざれば、括目して相見えるべし、というやつだ。
 「泳ぐの、好きだったっけか?」
 「何もしないよりはね。あんまり疲れないし……」
 疲れない、というのはやや疑問だが……。僕は25m泳ぐのでも苦労する。途中で息継ぎが乱れ、全然前に進めなくなってしまう。何か、コツのようなものがあるのだろうか。
 砂浜でもあれば、海に誘うといったこともできたかもしれないが、この島の海岸線は岩場ばかりのようで泳ぎには適していない。
 非常に残念ではあるが、夏休みはまだある。希望があるからこそ、人類は今日と明日を生きることができるのだ。
 「じゃあさ、庭園行こうよ」
 こくり。
 美月は意外にもすぐに頷いてくれた。展示品のような静的なものより、多少なりとも動きのあるもののほうがまだ面白そうだという判断を下したのだろう。
 元々、1泊だけの予定だったので荷物はそれほど多くはない。しかし、庭園を歩くには邪魔になりそうだ。地下1階のクロークで荷物を預かってもらうことにした。大した金も入っていないが、財布と携帯電話だけは持ち歩くことにした。
 「あれ? それ、まだ使ってるんだ」
 美月の携帯端末に、クマッタという熊のキャラクターのストラップがぶら下がっていた。以前ペットボトルのおまけでついてきたものを譲ってあげたのだ。
 7月上旬にあげたものだから、1か月近くになる。携帯端末なんて毎日出し入れするものだし、おまけの品なので丈夫な作りではなさそうだ。実際、毛並みが少し擦り切れてくたびれているようにも見える。
 「まあね」
 あげたものを大切に使ってもらえるのは嬉しいが、少し罪悪感を感じる。本島に戻ったら、新しいもっとしっかりしたストラップをプレゼントしてあげようか。そんなことを思った。
 階段を上り、地下1階から1階へ移動する。さすがに評判のいい旅館だ。建物は随分と古いはずだが、階段が軋んだりすることなどはなかった。
 階段を上りきって周囲を見回すと、見上げたくらいの高さに木彫りの表札が掲げられていた。5つの宿泊スペースの入口と、5つの娯楽スペースの入口の合計10個だ。
 大きさといい、彫りの複雑さといい、なかなか立派な代物だ。例えば、朱雀ならば文字の後ろに赤く彩色された朱雀が描かれていたりする。
 先ほどの説明の通り、庭園の表札は玄武と青龍の表札の間に見つけることができた。
 表札の下をくぐり、一歩外に出ると、そこは見事な庭園が広がっていた。海側の方角は、建物が建っているため潮風が遮られている。日当たりも良い。池もあり、コイやカメの姿も見えた。
 夏本番とはいえ、日の出からずっと日陰になっているところは、十分な涼しさがあるようだ。池が近くにあることもあって、庭園の道は非常に涼しい。
 細い石畳の道を、後ろから着いて来る気配を感じつつ進む。
 「確か、この先には石橋と灯篭があったはず……」。
 はやる気持ちを抑えて、石畳をさらに進んでいく。すると、イメージしていた通りの石橋が池に掛かっていた。そしてその先には灯篭が見える。
 「詳しいね」
 「まあね」
 昔読んでいた将棋雑誌には、対局の内容だけでなく、対局会場の情報も写真つきで載っていた。この先の灯篭の前で、対局者が並んで記念撮影をするのも慣例になっている。
 僕はその灯篭の前まで進み、振り返ってみる。自然と、美月と向かい合う形になる。
 「瀬田棋神、あの難攻不落と言われていた織賀美月さんをとうとう彼女にしてしまわれたそうですが、その要因はなんだったのでしょうか?」空想上の記者が僕に問いかける。
 「そう……ですねぇ。運も絡んでいましたが、定刻に遅れていくことで秘密を共有するきっかけとなった〈巌流島作戦〉が効果的でした。史上最大の作戦と言って良いでしょう」空想なので、僕はかなり調子に乗ってみた。
 そう……ですねぇ、という話し方は佐波九段の口癖で、僕は小さい頃よく真似していたものだ。
 「今後の目標をお教えいただけますか?」
 「そう……ですねぇ。まずは〈彼氏〉の座に甘んじないよう日々鍛錬を重ねることですね。ゆくゆくは、永世彼氏の資格も得たいですね」
 〈永世〉という修飾語は『5期連続在位』や『通算7期在位』といった実績を得ることで名乗る権利が与えられる。本当に字面だけの意味で考えると永世彼氏などは、相当厳しい条件で名乗ることを許される〈タイトル〉だろう。
 「……ケーヤ?」
 おっと、少し空想に耽りすぎたようだ。美月が、僕の様子を伺っていた。確かに、急に振り返ってボーっと立っていたら何かあったのかと思われるのが当然かもしれない。
 「もう少し先まで行ってみよう」
 僕たちは灯篭を通り過ぎて、奥に進む。すると、今度は木々の間に隠れるようにして小さな瓦屋根の建物が見えてきた。僕の本命はこの建物にあった。

 

図_五陵亭旅館別館(風雷庵)

図_五陵亭旅館別館(風雷庵)


 風雷庵(ぶらいあん)、囲碁や将棋のタイトル戦で使われる離れ屋敷だ。高校球児たちにとっての甲子園球場のように、ここは将棋ファンにとっては興奮必然の場所だ。
 しかし。
 「あっ」僕は思わず悲鳴に似た声をあげた。
 その建物へ続く道の脇に「この先、修復工事中」という看板が立っていたのだ。改めて注意して風雷庵を見てみる。正面は変わった様子はないものの、建物の側面の方に補修用の脚組みやネットが僅かに見えた。
 「うぅうう……」僕は思わずうめき声をあげる。
 せっかく、ここまで来たのに! 引き返すべきか? 悩ましい……。
 いや、もうちょっと近づくくらいいいんじゃないだろうか。チェックインまでの時間もまだまだある。
 しかも、奥からは何か作業をしているような物音は聞こえてこない。危険性という意味では問題ないのではないだろうか。
 でも、従業員の人に見つかって怒られたりしないだろうか。
 様々な脳内会議の結果、僕は決断した。
 「行ってみよう」
 看板には、立ち入り禁止とまでは書かれていなかったこと、場合によっては『迷い込んだ』『看板に気づかなかった』などでごまかしてしまえば問題ないだろうと思ったのだ。
 美月は進もうが戻ろうがどちらでも良かったらしく、大人しく僕のあとをついてきている。
 風雷庵の玄関に到着した。やはり人の気配はない、作業らしい作業も特に何もされていない様子だ。
 玄関の引き戸を見ると、僅かに指数本分の隙間が開いていることに気づいた。
 これ、もしかして、中に入れるんじゃないか?
 そっと引き戸を横にずらしてみる。すると、戸はあっさりと開いたではないか。
 そのまま中を覗き込んでみると、質素ながら格調の高そうな玄関と廊下が眼に入ってくる。
 ……あれ?
 玄関をよくみたら、隅に草履が1組転がっていることに気づいたのだ。旅館の関係者だったらまずい。一瞬、引き返そうかと思ったところでふとある可能性を考え付く。
 「美月、さっきロビーとかにいた旅館の人たちの草履の鼻緒って何色だったか憶えてる?」
 「みんな茶色だったけど?」
 「男女関係なく?」
 こくり。
 「そっか……。ありがとう」
 であれば、問題ない。目の前にある草履の鼻緒はえんじ色だ。絶対に旅館関係者でないとは言い切れないが、これは高確率で先客――それも草履で旅に出るような年配の――だろう。
 ここは囲碁や将棋の聖地だ。年配のファンが見物に訪れていても全く不思議はない。年配の人ならば、あの看板の存在に気づかなかったりしたかもしれない。あるいは、僕と同じようにいざとなったらとぼけるつもりで失敬した可能性もあり得る。
 「先客がいるみたいだから、大丈夫そうだ」
 僕は、悠々と玄関に足を踏み入れた。靴を脱ぎ、板の上に足をつくと、夏の暑さを忘れさせるかのようなひんやりとした感覚が足裏に伝わってくる。
 玄関の正面は壁になっており、日本画が掛けられている。描かれているのは〈風神〉〈雷神〉だろうか。風雷庵にはふさわしそうな絵である。
 玄関前の廊下はすぐ左右に分かれ、それぞれすぐまた直角に折れて延びているようだ。もし、廊下だけを抽出したら、音叉のような形になるだろう。
 本館のほうが三角形や五角形の区画ばかりなので、風雷の構造は一際シンプルに思えてしまう。
 僕は過去にみた写真を思い出す。対局室となっていたのは池が見える方だったから、左側の部屋のどこかだろう。僕たちは、左側の廊下を進んでいく。
 すぐ手前に雷神の間があった。使用者がいないためか、空気が停滞しないようにするためか、出入り口である襖は開いたままになっている。
 部屋を覗いてみると、畳は青々としており、程よいイグサの香が鼻腔をくすぐる。部屋は外光が僅かに差し込んでいて、歩いたりする分には問題なかった。障子に近づくが、外で見た補修用の資材のせいで、やはり庭園は拝めなかった。少し残念だ。
 その後、隣の風神の間も覗いたが、造り自体は同じだった。
 心の中のピースは確かに埋まったものの、こうしてみると激戦の行われた聖地も静まり返った普通の和室である。今は、次の戦いまでの間の休眠期間に入っているかのようだ。
 ……そういえば、対局で使われていそうな和室はすべて見たが、草履の持ち主には出会わなかった。目的が〈聖地巡礼〉でないのか、それともトイレにでも立ち寄っているのか。
 僕の方は一応目的は達成したので、そろそろ引き返しても全く問題はない。
 〈同好の士〉かもしれないが、わざわざ探して挨拶をするほどのものでもないし、あまり長居をしてしまうのは好ましくない。言い訳はいくらでも立ちそうだが、誰にも見咎められないに越したことはないのだから。
 と。
 「どうした?」
 廊下の途中で美月が立ち止まっていた。具合でも悪くなったのだろうか。
 「なんか、向こうから呻き声が聞こえた」
 「呻き……声?」状況的に考えると、最も可能性が高いのは草履の主だろう。
 急病となれば、非常事態だ。ここまで抱えていた懸念はすっぱり割りきって行動しなければならない。
 「探そう!」僕は、美月に眼で合図して駆け出す。美月もすぐに反応して着いてきた。
  風雷庵はそれほど広くはない、一旦玄関前に戻る。〈風神〉〈雷神〉の絵の前を通り過ぎ、反対側の廊下にはすぐたどり着けた。こちら側は先ほどまで見ていたような多目的な和室ではなく、〈給湯室〉や〈お手洗い〉などの機能的な部屋が集まっているようだ。
 「俺は右端を順に見ていく。美月は真ん中寄りを頼む」
 「あ……。うん」
 僕は、素早く一番手前のドアノブを開けて部屋の中に滑り込んだ。まずは〈倉庫〉だ。中は薄暗い。入口のすぐ近くに電灯のスイッチがあったのでそれを入れる。中はそれほど広くない。ざっと見て人がいないのは分かる。物陰にいないとも限らないけれど、苦しむ人間が物陰に隠れるとは考えづらい。詳しく調べるにしても一通り調べてから戻ってくる方が良いだろう。
 次は、〈給湯室〉だ。ここにも人影はなかった。こじんまりとした部屋で、戸棚には綺麗なカップや、コーヒーと紅茶のパックが置かれていた。ここはスペース的にも、頑張って人が隠れられそうにない。
 次は、〈化粧室〉だ。男女が別になっている。草履の主が男か女かはまだ分からない以上、両方確認する必要があるわけだが……。こんな事態とはいえ、女子の方に入ることは憚られた。こちらは〈倉庫〉と同じように後回しにし、後で美月に確認してもらうことにしよう。
 男子の方に入り、空いている個室の中も人がいないことが確認できた。戻ろうとして、ふと頭に浮かんできたことがあった。

 ――こういうときって、単独行動はまずいんじゃないか?
 
 玄関に草履が1組だったからといって、僕たちのほかに風雷庵にいるのが『一人だけとは限らない』じゃないか。土足で上がりこむような――強盗のような奴らがいる可能性だって……!
 さっき僕が駆け出す直前に美月がすぐに言葉を返さなかったのは、そういうことも想定していたからなのか? だとすると、なんたるマヌケだろう。
 頭の中に、犯人グループに捕えられて刃物を押し当てられている美月の映像が浮かぶ。
 美月っ……!
 総毛立ち、僕は慌てて戸を引いて外に飛び出した。と同時に何かと身体がぶつかり、僕は転倒する。身体の痛みは、それほどでもない。自分はその場に尻餅をつく程度ですんだが、相手は拍子に壁に頭をぶつけたようで、ゴンッという盛大な音を立てた。
 もしかして、謀らずも強襲に成功した結果オーライの形なのか? しかし、次はどうする? 継続策がなければ、反撃の機会を与えてしまう。しかし、自分には寝技や護身術のようなスキルは備わっていない。
 喧嘩の趨勢を決めるのは勢いが大事だという。将棋もそういうところがある。僕は堅く握り拳を作り、立ち上がる。
 しかし、それは全て杞憂だった。頭を押さえて倒れているのは、他ならぬ美月だったからだ。
 「っつ……」垂れている前髪の向こうから、なんとなくこちらを睨んでいるような気配を感じた。「頭、痛いんだけど」
 「す、すまん」
 「〈管理室〉にお年寄りがいたよ」頭を押さえながら、美月が言う。
 美月に(大きな)怪我がなかったこと、そして意識が途切れて記憶が失われていなかったことに安堵する。
 「お年寄り? 外傷とかは?」
 「遠目には特に。知らない人には無闇に近づきたくないから」
 間近で調べたわけではないということか、急病ならば一刻も早い応急処置が必要なのかもしれないが、状況が状況だ。……例えばの話、おばあさんが囮になり強襲する、あるいはおばあさん自身が強盗で演技をしている可能性も完全に否定はできない。慎重であることに越したことはない。
 この段階で誰か人を呼びにいく案もあったかもしれない。しかし、「〈管理室〉に老人がいる」だけの情報では、増援部隊も何をしたらよいか分からない。僕は、いやいやながら付き合わされた町内会の救急救命講習を思い出す。少なくとも、呼吸はあるのか、心拍はあるのか、くらいは確認しておくべきだろう。
 二人揃っている今なら、それが最善に思えた。僕たちは改めて〈管理室〉に向かった。
 
 〈管理室〉の扉は洋風だった。取っ手は外から鍵がかけられるようになっているようだが、扉は握り拳大ほどの隙間で開いていた。元々こうだったのか、美月が開けたままにしたのかは分からない。僕は物音を立てないように、静かに扉を開いていく。部屋を覗きこむと、重厚な木の机に突っ伏すように白髪頭がこちらを向いていた。あの人に間違いはないだろう。
 部屋の中は棚や調度品が多いが、隠れることができるようなデッドスペースはなさそうだった。扉の影や手前の壁沿いにも人の気配は感じられない。僕は意を決して、部屋の中に足を踏み入れようとする。そのとき、
 僕の左の掌にギュッと温かな感触が伝わった。
 それは美月の手だった。もしかしたら、手をつないだのはこれが初めてだったかもしれない。こんな状況下というのは皮肉なものだけど。
 最初は「もしかして、怖いのかな」と思った。美月も年相応の女の子なんだな、と。
 しかし、よくよくその感覚を確かめると逆手であることが分かる。美月は廊下の方を向いていることになるのだ。……なるほど、背後の心配をしないで済むようにしてくれようとしているのだ。
 何か異常に気づいた場合は、瞬間的に握力を入れればすぐに伝わる。それは逆もまた同様だ。
 ギュッギュッ。僕は心得たという意味合いで少しだけ力を入れて、二回美月の右手を握る。
 ギュッギュッ。伝心の合図を理解してくれたのだろう、美月の方も同じ合図を返してくれた。
 そして、僕たちは360°に気を配りながら、老人に近づいていく。
 老人は、あまり足腰が強くないのだろうか。伏している机の近くには杖が立て掛けられていた。杖の長さからしても、上背はあまり高くない人のようだ。
 もう触れられそうな位置まで近づいたにも関わらず、老人はこちらに気づく様子はない。
 「あ……、大丈夫ですかっ!?」僕は声をあげる。
 反応はない。
 もしかしたら、耳が遠いのかもしれない。もう一度ボリュームを上げて「あのっっ、大丈夫ですかっっ?」と大声をあげる。
 すると――。
 「わぁっ」という声と共に、老人が上体を起こした。顔を見ると、皺はそれなりにあるものの、なかなかきりっとしたおばあさんだった。無事が確認できたのは良かったが、それならばもう少し穏やかに起こしてあげることもできたかなと後悔する。
 眼が合う。男女の子供が相手とはいえ、こちらとは初対面だ。明らかに、怪しまれている様子だ。
 「あんたたちは誰? ここは、立ち入り禁止のはずだよ?」
 「あ……、えーと……」
 あの看板は、やはり立ち入り禁止の意味合いだったか。すると、このおばあさんも旅館の関係者ということになりそうだ。
 「僕たち、将棋部で……。どうしても見学したかったもので……、すみませんでした」僕は今度は正直に告げた。言葉は思ったよりもスムースに出た。今日はここまで繕った言葉や考えをし続けていたから、それに疲れていたのかもしれない。
 謝ったもののその後の展開は予想もつかない。芋づる式に、大人が不在であることを知られて、強制的に追い出されてしまったりして……。
 「ほぉ、将棋……のかい」しかし、僕の答えにおばあさんは意外にも険しい表情を僅かに緩めた。
 風雷庵のことを知らない者が、このタイミングで将棋というキーワードを出すことは難しいだろう。それが淀みなく出てきたことで、いたずらや盗みといった目的など侵入したのではないということを少しはアピールできたのかもしれない。
 「最近は将棋をする子は少ないって聞くけどねぇ」と自分のことのように残念がる。おばあさんは杖を手にして、「よっこいしょ」と腰を上げる。そのまま、棚に歩み寄り中段のガラス戸を開く。
 その中には――なんと、佐波九段が揮毫した扇子が展示されていた。日付を見ると、あの伝説の棋神戦の最終戦時のものだと知れた。棚はガラス張りなのにここまで全く気付かなかった。佐波九段ファンとしては痛恨の失態だ。
 おばあさんは、なんとそれを僕に手渡してくれた。
 「これは……すごいですね」僕は静かに興奮する。貴重なものだ、落とさないようにしなければ。そう強く思ったためだろうか、紙と木だけでできているはずの扇子が、鉄扇のように重く感じられた。
 「すごいの?」価値をまるで分かってない美月に、僕はあれこれと講釈をする。佐波九段の将棋に対する姿勢、親しみやすい庶民的な人柄、将棋協会理事としての偉大な功績。
 佐波九段は正確には生前八段で、逝去後贈九段となっている。
 遅咲きのプロ棋士で、八段も晩年にA級昇級・棋神戦挑戦者となったことでなったものだ。僕が出会ったのは、まだ六段の頃だった。
 ちょうど僕が小学四年のとき、初めて出場した将棋大会の立会い棋士として来場していた。
 五・六年生に簡単に負かされて悔し泣きをしていた僕に声をかけてくれたのだ。
 「ボク、さっきなんで桂馬を歩のアタマ置いたんだい?」
 聞かれて僕はとても困惑したことを覚えている。それは、〈跳躍(リープ)〉してきた手を指しただけだったからだ。
 「……なんとなく、そうしたらいいのかなって」
 そういう僕の言葉に佐波六段は目を丸くして、そして「キミはもっと強くなれるよ。少なくとも私よりね。私はこの手が見えなかったからねぇ」
 そして、相手の攻めにひるんで受けに回ってしまっていたが、攻め合っていたら一手勝ちであったことを示して、僕の頭をワシワシとして明るい表情で激励してくれた。
 泣いていたはずの僕は、気づけば、勝ったとき以上の興奮と感動を手にしていた。
 それ以来、僕はかかさず佐波六段の棋譜や記事を見るようになっていた。
 同い年の多くの男子が、特撮ヒーローや、プロスポーツ選手に憧れを抱く年齢のころ、白髪交じりの壮年プロ棋士の一挙手一投足に僕は惹きつけられていたのだ。
 「あんた、将棋指すの、好きかい?」
 幸福の絶頂にある僕に、投げ掛けられた他愛のない質問。しかし、YESかNOかで答えられるはずのその簡単な問いに、僕の心は一瞬反応ができなかった。
 そう、僕は一度将棋を嫌い、指さなくなってしまっていた時期があったからだ。
 だからといって、初対面のおばあさんにバカ正直に話す必要性はなかったはずだ。ただ一言「将棋? 好きですよ」とさらりと言ってもそれは嘘でもない。それでいいはずだったのだけど。
 「好きでした。ただ正直に言うと、嫌いになって全く指さなかった時期もありました。でも、俺が本当は将棋が嫌いじゃないって気づかせてくれた人がいたから……。
  今は、以前より好きになっている気がします」
 傍らにいる『恩人』の存在を感じながら、気づけば僕はそう口にしていた。それは、もちろんおばあさんへの回答だったけれど、今まで言う機会を失っていた美月への感謝の言葉でもあった。本当はもっと早く、直接言うべきことだったけれど。
 「良い答えだ」
 おばあさんは満足げに頷いた。
 その後、僕は佐波九段の扇子を手にしているところを美月に携帯端末のカメラで撮ってもらったり、タイトル戦の裏話などを聞いたりとなかなか有意義なひと時を過ごせた。
 「あ、そうだ。あんた達、明日忙しいかい?」
 立ち入り禁止の場所にあまり長居をするのもまずいだろう、そろそろお暇しようかと思っていた矢先、おばあさんがそう尋ねてきた。
 「い、いえ。ある意味ここを見学したら今回の目的は達成したと言うか――」
 「なら、ちょうどいい。年寄りの道楽に付き合いなさい」そう言って和服の裾から一枚の白い封筒を取り出して見せた。
 「……なんですか? これ?」
 僕は照明に透かして中をうかがおうとするが、当然のごとく何も透けて見えなかった。ただ、厚みがあるものではないことは確かだ。
 「明日になれば分かる。これを、明日の朝10時にまたここに持ってくること。いいね?」
 「は、はい……」
 「それと、この封筒は決して開けぬこと。他人に渡してもならぬぞ」おばあさんは真剣な表情で言う。道楽じゃなかったのか!?
 とはいえ、明日の船まで特にすることもなかった僕たちにとっては、ある意味ありがたい暇つぶしなのかもしれない。カバンはクロークに預けてしまったので、封筒は一旦胸ポケットに納めた。
 美月も特に異論は無いようで、携帯端末をいじりはじめる。恐らく、スケジュール帳への記録かアラームの登録でもしているのだろう。
 僕が快諾すると、一転しておばあさんは礼を述べて初めて柔和な表情を浮かべる。なかなかの曲者である。
 「長居をしても申し訳ないので、僕たちはそろそろ。貴重な扇子も拝見できましたし、来て良かったです。
  でも、せっかくの綺麗な庭園が見れなかったので、欲を言えばもっと早くに来れば良かったです」
 「もっと早く……? ちょいと今、なんどきだい!?」
 僕の言葉におばあさんは少し何かを思い出したような表情を浮かべて、時間を尋ねてきた。
 「あ、えーと今は11時過ぎたところですね」腕時計は短針がわずかに11を過ぎた辺りを指し示している。僕は、おばあさんにも見えるように右腕を傾けた。
 「本当だ! ちょっとうたた寝するつもりが随分寝てしまったんだね」
 おばあさんが少しせわしない様子になってきたので、僕は気を利かせてすぐにお暇することにした。
 部屋を出ようとしたとき、おばあさんがハッとなって僕たちを呼び止めた。
 「あと、もう一つ!」
 「え? なんで……しょうか?」
 「アタシがここにいたことも、秘密にしといてくれよ?」
 「あっ、はい……」
 理由まではよくわからなかったが、そのくらいの追加事項は容易いことだ。
 「お約束します」僕は頷いて、風雷庵を後にした。
 
 美月と二人で来た道を静々と戻る。
 「なんだか、少しドキドキしたね」後ろを振り返らず、僕は言う。
 「そう?」
 美月からは素っ気ない返事が返ってくる。さっきぶつかった件を根に持っているのかもしれない。
 一方で、僕は結構満足していた。短時間、かつ、結果がいまいちではあったが、スリルの混じった体験ができたし、貴重な扇子も間近で見ることができた。明日の10時に待っている、頼まれごとも何かが起こりそうで面白そうだ。
 例の立て看板を過ぎた辺りで、前方から二人のニンゲンが駆けてくるのが見えた。いずれも真剣な表情を浮かべている。よく見ると、二人ともこの旅館の従業員の衣装を身に着けている。
 僕は緊張する。彼らは僕たちの姿をみとめると駆けるのをやめ、早足程度にペースダウンをした。明らかに、僕たちに要件があるようだ。
 一人は中年女性で、眼には力強さがあった。働く女の眼、と言う感じだ。この人、どこかで見たことがあるような……。
 もう一人は、綺麗なスキンヘッドの小男だ。ヒゲも綺麗に剃っているため、年齢不詳だ。
 「つかぬことを伺いますが……」こちらが尋ねるより早く、中年女性の方から積極的に話しかけてきた。
 「ごぜんさ……いえ、杖をついたおばあさんを庭でご覧になりませんでしたか?」
 午前? 最初の言葉の意味は良く分からないが、おばあさん、そして、明らかに居場所を捜索している雰囲気――。まず、間違いなく先ほど会ったおばあさんのことを示しているのだろう。
 駆け足で、しかも客に尋ねてまで探しているということは相当重要な捜索なのかもしれない。しかし。
 
 ――アタシがここにいたことも、秘密にしといてくれよ?
 
 おばあさんとの約束を思い出して、僕は悩む。しかし、ずっと黙ってはいられない。沈黙もまた答えになりかねないからだ。悩んだ末……、
 「いえ、特に見かけませんでしたけど」そう答えた。
 「そうでしたか、大変失礼しました」二人は深々とお辞儀をすると、すれ違い奥のほうへ消えていった。
 「あの人たちに悪いことをしちゃったかな」
 二人の姿が見えなくなったことを確認して、僕は美月に話しかける。
 しかし、美月の方は特に一連のやりとりに思い悩んではいない様子だ。
 「いいんじゃない? 『庭では見ていない』んだし」と返答してきた。
 む? あ、確かにそれはそうかもしれないけど……。なんだか禅問答のようだ。
 「あのおばあさん、結構凄い人だったのかな」
 「そうじゃない? 御前さまって呼ばれているみたいだし」
 あぁ、あれは御前さまって言いかけていたのか。なるほどなるほど。
 「でも、御前さん見つかっちゃうかな」
 途中にある立て看板も、旅館関係者には当然無効だろう。風雷庵の中も当然くまなく捜索されるはずだ。先ほど、僕が捜索した限りでは関係者を欺けるほど優れた隠れ場所はなさそうに思えた。
 そして、庭園は色々な小道が伸びているが、この辺りから先は風雷庵まで一本道になっている。道なき道を行く手も無きにしも非ずだが、杖を使っているおばあさんには難しいだろう。あの杖がダミーならば話は別だが。つまるところ、あの二人と鉢合わせになる可能性は限りなく高いだろう。
 来た道と違う道を選び、再び景色を堪能しながら回遊する。そして、館内と庭園との出入り口の付近まで戻って来た。
 「あれ?」
 その出入り口付近で、見知った顔を二人、立っているのが遠目に見えた。それは先ほど別れた、丸井兄弟――豪傑さんと館主さんだった。
 美月が僕の服の裾を引くのと、丸井兄弟が僕たちの存在に気づくのはほぼ同時だった。二人が、僕たちの方に向かってゆっくりと歩いてくる。
 「お二人さま、庭園はいかがでしたか?」
 「え? ええ。なかなか綺麗で、素敵でしたよ?」
 「それはそれは。お褒めの言葉、嬉しく思います」館主は目尻に皺を寄せて微笑む。
 「はっはっは。そうだろそうだろ。どうせなら、食える植物が生えてるといいんだがなぁ」豪傑さんは近くの木の幹をバシバシと叩く。
 「そうだ! せっかくですから、いい所にご案内して差し上げましょう」館主さんが妙案をいま思いついたといったように手を叩く。
 ん? いい所? もしかして……。
 「風雷庵という建物がありましてね。囲碁や将棋の対局なんかにも使われているのですよ。
  ただ、今は補修工事中なので庭を眺めることができないのですが……」
 風雷庵という言葉に、一瞬ドキッとなる。顔に出てはいなかっただろうか。こういうとき、美月のポーカーフェイスが非常に羨ましくなる。
 「無理にとは言いませんが、よろしければ」
 どうしたものだろう。どちらと言われれば、風雷庵には戻りたくない気分だ。
 もう既に、見たいものは見てしまったし、もし御前さんや先ほどの従業員2人と再会したときには多少なりとも演技が必要そうだ。
 お気持ちだけ頂きます、と返そうとするが。
 「いやいや、せっかくだから見といて損はないぞ!? どうせチェックインまでの時間もまだまだたくさんある。
  〈給湯室〉があるから、コーヒーでもどうだね?」
 そこまで言われてしまうと断りづらい状況だ。美月は表情で苦労することはないだろうし、コーヒーが飲めるなら文句もないはずだ。
 とりあえず、一通り見物した振りをしたら、昼食を理由にでもして速攻で退却させてもらう作戦を企てた。
 館主さんが先導し、僕と美月、最後尾が豪傑さんという並びで僕たちは風雷庵に向かっていた。
 僕たちは風雷庵を知らないことになっているのだから、丸井兄弟のいずれかが風雷庵への先導をかって出ることは当然ではあるが、地味にありがたいことだ。
 実際は一度訪れてしまっているので、一直線に辿り着いてしまったりなどすると不自然極まりない。それでも、周囲の景色を眺める仕草や足捌きに慣れが現れないように注意をしなければならない。
 本日3度目になる石橋と灯篭の前を過ぎて、風雷庵に辿り着いた。
 「先ほど申し上げましたとおり、あのような有様なのですが」館主さんが建物の脇の方を指差して苦笑する。
 ……はい、よーく知ってます。
 豪傑さんが扉をガラガラと開ける。僕たちは促されて、玄関に入る。すると。
 見覚えのあるえんじ色をした鼻輪の草履と、茶色い鼻輪の草履が2組並んでいた。なるほど、御前さんと二人はどうやら出会ってしまった、というわけか……。
 扉の音で気づいたのか、廊下を歩いてくる音が聞こえる。現われたのは、先ほど出会ったスキンヘッドさんだった。僕は、何か言われるかと身構えていたが特にそういう様子はない。
 館主さんが、「お飲み物はコーヒーで良いですか?」と尋ねてきた。僕たちは小さく頷く。
 「では、人数分淹れてもらえますか?」館主さんの言葉を受けて、スキンヘッドさんは短く返事をして戻っていった。
 履物を脱いで、僕たちは〈談話室〉に通された。ここは建物の真ん中寄りの一番玄関に近い位置にある。さっきは美月が確認に入ったので、僕は入ること自体は初めてだ。
 室内には、先ほどの中年女性しかいなかった。御前さんの姿は見当たらない。ここにいないということは、まだ〈管理室〉にいるのだろう。
 勧められたソファーに、僕たちは腰を下ろした。身体が適度に沈み込むのが心地良く、身体が休まるのを感じる。
 良く考えると、ここまでずっと動きっぱなしだったのだった。
 〈談話室〉を見回すと、絵画に混じって文字の書かれた額縁が眼に入った。
 僕の視線に気づき、館主が説明をしてくれる。
 「あれは、冷谷山二冠が棋神を獲得して三冠になった日に揮毫した色紙ですよ」
 先ほどの〈管理室〉にあったのは佐波九段の逸品で、こっちにあるのは冷谷山三冠の逸品か。さすが、聖地。これもファンには垂涎ものだ。価値のつけようもない。
 「将棋の冷谷山三冠はご存知ですか?」
 「えぇ、はい」
 即答した僕に、豪傑さんが「な、なんと!」と大仰に驚く。
 「むむむ……。やはりタイトルの一つも獲得しないと、学生諸君の知名度は得られんものかー」大げさなことに頭を抱えている。
 あ、いや……。少しいたたまれなくなってしまう。僕の場合、将棋棋士の知識がかなりあるので一般的な高校生の参考にしてしまうのは問題だと思われます。
 「コーヒー淹れましたよ」丁度、スキンヘッドさんがやってきたので僕は補足の機会を失ってしまった。すみません、豪傑さん。
 全員にコーヒーカップが行き渡ったところで、早速一杯頂くことにした。
 あ、なかなかいい奴だ。苦味よりは酸味が強いタイプのようだ。しかし、クセは少なくて飲みやすい。
 「美味しいね」隣の美月に意見を求める。
 「うん」
 しかし、様子を見ているとカップはそれほど傾けていない。どうしたのだろうかと横顔を観察していると、僕にだけ聞こえるような小さな声で答えがやってきた。
 「……猫舌だから」
 あ……そうだった……、っけか? 不覚。美月のことは色々と知っていたつもりになっていたが、まだまだ知らないことが多いようだ。
 それにしても、猫舌って。ウィークポイントが全然なさそうにみえるだけに、そのギャップは可愛らしいと思う。
 コーヒーの香りが部屋の中にも広がり、場が和んできた頃、館主さんが口を開いた。
 「あ、紹介が遅れましたが。そちらが、姉の丸井サラ。当旅館では女将を務めております。そして、そちらは弟の丸井ケイキ。旅館では料理長を務めております。つまり……」
 「おれたちは、4人きょうだいと言うこった」せっかちにも豪傑が発言を横取りしてしまった。
 なるほど、『丸井沙羅』と『丸井敬基』か。パンフレットで覚えのある名前だ。しかし、パンフレットに載っていた沙羅さんの写真は少し映りが良すぎるような気が……と、こんなことを思っちゃいけないいけない。
 「きょうだいが4人揃うのは随分と久し振りのことなんだ。一年、いや二年ぶりくらいか?」
 「新吾が6段になったばかりのころだから、三年以上は経ってるでしょ」沙羅さんがさりげなく豪傑さんを攻撃する。勝負の世界は厳しい。結果が出ないときは、苦しい時期が続くものだ。それは囲碁の世界にも限った話ではない。
 「そういえば」僕はふと、思ったことを口にしていた。「丸井6段は、長男なんですか?」
 「はっはっは。そうだが?」
 すると、館主が僕の質問の意図に気づいたらしく補足してくれた。
 「丸井家では囲碁棋士を輩出するのが悲願だったのです。これは丸井家の家紋なのですが……」
 そういって、館主さんは懐から手ぬぐいを取り出す。そこには丸い輪の中に漢字の〈井〉のような線が二本ずつ引かれていた。
 「井形の部分を碁盤、丸の部分を碁石と見立てると、この家紋は囲碁と縁がありそうだと代々の当主は考えていたようです。
  これまで、この旅館の館主は長男が務めてきたのですが、新吾兄さんがプロになれると知ると、わたくし達の父、千兵衛は大いに喜びその道を許したのです」
 「はっはっは。ちょうど、おれはこういう商いの才能がからっきしだったろうしな! って、なんで笑うんだ!?」
 「小さい頃、『温泉潰して全部プールに改装してやるぜ』とか言ってたのには驚いたわ。
  逆に、さりげなく囲碁の道に興味を持つように仕組まれていたんじゃない?」
 「……あり得なくはないですね」
 その後、いくらか会話は続いたが、雰囲気としては一段落した様子に見えた。当初の予定通り、そろそろ離脱する方向に持っていこうかな。
 そう思っていた僕に鋭い質問が投げ掛けられた。
 「ところで……。その、胸ポケットの封筒はなんですか?」
 そう言われて、僕は封筒をずっと胸ポケットに挿して歩いていたことに気づいた。
 「っと、これは……」
 少しまずいことになった。御前さんとの約束の趣旨からしたら、早々に人目につかないように持ち歩くべきだったのだから。
 「詳しくは言えないんですけど、預かり物なんです」
 今の僕には、そうとしか言えなかった。
 「預かっとる? 誰からで?」スキンヘッドさんも加わってくる。
 「えーと、それも……すみません」
 「実はですね。わたくしたちは封筒を探していたのですよ」
 「えっ……?」
 「御前さま――わたくし達の母にして前オーナー夫人、現オーナーの丸井ぼたんが、封筒を探すように、と言っておりましてね」
 僕に封筒を託した御前さんが、すぐに封筒を探すように言った理由は未だに理解できないが、僕たちが風雷庵に招待された筋書きはなんとなくわかってきた気がする。
 御前さんを探していた沙羅さんとスキンヘッドさんが風雷庵で御前さんと会い、封筒を探す旨を聞いた。
 僕の胸ポケットに見慣れない封筒があったのを思い出し、内線かなにかを使って、本館にいる館主さんと豪傑さんにそのことを伝えた。
 本館との出入りは一箇所だけなので、そこで待機して僕たちに声を掛けて風雷庵に招待した。
 ただ、事情聴取をするだけならどこでもできる話だ。しかし、一般客がまず近づかない風雷庵に呼び込んだ訳だから、込み入った事情があることは確かだろう。
 この『宝探し』みたいな展開は、御前さんが仕組んだイベントそのものなのだろうか。それにしては、スタートが早すぎる気がするし、御前さんが姿を現さないのも不自然に思える。
 何かの行き違いや、アクシデントがあったのだろうか。いずれにしても、ごまかしが続けられるにはきつい状況だ。
 「分かりました、正直に言います。これは、ここの〈管理室〉で会った御前さまから預かったんです。でも、明日の10時までは誰にも渡さないように、といわれていて……」
 正直に話したものの、丸井さんたち4人はあまり納得した様子はない。
 こうなるとやはり、本人に証言してもらうほかないかもしれない……。
 「あの……。御前さまと会わせてくれませんか? まだ〈管理室〉におられるでしょう?」
 先ほど、玄関に草履があったことを思い出す。明日の朝、何をする予定なのかは分からないが、ここで封筒を開封されて台無しになることを考えれば、僕の招いたミスとはいえさすがに庇ってくれるだろう。
 僕の要求に4人の兄弟は顔を見合わせた。
 「良くご存知ね。でも、会っても何も変わらないわよ」
 反応は驚くほど否定的なものだった。御前さま、と呼ばれるだけあってその地位は相当に高いはずだ。その証言を聞くことにも否定的というのは一体……。
 「……いいでしょう」そんな態度をしている3人とは異なり、黙っていた館主さんが口を開いた。「ここにいても話は進みそうにありませんし」
 そして、僕たちは〈管理室〉へ向かうことになった。
 
 〈管理室〉の扉の前に着く。先程去ったときと特に変わったところはない。
 館主は懐から鍵を取り出すと、静かに開錠をする。
 ん? 鍵?
 疑問を消化するよりも早く、扉は開かれた。そして、部屋の中を覗き込んだ僕は息を呑む。
 視線の先には確かに、先ほど僕たちが会話をしていた御前さんはいた。
 ただし、床に仰向けで倒れた状態で――。
 今度は、眠っている訳ではない。部屋に入らずとも、それがはっきりと分かってしまった。
 御前さんは白目を剥き、口許からは泡の混じった唾液を垂らしている。両手は意識を失う直前まで抑えていたであろう、胸元の衣服を掴んだまま。……そして、その肢体は微動だにしていない。
 僕は自分自身を褒めてやってもいいと思った。突然目の前に訪れた非日常に動転したり、ましてや失神したりもせず、瞬間的に部屋の中に飛び込もうとしたのだから。
 こういう場合、心肺蘇生と気道確保が最重要なのだ。一秒でも遅れれば落命の確率が高まってしまう。
 しかし、脚は空回りしてそれは叶わなかった。僕の両肩は太く逞しい腕にがっしりと掴まれていたのだ。それが豪傑さんのものだ、ということはすぐ理解できた。
 「なんで……ですか!?」僕は、抗いながら言った。
 「現場保存。常識でしょう?」
 さらりと放たれた沙羅さんの一言に耳を疑う。
 現場保存、って。
 顔を廊下にいる沙羅さんに向ける。
 その視線は、先ほどとはうって変わって冷たいものとなっている。
 その豹変振りに背筋が凍る。
 「さて。わたくし達も戸惑っているのです」同様の温度感で館主さんが語り始める。
 「このところ寝たきり状態だった御前さまが行方不明となり、捜索の結果、風雷庵で会うことができました。
  しかし、御前さまこの状態で、近くには空になった薬ケースが転がっていました。
  それは一日に一個、就寝前しか飲んではいけない薬なのですが……。そしてうわごとのように、『封筒、封筒』と繰り返すばかりなのです」

 コノ人達ハ何ヲ言ッテイルンダ?

 そのとき、僕の脳裏には7月上旬に母と観た、〈金の砂時計〉というサスペンスが蘇っていた。
 俳優が浮かべていた、どこか自然さが微妙にズレた表情が、いまこの4兄弟が見せているものと重なっているのだ。
 自分の中の緊迫指数が急上昇していくのを感じる――。
 「恐れ入りましたよ。まさか、こんな若い人たちがなさるとは。これは辣腕の御前さまが油断しても致し方ない。
  今、円先生がこちらに向かってくれてはおりますが、保つでしょうか……」
 「ぼっ、僕たちは……何も、して、ないですよ!?」そんな言葉を無意識のうちに呟いていた。
 「はっはっは。まぁそういうこたぁ、専門の人らに任せるとして、な。もうちょっと色々と話を聞かせてくれんか?」
 豪傑さんの笑みはこれまでと変わらない自然体のものだった。それが逆に、恐怖感を煽るのには効果的だった。
 何が起きているんだ? この4人の中の誰かに真犯人がいて、僕たちを陥れようとしているのか?
 いや、待てよ。御前さまが倒れているのに、この人たち妙に落ち着きすぎてないか? 誰か一人くらい、僕と同じように蘇生を試みる人がいたって、おかしくないだろう?
 もしかして、全員グルという可能性が?
 ……どうする? どうする!?
 この雰囲気は非常にまずい気がする。僕たちは無実だ。でも、明らかに分が悪い。ここは離島であり、彼らが管理する旅館のさらに一部のニンゲンしか近づかない建物なのだ。口裏を合わせられたりしたら、100%ではないにしても、冤罪になる可能性は十分にありうる。
 せめて公正なニンゲンのいる環境で話を聞いてもらわないと……。
 上手くこの人たちを掻い潜って本館までたどり着き、一般客の多いロビーで自分達の無実を主張する。それくらいしか、案が浮かばない。
 しかし、僕一人で駆け出してもダメだ。美月を残していくわけには行かない。
 僕は先ほど美月と行動したときのことを思い出していた。あの時、眼の合図ですぐに伝心して、動作できた。そうだ、今回もきっとうまく行くはず……。
 静かに、深く呼吸する。丹田に力を入れる。
 ……よし。
 次の瞬間、美月に一瞬眼で合図を送り、僕は駆け出した。
 はずだった。
 「あ……っ?」
 しかし、意識とは裏腹に体は動かなかった。気づけば、平衡感覚もどこかおかしい。これは一体……?
 「そろそろ効いてきたようね」
 「ね、あっしの言ったとおりでしょう。若い子は代謝がよろしいと」
 まさか、さっきのコーヒーの中に……?
 そんなフィクションみたいなことを実際にされるとは思ってもみなかった。
 あれこれと思索する時間さえ僕には与えられなかった。とめどなく押し寄せる強烈な眠気の波に、僕の体は抵抗できなかった。
 普段、授業中に寝たりする癖がなければ、耐えられただろうか。意識を失う直前に考えたのはそんなくだらないことだった。

 

 小説『All gets star on August =星の八月=』(2/4)に続く

 

小説『Sum a Summer =総計の夏=』(5/5)

第五章 『7月7日(月)』

 

 放課後になった。勝負のときは確実に近づいている。一旦、部室で待ち合わせ、最後の打ち合わせを済ませることにした。
 開始予定時刻まであと20分ほどだ。美月は詰将棋の本を読み、泉西先生は瞑想(?)をしている。
 美月は普段どおりの無表情。特に緊張している様子は無い。
 泉西先生もまた落ち着いているように見える。毎日人前に出る教師だから……というわけではなく、こちらも単純に性格のような気がする。
 緊張し始めているのは僕だけか……。
 「よ……し、そろそろ――」
 開始予定時刻まであと10分になったところで、二人に声を掛け、僕たち将棋部は戦いの場へと出陣した。
 
 サーバールームに着くと、大江老人と斎諏訪が既に会場設営を終えて待っていた。
 「3人来た、とぃぅことは不戦敗を告げに来た訳じゃなさそぅだな」
 「もちろん……」
 不敵な態度に泉西先生は大いに眉をひそめ、美月も僅かに眼を細めた。
 「結構。今日の勝負に挑む、我が電算研究部のメンバーを紹介しょぅ。先鋒の〈ヴィシュヌ〉、中堅の〈シヴァ〉、大将の〈オーディン〉だ」
 確か、インド神話でヴィシュヌは創造、シヴァは破壊を司る神だったはずだ。詰将棋の創造と、その破壊にそれぞれイメージを重ねたのだろう。
 オーディン北欧神話最高神にして魔術と知識と戦の神だ。
 なかなか凝ったネーミングではないか。
 「将棋部は、先鋒が顧問の泉西先生、中堅が部員の織賀美月、大将が部長の瀬田桂夜だ」
 紹介すると、斎諏訪は美月の全身を品定めするかのように観察している。さすがの斎諏訪も、部員に女子――それもなかなかの綺麗どころ――に少なからず驚いているようだ。
 「ほんじゃ、始めようかいの。今日、立会いを務める大江澄輝じゃ」大江老人が立ち上がり、挨拶を行う。
 「電算研究部からはコンパイル済みプログラムを3本、既に預かっておる。また、〈びすぬ〉と〈しば〉は共にスタンドアロン――即ち、両者の間で情報のやりとりをしていないことはワシが保証しよう」
 「分かりました」元々、斎諏訪は俺との勝負以外は前座だと位置づけていた。だから、不正をする理由はないと思っていたが、その言葉のおかげで心配事はひとつ消えた。
 「まずは、一戦目の『詰将棋解き』より行う。各位準備を」
 大江老人に促され、泉西先生と斎諏訪が前にでる。
 「はっはっは。問題を作ることにかけては、右に出るものはいないぜ!」
 「……」
 斎諏訪も国語のテストでは一杯食わされた口なのか、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。
 立会いの大江老人が二つの小箱にそれぞれ将棋の駒が入れ、それぞれ数回揺する。そして、それを泉西先生と斎諏訪の前に置いた。
 斎諏訪は小箱に腕を入れると、躊躇いもせず手を抜き出す。その手の形はさながら玉杓子のようだ。眼一杯の駒を取り出した。
 駒の数が少なくても手数の多い問題は作れる。しかし、難易度はどうしても落ちてしまう。
 第二戦でコンピュータの演算速度を最大限に生かすためにも、駒の数の多い複雑な問題が有利と判断したのだろう。
 当然、複雑度が高いと作成に時間が相当かかるはずだが〈ヴィシュヌ〉の性能に相当自信を持っているのだろう。
 しかし、こちらも無策で臨んだわけではない。
 「HAHAHA! その程度か。俺のを括目して見ろっ」
 対する泉西先生が取り出した駒を見て、僕は確かに括目してしまった。
 飛車2枚、角行1枚、金将2枚、銀将2枚、桂馬1枚、香車3枚、そして歩兵が12枚……。
 って、話が全然違うじゃないかー!
 「子供の頃、飴玉の掴み取りコーナーを駄菓子屋の経営危機の原因に転じさせた腕は伊達じゃないぜっ」
 「だーかーらっ。そんなに駒取っちゃってどうするんすか――!」
 してやったり顔の泉西先生に僕は精一杯批難する。当然、あとの祭なわけだけど。
 僕たちの作戦はこうだった。
 泉西先生が「大学生の頃、麻雀で鍛えた盲牌の力をいかんなく発揮できるぜ」と言っていたので、既存の長手数詰将棋を再現してもらうことにした。
 盲牌とは、指先の感覚だけで牌の表面の文字を読み取るテクニックだ。木製でもプラスティック製でも、ほとんどの将棋の駒は表面が彫って文字を作っているので、この能力が活かせるわけだ。
 僕の叫びなのか、読心したのかは不明だが、泉西先生ははっとなり「すまん、つい……」と頭を掻いている。全く、この人は……。やはり、僕か美月が先鋒を兼任すれば良かったか。
 兎にも角にも、勝負は進めざるを得ない。
 泉西先生はカーテンを一枚隔てた向こう側で問題を作成、完成したらそれを大江老人に入力してもらう手はずになっている。
 ちなみに斎諏訪は、〈ヴィシュヌ〉を起動するだけとのことだ。完了したら、画面にその旨だけが表示されるらしい。確かに、作成途中を見てしまっていると、詰将棋解きのときに斎諏訪が有利になってしまう。
 泉西先生が自ら選んだ駒を両手に持ち、カーテンの向こう側に行こうとする。
 「センセ」
 「……?」
 美月が泉西先生を呼び止める。その顔は僅かに青醒めている。
 「頑張って」
 「ん、あ……ああ」
 ある意味残酷なエールといえる。泉西先生の姿は完全に見えなくなった。
 「よし、でははじめるぞい。用意――スタート!」
 斎諏訪はモニタの前に座り、キーボードで私用する駒の種類と数を入力していく。
 カーテンの向こう側では、駒を動かしている音が聞こえ始める。
 斎諏訪は入力を終えてエンターキーを一度押す。そして、腕組をしたまま、自信満々の表情を浮かべている。
 1分半が経過した頃、斎諏訪が呟いた。
 「……〈ヴィシュヌ〉が作り終えたようだな」
 モニターを伺うと「作成完了 01:34」とだけ表示されている。
 その後、制限時間ギリギリで泉西先生が「できた」と声をあげ、作り終えた合図を送ってきた。大江老人と入れ替わりに、泉西先生が戻って来た。
 「HAHAHA……。なかなかの力作だぜ……?」
 すっかり憔悴しきっていた。最初の勢いはどこへやら、だ。
 いやしかし、不戦敗を選ばなかったあたりは、評価してあげなければならないかもしれない。
 一戦目で作ったこの問題は、二戦目で初めて解くため、現段階では勝敗は確定できない。しかし、二戦目の重要さは増したといえるだろう。
 
 「さて、次じゃ。詰将棋解き行う。各位準備を」
 大江老人に促され、美月と斎諏訪が着席する。美月の前には、問題が解けたときに合図を出すためのボタンが置かれた。(〈シヴァ〉が解けた場合は自動的に同じ音が出る仕組みらしい)
 いよいよか。僕は、美月の表情を伺う。
 いつもの無表情。しかし、それが逆に僕を安心させた。いつもの、いつも通りの美月でいてくれれば十分勝ち目はある。
 斎諏訪は指を鳴らし、キーボードのフォームポジションに両手を置く。
 「キミ、瀬田に弱みでも握られてんのかぃ?」
 「……」
 「キミみたぃな女子が将棋やるはずなぃもんな」
 「……」
 それに関しては僕も初対面のとき、同感だったが。
 「かわいそうに。こんな勝負に狩り出されて、敗北感まで味わわされるなんてな」
 コンピュータの演算にニンゲンが適うわけが無い。それについては僕も同感だ。だが、美月は普通のニンゲンはないのだ。そこだけは認識が違う。勝負はまだ負けと決まったわけじゃない。
 「さて、はじめるぞい」
 大江老人がエンターキーの上に指を置く。
 「用意……」
 頼んだぞ、美月!
 「すたあと!」
 号令と、キーを押下する音と同時に、モニターに問題となる詰将棋が二つ映し出された。
 これは……!?
 僕が驚いたのも無理はない。一つは微かに見覚えがあるものだった。確か、僕が持っていた古い詰将棋の本の最後の方にあったような気が……。
 そうだ、確か37手詰めの大作だ。そこで、ハッと気づく。
 もしかして。そう思い、泉西先生の方を伺うと、片目ウインクを返してきた。むむ、そういうことだったか。
 美月は駒の種類と数から、自分がインプットした詰将棋の中に偶然一致する長手数の問題があったことに気づいたのだろう。
 そして、泉西先生を呼び止め、心の中で盤面を説明した。泉西先生は、それを盤面に再現していったのだ。
 これなら、美月にとって一問はパスしたも同然だ。将棋部的には、全てが順調に進んでいるように思えたがしかし。もう一つの問題、すなわち〈ヴィシュヌ〉の作った問題が曲者だった。
 その第一印象は……、『非常にカオス』だった。
 9×9のマス全体に散らばる駒、持ち駒も多い。パッと見、50の手数以下で詰むとは思えなかった。そもそも、本当に詰将棋として成り立っているのか。
 斎諏訪は物凄い速さでタイピングをしている。恐らく、キーの入力も効率化しているのだろう。
 美月の方は……というと。
 おい、こらこら! 頭を抱えて机に突っ伏しているではないか!
 斎諏訪が問題入力をしているこの間も、考慮時間だということを伝えていなかっただろうか。いや、確かに最後の打ち合わせでも伝えたはずだ。
 僕は後悔の念に襲われた。少し、コンピューターを侮っていたかもしれない。いくら、美月の能力が並外れたものであったとしても、無茶な対決だったのだのかもしれない。
 将棋部の存続が掛かっていたとはいえ、僕と斎諏訪の因縁が勝負の発端だったといえる。それに、無関係の美月を巻き込んでしまった。
 日頃の素振りからしても、美月は自分の能力には自信を持っている。だからこそ、無茶とはいえ『勝負で負けた』という事実が心の傷になってしわないだろうか。
 僕の苦悶など露知らず、斎諏訪はキーボードを叩くのをやめて振り返る。
 「さて、問題入力完了」
 そして、隣の美月の様子にも気づいたのだろう、斎諏訪が余裕の笑みを浮かべる。
 「悪ぃな。ぉれは女子供にも容赦はしなぃ性格なんだ。……解析開始!」

 ――ダンッ。
 
 斎諏訪が力強くエンターキーを押すと、積まれていたコンピュータ群が低く唸り始める。
 恐らく、大量のCPUを使うためファンが一斉にまわり始めたのだろう。それは洞窟の奥に潜む魔物が動き始めたかのような、不気味さを感じさせる音だった。
 
 そして。
 
 ――――ピッ!
 
 回答権を求める電子音が鳴り響いた。
 「まぁまぁのタイムか」斎諏訪が鼻を鳴らす。
 〈シヴァ〉の出した解答を読み上げようとしたところで、何かに気づき、固まった。
 僕も気づいた。〈シヴァ〉の画面に変化はない。コンピュータも、以前唸りを上げ続けている。
 電子音が鳴ったのは、斎諏訪の方ではなく、美月の方だったのだ。
 「バ、バカなっ!? 本当は解けてなんかなぃんだろ? ぁ?」
 「……」
 美月が顔を上げ、垂れていた前髪をかきあげる。
 「もしかして、バカなの? そんなことしても意味ないじゃん」
 現れたのは相変らずの無表情。歯軋りをしている斎諏訪を見つめ返している。
 「センセの方から。4二飛車……同金……」
 美月は淀みなく答え続ける。大江老人が、急いでそれを記録し始める。
 「……同桂成らず……4一玉……5一と金までの37手詰め。次――」
 丁度その時、ピッと音が鳴った。〈シヴァ〉が解き終えたのだ。本来なら、斎諏訪に勝利の喜びをもたらすはずの音だったはずだが、今はそれが空しく聞こえる。
 「4四角……、同桂……、2四飛車……、2三歩……、3四桂……、3一玉……」
 美月はなおも淡々と答えを口にしていく。
 最初は興奮していた斎諏訪も、自身の目の前に映し出された〈シヴァ〉の出した答えを目で追ううちに、表情は固まっていく。
 「……7八玉、6八竜、8九玉、7九金、9九玉、8八竜まで117手詰め」
 静まり返る室内。
 「どうなんだ?」
 しかたがないので、僕が促す。
 はっと我に返った斎諏訪が、様々な表情がごちゃまぜになったような表情を浮かべて「あ……、合ってる」と吐き捨てた。
 僕が親指を立てて「やったな」と合図を送ると、美月は僅かに眼を細めて「トーゼンでしょ」と応えた。
 「一旦、結果をまとめるぞい。第一戦目は117手詰めを作った、電算研究部の〈びすぬ〉の勝ち。第二戦目は将棋部の織賀くんの勝利じゃ」大江老人が宣言する。
 将棋部としては十二分の結果だ。泉西先生は負けてしまったが、意味の有る問題を構成できたことで〈シヴァ〉の解析時間を余計に消費させることができた。
 美月の方は、文句なしの結果だ。今、あとから検証してみると、勝因はいくつかあったことに気づく。
 まず、泉西先生との連携プレーにより、実質的に解くべき問題が一問だけに減り、〈ヴィシュヌ〉の問題に集中できた。
 そして、美月の『演算』能力は想像以上だった。正直、僕もここまで凄いものだとは思っていなかった。
 突っ伏していたのは、視覚情報が遮断するため、頭を抱えているように見えたのは耳を塞いで聴覚情報を遮断していたのだろう。

 さて、これで終わりじゃない。ここからは僕の番だ。
 「調子に乗るなよ、〈オーディン〉こそ俺の集大成だ」
 斎諏訪の方も考えは一緒らしい。その眼には再び力が戻ってきている。
 「望むところだ」
 僕も一歩も引かない。正直なところ、感情の通わない未知数の敵を前にして不安な気持ちもそれなりにある。だが、戦う前から相手に呑まれていては、熱くなったとき以上に勝てない。
 〈オーディン〉の準備ができたらしい。立会い人の大江老人が振り駒を行ってくれた。その結果、先手が僕、後手が〈オーディン〉と決まった。
 一つ深呼吸する。
 そして、歩を掴むとそれを一つ前の桝に高らかな音で打ちつける。
 
 ――ピシッッ

 初手、1六歩。これが僕の選んだ作戦だ。
 「……ほう?」
 それを見て、一定以上の将棋の経験を持つ斎諏訪は呟く。
 一般的に、コンピュータ将棋の序盤は蓄積した棋譜に一致したものに従わせることが多い。。
 将棋の攻守には様々な種類がある。序盤はその可能性がありすぎて、全ての可能性を検討しようものならどれだけ時間があっても足りない。だから、過去に指された記録を利用することでその時間を大幅にカットし、疑問手を減らすことができるのだ。
 だから、それを外しに行った。
 将棋には有用な初手が大きく二つある。7六歩、2六歩だ。前者は大駒である角行の利きを通す手、後者は大駒である飛車の利きを通す手だ。ほぼ9割近くがこのどちらかであると言ってもいいくらいだ。つまり、初手1六歩を選択した時点で、〈オーディン〉の持つ知識の9割を封印しようとしたのだ。
 斎諏訪がキーボードを叩き、僕の手を入力する。すると、コンピューターが一斉に唸り始める。そして、〈オーディン〉が手を選択した。
 
 ――ピシッ
 
 3四歩。斎諏訪がディスプレイに表示された手を僕の前で再現する。角行の利きを通す有力な手だ。
 念のため、奇をてらった手を連発するのも一つの作戦かもしれないが、相手の実力が分からない以上リスクが高いと思われた。次の手からは一般的な流れに回帰させることにした。
 (ん?)
 数手進んだところで、僕は気付く。〈オーディン〉の手がすんなりと出てくることに。
 斎諏訪と眼が合う。その眼は不適に笑っていた。
 「悪いが、キミの作戦はお見通しだ」
 「なに?」
 「とぼけても無駄だよ。変わった手を指して棋譜参照を無効にしようとしただろう。だが、〈オーディン〉はそういった手は『パス』と判断するんだ」
 僕の初手がパス扱いになるということはつまり。先手が〈オーディン〉、後手が僕で始められたのと同じと判断されたわけだ。ちょうど、福路くんと昼飯を掛けたゲームのことが頭に回想された。
 9割の封印は失敗に終わったが、まだ手はある。
 
 ――ピシッ
 
 〈オーディン〉が振り飛車を選択したことを受けて、僕も振り飛車を選択した。これは相振り飛車といって、実戦例が少なく乱戦になりやすい。
 まずは、盤面を複雑にし、〈オーディン〉に疑問手を指させ、それを咎めていくことを目指した。
 序盤の駒組みが進む。
 僕は右矢倉を組み上げる。上方からの攻撃に強みを持つ囲いだ。相振り飛車の戦いは脇からの攻撃になりにくい。
 対する〈オーディン〉は端の香車を上げ、その空いたスペースに王将を滑り込ませる。穴熊と呼ばれる囲いだ。とにかく堅牢で、崩すの時間が掛かる。
 いよいよ局面は中盤に差し掛かろうとしている。
 僕はここが最も重要だと認識している。終盤の寄せ合いになれば、正確な速度計算ができるコンピュータが圧倒的に有利だ。中盤のうちに、少しでもリードしておく必要がある。
 僕は、攻めの部隊である左半分の飛車や角行をそのままに、右側で矢倉囲いの一部になっている銀将を上方に進めていく。
 「ほお。B面攻撃か。間に合うかな?」斎諏訪がなじる。
 B面攻撃とは、自らの盾や鎧で相手の武器を破壊に行くような作戦だ。上手くいけば、相手の攻撃力を奪い戦いが有利に進められる。飛車や角行を使って真っ向から攻めていくのが正道であるため、こう呼ばれる。
 当然ながら、自ら防御を崩すことになり、リスクはそれ相応に高い。正確な差し回しが求められる。
 〈オーディン〉もB面攻撃を的確に対応してくる。予想以上に手強い。
 「〈オーディン〉は世の中に溢れる棋譜を貪欲に回収し、それを取り込んでぃる。プロ棋士は勿論、アマチュアの最新の対局もな。それだけじゃなぃ。勝因分析、敗因分析も行ってぃる。つまりだ、逆転勝ちの対局の場合は、序盤は負けた側の指し手に重みを置き、終盤は勝った側の指し手に重みを置ぃて取り込んでるのさ」
 (随分、分かりやすく説明してくれるじゃないか)
 オーディンは知識に対して非常に貪欲な神と言われていたはずだ。確かに、〈オーディン〉の指し手には全くブレがない。
 僕は自分を信じて、指している。しかし、感情の無い相手を前に、指先は僅かに震えてきている。
 「……ケーヤ?」
 美月が後ろから話しかけてくる。彼女のことだ、普通の女の子のように心配げな表情で言ってはないだろう。「君、しっかりしなよ」そう言いたげな表情をきっと浮かべているのだろう。
 それでいい。美月がいつもでいてくれることで、僕もいつもを取り戻せそうな気がするのだ。
 「大丈夫」
 僕は短くそれだけ答える。
 
 ――ピシッ
 
 僕は持ち駒の歩兵を四段目に打った。〈オーディン〉の囲いから程遠い位置に。
 「なんだぁ? そのぬるい攻めは」
 斎諏訪でなくても、仮に僕が反対側の立場だったら同じように思っただろう。〈オーディン〉は構わず、僕の陣地をこじあけに来る。

 ――ピシッ
 
 僕は直前に打った歩兵を成り、〈と金〉にした。これで、働きは金将のそれと変わらない、強力な駒になった。
 しかし、その間に僕の陣地はついに決壊した。この後、続々と〈オーディン〉側の駒がなだれ込んでくるのは避けられない。
 そろそろ〈オーディン〉側の囲いにも取っ掛かりをつけていかないと、明らかに間に合わない。
 
 ――ピシッ
 
 僕の王将は盤の中央である5段目まで達していた。囲いから追われて、上部に脱出していたのだ。
 流れから見ると、攻められて王将が命からがら逃げ出している格好だ。三国志で、曹操赤壁から逃げた時のように。
 しかし、それは真実ではない。元より、勝負を開始した時点からの僕の構想だったのだから。
 「お前、まさか?」
 どうやら、斎諏訪も今気づいたようだ。恐らく、今この瞬間の盤面全体を見た者はこう思うだろう。
 
 5段目にいる王将は奥のほうまで逃げ道が確保されており、捕まえるのがまず難しそうだ、と。
 
 将棋の勝ち方は、大きく二つある。一つ目、相手の王将を詰ます。二つ目、入玉したとき相手より多くの点数であること。
 簡単に言うと、一つ目はKO勝ち。二つ目は判定勝ち、だ。
 王将を詰める場合、最も大切になるのはスピードだ。自らの王将がいかに危ない状態だとしても、相手の王将さえ先に詰ませられれば勝ちなのだ。ゆえに、駒を大量に犠牲にして、相手の王将に肉薄していくことになる。
 それに対して、入玉の場合、最も大切になるのは所有する駒の内容だ。駒を多く所有するものが勝利に近くなる。
 将棋の本質的には、二つ目の入玉はあくまでも副次的なもので、世の中の殆どの対局が一つ目を目標としている。
 しかし、それを逆手に取った一直線の入玉狙い。負けられない対局のために、僕の立てた今回の作戦がこれだった。
 入玉となる対局自体が世の中でもレアだ。ましてや、戦う前から入玉を構想として描いている棋譜などはまず皆無といえる。つまり、数多くの棋譜を取り込んでいる〈オーディン〉の強みをこの一点において、外すことができると踏んだのだ。
 案の定、〈オーディン〉は囮として自陣に残っている僕の囲いの残骸の金将銀将を歩兵や桂馬を使って取りに行こうと動いている。
 しかし、入玉において歩兵も金将も同じ1点、それは現状では非常に価値の薄い手を指していることになる。
 僕は作戦の成功を意識した。ところが。
 「モードチェンジだ。マニュアルモードに変更する」斎諏訪はキーボードを素早く動かすと、〈オーディン〉の出した手をキャンセルした。
 そして、別の手を入力する。穴熊囲いを自ら崩す一手だ。その意図が伝わってきた。
 
 穴熊を崩し、こちらも入玉する!
 
 僕は入玉のために、そこそこ駒を犠牲にしている。もし、完全に相入玉となり点数計算に持ち込まれると面倒なことになる。
 僕は、立会人である大江老人の顔を窺う。
 「問題なし、じゃ。事前に提出されたプログラムの段階から〈まにゅあるもおど〉は組み込まれていたからのう」きっぱりと突き放された。しかし、理には適っている。
 改めて斎諏訪の顔を見ると、彼は歯を食いしばり、眼を大きく見開き、顔を紅潮させている。
 負けない、負けたくない。表情でそう言っているのが強く伝わってくる。
 記憶に残っていないはずの斎諏訪の小学生時代の顔が、今の斎諏訪と重なっているような気がした。
 そいつは、その後、手にした強力なプログラミングスキルとともに今、雪辱の舞台に立っているのだ。
 だが――負ける訳にはいかないのは僕も同じだ。あの時の違うのは斎諏訪だけじゃない。
 僕の持ち駒の歩兵が〈と金〉になり、斎諏訪の穴熊を横から崩していく。
 
 ――ピシッ
 ――ピシッ
 ――ピシッ
 
 激しい応酬が始まる。
 斎諏訪は穴熊からの脱出を図る。僕はそれを防ごうとするという構図だ。
 斎諏訪は盤上にも、持ち駒としても豊富な持ち駒を持っている。入玉を図ることも十分に可能な状態だ。
 しかし、そのためには犠牲を払い、僕に多くの駒を渡さなければ成らない。そうなれば、得点差で僕の勝ちになる。それでは元も子もない。
 かといって、僕の〈王将〉を詰められるかというと、それも無理だ。
 なんとか打開しようと、なんとか僕のミスを誘発しようと怪しい手を連発してくるが、僕は冷静だった。
 そして、ついにその押し引きに決着が訪れた。
 「負け、まし……」
 声を発したのは、斎諏訪。最後の方は聞き取れないようなか細い声だった。斎諏訪の王将は鉄壁だった穴熊囲いから自ら脱出したところで、詰んでいた。
 皮肉なことに、その姿は自ら作り上げた自信作である〈オーディン〉を諦め、結果として力を出し切れなかった今の斎諏訪自身と重なっているようだった。
 僕は――、いや将棋部は完全勝利した。しかし、まだ終幕ではない。
 肩を落とす斎諏訪に僕はゆっくりと静かに話しかける。
 「……斎諏訪。将棋と他の類似ゲームとの大きな違い、お前なら分かるよな?」
 「……」
 「取った相手の駒の扱い。チェスなら、ゲームから退場してもう戻ってこれない。囲碁のアゲハマも終局後の整地にしか使われない。でも将棋はゲームの途中からすぐ味方に変わるよな。強力な敵であるほど、強力な味方になる。
 「……」
 「そして、もう一つ。将棋って、普通ここで終わりだけどさ。この後、この駒たちってどうなるんだろう」
 激しい争いを終えた戦場で。敗軍は相手を憎むだろうか。勝者は敗者を見下すだろうか。
 「持ち駒の振る舞いから考えると、きっとこうなるんじゃないかって、俺は思ってる」
 僕は盤面に並んだままの斎諏訪の駒を全て反対向きに変えていく。僕からみたら全てが味方になる向きに。
 昨日の敵も、今日は味方として迎える。そこには遺恨もなく。全ての駒が、同じ未来を向く。
 美月にはまた「もしかして、キザなの?」とか言われるかもしれない。勝者の欺瞞かもしれない。しかし、頭に不意に〈跳躍(リープ)〉してきたこの想いは、今伝える必要がある。そう直感したのだ。
 「『味方』になってくれ、とまでは言わない。俺だって高校に入るまで3年間、将棋を見放してたんだから」
 僕が、将棋をずっと続けていたと思っていたのだろう。俯いていた斎諏訪が意外そうな顔でこちらを見上げた。
 「斎諏訪のやり方でいい。将棋部のメンバーになってくれ」
 斎諏訪は再び俯き、盤上の駒を睨みつけていた。
 
最終章 『7月中旬』

 

 勝負のあと、美月に確認したところ、詰将棋作りついては想像通りだったが、詰将棋解きについては新たな事実が分かった。
 あの時、チャイムを鳴らしたとき、まだ問題は解き終えていなかったらしい。一問目を話しながら、解いたとのこと。要するに、時間稼ぎだったのだ。声にしろ、筆記にしろ、ニンゲンはアウトプットを一気にできないところが逆に有利に働いたわけだ。

 カキーン……
 
 放課後の校庭から野球部の打撃音が響いてくる。
 待ち望んだ夏休みがいよいよ来週に迫っている。夏休み中には、多くの部活では大会が開かれるため、どの部活もいつも以上に真剣に練習に励んでいる。
 それは、将棋部も例外ではない。
 結局あの一件のあと、電算研究部と将棋部の吸収合併は承認され、正式名称は将棋研究部となった(僕達は変わらず将棋部と読んでいるが)。その結果、部員も僕と美月と斎諏訪の3人になった。
 斎諏訪の作ったプログラム、〈ヴィシュヌ〉〈シヴァ〉〈オーディン〉は現在、将棋研究部の名も併記してウェヴサイトに公開している。
 〈オーディン〉は難易度の設定や勝負のできるようにチューニングされ、幅広いユーザーに使ってもらえるように改良された。
 特に、詰将棋制作プログラム〈ヴィシュヌ〉は一部の層に波紋を広げている。詰将棋作家という職業が世の中にはある。イメージとしては、自動歌作成ツールが無料公開されたようなものだから、是々非々の物議をかもしている。
 結果として、将棋部のウェヴサイトのアクセス数はあっという間に増えた。単純比較はできないが、白物家電研究部の実績に引けをとらない数字を上げている。
 この段階でも、将棋部の降格を取り消せるだけの実績を用意できている感覚はある。しかし、油断はできない。この夏休み中に開かれるいくつかの大会で優勝クラスの実績を上げたいところだ。何はともあれ、3人集まったことで、団体戦に出ることも可能になった。チャンスが広がったのは大きい。
 HOWEVER。しかしけれども。僕は、部屋を見回す。
 あの勝負以来、一応部室に3人集まるようにはなってきた。しかし、お互いのコミュニケーションはまだまだぎこちない。
 美月は携帯端末をいじり、斎諏訪はパソコンをいじっている。部屋には硬質のモノを指で操作する音がこだましている。
 えーと、ここ、将棋部なんですけど……。木製の音、響かせませんかー?
 しかし、こんなときの打開策を僕は会得しているのだ。それは。
 「美月、斎諏訪」
 呼びかけると、二人とも姿勢はそのままで、顔だけこちらに向けてくる。
 「まめしばに『作戦会議』しに行こうか」
 その言葉に、美月は携帯をカバンにしまい立ち上がり、斎諏訪はパソコンを閉じて立ち上がった。
 奇遇なことに将棋部のメンバーは全員、コーヒーが好きだという共通点があった。
 冷房もきいており、美味しいコーヒーが堪能できる〈まめしば〉は僕たち将棋部のサブ部室――いや、実質的なこちらがメインといっても過言ではないかも――のような存在となっている。
 と、その前に学内でしておきたいことがあったことを思い出す。一週間近く経ち、やっと心の整理がついたのだ。
 「ちょっと、先に門のところに行ってて。すぐ追いつくから」
 「早く来ぃょな? 小太りには日陰ですら厳しぃ季節だとぃぅことを忘れるな」
 「遅かったら、ケーヤのおごりね」
 
 向かった先は、美術室。美術部の部室でもある。
 「1年生の琴羽野さんっていますか?」入口の近くにいた生徒に尋ねる。琴羽野さんはすぐにやってきた。
 「聞かせてくれるの?」
 「えっ?」
 「推理の続きなんでしょ?」琴羽野さんは片目でウィンクをする。
 これは恐れ入った。もしかしたら、あのときの僕の思考を汲み取って深く追求しないでくれていたのだろうか。
 「これを見て欲しいんだ」
 僕は、カバンからノートを取り出して、差し出す。そこには、先日調べた『ちいさなもりのおおきなき』の歌詞が写してある。
 
  ちいさなもりのまんなかに おおきなきがありました
  ひとやおはなやどうぶつが もりにやってくるま え か
  ら(間奏)
  
  きにはおおきなえだがあり おおきなはっぱもありました
  あついなつにはかさになり みんなひるねにきたのです
  しずかにゆきがふってくる きはしろいはっぱをまとった
  おおきなあながあったから みんなあそびにきたのです
  
  きは みまもった いつまでも みまもった
  ちかづくことなく はなれることなく
  
  ひとがもりにやってきて もりのすがたをかえていく
  みちはかたいいしにかわって はやしはいえにかわってゆく
  さかなおよいでいたかわは てつのふたのしたにかくれて
  もりにいたどうぶつたちも だんだんすくなくなっていった
  
  きは みまもった いつまでも みまもった
  わらうこともなく おこることもなく
  
  ちいさなもりのおおきなきは おおきなきりかぶにかわった
  かぞえきれないねんりんは きょうもしずかにわらってる
  
  きょうもしずかにわら っ て
  る

 「なんか……随分と大人向けの歌詞だね」
 「そう。童謡っぽくないよね。これ、発生源が不明で、裏づけもないみたいで。だからちょっとした都市伝説扱いになっているんだ」
 僕は、歌詞を線で囲み、その左側にパターンの名称を付記していく。
 「文字の間が開いているところは、スローになる部分を表しているみたい。っと、こうしてできあがり」
 

図_金属板回答(改)

図_金属板回答(改)


 「こうしてみると、パターンAだけは2回連続で使われることが分かるんだ。演奏が終わった瞬間に移動するのは絶対に無理とは言わないけど、相当難しいはずだよ。だから、パターンAだけは2つあった。そして、パーツはこれですべて使い切ることができた」
 それは、歌詞の真実は別として、このオルゴールの製作者の意図した答えが、〈切り株版〉だったということを意味していると思われた。
 最初に琴羽野さんに伝えた時に、そこまで踏み込めなかったのは、世の中に浸透してしまっている常識を揺るがす可能性のある発見に僕が耐えられなかったからだった。
 既に、多くの人たちに歌われ、親しまれてきた歌。その根幹を、この僕が揺るがしてしまうことは果たして許容されるのだろうか、と。
 しかし、あれから。よくよく詞の内容を反芻してみると、「起こったことを、全て受け入れる、それが偉大なる自然」というのが作者のメッセージだと思えてきた。
 もし、今知られているような歌詞でなかったら、埋もれて、忘れ去られてしまっていたかもしれない。そうすると、どちらがこの作品にとっては良かったのか。
 いや、きっと、どちらでも良かったのだ。一旦、この歌を生み出して放った。そして、それを自然の流れにゆだねた。その時点で、作者のメッセージは確かにこの世界で意味を成せたのではないだろうか。
 だから、この事実に至った者の出すべき答えは、何かしら「応える」こと。それは、誰かに出してもらったのではなく、自分自身で出したのであれば、きっと正解だろう。
 「このオルゴール、きっとおじいちゃんが自分で作ったんだと思う」琴羽野さんは言う。
 「何か言っていたのを思い出したとか?」
 「ううん。おじいちゃん、自分の考えていることをわざと婉曲的にする人だったから。もしかしたら、この歌の作者さんとも仲の良い友達だったりしたかも」
 僕は、春先に解いた金庫の暗号文のことを思い出した。
 「私も見習わないと、だなぁ……」
 琴羽野さんは猫のような口をキュッと結び、「瀬田くん……私……。えーと、色々ありがとう」柔和な表情を僅かに真剣なものにして僕にお礼を言ってくれた。
 「ん、あぁ。こっちこそ、話をするのが遅くなっちゃってゴメン」
 僕は、美術室をあとにして校門に向かった。

 校門に走り寄ると、二人が振り向いた。改めて観察すると、美月と斎諏訪が一緒にいるのはなんとも珍妙だ。と、僕に言われてはオシマイかもしれないが。
 「ぁんだけ釘刺してぉぃたのに、何時間待たせんだょ!」斎諏訪が汗だくの額を拭いながら言う。おいおい、何時間もは経っていないぞ。
 「浮いたお金でビターチョコとクッキー食べるか……」美月は『まめしば』のメニューを携帯端末で検索して、なにやら不穏な企てをしている。
 学校を後にして、三人で日陰を選びながら進む。容姿も思考も方向性も全然違う三人だ。同じ方向を向いて声をあげながら走る野球部や、一つのハーモニーを作り上げるために互いに協調する合唱部とは異なる集団といえる。
 しかし、僕はこうも思うのだ。1+1が2にしかならないなら、人生って全然面白くない、と。
 美月も。斎諏訪も。そして、アレ(泉西先生)……も。
 多くの植物は、夏場の強い日差しをエネルギー、そして栄養に変えて成長する。そして、秋には大きな花を咲かせ、実を成らせる。
 大きな成果を生み出すためには、自分以外のものとも反応して、小さな結果を地道に地道に合算していくしかない。

 セミが去り、夜が長くなる頃。
 僕、そして将棋部の皆で出した総計はどのくらいになっているだろうか。
 僕達の夏は、まだ、始まったばかりだ。

 

 小説『All gets star on August =星の八月=』に続く

小説『Sum a Summer =総計の夏=』(4/5)

第四章 『7月4日(金)』

 

 朝起きて、台所に顔を出す。
 しかし、いつもなら食卓で新聞を広げている父の姿がない。昨日は母がいなくて、今日は父がいない。何だか、ちぐはぐな感じだ。
 「あれ? 父は?」
 「もう出かけたわよ」振り返った母親の手には、洗い掛けの父の茶碗があった。
 「仕事の内容の説明資料作りとか、相手の会社のやり方を憶えたりとか、やることは山ほどあるみたい」
 「そうか。大変だな……」
 父にとっては、再び地道な仕事の日々が始まったのだ。今後、再び日の目を見る可能性が必ずしもあるわけではないだろう。それでも今やれることがあるなら、それをやるのみ。既に空席となった父の椅子からそんなメッセージを送られた気がした。

 登校して間もなく、職員室に向かった。
 会うべき人物は、数学の丹治延登先生または英語の石井英美先生だ。両者とも、大矢高校の部活担当教務である。
 入口付近で伺うと、石井英美先生の姿が見えた。
 石井英美、36歳独身。幼少時代をアメリカで過ごしたバイリンガルである。ただし、日本語の話し方がどうにも英語の直訳のようで不自然な感じがする。そして、どうでもいいことだが、アメリカでは「エイビ・イシイ」と呼ばれていたらしい。
 「石井先生、おはようございます」
 「グドゥモーニン。えーと、キミは確か一組の……」
 「はい、瀬田桂夜です」
 名前を憶えられているのは、恐らく以前授業中に「おいおい、速すぎだろっ!」と叫んだ変わり者だからだろう……。今、思い出してもヒヤヒヤする。
 「私は、考えています。それは、授業とは、教師から生徒への一方通行ではないということです。それは、共同作業です、生徒と教師による。それゆえに、キミの積極的なィクスプレッションは、非常に重要です」
 「は、はい」
 「私は、キミに一つ要望があります。私は、真面目にノートを取ることよりも、ワタシの顔を見て意思のキャッチボールがすることのほうを嬉しいと感じます」
 石井先生すみません。それ、下向きながら寝てるんです……。僕が、中学生の時に編み出した、寝ながらもペンを動かすって言う技なんです……。当然言えるはずもなく、愛想笑いを浮かべるしかない。
 「実は、部活のことで相談がありまして」
 「OK」
 「部活を合併することは可能でしょうか?」
 「ガッペイ? それは、mergerのことを意味していますか?」
 「マージ……あ、あぁ多分そうです」
 そう。僕が考えた作戦とは、部活と部活の合併だった。部員の移籍に関しては、生徒会則で期間が限定されてしまっているが、部活という組織自体には特に取り決めがない。
 詭弁といわれればそうかもしれないが、生徒会の意見である『3人部員がいなければ一部不適格』というものも明言されているわけではない。眼には眼を、歯には歯を、だ。
 卓上にある『Club Activity』という背表紙のファイルを開き、石井先生はしばし考え込む。そして。
 「ふむ、部活をガッペイすることは恐らくノープロブレムでしょう。両部活の全員が合意する必要があるでしょう、しかしけれども、クラーブアクティビティは基本的に生徒の自治です。あなた方は、ガッペイを成し遂げることができるでしょう」
 よし! 教師サイドのお墨付きをもらえたのはいい感じだ。順調といえる。
 「私から話をします。ティーチャー丹治には」
 「ありがとうございます」
 石井先生にお礼を言って、職員室を後にした。あとは、放課後の交渉を待つばかりだ。

 放課後。僕はサーバールームに足を向けた。会うべき人物は、電算研究部のサイズワくんだ。
 僕の探していたのは、『第二部で、部員が一人ないしは二人で構成され、将棋部とくっついてもなんとか言い訳が立ちそうな文化系部活』だった。
 昨日、大矢高校の公式ウェヴサイトを確認したところ、丁度その条件に当てはまる唯一の部活が電算研究部だったのだ。
 正式な部室でないここにサイズワくんがいるとは限らないが、他にいそうな場所を知らない以上ここを訪ねるのが一番接触をしやすいと考えた。
 サーバールームに到着し、インターフォンを押すと先日のように大江室長が出る。
 「すみません、サイズワくんって今日来てますか?」
 「おお、おるが?」
 これは、幸先がいい。先日と同じ要領で部屋に入る。サイズワくんは部屋の隅で細かな部品に囲まれていた。
 話によると大江老人の個人パソコンとのこと。修理方法が分かっているのに、修理工場で金を払ってやってもらうのは癪に触るとこぼしていたら、サイズワくんが名乗りを上げたのだという。
 「歳をとると細かい作業ができんくなってのう。助かるわい」
 「じっちゃん、NICは?」
 「おぉ。2つのセグでそれぞれボンディングするゆえ、4つ頼むぞい」
 「ぅぃ」
 大江老人の知識もすごいが、それと対等にやりとりできているサイズワくんも大したものだ。もし一緒になれたら、僕も色々と教えてもらおうかな。これからの時代はITスキルは大事だって父も言っていたし。
 「サイズワくん、あとで手が空いてきたら話したいことがあるんだけど、いいかな?」
 「ん? 今でもぃぃぜぇ? 機械的な作業だし」
 「あ、そうなんだ。えーと、まず順を追って話すと……」
 僕は、昨日の夜から組み立ててきた話をサイズワくんに話し始めた。

 話し終えてしばらく経つ。しかし、サイズワくんは相変らず手許をせわしなく動かし続けている。
 果たして、もう答えは決まっているのだろうか。「で、どうかな?」と答えを催促しようと思っていると、丁度ドライバーを床に置きこちらを向いてくれた。
 しかし、答えは無常にも「その話、悪ぃが遠慮しとくょ。ょりにょって将棋だしなぁ……」
 あっさり断られてしまった。
 ノートパソコンがあれば、彼がやりたいことは今までどおりできるはず。部室があれば、堂々と活動できるし、場合によっては予算の恩恵に与れる可能性だってある。
 部活の名前や所属が変わってしまうが、彼にとって悪い話ではないと思ったのだが……。やはり、今時の高校生に『将棋』はNGだったか……。自分も「将棋なんて……」と思っていた時期があっただけに、彼を強く説得しようという気持ちが芽生えてこなかった。
 今日は美月も呼んでしまったし、仕方がないので、部室に戻ることにした。満点の結果ではないが、部活合併作戦自体はまだ余地があるだろうからその報告だけでもしておこう。
 僕は静電靴をロッカーにしまい、色々と対応してくれた大江老人に礼を言う。
 「すまんの瀬田くん」
 「いえいえ、俺が勝手に無理言ってただけですから」
 その瞬間、大江老人の肩越しに見えていたサイズワくんの顔色が変わったのがはっきりと見えた。
 「……セタ? もしかして……。瀬田桂夜か!?」
 サイズワくんはわざわざ立ち上がり、こちらに歩み寄ってくる。その態度に、少し戸惑いながらも僕は「そ……うだけど?」と答える。
 「将棋部の合併の話、受けょぅ」
 「ほ、本当に?」突然の展開に、お礼を言おうと思っていたのだが――
 「ぁぁ、ただし……ぉれに勝負で勝てたらな!」
 大仰に親指を自身の顔に向けて、そう言い放ってきたではないか。
 一体、どういう心境の変化だろう。あまりに唐突に変わった表情と口調についていけていない。
 戸惑う僕を見て、サイズワくんは楽しそうにクックッ……と笑っている。
 「ぁの分厚い眼鏡はゃめてコンタクトにしたのか? 自分のことを『僕』って言わなくなったんだな。ぉかげで全然気づかなかったょ」
 「っ……! なんでそれを!?」
 中学に入ったときにコンタクトに変えて、高校に入ったときに自分のことを『俺』と呼ぶように変えた。それは、過去の自分を捨てるため。誰にも明示的に言った憶えは無い。
 それが分かるとしたら、小学生の僕を知っている人物しか……。
 「そっちは憶ぇてなぃだろぅが、ぉれも将棋をやってぃたんだよ。ぁの大会までな……」
 「あの大会?」
 「江辻が優勝し、キミが3位だったあの大会だょ」
 あの大会……、サイズワ……トオル、斎諏訪……徹!
 脳内で音の響きが漢字に変換されたことで、記憶がやっとフラッシュバックした。
 僕が一時期将棋をやめるきっかけになった将棋大会の3位決定戦の対戦相手じゃないか。
 「ぉれは当時からいち早くコンピュータを駆使し、様々な独自研究を行ってぃたんだ。将棋は二人零和有限確定完全情報ゲームだ。完全なる答えを出すのは難しぃにしても、序盤を圧倒的に有利に進められると踏んでぃた。自信満々だったょ。実際、準決勝までは楽勝だった」
 「……」
 斎諏訪はそこで一旦そこで話を切り、唇を湿らせる。僕は、もちろんその後の勝敗の結果を全て知っている。
 「ぁとはキミも知る通りだ。怪物・江辻にぁしらわれ、せめて3位と思って戦った相手にぉれは二度やられたわけだ、心ここにぁらずの奴にな!」
 「……」
 既に春、あのときの苦い記憶は払拭したはずなのに、頭の奥にじわりと滲んでくるものがあった。
 将棋で負けることは悔しい。自らの口で負けを宣言しなければならないと言う暗黙の掟があるかもしれない。本気で、真剣にやっている者ほど負けたときの悔しさは強くなる。勝ったときの記憶より、負けたときの記憶の方が強く、強く刻まれる。そして、それは長き時間を掛けてか、より強い勝利体験によってしか和らげることができないのだ。
 「そして今、ぉれのトラウマを解消する絶好の機会が訪れた、とぃぅわけだ。と一方的に話を進めたが、まさか逃げなぃょな? 心は起きてぃるか?」
 その言葉に、僕は覚醒した。
 「勝負って、具体的には何を?」
 元より、将棋部存続のためには無駄でない勝負だ。それが、過去の因縁に絡むものであれば、もはや避ける理由はない。
 受諾した僕をみて、斎諏訪は眼鏡のブリッジをすっと上げながら不敵に笑う。
 「ぉれの作ったプログラムと勝負してもらおぅか」
 「プログラム?」
 「そぅだ。ぉれが将棋を捨てて3年間。その間に磨き上げたスキルがプログラミングなんだ。文句はなぃだろ」
 「まぁ、そうだな」
 すっかり、ぉれも3年間将棋を捨てていたことを言い逃してしまった。いや、言う必要はなかったと思い直す。もう、そのことには後悔をしていないからだ。
 「そぅだな……単に指し将棋とぃうのも興がなぃか」
 斎諏訪が妙なことを言い出す。しばし考え込んだかと思うと、三本の指を立ててこちらに突きつけてきた。
 「三本勝負はどうだ?」
 「三本勝負?」
 「詰将棋作り、詰将棋解き、指し将棋だ。もちろん、指し将棋はキミとの勝負だ。部員があと一人、顧問もぃるんだろ? 残りの二つは、どちらか好きに割り振ればぃぃ」
 「ま、待て。話が急すぎ――」
 「部員が2人で第一部に存続できてるくらぃだ、少数精鋭揃ぃなんだろ?」
 明らかに暴論だが、有無を言わさぬ勢いで捲くし立てられて、反論の機会を見出せなかった。
 「ただし、本命の指し将棋の前に2勝で終わり、じゃ意味がなぃ。よって、勝ち星をこぅしよぅじゃなぃか」
 手許のノートパソコンになにやらカタカタと打ち込み、画面をこちらに向けてくる。
 

図_星取表

図_星取表

 
 「簡単に言えば、キミが勝ち、詰将棋勝負のぃずれかで勝たなぃと将棋部は勝ちにならなぃ、とぃうことだ」
 「む……」
 随分と足許を見られた条件に言葉を失う。とはいえ、電算研究部と合併する機会が生まれたことは歓迎だ。正直なところ、部員を増やすための次善策が今無い状態なのだから。
 「わかった。それぞれの詳細を詰めようじゃないか」
 そして、次のように詳細を決め、合意に至った。
 
 (1)詰将棋作り
  10分の制限時間の間に、より詰め手数の多い問題を作ったほうが勝ち。
  勿論、詰将棋の前提条件を満たしていない場合は失格とする。
  
  事前に問題を考えて来られないように、作成に使える駒は作成の直前に目隠し状態で駒を一掴みして決める。
 
 (2)詰将棋解き
  詰将棋作りで作った2つの問題を早く解いた方が勝ちとする。
  電算研究部は開始の合図の後、問題を入力開始すること。
  将棋部は開始の合図の後、すぐに解き始めてよい。
 
 (3)指し将棋
  先手・後手は当日振り駒で決める。
  メンツは、将棋部は瀬田桂夜、電算研究部は斎諏訪徹で固定とする。
  また、(1)(2)で将棋部が2敗した場合も勝負は執り行うこととする。
 
 (4)その他
  勝負は7月7日の月曜日、放課後。場所はサーバールーム事務スペースにて。
  当日、大江澄輝専門員を立会人とする。
  将棋部は(1)(2)のメンツを当日変更することができることとする。ただし、大矢高校将棋部員または大矢高校将棋部顧問の範囲に限る。
  電算研究部は作成済みプログラムを『臨時部員』として扱う。
  電算研究部は勝負前に大江専門員にプログラムを提出し、以後コードの改変を行わない。

 (3)の指し将棋勝負は必ず行うようにする、というのは斎諏訪の強い意向だった。先程までの『絶好の機会』云々の話からすれば当然の話だろう。
 それに対して、僕はうまいことメンツを変更できる算段を取り付けた。これは、僕一人で全てのカタがつけられるようにするためだ。美月や泉西先生が積極的にこういった勝負にのってくるとは考えづらいし、棋力的にも不安を感じてしまう。なにより、個人的な理由が勝負の始まりであり、本来無関係な面々を巻き込みたくないという気持ちが強かった。

 「さて、諸々決まったところで準備を始めさせてもらぅぞ。時間は貴重だからな」
 「準備?」
 「将棋は捨ててぃた、と言ったろ? 今から作りはじめるんだょ。3つ作らにゃならんからな……」
 「……!」
 てっきり、既に母体があってそれをチューニングするだけなのだと思い込んでいたので唖然とする。プログラムって、そんなに簡単に作れるようなものなのか?
 しかし、今は斎諏訪の心配をしているような状況ではない。こちらは、指し将棋と、詰将棋勝負で勝ち星を拾えるような策を考えなければならないのだ。
 特に詰将棋勝負の方は、正確に高速な演算ができるコンピューターの方が圧倒的に有利だから、何かしら対策が必要となるだろう。
 サーバールームから出ると、改めて一抹の不安にじわりじわりと襲われる。
 
 僕は、とりあえず部室に向かうことにした。
 昨日、美月と電話した時のことを思い出して、自然と足取りが重くなる。いかにも自信があるような表現をしてしまっていたからだ。
 もっと、交渉力があったら良かったのだろうか? いや、今あれこれ考えても後の祭だとは頭では分かっているつもりなのだが。
 部室のドアの前に立つ。口に溜まった唾をゴクリと飲み込む。
 ガラガラ……とドアを開けると、美月は約束どおりいてくれた。
 「や……やぁ」
 「で、どうだったの?」
 なんとも単刀直入だ。
 「一応順調だよ。来週の月曜日に詰めの話をする予定だから、もうちょっと掛かりそう」
 「ふーん」
 一応、心の準備はしていたので言葉は淀みない。あとは演技力だ。
 「あのさ」美月は僕の顔をじっと見つめてくる。
 「『もっと誰かを頼れ、利用する気持ちを持て』って誰のセリフだったっけ?」
 「……!」
 どうやら、女性の第六感というやつを少し甘くみすぎていたようだ。それとも、僕の演技力不足なのだろうか。何か、反応を、反論をしなければ隠し通せないのに、視線を合わせることができない。
 「……悪い。力を貸してほしいことがある」
 結局僕は、今朝の石井先生との話から斎諏訪との勝負の話までを伝えることにした。
 「そこでだ。美月には詰将棋の解く方で参加して欲しいんだ」
 美月は、毎日知識をインプットし直さなければならないという問題があるが、演算の速度は通常のニンゲンの域を超えている。本人に言うと嫌がるかもしれないが、それこそコンピュータのようなものだ。
 詰将棋のようにゴールがはっきりと定まった問題への解答は、恐らく僕よりも早く出せるのではないかという期待をしている。
 3戦のうち、まずは詰将棋の方でなんとか1勝しなければならない。詰将棋作りの方は勝てれば勿論ありがたいに決まっているが、はっきり言って「捨て」でいいと考えている。僕が兼任して、将棋入門の本に出てきそうな簡単な詰将棋を作ってしまうつもりだ。
 「参考になるか分からないけど、これ」
 僕は、カバンから詰将棋の本を取り出し、美月に差し出す。今日はそれを黙って受け取ってくれた。
 
 このとき、僕は一つ重要な過ちを犯していた。それは、作戦会議を『まめしば』などの学外で行わなかったことだ。
 学外ならば、ほぼ確実に美月とマンツーマンで作戦会議が進められたのだ。それを怠ったツケがたった今、訪れた。
 「ハロー。波浪注意報! やぁやぁ諸君、活動しまくってるかね?」
 何故、教育委員会はこの人に教員免許を与えてしまったのだろうか。大矢高校七不思議のひとつの枠を悠々と埋めている人物、泉西先生の闖入だ。
 これは、まずい。この大事な勝負に、絶対、この人を巻き込みたくない。この『巻き込みたくない』は泉西先生に対する思いやりではなく、あくまで僕個人の利己的な思いであることは言うまでもない。
 春の仮入部以来、泉西先生からは国語の知識以上に様々なトラブルを(予想通り)頂戴してきた。
 駒の動かし方さえ理解してないのに「将棋は畳が無いと始まらん!」などと訳の分からない理屈をこねて、格技室から畳を無断で拝借し、柔道部と剣道部から怒鳴り込まれたり。
 盤が汚いから、と水洗いして金曜日に放置。月曜日に見てみたら、キノコが生えていたり……。
 「ど、どうも泉西先生」
 「なんだよなんだ? 駒も並べずに将棋部かー? もしかして、透明な盤と駒を使っているとかか? バカには見えない駒なのか?」
 「そういうわけでは……」
 つい、「はい、つまり泉西先生には見えないんです」と心に浮かびそうになったのを必死でこらえ、急いで「夕食はカレーがいいなぁ」というイメージを強く心に描く。幸か不幸か、徐々に読心術に対する抵抗力が身についてきているようだ。
 「それより、見ろよ諸君。今日の和服、どーよ?」
 言われて見ると、確かに普段のくたびれた和服ではなく、生地も柄もしゃんとしたものを着ている。
 「今までのは親父のお下がりなんだよね。これ、奮発して買ったんだぜい」
 泉西先生は非常にご機嫌だ。きっと、普通の生活を送れている羨ましい大矢高校生達にしてみれば、その違いは言われないと微かにも分からないだろうが、僕は分かるようになってしまってきている。
 美月といい、もしかして人の僅かな表情や気分を察する能力が高まってきているのかもしれない。
 泉西先生は「さて、他の生徒どもに見せびらかすべく、校内を用もなくうろついてみるかなー」と呟きながら、踵を返した。これはありがたい。
 と。
 「――そういや、パソコンはもらったのか?」
 僅かに油断したところで、不意に振り返り、そう言われて僕は動揺してしまった。パソコンのキーワードで、さっきのやりとりが頭の中にフラッシュバックしてきてしまう。
 何か、弁明をしなければと思ったたが、時すでに遅し。
 「なんだよー。面白そうなことに巻き込まれてるじゃねーかよ。俺にもカッコつけさせろっ」
 そもそも作戦的には、詰将棋解き(美月)と指し将棋(僕)で1勝ずつする路線で考えていたため、詰将棋作りが空いているといえば空いているのだが……。
 泉西先生は近くにあった箱を空け、将棋の駒を盤の上に転がした。
 「瀬田。安心しろ。俺は、実に意外な才能も持っているのだ!」
 そういって、泉西先生が見せてくれた技に僕は少し驚いた。
 なるほど、これなら少し作戦の立てようもありそうだ。もしかしたら、詰将棋作りでも勝利を得られるかもしれない……。

 夕食後、リビングで来週月曜に迫った決戦に向けた作戦を練っていると、母がリビングにやってきた。手にはやはりピーナッツ入りの容器だ。
 今日はどうやらサスペンスもののようだ。題字に〈金の砂時計 ~前編~〉というテロップが現れた。
 ストーリーが進むにつれ現れる登場人物を見ると、結構豪華なキャスティングのようで、僕も知っている俳優が何名かいた。テレビ好きの母なら全員知っている可能性もある。
 部長として慎重かつ大胆な作戦を考えようとするものの、ついついテレビの方に意識がいってしまう。
 舞台は絶海の孤島に建つ豪奢な館。そこに住む館主が白昼堂々何者かに襲われる事件が起きる。絶命した館主の手には、砂金で作られた砂時計が握りしめられており――。
 探偵役は僅かな事実を積み重ね続け、犯行のトリック解明に至る。それを皆が集まった場で披露し始めたが……。
 「これ、映ってるの全員共犯ね」
 母はピーナッツを頬張りながら断定する。
 「えっ、なんで?」
 「女の勘。というのもあるけど、この豪華なキャストがその他大勢というのが不自然、というメタな見方もあるけど。
  本道で言うなら、それぞれ目的は違うけど、館主を亡き者にしたいという手段は全員がとる必要があったからだと思うね」
 一つの目的を叶えるために用意できる手段は一つだけとは限らない、父が良く口にしているが、そういうパターンもあるのか。
 僕ら将棋部ではどうだろう。
 僕、美月、泉西先生。将棋部を存続させたい理由は異なっているかもしれないが、一枚岩となり、結果としてそれぞれの目的を果たせるだろうか。
 テレビの中では、探偵役が推理を話し終えたところだった。
 一同は口々に絶賛を述べるが、その表情は一様にどこか自然さが微妙にズレたもので、画面越しなのに鳥肌が立つ恐怖を感じた。
 ここは絶海の孤島。このことを知るものはここにいる者のみ。即ち、第三者がいなければどんな事実も虚構になり、虚構さえ事実になる。
 登場人物の一人がわざわざそんなことを言葉にしはじめ……暗転。続きの後編は、なんと半年後のようだ。

 

 小説『Sum a Summer =総計の夏=』(5/5)に続く

小説『Sum a Summer =総計の夏=』(3/5)

第三章 『7月3日(木)』

 

 眼の下のくまが如実に物語るように、睡魔との戦いに図らずも善戦してしまった夜が明けた。
 今日は、1時間目に石井英美先生の英語、3時間目に丹治延登先生の数学がある。いつもより、深く術に掛かってしまいそうだ。場合によっては、現世に戻って来れないかもしれない。
 「おはよう……」
 台所に行くと、父が一人で新聞を広げていた。
 あ、そうか、木曜日だからか。
 瀬田家では、木曜日は母が朝遅寝とする日と(僕が生まれる前から)決められており、弁当支給はなし、朝食は各自となっている。よくよく考えてみると、サラリーマンも週に1日以上は休んでいるのだから、家事もそうあって異論はないというのが男子勢の見解だ。また、たまに買い食いするのも実は結構楽しみだったりする。
 僕の姿をみとめると、新聞を片して、コーヒーサーバを棚から取り出した。
 「桂夜ので淹れるぞ?」
 「ん、あ、ありがとう」
 父が珍しく話しかけてくる。今のは、父が僕の好みにあわせて二人分作るというニュアンスだ。好みの濃さや品種も異なるので、普段ならまずありえない展開だ。
 昨日の母の話を真面目に受け止めるなら、僕の顔がよほど凄くて『エアバッグ』が働いたということなのだろう。
 僕は好意に甘えることにして、ブラックを1杯頼んだ。
 父がコーヒーミルの準備を始める。棚の奥のほうから取り出したのは豪奢な缶だ。あれは、秘蔵のブルーマウンテンじゃないだろうか。
 ガリガリガリ……という音ともに、豆が挽かれ、辺りに芳醇な香りが広がった。正直、コーヒーは飲むよりこのにおいを嗅ぐのが幸せだと思っている。
 やがて、音が小さくなり完成した。それをサイフォンに移そうとしたときそれは起こった。
 「うわっ!」という不吉な声が発せられたかと思うと、挽いたばかりのコーヒーをテーブルにぶちまけてしまったのだ。そのうち、一部は床にもこぼれてしまった。
 「あー……」
 3秒ルールで、テーブルの上のいくらかはリカバリーできたが、これでは一人分しか淹れられないだろう。
 「桂夜、コロコロを!」
 「あっ、はいはい」
 コロコロとは、粘着テープがロール状に巻かれた掃除グッズだ。カーペットの髪の毛やゴミを取るときに重宝している。正式名称は、不明だ。
 床の粉を掃除して、一枚べりっとはがす。点在している茶色い粒が物悲しい。この一枚だけで、50円相当の価値がありそうだ。
 そのとき、何か頭に浮かびそうで、もどかしい感覚に襲われた。そんな僕の手許に、カップが置かれる。一杯のコーヒーだった。
 「……まぁ、飲め」
 一人前しか作れなかったコーヒーを父が譲ってくれたのだった。
 「ありがとう」素直に好意を受け入れて、一口飲む。やはり、美味しかった。
 頭が冴えてくると、先程のもやもやしたものが晴れ、頭の中が晴天に変わっていく。昨日のあの動きと、この形状が合わさると……。通学カバンからノートを取り出して、何度も何度も確認する。
 「恋破れて勉学あり、か」
 「そんなんじゃないって……!」
 国敗れて山河ありの改変だろうけど、別段上手くないぞ。本人は上手いこといった顔をしてるが。
 カップを持って、リビングの共有パソコン前に移動する。コーヒーを味わいながら、推測を裏付ける情報を検索していく。
 ……やはり。調べれば調べるほど、推測が正しい感じがしてくる。……しかし、しかしこれを伝えることは正しいことなのだろうか。この場合の依頼主は、答えを出されることを望んでいるのだろうか。

 ――問いに対して何にもレスポンスをしないヤツは社会で生きていけないぜ――

 何故か、このタイミングで。頭の中に泉西先生の言葉がよみがえる。
 ええい、迷っていてもしかたない。自分が思った答えを出すだけだ。
 「俺、もう行くから!」
 ノートを手早くしまうと、高校への道を急いだ。

 学校について、ノートだけ取り出してカバンをしまう。そして向かうは2組だ。
 2組の教室からは人気がない。はたして、目当ての人物は……。
 いた!
 「あ、琴羽野さん」
 「瀬田くん、おはよう」
 琴羽野さんは既に登校して、机で本を読んでいた。こちらに気づくと、すぐに本を閉じてこちらに駆け寄って来る。そして、ニコニコしてこちらの顔を窺ってくる。
 「ふふ、そろそろかなと思ってたの」
 「え……?」
 「ほら、この間もあっという間に解いてくれたじゃない?」
 そういえば、前に相談を受けたときは、奇跡的に一日で解けたなぁ。今回も、もし解けたなら2日という短期間な解決になる。推理探偵も真っ青だ。
 「今回はどうだか分からないけど……」
 「いいのいいの、聞かせて!」
 琴羽野さんも随分とテンションが上がってきている。傍から見たら、二人の仲を勘ぐられてもおかしくない意味深な会話だが、幸い朝も早く人はいない。
 僕は、ノートを取り出しながら自分の推理を話し始める。
 「最初は色々な可能性を考えたよ。おろし金……にしては凹凸が少なすぎるし、星図じゃないかとか、点を結んだら何かが浮かび上がるんじゃないかとか。他にも点字の可能性も疑ったんだけど……」
 一般的な6点式点字だとしても、凹凸の数が少なすぎた。それでは全く文字をなさなかったのだ。
 「それで、最後に思い至ったのが『オルゴール』だったんだ」
 「オルゴール!?」
 「そう、平板だから分かりづらいんだけどそうだと思って見ると、凹凸の具合とかそれっぽくない?」
 「うーん、そうかもだけど……」
 琴羽野さんはあごに手を当てて、口角をキューっとオームの小文字――ω――のように上げて頭の中にイメージを描こうとしているようだ。
 「じゃあさ、これどうやって丸めるの? なにに巻きつけるの?」
 「えーとね……。これ、多分、このままで使うんだよ」
 琴羽野さんの頭の上には『?』マークがいくつも浮かんでいるように見えた。僕はノートに図を描きながら説明を進める。
 「確か、金庫の中にゼンマイ仕掛けの車と歯の少ない櫛が一緒に入っていた、って言ってたよね?」
 琴羽野さんは頷く。
 「この金属板をある順番に並べて、その櫛をセットした車を走らせると……」
 「曲が……流れる!?」
 「そう、多分ね。曲は『ちいさなもりのおおきなき』だよ」
 凹凸を音符に置き換えてみたら、ベース音や和音が加味されているものの、メロディーが綺麗に浮かび上がってきた。

 

図_金属板回答

図_金属板回答

 

 「あれ、でもパーツが足りないんだね」
 琴羽野さんがノートのパターンBのところを差して指摘する。金庫に入っていたパターンBのパーツは一つだけだった。確かに普通に考えると曲を最後まで流すことは難しそうなのだが。
 「と思うでしょ。でもこの『走るオルゴール』なら、仮にパターンAがもう一枚なくなってしまっても平気なんだよ」
 僕は指を『車』に見立ててゆっくりと動かしていく。そして、指が2回目のパターンAの上に移った後、通り過ぎた直後のパターンBをその先に動かすような矢印をペンで書き込む。
 この動きは、あのテレビ番組〈芸能界 スポーツ伝説〉の〈ビート板渡り〉を見ていて思いついたのだ。
 「あっ、なるほど!」
 「ね?」
 とはいえ、偶然が重なった綱渡りのテクニックではある。パターンAとB以外ならばこの技は使えない。それでも、曲が最後まで演奏できるならば、オルゴールとしての価値は失われていないといえるだろう。
 「……すごい、やっぱりすごいよ瀬田くんは!」
 金属板の謎を解いたことに対してか、最後まで演奏させるテクニックに対してか、あるいはその両方か。
 自分でも、これほど上手く思考がはまってくれたことに驚いている。
 「なんか、前のお礼がまだ返せないうちにまた溜まっちゃった感じ……。本当にありがとうね」
 「いや、俺も頭を使うきっかけになったから。できれば、この間のテストの点に加算してほしいけどね」
 「そうだよ。『推理』って科目があったら、瀬田くん、絶対学年トップだよ!」
 徐々に2組の生徒が登校し始めてくる。あまり長居をしていると浮いてしまうので、そろそろ退散することにした。

 一週間の疲れも明らかに蓄積してくる木曜日。なんとか昼休みまでこぎつけた。
 今日はそれだけじゃない。昨日、美月に勢いで告白してしまって、その回答の時間が刻一刻と確実に近づいているのだ。
 二日連続で心臓がきゅうきゅうと痛む。寿命が一体何年縮んでしまったやら……。
 とりあえず、昼食でも買いに行こうかと教室を出ると、廊下でばったりと見慣れた銀縁メガネと目が合った。
 「あ、福路くん」
 「瀬田くん、昼食はいかに?」
 「今から購買部に買いに行くところ」
 「そうですか。それなら一緒に買いに行きませんか?」
 「もちろん」
 購買部の方に近づくと早くも賑わっていた。
 学外のコンビニに並んでいるような既製品も普通に売られているし、近くの料理店が学割価格で弁当を作って来てくれたりもしている。
 大矢高校には給食や食堂はないため、生徒は非常に重宝している。
 さて今日は何にしようか。年頃の男子は質より量! 重量対価格のハイコストパフォーマンス食品を探し出すため、割り算能力は無意識のうちに日々鍛えられている。
 麻婆豆腐弁当も美味しそうだが、ピーナッツコッペパンも捨てがたい……。でも先週はジャムコッペパンだったしなぁ、せめてパンにするならコロッケパンのような惣菜系がバランス的に大事か。あれ、コロッケってじゃがいもだけど野菜換算で良かったっけ。
 思い悩む僕の肩を、福路くんがツンツンとつついてきた。
 「ひとつ、趣向を凝らし、昼食を掛けた勝負といきませんか?」

 福路くんの提案はこうだった。
 昨日、『将棋で後手の勝率が高くなってきた』ときに例としてあげた変則的なジャンケンゲームで勝敗を決める。
 先手・後手は先んじてジャンケンで勝ったほうが選べる、というものだ。
 昨日話したように、あれは後手必勝のゲームだ。そもそもゲームといえるのかも怪しい。つまり、最初の先手後手を決めるジャンケンで実質勝敗は決まってしまうわけだが。
 「一応、手を選ぶのは相手が選んでから3秒以内」というルールも提案された。それによって、瞬間的に勘違いをしてしまうという落とし穴も一応あるわけだが……。
 「じゃあ最初のジャンケンから」
 「「ジャンケン……ホイ」」
 僕は、チョキ。福路くんは……パーだ。
 (よおーしっ!)
 ここしばらく病気になったり、テストが散々だったり、暴走告白したり、そんなことばかり続いていたから。久々に幸運に見舞われた気がする。
 ありがとう神様、ありがとう福路くん。
 「後攻で!」
 当然の選択である。あとは、「福路くんの選んだ手に対して、それに勝つ手を選んで」いけばOKだ。
 福路くんは小さく息を吐く。
 「……はじめましょう。まずグーね」
 「じゃあ、パー」
 順調順調。
 「ふむ……、ではパーすね」
 「じゃあ、チョ……、ちょっと待って」
 何だか分からないけど、ちょっとし違和感が〈跳躍(リープ)〉してきた。考えろ、考えるんだ。
 このまま僕がチョキを出したら、僕の残りはグー。福路くんの残りはチョキだから、めでたく僕の勝ちになるはずだ。
 福路くんはなんでこのゲームを提案したんだろうか。五分五分の勝負を単純に楽しむのであれば、ジャンケン1回で十分なはずだ。
 いたずらに時間をかければ、品物が売り切れてしまう可能性だってある。
 つまり……だ。なんらかの必勝法、少なくとも引き分け以上になるトラップが放たれている、という疑惑を抱くべきではないか。
 そして、3秒以内にあることに思い至った結果――
 「グー!」
 思い切ってグーを選択した。福路くんの残りがチョキだからみすみす勝てるグーを手放して、引き分けにしかならないチョキを最後に残した形になる。
 福路くんは一瞬息を呑んだが、徐々に表情を曇らせていく。
 「うーむ、見抜かれちゃいましたか」
 その言葉に、僕は自分の選択が間違っていなかったと確信できた。
 そう、さっき福路くんは「じゃあ、ここは〈パス〉ね」と言っていたのだ。
 つまり、2回目にパスを選択していた。
 確かに、先日の説明の段階にパスができないというルールには触れていなかった。
 その不備、というか抜け穴に福路くんは気づいたのだろう。
 整理しよう。
 さっきの段階で福路くんの残りはチョキとパー、僕はグーとチョキだった。
 手番は僕だから、パーに対応するチョキを選択するだろう。
 すると、福路くんはパー、僕はグーの状態で勝負となる、というのが普通のシナリオだ。僕も最初はそうとしか考えていなかった。
 しかし、実際は間にパスが挟まっていた。
 それにより、僕の残りはグー、福路くんはチョキとパーが残り、手番も彼が握っていることになる。
 僕がチョキを捨てた時点ではまだ勝負とならず、福路くんの手番で残るの一枚を選択することとなる。
 そこで、彼がチョキを捨ててパーを残したら――
 
 僕:グー
 福路くん:パー
 よって福路くんの勝ち、となってしまうのだ。
 
 グーを宣言しないで、こちらもパスを使う手もないわけではなかった。
 しかし、万が一「パスなんて卑怯ですよ! こちらはパーと言ってたのに」と開き直られてしまったら困るなと思ったのだ。
 彼の残りがチョキとパーなので、こちらはチョキさえ残しておけば負けだけはない。
 なるほど、後攻を選べたらそのまま通常の必勝法で勝ちにいけるし、先攻になったらこの特殊必勝法で引き分け以上を狙えるわけだ。

 「昨日の授業中にふと思いついたんですが……。いやはや、無念」
 校庭の日陰ができている花壇に腰掛けて福路くんが苦笑する。
 結局、福路くんは焼きそばパンとコーヒー牛乳を、僕はネギトロわさびおにぎりとコロッケパンとアップルジュースを各々で買った。
 飯を食べている最中は野生動物のごとく。お互いに黙々ともぐもぐしていたが、それぞれの飲み物だけ残った段階で徐々に会話を再開した。
 福路家では昨夜、校区内に新しくオープンしたレストランに行ってきたとか、瀬田家では父の悪食が問題視されているとか。
 教員のあだ名や、大矢高校七不思議、ゲームの新作が発売延期になって残念だ、などなど。男同士でも、話を始めれば想像以上に盛り上がるものである。
 一瞬、会話に間があいてふっと昨日の放課後のことが頭に蘇った。
 
 ――…………24時間考えさせて――
 
 僕と美月の距離はどうなってしまったのだろうか。あそこで告白をしなければ、少なくとも今までみたいに気軽に話をしたりできたんじゃないか。そう思うと、軽率だったと思うしかない。
 「瀬田くん、どうしたんだい?」
 知らず知らず唇を噛んで視線を彷徨わせていたらしい。福路くんが心配そうにこちらを見据えていた。
 「あ、あぁ、なんでもないよ」
 「ふーむ。恋ですか」
 ぎゅっ、と心臓が掴まれた思いがした。どうも、典型的な理系人間に思える福路くんだが色恋沙汰に関してはなかなかの感性を持っているのかもしれない。
 「実は昨日……」
 僕は、昨日の話を思い切ってしてみることにした。自分の中から吐き出してしまえば、それこそ笑い話にでも転換してしまえば楽になれそうな気がした。
 しかし、福路くんはすぐに反応せず、腕を組んで首をかしげている。その様子に、僕の方が心配になってくる。何か、よっぽどのタブーをしてしまっただろうか。
 「不可思議ですねぇ。あの織賀さんなら、即斬り捨て御免しそうなものですが」
 「えっ?」
 「バッサリした性格のようですから、イエスかノーは一瞬で断じそうなものです。また、あの頭のよさとルックスですから、告白を受ける経験なんて多々あるでしょう。告白慣れしてなくて時間稼ぎをしているようにも思えませんし……」
  つまり、幾分は脈があるのではないかと。最悪でも、回答を『考え』ているわけですから、OKの可能性は0%じゃない、と思いますけど」
 確かにそういう風に言ってもらえると救われる。福路くんのおかげで気持ちが幾分楽になった。とにもかくにも答えは美月のみぞ知るところだ、今じたばたしても仕方がない。今日の帰宅時間を、一体僕はどんな気持ちで迎えることになるのだろうか。

 そして放課後。握る拳の内側には汗がじっとりと滲んでいる。
 カバンを手に取り、いざ部室へ。そう気合いを入れた矢先、泉西先生が教壇から手招きをしているのに気づいた。
 「なんです?」
 「昨日言っていた、パソコンの件だ。専門棟の屋上の一番奥のサーバールームにいる大江室長に頼んでおいたから、この後もらいに言ってこい」
 「えっ、今から……ですか?」
 今からとなると、美月の件とバッティングしてしまう可能性がある。何とか、1時間後とかにずらせないないものだろうか。
 「おいおい、俺の顔を泥パックするつもりか? こちとら『明日、うちの下僕が行きますんで』って頭下げてるんだぜ。どうせお前、暇人ゼアーズノーヘブン♪ だろうが」
 「それは力強くは否定できないですけど、なにとぞ今だけは……」
 「くどい! カルピス原液のガムシロップ割り並みにくどい! さらば、おさらば、サラダバーだ!」
 突っこみどころを模索している間に、泉西先生は相変らずの俊敏さで教室を出て行ってしまった。
 となれば、残された僕にできるのは、迅速に要件を済ませて将棋部部室へ向かうことだけだ。

 僕は『廊下は走らない』という規則に遵守するため、生まれて初めて競歩を体験することとなった。
 「ここが、サーバールーム、か」
 息を整えながら見上げると、頭上のプレートには『サーバールーム』と書かれている。
 一般の高校であれば、どこかのレンタルサーバー業者の施設を利用するのが妥当だろう。大矢高校では学校運営の効率化のため、巨大なコンピュータを何台も稼動させていると入学パンフレットに書かれていたのを思い出す。
 ここがその中枢なのだろう。
 ドアを開けようとする。が、ビクともしない。
 よく見ると、ドアの脇に、カードリーダーとインターフォンが据え付けられていることに気づく。
 「なるほど、セキュリティ対策、ってやつか」
 確かにテストの点数とか試験問題とかが流出したら一大事だよなぁ。
 ニュースでも個人情報が流出して謝罪会見をしている人たちを良く見かける。どうでもいいことだが、会見の席で頭を下げたお偉いさん達の頭皮状態の情報が公にされてしまうのはなんだか矛盾している気がする。
 インターフォンを押して、反応を待つ。
 一拍置いて、「はいはい」と返事が返ってきた。
 「泉西先生の紹介で、パソコンをいただきにきたんですが……」
 「おお! 聞いとるよ! ちょっと待っとれ!」
 インターフォンの向こうから、随分としわがれた声が聞こえてきたので驚いた。
 コンピュータ関連の専門員だというから、若い人が担当していると無意識のうちに人物像を作り上げてしまっていたのだ。
 やがて、ピッという電子音のあと、ドアが開いた……が。姿が見えない。
 「おい! ここじゃ」
 言われて視線を下げると、腰を曲げたしわしわの老人が僕を見上げていた。頭はすっかり禿げ上がっており、その見た目は妖怪『こなきじじい』のようだった。
 「最近の若者は背ぇ高いのう……」
 老人はぶつぶつ言いながらも、口許は笑っている。どうやら、歓迎ムードではあるらしい。
 老人の後について入ると、ひんやりとした冷気に身体を包まれた。夏場には天国のような室温だ。
 「まず静電靴に履き替えるんじゃ」
 大江老人が指差したロッカーの中には、白いゴム製のサンダルが入っていた。体内で発生した静電気で精密な機械が破壊されるのを防ぐためだという。言われればなるほど、という感じだ。
 部屋の中を改めてみると、金網で手前と奥が分けられていた。金網の奥にはさらに金網に入った大きな機械が林立しているのが見えた。あれが、サーバーというやつだろう。
 (そういえば、父さんの仕事場もこんな感じなのかな)
 今いる手前の方の部屋は事務スペースのようだ。戸棚やデスクがあり、所狭しとダンボールがうずたかく積み重なっている。デスクの壁には大型ディスプレイと三色ランプが取り付けられている。これは、サーバーやネットワーク機器に異常が起きた時に通知してくれるものなのだという。
 「いただけるノートパソコンはどちらですか?」
 丁寧かつ単刀直入に尋ねる。心の中はアクセル全開だが、罪のない大江老人を不快にさせる訳にはいかない。
 大江老人は「おーい、サイボウ!」と声をあげる。
 細胞って何だ? と首をかしげていると、ダンボールの影から「何? じっちゃん」と男子生徒が顔を覗かせた。
 知らない顔だ。そして……、僕に言われたらオシマイだが、そいつは女の子に全くもてなさそうな風貌をしていた。
 体型は小太りで、無造作に伸ばした髪は肩に届くほど。メガネも福路くんがしているようなシャープな今時メガネでなく、昔ながらの丸い黒斑だ。
 「こやつはサイズワじゃ。こやつ一人でやってる電算研究部は部室がないんで、たまーにここに顔を出していくんじゃ。今日は、企業から譲り受けた中古ノーパソのOS再インストールを手伝ってもらっとる」
 部室がない、という言葉に心がざわめく。将棋部の行く末にある不安からか、部室のない電算研究部への憐れみなのかは分からない。
 「部活でノーパソを使いたいらしいんじゃ。テキトーに見繕ってあげなさい」
 「はぃょ」
 「わしはちょっとDATのテープの交換をしてくるからの」
 それだけ言うと、大江老人は金網の奥へ入っていってしまった。残されたのは、僕とサイズワくん二人きりだ。
 
 「スペックはどんくらぃがぃぃんだ?」
 「えっ……? えーと」
 急に尋ねられて戸惑ってしまう。普段全く意識していなかったからだ。
 自宅にも自分専用のノートパソコンがあるが、父親任せで「とりあえずメタリックなカッコいいやつ!」を買ってきてもらったのだ。
 いつも身近にあるのに、全然理解できてなかった。これは怠惰としか言いようがない。
 これを機に、少しパソコンのことを知っておかなくてはならない気がしてきた。
 「……スペック、って何?」
 「そこからかょ!」
 サイズワくんは大げさに天を仰いだ。
 「まぁぃぃ。今日はヒマだから付き合ぉぅ」
 はじめは渋々といった態度だったサイズワくんだったが、自分の知識を披露するのは嫌いじゃないようだ。質問には丁寧に答えてくれた。おかげで、僕のコンピュータレベルも3くらい上がった気がした。
 しかも、ノートパソコンの設定をいじりながらというのがスゴイ。
 「ところで、電算研究部ってどんなことやってるの?」
 「んー。経済予測とか、天気予測とか。インプットを与えて、分析と加工をして、アウトプットをするものは色々と挑戦してる」
 「それって結構凄くない?」
 「どぅだろぅなー」
 謙遜しているが、その横顔には自信が見え隠れしている。
 「と、ぅし。これで完成」
 「ありがとう」
 お礼を言い、ふと壁掛け時計を見てギョッとなる。既に放課後になって40分が経とうという時間だった。
 「ところで、このパソコン何に使……」
 「ごめん! 俺、今日は余裕なくて……っ。 今度ゆっくり話させてもらえるかな!?」
 そう言ってノートパソコンを小脇に挟み、僕は本日二度目の競歩を実施した。

 「わりぃ、遅くなった!」部室に到着して開口一番。反応は、なし。しかし、姿は確認できた。
 美月は窓際の柱にもたれて腕を組んでいる。そして、両眼は閉じられていた。
 怒ってる……のだろうか? そりゃそうだよな。何の連絡もなしにこれだけ遅れれば。
 そろりそろりと近づいてみる。
 「……美月?」
 「……」
 返事が無い、ただの美月のようだ。……ではなくて、かわりに聞こえてきたのは小さな声だった。
 「くぅ……」
 「寝息かよっ!」不覚にも、意識の無い当人につい突っこんでしまった。
 その後、「お~い」だの「朝だぜ!」だの耳元で声を掛けてみるが、全く起きる気配が無い。美月ってこんなキャラだったっけか?
 冷静に辺りを分析してみると、ここは風通しの良い日陰ポイントとなっており、なかなかに快適な環境だと分かった。
 なるほど、これは睡魔の大本営といっても過言ではあるまい。
 (むぅっ……。)
 冷静ついでに改まって観察する。美月の寝顔を見るのはもちろん初めてだ。あの笑窪のできる笑顔には及ぶべくもないが、普段の無表情からすれば、寝顔というのは自然体で十分に柔和な表情に見える。
 正直なところ、このまましばらく観賞していたい衝動にかられた。しかし、今日は諸々の事情もあるから、放っておくわけにはいかない。ここは一つ、肩でも揺すってみるか……。
 不可抗力とはいえ、身体に触れるのも初めてだ。間違って変なところ触らないようにしなければ! そう思うと、心拍が急に速くなっていく。
 と、その時。
 「んんっ……」
 幸か不幸か、美月は唐突に目覚めた。眼をパチパチとさせている。しかし、まだ完全には覚醒していないのか、その後ぼーっとこちらを見ている。
 そして、辺りを見回すと今度は僕の方を凝視してくる。
 まさか、寝ている間に僕が変なことをしたと勘ぐっているのではないか……!?
 いやいや、冤罪だ! まだ何も……いや、まだとかじゃなくて、何もしてないし、するつもりも無かったですってば! 心の中で叫ぶ。
 今度は、内ポケットからなにやら一枚紙を取り出して、その紙面をじっと眼で追っている。ここからでは何と書かれているかは分からなかった。
 それも読み終わると、そのまま携帯端末を取り出して恐る恐る操作を始める。まるで、初めて携帯端末を使う人間のように手つきがおぼつかない。
 僕は、どう行動したらいいものか判断できず、その場に立ち続けていた。しばらく、美月が携帯端末をいじる音だけが部屋に響いていた。
 やがて、「……ケーヤ?」そう言ってきた。まるで、何かを確かめるように。
 「そうだよ。今日は遅くなって悪かった」
 「……」
 美月の様子がどうもいつもと感じが違う気がする。
 「具合悪いのか?」僕は尋ねる。もしかして、快適だったから寝ていたのではなくて、具合が悪いのではないか心配になったのだ。
 「ちょっと、さっきから眠く……て……」
 そう言っている間にも瞼が落ちそうになっている。頭を振って、眠気を覚まそうとしているようだがどうにも効果が薄いようだ。
 「寝るのだけは、まずい。ケーヤ……なんとかして……」美月は珍しく、焦ったように僕に言ってくる。
 まずいって、僕が何かいたずらをすると警戒されているんだろうか……。教室で、そんなことするわけないだろっ!
 ……と、全力で否定はできないのが悲しい年頃男子の性だ。
 どうする? 保健室にでも連れていくか?
 僕は、ふと名案を思いつき、構えを取る。美月はその動作の意味に気づいたが、そのときには既にそれは発動していた。
 
 ――ペチッ。
 
 美月の額に、僕のデコピンが天使の羽根のような優しさでもって舞い降りた。
 いつぞやのお返しにと思ったものの、さすがに本気でというのははばかられ、後々の関係のためにも力はセーブしておいた。
 一瞬、きょとんとしたレアな表情を見せたかと思ったら、それはすぐにもとの無表情に戻り。
 「なんで、女子相手にデコピンとかする?」眼つきが普段以上に厳しくなっていく。
 「それは、そのー」
 「コーヒーとか、コーヒーとか、コーヒーとか色々と選択肢があるでしょ!?」
 そこまで責めてたなくても……と思ったものの、確かに、一般論的にはそれが普通だったか。
 しぶしぶと、バッグから財布を取り出して立ち上がる。1階の購買部にコーヒーを買いに行こうとしたら、再び要求が飛んでくる。
 「美味しいコーヒーじゃないと、ヤだよ」
 「……」
 購買部のコーヒーは、非常に熱くて、非常にまずいことで有名だ。このあたりは、コーヒー研究部が成分も含めて緻密な分析しているので科学的にも証明されている。
 これはつまり、暗に学外へ行って来いということだろう。非常に面倒だが、中央駅近くの『まめしば』までひとっ走りするか。往復で20分はかかるだろうけど、自分のレパートリーで一番美味しい店はそこしか思いつかない。
 バッグを掴むと、美月もバッグを手にして立ち上がっていた。
 「往復の時間がもったいないから」
 まあ、いいか。見方を変えればある意味デートと言えなくもない。相当なプラス思考だが。
 そういえば、一緒に外出するのは江辻と対局をしたあの日以来になる。
 校舎を出て、校門を通り過ぎ、中央駅の方向へ向かっていく。僕が僅かに先導する形だが、基本的には並んで歩いている。
 隣を見ると、美月は携帯端末をいじりながら大人しく付いてきている。
 僕の考えすぎかもしれないが、通りすがりの人たちがみんなこちらを見ている気がする。同い年くらいの男女が横に並んで歩いていたら、間違いなくカップルだと断定されてもおかしくない。「男のほうが釣り合ってないよねー」とか笑いものにされていたりして……。
 不良に絡まれたらどうしよう。一人なら走って逃げられるかもしれないが、まさか美月を置いていくわけにもいかない。こんなときのために格闘技でも習っておくんだったか……。とにかく、人通りの多いメインストリートをできるだけ使うようにして……。
 ところどころの交叉点で青信号に恵まれたこともあって、あれやこれや考えているうちにあと少しというところまで来ることができた。こんなに順調に進めたならば、もっと会話とかして楽しめば良かった。後悔先に立たず。
 「もう少し、そこ曲がったらあとは一直線――」
 と、振り返ったその時。美月の身体がよろっと前に傾いた。反射的に腕を伸ばして、地面に倒れそうになるところをくいとめることができた。
 「お、おい、美月?」
 返事がない。やっぱり、無理に外出させたのは失敗だったのだろうか。
 しかし、どうしたものか。『まめしば』まではあと少しだというのに……。
 店長を呼んで手伝ってもらおうか。いや、あのひょろっとした店長じゃちょっと頼りなさそうだ、むしろ僕のほうが体力ありそうに思える……。
 しかし、通行人に助けを求めるのは大げさすぎる気がする。でも、日中とはいえ、道端に無意識の女の子を一人残しておくのは色々とまずい気がする。
 こうなったら。
 美月の前に回りこみ、「せーの!」という掛け声と同時に、美月を背負う。
 身長は頭一つくらいしか変わらないはずなのだが、その身体は思った以上に軽かった。これならば、『まめしば』までは何とか辿り着けそうだ。
 一歩一歩進み、慣れていくうちに、徐々に背中に感じる感触に気づく余裕が生まれてしまった。先日から夏服に切り替わったのはこの場合、良かったのか悪かったのやら。ついでに言うと、両手は両手で柔らかな乙女の太腿をしっかりと抱えているわけだ。
 何度でも、何度でも繰り返しましょう。僕も健康で健全な16の男子なのです。いいですか皆さん不可抗力という言葉はご存知ですよね?
 脳内に次から次へと、煩悩と弁解が浮かんでは消え浮かんでは消え。そのうちそれらが激しい百年戦争を始め、気づけば互いに友情が芽生えて、互いに握手をはじめようとしたりして――
 あぁ、精神が崩壊しそうだ。これ、何の修行ですか?
 
 自我の崩壊は免れた。無事、約束の地『まめしば』に着いたのだ。この偉業は、後世きっと論語に並ぶ聖典として記録されることだろう。
 「こんちはー……」
 木製のドアを身体で押しながら開けると、ふわっと香ばしいコーヒー豆の香りに全身が包まれた。
 「あ……、け、け、桂夜くん。ひ、ひ、久し振り……」
 カウンターから店長が声を掛けてくる。が、僕の背後を見るとただごとじゃないと思ってくれたのか、入口の方にすぐ駆け寄ってきてくれた。
 顔も腕も脚も、およそ全身の全てのパーツが細長い、ひょろっとした中年男性。
 その風貌、かつ、口もそれほど達者でないため、冴えないサラリーマンのように思われがちだが、ことコーヒーの知識と腕前に関しては相当なものをもっている。
 「趣味、コーヒー」を公言する、うちの父が唯一認めるバリスタなのだ。父とは学生時代の同級生らしい。
 「そ、そ、その子……だ、だ、大丈夫??」
 「具合が悪いとかじゃないと思います。さっきからすごい眠たがってて……。とりあえず、ドリップ2つと奥のソファ席いいですか?」
 「も、も、もちろん。い、い、急いで作るよ……!!」
 奥のソファ席はコの字型になっており、1人掛け・2人掛け・1人掛けで合計4人座ることができる。幸い、他の客はいなかったので、遠慮なく二人で使うことができそうだが……。どうしよう。
 2人なのだから、2人掛けソファを使うのは自然だろう。だけど、仕切りが無いから、もたれ掛かってこられたらと思うと思考回路はショート寸前だ。
 (とにかく……倒れないようにはしないと)
 まずは、美月を1人掛け席に静かに腰掛けさせて、さて自分はどこに座ろうかと思案する。
 2人掛けソファーの角に座る、ってことも考えられたが、1人掛けソファがあるのに1人で2人掛けソファに座ることに不自然さも感じる。
 そして、結局一番遠い位置にある1人掛けソファに座り、対面するかたちとなってしまった。
 (なんか、昔流行した歌でこんな状況のあったよなぁ……)自らの情けなさを嘆く。
 今すぐすることもなくなったので店の壁を見回す。実は、奥のこのスペースに来たことはほとんどない。壁には、コーヒー農園の写真や店長の愛犬の写真が所々に飾られていた。これらの写真と店名からも分かるとおり、店長はコーヒーと同じくらいマメシバが好きなのだ。僕も柴犬は好きなので、非常に癒される。
 しばらく後、店長が姿を現して、ブレンド2つを僕達の前に置いた。作り置きでなく、一から作ったとは思えない速さだ。定番サービスのチョコ2枚も丁寧に添えられている。
 「ありがとうございます」
 「と、と、とりあえず。な、な、何かあったら遠慮なく声掛けてね……?」
 そう言って店長はカウンターの方へ戻っていった。
 このソファ席はカウンターや他の席からは見えず、一番奥なので音も静かだ。落ち着いて話をするには格好のロケーションだ。美月が起きたら、例の話などをついでに聞いてしまうのがいいだろう。
 隣を見遣るが、まだ起きる気配は無い。冷めてしまうのももったいないので、お先に一口頂くことにした。
 口に含むと、その瞬間から広がる程よい苦味と酸味。やはり店長の淹れたものは絶妙だ。父も決して下手ではないのだが、味が濃すぎる。家族からは「豆を直接食えばいいのに」と散々アドバイスされているレベルだ。
 僕のカップが3分の1くらいになった頃、コーヒーの香りが効果的だったのか、美月が静かに眼を開いた。
 「おっ、起きたか」
 望みを叶えてあげたし、道中では背負ってあげたりもした(気づいていないかもしれないが)。
 告白の判断ポイントにプラスしてもらってもいいよ、とか、まずはお礼の反応が来るかな、と構えていたが、美月は店の中や僕の顔を凝視したり、ボーっとした眼で見たりを繰り返している。
 そして、内ポケットを探ると紙切れを一枚を取り出して、それをじっと見つめ始める。
 (あれ、この動きって……?)
 紙を読み終わると、携帯端末を取り出して恐る恐る操作しはじめ、「……ケーヤ?」と尋ねてきた。あたかも、先程の部室を再生したみたいな状況だ。
 美月は冗談や悪ふざけをするようなタイプじゃない。明らかにおかしい。おかしすぎる。僕の直感はそう訴えてくる。下手をしたら、脳の障害を起こしている可能性があるのではないか?
 「美月、どうした?」
 「……何が?」
 表情や口調は普段と変わらぬまま尋ね返してくるが、僕は引き下がらない。
 「さっきからおかしいぞ。寝て、起きると、しばらく別人みたいになってる」
 「……」
 「……」
 無言で見詰め合う。普段だったら、つい気恥ずかしさでそらしてしまったかもしれないが、今は不思議とそういうことにはならなかった。むしろ。
 「俺に言えないことでもあるのか?
  ……そりゃ、頼りなさそうに見えるかもしれないけど、美月の知らないところで、いろんな人からの不可解な謎や相談ごととか、自分でいうのもなんだけど結構ズバッと解決したりしてるんだぞ?
  美月のことだって、話してくれさえすれば――」
 「――そんなに聞きたいなら、話したげる」
 俺の言葉に重ねるようにそう言ってから、美月は目の前に置かれているコーヒーをゆったりとした仕草で一飲みして、続けた。
 「すごく簡単に言えば、あたし、永続的な記憶が上手くできないの。起きてる間は平気だけど、一回寝たら、その前までのことほぼ全部忘れちゃうの」
 寝たら忘れる? 確かに、さっきからのおかしな状態は辻褄が合うといえば合う。だがしかし、そんなフィクションみたいなことが現実に起こるものなのか……?
 「その代償なのかは分かんないけど、一時記憶と演算は人並み以上にできる。おかげで、日常生活にはそんなに支障はないわけだけど」
 僕の頭の中に、将棋を教えたときの飲み込みの早さ、先日の成績発表のことなどが次々とフラッシュバックされた。
 単純な知識とその処理ももちろんだが、その延長線上には暗黙知――いわゆる、コツのようなものがあるのだろう。
 「あんまり、驚かないんだね。もしかして、冗談言ってると思ってる?」
 「そうじゃないよ、むしろ腑に落ちてすっきりした」
 泉西先生の謎の読心術を目の当たりにしている身としては、コンピュータみたいなものすごい処理能力を持ったニンゲンの方がまだ現実的だとも思えた。泉西先生の秘密に最初に出会えていたのは、今回のことを考えるとラッキーだったのかもしれない。
 僕の反応で少し安心できたのか、美月はぽつりぽつりと話を続けていく。
 言語や日常生活を送るうえで最低限の行動など、寝ても失われない情報や記憶もいくらかはあること。
 周りの人達に不審がられないように、その日のあらゆるできごとや発言を毎晩何時間もかけて思い出し、携帯端末に記録していること。
 朝目覚めたらすぐ、昨日までのその記録を全て読み返してインプットしなおしていること。
 推測だが、ほとんどの日、放課後すぐに帰ってしまうのは日中の記録をつける時間の確保と同時に、記録対象になる情報を減らす意味合いもあったのだろう。
 先日、サイズワくんから聞いたパソコンの仕組みの話を思い出した。
 主記憶装置は電源を落とすとデータを維持できない。そのため、HDDなどの補助記憶装置にデータを記録している。さらに足りない場合は外付けのHDD、MO、USBメモリといった外部記憶装置を使うことになる。
 ニンゲンで言えば、主記憶装置が一時記憶、補助記憶装置が永続記憶、外部記憶装置が写真や日記などと結びつけるとイメージに近くなるだろうか。
 たまに、寝覚めの瞬間『今がいつなのか、どういう状況下なのか』が分からず、段々と『思い出し』てから活動をはじめたことがあったなと思い出した。普通のニンゲンなら、一時記憶がなくなっても補助記憶装置からすぐ呼び戻すことができる。だから、僕達は安心して毎晩眠れているのだ。
 美月はさっき『支障がない』と言った。慣れてしまえば問題が無いものなのだろうか。しかし、美月の次の言葉に言葉を失った。
 「日記に『こんなことがあって、こう思った』っていくら詳細に書いても、翌日のあたしには他人の日記を読んでいるのとなんら変わりないんだよね」
 味や匂いでさえ、言葉だけで思い出すことは簡単じゃない。それが気持ちとか感情のようなものであれば尚更だ。そして、それが本当に全く心当たりがないものだとすれば……。すぐに想像ができないが、それってとても辛いことじゃないか?
 「……はぁ、日中に眠くなったことなんて今まで全くなかったんだけど。昨日のあたし、全然寝付けないほど考え事してたみたい……」
 そう言われて、僕はドキッとした。約束していた告白の回答はまさに今の時間帯だった。
 「ちなみに、携帯端末のスケジュール欄に『告白の返事』ってあるんだけど?」
 「あ、あぁ……昨日、ちょっとそういうやりとりがあって」どういった反応をすればいいか、咄嗟に対応できなかった。我ながら情けない。
 「寝落ちばっかしてたせいか、途中の検討メモも何も残ってないみたい。だから、〈今日のあたし〉が答えるよ? つまり、〈昨日のあたし〉の描いていた答えと違うかもしれないけど。それは了承してよ?」
 つまり、昼休みに福路くんがしてくれた希望的観測は一切なかったことになるわけか……。しかし、昨日と今日では情報量にそれほど変化はないはずだ。〈昨日の美月〉がそれまで引き継いでいた情報を元に悩んでいたのだとしたら、〈今日の美月〉の結果は大きくは変わっていないはずだ。
 「たとえ〈今日のあたし〉が誰かを好きになっても、〈翌日のあたし〉も好きなままでいる保証はない。相手だって、そんな女をずっと好きになり続けられるはずがない」
 この話の流れって――。自分の唾を飲む音が、大きく聞こえる。
 「だから。悪いけど、無理。付き合えない」
 やっぱりか。途中からそういう流れになっている気はしていたけど、いざ言葉にされると辛いものがある。よく心にナイフが刺さったとかいう比喩があるが、的を射ている気がする。胸の辺りが一瞬の痛みのあと、じわじわと熱くなってくるのを感じる。
 僕の心臓はここ数日で相当ボロボロになったか、相当強靭なったかのどちらかだろう。
 しかし、僕は堪えた。感情によって言葉が震えたりしないように、意識しながら言葉を話す。
 「今の美月の推理で構わない。〈昨日の美月〉は俺の告白をすぐ断らなかったと思う?」
 「あたしの演算では、この騙し騙しの生活はあと4年程度で破綻する。蓄積した情報量が、毎日の許容できるインプット時間をオーバーするの。こんな生活を――障碍を劇的に解決できるような魔法探しに、ケーヤの可能性や閃きに期待したかったんじゃない?」
 美月は再び珈琲カップに口をつけてから、「でもそれは、全然恋愛とは違う。便利な道具を利用するような不純な動機」と小さく呟いた。
 なるほど。容姿も冴えない僕に、美月みたいな子が近づいてきた理由がわずかに理解できた気がする。
 「……そうか。事情は分かった」僕はソファを座りなおしながら、美月がカップを置くのを待った。そして。
 「もう一回言う。俺と付き合ってくれ」
 「……!?」
 美月は珍しく驚いた表情を浮かべる。しかし、それは一瞬だけだった。すぐに表情を平静に戻して「もしかして、耳栓してるの?」と存外に責めてくる。
 「事情は分かったと言ったろ」僕はさらりと返す。自分の中で解法が導けた以上、迷いはなかった。僕は引かない。引く気はなかった。
 「付き合うのに、動機が不純じゃだめなんて、誰が決めたんだよ? 一緒にいたい、声を聞きたい、そういうのだって広義に言えば自分の気持ちを満たすためだけの欲と言えるはずじゃないか」
 「それは普通の人達の場合でしょ。あたしは記憶が……」
 「じゃあ、そんなの、俺が毎日告白すればいいだけの話じゃないか。普通の人達はさぞ羨ましいだろうな。『3年目のジンクス』がいつまで経っても来ないんだから」
 我ながら、よくもこんな言葉が出てきたものだ。これには、さすがの美月も言葉を失っている。
 「将棋の竜王も、チェスのクイーンも。どっちも強力な駒だけど、それ単体じゃ相手の王を詰めることは絶対にできないんだ。
 美月はなんでも自分でできすぎるから……。もっと誰かを頼る――いや、利用するくらいの気持ちを持ってるくらいで丁度いいと思う」
 美月は深いため息を吐いた。それは、不快感の表れではなく、いままで大量にためこんでいた悩みごとを開放したような感じだった。
 そして、胸ポケットから例の紙をカバンからペンを取り出すと何かを書き込み始めた。
 「……ここに『瀬田桂夜を頼れ』って書いた。あたしが困ってるとき、絶対に、助けに来てよね」
 大きな壁を越えたかと思ったら、より大きな壁がやってきた。でも、この壁は一人で立ち向かわなくていいのだ。
 1+1が2以上にできるから、人は協力し、文明を発達させて来られた。
 前もって用意したわけでもないのに、美月の返事に対する言葉は自然と出てきた。
 「心配ないよ。『名は体を表す』っていうし」
 将棋での桂はチェスで言う騎士(ナイト)だ。そして、桂(K)と夜(NIGHT)は騎士(KNIGHT)だ。
 一番最初に出会ったときに交わした自己紹介のことを今の美月は絶対覚えていない、というかこの世界にもういない。しばらくして、目の前の美月もようやくその意味に気づいてくれた。
 「もしかして、キザなの?」そう言いながらほんの僅かに苦笑した美月を見ていると、とてもそうは思えなかった。
 楽観的すぎるかもしれないけれど、その表情だけできっと将来奇跡は起こせるんじゃないか、と思えた。
 
 僕は、お代わりのコーヒーをカウンターにもらいに行った。
 「け、け、桂夜くん……。や、や、やるねぇ」
 すっかり聞かれていたようだ。思わず顔が赤くなる。いくら一番奥の席だといっても小さな店だ。そして、ヒートアップして少し声のボリュームを上げてしまっていたようだ。
 「あ……は、はぁ」先程の自分の勢いはどこへやら、2つのカップを手にしてそそくさとソファ席に戻っていく。
 コーヒーをテーブルに置くと、「ありがと」と反応が返ってくる。二人の関係が明示的に変わったからだろうか、それとも僕の思い込みか、美月との間には全く壁を感じなくなってきている。
 テスト終了の開放感を凌ぐ程の高揚感を必死に抑えて、僕は晴れて彼女(というと語弊がありそうだが、適当な言葉もないのでもう彼女と表現することにした)になった美月に向き直る。
 そうなのだ。告白の返事を聞くのもそうだが、もう一つ美月としたい話があるのだ。
 「実は、将棋部が大変なことになってるんだ」
 僕は、やっとこの段階で総会でのできごとを伝えることができた。そして、何かいいアイディアがないか、と問う。
 美月は少し考えて「その七三メガネの言っていた、将棋部が最低要件を満たしていないっていうのが気になる」と言った。
 「生徒手帳貸して」
 「先日、Yシャツのポケットに入れっぱなしにしていて洗濯機で粉々になってしまった……」
 「……自分の見るからいい」
 美月はカバンから小さな手帳を取り出すとペラペラとめくり始める。40頁くらいはあるはずだが、僅か10秒で作業を終える。
 「もしかして、もうインプットした?」
 「うん」
 速読というのだろうか、僕には真似できない行動だ。毎日、情報をインプットしなおしているというのは嘘ではないようだ。
 「部活動設立時の部員の最低人数は3人必要みたいね。一旦設立してしまえばその後は人数を問われないみたいだけど」
 3人の制限というのは安易に乱立されないための制限なのだろう。その後の維持に部員数が問われないのは、例えば不幸な事故や転校などで部員が減ったときにも、残された部員が活動を続けられるようにするためなのだろう。
 会則上では特に問題がなさそうだけど、消去法で他の部と比べるならば、部員数という点で大きなハンディキャップがあったわけだ。
 つまり、大なり小なり夏の大会で成績をあげたとしてもその一点で不適格と押し切られてしまう可能性はずっと残り続けてしまうかもしれない。
 「部員を増やすしかないのか」
 「それは無理みたい」
 美月の解説いわく。生徒が部活の所属を異動できるのは春の仮入部期間のみと定められている。(確かに、そのために僕達一年生は必死に動き回っていた)
 対象の人数こそ少ないが、2年生や3年生もその期間に異動をしたり、掛け持ちを増やしたりしていたのだ。
 「つまり、7月から10月の間に新たにヘッドハンティングしたり、掛け持ちしてもらうというのはNGなのか……」
 仲の良い福路くんや勝田くんに頭を下げてみようかと思っていたが、それは即廃案となってしまった。
 奥地会長は恐らくそれを知っていたから、あの時すんなりと妥結したのかもしれない。3ヶ月だろうが半年だろうが無理なのだよ、という嘲笑が聞こえてくるようだ。
 「とりあえず、続きはまた明日考えよう」
 気づけば、部活動の時間としては終わりの時間になっていた。美月の記録の時間を削るわけにはいかない。今日のところは、一旦お開きとすることにした。
 
自宅に帰ると、玄関に父の革靴が眼に入る。仕事人間で、こんなに早く帰ってくることなどそうそうないのだが。
などと思っていると、寝巻きを着て、階段を上がっていく父の後ろ姿が眼に入った。体調でも崩して早退したのだろうか。
「父、どうしたんだ?」台所に行き、父の茶碗を洗っている母親に尋ねる。
「え? あぁ、実はね……」
聞けば、父のヘッドハンティングの話が水泡と化したのだという。
大手の会社が父以外にも食指を伸ばした結果、今の会社がそれに気付き猛然と抗議。業界全体の反発を避けるため、会社ごと買収を仕掛けてしまったというのだ。
結果的には、『ヘッドハンティングしなかった』不要な人材も組み入れることになった。父個人で見ると給与も上がらず、ただ会社の名前が変わるだけという結果に終わったのだ。
 「まぁ、ああなっても、明日の朝になったら何事もなかったかのように、会社に行くのよ。ピンチはチャンスにするきっかけだからねぇ。急性アル中になって苦しんだと思ったら、超絶女子と付き合って結婚までしちゃうんだから人生は良くできてるわ」
 「……はいはい」相変らず達者な口に苦笑する。
 まあしかし。父観察の第一人者である母が言うのだから、きっと問題はないのだろう。
 少なくとも、『ピンチはチャンスのきっかけ』は真理だろう。将棋でも、取られそうな瞬間の駒は最大限に働く……という不思議な局面が驚くほどよく訪れるのだ。
 「ご飯の量は?」
 「特盛」
 愚問だ。男子高校生の食欲を甘く見てもらっては困る。
 今日の献立は……チンジャオロースーか。ピーマン嫌いの僕にとっては、半分が毒でできているようなものだ。
 幸い、母親は明日の弁当の仕込みや皿洗いの真っ最中。こちらを常に監視しているわけではない。ここは『空城の計、桂夜バージョン』だ。
 盛られている具のうち、肉とタケノコをいただく。偏って食べたことが発覚しないよう、内部にピーマンばかりの層を作った後、適度なバランスをした層を上に作り上げる。
 ピンチをチャンスに。僕、さえてるなぁ。
 そして、タケノコを咀嚼した瞬間。身体に衝撃が走った。
 「げぇ!」思わず悲鳴を上げる。この食感、この味、紛れもなくピーマンだ。何故……?
 「ふふふ、桂夜討ち取ったり~」
 母親が振り返る。涙目の僕を見て、満面の笑みを浮かべてVサインをしている。
 「それ、海外で品種改良した白ピーマンなのよ。ちょっと黄色くして、形も真っ直ぐになるようにしたらタケノコにそっくりなの」
 「ちくしょう……、無益な研究費使いやがって……」愚かなるその食品メーカーには、早晩、神の裁きが下るだろう。
 「さすがに肉は難しいから諦めたけどね。まぁ、チンジャオロースーにタケノコを使ってはいけないってルールはないしね」
 「俺のレシピブックにはピーマンという言葉は載ってないけどな!」
 「あ~ら、生徒手帳をうっかり粉々にしてしまった人のセリフじゃないわねぇ」
 悔しいが、今回は負けを認めるしかない。
 む?
 ピーマンの苦味が刺激となったのか、僕の頭にふっとアイディアが浮かぶ。
 小皿に取り分けてしまったピーマンを大量のごはんを使って飲み込みながら、僕はなおも考える。
 もしかして、これは……突破口になりうるか?
 そして、一気に食べ終えると、茶を一杯流し込む。
 「みかん、あるよ?」
 「あとで!」
 とにかく、一人の考えじゃ不安だ。美月に検証してもらおう。
 
 自室に戻り、携帯端末を開く。ア行の一番最後に入っている「織賀美月」の4文字を見て、少しどきっとする。
 ついに、電話番号も交換してしまったという事実にまだ頭がなじんでいないのだ。
 少しの間、行動を起こしあぐねていたが、あまりもたもたしているわけにもいかない。何時に就寝するのか分からないからだ。電話に出てくれても、寝起きだったとしたら話を最初からしなくてはならなくて大変だ。
 「もしもし、美月? まだ起きてる?」
 「そうだけど。何?」
 ここは単刀直入に。僕は、考えていたことを言ってみた。
 「――確かに、生徒会則上は可能だと思う。でも、そんな都合のいい部活があると思えないけど?」
 「それがあるんだ。まぁ、今はとにかく何でもやってみるしかないし。明日、また部室で」
 「うん」
 電話を切る。
 よし、とりあえず信頼の置ける頭脳からは『可能』という言葉がもらえた。あとは、僕の日頃の行いと、演技力次第か。
 今夜も緊張で眠れなくなりそうだと判断し、自室の床で腕立て伏せや腹筋を猛烈に行う。身体を疲れさせて、寝つきを良くしようという作戦だ。
 結局、僕はその日良く眠れた。
 筋トレで身体が疲労したのがよかったのか、夕食のピーマンで精神的に疲労したのがよかったのかは定かではない。

 

 小説『Sum a Summer =総計の夏=』(4/5)に続く