小説『Spring in the Spring =跳躍の春=』(2/5)
*****
白髪混じりの頭に汗を浮かべ、後退した額には深いシワ、苦しそうな表情を浮かべる初老のおじさん。
その人が、僕のヒーローだった。
*****
第二章 『火曜日』
「瀬田! 昨日はありがとな」
翌日、登校してきた勝田くんの笑顔を見て僕は肩の荷がすっとおりた心地がした。
初っ端の笑顔がそのまま答えだったようで、新規開拓はの案はゴーサインが出たとのこと。親父さんを含めて急いで準備を進めているのだという。
「ちなみに、ここだけの話なんだが、誰もが知っているあの野菜が真っ白になった新種を国内初で取り扱うってことらしいぜ」
「そ、そうなんだ」
緑色のアスパラガスと白いアスパラガスを頭に思い浮かべ、なんとなくトマトやらホウレンソウやらを白く変色させてみたがあまりいいイメージにはならなかった。
見慣れて、それが日常になれば当たり前になるんだろうけど。
白い何かの野菜がブレイクするか否かは一旦おいておき、勝田くん的には父親から小遣い増額の交渉材料ができたと喜んでいる状況で、何よりだ。
「何か輸入したいものがあったら遠慮なく言ってくれよな! うちは法に触れるもの以外は何でも取り扱ってるからさ」
と白い歯を見せながらニッと笑う。
「ははは、ありがとう」
気持ちはうれしいけど、今のところは石油とか南京豆とかイージス艦とか、僕は特に興味はないんで遠慮しておくことにする。
*****
授業も3時間目に入り、少々集中力が途切れてきた。しかも科目は英語ときたもんだ。英語なんて、将来は万能翻訳端末が流行して勉強の必要なんてなくなる、というのが僕の予測だ。優秀な人間は、優秀な道具や人材が使えれば良いだけだ。本人がスーパーマンになる必要はない。ほぼ父の受け売りだけど。
窓の外のグラウンドを何気なく見下ろすと、体育の授業をやっているのが見えた。ジャージの色からすると、同じ一年生のようだ。
(ん? あれは?)
屈伸をしている一人の女子に目が留まる。あのポニーテール、どこかで見覚えが……。
(あ、美月!?)
「おいおい、速すぎだろっ!」
美月は脚が恐ろしく速かった。陸上部の男子と同じくらいのレベルといっても過言ではないかもしれない。
昨日、間近で所作を眺めたりしていたが、運動の類が特段優れているような雰囲気は無かった。小柄で、むしろ苦手な方かと思っていたので、そのギャップに驚嘆だ。
(……おや?)
教室の様子がおかしい。少しざわついて、皆、僕の方を見ているようだが……。まさか……。
そのまさかだった。どうやら、思っていたことが口に出てしまっていたようだ。高校入学早々、なんという失態だろうか。しかし。
「オゥ……。私は、もう一度読みます、ゆっくりと。なぜなら、生徒の中の一人から、要求を受けたためです。When I was young, I'd listen to the radio……」
(危なかった……!)
幸い、英語の石井英美先生は僕が『教科書を読むのが速かった』と勘違いしてくれたようだ。
それにしても、美月の謎が深まる。あれだけの運動神経なら、運動部からは引く手数多だろう。それなのに、貴重な仮入部期間を将棋部などで消費している。
今日、思い切って聞いてみようか。いや、それともそれこそやぶ蛇だろうか。
*****
昼休み。弁当の時間だ。
(母め。甘い、甘すぎる!)
玉子焼きの味付けが塩か砂糖かといった低レベルな話ではない。甘いおかずはおかずに非ず、という点は母と僕の数少ない思考の共有事項なので問題ない。
僕は、巧みな箸さばきで弁当箱の中の焼きそばから細長いピーマンをススス……と抜き出していく。我ながら至芸の技だ。この域まで達すると、母が後天的に授けてくれた才能であると言ってもいいだろう。
僕はピーマンが大嫌いだ。不倶戴天の敵だと認識している。人類は豊かになり、美味しい食材も多々あるのに、何故あんな青臭くて苦いものを食わなければならないのだ。全くもって理解に苦しむ。
小学生時代や中学生時代は給食制だったので、毎日ピーマンが出てくるような悲劇は起きなかった。(そんな悪逆を考える栄養士がいたなら、民事訴訟を起こすつもりだったが。)
しかし、大矢高校は給食制ではない。弁当を持参するか、買い食いをするしかない。
非情にも先例(会社勤めの父のことだ)に倣い「買い食いしたければ小遣いから出すこと。※木曜日は除く」というルールが一方的に発布されたため、毎日の昼食は弁当を作ってもらう、ということにはなったのだが。
ここに、ピーマンを食べさせようとする母と、それを拒む僕のランチバトルが勃発したのだ。
最初のころは、堂々とピーマンの肉詰めやチンジャオロースーといったあからさまなメニューを展開してきた。しかし、僕がきっちりと残し続けるものだから、徐々にカムフラージュは巧妙になっていった。
ピーマンを麺と同じレベルまで細切りにし、麺と絡めてきたが視認できる以上、僕の眼はごまかせない。
さて。腹も満たされたことだし、勝利の余韻に浸りつつ、午後の授業まで昼寝でもするか。
そう思い、机に伏せようとしたが……。
「瀬田くん、2組の琴羽野さんが呼んでるよ」
まだ名前を完全に覚えていないクラスの女子が僕のところにそう告げに来た。
(はて、コトバノ?)
聞き覚えがない名前だから、別の中学出身の子だろう。
廊下に出ると、小柄な女の子がおずおずとしながら廊下に立っていた。体型は美月と同じくらいだが、やや丸顔をしたおとなしそうな子だった。
「あの……。あなたが、瀬田くん?」
「あ、えーと。そうだけど?」
「ちょっと……ここじゃ話しづらいから……」
そういって、自己紹介もせぬまま廊下をすたすたと歩き始めてしまった。方向は別館の方だ。確かに人は少なそうではあるが。
思わぬ急展開に僕は思考をめぐらすが、彼女の目的が今ひとつ分からない。まさか、初対面で『告白』ってことは無いとは思うけれど。
それはまあ、一目惚れという可能性だってゼロではないだろうが……。
昨日の自分のことを思い出すと、説得力が急速になくなってきた。
「はじめまして、1年2組の琴羽野彩です。実は相談したいことがありまして……」
「相談?」
「あ、はい。私が困っているのを、勝田くんが『すごい頭が切れる奴がいるんだ』って紹介してくれたので」
あぁ、なるほど、一応腑には落ちた。けれど、勝田くんもなかなかプレッシャーのかかる紹介をしてくれるじゃないか……。
琴羽野さんは、制服の胸ポケットから四つ折の紙を取り出して、それを広げて見せてくれた。
(なになに……?)
――天王山、歩数、戦場の下――
「数字はたぶん7桁だと思うんです。シリンダーが7つだから……」
シリンダー? 一種の暗号だろうか。
琴羽野さんが順を追って説明してくれた。
先日、おじいさんが肝不全で亡くなり、遺品に金庫が見つかったこと。
金庫は施錠された状態だったが、おじいさん個人のものであり、家族の誰もその暗証番号を知らなかったこと。
金庫の脇にこの四つ折の紙が貼り付けられていたこと。
物理的にバーナーなどで金庫を壊すこともできるそうだが、おばあさんとしては『金庫もおじいさんの大事な遺品の一つだ』と主張して物理破壊に難色を示していること。
「おじいちゃん、入院は絶対しない、乾布摩擦と漢方で治すんだって言って聞かなくて……。でも、大好きなお酒もやめられなくて、だんだん目とか皮膚も黄色くなっていっちゃって、最後は……ぅぐっ、うっ」。
最期を思い出してしまったのか、突然泣き出しそうになる琴羽野さん。
って、こんなところを誰かに見られたら、絶対にものすごい尾鰭のついた噂話を作られてしまう!
僕は慌てて、話を元に戻そうとした。
「あ、えーと。で、何か番号を試してみたりはしたの?」
「ご、ごめんね。お父さんは、明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の戦いのことだろうっていうんだけど。
1582年6月13日で1582613では開かなかったんです。
旧暦じゃないのかもと思って、7月2日にした1582072とか1582702もだめで……」
「うーん……」
僕は腕組みをして廊下の天井をぼんやりと見つめながら考えてみる。いきなり、他人の家の7桁の数字と言われても、難易度が高すぎだ。
「難しいですよね……? あの、無理ならいいんです」
「いやっ、もう少し時間が欲しいかなって」
「あっ。そ、そうですよね……。」
正直なところ、まったく勝算はなかった。けれど、見たところ積極的なタイプでなさそうな琴羽野が、さっきまで見ず知らずだった僕に相談をするくらいには大事なことなのだ。
すぐに白旗を揚げるのは失礼だと思ったのだ。
さて、5時間目とホームルームも終え、放課後。部活の時間に突入である。
僕は、盤と駒を教室に運び込み、待った。が、なかなか来ない。
(昨日の、口から出まかせってことはないよな。こっちは、仮入部までしたんだけど)
なんだか落ち着かない。あれ、デートの待ち合わせってこんな気持ちなんだろうか。世の中の男女はこんな苦しさをしながら、恋愛しているものなのか……?
僕の心が微振動していると、
「あ、ちゃんと来てる」
相変わらず無愛想な表情だったが、約束どおり美月は今日も現れた。しかし、昨日コミュニケーションの機会があったせいか、声や態度が微妙に親近感を含んでいるような気がした。あくまで僕目線でですけど。
「約束だったからね」
あくまで、表情は「しょうがないから来たよ、本当はすぐにでも軽音楽部へ行きたいんだ」という演出をしてみるが、内心は勿論まんざらでもない。
美月は「じゃ、よろしく」と目の前の椅子に腰を落とした。
「じゃあ、今日はルールを説明するよ」
今日はテンポ良く行きたいところだ。あの面倒な顧問がやってくるまでに、ルール説明を済ませ、さらにはうまいこと美月の携帯端末の番号など、何らかのコネクションキープ確立まで持ち込む。
僕の脳は本日、フル回転で頑張らなくてはならない。
ルール
A:交互に指す。パスは無し。二連続で指すのはダメ(反則)
B:自分から王手にかかりにいっちゃダメ(反則)
C:相手の陣地(歩のライン)まで進んだら『成り駒』になることもできる。
ただし、持ち駒の場合は打った瞬間には『成り駒』にはなれない。
D:動ける場所のない駒を作っちゃダメ(反則)
E:二歩…縦のラインに自分の歩が二つ存在してはダメ(反則)
F:打ち歩詰め…持ち駒の歩を打ってトドメをさすのはダメ(反則)
G:千日手…同じ局面が4回現れたら(引き分け、指し直しの場合は先手後手入れ替え)
H:王手がかかってる状況での千日手は、王手を掛けている側が負け。
I:持将棋…相入玉などで王を詰めることで勝負を決められそうにない場合、点数計算で勝敗決める
→飛車・角は5点、王以外の駒は1点として、24点未満の方は負け。両者24点以上なら引き分け。
黒板にざっとルールを書き連ねていった。昨日の夜、少し予習をしておいたので、かなり簡潔に書けたと思うが。
「AとBはなんとなく分かるからいいよね。CとDは昨日、駒の種類と動かし方やったときに少し触れたと思う」
「うん」
「EとFは、実際に場面を見れば一瞬で理解できると思う。」
「うん」
「GとHはちょっと珍しいケースなんだけど、たとえばこんな風に、自分のほうは絶体絶命で、相手を詰めないと負けになってしまうケースがあったとする」
「お互いに、ベストな手を指そうとして結果として同じ局面が繰り返されるケースがあって。こういうのが千日手っていうんだ。特に、この場合は王手をかけちゃってるからHのケースで先手の負けになる」
「攻めてるのに負け扱いになるわけ?」
(言われてみれば、攻めているのに負けになるなんて結構不思議なルールだよな)
昨日の初手9七角や桂馬の動きのくだりも思い出し、「そういうものだ」と覚えてしまうとなかなか疑問を持つ機会がなくなってしまう一例だなと改めて感じる。
「Iのルールは変わってるね。急に数値が出てくる」
「数値?」
「要するに、駒がお金みたいになってるわけでしょ?」
「そうだね」
お金、か。
将棋をはじめた頃は、駒の価値をイメージするために、歩は1円、香は5円、桂は10円……と父から教わったものだ。不意にそれを思い出した。
「なんかさ、この板って味気ないよね。少しガタガタするし」
黒板の撮影を終えた美月は手元にあった将棋盤を指先でぐいぐい押してそんなことをいう。
「それは下の机がガタガタしてるからだよ。和室と脚付き盤があればね……」
和室はおそらく、泉西先生の言うように茶道部か華道部あたりが優先的に使っているだろうし、学校の備品で脚付き盤があるとは思えない。
「ケーヤの家には脚付いてるのあるの?」
「そりゃもう」
先祖代々、男系はみな将棋が好きだったが、僕はとりわけ棋力が高かったようだ。僕が初段をとった祝いに奮発して両親が買ってくれた脚付き盤がある。ただ、今は諸事情によりウォーキングクローゼの片隅に蹲っている状態だ。
「へぇ。携帯カメラで撮ってきてよ」
何がそんなに気になったのか、美月はそんなお願いをしてきた。取り出すのが少し大変だろうなとは思ったが、そのくらいであれば容易い。二つ返事で引き受ける。
「さて、そろそろ帰るかな。また明日ね」
「……あ、あぁ」
美月はカバンを手にして、立ち上がる。その全身を改めて見ると、華奢ではあるものの肢体も整っていた。体育の授業で見せた動きは見間違いではなかったか。
一瞬、変な目で見ていると思われなかったかと気にするが、特に気づかなかったようで「じゃあね」と、何事もなかったように教室を出て行った。よかったよかった。
「……いや、よくない!」
今日こそはと思っていたのに、またしても連絡手段が確立できていないじゃないか。
まあ、まだ火曜日。明日もここに来たとしてもまだ2日間残っているからまだセーフといえばセーフだ。
一人きりになると、この部屋は急に静かになる。壁掛け時計を見ると、非常に中途半端な時間だ。今からじゃ、きっと軽音楽部はもう無理だろう。
(今日は僕ももう帰るかな)
家に帰って、琴羽野さんのおじいさんの暗号のことでも考えてみるか。となれば、行動は素早く。厄介な顧問がやってくる前に。
僕は手早く盤と駒を片付けることにした。
*****
帰宅して、僕は弁当箱を夕飯の下ごしらえに勤しんでいる母に手渡した。母は僕の弁当箱の中に、麺のように細切りになったピーマンが残存しているのを確認すると、小さく舌打ちをしていた。
なんだか、母の闘志に火をつけてしまったような気がして身震いがする。
今日は随分しゃべったせいか、喉が渇く。冷蔵庫を開けると、クーラーポットが入っていたのでそれを取り出して茶色い液体をコップにカパカパあけた。
ふと、暗号のことを思い出していた。
――天王山、歩数、戦場の下――
ひらがなに変換したり、アルファベットに変換したりしてみるが、糸口になりそうなものではなかった。
(区切るところが違うのか? 天王山、歩数、戦場は全部感じで7つある、それらの下……っていう可能性も)
あ、そういえば、美月に脚付き盤をカメラで撮るって約束してたっけな。あれこれ考えながら、僕は茶色い液体を流し込む。と。
舌と喉に激しい違和感。
「げぇっ! なんだこの不味いの!」
おそろしく不味い液体だった。てっきり、麦茶か何かだと思っていただけに、完全にノーマークで余計に不味く感じた。
「あら。それ、昨日お父さんが自作した漢方ジュースよ。なんかセンブリとかサンシシとか入れてたみたいだけど」
センブリって、よくテレビの罰ゲームとかでやってる不味い奴じゃないか! しかし、サンシシとはなんだ?
「サンシシ?」
「クチナシの実のことみたいよ。漢方だとそう呼ぶんだって言ってたわ」
「サンシシねぇ」
脳内の要注意食品リストのセンブリ項の隣に記しておくこととしよう……。
自室に戻ると、ウォーキングクローゼットの中の隅にあった脚付き盤を引っ張り出そうとする。上に荷物を積み重ねていたせいで取り出すのに難儀した。
久々に白光のもとに晒した盤は、正直なところ、悲惨な状態に見えた。
所々に茶色いシミのような模様が浮かび、全体は飴色。黒色の升目も見えにくくなっていた。
(それでも、もう……決めたことなんだ)
うっすらと涙目になっていることに弁明するように、僕は写真を撮り始める。
(絵本だって、ぬいぐるみだって、新しいことに出会うたびに手放してきたじゃないか。それと変わらないじゃないか)
心の中の何かが決意の蓋を押し開けないよう、何度も自分に言い聞かせながら撮影を続ける。何度か試行錯誤するうち、一番まともに思える角度が見つかり無事撮影は完了した。
(あれ? 裏側は要るかな……)
脚付き盤の裏側も少し変わった趣向が凝らされている。明言はされていなかったが、結局欲しがられると、また後日この盤と向かい合わなければならないことが心配された。
(……念のため、撮っておくか)
フローリングを傷つけないよう、気を付けながら脚付き盤をひっくり返す。4つの脚が上を向き、〈血だまり〉が見えた。こうしてみると、生き物のようにも見える。
撮影を終えて、部屋の中を元通りに戻すと一息つく。写真も無事撮れたので、明日の準備は万全だ。
気持ちを切り替えていこう、と思った矢先。先ほどの裏返った脚付き盤がふいに思い出されて、同時に予期せぬ言葉たちが頭の中に〈跳躍(リープ)〉してきた。
(あ……、これってもしかして……)
小説『Spring in the Spring =跳躍の春=』(3/5)に続く