小説『Fall on Fall =俯瞰の秋=』(2/4)
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「将棋ファンのみなさんにはご高齢の方も多いですから、たまたま私の指した将棋が最後に見る一局になる可能性だってあるでしょう。
もちろん、私自身だっていつお迎えが来るか分かりません。
だから、常に誠心誠意の将棋を指し続ける。それが、この佐波新継の生きる意味なんですな」
「人に好かれたいとか、人に認めてもらいたいと常々思っておられる方は、まず己自身が己自身を好いて、認めるとよいでしょう。
世界に一人は自分のことを好いてくれたり、認めてくれる人がまず存在することになるわけです。
私は私が好きですよ? まあ、もう少し顔のシワが減ってくれるとありがたいんですがね。ははは」
――『佐波九段名局集』より
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第二章 『失踪したありきたりな日常』
月曜日の3時間目。休み明けのしんどさとお腹の空き具合がだいぶ辛くなってくる頃合だ。
僕たちのクラスは丹治先生による数学の授業だ。丹治先生といえば、英語の石井先生と並び眠くなる授業の権威だが、一つ生徒に喜ばれていることがある。
「では、今日はここまで」
丹治先生は教科書やら指示棒を手際よく取りまとめると、すっと教室を後にした。扉が閉まる音と同時にお昼休みのチャイムが鳴った。
時間はジャスト11時50分。3時間目に限らないが、丹治先生の授業はきっちりと終わる。逆に短く終わることもないわけだが、この学校の先生は全体的に時間オーバーをする教師が多いとの統計情報も存在するため、相対的に生徒からは好評である。
ここまでくると、堅物できっちりとした性格が良く体現されているな、と感心してしまう。
って、感心している場合ではなかった。僕はカバンから、弁当一式を取り出すと早足に一年四組に向かった。
「あ、福路くん」
目的の人物は、財布を手に教室から出て行こうとしていたところだった。どうやら、ぎりぎり間に合ったようだ。
「たまには一緒に昼どう?」
「もちろん、いいに決まっているよ。でも月曜日に珍しいね」
二人ともクラスに友人もいるし、普段はその友人達と昼食をとることが多い。ただ、たまにこうして一緒に昼をとることもある。僕は木曜日以外は母の手づくり弁当なので、福路くんと食べるときは買い食いをすることとなる木曜日が多かった。
お互いに波長が合うというか、相性がいいというか、少し込み入った話をしやすい友人関係だ。
昨日、副会長に心のわだかまりを一旦は吐き出して『音楽との合わせ技』という道を得かけたものの、今年の参加が相当難しそうだと知ってから頭の中に再び迷路が再構築されてきていた。福路くんとしては迷惑な話かもしれないが、僕もしょっちゅう福路くんの愚痴を聞かされているので差し引き問題ないだろうと思う。
福路くんと購買部へ向かう。彼は毎日買い食いだ。なんでも、両親共働きなのだそうだ。僕としては、毎日好きなものが選べて羨ましいなとも思えるのだが、それはきっと贅沢な悩みなのだろう。
カレーパンとチョコクロワッサンと珈琲牛乳を手に、福路くんが戻って来た。惣菜系と菓子系のパンを一つずつ選ぶのがポイントらしい。前回は確か、焼きそばパンとクリームパンだった。
僕たちは校庭の行きつけの場所に向かう。古い大木の下、なだらかな傾斜になった芝生の上だ。夏は葉が日傘になり、秋になったいまは枯れ葉が徐々に落ち始めて、柔らかな日差しが差し込んできている。まるで、童謡『ちいさなもりのおおきなき』の世界だ。
僕たちは、小さく折りたたんでいた新聞紙をそれぞれのポケットから取り出して広げる。制服を汚さないようにするためだ。
「……さて、織賀さんと何があったんだい?」
腰を下ろすなり、福路くんは柔和な表情で問うてきた。本当に、こういう方面は鋭いよなぁ、福路くん……。
「あっ、まぁ、えーと……」
福路くんには僕が美月と彼氏彼女の関係である、と言ってあるのだ。実際は、彼女という表現は微妙に適切でない。美月自身が持つ『記憶の初期化』という大きな問題を解決するための協力者といったところが近いかもしれない。
しかし、美月の秘密を本人の許諾もなく広めるわけにもいかないし、そもそもそんな事象を上手く説明をできるはずもなく、信じてもらえなさそうな話である。少し照れくさいが、やはり彼氏彼女という間柄が一番手軽ではある。
僕は、昨日の大会のことを少しずつ話した。内容はほとんど副会長に昨晩話したものと同じだ。
実力不足で、入賞に至らなかったこと。対する美月はあっさりと優勝を成し遂げてしまったこと。心からおめでとうと言ってあげられなかったこと。ふがいない気持ち、美月をうらやむ気持ち。何を寄る辺にしたら良いか分からない落ち着かない気持ち。
「まぁ、彼女があの織賀さんじゃあなぁ……。瀬田くんは大変だ。僕らはまぁ、似たり寄ったりな感じだからね」。
「やっぱ、釣り合ってないのかな……」
これは今までも、何度となく思ってきたことだ。美月は僕に期待してくれている。でもそれは過大評価しすぎなんじゃないか、と。
「そんなことはないと思うけどさ。あ、でも僕は僕で大変だよ。同じクラスだからね。さっきも、数学の授業でウトウトしていたら丹治先生に『久慈の家で喝を入れてもらってこい!』って怒られちゃったよ。ああ、恥ずかしい……」
「久慈? 喝って?」
「そう。一年三組の。彼はあの〈網諾寺(あみだくじ)〉の長男坊だよ。将来の住職だね。ちなみに、読経研究部のエースらしい」
網諾寺は街の北部にある小さな寺だ。武家に愛された宗派のようで、あまり宗教っぽさがなく、座禅などの精神の修行所として巷で有名らしい。近所でも、網諾寺の檀家になっている家が幾つかあった気がする。それにしても、
「読経研究部……そんなのあったんだ」
「ははは。さすが大矢高校だよね。まぁ、それはおいといて。
僕は将棋をよく知らないけど、科学は失敗ばかり、というか失敗しているうちに何故か成功しちゃったってというばっかりだよ。ここまでの半年、一体どれほどの試薬を無駄にしてしまったことか……。自腹でないのが救いさ。
でも失敗すると、『あ、こうすると失敗するんだな』ということが明らかになるんだよね。それって、もう失敗の定義じゃなくなっている気がしたりね。
うーむ、何を言いたいか良く分からないことを喋ってしまったなぁ。はは」
そういいながら、少し遠くの空を見上げている福路くんの横顔はおどけていながらも、僕なんかよりも少し大人びて見えた。
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放課後になり、僕は大会議室へ向かった。10月の定例生徒総会に参加するためだ。
前列には生徒会の主要な面々が並び、中央には奥地会長、その脇には副会長の姿もあった。今日は、いつもの模範的な女学生ルックだ。改めてみると、ヒントがないと分からないレベルの変わりっぷりだ。
徐々に他の部長も集まり、前回と同じような厳粛な雰囲気で総会は始まった。だが、今回は全く緊張の度合いが少なかった。たった1回、7月に経験しただけで慣れてしまうのだから不思議なものだ。 僕は、先日行われた大会の結果報告――男子個人はベスト4とベスト8が1名ずつ、女子個人は優勝を成し遂げた――をよどみなく報告することができた。
前回と今回の間で夏休みが丸々入っていたこともあってか、他の部活も活動報告が充実していた。おかげで、前回よりも30分ほど時間が長くなっている。その後、生徒会から今月に行われる学校祭に関する諸注意などが伝えられた。
「――では、以上で定例生徒総会を終わります」奥地会長がメガネのブリッジをくいっとあげながら厳かに告げた。
僕は静かに一息つく。活動報告も無難に済ませられたし、前回持ち上がった『将棋部降格騒動』が再燃する気配が全くなかったことが何よりだ。
他の部長たちと同様、配布された資料をクリアファイルに納めて僕は大会議室をあとにしようとする。すると、
「将棋部部長」不意に呼び止められた。振り向く前に声の主は分かる。
ゆっくりと振り返ると、奥地会長はテーブル上に肘をつき、手を組んでいた。「少し、この場に残って頂きたく」
言葉だけで考えると、いかにも選択権はこちらにがありそうな錯覚を持ちそうだが、実際はそうではないだろう。
僕は、「はい」と小さく応じると、近くの椅子に腰掛けた。そして、他の部長や生徒会役員が大会議室を去っていくのを静かに待つことになった。
部屋の中が二人だけになったことを確認すると、奥地会長はやっと口を開いた。
「瀬田部長。最近は、随分と活躍の様子と噂を耳にしております」
「いえ……。久々とはいえ、3位も取れませんでした。それより女子部員の織賀さんのほうが優勝して、素晴らしい活躍をしています」
随分と皮肉がきいているな、僕は内心でそんな風に思った。
「いや、そちらではなく。これまでに学内外で起こっている、ミステリアスな事象を柔軟な思考で解決しているとか」
「え?」
「私も独自の情報ネットワークを色々と保有しており」
「は、はぁ……」
てっきりまた第二部降格の話を蒸し返されるのかと思っていたので、少し拍子抜けしたと同時に安堵した。
しかし、柔軟な思考と言われると少し恥ずかしい限りだ。自分としては、突拍子もない〈跳躍(リープ)〉がたまたまヒットしていたということが多いのだから。
「さて、本題に入らせていただきたく」奥地会長は、目を細めてドアの外を伺う。人影も気配もない。
やはり来たか、と身構える。関係のなさそうな話で油断させておいて、ずばりと本題を切り出すという話術は、つい先日に副会長からされたばかりなので少し耐性がついていた。贔屓目に見ても、今回の将棋部の実績は第一部継続としては十分に思える。これ以上、強引に進めてくるようならこちらも騒ぎを大きくして反撃に出るよりない。
しかし、奥地会長の口から出てきた言葉は僕の想像の斜め上をいくものであった。
「最近、2つの部活から盗難と思しき事件が報告されており。それを調査して頂きたく」
大会議室の時計の分針がカチリと動く。
「盗難事件……ですか?」
「いかにも。被害に貴賎などを言うのは不敬だが、いずれも高価なものでなく、各部の報告も便宜上といった色合いが強く」
「具体的にはどういったものが盗まれているんです?」
僕の問いに、会長は内ポケットからピシッと折りたたまれた紙を取り出した。広げてみると、プリンタで出力された文字列が列挙されていた。
10月2日(木) 熊のぬいぐるみ(児童文化研究部)
10月3日(金) ヒグマの写真(映像研究部)
熊……ヒグマ……。頭の中に、クマッタの困ったような表情が浮かんできた。
「クマ……ですか」僕はそう呟いていた。
確かに2つ部活とは言われたが、事件というからにはもっとたくさんのものが被害にあっていると予想していたので、少し意外だった。
「そう、クマなのだ。共通項としてはそれくらいで、現場にはこのような紙面が置かれていたとのこと」
奥地会長は先程と同じく、内ポケットから紙面を2つ取り出した。
開いてみると、それぞれこうあった。
『大きな熊のぬいぐるみ。しばらくの間、お借りします』
『小さなヒグマの写真。しばらくの間、お借りします』
紙のサイズや書体も全く同じところを見ると、どちらかが模倣犯という可能性は低そうだ。つまり、同一犯による連続盗難といえそうだ。
「あれ? お借りします、ってありますけど……?」
さっきから、奥地会長は盗難事件と言い続けていたので違和感を抱いてそう尋ねる。しかし、奥地会長は眼光を鋭くしてこう言い放つ。
「返却される保証などない以上、盗難と同様である。生徒会内部でもそのように扱っており」
そう言われればそうかもしれないけれど。少し大げさな気もする。そういえば、奥地会長の父親は弁護士だったか。本人も将来は弁護士を目指しているとも聞いている。と思っていたら、
「本来であれば、規律に従い、学校側へエスカレーションした上で判断を仰ぐべきところである。しかし……だ。
この事件がおおごととなり、学校祭中止に転ずるようなことに至れば――最後の学校祭を心待ちとしていた多くの3年生は落胆をすることだろう……」
てっきり、学校祭が中止になろうとも厳粛に悪を裁くタイプの人かと思い込んでいたのでやや意外な感があった。将来の弁護士がそれで良いかどうかはわからないところだけれど……。
「我々生徒会のメンバーも優秀なのだが、私を含めてこういった類の問題解決は得意としていないのだ。加えて、我々が動くのは目立ちすぎる」
つまり、生徒会としては盗難騒動のエスカレーションを学校祭終了までは隠し通す方針でいるが、騒動が解決できればそれに越したことはない。僕に白羽の矢が立ったのも、柔軟な思考うんぬんよりは、将棋部に対しては『第二部降格』という切り札が使えると見込んでいるからかもしれない。
ただ、これは僕にとってもチャンスかもしれない。何せ、生徒会長とのホットラインを作ることができるのだ。学生自治を重んじる大矢高校の生徒会に集まらない情報はない。
「分かりました。尽力します」僕は、協力の意向を伝えた。
と、そのときブーブーブーッとモーター音が鳴り響いた。太腿に感触が伝わって来なかったので僕ではない。
案の定というべきか、奥地会長が制服のポケットから携帯端末を取り出すと「失礼」といい、すぐに通話体勢になる。
……うむ、うむ……ご苦労――。会長はそんな言葉を通話の相手に伝えると携帯端末をポケットにしまいこんだ。
一体なにごとだろうか。そう思っていると、
「瀬田部長、一旦それを返していただきたく」と会長が手を差し伸ばしてきた。それ、と言われて、渡された数枚の紙を手にしたままだったことに気づく。
会長は僕から紙を受け取ると、プリンタ用紙を机の上に置き、胸ポケットのボールペンの背をノックしてそれに文字を書き足していく。
10月6日(月) 香炉(アロマ研究部)
会長が文字を書き始めたときに既に気づいていたことだが、どうやら3つめの盗難騒ぎが発生したようだ。『お借りします』の紙も置かれていたらしい。今度はクマとは一見関係がなさそうだが、同一犯である可能性は極めて高いだろう。
まるで僕の挑戦を嘲笑うかのように知らされた新たな盗難だ。このペースで盗難を続けられたら、事件を局所的範囲で抑え続けることが難しくなってしまうかもしれない。あまり猶予はなさそうだ。
そう、あまり猶予はないのだ。僕は手がかりとなりそうな情報を生徒手帳に書き写すと、調査を早速開始する旨を伝えた。
「生徒会としては早期解決を望みますが、将棋部の活動優先で願います」
敵対すると厄介だが、味方だとなかなか話せる人なのかもしれない。僕は頷くと、大会議室を後にした。
廊下を歩いているうちに、先程の『優先』というキーワードで土曜日の夜の副会長が話していた音夜祭の話を思い出した。
――3年生の参加希望が優先される
たとえ、3年生の希望が10組に留まり、2組の枠が余ったとする。しかし、その次に優先されるのは2年生だろう。すると1年生が参加できる可能性としては、3年・2年の希望が11組以内である場合――となるが、その可能性はまずなさそうに思える。
しかし、音夜祭に出たいという想いは強くなるばかりだ。何か、手はないだろうか。先輩方の顔を思い浮かべていく。しかし、いずれの先輩もバンド仲間が固定化されており、飛び入りで1年生が入り込める余地などあるはずがない。
そのとき、家族からのメール着信を知らせる音がした。時間帯から考えてきっと母親だろう。たまに、夕食の献立に悩むと僕に意見を求めてくることがあるのだ。
……電子音?
頭の中にある人物の顔が〈跳躍(リープ)〉してきた。あの人は確か、3年生だった気がする。もしかしたらいけるかもしれない!
僕は足早に軽音楽部の部室に向かった。
*****
校舎が黄金色に染まるはじめ、部員が次々と楽器を片付けはじめている。そんな中、一人だけ楽器でないものを片付けている3年生に声を掛けた。
「高楠(こうくす)先輩。あの……一つご相談したいことがあるんですけど……」
「ん? キミは……。ゴメン、誰だっけ?」
振り向いたのは、細面の大人しい雰囲気の男子生徒。軽音楽部にあって、楽器を使っていない異色の部員だ。
高楠先輩の使うものは、パソコン。DTM(デスクトップミュージック)――端的に言えばコンピュータに打ち込んだものを機材に演奏させる――をしている。元々、将棋部と掛け持ちをしている上に、普段はギター講座の輪の中に入ってばかりなので、交流の機会は全くと言っていいほどない。辛うじて覚えていたのは、春の仮入部の際に高楠先輩が使っていたDTMのことを上級生が遠くから説明をしてくれていたおかげだった。
「1年の瀬田と言います。突然であれなんですけど、あの……先輩、今年の音夜祭って出ますでしょうか?」
「あ、うーん……一応、エントリーはしてみてはいるけど、ね」
その言葉にまずは安堵する。強制でない以上、3年生とはいえ出場しない可能性もあったからだ。
「演奏は、DTMを流す感じなんですか?」
「そうだねぇ……。キーを叩けばそれでやることはなくなってしまうけど、それじゃあさすがに味気ないからキーボードくらいは弾いている振りをしようかとは思うけどね……はは」
そして、再び安堵。それならば、まだ望みはつながっている。僕は、姿勢を改めて伸ばして先輩に正対する。
「唐突過ぎて、無茶苦茶であることも分かってます。僕も、一緒に演奏に加わらせて頂けないでしょうか」
高楠先輩は無言のまま、ノートパソコン上のアプリケーションを終了していく。少しでも気持ちが本物であることが伝わればと思い、視界の中に入っていないことは分かっていながらも僕は直立不動の姿勢をし続けた。
「……確かに唐突だね」
ノートパソコンをパタンと閉じると、そう言われた。その視線は天井のさらに先を見ているようだった。、
音夜祭まではもう2週間を切っている。普通ならば、曲目や演奏方式を定めて、それを完璧にするための練習に明け暮れている時期だ。DTM使いの高楠先輩ならばその時間的ゆとりやメンバー枠に余裕があると望みを掛けたのだが……。
しかし、さすがにこの時期では無茶苦茶だったか。お詫びの言葉を述べようと口を開こうとしたら、「……いや。条件次第ではその話、呑んでもいいよ」とそんな答えが返ってきたのだ。
「本当ですか!?」僕は思わず聞き返す。
「実はさ……、生のバンド演奏っていうの、前からやってはみたかったんだ。でも、自分のミスで他の人に迷惑を掛けやしないかって考えてしまってさ……」
「ちなみに、楽器はなにができるんですか?」
「ピアノ。小学生にあがる前から中学生までずっとやってたんだ。ただ、アンサンブルはやったことがない」
「へぇ……」
「皆でわいわい演奏する軽音楽部に入ったのも、そのためだったんだ。でも、結果は見ての通りだよ……」
高楠先輩は、オーディオコードを機材から抜き、手際よくケースにしまっていく。この作業を3年続けてきたのだろう。ケースを閉じると、こちらに指を1本立ててきた。
「条件は3つ。その1、バンド形式にしたいから、メンバーを、あと一人……、ヴォーカルかドラマーかベーシストを探してほしい」
確かに、せっかくバンド演奏にするなら人数は3人以上は欲しい気はするが……。先輩は構わず、指を2本にして続ける。
「その2、音夜祭に向いた新しい曲を作り下ろしたいんだ。曲はそれにさせてもらいたい」
「作曲、できるんですか?」
「作曲ってのは誰でもできるもんだよ。というか、既に世界に人知れず存在しているんだ。それを再現、あるいは、記録してあげているだけに過ぎないと僕は思っているよ。上手か下手かは別としてね。
ところで、君はギターが弾けるんだっけ?」
「え、あっ、はい」つい勢いで答えてしまった。が、まあいいか。嘘は言っていない。上手か下手かは別としよう。
先輩は、立てていた指を3本にする。
「その3、僕が作った曲に君が詞をあてて欲しい。前言がくすみそうだが、作詞は苦手なんだ……」そういうと、先輩は苦笑する。
え? 作詞? 僕が? 急に飛んできたキラーパスに僕は戸惑う。そして僕は、心の中でこう叫んだ。
――作詞ってのは誰でもできるもんじゃないんですか!?
自宅のベッドの上に寝転がり、僕は天井を見つめながら考えごとをしていた。
結局、僕は3つの条件をクリアすべく動くこととなった。どれも易々とクリアできるようなものではない気がするのだが、もう他に当ても無いのだ。
条件その2に異論は無い。もともと演奏曲に強いこだわりはなかったし、コピーバンドでないほうが演奏レベルを誤魔化せそうだとか、場合によってはギターのアレンジを大幅に簡単にしてもらうなどの柔軟さがありそうだから一概にマイナス要素ではないかもしれない。
直後は戸惑ったものの、条件その3もそれほど大きな問題ではない気がしてきた。曲に詞をあてるなんてやったことなどないけれど、音符の数と言葉の数が最低限一致していれば大ハズレすることはないだろう。
やはり、条件その1、これがネックになるだろう。今の時期に、どこのバンドにも所属していないベーシストやらドラマーなんているだろうか。……まず、いないだろうな。
この間の泉西先生じゃないが、大矢高生の振りをして他校から助っ人を呼んでくるような荒業も考えられなくは無い。しかし、音夜祭は内部のイベントだ。やはり気が進むものではない。
たとえば、今はやっていないが過去にバンドをやっていたという経験者はいないだろうか。頭に知り合いの姿を次々と思い浮かべるが、やはり思い当たらない。敢えて挙げるなら美月だろう。
きっと、彼女なら当日の朝に習得して、夕方の音夜祭で演奏することくらいできる気がする。しかし、それでいいのかと思う自分がいる。将棋大会でも借りを作ってしまったばかりなのに。
小説『Fall on Fall =俯瞰の秋=』(3/4)に続く