総村スコアブック

総村悠司(Sohmura Hisashi)の楽曲紹介、小説掲載をしています。また、作曲家・佐藤英敏さんの曲紹介も行っております。ご意見ご感想などはsohmura@gmail.comまで。

小説『All gets star on August =星の八月=』(1/4)

 【第一章】 星

 *****

  ほし【星】〔名〕…警察関係で、犯人・容疑者をいう隠語。

 *****


 「しばらく、ここでおとなしくしていてもらうわよ」
 凛とした声が投げ掛けられた。そして、複数の足音が徐々に離れていく。
 「は、なしを……聞いてくだ……」呂律がうまく回らない。はっきりとしない意識の中で、僕は必死に訴えた。
 記憶がうまくつながってない。どういうことだろう。もしかしたら睡眠薬のようなものでも飲まされたのか。
 身体を動かそうとして、それも叶わないことを思い知った。椅子に腰掛けさせられており、その状態で両手だけでなく全身を縄で固定されていたのだ。
 徐々に、バラバラだった記憶の欠片が集まり始める。しかし、再構成されたそれはどうにも非現実的なものとしか思えなかった。

 この人たち、本当に僕たちを犯人だと思い込んでる……!

 でも。本当に、断じて、無実だ。物証だってない。
 動機だって、ここに今日来たばかりの僕たちにあるはずなんかないじゃないか。冷静に考えればおかしいことだらけのはずなのに……!
 しかし、無情にもギィィ……と扉は閉ざされていく。
 「ぼ、くた……は」
 〈死人に口無し〉と言うが、言葉の使えないニンゲンの無力さというものに僕は絶望した。
 扉から差し込んでくる光が徐々に細くなり、僕たちのいる部屋は反比例して暗くなっていく。
 そして、バタン……という重音とともに、僕たちは「容疑者」という立場を確定的なものにされてしまった。
 ……。
 このあと、一体どうなってしまうのだろうか。
 警察を呼ばれる分にはまだ願ったりかなったりかもしれない。僕たちは、当然自分たちが犯人ではないと確信している。だから、何かを隠す必要も演技する必要もない。自然体でいればおのずと身の潔白が証明できるだろう。
 しかし、真犯人にとって、僕たちが動けないこの状況下は格好の偽装工作の場となるだろう。もし巧妙に冤罪工作でもされてしまったら――。
 警察だって人間だ。そして、人間は間違える生き物だ。世の中には明るみになっていない冤罪などたくさんあるはずだ。僕は急速に不安になる。
 まさか、自分がそういう厄介ごとに巻き込まれるなんて想像もしていなかった。今日選んだ選択肢のうち、どれか一つでも違うものを選んでいれば避けられた事態だったのだろうか。
 ここは小さな離島だ。恐らく、本島の警察がやって来るまではまだ猶予があるはずだ。その間に、僕たちが無罪であることの証明、そこまで行かなくても不利にならない状況を作っておく必要がある。
 信じられるのは、僕たち自身――瀬田桂夜(せたけいや)そして織賀美月(おりがみつき)――だけだ。
 そのためには、まず身動きの取れないこの状況をなんとかしなければならないのだが。
 微動だにしない扉から視線をすぐ脇に移すと、美月が同じように椅子に縛りつけられているのがみえた。意識を失っているのかうつむいたままだ。
 飲まされた薬が似たようなものならば、もうしばらくしたら起きるかもしれない。しかし、何とも説明がしづらい状況だ。説明がしづらい、というのには少し込み入った訳がある。
 理由は本人も分からないらしいが、美月は特殊な脳構造――人並み外れた処理能力と一時記憶と引き替えに、永続記憶がほとんどできない。つまり単純に言えば、頭がすごくいいが、寝ると記憶をほぼ全て失ってしまう――の持ち主なのだ。
 普段は、目覚めたあとに日記帳や携帯端末のメモを元に、それまでの記憶を再度インプットし直しているらしいのだが、この手足が縛られた状況ではそういったことが不可能だ。美月としても初の体験だろう。
 この状況を打開するのに、美月の力は絶対に必要だ。一秒でも早く強力なパートナーに戻ってもらう必要がある。
 そのためにも、今のうちに、僕が何者で何故こんな状況になってしまったのか、そういったことを丁寧にかつ手短に説明してあげる必要がある。
 そうすると、いつからになるだろう……。
 僕は頭の中に今日のここまでの出来事を思い出し始める。始まりは、そう、午前の船上あたりからで十分だろうか。

 *****

 水しぶきを上げながら進む船の上は、とても心地よい。
 8月ともなれば、夏は本番だ。日差しは相当強力になってきている。当たったところは、熱さだけでなく押されているような感覚だ。宇宙ヨットの仕組みを、まさに肌で感じている。
 船の欄干に近づくと、海風をより強く身体に感じる。それは夏の日差しさえ一時忘れさせてくれるような清涼感に溢れていた。
 都内最南端の小尾湾(おびわん)からの連絡船に乗り込み、僕は五稜亭旅館(ごりょうていりょかん)という場所に向かっていた。それには深い、あるいは不快な理由がある。
 僕が所属する将棋部の顧問である泉西先生が「合宿やるぜ! 有無は言わさん! 『うむっ』とだけ肯定せよ!」と騒ぎ出したのだった。いつもながら、突拍子もない話だ。大方、学園ドラマで夏合宿であれやこれや騒動が起きるのを観てその気になったのだろう。
 夏休みのど真ん中にそんな計画を急に立案されて将棋部員にとってはいい迷惑、どころか存分に悪い迷惑である。部長として、僕は断固抗議することにした。
 ところが。
 「行き先は五稜亭旅館というところだ」
 その名を泉西先生が口にした瞬間、僕の心はあっという間に反転した。自分にも『忍法・心変わりの術』が使えたのか、と感心してしまった。
 というのも、この五稜亭旅館は将棋のタイトル戦でもしばしば使われることがある、いわば将棋ファンにとっては聖地の一つなのである。
 余談になるが、タイトル戦は先にどちらかが勝ち越し決定をした時点で終了となる。
 逆に言うと、5番勝負の場合の4,5戦目、7番勝負の場合の5,6,7戦目の開催予定地は、必ず使われるという保証は無い。
 それゆえ、一般的な宿泊施設では敬遠されがちだ。しかし、囲碁と将棋の愛好家でもあったこの五稜亭旅館の創業者は、タイトル戦の黎明期から進んで最終戦開催地の依頼を引き受けてきた。
 言うまでも無く、最終戦はどちらもカド番であり、必ず最終勝者が確定するという大事な一戦だ。必然、後世に残るような多くの名勝負を生んできた。
 僕の尊敬するプロ棋士、故・佐波新継(さばあらつぐ)九段が病魔と闘いながら挑戦者として戦った〈棋神戦〉。
 現在将棋界の第一人者と言われている、冷谷山秋一(れいやさんしゅういち)三冠がプロ入り最短でそれぞれタイトルを取得した〈龍帝戦〉〈騎帝戦〉そして〈棋神戦〉。
 いずれも、五稜亭旅館の最終戦での出来事だ。
 あぁ、いけないいけない。将棋のことでつい頭がいっぱいになってしまっていた。
 先ほどから、僕、僕と言ってきたけれど、それは正確ではない。この旅は、同行者がいるのだ。
 欄干から振り返ると、日陰で腕組みをしている少女と眼が合った。同じ将棋部員の織賀美月だ。関係性は非常に説明が難しい。理解者とか協力者という感じが近そうだが、客観的に見たら彼女ということになるだろうか。
 今日は白いワンピースドレスに白い帽子を身につけ、ストレートの髪も下ろしている。普段のポニーテールと制服姿を見慣れているせいか、そのギャップによってドキドキしてしまう。
 その姿は、まるで深窓の令嬢のようだ。はたまた、地上に舞い降りた天使のようだ。表情の乏しさを除けば――。
 美月は表情をほとんど変えない。神掛かったまでの無表情だ。例えば、
 美味しい菓子を食べているときは、眼を2mmほど大きくして喜ぶ。
 約束の時間に5分遅れると、線のような口許を僅かにへの字にして怒る。
 ただ少し、ほんの少しだけ普通の女の子並みに微笑むというひと手間をかけるだけで、才色兼備の美少女ができあがるというのに――。せめて、辞書の〈天は二物を与えず〉の項目の事例に是非使ってほしい。そんなことを思う。
 それでも、4月の出会ったばかりの頃に比べれば、最近はいくらか表情が豊かになってきたような気がする。いやいや、僕の観察眼が鋭くなったのか、ハードルが下がったのか……。
 「こっち来ない? 涼しいよ」手招きをする。船の縁は風が物凄い勢いで吹き抜けており涼しい。
 「いい」美月は動かない。
 おや? 僕は訝しがる。こういう展開って……。僕は、少しニヤニヤしながら、「もしかして泳げないとか? とからかってみる。
 すると、美月は眼を細めてこちらを睨んできた。僕はそれを図星という意味合いだと思ったのだが……。
 「もしかして、バカなの?」お馴染みの言葉を頂いてしまった。「日焼けするからに決まってるでしょ」
 なるほど。夏の日差しは乙女の敵、そんな標語をどこかで聞いたことがあったかもしれない。言われれば納得である。
 腕時計を見ると、出発から30分が経とうというところだ。僕の方から彼女の方に近づいていった。
 「あと5分くらいかな」出港前に島までは約35分と説明を受けている。
 それにしても、トラブルが実体化したような存在である泉西先生がここにいないのがなんと素晴らしいことか。
 勝手な想像だが、もしこの船に乗り込んできていたらここまで穏やかな時間は過ごせなかっただろう。
 「俺に操縦させろ! そう、自由に」とか叫んで船員と揉めごとを起こしたり、「海、一番乗りぃ」とか言って海面に飛び込んで救出騒動を起こしたりした可能性が考えられる。
 その泉西先生は出港直前になってドタキャンの連絡を入れてきた。曰く「二日酔いだ。死んでも船なんかにゃ乗らねーぞ」。
 ええ、構いませんよ? 僕としては、「死んでも船にゃ乗せねーぜ」とさえ思っていたのだから、願ったり叶ったりというやつである。
 そして、もう一人の男子部員である斎諏訪徹(さいずわとおる)も今回の旅を欠席している。こちらは、随分と前から決まっていたことだ。
 斎諏訪は「離島だと通信速度が遅すぎて話にならんのです。将棋部のウェヴサイトのメンテに支障が出ます」と泉西顧問に主張し、それはいとも容易く受け入れられた。たまには気晴らしによさそうなものだが、〈超インドア派〉の斎諏訪にとっては「合宿などはもってのほか」なのだそうだ。
 まぁ、僕としては最終結果として美月と二人旅(代金は泉西先生が事前に支払い済み)と言う最高最良の展開を得られたのだった。

 しばらくして、進路方向に目指す島が見えてきた。海の真ん中に急に山が現れたような形状で、いかにも造山帯を思わせる。なるほど、温泉も出るわけだ。
 そして5分後。僕たちは無事、小牛島(こうしじま)に到着した。
 「美月、降りるぞー」声を掛ける。しかし、反応は無い。
 視線の先を追うと、白い鳥がたくさん空を舞っている。僕にとっては、類型も合わせれば何十回も見たことがあるような、なんということのない光景だ。
 しかし、毎日記憶がリセットされてしまう美月にとっては、こういう光景のひとつひとつは斬新なのかもしれない。ちょうど、写真でしか見たことのない場所に初めて訪れた旅人のように。
 ただし、この光景もまた明日には消えてしまうだろう。それでも、こういう瞬間が美月にとって無駄になるとは思わなかったので、僕は先に降りることにした。
 「この微妙な揺れは苦手だ。先に降りてるよ」
 元々、乗り物はあまり得意なほうではない。美月への配慮と、自分への配慮の半々でそう告げてから僕はタラップをさくさくと降りていく。
 船着場のコンクリートの上に降り立つと、その周辺には船の到着を待っていた人たちが集まってきており、賑わっていた。
 「スクーバダイビングの方はこちらにどうぞー」
 「テニスの方はこちらにお願いします」
 時間はまだ朝の10時半だ。チェックインする前に、少し遊んでからという人も多いのだろう。
 「五稜亭旅館へ直接向かうお客様はいらっしゃいますかー?」黒ぶちメガネの少し痩せぎすの中年男性が声をあげている。羽織っている上着には五稜亭旅館の文字が入っていた。恐らく、旅館の従業員だろう。
 近くには、大柄の男性が背筋をビシッと伸ばして立っている。こちらは、客だろう。ベートーヴェンのようなウェーヴの効いた髪と前方に力強く伸びているもみ上げが印象的だ。ティアドロップのサングラスを掛けている。ダークグレーのスーツを着こなしていなかったら、先ほどの連絡船の関係者と決めつけてしまいそうなところだ。
 「あ、はい!」僕は手を挙げて応じる。「3名で宿泊予定の泉西です」
 「泉西様ですね。ご予約承っております」中年男性は一旦にこやかに応じたものの、「あの……もう一名様はどうなさいましたか?」すぐに問いかけてくる。僅かな変化ではあったが、その表情に新たに不審の色が混じったように見えた。普段から、美月の表情を見続けてきた賜物かもしれない。
 最初は人数減による宿泊費用の精算関係かと思ったが、どうも僕たち自身の方にフォーカスが当てられているような印象を受けた。
 振り返ると、ちょうど美月が一人で降りてくるところが見えた。最後の一人だったようだ。船はすぐに再出航の準備をはじめている。
 大人1人に、高校生2人の予約のはずだから消去法で大人1人が不在であることは明白だ。
 確か部屋は男女別々にとっていたはずだけど、もしかして高校生だけでは宿泊不可なのだろうか。
 伝統のある旅館だから、少しでも問題がありそうな宿泊客の場合は丁重にお断り……ということは考えられなくもない。僕は咄嗟に、
 「ちょっと乗船前に具合が悪かったようなので、先に2人で来ました。次の便で来れるかと……」
 と答えていた。完全な嘘である。
 とんぼ帰りなんて絶対にイヤだ。無意識にそう思っていたのかもしれない。
 あとになって思いかえすと、このとき正直に「僕たち2人は将棋部員です。顧問が体調を崩して来られません」とでも言っておくのが正解だったかもしれなかった。
 「左様でしたか。小牛島には名医がおりますので、何かございましたらお取次ぎいたしますよ」
 「名医……ですか?」
 「ツブラ・クジャクというお医者さまです。百円の円の字に、鳥の孔雀というお名前です。まだお若いからご存じないかもしれませんね」
 「は、はい。すみません……」
 「円先生の腕は相当なもので、世界のVIPの間でも有名なのですよ。外科、内科、産科なんでもできる上、天才的な腕前なのです」
 「そんな方がこの島に?」
 「どうやら、あの岬の上の一軒屋がお気に召したようで……」
 指を指した先には、遠目にも古びた一軒家が見えた。うーむ、天才の気持ちが僕には良く分からない。
 「私どもは旅館内にお住まいいただくこともご提案したのですが。ですから、旅館からお呼びするときは15分程度はかかってしまいまけどね」
 この島で1泊する間に大怪我や病気にかかる確率など相当なものだ。とりあえず、すごい名医がいたという土産話くらいにはなりそうだなぁと思って僕は相槌だけ打つことにした。
 「あ、はい。分かりました」
 そしてちょうど、美月も合流した。結構な数の乗客が下船したはずだが、結局、残ったのは僕と美月、そして豪傑風の大男と旅館の男性の4名だけだった。
 連絡船は、乗客の下船と諸々のチェック終えたのか、再び海原へと進んで行くのが見えた。
 「……どうやら、他にはおられないようですので、参りましょうか」黒ぶちメガネの中年男性がそう切り出した。「わたくし、五稜亭旅館の館主、マルイカガミと申します」
 この人が、館主!?
 つい驚愕が、表情に出てしまったかもしれない。物腰は穏やかだが、館主の貫禄というか、オーラみたいなものがこの痩せぎすの男性からはどうも感じられない。そして何より、館主自らがこういった出迎えに来る、ということになにか違和感を感じた。
 豪傑さんは特に気にした様子もない。美月も特に表情の変化は見られない。まぁ、このくらいで動じるタイプではないが……。
 「あの……。いつも、館主さんがこうしてお出迎えにいらっしゃるんですか?」
 このタイミングを逃したらもう聞くチャンスがなくなって、もやもや感が残りそうだ。失礼にあたるのかもしれないが、僕は気になってつい聞いてしまった。
 「あ、実は午前中にちょっとしたVIPが来館予定でして。どうやら次の11時の便のようですね……」
 「VIPですか」
 何ともぼかした言い方だが、よく考えればプライベートな話だ。質問をした僕にも十分に配慮をした回答をしてくれたといえるだろう。
 VIPとはもしかして、名医だという円孔雀先生の診察に訪れる患者なのだろうか。
 「あ、VIPといえば、こちらも――」館主が豪傑さんの方を向き、僕らの注意を集めようとする。
 この風貌だ。プロレスラーだ、と言われても大いに頷ける。と、豪傑さんが不意にサングラスをはずしてこう言った。
 「はっはっは。おれの名前は、マルイシンゴだっ」
 マルイシンゴ……。この、眼の感じといい……。
 「あっ、もしかして……!」
 合点の言った様子の僕に、豪傑さんもうんうんと頷いて言葉を待っている。
 「お二人は、兄弟なんですか?」
 てっきり、「正解!」という反応が得られると思っていたのだが、当ては外れた。豪傑さんは目頭を押さえてしまう。
 「あ、実はそれも正解なんですが……」館主さんは苦笑いを浮かべている。
 「音だけだとピンと来ないのか? 字は、新しいに五の口、で新吾という名前なんだが……、分からんかなぁ」
 丸井新吾……か。うーん。やはり、頭の中に浮かんでくる人物は特にいない。申しわけなさそうな顔で「すみません……」と答えた。
 「はっはっは。若い子達だから、まぁしょうがないかっ。これでも、一応プロの6段なんだがなぁー」
 プロの6段?
 僕が聞きなおそうとする前に、豪傑さんは踵を返してしまった。てっきり、気分を害してしまったかと思ったのだが、鼻歌を歌い始めたので特に気にする必要はなさそうだ。僕は胸をなでおろした。 
 観光がメインの土地柄のためか、島内は全体的に非常に整っていた。情緒のある古さと清潔感のある新しさが程よく混ざり合っているのに非常に好感が持てる。
 美月はどう思う? そう尋ねようとして、彼女が呪文のような言葉が呟いていて不審に思う。
 「……八十八万四千七百三十六。九十一万二千六百七十三……」
 「なにしてるの?」一応聞いてみる。
 「暇だったから、三乗の計算をしてただけ」
 うーん、僕には少し理解困難な暇のつぶし方だ。
 道は基本的に坂道だった。歩くのが大変と言うほどでもないが、じわりじわりと疲労が溜まっていきそうな予感がする。
 港から離れ、島の中心部に近づくにつれ、次第に道の両脇が緑で覆われていく。この季節の日陰は本当にありがたい。
 隣を向くと、さっきまでいたはずの美月の姿がない。はてと思って後ろを向くと、少し離れて彼女は歩いていた。しかし、僕たちのペースが早いというわけではなさそうで、周りの景色を眺めながら歩いているのがその理由のようだった。
 相変わらずマイペースだなぁ……。
 そして、顔を前に戻そうとして、ぎょっとなった。目の前に、豪傑さんの顔がどアップで迫っていたのだ。「な、なんでしょうか?」と尋ねるより早く、豪傑さんにしてはややボリュームを落として話しかけてきた。
 「君の連れの子、もしかしてアイドルとかかい?」
 アイドル……?
 唐突な質問に、僕はすぐに返事ができなかったが、徐々にその意味を理解し始める。
 自分が彼氏バカであることを差し引き、極力客観性を重んじて評価しても、美月は分類上は美少女といっても過言はないだろう。
 危く、「あんな無愛想のエキスパートのアイドルがいるでしょうか?」という言葉が喉元まであがってきたが、美月に聞かれては気まずい。
 「だとして、こんなに要領の悪そうなマネージャーはおかしくないですか?」僕は、自分を指差してそんな言葉を返した。
 「はっはっは。それもそうか」豪傑さんは即座に納得する。
 そこは、少し考え込むなり、謙遜するなとか言って欲しかった!
 「はっはっは。一般人とは、残念残念。来年、テレビ番組で講座を頼まれたからアシスタントに是非どうかと思ったのだが。なかなか人生上手くいかんもんよなー」
 「アシスタント……ですか」
 プロ……6段……テレビで講座……でも、僕は知らない……。
 それらの情報を組み立てていくと、一つの予想が立った。
 「もしかして、囲碁のプロ棋士をなさっている……?」控えめな声でそう尋ねると、豪傑さんは目を丸くして僕を見つめ返してきた。
 あれ? また外したか?
 と。
 「やっと気づいてくれたか! はっはっは。はっはっは……!」豪傑さんは突如大きな笑い声をあげると、僕の背中をばしんばしんと叩いてくる。おかげで、坂道を2mほど楽に登れ……じゃなくて、痛いんですけど。
 それから気を良くしたのか、豪傑さんはプロ棋士としての矜持や、ポリシーを熱く語り始めた。僕はそれを聞きながら、坂道をひた登り続ける。後ろに、美月の気配を感じながら。
 あぁ、本当なら一秒たりとも無駄にしたくない貴重な二人きりの時間が……。
 豪傑さんの隙を縫い、ちらりと後ろを振り向けば。
 時折吹く風に帽子をさらわれないように押さえながら、木々を仰ぎ見る美月の横顔が見えた。
 さっきの豪傑さんの言葉をそのまま借りるならば――なかなか人生上手くいかんもんよなー。
 
 濃緑の葉を繁らせる林道を抜けると、目の前に巨大な建物が視界一杯に広がった。写真では観たことがあったものの、実物は非常に大きく見えた。
 「五稜亭旅館、到着でございます」
 建物に入ると、正面に円形のソファが見える。大型のディスプレイや、水槽、土産の販売コーナーなどがそれを取り囲むようにしている。ロビーの脇には飲食用の受付コーナーがあり、喫茶の場として使うこともできるようだ。
 「はっはっは。ではおれは一足に先に失礼するよ」豪傑さんは荷物を係員に渡すこともなく、そのまま奥のほうにあるエレベーターに向かって歩いていってしまった。
 チェックインの手続きも特にすることなく、非常にフリーダムな行動だ。まぁ、豪傑さんにとっては実家なのだから、問題はないのだろうけど。
 「兄が何かと騒がしくて、すみませんでした」豪傑さんがいなくなったのを確認し、館主さんがわずかに表情を崩しながらそう言ってくる。それはビジネスの表情ではなく、知り合いに対してするような表情に近い。
 「いえいえ。色々と、面白い話も聞けましたし……」僕はあたり障りのない返答をする。
 「当旅館のご利用は初めてでございますか?」
 僕がうなずくと、館主さんは館内案内図の前に僕らをわざわざ誘導して、館内の説明をしてくれた。
 五稜亭旅館は非常に珍しい構造をしていた。

図_五陵亭旅館(B1F)

図_五陵亭旅館(B1F)

図_五陵亭旅館(1F)

図_五陵亭旅館(1F)

図_五陵亭旅館(2F-5F)

図_五陵亭旅館(2F-5F)




 上から見ると、敷地は正五角形になっており、それぞれの頂点を結ぶように区画されている。別の表現をするならば、一筆書きで星型を描き、5つの頂点をさらにつないだような形状だ。三角形と五角形ばかりになるので、狭い土地で建てようものならば大いなる無駄が生じそうだ。
 そして、星型のそれぞれの5つの区画は時計回りに朱雀、玄武、青龍、白虎、麒麟という名称が割り当てられており、宿泊用の区画として使われているようだ。
 その宿泊スペースの間には、娯楽用の区画が設けられている。
 朱雀と玄武の間に、旅館一番の売りである温泉が位置している。二酸化炭素泉で、皮膚にしゅわしゅわとした微炭酸の泡がつくのが心地よいらしい。
 玄武と青龍の間には、大小5つの池が散在する庭園がある。地熱のためか、一年を通して豊かな自然が遊覧できるらしい。
 これら2つは、屋外にある施設だ。それに対して、残りの3つは屋内施設だ。
 青龍と白虎の間には彫刻展示場、白虎と麒麟の間には、宝石展示場、麒麟と朱雀の間には、陶芸展示場といった具合だ。
 いずれも、少量ではあるものの、島内でとれる木材、鉱物、貴金属、粘土を使用した作品が閲覧できるとのこと。一部は一般販売もされているらしい。
 静かな古湯を愛した多くの芸術家が湯治の折、あるいは、後日お礼に寄贈したものが多数あるようだ。
 なるほど、外が悪天候の場合はこういった場所で過ごすのもありかもしれない。
 今、僕たちがいるのはこのメインフロアの直下である地下1階だ。メインフロアが高台の上に作られているから、便宜上そうなっているらしい。
 「チェックインまではまだ時間がございますので、それまでの間、こちらをごらん頂くとちょうど良いかも知れません。いずれもお代は頂いておりません」館主さんが彫刻展示場、宝石展示場、陶芸展示場を指差して言う。
 チェックインは13時以降だったか。12時から一時間お昼を食べてつぶすことを考えると、まだたっぷりと1時間半はある。
 「あの、庭園って見て回っても大丈夫ですか?」
 「庭園ですか……? ええ、温泉以外は全て大丈夫です。ただ、お若いお二人には、あまり面白味はないかもしれませんが……」
 「いえ、ありがとうございます」
 「あ、お荷物はチェックイン前でもお預かりできますのでご遠慮なくどうぞ」
 説明を終えると、館主さんは丁寧にお辞儀をして去っていった。
 ふと見ると、案内板の前にはパンフレットが置かれていた。手に取って開いてみると、目の前の案内板と同じ図面、そして写真や文章がいくつかが載っていた。
 左上に『館主よりご挨拶』が載っている。写真は、先ほどまでの柔和な笑みをそのまま写したような仕上がりだ。末尾には直筆で『丸井 鑑』とある。
 その下に、続けて『女将よりご挨拶』があった。こちらは少し気の強そうな表情の中年女性だ。末尾には直筆で『丸井 沙羅』とある。ということは、きょうだいだろうか。
 真ん中には礼の館内案内図、そして右上には『料理長よりご挨拶』があった。もしやと思ってみると『丸井 敬基』とある。
 親戚か、従兄弟か、兄弟かは不明だが、どうやら五稜亭旅館は名実共に丸井家が執り仕切っていることを十二分にうかがわせる内容だ。
 さてと。
 「どこか行ってみたいところある?」
 僕は、隣で案内板を覗き込んでいる美月に尋ねる。
 「ここ、プール無いんだ。せっかく水着持ってきたのに」
 「……!?」
 ミズギ……ミツキ? 違う違う、水着!! 心臓を鷲掴みにされるとは、こういうときのことを言うのか。無意識のうちに、美月の身体を上から下まで眺めてしまっていることに気づき、慌てて視線を逸らす。いかにもわざとらしい動きだが、幸い気づかれなかった。
 そもそも、将棋部の合宿じゃなかったか、などという野暮な突っこみは一切しない。僕も成長したものだ。男子三日会わざれば、括目して相見えるべし、というやつだ。
 「泳ぐの、好きだったっけか?」
 「何もしないよりはね。あんまり疲れないし……」
 疲れない、というのはやや疑問だが……。僕は25m泳ぐのでも苦労する。途中で息継ぎが乱れ、全然前に進めなくなってしまう。何か、コツのようなものがあるのだろうか。
 砂浜でもあれば、海に誘うといったこともできたかもしれないが、この島の海岸線は岩場ばかりのようで泳ぎには適していない。
 非常に残念ではあるが、夏休みはまだある。希望があるからこそ、人類は今日と明日を生きることができるのだ。
 「じゃあさ、庭園行こうよ」
 こくり。
 美月は意外にもすぐに頷いてくれた。展示品のような静的なものより、多少なりとも動きのあるもののほうがまだ面白そうだという判断を下したのだろう。
 元々、1泊だけの予定だったので荷物はそれほど多くはない。しかし、庭園を歩くには邪魔になりそうだ。地下1階のクロークで荷物を預かってもらうことにした。大した金も入っていないが、財布と携帯電話だけは持ち歩くことにした。
 「あれ? それ、まだ使ってるんだ」
 美月の携帯端末に、クマッタという熊のキャラクターのストラップがぶら下がっていた。以前ペットボトルのおまけでついてきたものを譲ってあげたのだ。
 7月上旬にあげたものだから、1か月近くになる。携帯端末なんて毎日出し入れするものだし、おまけの品なので丈夫な作りではなさそうだ。実際、毛並みが少し擦り切れてくたびれているようにも見える。
 「まあね」
 あげたものを大切に使ってもらえるのは嬉しいが、少し罪悪感を感じる。本島に戻ったら、新しいもっとしっかりしたストラップをプレゼントしてあげようか。そんなことを思った。
 階段を上り、地下1階から1階へ移動する。さすがに評判のいい旅館だ。建物は随分と古いはずだが、階段が軋んだりすることなどはなかった。
 階段を上りきって周囲を見回すと、見上げたくらいの高さに木彫りの表札が掲げられていた。5つの宿泊スペースの入口と、5つの娯楽スペースの入口の合計10個だ。
 大きさといい、彫りの複雑さといい、なかなか立派な代物だ。例えば、朱雀ならば文字の後ろに赤く彩色された朱雀が描かれていたりする。
 先ほどの説明の通り、庭園の表札は玄武と青龍の表札の間に見つけることができた。
 表札の下をくぐり、一歩外に出ると、そこは見事な庭園が広がっていた。海側の方角は、建物が建っているため潮風が遮られている。日当たりも良い。池もあり、コイやカメの姿も見えた。
 夏本番とはいえ、日の出からずっと日陰になっているところは、十分な涼しさがあるようだ。池が近くにあることもあって、庭園の道は非常に涼しい。
 細い石畳の道を、後ろから着いて来る気配を感じつつ進む。
 「確か、この先には石橋と灯篭があったはず……」。
 はやる気持ちを抑えて、石畳をさらに進んでいく。すると、イメージしていた通りの石橋が池に掛かっていた。そしてその先には灯篭が見える。
 「詳しいね」
 「まあね」
 昔読んでいた将棋雑誌には、対局の内容だけでなく、対局会場の情報も写真つきで載っていた。この先の灯篭の前で、対局者が並んで記念撮影をするのも慣例になっている。
 僕はその灯篭の前まで進み、振り返ってみる。自然と、美月と向かい合う形になる。
 「瀬田棋神、あの難攻不落と言われていた織賀美月さんをとうとう彼女にしてしまわれたそうですが、その要因はなんだったのでしょうか?」空想上の記者が僕に問いかける。
 「そう……ですねぇ。運も絡んでいましたが、定刻に遅れていくことで秘密を共有するきっかけとなった〈巌流島作戦〉が効果的でした。史上最大の作戦と言って良いでしょう」空想なので、僕はかなり調子に乗ってみた。
 そう……ですねぇ、という話し方は佐波九段の口癖で、僕は小さい頃よく真似していたものだ。
 「今後の目標をお教えいただけますか?」
 「そう……ですねぇ。まずは〈彼氏〉の座に甘んじないよう日々鍛錬を重ねることですね。ゆくゆくは、永世彼氏の資格も得たいですね」
 〈永世〉という修飾語は『5期連続在位』や『通算7期在位』といった実績を得ることで名乗る権利が与えられる。本当に字面だけの意味で考えると永世彼氏などは、相当厳しい条件で名乗ることを許される〈タイトル〉だろう。
 「……ケーヤ?」
 おっと、少し空想に耽りすぎたようだ。美月が、僕の様子を伺っていた。確かに、急に振り返ってボーっと立っていたら何かあったのかと思われるのが当然かもしれない。
 「もう少し先まで行ってみよう」
 僕たちは灯篭を通り過ぎて、奥に進む。すると、今度は木々の間に隠れるようにして小さな瓦屋根の建物が見えてきた。僕の本命はこの建物にあった。

 

図_五陵亭旅館別館(風雷庵)

図_五陵亭旅館別館(風雷庵)


 風雷庵(ぶらいあん)、囲碁や将棋のタイトル戦で使われる離れ屋敷だ。高校球児たちにとっての甲子園球場のように、ここは将棋ファンにとっては興奮必然の場所だ。
 しかし。
 「あっ」僕は思わず悲鳴に似た声をあげた。
 その建物へ続く道の脇に「この先、修復工事中」という看板が立っていたのだ。改めて注意して風雷庵を見てみる。正面は変わった様子はないものの、建物の側面の方に補修用の脚組みやネットが僅かに見えた。
 「うぅうう……」僕は思わずうめき声をあげる。
 せっかく、ここまで来たのに! 引き返すべきか? 悩ましい……。
 いや、もうちょっと近づくくらいいいんじゃないだろうか。チェックインまでの時間もまだまだある。
 しかも、奥からは何か作業をしているような物音は聞こえてこない。危険性という意味では問題ないのではないだろうか。
 でも、従業員の人に見つかって怒られたりしないだろうか。
 様々な脳内会議の結果、僕は決断した。
 「行ってみよう」
 看板には、立ち入り禁止とまでは書かれていなかったこと、場合によっては『迷い込んだ』『看板に気づかなかった』などでごまかしてしまえば問題ないだろうと思ったのだ。
 美月は進もうが戻ろうがどちらでも良かったらしく、大人しく僕のあとをついてきている。
 風雷庵の玄関に到着した。やはり人の気配はない、作業らしい作業も特に何もされていない様子だ。
 玄関の引き戸を見ると、僅かに指数本分の隙間が開いていることに気づいた。
 これ、もしかして、中に入れるんじゃないか?
 そっと引き戸を横にずらしてみる。すると、戸はあっさりと開いたではないか。
 そのまま中を覗き込んでみると、質素ながら格調の高そうな玄関と廊下が眼に入ってくる。
 ……あれ?
 玄関をよくみたら、隅に草履が1組転がっていることに気づいたのだ。旅館の関係者だったらまずい。一瞬、引き返そうかと思ったところでふとある可能性を考え付く。
 「美月、さっきロビーとかにいた旅館の人たちの草履の鼻緒って何色だったか憶えてる?」
 「みんな茶色だったけど?」
 「男女関係なく?」
 こくり。
 「そっか……。ありがとう」
 であれば、問題ない。目の前にある草履の鼻緒はえんじ色だ。絶対に旅館関係者でないとは言い切れないが、これは高確率で先客――それも草履で旅に出るような年配の――だろう。
 ここは囲碁や将棋の聖地だ。年配のファンが見物に訪れていても全く不思議はない。年配の人ならば、あの看板の存在に気づかなかったりしたかもしれない。あるいは、僕と同じようにいざとなったらとぼけるつもりで失敬した可能性もあり得る。
 「先客がいるみたいだから、大丈夫そうだ」
 僕は、悠々と玄関に足を踏み入れた。靴を脱ぎ、板の上に足をつくと、夏の暑さを忘れさせるかのようなひんやりとした感覚が足裏に伝わってくる。
 玄関の正面は壁になっており、日本画が掛けられている。描かれているのは〈風神〉〈雷神〉だろうか。風雷庵にはふさわしそうな絵である。
 玄関前の廊下はすぐ左右に分かれ、それぞれすぐまた直角に折れて延びているようだ。もし、廊下だけを抽出したら、音叉のような形になるだろう。
 本館のほうが三角形や五角形の区画ばかりなので、風雷の構造は一際シンプルに思えてしまう。
 僕は過去にみた写真を思い出す。対局室となっていたのは池が見える方だったから、左側の部屋のどこかだろう。僕たちは、左側の廊下を進んでいく。
 すぐ手前に雷神の間があった。使用者がいないためか、空気が停滞しないようにするためか、出入り口である襖は開いたままになっている。
 部屋を覗いてみると、畳は青々としており、程よいイグサの香が鼻腔をくすぐる。部屋は外光が僅かに差し込んでいて、歩いたりする分には問題なかった。障子に近づくが、外で見た補修用の資材のせいで、やはり庭園は拝めなかった。少し残念だ。
 その後、隣の風神の間も覗いたが、造り自体は同じだった。
 心の中のピースは確かに埋まったものの、こうしてみると激戦の行われた聖地も静まり返った普通の和室である。今は、次の戦いまでの間の休眠期間に入っているかのようだ。
 ……そういえば、対局で使われていそうな和室はすべて見たが、草履の持ち主には出会わなかった。目的が〈聖地巡礼〉でないのか、それともトイレにでも立ち寄っているのか。
 僕の方は一応目的は達成したので、そろそろ引き返しても全く問題はない。
 〈同好の士〉かもしれないが、わざわざ探して挨拶をするほどのものでもないし、あまり長居をしてしまうのは好ましくない。言い訳はいくらでも立ちそうだが、誰にも見咎められないに越したことはないのだから。
 と。
 「どうした?」
 廊下の途中で美月が立ち止まっていた。具合でも悪くなったのだろうか。
 「なんか、向こうから呻き声が聞こえた」
 「呻き……声?」状況的に考えると、最も可能性が高いのは草履の主だろう。
 急病となれば、非常事態だ。ここまで抱えていた懸念はすっぱり割りきって行動しなければならない。
 「探そう!」僕は、美月に眼で合図して駆け出す。美月もすぐに反応して着いてきた。
  風雷庵はそれほど広くはない、一旦玄関前に戻る。〈風神〉〈雷神〉の絵の前を通り過ぎ、反対側の廊下にはすぐたどり着けた。こちら側は先ほどまで見ていたような多目的な和室ではなく、〈給湯室〉や〈お手洗い〉などの機能的な部屋が集まっているようだ。
 「俺は右端を順に見ていく。美月は真ん中寄りを頼む」
 「あ……。うん」
 僕は、素早く一番手前のドアノブを開けて部屋の中に滑り込んだ。まずは〈倉庫〉だ。中は薄暗い。入口のすぐ近くに電灯のスイッチがあったのでそれを入れる。中はそれほど広くない。ざっと見て人がいないのは分かる。物陰にいないとも限らないけれど、苦しむ人間が物陰に隠れるとは考えづらい。詳しく調べるにしても一通り調べてから戻ってくる方が良いだろう。
 次は、〈給湯室〉だ。ここにも人影はなかった。こじんまりとした部屋で、戸棚には綺麗なカップや、コーヒーと紅茶のパックが置かれていた。ここはスペース的にも、頑張って人が隠れられそうにない。
 次は、〈化粧室〉だ。男女が別になっている。草履の主が男か女かはまだ分からない以上、両方確認する必要があるわけだが……。こんな事態とはいえ、女子の方に入ることは憚られた。こちらは〈倉庫〉と同じように後回しにし、後で美月に確認してもらうことにしよう。
 男子の方に入り、空いている個室の中も人がいないことが確認できた。戻ろうとして、ふと頭に浮かんできたことがあった。

 ――こういうときって、単独行動はまずいんじゃないか?
 
 玄関に草履が1組だったからといって、僕たちのほかに風雷庵にいるのが『一人だけとは限らない』じゃないか。土足で上がりこむような――強盗のような奴らがいる可能性だって……!
 さっき僕が駆け出す直前に美月がすぐに言葉を返さなかったのは、そういうことも想定していたからなのか? だとすると、なんたるマヌケだろう。
 頭の中に、犯人グループに捕えられて刃物を押し当てられている美月の映像が浮かぶ。
 美月っ……!
 総毛立ち、僕は慌てて戸を引いて外に飛び出した。と同時に何かと身体がぶつかり、僕は転倒する。身体の痛みは、それほどでもない。自分はその場に尻餅をつく程度ですんだが、相手は拍子に壁に頭をぶつけたようで、ゴンッという盛大な音を立てた。
 もしかして、謀らずも強襲に成功した結果オーライの形なのか? しかし、次はどうする? 継続策がなければ、反撃の機会を与えてしまう。しかし、自分には寝技や護身術のようなスキルは備わっていない。
 喧嘩の趨勢を決めるのは勢いが大事だという。将棋もそういうところがある。僕は堅く握り拳を作り、立ち上がる。
 しかし、それは全て杞憂だった。頭を押さえて倒れているのは、他ならぬ美月だったからだ。
 「っつ……」垂れている前髪の向こうから、なんとなくこちらを睨んでいるような気配を感じた。「頭、痛いんだけど」
 「す、すまん」
 「〈管理室〉にお年寄りがいたよ」頭を押さえながら、美月が言う。
 美月に(大きな)怪我がなかったこと、そして意識が途切れて記憶が失われていなかったことに安堵する。
 「お年寄り? 外傷とかは?」
 「遠目には特に。知らない人には無闇に近づきたくないから」
 間近で調べたわけではないということか、急病ならば一刻も早い応急処置が必要なのかもしれないが、状況が状況だ。……例えばの話、おばあさんが囮になり強襲する、あるいはおばあさん自身が強盗で演技をしている可能性も完全に否定はできない。慎重であることに越したことはない。
 この段階で誰か人を呼びにいく案もあったかもしれない。しかし、「〈管理室〉に老人がいる」だけの情報では、増援部隊も何をしたらよいか分からない。僕は、いやいやながら付き合わされた町内会の救急救命講習を思い出す。少なくとも、呼吸はあるのか、心拍はあるのか、くらいは確認しておくべきだろう。
 二人揃っている今なら、それが最善に思えた。僕たちは改めて〈管理室〉に向かった。
 
 〈管理室〉の扉は洋風だった。取っ手は外から鍵がかけられるようになっているようだが、扉は握り拳大ほどの隙間で開いていた。元々こうだったのか、美月が開けたままにしたのかは分からない。僕は物音を立てないように、静かに扉を開いていく。部屋を覗きこむと、重厚な木の机に突っ伏すように白髪頭がこちらを向いていた。あの人に間違いはないだろう。
 部屋の中は棚や調度品が多いが、隠れることができるようなデッドスペースはなさそうだった。扉の影や手前の壁沿いにも人の気配は感じられない。僕は意を決して、部屋の中に足を踏み入れようとする。そのとき、
 僕の左の掌にギュッと温かな感触が伝わった。
 それは美月の手だった。もしかしたら、手をつないだのはこれが初めてだったかもしれない。こんな状況下というのは皮肉なものだけど。
 最初は「もしかして、怖いのかな」と思った。美月も年相応の女の子なんだな、と。
 しかし、よくよくその感覚を確かめると逆手であることが分かる。美月は廊下の方を向いていることになるのだ。……なるほど、背後の心配をしないで済むようにしてくれようとしているのだ。
 何か異常に気づいた場合は、瞬間的に握力を入れればすぐに伝わる。それは逆もまた同様だ。
 ギュッギュッ。僕は心得たという意味合いで少しだけ力を入れて、二回美月の右手を握る。
 ギュッギュッ。伝心の合図を理解してくれたのだろう、美月の方も同じ合図を返してくれた。
 そして、僕たちは360°に気を配りながら、老人に近づいていく。
 老人は、あまり足腰が強くないのだろうか。伏している机の近くには杖が立て掛けられていた。杖の長さからしても、上背はあまり高くない人のようだ。
 もう触れられそうな位置まで近づいたにも関わらず、老人はこちらに気づく様子はない。
 「あ……、大丈夫ですかっ!?」僕は声をあげる。
 反応はない。
 もしかしたら、耳が遠いのかもしれない。もう一度ボリュームを上げて「あのっっ、大丈夫ですかっっ?」と大声をあげる。
 すると――。
 「わぁっ」という声と共に、老人が上体を起こした。顔を見ると、皺はそれなりにあるものの、なかなかきりっとしたおばあさんだった。無事が確認できたのは良かったが、それならばもう少し穏やかに起こしてあげることもできたかなと後悔する。
 眼が合う。男女の子供が相手とはいえ、こちらとは初対面だ。明らかに、怪しまれている様子だ。
 「あんたたちは誰? ここは、立ち入り禁止のはずだよ?」
 「あ……、えーと……」
 あの看板は、やはり立ち入り禁止の意味合いだったか。すると、このおばあさんも旅館の関係者ということになりそうだ。
 「僕たち、将棋部で……。どうしても見学したかったもので……、すみませんでした」僕は今度は正直に告げた。言葉は思ったよりもスムースに出た。今日はここまで繕った言葉や考えをし続けていたから、それに疲れていたのかもしれない。
 謝ったもののその後の展開は予想もつかない。芋づる式に、大人が不在であることを知られて、強制的に追い出されてしまったりして……。
 「ほぉ、将棋……のかい」しかし、僕の答えにおばあさんは意外にも険しい表情を僅かに緩めた。
 風雷庵のことを知らない者が、このタイミングで将棋というキーワードを出すことは難しいだろう。それが淀みなく出てきたことで、いたずらや盗みといった目的など侵入したのではないということを少しはアピールできたのかもしれない。
 「最近は将棋をする子は少ないって聞くけどねぇ」と自分のことのように残念がる。おばあさんは杖を手にして、「よっこいしょ」と腰を上げる。そのまま、棚に歩み寄り中段のガラス戸を開く。
 その中には――なんと、佐波九段が揮毫した扇子が展示されていた。日付を見ると、あの伝説の棋神戦の最終戦時のものだと知れた。棚はガラス張りなのにここまで全く気付かなかった。佐波九段ファンとしては痛恨の失態だ。
 おばあさんは、なんとそれを僕に手渡してくれた。
 「これは……すごいですね」僕は静かに興奮する。貴重なものだ、落とさないようにしなければ。そう強く思ったためだろうか、紙と木だけでできているはずの扇子が、鉄扇のように重く感じられた。
 「すごいの?」価値をまるで分かってない美月に、僕はあれこれと講釈をする。佐波九段の将棋に対する姿勢、親しみやすい庶民的な人柄、将棋協会理事としての偉大な功績。
 佐波九段は正確には生前八段で、逝去後贈九段となっている。
 遅咲きのプロ棋士で、八段も晩年にA級昇級・棋神戦挑戦者となったことでなったものだ。僕が出会ったのは、まだ六段の頃だった。
 ちょうど僕が小学四年のとき、初めて出場した将棋大会の立会い棋士として来場していた。
 五・六年生に簡単に負かされて悔し泣きをしていた僕に声をかけてくれたのだ。
 「ボク、さっきなんで桂馬を歩のアタマ置いたんだい?」
 聞かれて僕はとても困惑したことを覚えている。それは、〈跳躍(リープ)〉してきた手を指しただけだったからだ。
 「……なんとなく、そうしたらいいのかなって」
 そういう僕の言葉に佐波六段は目を丸くして、そして「キミはもっと強くなれるよ。少なくとも私よりね。私はこの手が見えなかったからねぇ」
 そして、相手の攻めにひるんで受けに回ってしまっていたが、攻め合っていたら一手勝ちであったことを示して、僕の頭をワシワシとして明るい表情で激励してくれた。
 泣いていたはずの僕は、気づけば、勝ったとき以上の興奮と感動を手にしていた。
 それ以来、僕はかかさず佐波六段の棋譜や記事を見るようになっていた。
 同い年の多くの男子が、特撮ヒーローや、プロスポーツ選手に憧れを抱く年齢のころ、白髪交じりの壮年プロ棋士の一挙手一投足に僕は惹きつけられていたのだ。
 「あんた、将棋指すの、好きかい?」
 幸福の絶頂にある僕に、投げ掛けられた他愛のない質問。しかし、YESかNOかで答えられるはずのその簡単な問いに、僕の心は一瞬反応ができなかった。
 そう、僕は一度将棋を嫌い、指さなくなってしまっていた時期があったからだ。
 だからといって、初対面のおばあさんにバカ正直に話す必要性はなかったはずだ。ただ一言「将棋? 好きですよ」とさらりと言ってもそれは嘘でもない。それでいいはずだったのだけど。
 「好きでした。ただ正直に言うと、嫌いになって全く指さなかった時期もありました。でも、俺が本当は将棋が嫌いじゃないって気づかせてくれた人がいたから……。
  今は、以前より好きになっている気がします」
 傍らにいる『恩人』の存在を感じながら、気づけば僕はそう口にしていた。それは、もちろんおばあさんへの回答だったけれど、今まで言う機会を失っていた美月への感謝の言葉でもあった。本当はもっと早く、直接言うべきことだったけれど。
 「良い答えだ」
 おばあさんは満足げに頷いた。
 その後、僕は佐波九段の扇子を手にしているところを美月に携帯端末のカメラで撮ってもらったり、タイトル戦の裏話などを聞いたりとなかなか有意義なひと時を過ごせた。
 「あ、そうだ。あんた達、明日忙しいかい?」
 立ち入り禁止の場所にあまり長居をするのもまずいだろう、そろそろお暇しようかと思っていた矢先、おばあさんがそう尋ねてきた。
 「い、いえ。ある意味ここを見学したら今回の目的は達成したと言うか――」
 「なら、ちょうどいい。年寄りの道楽に付き合いなさい」そう言って和服の裾から一枚の白い封筒を取り出して見せた。
 「……なんですか? これ?」
 僕は照明に透かして中をうかがおうとするが、当然のごとく何も透けて見えなかった。ただ、厚みがあるものではないことは確かだ。
 「明日になれば分かる。これを、明日の朝10時にまたここに持ってくること。いいね?」
 「は、はい……」
 「それと、この封筒は決して開けぬこと。他人に渡してもならぬぞ」おばあさんは真剣な表情で言う。道楽じゃなかったのか!?
 とはいえ、明日の船まで特にすることもなかった僕たちにとっては、ある意味ありがたい暇つぶしなのかもしれない。カバンはクロークに預けてしまったので、封筒は一旦胸ポケットに納めた。
 美月も特に異論は無いようで、携帯端末をいじりはじめる。恐らく、スケジュール帳への記録かアラームの登録でもしているのだろう。
 僕が快諾すると、一転しておばあさんは礼を述べて初めて柔和な表情を浮かべる。なかなかの曲者である。
 「長居をしても申し訳ないので、僕たちはそろそろ。貴重な扇子も拝見できましたし、来て良かったです。
  でも、せっかくの綺麗な庭園が見れなかったので、欲を言えばもっと早くに来れば良かったです」
 「もっと早く……? ちょいと今、なんどきだい!?」
 僕の言葉におばあさんは少し何かを思い出したような表情を浮かべて、時間を尋ねてきた。
 「あ、えーと今は11時過ぎたところですね」腕時計は短針がわずかに11を過ぎた辺りを指し示している。僕は、おばあさんにも見えるように右腕を傾けた。
 「本当だ! ちょっとうたた寝するつもりが随分寝てしまったんだね」
 おばあさんが少しせわしない様子になってきたので、僕は気を利かせてすぐにお暇することにした。
 部屋を出ようとしたとき、おばあさんがハッとなって僕たちを呼び止めた。
 「あと、もう一つ!」
 「え? なんで……しょうか?」
 「アタシがここにいたことも、秘密にしといてくれよ?」
 「あっ、はい……」
 理由まではよくわからなかったが、そのくらいの追加事項は容易いことだ。
 「お約束します」僕は頷いて、風雷庵を後にした。
 
 美月と二人で来た道を静々と戻る。
 「なんだか、少しドキドキしたね」後ろを振り返らず、僕は言う。
 「そう?」
 美月からは素っ気ない返事が返ってくる。さっきぶつかった件を根に持っているのかもしれない。
 一方で、僕は結構満足していた。短時間、かつ、結果がいまいちではあったが、スリルの混じった体験ができたし、貴重な扇子も間近で見ることができた。明日の10時に待っている、頼まれごとも何かが起こりそうで面白そうだ。
 例の立て看板を過ぎた辺りで、前方から二人のニンゲンが駆けてくるのが見えた。いずれも真剣な表情を浮かべている。よく見ると、二人ともこの旅館の従業員の衣装を身に着けている。
 僕は緊張する。彼らは僕たちの姿をみとめると駆けるのをやめ、早足程度にペースダウンをした。明らかに、僕たちに要件があるようだ。
 一人は中年女性で、眼には力強さがあった。働く女の眼、と言う感じだ。この人、どこかで見たことがあるような……。
 もう一人は、綺麗なスキンヘッドの小男だ。ヒゲも綺麗に剃っているため、年齢不詳だ。
 「つかぬことを伺いますが……」こちらが尋ねるより早く、中年女性の方から積極的に話しかけてきた。
 「ごぜんさ……いえ、杖をついたおばあさんを庭でご覧になりませんでしたか?」
 午前? 最初の言葉の意味は良く分からないが、おばあさん、そして、明らかに居場所を捜索している雰囲気――。まず、間違いなく先ほど会ったおばあさんのことを示しているのだろう。
 駆け足で、しかも客に尋ねてまで探しているということは相当重要な捜索なのかもしれない。しかし。
 
 ――アタシがここにいたことも、秘密にしといてくれよ?
 
 おばあさんとの約束を思い出して、僕は悩む。しかし、ずっと黙ってはいられない。沈黙もまた答えになりかねないからだ。悩んだ末……、
 「いえ、特に見かけませんでしたけど」そう答えた。
 「そうでしたか、大変失礼しました」二人は深々とお辞儀をすると、すれ違い奥のほうへ消えていった。
 「あの人たちに悪いことをしちゃったかな」
 二人の姿が見えなくなったことを確認して、僕は美月に話しかける。
 しかし、美月の方は特に一連のやりとりに思い悩んではいない様子だ。
 「いいんじゃない? 『庭では見ていない』んだし」と返答してきた。
 む? あ、確かにそれはそうかもしれないけど……。なんだか禅問答のようだ。
 「あのおばあさん、結構凄い人だったのかな」
 「そうじゃない? 御前さまって呼ばれているみたいだし」
 あぁ、あれは御前さまって言いかけていたのか。なるほどなるほど。
 「でも、御前さん見つかっちゃうかな」
 途中にある立て看板も、旅館関係者には当然無効だろう。風雷庵の中も当然くまなく捜索されるはずだ。先ほど、僕が捜索した限りでは関係者を欺けるほど優れた隠れ場所はなさそうに思えた。
 そして、庭園は色々な小道が伸びているが、この辺りから先は風雷庵まで一本道になっている。道なき道を行く手も無きにしも非ずだが、杖を使っているおばあさんには難しいだろう。あの杖がダミーならば話は別だが。つまるところ、あの二人と鉢合わせになる可能性は限りなく高いだろう。
 来た道と違う道を選び、再び景色を堪能しながら回遊する。そして、館内と庭園との出入り口の付近まで戻って来た。
 「あれ?」
 その出入り口付近で、見知った顔を二人、立っているのが遠目に見えた。それは先ほど別れた、丸井兄弟――豪傑さんと館主さんだった。
 美月が僕の服の裾を引くのと、丸井兄弟が僕たちの存在に気づくのはほぼ同時だった。二人が、僕たちの方に向かってゆっくりと歩いてくる。
 「お二人さま、庭園はいかがでしたか?」
 「え? ええ。なかなか綺麗で、素敵でしたよ?」
 「それはそれは。お褒めの言葉、嬉しく思います」館主は目尻に皺を寄せて微笑む。
 「はっはっは。そうだろそうだろ。どうせなら、食える植物が生えてるといいんだがなぁ」豪傑さんは近くの木の幹をバシバシと叩く。
 「そうだ! せっかくですから、いい所にご案内して差し上げましょう」館主さんが妙案をいま思いついたといったように手を叩く。
 ん? いい所? もしかして……。
 「風雷庵という建物がありましてね。囲碁や将棋の対局なんかにも使われているのですよ。
  ただ、今は補修工事中なので庭を眺めることができないのですが……」
 風雷庵という言葉に、一瞬ドキッとなる。顔に出てはいなかっただろうか。こういうとき、美月のポーカーフェイスが非常に羨ましくなる。
 「無理にとは言いませんが、よろしければ」
 どうしたものだろう。どちらと言われれば、風雷庵には戻りたくない気分だ。
 もう既に、見たいものは見てしまったし、もし御前さんや先ほどの従業員2人と再会したときには多少なりとも演技が必要そうだ。
 お気持ちだけ頂きます、と返そうとするが。
 「いやいや、せっかくだから見といて損はないぞ!? どうせチェックインまでの時間もまだまだたくさんある。
  〈給湯室〉があるから、コーヒーでもどうだね?」
 そこまで言われてしまうと断りづらい状況だ。美月は表情で苦労することはないだろうし、コーヒーが飲めるなら文句もないはずだ。
 とりあえず、一通り見物した振りをしたら、昼食を理由にでもして速攻で退却させてもらう作戦を企てた。
 館主さんが先導し、僕と美月、最後尾が豪傑さんという並びで僕たちは風雷庵に向かっていた。
 僕たちは風雷庵を知らないことになっているのだから、丸井兄弟のいずれかが風雷庵への先導をかって出ることは当然ではあるが、地味にありがたいことだ。
 実際は一度訪れてしまっているので、一直線に辿り着いてしまったりなどすると不自然極まりない。それでも、周囲の景色を眺める仕草や足捌きに慣れが現れないように注意をしなければならない。
 本日3度目になる石橋と灯篭の前を過ぎて、風雷庵に辿り着いた。
 「先ほど申し上げましたとおり、あのような有様なのですが」館主さんが建物の脇の方を指差して苦笑する。
 ……はい、よーく知ってます。
 豪傑さんが扉をガラガラと開ける。僕たちは促されて、玄関に入る。すると。
 見覚えのあるえんじ色をした鼻輪の草履と、茶色い鼻輪の草履が2組並んでいた。なるほど、御前さんと二人はどうやら出会ってしまった、というわけか……。
 扉の音で気づいたのか、廊下を歩いてくる音が聞こえる。現われたのは、先ほど出会ったスキンヘッドさんだった。僕は、何か言われるかと身構えていたが特にそういう様子はない。
 館主さんが、「お飲み物はコーヒーで良いですか?」と尋ねてきた。僕たちは小さく頷く。
 「では、人数分淹れてもらえますか?」館主さんの言葉を受けて、スキンヘッドさんは短く返事をして戻っていった。
 履物を脱いで、僕たちは〈談話室〉に通された。ここは建物の真ん中寄りの一番玄関に近い位置にある。さっきは美月が確認に入ったので、僕は入ること自体は初めてだ。
 室内には、先ほどの中年女性しかいなかった。御前さんの姿は見当たらない。ここにいないということは、まだ〈管理室〉にいるのだろう。
 勧められたソファーに、僕たちは腰を下ろした。身体が適度に沈み込むのが心地良く、身体が休まるのを感じる。
 良く考えると、ここまでずっと動きっぱなしだったのだった。
 〈談話室〉を見回すと、絵画に混じって文字の書かれた額縁が眼に入った。
 僕の視線に気づき、館主が説明をしてくれる。
 「あれは、冷谷山二冠が棋神を獲得して三冠になった日に揮毫した色紙ですよ」
 先ほどの〈管理室〉にあったのは佐波九段の逸品で、こっちにあるのは冷谷山三冠の逸品か。さすが、聖地。これもファンには垂涎ものだ。価値のつけようもない。
 「将棋の冷谷山三冠はご存知ですか?」
 「えぇ、はい」
 即答した僕に、豪傑さんが「な、なんと!」と大仰に驚く。
 「むむむ……。やはりタイトルの一つも獲得しないと、学生諸君の知名度は得られんものかー」大げさなことに頭を抱えている。
 あ、いや……。少しいたたまれなくなってしまう。僕の場合、将棋棋士の知識がかなりあるので一般的な高校生の参考にしてしまうのは問題だと思われます。
 「コーヒー淹れましたよ」丁度、スキンヘッドさんがやってきたので僕は補足の機会を失ってしまった。すみません、豪傑さん。
 全員にコーヒーカップが行き渡ったところで、早速一杯頂くことにした。
 あ、なかなかいい奴だ。苦味よりは酸味が強いタイプのようだ。しかし、クセは少なくて飲みやすい。
 「美味しいね」隣の美月に意見を求める。
 「うん」
 しかし、様子を見ているとカップはそれほど傾けていない。どうしたのだろうかと横顔を観察していると、僕にだけ聞こえるような小さな声で答えがやってきた。
 「……猫舌だから」
 あ……そうだった……、っけか? 不覚。美月のことは色々と知っていたつもりになっていたが、まだまだ知らないことが多いようだ。
 それにしても、猫舌って。ウィークポイントが全然なさそうにみえるだけに、そのギャップは可愛らしいと思う。
 コーヒーの香りが部屋の中にも広がり、場が和んできた頃、館主さんが口を開いた。
 「あ、紹介が遅れましたが。そちらが、姉の丸井サラ。当旅館では女将を務めております。そして、そちらは弟の丸井ケイキ。旅館では料理長を務めております。つまり……」
 「おれたちは、4人きょうだいと言うこった」せっかちにも豪傑が発言を横取りしてしまった。
 なるほど、『丸井沙羅』と『丸井敬基』か。パンフレットで覚えのある名前だ。しかし、パンフレットに載っていた沙羅さんの写真は少し映りが良すぎるような気が……と、こんなことを思っちゃいけないいけない。
 「きょうだいが4人揃うのは随分と久し振りのことなんだ。一年、いや二年ぶりくらいか?」
 「新吾が6段になったばかりのころだから、三年以上は経ってるでしょ」沙羅さんがさりげなく豪傑さんを攻撃する。勝負の世界は厳しい。結果が出ないときは、苦しい時期が続くものだ。それは囲碁の世界にも限った話ではない。
 「そういえば」僕はふと、思ったことを口にしていた。「丸井6段は、長男なんですか?」
 「はっはっは。そうだが?」
 すると、館主が僕の質問の意図に気づいたらしく補足してくれた。
 「丸井家では囲碁棋士を輩出するのが悲願だったのです。これは丸井家の家紋なのですが……」
 そういって、館主さんは懐から手ぬぐいを取り出す。そこには丸い輪の中に漢字の〈井〉のような線が二本ずつ引かれていた。
 「井形の部分を碁盤、丸の部分を碁石と見立てると、この家紋は囲碁と縁がありそうだと代々の当主は考えていたようです。
  これまで、この旅館の館主は長男が務めてきたのですが、新吾兄さんがプロになれると知ると、わたくし達の父、千兵衛は大いに喜びその道を許したのです」
 「はっはっは。ちょうど、おれはこういう商いの才能がからっきしだったろうしな! って、なんで笑うんだ!?」
 「小さい頃、『温泉潰して全部プールに改装してやるぜ』とか言ってたのには驚いたわ。
  逆に、さりげなく囲碁の道に興味を持つように仕組まれていたんじゃない?」
 「……あり得なくはないですね」
 その後、いくらか会話は続いたが、雰囲気としては一段落した様子に見えた。当初の予定通り、そろそろ離脱する方向に持っていこうかな。
 そう思っていた僕に鋭い質問が投げ掛けられた。
 「ところで……。その、胸ポケットの封筒はなんですか?」
 そう言われて、僕は封筒をずっと胸ポケットに挿して歩いていたことに気づいた。
 「っと、これは……」
 少しまずいことになった。御前さんとの約束の趣旨からしたら、早々に人目につかないように持ち歩くべきだったのだから。
 「詳しくは言えないんですけど、預かり物なんです」
 今の僕には、そうとしか言えなかった。
 「預かっとる? 誰からで?」スキンヘッドさんも加わってくる。
 「えーと、それも……すみません」
 「実はですね。わたくしたちは封筒を探していたのですよ」
 「えっ……?」
 「御前さま――わたくし達の母にして前オーナー夫人、現オーナーの丸井ぼたんが、封筒を探すように、と言っておりましてね」
 僕に封筒を託した御前さんが、すぐに封筒を探すように言った理由は未だに理解できないが、僕たちが風雷庵に招待された筋書きはなんとなくわかってきた気がする。
 御前さんを探していた沙羅さんとスキンヘッドさんが風雷庵で御前さんと会い、封筒を探す旨を聞いた。
 僕の胸ポケットに見慣れない封筒があったのを思い出し、内線かなにかを使って、本館にいる館主さんと豪傑さんにそのことを伝えた。
 本館との出入りは一箇所だけなので、そこで待機して僕たちに声を掛けて風雷庵に招待した。
 ただ、事情聴取をするだけならどこでもできる話だ。しかし、一般客がまず近づかない風雷庵に呼び込んだ訳だから、込み入った事情があることは確かだろう。
 この『宝探し』みたいな展開は、御前さんが仕組んだイベントそのものなのだろうか。それにしては、スタートが早すぎる気がするし、御前さんが姿を現さないのも不自然に思える。
 何かの行き違いや、アクシデントがあったのだろうか。いずれにしても、ごまかしが続けられるにはきつい状況だ。
 「分かりました、正直に言います。これは、ここの〈管理室〉で会った御前さまから預かったんです。でも、明日の10時までは誰にも渡さないように、といわれていて……」
 正直に話したものの、丸井さんたち4人はあまり納得した様子はない。
 こうなるとやはり、本人に証言してもらうほかないかもしれない……。
 「あの……。御前さまと会わせてくれませんか? まだ〈管理室〉におられるでしょう?」
 先ほど、玄関に草履があったことを思い出す。明日の朝、何をする予定なのかは分からないが、ここで封筒を開封されて台無しになることを考えれば、僕の招いたミスとはいえさすがに庇ってくれるだろう。
 僕の要求に4人の兄弟は顔を見合わせた。
 「良くご存知ね。でも、会っても何も変わらないわよ」
 反応は驚くほど否定的なものだった。御前さま、と呼ばれるだけあってその地位は相当に高いはずだ。その証言を聞くことにも否定的というのは一体……。
 「……いいでしょう」そんな態度をしている3人とは異なり、黙っていた館主さんが口を開いた。「ここにいても話は進みそうにありませんし」
 そして、僕たちは〈管理室〉へ向かうことになった。
 
 〈管理室〉の扉の前に着く。先程去ったときと特に変わったところはない。
 館主は懐から鍵を取り出すと、静かに開錠をする。
 ん? 鍵?
 疑問を消化するよりも早く、扉は開かれた。そして、部屋の中を覗き込んだ僕は息を呑む。
 視線の先には確かに、先ほど僕たちが会話をしていた御前さんはいた。
 ただし、床に仰向けで倒れた状態で――。
 今度は、眠っている訳ではない。部屋に入らずとも、それがはっきりと分かってしまった。
 御前さんは白目を剥き、口許からは泡の混じった唾液を垂らしている。両手は意識を失う直前まで抑えていたであろう、胸元の衣服を掴んだまま。……そして、その肢体は微動だにしていない。
 僕は自分自身を褒めてやってもいいと思った。突然目の前に訪れた非日常に動転したり、ましてや失神したりもせず、瞬間的に部屋の中に飛び込もうとしたのだから。
 こういう場合、心肺蘇生と気道確保が最重要なのだ。一秒でも遅れれば落命の確率が高まってしまう。
 しかし、脚は空回りしてそれは叶わなかった。僕の両肩は太く逞しい腕にがっしりと掴まれていたのだ。それが豪傑さんのものだ、ということはすぐ理解できた。
 「なんで……ですか!?」僕は、抗いながら言った。
 「現場保存。常識でしょう?」
 さらりと放たれた沙羅さんの一言に耳を疑う。
 現場保存、って。
 顔を廊下にいる沙羅さんに向ける。
 その視線は、先ほどとはうって変わって冷たいものとなっている。
 その豹変振りに背筋が凍る。
 「さて。わたくし達も戸惑っているのです」同様の温度感で館主さんが語り始める。
 「このところ寝たきり状態だった御前さまが行方不明となり、捜索の結果、風雷庵で会うことができました。
  しかし、御前さまこの状態で、近くには空になった薬ケースが転がっていました。
  それは一日に一個、就寝前しか飲んではいけない薬なのですが……。そしてうわごとのように、『封筒、封筒』と繰り返すばかりなのです」

 コノ人達ハ何ヲ言ッテイルンダ?

 そのとき、僕の脳裏には7月上旬に母と観た、〈金の砂時計〉というサスペンスが蘇っていた。
 俳優が浮かべていた、どこか自然さが微妙にズレた表情が、いまこの4兄弟が見せているものと重なっているのだ。
 自分の中の緊迫指数が急上昇していくのを感じる――。
 「恐れ入りましたよ。まさか、こんな若い人たちがなさるとは。これは辣腕の御前さまが油断しても致し方ない。
  今、円先生がこちらに向かってくれてはおりますが、保つでしょうか……」
 「ぼっ、僕たちは……何も、して、ないですよ!?」そんな言葉を無意識のうちに呟いていた。
 「はっはっは。まぁそういうこたぁ、専門の人らに任せるとして、な。もうちょっと色々と話を聞かせてくれんか?」
 豪傑さんの笑みはこれまでと変わらない自然体のものだった。それが逆に、恐怖感を煽るのには効果的だった。
 何が起きているんだ? この4人の中の誰かに真犯人がいて、僕たちを陥れようとしているのか?
 いや、待てよ。御前さまが倒れているのに、この人たち妙に落ち着きすぎてないか? 誰か一人くらい、僕と同じように蘇生を試みる人がいたって、おかしくないだろう?
 もしかして、全員グルという可能性が?
 ……どうする? どうする!?
 この雰囲気は非常にまずい気がする。僕たちは無実だ。でも、明らかに分が悪い。ここは離島であり、彼らが管理する旅館のさらに一部のニンゲンしか近づかない建物なのだ。口裏を合わせられたりしたら、100%ではないにしても、冤罪になる可能性は十分にありうる。
 せめて公正なニンゲンのいる環境で話を聞いてもらわないと……。
 上手くこの人たちを掻い潜って本館までたどり着き、一般客の多いロビーで自分達の無実を主張する。それくらいしか、案が浮かばない。
 しかし、僕一人で駆け出してもダメだ。美月を残していくわけには行かない。
 僕は先ほど美月と行動したときのことを思い出していた。あの時、眼の合図ですぐに伝心して、動作できた。そうだ、今回もきっとうまく行くはず……。
 静かに、深く呼吸する。丹田に力を入れる。
 ……よし。
 次の瞬間、美月に一瞬眼で合図を送り、僕は駆け出した。
 はずだった。
 「あ……っ?」
 しかし、意識とは裏腹に体は動かなかった。気づけば、平衡感覚もどこかおかしい。これは一体……?
 「そろそろ効いてきたようね」
 「ね、あっしの言ったとおりでしょう。若い子は代謝がよろしいと」
 まさか、さっきのコーヒーの中に……?
 そんなフィクションみたいなことを実際にされるとは思ってもみなかった。
 あれこれと思索する時間さえ僕には与えられなかった。とめどなく押し寄せる強烈な眠気の波に、僕の体は抵抗できなかった。
 普段、授業中に寝たりする癖がなければ、耐えられただろうか。意識を失う直前に考えたのはそんなくだらないことだった。

 

 小説『All gets star on August =星の八月=』(2/4)に続く