小説『Sum a Summer =総計の夏=』(3/5)
第三章 『7月3日(木)』
眼の下のくまが如実に物語るように、睡魔との戦いに図らずも善戦してしまった夜が明けた。
今日は、1時間目に石井英美先生の英語、3時間目に丹治延登先生の数学がある。いつもより、深く術に掛かってしまいそうだ。場合によっては、現世に戻って来れないかもしれない。
「おはよう……」
台所に行くと、父が一人で新聞を広げていた。
あ、そうか、木曜日だからか。
瀬田家では、木曜日は母が朝遅寝とする日と(僕が生まれる前から)決められており、弁当支給はなし、朝食は各自となっている。よくよく考えてみると、サラリーマンも週に1日以上は休んでいるのだから、家事もそうあって異論はないというのが男子勢の見解だ。また、たまに買い食いするのも実は結構楽しみだったりする。
僕の姿をみとめると、新聞を片して、コーヒーサーバを棚から取り出した。
「桂夜ので淹れるぞ?」
「ん、あ、ありがとう」
父が珍しく話しかけてくる。今のは、父が僕の好みにあわせて二人分作るというニュアンスだ。好みの濃さや品種も異なるので、普段ならまずありえない展開だ。
昨日の母の話を真面目に受け止めるなら、僕の顔がよほど凄くて『エアバッグ』が働いたということなのだろう。
僕は好意に甘えることにして、ブラックを1杯頼んだ。
父がコーヒーミルの準備を始める。棚の奥のほうから取り出したのは豪奢な缶だ。あれは、秘蔵のブルーマウンテンじゃないだろうか。
ガリガリガリ……という音ともに、豆が挽かれ、辺りに芳醇な香りが広がった。正直、コーヒーは飲むよりこのにおいを嗅ぐのが幸せだと思っている。
やがて、音が小さくなり完成した。それをサイフォンに移そうとしたときそれは起こった。
「うわっ!」という不吉な声が発せられたかと思うと、挽いたばかりのコーヒーをテーブルにぶちまけてしまったのだ。そのうち、一部は床にもこぼれてしまった。
「あー……」
3秒ルールで、テーブルの上のいくらかはリカバリーできたが、これでは一人分しか淹れられないだろう。
「桂夜、コロコロを!」
「あっ、はいはい」
コロコロとは、粘着テープがロール状に巻かれた掃除グッズだ。カーペットの髪の毛やゴミを取るときに重宝している。正式名称は、不明だ。
床の粉を掃除して、一枚べりっとはがす。点在している茶色い粒が物悲しい。この一枚だけで、50円相当の価値がありそうだ。
そのとき、何か頭に浮かびそうで、もどかしい感覚に襲われた。そんな僕の手許に、カップが置かれる。一杯のコーヒーだった。
「……まぁ、飲め」
一人前しか作れなかったコーヒーを父が譲ってくれたのだった。
「ありがとう」素直に好意を受け入れて、一口飲む。やはり、美味しかった。
頭が冴えてくると、先程のもやもやしたものが晴れ、頭の中が晴天に変わっていく。昨日のあの動きと、この形状が合わさると……。通学カバンからノートを取り出して、何度も何度も確認する。
「恋破れて勉学あり、か」
「そんなんじゃないって……!」
国敗れて山河ありの改変だろうけど、別段上手くないぞ。本人は上手いこといった顔をしてるが。
カップを持って、リビングの共有パソコン前に移動する。コーヒーを味わいながら、推測を裏付ける情報を検索していく。
……やはり。調べれば調べるほど、推測が正しい感じがしてくる。……しかし、しかしこれを伝えることは正しいことなのだろうか。この場合の依頼主は、答えを出されることを望んでいるのだろうか。
――問いに対して何にもレスポンスをしないヤツは社会で生きていけないぜ――
何故か、このタイミングで。頭の中に泉西先生の言葉がよみがえる。
ええい、迷っていてもしかたない。自分が思った答えを出すだけだ。
「俺、もう行くから!」
ノートを手早くしまうと、高校への道を急いだ。
学校について、ノートだけ取り出してカバンをしまう。そして向かうは2組だ。
2組の教室からは人気がない。はたして、目当ての人物は……。
いた!
「あ、琴羽野さん」
「瀬田くん、おはよう」
琴羽野さんは既に登校して、机で本を読んでいた。こちらに気づくと、すぐに本を閉じてこちらに駆け寄って来る。そして、ニコニコしてこちらの顔を窺ってくる。
「ふふ、そろそろかなと思ってたの」
「え……?」
「ほら、この間もあっという間に解いてくれたじゃない?」
そういえば、前に相談を受けたときは、奇跡的に一日で解けたなぁ。今回も、もし解けたなら2日という短期間な解決になる。推理探偵も真っ青だ。
「今回はどうだか分からないけど……」
「いいのいいの、聞かせて!」
琴羽野さんも随分とテンションが上がってきている。傍から見たら、二人の仲を勘ぐられてもおかしくない意味深な会話だが、幸い朝も早く人はいない。
僕は、ノートを取り出しながら自分の推理を話し始める。
「最初は色々な可能性を考えたよ。おろし金……にしては凹凸が少なすぎるし、星図じゃないかとか、点を結んだら何かが浮かび上がるんじゃないかとか。他にも点字の可能性も疑ったんだけど……」
一般的な6点式点字だとしても、凹凸の数が少なすぎた。それでは全く文字をなさなかったのだ。
「それで、最後に思い至ったのが『オルゴール』だったんだ」
「オルゴール!?」
「そう、平板だから分かりづらいんだけどそうだと思って見ると、凹凸の具合とかそれっぽくない?」
「うーん、そうかもだけど……」
琴羽野さんはあごに手を当てて、口角をキューっとオームの小文字――ω――のように上げて頭の中にイメージを描こうとしているようだ。
「じゃあさ、これどうやって丸めるの? なにに巻きつけるの?」
「えーとね……。これ、多分、このままで使うんだよ」
琴羽野さんの頭の上には『?』マークがいくつも浮かんでいるように見えた。僕はノートに図を描きながら説明を進める。
「確か、金庫の中にゼンマイ仕掛けの車と歯の少ない櫛が一緒に入っていた、って言ってたよね?」
琴羽野さんは頷く。
「この金属板をある順番に並べて、その櫛をセットした車を走らせると……」
「曲が……流れる!?」
「そう、多分ね。曲は『ちいさなもりのおおきなき』だよ」
凹凸を音符に置き換えてみたら、ベース音や和音が加味されているものの、メロディーが綺麗に浮かび上がってきた。
「あれ、でもパーツが足りないんだね」
琴羽野さんがノートのパターンBのところを差して指摘する。金庫に入っていたパターンBのパーツは一つだけだった。確かに普通に考えると曲を最後まで流すことは難しそうなのだが。
「と思うでしょ。でもこの『走るオルゴール』なら、仮にパターンAがもう一枚なくなってしまっても平気なんだよ」
僕は指を『車』に見立ててゆっくりと動かしていく。そして、指が2回目のパターンAの上に移った後、通り過ぎた直後のパターンBをその先に動かすような矢印をペンで書き込む。
この動きは、あのテレビ番組〈芸能界 スポーツ伝説〉の〈ビート板渡り〉を見ていて思いついたのだ。
「あっ、なるほど!」
「ね?」
とはいえ、偶然が重なった綱渡りのテクニックではある。パターンAとB以外ならばこの技は使えない。それでも、曲が最後まで演奏できるならば、オルゴールとしての価値は失われていないといえるだろう。
「……すごい、やっぱりすごいよ瀬田くんは!」
金属板の謎を解いたことに対してか、最後まで演奏させるテクニックに対してか、あるいはその両方か。
自分でも、これほど上手く思考がはまってくれたことに驚いている。
「なんか、前のお礼がまだ返せないうちにまた溜まっちゃった感じ……。本当にありがとうね」
「いや、俺も頭を使うきっかけになったから。できれば、この間のテストの点に加算してほしいけどね」
「そうだよ。『推理』って科目があったら、瀬田くん、絶対学年トップだよ!」
徐々に2組の生徒が登校し始めてくる。あまり長居をしていると浮いてしまうので、そろそろ退散することにした。
一週間の疲れも明らかに蓄積してくる木曜日。なんとか昼休みまでこぎつけた。
今日はそれだけじゃない。昨日、美月に勢いで告白してしまって、その回答の時間が刻一刻と確実に近づいているのだ。
二日連続で心臓がきゅうきゅうと痛む。寿命が一体何年縮んでしまったやら……。
とりあえず、昼食でも買いに行こうかと教室を出ると、廊下でばったりと見慣れた銀縁メガネと目が合った。
「あ、福路くん」
「瀬田くん、昼食はいかに?」
「今から購買部に買いに行くところ」
「そうですか。それなら一緒に買いに行きませんか?」
「もちろん」
購買部の方に近づくと早くも賑わっていた。
学外のコンビニに並んでいるような既製品も普通に売られているし、近くの料理店が学割価格で弁当を作って来てくれたりもしている。
大矢高校には給食や食堂はないため、生徒は非常に重宝している。
さて今日は何にしようか。年頃の男子は質より量! 重量対価格のハイコストパフォーマンス食品を探し出すため、割り算能力は無意識のうちに日々鍛えられている。
麻婆豆腐弁当も美味しそうだが、ピーナッツコッペパンも捨てがたい……。でも先週はジャムコッペパンだったしなぁ、せめてパンにするならコロッケパンのような惣菜系がバランス的に大事か。あれ、コロッケってじゃがいもだけど野菜換算で良かったっけ。
思い悩む僕の肩を、福路くんがツンツンとつついてきた。
「ひとつ、趣向を凝らし、昼食を掛けた勝負といきませんか?」
福路くんの提案はこうだった。
昨日、『将棋で後手の勝率が高くなってきた』ときに例としてあげた変則的なジャンケンゲームで勝敗を決める。
先手・後手は先んじてジャンケンで勝ったほうが選べる、というものだ。
昨日話したように、あれは後手必勝のゲームだ。そもそもゲームといえるのかも怪しい。つまり、最初の先手後手を決めるジャンケンで実質勝敗は決まってしまうわけだが。
「一応、手を選ぶのは相手が選んでから3秒以内」というルールも提案された。それによって、瞬間的に勘違いをしてしまうという落とし穴も一応あるわけだが……。
「じゃあ最初のジャンケンから」
「「ジャンケン……ホイ」」
僕は、チョキ。福路くんは……パーだ。
(よおーしっ!)
ここしばらく病気になったり、テストが散々だったり、暴走告白したり、そんなことばかり続いていたから。久々に幸運に見舞われた気がする。
ありがとう神様、ありがとう福路くん。
「後攻で!」
当然の選択である。あとは、「福路くんの選んだ手に対して、それに勝つ手を選んで」いけばOKだ。
福路くんは小さく息を吐く。
「……はじめましょう。まずグーね」
「じゃあ、パー」
順調順調。
「ふむ……、ではパーすね」
「じゃあ、チョ……、ちょっと待って」
何だか分からないけど、ちょっとし違和感が〈跳躍(リープ)〉してきた。考えろ、考えるんだ。
このまま僕がチョキを出したら、僕の残りはグー。福路くんの残りはチョキだから、めでたく僕の勝ちになるはずだ。
福路くんはなんでこのゲームを提案したんだろうか。五分五分の勝負を単純に楽しむのであれば、ジャンケン1回で十分なはずだ。
いたずらに時間をかければ、品物が売り切れてしまう可能性だってある。
つまり……だ。なんらかの必勝法、少なくとも引き分け以上になるトラップが放たれている、という疑惑を抱くべきではないか。
そして、3秒以内にあることに思い至った結果――
「グー!」
思い切ってグーを選択した。福路くんの残りがチョキだからみすみす勝てるグーを手放して、引き分けにしかならないチョキを最後に残した形になる。
福路くんは一瞬息を呑んだが、徐々に表情を曇らせていく。
「うーむ、見抜かれちゃいましたか」
その言葉に、僕は自分の選択が間違っていなかったと確信できた。
そう、さっき福路くんは「じゃあ、ここは〈パス〉ね」と言っていたのだ。
つまり、2回目にパスを選択していた。
確かに、先日の説明の段階にパスができないというルールには触れていなかった。
その不備、というか抜け穴に福路くんは気づいたのだろう。
整理しよう。
さっきの段階で福路くんの残りはチョキとパー、僕はグーとチョキだった。
手番は僕だから、パーに対応するチョキを選択するだろう。
すると、福路くんはパー、僕はグーの状態で勝負となる、というのが普通のシナリオだ。僕も最初はそうとしか考えていなかった。
しかし、実際は間にパスが挟まっていた。
それにより、僕の残りはグー、福路くんはチョキとパーが残り、手番も彼が握っていることになる。
僕がチョキを捨てた時点ではまだ勝負とならず、福路くんの手番で残るの一枚を選択することとなる。
そこで、彼がチョキを捨ててパーを残したら――
僕:グー
福路くん:パー
よって福路くんの勝ち、となってしまうのだ。
グーを宣言しないで、こちらもパスを使う手もないわけではなかった。
しかし、万が一「パスなんて卑怯ですよ! こちらはパーと言ってたのに」と開き直られてしまったら困るなと思ったのだ。
彼の残りがチョキとパーなので、こちらはチョキさえ残しておけば負けだけはない。
なるほど、後攻を選べたらそのまま通常の必勝法で勝ちにいけるし、先攻になったらこの特殊必勝法で引き分け以上を狙えるわけだ。
「昨日の授業中にふと思いついたんですが……。いやはや、無念」
校庭の日陰ができている花壇に腰掛けて福路くんが苦笑する。
結局、福路くんは焼きそばパンとコーヒー牛乳を、僕はネギトロわさびおにぎりとコロッケパンとアップルジュースを各々で買った。
飯を食べている最中は野生動物のごとく。お互いに黙々ともぐもぐしていたが、それぞれの飲み物だけ残った段階で徐々に会話を再開した。
福路家では昨夜、校区内に新しくオープンしたレストランに行ってきたとか、瀬田家では父の悪食が問題視されているとか。
教員のあだ名や、大矢高校七不思議、ゲームの新作が発売延期になって残念だ、などなど。男同士でも、話を始めれば想像以上に盛り上がるものである。
一瞬、会話に間があいてふっと昨日の放課後のことが頭に蘇った。
――…………24時間考えさせて――
僕と美月の距離はどうなってしまったのだろうか。あそこで告白をしなければ、少なくとも今までみたいに気軽に話をしたりできたんじゃないか。そう思うと、軽率だったと思うしかない。
「瀬田くん、どうしたんだい?」
知らず知らず唇を噛んで視線を彷徨わせていたらしい。福路くんが心配そうにこちらを見据えていた。
「あ、あぁ、なんでもないよ」
「ふーむ。恋ですか」
ぎゅっ、と心臓が掴まれた思いがした。どうも、典型的な理系人間に思える福路くんだが色恋沙汰に関してはなかなかの感性を持っているのかもしれない。
「実は昨日……」
僕は、昨日の話を思い切ってしてみることにした。自分の中から吐き出してしまえば、それこそ笑い話にでも転換してしまえば楽になれそうな気がした。
しかし、福路くんはすぐに反応せず、腕を組んで首をかしげている。その様子に、僕の方が心配になってくる。何か、よっぽどのタブーをしてしまっただろうか。
「不可思議ですねぇ。あの織賀さんなら、即斬り捨て御免しそうなものですが」
「えっ?」
「バッサリした性格のようですから、イエスかノーは一瞬で断じそうなものです。また、あの頭のよさとルックスですから、告白を受ける経験なんて多々あるでしょう。告白慣れしてなくて時間稼ぎをしているようにも思えませんし……」
つまり、幾分は脈があるのではないかと。最悪でも、回答を『考え』ているわけですから、OKの可能性は0%じゃない、と思いますけど」
確かにそういう風に言ってもらえると救われる。福路くんのおかげで気持ちが幾分楽になった。とにもかくにも答えは美月のみぞ知るところだ、今じたばたしても仕方がない。今日の帰宅時間を、一体僕はどんな気持ちで迎えることになるのだろうか。
そして放課後。握る拳の内側には汗がじっとりと滲んでいる。
カバンを手に取り、いざ部室へ。そう気合いを入れた矢先、泉西先生が教壇から手招きをしているのに気づいた。
「なんです?」
「昨日言っていた、パソコンの件だ。専門棟の屋上の一番奥のサーバールームにいる大江室長に頼んでおいたから、この後もらいに言ってこい」
「えっ、今から……ですか?」
今からとなると、美月の件とバッティングしてしまう可能性がある。何とか、1時間後とかにずらせないないものだろうか。
「おいおい、俺の顔を泥パックするつもりか? こちとら『明日、うちの下僕が行きますんで』って頭下げてるんだぜ。どうせお前、暇人ゼアーズノーヘブン♪ だろうが」
「それは力強くは否定できないですけど、なにとぞ今だけは……」
「くどい! カルピス原液のガムシロップ割り並みにくどい! さらば、おさらば、サラダバーだ!」
突っこみどころを模索している間に、泉西先生は相変らずの俊敏さで教室を出て行ってしまった。
となれば、残された僕にできるのは、迅速に要件を済ませて将棋部部室へ向かうことだけだ。
僕は『廊下は走らない』という規則に遵守するため、生まれて初めて競歩を体験することとなった。
「ここが、サーバールーム、か」
息を整えながら見上げると、頭上のプレートには『サーバールーム』と書かれている。
一般の高校であれば、どこかのレンタルサーバー業者の施設を利用するのが妥当だろう。大矢高校では学校運営の効率化のため、巨大なコンピュータを何台も稼動させていると入学パンフレットに書かれていたのを思い出す。
ここがその中枢なのだろう。
ドアを開けようとする。が、ビクともしない。
よく見ると、ドアの脇に、カードリーダーとインターフォンが据え付けられていることに気づく。
「なるほど、セキュリティ対策、ってやつか」
確かにテストの点数とか試験問題とかが流出したら一大事だよなぁ。
ニュースでも個人情報が流出して謝罪会見をしている人たちを良く見かける。どうでもいいことだが、会見の席で頭を下げたお偉いさん達の頭皮状態の情報が公にされてしまうのはなんだか矛盾している気がする。
インターフォンを押して、反応を待つ。
一拍置いて、「はいはい」と返事が返ってきた。
「泉西先生の紹介で、パソコンをいただきにきたんですが……」
「おお! 聞いとるよ! ちょっと待っとれ!」
インターフォンの向こうから、随分としわがれた声が聞こえてきたので驚いた。
コンピュータ関連の専門員だというから、若い人が担当していると無意識のうちに人物像を作り上げてしまっていたのだ。
やがて、ピッという電子音のあと、ドアが開いた……が。姿が見えない。
「おい! ここじゃ」
言われて視線を下げると、腰を曲げたしわしわの老人が僕を見上げていた。頭はすっかり禿げ上がっており、その見た目は妖怪『こなきじじい』のようだった。
「最近の若者は背ぇ高いのう……」
老人はぶつぶつ言いながらも、口許は笑っている。どうやら、歓迎ムードではあるらしい。
老人の後について入ると、ひんやりとした冷気に身体を包まれた。夏場には天国のような室温だ。
「まず静電靴に履き替えるんじゃ」
大江老人が指差したロッカーの中には、白いゴム製のサンダルが入っていた。体内で発生した静電気で精密な機械が破壊されるのを防ぐためだという。言われればなるほど、という感じだ。
部屋の中を改めてみると、金網で手前と奥が分けられていた。金網の奥にはさらに金網に入った大きな機械が林立しているのが見えた。あれが、サーバーというやつだろう。
(そういえば、父さんの仕事場もこんな感じなのかな)
今いる手前の方の部屋は事務スペースのようだ。戸棚やデスクがあり、所狭しとダンボールがうずたかく積み重なっている。デスクの壁には大型ディスプレイと三色ランプが取り付けられている。これは、サーバーやネットワーク機器に異常が起きた時に通知してくれるものなのだという。
「いただけるノートパソコンはどちらですか?」
丁寧かつ単刀直入に尋ねる。心の中はアクセル全開だが、罪のない大江老人を不快にさせる訳にはいかない。
大江老人は「おーい、サイボウ!」と声をあげる。
細胞って何だ? と首をかしげていると、ダンボールの影から「何? じっちゃん」と男子生徒が顔を覗かせた。
知らない顔だ。そして……、僕に言われたらオシマイだが、そいつは女の子に全くもてなさそうな風貌をしていた。
体型は小太りで、無造作に伸ばした髪は肩に届くほど。メガネも福路くんがしているようなシャープな今時メガネでなく、昔ながらの丸い黒斑だ。
「こやつはサイズワじゃ。こやつ一人でやってる電算研究部は部室がないんで、たまーにここに顔を出していくんじゃ。今日は、企業から譲り受けた中古ノーパソのOS再インストールを手伝ってもらっとる」
部室がない、という言葉に心がざわめく。将棋部の行く末にある不安からか、部室のない電算研究部への憐れみなのかは分からない。
「部活でノーパソを使いたいらしいんじゃ。テキトーに見繕ってあげなさい」
「はぃょ」
「わしはちょっとDATのテープの交換をしてくるからの」
それだけ言うと、大江老人は金網の奥へ入っていってしまった。残されたのは、僕とサイズワくん二人きりだ。
「スペックはどんくらぃがぃぃんだ?」
「えっ……? えーと」
急に尋ねられて戸惑ってしまう。普段全く意識していなかったからだ。
自宅にも自分専用のノートパソコンがあるが、父親任せで「とりあえずメタリックなカッコいいやつ!」を買ってきてもらったのだ。
いつも身近にあるのに、全然理解できてなかった。これは怠惰としか言いようがない。
これを機に、少しパソコンのことを知っておかなくてはならない気がしてきた。
「……スペック、って何?」
「そこからかょ!」
サイズワくんは大げさに天を仰いだ。
「まぁぃぃ。今日はヒマだから付き合ぉぅ」
はじめは渋々といった態度だったサイズワくんだったが、自分の知識を披露するのは嫌いじゃないようだ。質問には丁寧に答えてくれた。おかげで、僕のコンピュータレベルも3くらい上がった気がした。
しかも、ノートパソコンの設定をいじりながらというのがスゴイ。
「ところで、電算研究部ってどんなことやってるの?」
「んー。経済予測とか、天気予測とか。インプットを与えて、分析と加工をして、アウトプットをするものは色々と挑戦してる」
「それって結構凄くない?」
「どぅだろぅなー」
謙遜しているが、その横顔には自信が見え隠れしている。
「と、ぅし。これで完成」
「ありがとう」
お礼を言い、ふと壁掛け時計を見てギョッとなる。既に放課後になって40分が経とうという時間だった。
「ところで、このパソコン何に使……」
「ごめん! 俺、今日は余裕なくて……っ。 今度ゆっくり話させてもらえるかな!?」
そう言ってノートパソコンを小脇に挟み、僕は本日二度目の競歩を実施した。
「わりぃ、遅くなった!」部室に到着して開口一番。反応は、なし。しかし、姿は確認できた。
美月は窓際の柱にもたれて腕を組んでいる。そして、両眼は閉じられていた。
怒ってる……のだろうか? そりゃそうだよな。何の連絡もなしにこれだけ遅れれば。
そろりそろりと近づいてみる。
「……美月?」
「……」
返事が無い、ただの美月のようだ。……ではなくて、かわりに聞こえてきたのは小さな声だった。
「くぅ……」
「寝息かよっ!」不覚にも、意識の無い当人につい突っこんでしまった。
その後、「お~い」だの「朝だぜ!」だの耳元で声を掛けてみるが、全く起きる気配が無い。美月ってこんなキャラだったっけか?
冷静に辺りを分析してみると、ここは風通しの良い日陰ポイントとなっており、なかなかに快適な環境だと分かった。
なるほど、これは睡魔の大本営といっても過言ではあるまい。
(むぅっ……。)
冷静ついでに改まって観察する。美月の寝顔を見るのはもちろん初めてだ。あの笑窪のできる笑顔には及ぶべくもないが、普段の無表情からすれば、寝顔というのは自然体で十分に柔和な表情に見える。
正直なところ、このまましばらく観賞していたい衝動にかられた。しかし、今日は諸々の事情もあるから、放っておくわけにはいかない。ここは一つ、肩でも揺すってみるか……。
不可抗力とはいえ、身体に触れるのも初めてだ。間違って変なところ触らないようにしなければ! そう思うと、心拍が急に速くなっていく。
と、その時。
「んんっ……」
幸か不幸か、美月は唐突に目覚めた。眼をパチパチとさせている。しかし、まだ完全には覚醒していないのか、その後ぼーっとこちらを見ている。
そして、辺りを見回すと今度は僕の方を凝視してくる。
まさか、寝ている間に僕が変なことをしたと勘ぐっているのではないか……!?
いやいや、冤罪だ! まだ何も……いや、まだとかじゃなくて、何もしてないし、するつもりも無かったですってば! 心の中で叫ぶ。
今度は、内ポケットからなにやら一枚紙を取り出して、その紙面をじっと眼で追っている。ここからでは何と書かれているかは分からなかった。
それも読み終わると、そのまま携帯端末を取り出して恐る恐る操作を始める。まるで、初めて携帯端末を使う人間のように手つきがおぼつかない。
僕は、どう行動したらいいものか判断できず、その場に立ち続けていた。しばらく、美月が携帯端末をいじる音だけが部屋に響いていた。
やがて、「……ケーヤ?」そう言ってきた。まるで、何かを確かめるように。
「そうだよ。今日は遅くなって悪かった」
「……」
美月の様子がどうもいつもと感じが違う気がする。
「具合悪いのか?」僕は尋ねる。もしかして、快適だったから寝ていたのではなくて、具合が悪いのではないか心配になったのだ。
「ちょっと、さっきから眠く……て……」
そう言っている間にも瞼が落ちそうになっている。頭を振って、眠気を覚まそうとしているようだがどうにも効果が薄いようだ。
「寝るのだけは、まずい。ケーヤ……なんとかして……」美月は珍しく、焦ったように僕に言ってくる。
まずいって、僕が何かいたずらをすると警戒されているんだろうか……。教室で、そんなことするわけないだろっ!
……と、全力で否定はできないのが悲しい年頃男子の性だ。
どうする? 保健室にでも連れていくか?
僕は、ふと名案を思いつき、構えを取る。美月はその動作の意味に気づいたが、そのときには既にそれは発動していた。
――ペチッ。
美月の額に、僕のデコピンが天使の羽根のような優しさでもって舞い降りた。
いつぞやのお返しにと思ったものの、さすがに本気でというのははばかられ、後々の関係のためにも力はセーブしておいた。
一瞬、きょとんとしたレアな表情を見せたかと思ったら、それはすぐにもとの無表情に戻り。
「なんで、女子相手にデコピンとかする?」眼つきが普段以上に厳しくなっていく。
「それは、そのー」
「コーヒーとか、コーヒーとか、コーヒーとか色々と選択肢があるでしょ!?」
そこまで責めてたなくても……と思ったものの、確かに、一般論的にはそれが普通だったか。
しぶしぶと、バッグから財布を取り出して立ち上がる。1階の購買部にコーヒーを買いに行こうとしたら、再び要求が飛んでくる。
「美味しいコーヒーじゃないと、ヤだよ」
「……」
購買部のコーヒーは、非常に熱くて、非常にまずいことで有名だ。このあたりは、コーヒー研究部が成分も含めて緻密な分析しているので科学的にも証明されている。
これはつまり、暗に学外へ行って来いということだろう。非常に面倒だが、中央駅近くの『まめしば』までひとっ走りするか。往復で20分はかかるだろうけど、自分のレパートリーで一番美味しい店はそこしか思いつかない。
バッグを掴むと、美月もバッグを手にして立ち上がっていた。
「往復の時間がもったいないから」
まあ、いいか。見方を変えればある意味デートと言えなくもない。相当なプラス思考だが。
そういえば、一緒に外出するのは江辻と対局をしたあの日以来になる。
校舎を出て、校門を通り過ぎ、中央駅の方向へ向かっていく。僕が僅かに先導する形だが、基本的には並んで歩いている。
隣を見ると、美月は携帯端末をいじりながら大人しく付いてきている。
僕の考えすぎかもしれないが、通りすがりの人たちがみんなこちらを見ている気がする。同い年くらいの男女が横に並んで歩いていたら、間違いなくカップルだと断定されてもおかしくない。「男のほうが釣り合ってないよねー」とか笑いものにされていたりして……。
不良に絡まれたらどうしよう。一人なら走って逃げられるかもしれないが、まさか美月を置いていくわけにもいかない。こんなときのために格闘技でも習っておくんだったか……。とにかく、人通りの多いメインストリートをできるだけ使うようにして……。
ところどころの交叉点で青信号に恵まれたこともあって、あれやこれや考えているうちにあと少しというところまで来ることができた。こんなに順調に進めたならば、もっと会話とかして楽しめば良かった。後悔先に立たず。
「もう少し、そこ曲がったらあとは一直線――」
と、振り返ったその時。美月の身体がよろっと前に傾いた。反射的に腕を伸ばして、地面に倒れそうになるところをくいとめることができた。
「お、おい、美月?」
返事がない。やっぱり、無理に外出させたのは失敗だったのだろうか。
しかし、どうしたものか。『まめしば』まではあと少しだというのに……。
店長を呼んで手伝ってもらおうか。いや、あのひょろっとした店長じゃちょっと頼りなさそうだ、むしろ僕のほうが体力ありそうに思える……。
しかし、通行人に助けを求めるのは大げさすぎる気がする。でも、日中とはいえ、道端に無意識の女の子を一人残しておくのは色々とまずい気がする。
こうなったら。
美月の前に回りこみ、「せーの!」という掛け声と同時に、美月を背負う。
身長は頭一つくらいしか変わらないはずなのだが、その身体は思った以上に軽かった。これならば、『まめしば』までは何とか辿り着けそうだ。
一歩一歩進み、慣れていくうちに、徐々に背中に感じる感触に気づく余裕が生まれてしまった。先日から夏服に切り替わったのはこの場合、良かったのか悪かったのやら。ついでに言うと、両手は両手で柔らかな乙女の太腿をしっかりと抱えているわけだ。
何度でも、何度でも繰り返しましょう。僕も健康で健全な16の男子なのです。いいですか皆さん不可抗力という言葉はご存知ですよね?
脳内に次から次へと、煩悩と弁解が浮かんでは消え浮かんでは消え。そのうちそれらが激しい百年戦争を始め、気づけば互いに友情が芽生えて、互いに握手をはじめようとしたりして――
あぁ、精神が崩壊しそうだ。これ、何の修行ですか?
自我の崩壊は免れた。無事、約束の地『まめしば』に着いたのだ。この偉業は、後世きっと論語に並ぶ聖典として記録されることだろう。
「こんちはー……」
木製のドアを身体で押しながら開けると、ふわっと香ばしいコーヒー豆の香りに全身が包まれた。
「あ……、け、け、桂夜くん。ひ、ひ、久し振り……」
カウンターから店長が声を掛けてくる。が、僕の背後を見るとただごとじゃないと思ってくれたのか、入口の方にすぐ駆け寄ってきてくれた。
顔も腕も脚も、およそ全身の全てのパーツが細長い、ひょろっとした中年男性。
その風貌、かつ、口もそれほど達者でないため、冴えないサラリーマンのように思われがちだが、ことコーヒーの知識と腕前に関しては相当なものをもっている。
「趣味、コーヒー」を公言する、うちの父が唯一認めるバリスタなのだ。父とは学生時代の同級生らしい。
「そ、そ、その子……だ、だ、大丈夫??」
「具合が悪いとかじゃないと思います。さっきからすごい眠たがってて……。とりあえず、ドリップ2つと奥のソファ席いいですか?」
「も、も、もちろん。い、い、急いで作るよ……!!」
奥のソファ席はコの字型になっており、1人掛け・2人掛け・1人掛けで合計4人座ることができる。幸い、他の客はいなかったので、遠慮なく二人で使うことができそうだが……。どうしよう。
2人なのだから、2人掛けソファを使うのは自然だろう。だけど、仕切りが無いから、もたれ掛かってこられたらと思うと思考回路はショート寸前だ。
(とにかく……倒れないようにはしないと)
まずは、美月を1人掛け席に静かに腰掛けさせて、さて自分はどこに座ろうかと思案する。
2人掛けソファーの角に座る、ってことも考えられたが、1人掛けソファがあるのに1人で2人掛けソファに座ることに不自然さも感じる。
そして、結局一番遠い位置にある1人掛けソファに座り、対面するかたちとなってしまった。
(なんか、昔流行した歌でこんな状況のあったよなぁ……)自らの情けなさを嘆く。
今すぐすることもなくなったので店の壁を見回す。実は、奥のこのスペースに来たことはほとんどない。壁には、コーヒー農園の写真や店長の愛犬の写真が所々に飾られていた。これらの写真と店名からも分かるとおり、店長はコーヒーと同じくらいマメシバが好きなのだ。僕も柴犬は好きなので、非常に癒される。
しばらく後、店長が姿を現して、ブレンド2つを僕達の前に置いた。作り置きでなく、一から作ったとは思えない速さだ。定番サービスのチョコ2枚も丁寧に添えられている。
「ありがとうございます」
「と、と、とりあえず。な、な、何かあったら遠慮なく声掛けてね……?」
そう言って店長はカウンターの方へ戻っていった。
このソファ席はカウンターや他の席からは見えず、一番奥なので音も静かだ。落ち着いて話をするには格好のロケーションだ。美月が起きたら、例の話などをついでに聞いてしまうのがいいだろう。
隣を見遣るが、まだ起きる気配は無い。冷めてしまうのももったいないので、お先に一口頂くことにした。
口に含むと、その瞬間から広がる程よい苦味と酸味。やはり店長の淹れたものは絶妙だ。父も決して下手ではないのだが、味が濃すぎる。家族からは「豆を直接食えばいいのに」と散々アドバイスされているレベルだ。
僕のカップが3分の1くらいになった頃、コーヒーの香りが効果的だったのか、美月が静かに眼を開いた。
「おっ、起きたか」
望みを叶えてあげたし、道中では背負ってあげたりもした(気づいていないかもしれないが)。
告白の判断ポイントにプラスしてもらってもいいよ、とか、まずはお礼の反応が来るかな、と構えていたが、美月は店の中や僕の顔を凝視したり、ボーっとした眼で見たりを繰り返している。
そして、内ポケットを探ると紙切れを一枚を取り出して、それをじっと見つめ始める。
(あれ、この動きって……?)
紙を読み終わると、携帯端末を取り出して恐る恐る操作しはじめ、「……ケーヤ?」と尋ねてきた。あたかも、先程の部室を再生したみたいな状況だ。
美月は冗談や悪ふざけをするようなタイプじゃない。明らかにおかしい。おかしすぎる。僕の直感はそう訴えてくる。下手をしたら、脳の障害を起こしている可能性があるのではないか?
「美月、どうした?」
「……何が?」
表情や口調は普段と変わらぬまま尋ね返してくるが、僕は引き下がらない。
「さっきからおかしいぞ。寝て、起きると、しばらく別人みたいになってる」
「……」
「……」
無言で見詰め合う。普段だったら、つい気恥ずかしさでそらしてしまったかもしれないが、今は不思議とそういうことにはならなかった。むしろ。
「俺に言えないことでもあるのか?
……そりゃ、頼りなさそうに見えるかもしれないけど、美月の知らないところで、いろんな人からの不可解な謎や相談ごととか、自分でいうのもなんだけど結構ズバッと解決したりしてるんだぞ?
美月のことだって、話してくれさえすれば――」
「――そんなに聞きたいなら、話したげる」
俺の言葉に重ねるようにそう言ってから、美月は目の前に置かれているコーヒーをゆったりとした仕草で一飲みして、続けた。
「すごく簡単に言えば、あたし、永続的な記憶が上手くできないの。起きてる間は平気だけど、一回寝たら、その前までのことほぼ全部忘れちゃうの」
寝たら忘れる? 確かに、さっきからのおかしな状態は辻褄が合うといえば合う。だがしかし、そんなフィクションみたいなことが現実に起こるものなのか……?
「その代償なのかは分かんないけど、一時記憶と演算は人並み以上にできる。おかげで、日常生活にはそんなに支障はないわけだけど」
僕の頭の中に、将棋を教えたときの飲み込みの早さ、先日の成績発表のことなどが次々とフラッシュバックされた。
単純な知識とその処理ももちろんだが、その延長線上には暗黙知――いわゆる、コツのようなものがあるのだろう。
「あんまり、驚かないんだね。もしかして、冗談言ってると思ってる?」
「そうじゃないよ、むしろ腑に落ちてすっきりした」
泉西先生の謎の読心術を目の当たりにしている身としては、コンピュータみたいなものすごい処理能力を持ったニンゲンの方がまだ現実的だとも思えた。泉西先生の秘密に最初に出会えていたのは、今回のことを考えるとラッキーだったのかもしれない。
僕の反応で少し安心できたのか、美月はぽつりぽつりと話を続けていく。
言語や日常生活を送るうえで最低限の行動など、寝ても失われない情報や記憶もいくらかはあること。
周りの人達に不審がられないように、その日のあらゆるできごとや発言を毎晩何時間もかけて思い出し、携帯端末に記録していること。
朝目覚めたらすぐ、昨日までのその記録を全て読み返してインプットしなおしていること。
推測だが、ほとんどの日、放課後すぐに帰ってしまうのは日中の記録をつける時間の確保と同時に、記録対象になる情報を減らす意味合いもあったのだろう。
先日、サイズワくんから聞いたパソコンの仕組みの話を思い出した。
主記憶装置は電源を落とすとデータを維持できない。そのため、HDDなどの補助記憶装置にデータを記録している。さらに足りない場合は外付けのHDD、MO、USBメモリといった外部記憶装置を使うことになる。
ニンゲンで言えば、主記憶装置が一時記憶、補助記憶装置が永続記憶、外部記憶装置が写真や日記などと結びつけるとイメージに近くなるだろうか。
たまに、寝覚めの瞬間『今がいつなのか、どういう状況下なのか』が分からず、段々と『思い出し』てから活動をはじめたことがあったなと思い出した。普通のニンゲンなら、一時記憶がなくなっても補助記憶装置からすぐ呼び戻すことができる。だから、僕達は安心して毎晩眠れているのだ。
美月はさっき『支障がない』と言った。慣れてしまえば問題が無いものなのだろうか。しかし、美月の次の言葉に言葉を失った。
「日記に『こんなことがあって、こう思った』っていくら詳細に書いても、翌日のあたしには他人の日記を読んでいるのとなんら変わりないんだよね」
味や匂いでさえ、言葉だけで思い出すことは簡単じゃない。それが気持ちとか感情のようなものであれば尚更だ。そして、それが本当に全く心当たりがないものだとすれば……。すぐに想像ができないが、それってとても辛いことじゃないか?
「……はぁ、日中に眠くなったことなんて今まで全くなかったんだけど。昨日のあたし、全然寝付けないほど考え事してたみたい……」
そう言われて、僕はドキッとした。約束していた告白の回答はまさに今の時間帯だった。
「ちなみに、携帯端末のスケジュール欄に『告白の返事』ってあるんだけど?」
「あ、あぁ……昨日、ちょっとそういうやりとりがあって」どういった反応をすればいいか、咄嗟に対応できなかった。我ながら情けない。
「寝落ちばっかしてたせいか、途中の検討メモも何も残ってないみたい。だから、〈今日のあたし〉が答えるよ? つまり、〈昨日のあたし〉の描いていた答えと違うかもしれないけど。それは了承してよ?」
つまり、昼休みに福路くんがしてくれた希望的観測は一切なかったことになるわけか……。しかし、昨日と今日では情報量にそれほど変化はないはずだ。〈昨日の美月〉がそれまで引き継いでいた情報を元に悩んでいたのだとしたら、〈今日の美月〉の結果は大きくは変わっていないはずだ。
「たとえ〈今日のあたし〉が誰かを好きになっても、〈翌日のあたし〉も好きなままでいる保証はない。相手だって、そんな女をずっと好きになり続けられるはずがない」
この話の流れって――。自分の唾を飲む音が、大きく聞こえる。
「だから。悪いけど、無理。付き合えない」
やっぱりか。途中からそういう流れになっている気はしていたけど、いざ言葉にされると辛いものがある。よく心にナイフが刺さったとかいう比喩があるが、的を射ている気がする。胸の辺りが一瞬の痛みのあと、じわじわと熱くなってくるのを感じる。
僕の心臓はここ数日で相当ボロボロになったか、相当強靭なったかのどちらかだろう。
しかし、僕は堪えた。感情によって言葉が震えたりしないように、意識しながら言葉を話す。
「今の美月の推理で構わない。〈昨日の美月〉は俺の告白をすぐ断らなかったと思う?」
「あたしの演算では、この騙し騙しの生活はあと4年程度で破綻する。蓄積した情報量が、毎日の許容できるインプット時間をオーバーするの。こんな生活を――障碍を劇的に解決できるような魔法探しに、ケーヤの可能性や閃きに期待したかったんじゃない?」
美月は再び珈琲カップに口をつけてから、「でもそれは、全然恋愛とは違う。便利な道具を利用するような不純な動機」と小さく呟いた。
なるほど。容姿も冴えない僕に、美月みたいな子が近づいてきた理由がわずかに理解できた気がする。
「……そうか。事情は分かった」僕はソファを座りなおしながら、美月がカップを置くのを待った。そして。
「もう一回言う。俺と付き合ってくれ」
「……!?」
美月は珍しく驚いた表情を浮かべる。しかし、それは一瞬だけだった。すぐに表情を平静に戻して「もしかして、耳栓してるの?」と存外に責めてくる。
「事情は分かったと言ったろ」僕はさらりと返す。自分の中で解法が導けた以上、迷いはなかった。僕は引かない。引く気はなかった。
「付き合うのに、動機が不純じゃだめなんて、誰が決めたんだよ? 一緒にいたい、声を聞きたい、そういうのだって広義に言えば自分の気持ちを満たすためだけの欲と言えるはずじゃないか」
「それは普通の人達の場合でしょ。あたしは記憶が……」
「じゃあ、そんなの、俺が毎日告白すればいいだけの話じゃないか。普通の人達はさぞ羨ましいだろうな。『3年目のジンクス』がいつまで経っても来ないんだから」
我ながら、よくもこんな言葉が出てきたものだ。これには、さすがの美月も言葉を失っている。
「将棋の竜王も、チェスのクイーンも。どっちも強力な駒だけど、それ単体じゃ相手の王を詰めることは絶対にできないんだ。
美月はなんでも自分でできすぎるから……。もっと誰かを頼る――いや、利用するくらいの気持ちを持ってるくらいで丁度いいと思う」
美月は深いため息を吐いた。それは、不快感の表れではなく、いままで大量にためこんでいた悩みごとを開放したような感じだった。
そして、胸ポケットから例の紙をカバンからペンを取り出すと何かを書き込み始めた。
「……ここに『瀬田桂夜を頼れ』って書いた。あたしが困ってるとき、絶対に、助けに来てよね」
大きな壁を越えたかと思ったら、より大きな壁がやってきた。でも、この壁は一人で立ち向かわなくていいのだ。
1+1が2以上にできるから、人は協力し、文明を発達させて来られた。
前もって用意したわけでもないのに、美月の返事に対する言葉は自然と出てきた。
「心配ないよ。『名は体を表す』っていうし」
将棋での桂はチェスで言う騎士(ナイト)だ。そして、桂(K)と夜(NIGHT)は騎士(KNIGHT)だ。
一番最初に出会ったときに交わした自己紹介のことを今の美月は絶対覚えていない、というかこの世界にもういない。しばらくして、目の前の美月もようやくその意味に気づいてくれた。
「もしかして、キザなの?」そう言いながらほんの僅かに苦笑した美月を見ていると、とてもそうは思えなかった。
楽観的すぎるかもしれないけれど、その表情だけできっと将来奇跡は起こせるんじゃないか、と思えた。
僕は、お代わりのコーヒーをカウンターにもらいに行った。
「け、け、桂夜くん……。や、や、やるねぇ」
すっかり聞かれていたようだ。思わず顔が赤くなる。いくら一番奥の席だといっても小さな店だ。そして、ヒートアップして少し声のボリュームを上げてしまっていたようだ。
「あ……は、はぁ」先程の自分の勢いはどこへやら、2つのカップを手にしてそそくさとソファ席に戻っていく。
コーヒーをテーブルに置くと、「ありがと」と反応が返ってくる。二人の関係が明示的に変わったからだろうか、それとも僕の思い込みか、美月との間には全く壁を感じなくなってきている。
テスト終了の開放感を凌ぐ程の高揚感を必死に抑えて、僕は晴れて彼女(というと語弊がありそうだが、適当な言葉もないのでもう彼女と表現することにした)になった美月に向き直る。
そうなのだ。告白の返事を聞くのもそうだが、もう一つ美月としたい話があるのだ。
「実は、将棋部が大変なことになってるんだ」
僕は、やっとこの段階で総会でのできごとを伝えることができた。そして、何かいいアイディアがないか、と問う。
美月は少し考えて「その七三メガネの言っていた、将棋部が最低要件を満たしていないっていうのが気になる」と言った。
「生徒手帳貸して」
「先日、Yシャツのポケットに入れっぱなしにしていて洗濯機で粉々になってしまった……」
「……自分の見るからいい」
美月はカバンから小さな手帳を取り出すとペラペラとめくり始める。40頁くらいはあるはずだが、僅か10秒で作業を終える。
「もしかして、もうインプットした?」
「うん」
速読というのだろうか、僕には真似できない行動だ。毎日、情報をインプットしなおしているというのは嘘ではないようだ。
「部活動設立時の部員の最低人数は3人必要みたいね。一旦設立してしまえばその後は人数を問われないみたいだけど」
3人の制限というのは安易に乱立されないための制限なのだろう。その後の維持に部員数が問われないのは、例えば不幸な事故や転校などで部員が減ったときにも、残された部員が活動を続けられるようにするためなのだろう。
会則上では特に問題がなさそうだけど、消去法で他の部と比べるならば、部員数という点で大きなハンディキャップがあったわけだ。
つまり、大なり小なり夏の大会で成績をあげたとしてもその一点で不適格と押し切られてしまう可能性はずっと残り続けてしまうかもしれない。
「部員を増やすしかないのか」
「それは無理みたい」
美月の解説いわく。生徒が部活の所属を異動できるのは春の仮入部期間のみと定められている。(確かに、そのために僕達一年生は必死に動き回っていた)
対象の人数こそ少ないが、2年生や3年生もその期間に異動をしたり、掛け持ちを増やしたりしていたのだ。
「つまり、7月から10月の間に新たにヘッドハンティングしたり、掛け持ちしてもらうというのはNGなのか……」
仲の良い福路くんや勝田くんに頭を下げてみようかと思っていたが、それは即廃案となってしまった。
奥地会長は恐らくそれを知っていたから、あの時すんなりと妥結したのかもしれない。3ヶ月だろうが半年だろうが無理なのだよ、という嘲笑が聞こえてくるようだ。
「とりあえず、続きはまた明日考えよう」
気づけば、部活動の時間としては終わりの時間になっていた。美月の記録の時間を削るわけにはいかない。今日のところは、一旦お開きとすることにした。
自宅に帰ると、玄関に父の革靴が眼に入る。仕事人間で、こんなに早く帰ってくることなどそうそうないのだが。
などと思っていると、寝巻きを着て、階段を上がっていく父の後ろ姿が眼に入った。体調でも崩して早退したのだろうか。
「父、どうしたんだ?」台所に行き、父の茶碗を洗っている母親に尋ねる。
「え? あぁ、実はね……」
聞けば、父のヘッドハンティングの話が水泡と化したのだという。
大手の会社が父以外にも食指を伸ばした結果、今の会社がそれに気付き猛然と抗議。業界全体の反発を避けるため、会社ごと買収を仕掛けてしまったというのだ。
結果的には、『ヘッドハンティングしなかった』不要な人材も組み入れることになった。父個人で見ると給与も上がらず、ただ会社の名前が変わるだけという結果に終わったのだ。
「まぁ、ああなっても、明日の朝になったら何事もなかったかのように、会社に行くのよ。ピンチはチャンスにするきっかけだからねぇ。急性アル中になって苦しんだと思ったら、超絶女子と付き合って結婚までしちゃうんだから人生は良くできてるわ」
「……はいはい」相変らず達者な口に苦笑する。
まあしかし。父観察の第一人者である母が言うのだから、きっと問題はないのだろう。
少なくとも、『ピンチはチャンスのきっかけ』は真理だろう。将棋でも、取られそうな瞬間の駒は最大限に働く……という不思議な局面が驚くほどよく訪れるのだ。
「ご飯の量は?」
「特盛」
愚問だ。男子高校生の食欲を甘く見てもらっては困る。
今日の献立は……チンジャオロースーか。ピーマン嫌いの僕にとっては、半分が毒でできているようなものだ。
幸い、母親は明日の弁当の仕込みや皿洗いの真っ最中。こちらを常に監視しているわけではない。ここは『空城の計、桂夜バージョン』だ。
盛られている具のうち、肉とタケノコをいただく。偏って食べたことが発覚しないよう、内部にピーマンばかりの層を作った後、適度なバランスをした層を上に作り上げる。
ピンチをチャンスに。僕、さえてるなぁ。
そして、タケノコを咀嚼した瞬間。身体に衝撃が走った。
「げぇ!」思わず悲鳴を上げる。この食感、この味、紛れもなくピーマンだ。何故……?
「ふふふ、桂夜討ち取ったり~」
母親が振り返る。涙目の僕を見て、満面の笑みを浮かべてVサインをしている。
「それ、海外で品種改良した白ピーマンなのよ。ちょっと黄色くして、形も真っ直ぐになるようにしたらタケノコにそっくりなの」
「ちくしょう……、無益な研究費使いやがって……」愚かなるその食品メーカーには、早晩、神の裁きが下るだろう。
「さすがに肉は難しいから諦めたけどね。まぁ、チンジャオロースーにタケノコを使ってはいけないってルールはないしね」
「俺のレシピブックにはピーマンという言葉は載ってないけどな!」
「あ~ら、生徒手帳をうっかり粉々にしてしまった人のセリフじゃないわねぇ」
悔しいが、今回は負けを認めるしかない。
む?
ピーマンの苦味が刺激となったのか、僕の頭にふっとアイディアが浮かぶ。
小皿に取り分けてしまったピーマンを大量のごはんを使って飲み込みながら、僕はなおも考える。
もしかして、これは……突破口になりうるか?
そして、一気に食べ終えると、茶を一杯流し込む。
「みかん、あるよ?」
「あとで!」
とにかく、一人の考えじゃ不安だ。美月に検証してもらおう。
自室に戻り、携帯端末を開く。ア行の一番最後に入っている「織賀美月」の4文字を見て、少しどきっとする。
ついに、電話番号も交換してしまったという事実にまだ頭がなじんでいないのだ。
少しの間、行動を起こしあぐねていたが、あまりもたもたしているわけにもいかない。何時に就寝するのか分からないからだ。電話に出てくれても、寝起きだったとしたら話を最初からしなくてはならなくて大変だ。
「もしもし、美月? まだ起きてる?」
「そうだけど。何?」
ここは単刀直入に。僕は、考えていたことを言ってみた。
「――確かに、生徒会則上は可能だと思う。でも、そんな都合のいい部活があると思えないけど?」
「それがあるんだ。まぁ、今はとにかく何でもやってみるしかないし。明日、また部室で」
「うん」
電話を切る。
よし、とりあえず信頼の置ける頭脳からは『可能』という言葉がもらえた。あとは、僕の日頃の行いと、演技力次第か。
今夜も緊張で眠れなくなりそうだと判断し、自室の床で腕立て伏せや腹筋を猛烈に行う。身体を疲れさせて、寝つきを良くしようという作戦だ。
結局、僕はその日良く眠れた。
筋トレで身体が疲労したのがよかったのか、夕食のピーマンで精神的に疲労したのがよかったのかは定かではない。