総村スコアブック

総村悠司(Sohmura Hisashi)の楽曲紹介、小説掲載をしています。また、作曲家・佐藤英敏さんの曲紹介も行っております。ご意見ご感想などはsohmura@gmail.comまで。

小説『Sum a Summer =総計の夏=』(1/5)

 *****

 

ちいさなもりのまんなかに おおきなきがありました
ひとやおはなやどうぶつが もりにやってくるまえから

きは みまもった いつまでも みまもった
ちかづくことなく はなれることなく

きにはおおきなえだがあり おおきなはっぱもありました
あついなつにはかさになり みんなひるねにきたのです

きは みまもった いつまでも みまもった
わらうこともなく おこることもなく

ちいさなもりのおおきなきは あおぞらにむけのびていき
ひろいだいちをみおろして きょうもしずかにわらってる

きょうもしずかにわら っ て


童謡『ちいさなもりのおおきなき』より

 

 *****

 

第一章 『7月1日(火)』

 

 本日、7月1日。晴天なり。
 6月生まれの人には非常に申し訳ないが、ひとこと言わせてもらおう。6月って、じめじめとして、祝日もない、地獄のような一ヶ月だったよ。
 そんな地獄がついに終わり、僕の心は晴れ渡っていた。
 制服も夏服になり、高校生活初の夏休みも確実に近づいてきていることも理由の一つに間違いはないが、第一番の理由は――
 「期末テスト、終わったー!」
 この一言に集約できよう。
 昨日まで丸々3日かけて行われたテスト期間が終わり、僕だけでなく他の生徒や教師までも言いようの無い開放感に酔いしれていた。
 え? テストの手ごたえ? ……黙秘権を主張します。
 僕が通う大矢高校は、一年間を4つに分ける『四期制』を導入している。
 多くの大学は前期と後期に分かれているし、企業の中には中間と期末だけでなく四半期決算を採用するところが増えてきているのでそのリズム感を高校のうちから身に付けさせようというのだとか。
 また、学校のカリキュラム等も四半期末に見直しや改善を行い、時代に即した教育と学習の機会を得ることができるようだ。
 テスト期間中は多くの部活動が休止状態となる。大矢高校は文武両道を謳っており、赤点は問答無用で補習だ。よって、スポーツ一筋の生徒でもなんとかそれだけは避けようと必死になっていた。
 当然、将棋部も軽音楽部も休止状態だった。
 
 1、2、3、4――2、2、3、4――
 
 ヴォーーーー……
 
 運動部の掛け声や、吹奏楽部の楽器の音など、以前の賑やかな放課後が久々に戻ってきた感じだ。
 部活の解禁日。僕は迷わず、将棋部の部室に行くことを決めていた。目的は一つ! 片思いの相手と逢いたいがためだ。
 高校に入ってから間もないうちに、僕は好みの女の子と出逢った。しかも幸運なことに、部員が二人きり(少し厄介な顧問がいるが……)という状況だ。
 ところが、その女の子――織賀美月とは5月、6月に数度しか逢えていない。
 元々、美月が部活に顔を出すことが珍しいことが一因だ。月に9、10日来るか来ないかという頻度のようだ。法則性は未だに確立されていない。(瀬田桂夜リサーチコーポレーション調べ)
 一方、僕の方はというと、軽音楽部との掛け持ちをしている。音楽は高校から本格的にはじめることになったので、ここまでは軽音楽部7:将棋部3くらいの割合で活動していた。
 さらに、僕がテスト期間直前まで長期スパンで体調を崩してしまい、病欠や早退を何度も繰り返してしまっていた。
 せっかくのチャンス、貴重な2ヶ月を浪費してしまった僕の意気込みがお分かりいただけただろうか。
 しかし、意気込んでいても逢えるとは限らない。特に約束もしているわけでもなし、かといって行かなければ逢う可能性はほぼゼロだ。
 将棋部の部室に向かい、ガラガラとドアを開けるが、中には人はいない。
 (そうそう上手くはいかない、よなぁ)
 こればかりは仕方がないことだ。気長に待つしかない。盤と駒を机の上に置き、僕は椅子に腰掛ける。
 鞄からマイ水筒を取り出して一口飲む。本日は、マテ茶だ。やけにマニアックなのは父のせいである。
 簡単な式で表すと次のようになる。
 
 父が健康志向を主張 + 母は各々作るのが面倒だから二人とも同じもの飲みなさい = 毎日健康茶
 
 最初は「なんだこの苦い汁は!?」と思っていたのに、慣れてくると心が和むようになるのだからニンゲンって恐ろしいよね。
 さて。
 将棋は、基本的に二人でするゲームだ。一人じゃどうしようもない。ここに、将棋部における根本的問題がある、と認識する。
 将棋部的にも僕的にももう一人の部員が足繁く来てくれればこの上ない解決方法であるが。
 当座はパソコンでも導入してみようか、と考えてみる。最近の将棋ソフトはよくできているものが多い。アマチュア強豪レベルならば良い練習相手になるだろう。
 一時期、将棋をやめるきっかけの一つにもなったコンピュータ将棋を導入しようと検討するのだから不思議なものだ。
 ただ、自宅のパソコンを学校に持ってくるわけにも行かないし、携帯端末の処理性能では性能不足だ。
 顧問の泉西先生に学校の備品でパソコンが借りられないか交渉してみるかな。職員室に押しかけようかとも思ったが、今はテストの採点期間なので生徒の入室はNGだ。
 美月とすれ違いになってしまうおそれもあるから、ここは詰将棋でもして待ちの戦略をとることにしよう。

 詰将棋とは、端的に言ってしまえば『将棋の駒を使ったパズル』だ。
 指し将棋と同じく、相手の王将を詰める、というのが目的なのだが、いくつか変わったルールがある。ざっくり言うと次のような感じだ。
 その1、必ず王手を続けること。
 その2、自分は最短で詰めることを目指し、相手はできるだけ最長手数で逃れようとすること。
 その3、盤上に『飾り』のような無駄な駒を配置しないこと。また、持ち駒も余らせないこと。(これはつまり、詰将棋作成者へのルールともいえる。盤上に無駄な駒を配置したり、持ち駒を全て使い切るように作らないといけない)
 中には、週間少年誌のお色気漫画の展開並みに「絶対こんな状況、ありえないから!」と叫びたくなるような問題もあるのだが、それはそれ、ご愛嬌だ。
 ただ、パズルと侮ることはできない。アマチュアは勿論、プロの棋士でも終盤力のトレーニングには詰将棋はもってこいなのだ。
 盤と駒、対戦相手がいなくても本が一冊あればできるし、隙間時間を有効活用することもできる。
 僕は直感で指すことが多いので、緻密な読みが必要となる終盤が相対的に苦手項目といえる。
 (この本もやっと半分まできたか)
 確か、小学4年生くらいの時に親に買ってもらったような気がする。一時期やめていた時に封印していたものを引っ張り出してきたのだ。
 小学6年生の頃に全部解けているだけの実力があったら、あの全国大会で江辻に勝ち、優勝して自分の進路も随分と変わっていたのだろうか。プロ棋士を目指していたりして。
 いやいや、考えてもしかたない空想だ。
 大矢高校に入って、美月とも出逢えて、今は音楽と将棋(とちょっとばかりの勉強)の両立を目指しているところなのだ。
 決して遠回りしているわけじゃない、と考え直す。
 その時――
 ガラガラというドアの開く音と共に「お、いる」と懐かしい声を聞いた。
 手許の本から視線を移すと、そこには期待通りの姿が立っていた。もう一人の将棋部員、織賀美月(夏服バージョン)だ。
 女子の制服は、ブレザーにネクタイだったのが半袖シャツとリボンに変わる。ちなみに、男子は半袖になるだけだ。
 (おぉ……、夏服も……いいなぁ)
 美月は部屋に入ってくると、手近な机にバッグを置いた。
 「センセから聞いたよ。体調もう平気なの?」
 「あぁ、うん。この通り」
 僕は両手を挙げて応じる。
 「……? それ、なに?」
 手に持っている本に気づき僕に尋ねてくる。
 「これ? 詰将棋だよ」
 「爪将棋……?」
 ……うーん、なんだか勘違いされている予感がする。
 よく考えたらこの間まで将棋のルールも知らなかったわけで。知らなくても不思議ではないわけだが。
 物心ついたときから将棋に接してきた人種としては、カルチャーショックではある。
 将棋部員なのに詰将棋を知らないのはさすがにまずかろう、と例によって丁寧に正確に詰将棋というものを教えてあげた。
 さすがに吸収は早かった。本の前半の方の問題を試しに見せてみたところ、あっさりと解いていってしまう。
 「暇つぶしには結構いいと思うよ。この本貸そうか?」
 「常に暇がないから、いらない」
 ……そうですか。これが美月の標準スタイルだと認識済みなので腹も立たなくなってしまった。RPGの装備に『僕の堪忍袋』が登場したら、さぞや守備力が高い設定になっていることだろう。
 「アローハー! 諸君! 元気KAI!?」
 そして、……来たーーーー。
 渋い和服を着込んでいるのに、このヘリウムガスと良い勝負の軽さ。全くついていけない、否、ついていく気になれないノリ。
 大矢高校の現代国語教師であり、非常に残念なことに、この将棋部の顧問である泉西先生だ。愛用の扇子をパタパタと仰ぎながら部室の中にずんずんと入ってくる。
 扇子には〈黙って俺についてこいっ!〉と書かれている。誰がついていくもんですか。
 「ははは、俺のスペシャルな問題はいかがだったかな? まさか、筆者が作品を書いたときの娘の気持ちを問われるとは思わなかっただろう」
 「あんなメタな視点の問題、アリなんですか? 泉西先生も答え分からないでしょ」
 「うん。だから、ちゃーんと文章になってれば全員丸だぜ。問いに対して何にもレスポンスをしないヤツは社会で生きていけないぜ~、という、実は俺からのありがたい処世術伝授問題なのだ!」
 なんだか、相変わらず屁理屈街道爆走しているなぁ。一体、この高校の教師採用基準はどうなっているのだろう。
 「と、俺のすごさをアピールしている場合じゃなかった! 部長よ、総会にお行きなさい!」
 「ぶ、ぶちょ……うですか?」
 「そうだよ。何を言っている、部員はお前達だけだけだろうが。瀬田は将棋だけが取り柄だろう。だから部長手続きをしておいてあげたぞ」
 「だけ、は余計です! って確かに部長はどちらかになりますけど……」
 まぁ、美月は頼みに頼んでも部長をやるようなタイプでもないだろう。致し方ないところだ。
 と、総会って、一体なんだろう。
 見るとニコニコしている泉西先生と眼が合う。
 「総会って、一体なんだろうって顔してるな?」
 「心を読まないでください!」
 泉西先生はどういうわけか、人の心を読むという反則的な特技を持っている。
 「では、丁寧に教えてやろう。まず、物凄い偉い存在が『ヒカリ、アレ!』と申されたところから物語は始まる」
 物凄い偉い存在が何故カタコトだったのか突っ込もうか迷ったが、やぶ蛇と思い「えーと。ものすごく丁寧じゃないのでお願いします……」とだけ返す。
 泉西先生は「生き急いでやがんなー」とぶつぶつ言ったが、とりあえず説明はしてくれた。律儀なことにものすごく簡単に。
 まず、部活は第一部と第二部に分けられているのだという。
 簡単に言ってしまえば、第二部は愛好会(部活もどきのようなもの)で正式な部活ではない。部室も共用室を交代で使用しなければならない。
 対する、第一部は専用部室を与えられ、予算も受けとることができる。その他、秋の学園祭のスペースなどでも優遇も多い。
 総会は、その第一部の全部活の部長が集まり、予算や要望や情報共有を諮る場いうことだった。
 将棋部は近年部員ゼロだったが、顧問である泉西先生が代理で出席していたのだという。泉西先生の暗躍があったのか不明だが第一部に留まり続けていたようだ。
 「俺、これからテストの採点しなきゃいけねーしさ。採点遅れると給料減額なんだよ! てなわけで、ヨロシク頼むぜ部長!」
 そういうと、砂嵐のように教室を後にしてしまった。この手の素早いモンスターは、倒すと経験値がたくさんもらえるのが相場だが、きっと泉西先生を倒しても得られるものは少なさそうだ。
 
 「ここ、かー」
 見上げたプレートには〈大会議室〉と書かれている。
 結局、僕が総会に出るということで、美月は帰宅してしまった。
 せっかく、久々に訪れた逢瀬だったのに……。そういえば、もうすぐで七夕だなあ。
 ドアはきっちり閉まっており、中は伺い知れない。意を決して中に入らなければならないわけだが、ドアを開けた瞬間に上級生の視線が集中したりするのは勘弁だ。
 3年生はきっと互いに見知った顔が多いだろう。そうでなくても今年度の総会は2回目だから、基本的には僕一人だけが『新参者』のはずだ。
 そう思うと、少し心音が高鳴り始めてくる。
 (こういうの、ホント向いてないんだよな……)
 しかし、そんなこといっていたら、音楽ライブなど夢のまた夢ではないか。
 高校に入って、どんどん自分のダメなところを変えて生きたいと思っているんじゃないか。自分自身を騙し騙し奮い立たせる。
 (なるようになれ、だっ!)
 ドアを恐る恐る開けると、中にはまだ数名しかいなかった。心配していた視線も特に突き刺さってこない。
 (あれ? 場所、間違えてはいないよな)
 辺りを見回す。四角に並べられた長机の上を良く見ると、『●●部』といったアクリル板が席ごとに並べられていた。
 場所に間違いはなさそうだが。少し当惑の表情で入口に立ち止まっていると。
 「10分後には始まるよ。みんな時間が惜しいから、いつもギリギリになって一斉に集まって来るんだよ」
 脇にいた女の人が丁寧に教えてくれた。
 と、あれ?
 どこかで会ったことがあるような、ないような。誰かに似ているような、似ていないような……。
 それは相手も同じだった。僕の顔を見て、何か記憶の糸を手繰り寄せているようだ。
 「あ。キミ、もしかして瀬田くん?」
 「えっ、あっ、そ、そうですけど……?」
 不意を突かれ、戸惑ってしまった。まさか、三年生の女の先輩に名前を知られているとは思わなかった。
 良い噂なのやら、悪い噂なのやら。
 そして、今度は僕の記憶と推理の糸に手ごたえが合った。
 「あっ、勝田くんの、お姉……さん? ……ですか?」
 「ピンポーン!」
 改めてよく見てみると、キリリと締まった面持ちやスポーティな体格は勝田くんの持つ雰囲気とよく似ていた。
 ちらっと机上を伺うと、『女子バスケ部』とあった。なるほど、スポーツ一家だなぁ。
 「ダイから将棋部の瀬田くんの話は聞いてたんだよ。で、今回二回目であるはずの総会で挙動不審アンド一番上のボタンまできっちり閉めた男の子とくれば……ね。うちの推理もなかなかのもんでしょ!」
 「あ……、はっ、はい。そうですねっ!」
 「ダイがべたほめでさ。あいつ、この間の件で小遣いアップしてもらって、本当うらやましいわー」
 この間の件――勝田くんのおじいさんがお父さんに出したメッセージのことだ――で小遣いアップできたのかぁ。それは、僕としても羨ましい限りの話だ。
 勝田くんのお姉さん、勝田ルイ先輩はとてもハキハキした人だった。大矢高校の話、勝田家の話、とめどなく話をしてくれる。
 基本的に相槌だけ打っていたのだが、そのおかげで先程までの緊張は自然と解けていった。
 突然、ルイ先輩はふと何かを思い出したように「ちょっと、試させてもらっていいかな?」と言ってきた。
 「試す、ですか?」
 「そうそう。あ、難しく考えなくてもいいの。ちょっとしたクイズみたいなもんだから。もしいい答えができたら……あとで『ごほうび』あげる」
 「クイズ……?」
 クイズというより、正直なところ、その後の『ごほうび』のほうが気になるのだが。さっきまでは気にしていなかった、ルイ先輩の艶やかな唇がとたんに気になってくる。
 バカ、そんなはずないだろ! 冷静になれ。十秒……二十秒……一、ニ、三……。って『秒読み』じゃ逆に焦ってしまうじゃないか!
 ルイ先輩はそんなカオスな心境になど気づくことなく(気づいてくれないほうがありがたい)話を続ける。
 「うちの家の前って自動販売機があるんだけど、ちょっと妙なことが起きたんだよね」
 確かに、勝田くんの実家の前には自動販売機が置いてある。ビールとかタバコではなく普通の飲料系だった気がする。
 ルイ先輩の話を要約するとこうだ。
 
 ・飲料の値段は全て100円。
 ・それなのに、毎週の回収時に調べてみると、10円が50枚近く入っている。
 
 「これ、実はもう答えが分かっていてね。聞いたら、なーんだな感じなんだけど。どういうことだったか分かるかな?」
 これがクイズの問題、というわけか。
 10円が50枚ということは、飲料5本分だ。一週間に、5人くらいは全て10円玉で買っていく人がいてもおかしくない気もするけど……。
 しかし、ここで問題を出してくる以上、普通の答えではないのは確実だろう。
 「すみません、質問はありですか?」
 「そうだねぇ。じゃ、3回までオッケーとしよう」
 3回か、それでも随分とありがたい。慎重に使いたいところだけど、まずはこれは聞いておきたい。
 「その10円玉って、製造年はバラバラでしたか?」
 「ふむ! なかなか、いい質問だね。製造年はバラバラだったよ」
 もし、製造年が全て同じだったのならば、『お釣り用に銀行でもらった硬貨の棒を蔵出しにした』とかかと思ったけど。
 ジュースは売れていたのだろうか。ジュースが買われずに、自販機の硬貨だけが入れ替わっていたとしたら、偽造硬貨を入れ替えてたなんて話もあり得るかも。
 あとは、貯金箱に貯めていた10円を一気に大放出した人がいた、とかだけど、10円玉を飲料を買うことだけに使い続けるだろうか。
 「もしかして……学生、細かく言うなら小学生が20円ずつ出し合ってジュースを買っていたとか……? あれ!?」
 気づいたらそう口にしていた。それには自分自身が一番驚く。質問のチャンスがあと2回残っているというのに、勝手に〈跳躍(リープ)〉してきた考えを言語化してしまっていたのだから。
 次に声を発する時は『質問その2』が来る、と構えていたのか、ルイ先輩もきょとんとした表情を浮かべていた。しかし、すぐに「続けてみて」とだけ返してきた。これは後に退けない雰囲気だ。
 僕は、まだ固体になっていなかった気体のような自分の考えを少しずつ言葉にしていった。
 まず、50枚の内訳を10枚×5日と仮定すると、『平日のみ』購入されると推測できそうだ。
 とすると、そこを通る学生か会社員かが怪しいが、一人で10円を毎日10枚も入れ続けるとすると奇妙すぎる。
 複数人が10円を10枚分用意していたならばまだ現実的と考えられる。そう、10人が10円ずつ出し合うならば現実的だし、毎日続けることも可能だろう。
 さらに、10円を恒常的に持っていそうな――例えば小遣いとして10円玉を毎日持っていそうな――年齢層は小学生ではないだろうか。
 10円で缶の10分の1だけを買うことはできない。しかし、一旦買った後、飲料を10等分に配分しなおすのならばその希望は叶う。
 あとは、10人で10円ずつか、5人で20円ずつかということだけど、登下校のグループとするならば5人の方が妥当そうに思えた。
 「驚いた……。ほぼ正解だね。てか、あの内容だけでこんなにすぐ筋の通った推理ができるなんて、上等上等。気に入ったよ!」
 ルイ先輩の補足によると、小学生の人数は5人で、買った後は山分けするのではなくジャンケンをして勝った人だけが1缶分飲める仕組みだったらしい。最近の小学生はなんとも競争心旺盛なことだ。
 それはそうと。気になるのは、『ごほうび』だが……。
 見ると、ルイ先輩はずいぶん満足したようで、僕の背中をバシバシ叩いたり、大きく頷いたりしている。
 「よし、約束どおり『ごほうび』あげるよ」
 言うなり、ルイ先輩が顔を僕のほうにすっと近づけてくる。
 おおっ。ニーチェさん、違います。神はまだ生きてます!
 いや、しかし僕には美月という想い人がいるというのに許されるのか。片思いじゃないのかという指摘は却下します。そう、カレーは好きだけど毎日食べていたらありがたみが薄れちゃうでしょう? 人間、ハヤシライスが食べたいときもある。ハヤシライスを食べることでカレーの美味しさが再認識できるというか。比較が大事なんです。人生でカレーしか食べたことがない人は本当の意味で「カレーが一番」と認識できないのです!
 心の中で、小さな僕が美月の写真を握り締めている僕の群集に向かって大いなる力説をしている。ルイ先輩の顔はなおも近づいて……。
 すっと、僕の左耳の脇にそれた。そこで、「……味方してあげるから」小声でそういった。
 (えっ、ど……)
 どういうことですか、と声にしようとして周りの様子に気づく。推理と話に夢中になっていて気づかなかったが、既に議長席を含めたほぼ全ての椅子が埋まっていた。
 「そろそろはじめます」
 そんな声が聞こえたので、とりあえず「ありがとうございます」と返した。ルイ先輩の真意が分からぬまま、『将棋部』の席に急いだ。
 
 「定刻になりましたので、第二四半期の部活動総会を始めさせて頂きます。生徒会、副会長の辰野です。本日、司会兼議長を務めさせて頂きます。
  まず、奥地生徒会長よりご挨拶をお願いいたします」
 辰野副会長に促されると、制服の一番上のボタンもきっちりと締め、高校生としては異色の七三分けをしている男子生徒が一同に礼をした。
 「生徒会長の奥地です。皆さん、本日はお忙しいところご足労感謝いたします」
 あれが有名な奥地先輩か……。
 見た目はあまりイケていないが、常に学年3位以内をキープする秀才だ。将来は父親と同じ弁護士になるのが目標で、それも難しくないのではないかと評判される秀才だ。
 「本日は第二四半期の始まりに伴い、各部への報告および挙げられた要望に対する議論をさせていただきたく。まずはお手元のアジェンダをご覧願います」
 手元のレジュメは次のように書かれていた。
 
 1.生徒会からの連絡事項
 2.各部からの活動報告・要望等
 3.次回開催日について
 
 (2の活動報告ってなんだろう……)
 まさか、この大勢の3年生の前で何か話をしなければならないのだろうか。そう思うと、少し手のひらに汗が出てきた気がする。先生、聞いてないすよ!
 「まず、『生徒会からの連絡事項』です」
 奥地先輩の話が淡々と続く。
 「今月は防犯強化月間です。各部、活動終了時間の厳守、および活動後の施設施錠を徹底願います。また、今月下旬から夏期休暇が始まります。遠征等で追加の部費申請が必要となった部は本日の資料に添付した申請書に記入し、逐次申請するようお願いします。生徒会にて、学務経理課に仲介いたします……」
 内容はいたってシンプルなことばかりであった。となると、先程ルイ先輩が言っていた『味方したげる』とは一体何を意味しているのだろう……?
 「……連絡事項は以上です。続きまして、各部からの活動報告・要望等をお願いします。まず、男子陸上部からどうぞ」
 奥地生徒会長に促され、色黒短髪の非常に体格がいい男が返事をする。
 「男子陸上部です。春季大会にて、3名が地域予選を突破、うち1名が――」
 はぁ……、さすがというかなんというか。大会でしっかり結果を出しているのだ。
 「要望は特にございません。以上」
 うーむ、この分で行くと僕も将棋部部長としてなにか発言をしなければならないのか。段々気が重くなってきた。

 そして、ついに発言の番が巡ってきた。
 「しょ、将棋部です……。えーと、その」
 視線が一斉に注がれる。耳たぶや目頭が熱くなっていくのを感じる。1対1ならば知らない人とでもそれほど緊張せずに話せるのだが、大勢相手だとどうにも不得手だ。
 「活動は……部員が集まりましたので、始めはじめたところです。あー、……えーと。た、大会は夏休みに、個人戦に参加する予定でございます――」
 なんとか話しきった……。こんな緊張はいつ以来だろう。あ、美月の走っているのを見て叫んでしまった英語の授業中か。じゃあ、意外に最近だったか。
 椅子に腰掛けて、隣の囲碁部部長が話し始めるとやっと終わったという実感に包まれた。発言が終わってしまえばなんということはなかった。あとは、聞きに徹するだけでよさそうだ。他の部長はさすがにみな慣れた様子で報告をしていき、最後の部長までつつがなく終わった。
 「第一部の活動報告は以上ですね。……では次に要望等ですが、まず第二部の白物家電研究部から昇格申請があがっております」
 白物家電? 洗濯機とか冷蔵庫とかのことだよな……。高校生が何をやってるんだか。思わず苦笑する。
 「……そこで、近年の実績を踏まえて将棋部を降格として入れ替える起案をいたします」
 浮かべていた苦笑が、そのままフリーズする。
 (……えっ?)
 今、降格とか聞こえたような、気がするけれど。降格ってことは、第二部になるってことで、部室が使えなくなる? 部活はどこでやればいいんだ? 美月とはどこで会えばいいんだ?
 目の前が放送終了後の番組の砂嵐のようになって、周りの声は膜を通しているように遠く感じる。母に聞いた、貧血の症状に近いような気がする。
 落ち着け、落ち着け、落ち着け。
 まずは色々と質問をして、状況の把握をしないと抗弁だってできやしない。それにしたって唐突過ぎじゃないか? なんで、こんな大勢の前で、逃げ場のないようなところで言い出すんだ?
 落ち着け、落ち着け、落ち着け。
 でも、貧血のような症状は治まらない。頭が全然働かない。あの、時間切れで負けた江辻との一戦の後のように――。
 (僕、全然成長してないじゃないか……)
 そう思うと、情けなくて。なんだか目頭が熱くなってきた。って、高校生にもなって人前で泣いてしまうのか僕は……? それだけはまずいだろう。学校中の笑いものだ。誰か、僕を助けて――
 そのときだった。
 「すみません、ちょっと発言よろしいでしょうか」
 静かな会議室に凛とした声が響いた。その声に、症状が幾分和らいだ。声した方向には手を挙げているルイ先輩がいた。
 そして、視界に入っている全ての部長達はみな、拍手の直前ギリギリで手が止まっていた。ルイ先輩の発言が一瞬遅かったら、満場の拍手で掻き消えていたかもしれない。
 「……女子バスケ部部長、発言を認めます。どうぞ」
 「はい。将棋部については経緯をご存じない方々が多いと思いますので、代わりに補足しておこうかと思います。将棋部は4月まで部員が居ませんでした。そこに、元全国3位の期待の新入生が入ったわけです。それが彼です」
 ルイ先輩が、僕のほうに手を向ける。それに誘導されて、会場全員の視線が僕に注がれる。
 視線のやり場に困ってつい下を向いてしまったが、僅かに感じた。今まで、好奇の目で見られていた視線の中に「ほう?」という色が混じっていたことを。
 ルイ先輩はなおも話を続ける。
 「我々運動部と違い、将棋の大会はそう頻繁にあるものではありません。もう少し、せめて半年、実績ができるチャンスを待つことはできないでしょうか」
 先程の『味方したげる』の意味を理解すると共に、胸が熱くなるのを感じた。
 しかし、奥地会長はあからさまに眉根に皺を寄せ、唸る。「……難しいですね」半ば演技が入っている風情に見えた。
 「将棋部なりの事情があることは一理ありそうですが、白物家電研究部のあげた実績に着目すると第一部への昇格には問題がありません。すると、半年の猶予は長すぎるように思えます。生徒会則にも『第一部と第二部の入れ替えについては、公正かつ柔軟に対応すべし』とあります。仮に、将棋部が第一部に相応しいとアピールしたいのであれば、白物家電研究部と同じく第二部の状態で実績をあげて、再度の昇格申請をするべきである。これが生徒会の見解です」
 万が一の論駁に備えてきたであろう、朗々とした声が部屋に響き渡った。裁判の判決を受ける人の気持ちって、こんななのかな。まるで他人事のようにと感じられた。
 「他に意見はありませんか?」
 ルイ先輩と僅かに目が合う。その眼は「力が及ばなくてゴメン」と語っているようだった。僕は、「そんなことありません、十分うれしかったっす」という表情を返す。
 青天の霹靂でまだ気持ちの整理がついていないが、きっとなんとかなるだろう。夏の大会への意気込みがむしろ高まりそうだ。大きく一つ深呼吸する。
 「発言、よろしいですか?」
 議決を唱えようとしたところに、再び声が投げ掛けられた。
 「……軽音楽部部長、発言を認めます。どうぞ」
 奥地会長は露骨ではないもの不快な様子をわずかに浮かべたが、辰野副会長は表情を変えず淡々と応じた。
 声の主は、周りの3年生と比べても一際小柄な男子生徒だった。
 そして、その男子生徒の卓上には『軽音楽部』のプレート……って、あんな先輩、いただろうか……? 掛け持ちしている僕が言うのもなんだけど。非常に失礼な話だが、正直、印象が全然ない。
 何より気になるのは発言内容だ。果たして、敵なのか味方なのか?
 「将棋部が降格の候補となった理由はなんでしょうか?」
 奥地会長の眉がピクリと動いた。軽音楽部部長の質問を、生徒会を詰問する内容と捉えたような表情だ。
 「周知の事実かと思われますが。第一部の中で、唯一最低要件を満たしていないからです」
 奥地会長は言外に質問に価値がないという皮肉を込めて切り返す。しかし、軽音楽部部長は全く動じた様子はない。
 「白物家電研究部の実績とはどういったものですか?」
 「大きく2点。5月の全国大会準優勝、運営しているウェヴサイトの閲覧数が一日あたり約2万件、です」
 「全国大会の出場校数、それとウェヴサイトのユニークユーザーの数はいかほどでしょうか?」
 「出場校数は5校。ユニークユーザーは約4000人と聞いております」
 僕も含めて、周りの部長達は二人のやりとりを固唾を飲んで見守っている。というより、見守るしかない雰囲気だ。
 軽音楽部部長は「ふーむ、なるほど確かに悪くない実績かもしれませんねぇ」と小さく呟いている。奥地先輩も面倒な事態が収束したと断じ、構えを解こうとしたところで、軽音楽部部長は追撃した。
 「質問を変えます。白物家電研究部からその申請があがったのはいつ頃の話でしょうか?」
 「……5月26日、16時47分28秒。生徒会室にて、白物家電研究部部長から生徒会会長に様式『生ブ管-37』の記入済み書面を手渡しにて申請を受け付けました。……その他にご質問は?」
 奥地会長はトドメと言わんばかりに細かな情報を提示した。弁護士の卵に弁論で勝負を挑むのは無謀なのだ。それでも、部長には後でお礼を言いにいこう。嬉しかったのは事実なのだから。
 しかし、軽音楽部部長は一瞬考えたあと、こう続けた。
 「その頃であればテスト期間にも入っていませんね。臨時総会を開かずに、本日まで起案をされなかったのは何故でしょうか?」
 その発言内容に、奥地会長はいち早く渋面を浮かべる。
 「白物家電研究部の申請を今日の定例総会で起案したということは、不急と捉えられた訳ですよね。今回、将棋部自体にも事前の通達がされていらっしゃらかったわけですから、対応や決定は同様に、早くとも次の定例総会――10月以降で十分かと思われますが」
 そこまで聞いて、僕にも意味が理解できた。だが、よく聞けば詭弁の類だ。うわさに聞く奥地会長もこのくらいで折れる性格ではないだろう。
 早速、論破のため声を発しようとしたが、それは室内に突如鳴り響いた拍手に阻まれた。
 再び、ルイ先輩だ。
 それに同調して、他の部長までもパラパラと拍手をし始める。先程までの論戦を見て、この場を早く収束させるのを望む者が大多数だということの証左だった。我々は早く部活に戻りたいんだというオーラも感じる。
 また、先延ばしになる間、当事者間で問題が解決する可能性もありうるという目論見もそれなりにあるのだろう。当事者たる僕も、先延ばしは大いにありがたいので、少し遠慮がちに手を叩いてみた。
 奥地先輩は歯を食いしばり、手短に「……異論はありません」と引き下がり、手短に次会開催日を通達するとあっさりと散会を表明した。
 
 教室から人が次々に出て行く。彼らにとっては、将棋部の浮沈も所詮は対岸の火事だろうし、早く部活に戻りたい気持ちでいっぱいなのだろう。
 奥地会長も足早に去っていった。
 残ったのは、机上のアクリル板を片付ける生徒会の面々を除くとルイ先輩、軽音楽部部長と僕だけになった。
 「ルイ先輩、部長さん。さきほどはありがとうございました」
 二人に向かって、丁寧に頭を下げる。
 「さっき約束したしねぇ」ルイ先輩は片目でウィンクをする。
 「でも結局、時間稼ぎにしかならなかったのは力不足だったな」
 「そんな……。即刻、部室返上に比べたら全然ありがたいです」
 そして、軽音楽部部長に向き直り頭をぺこりと下げる。
 「いやいや。礼には及ばないよ。奥地も今まではあんな無茶苦茶を言い出す奴じゃなかったんだけどな。父親にアピールする実績が欲しかったんだろうけど」
 現役弁護士を父親に持つ、というのはどれほどのプレッシャーなのだろう。頭に浮かべても全く想像ができない世界だ。だからといって、将棋部の降格を容認するつもりにはなれないが……。
 「なんといっても、ルイが庇うとなれば僕が力にならないわけにはいかないしね」
 そういって、ルイ先輩の肩の上に気軽にぽんと手を置く部長。うーむ。なるほど、二人は恋人同士だったというわけか。
 「この人、細かいところ突いてくるの、ほーんとにやらしいんだよ? っ……そういえば、この間、映画見終わったときも~」
 ルイ先輩が、何やら思い出し怒りをはじめそうになったので、部長は慌てて話題を変えようとする。
 「ははは。それに、爺さんの金庫の件ではお世話になったしね」
 「ん……え、えぇっ!?」
 お爺さんの金庫、ってまさか。そういわれてみれば、面影があるといえばあるというか。なんだか、こういうのって将棋倒しのように続くもんだなぁ。
 「自己紹介したことなかったっけか? 琴羽野主税。琴羽野彩の兄だよ。今後ともよろしくね、瀬田くん」

 大会議室を後にして、よろよろと部室に向かう。呼吸こそ苦しくはないが、足取りはマラソン大会で走り終わった後の重さに近いものがある。
 部室に着くと、がらんとした室内がいつもより暗く、広く感じた。部屋に入るとすぐ、後ろ手にドアを閉めていた。自分自身と、この将棋部に迫りくる脅威をシャットアウトしたい思いが強かったのかもしれない。
 とりあえず、諸先輩方のおかげで、10月までの3ヶ月という執行猶予期間が設けられた。しかし、何も対策を講じないでいたら、秋には今度こそ降格が確定してしまうことだろう。
 やはり、一人では心許ない。明日以降で美月にも相談してみよう。ドライな面が多い美月だが、とても頼りがいがある。少し、本当に少しだが、せめてこの困難にかこつけて一緒にいる時間を増やしてしまおうという下心も無いわけではない。少しだから許してほしいところだ。
 泉西先生にも相談してみるべきだろうか……。非常に悩ましい問題だが、採点期間が済んだらきっと黙っていても押しかけてくるだろう。また、読心術を持っている以上、こちらがいつまでも隠し続けることも不可能だろう。よし、腹をくくって、相談しよう。
 少しずつ頭の中が整理されてきた。さて、今はどうする? 今日、その二人に会える可能性は相当低いわけだが……。
 「帰るか」まずは落ち着いて、現状を整理するべきだと判断する。それには、自宅の方が最適だ。
 盤と駒を手に取り、片付けようとしたところ、ドアの方に人影を感じた。
 一瞬、美月が戻ってきてくれたのかと期待したがそうではなかった。僕は、努めてがっかりした表情を出さないように気をつけた。
 「あ、琴羽野さん」
 「お久し振り」
 奇遇なことに、現れたのはつい先程会った先輩の妹である琴羽野彩さんだった。彼女は1年2組、クラスは違うが、以前彼女のお爺さんの金庫の暗証番号を推理したときから知り合いになった。
 アヒル口というのか、猫口というのか、口角が上がった表情であることに今日なんとなく気づいた。女の子と話をするのに慣れ、観察する余裕がでてきたためか、それとも、顔なじみになり琴羽野さんが心を許してくれたためなのか。美少女というほどではないのだが、愛嬌がある顔や仕草の持ち主である。
 「お兄ちゃんから聞いたよ。なんだか、部活が大変なことになってるって……」
 「え、あー……。うん」
 情報が早いな、と驚く。高校生くらいになると、学校で兄弟姉妹と一緒に話すのはなかなか気恥ずかしいと聞くのだけど。メールなどでやりとりしてたのだろうか。この分だと、勝田くんもこの件を知っていたりするかもしれない。
 将棋部関連の話がくると思い込んでいたが、そうではなかった。
 「こんな時に相談なんて迷惑だとは思ってるんだけど……これ」
 そういうと、カバンから静かに封筒を取り出し始める。
 心臓が一瞬、きゅう……と締め付けられたようになる。
 二人きりの時、女の子から渡される紙封筒といったら。
 ラブレター……じゃないのか?
 僕は、ぼーっとする頭で紙封筒を受け取った。
 「開いてみて?」
 「う……うん」
 こういうのって、普通渡したら恥ずかしそうにしてサーッて帰っていくものじゃないのだろうか? 目の前で読ませるとは、琴羽野さんの度胸は見かけによらず強烈なようだ。いや、この展開は、逆に僕のほうが恥ずかしくないか? 琴羽野さんは僕が読み始めるのを、散歩をせがむ犬のように見つめている。
 ううむ……、ここで変に抗うわけにもいかない。
 封筒には特にシールや糊付けはされていなかった。おや、と少し違和感を持った。まぁ、最初からその場で開けてもらうつもりだったなら、逆にそういう加工は煩雑と判断したのかもしれないなと思い直す。
 言われるとおりに、封筒を開いてみると……。
 「ん!? な、何これ?」
 中から出てきたのは少しサビの浮き始めた長方形の金属板だった。幅は手のひらくらいで、長さは5cmくらいだろうか。表面には凹凸がバラバラに穿たれている。
 切断面や金属板の質からして、市販の製品というよりは素人が加工したもののような印象だ。
 視線を上げると、琴羽野さんがカバンから似たような封筒を何枚も取り出しているのが見えた。
 「全部で8枚あるの。これ、あの金庫から出てきた通帳とか印鑑とかに混じって入っていたの。他にも、歯の少ない櫛とか、ヒビの入った手鏡とか、ゼンマイ仕掛けの車とか、価値があるのか良く分からない思い出の品っぽいものはあったんだけど……」
 確かに、金庫に入っていたラインナップの中では、ずば抜けて意味不明な一品といえそうだ。せめて、説明文とか添えられていればよかったのだろうけど。逝くときがあらかじめ分かるニンゲンは限られているだろう。確か、琴羽野さんは病床に臥せっている期間があったはずだったが……。そういった準備をしてしまうと、身体が死を受け入れてしまうと考えて敢えて避けたのかもしれない。
 8枚全てを一枚一枚丁寧に観察してみた。長さや、凹凸の具合はバラバラのように見える。物差しで計ってみたら、横幅は12cm、長さは一番短いもので6.4cm、一番長いもので25.6cmあった。
 「おじいさんって、何かものづくりをする趣味とかあったの?」
 琴羽野さんはかぶりを振る。家にはそういうことができる工具さえないという。
 「あ、でも戦後の一時期、板金工場で働いていたことがあった、って話をしてくれたような気がする……かも」
 「戦後……かぁ」
 それは随分と昔の話だ。戦後であれば、軍事機密的なものではなさそうだ。我ながら、妙なところで安堵してしまう。
 「今回のはね、全然急ぎじゃないの。だから、将棋部が落ち着いてからでもいいから、この金属板がなんなのか、考えてみてもらいたいの」
 今、いくつも頭を悩ませることが積み重なり始めていることは事実だ。とはいえ、人の助けを無碍に拒むほどはまだ追い詰められてはいないと思っている。
 
 ――優れたアイディアも、全て既存の組み合わせにすぎない――
 
 何かの拍子に聞いたことのある言葉だ。消しゴム付きの鉛筆も、カツカレーも、最新の電化製品でも。元をたどると、小さな足し算の合計といえる。
 物質的なもの以外――学問、技術、芸術といったもの――もきっとそうだろう。事実、春先に僕が様々な問題を解いていったときもそうだった。
 僕が了承すると、琴羽野さんは嬉しそうに笑った。うん、女の子の笑顔はいいな、癒される。って、別に誰かさんを非難してるわけじゃないですけどっ!
 とりあえず、一枚一枚を携帯端末のカメラで撮影していくことにした。大きさにも意味あるかもしれないので、画像の縮尺が一定になるように気をつけた。
 古ぼけて価値がなさそうに見えるとはいえ、少なくとも、この世に2つとなさそうなものだ。預かるわけにはいかない。実物は持ち帰ってもらうことにした。
 さて、一体これはなんなのだろう。謎が解ける日はやってくるのだろうか。
 「そういえば、瀬田くん、〈ラフテイカー〉って知ってる? 孤独に泣いている子供のすぐ傍にすうっと現われて、笑顔にさせてしまうすごいヤツみたいなんだけど……」
 依頼が引き受けてもらえたことで安堵したのか、琴羽野さんは他愛のない話を繰り出してくる。
 無邪気な笑顔を浮かべる琴羽野さんに僕も付き合いの笑顔を向けてはいるものの、内心ではこの件を含めた大小のはてなマークがぐるぐると旋回していて落ち着かない気持ちだった。
 時間制限がないことは随分と気楽ではある。焦らず焦らず。家に帰って、腹を満たして、風呂でくつろいで、将棋部の対策と一緒に少し考え始めてみることにしよう。
 琴羽野さんと別れの挨拶を済ませ、備品を片付けて、僕は家路を急ぐことにした。

 途中、歌を歌いながらバスに乗り込む小さな園児達とすれ違った。
 「「ちーさなもりのまんなかにー、おーきなきがありましたー♪」」
 一瞬、ドキッとしてしまった。随分と懐かしい童謡だ。この童謡を聴いて動揺してしまうのは、幼稚園時代の初恋の相手、ナナちゃんのことを思い出してしまうからだろう。

 ――人やお花や動物が、森にやってくる前から。
 
 小さい頃に繰り返し聞かされるためか、久し振りのはずなのにすらすらと続きが頭に再生された。他にも、「赤とんぼ」や「しゃぼん玉」などもすぐに再生できる。
 もしかして、幼少時代に効率の良い詰め込み教育――例えば、歌や語呂合わせで憶えるとか――をすれば、より優秀な学生が増えるんじゃないだろうか。勉強が面白くない、という学生が多いこと自体、教育カリキュラムの失敗といえないか。
 あ、でも、優秀な学生が増えたら相対的に今以上に頑張りが必要になってしまうかもしれないな。うーん、悩ましいな。
 あれ、僕、何で悩んでいたんだっけ……。まぁ、そのうち思い出すだろう。
 
 家に着くと、ツンとすっぱい匂いがした。これは!
 靴を脱ぎ、廊下を足早に進み、台所に顔を出す。
 「もしかして今日寿司?」
 「そうよー」母は手に団扇を持ち、手許の酢飯を仰いでいた。
 寿司は大好物だ。え? カレーが大好物じゃなかったかって? カレーも好きだよ。でも、寿司も好きなんだよ。別にいいじゃん。
 僕の帰宅に気づき、父も台所に現れる。
 「砂漠じゃないが、捌くか……」
 ボソッとくだらない父ギャグを呟くと、冷蔵庫から切り身をいくつか取り出し始める。
 普段、料理など絶対にしない男だが、魚をさばくときだけは必ず登場する。しかし、その腕前はただのサラリーマンとは思えないほどのものを持っている。以前、薄切りにされていた透明のものがマグロの赤身だと気づかなかったときがある。
 昔は荒れ狂う海原を駆け巡っていた、などと折に触れて本人は嘯いているが、腕の細さを見る限り真偽の程は明らかに偽だろう。
 「今日何かいいことでもあったの?」
 「……」父は答えず、無言でイカをさばいている。
「お父さん、ヘッドハンティングされたらしいのよ」母が小さく耳元で教えてくれた。
母曰く、業界内で新進気鋭の企業幹部から直々に声が掛かったらしい。入社して16年。大博打をせず、人が避けるような仕事も引き受け、堅実に堅実に生きてきた男だ。それがついに報われたわけだから、嬉しくないはずはない。
日中に連絡を受けて、夕食は寿司にすることにしたのだという。
心なしか、なで肩で猫背気味の父の背中が今日は自信にみなぎっている感じさえする。
 「桂夜は海苔とか皿とか小物の準備をしておいて」
 「はいよ」
 寿司の準備は基本的に酢飯の準備が一番時間が掛かる。父も手際よく捌いたので、その後あっという間に夕食開始となった。
 僕は早速、海苔を手に取り手巻き寿司を作り始める。四角い海苔の上に酢飯を薄く延ばす。飯をたくさん盛りすぎるとそれだけで満腹になってしまう。ネタは単純な数だけでなく、組合せでも随分味の印象が変わるからできるだけたくさん味わうには『飯は少なく』が鉄則だ。
 ではまずはさっぱりとしたこの白身の魚から。これはマダイかな? エンガワやトロは美味いが最初に食べると膨満感が早く訪れてしまう。
 ……はぐっ。
 「う、うまい……」
 程よい噛み応えと舌触り。青ジソとわさびが、微妙なアクセントを与えてくれている。
 ふと父の方を見ると。
 寿司を醤油皿に思い切り押し付けてから、あんぐりとかぶりついている。
 「父さん、醤油つけすぎだろ……」
 「……」
 味噌汁も麺つゆもそうだが、父はとにかく『味が濃い』のが好きだ。今でこそ問題ないが、高血圧になるのは遠い未来の話ではなさそうな気がする。ありがたいことに、僕には遺伝していない性質だ。
 「問題ないわよ。生命保険それなりの額かけてあるから」
 長年連れ添っている母は既に諦めモードというか、特殊フィルターが掛かっているようだ。
 よく見ると、母は母で刺身だけをひたすら食べ続けている。こらっ、それじゃネタが速攻なくなっちゃうだろ! まぁ、母は納豆が食べられないので、最終的には納豆巻きを大量生産するつもりだから大問題ではないが。
 本当にマイペースだな我が家は。

 自室に戻って、携帯端末を開いた。そして、先程撮影した、金属板を眺めていく。思いのほか、凹凸は綺麗に撮影できていて安心した。
 まだ何も浮かんでこないが、凹凸の具合や大きさからいくらかの分析ができた。

 

図_金属板

図_金属板

 

 一番小さいパターンDを1とすると、長さは1から4までの4種類あった。
 また、2枚ある金属板を〈パターンA〉とすると、それに一部しか異ならない〈パターンA’〉、Aの3分の4と完全に一致する〈パターンA-〉、Aの残り4分の1と似ている〈パターンD〉になっていた。残る3種類は共通点が特に無かったので、それぞれ〈パターンB〉、〈パターンC〉、〈パターンE〉と呼ぶことにした。
 〈パターンE〉は唯一凹凸が一列だけに固まっていた。
 寝る時間まではまだ少し時間がある。今日は宿題も特に無いし、少し考えてみるようか。金属板と凹凸……、金属板と凹凸……、
 
 金属板 + 凸凹 = おろし金?
 
 いやいや、板の厚さや凹凸の少なさから考えてもそれはなさそうだ。
 とすると。
 
 金属板 + 凸凹 = 点字
 
 少しありえるかもと思ったが、やはり点字にするには凹凸が少なすぎるようだ。
 前回とは違い、これはなかなか手強そうだ。何か、ヒントは無いかなと部屋の中の本棚を物色してみる。すると、奥底から懐かしい雑誌やマンガが発掘された。
 しかし、それは呪われた発掘物だった。気づけば僕は、寝るまでの時間をその発掘物の閲覧に費やしてしまっていた。

 

 小説『Sum a Summer =総計の夏=』(2/5)に続く