総村スコアブック

総村悠司(Sohmura Hisashi)の楽曲紹介、小説掲載をしています。また、作曲家・佐藤英敏さんの曲紹介も行っております。ご意見ご感想などはsohmura@gmail.comまで。

小説『Fall on Fall =俯瞰の秋=』(3/4)

 *****

 「ハイレベルなプレーと言うのは、多くの人からは知覚してもらえないものだ。
  プロ野球のファインプレー集が分かりやすい。
  あれは、脚力が二流の選手が能力ギリギリのところを際どくカバーしたプレーばかりではないか。
  真のファインプレーとは、優れた脚力と素早い判断力によって当たり前のように余裕でこなされているものを言うのではないのか?
  つまり、だ。天才は、凡人に評価を求めてはならぬし、それによって揺らぐことなどあってはならないのだ」

                    ――『週刊ビジネスウィング9月号 冷谷山三冠インタヴュー』より

*****

 

 第三章 『祭までの日々』

 

 授業中にしょっちゅう寝入ってしまう僕だが、不思議と朝は強い。両親が休日も5時起きをする家に生まれたからかもしれない。
 そんなわけで、小学生から今の高校生に至るまで僕は毎日7時には教室にいる。
 中学生のときはテニス部だったから、朝練習というものがあったが、将棋部にはそのシステムはない。
 だから、これまでは教室で本を読んだり、携帯端末をいじったりして過ごしてきたが最近は少し事情が違ってきている。
 「……でね、二つの石像がどかんといるおかげで毎年展示スペースで一苦労しているらしいの」
 僕の前の席の椅子に腰掛け、琴羽野さんが楽しそうに話しかけてきている。
 「どこか引き取ってくれる人がいてくれれば喜んで引き渡すんだけど、って部長たちも嘆いていて。瀬田くんのおうちって一戸建てだよね? どう? 要らない?」
 「うーん、両親の趣味の品々で手一杯だしなぁ……」
 嘘はついていないが、どちらかというと要らないと言わないための配慮である。僕も随分大人になった。
 「あ、そうだ。ちょっと話が変わるんだけど、一つ聞きたいことがあるんだ……」
 「なになに?」
 僕は、気になっていた人物の名前を出した。クラスが違うから、ダメで元々と思っていたのだが、
 「あ、彼なら選択授業の書道で一緒だから知ってるよ」
 「そうなんだ。琴羽野さんの選択は美術かと思い込んでたよ」
 「うーん、第一希望だったんだけど人数が多くてね……。
  私も一応美術部員だし、筆捌きには自信があったけど、彼はもう反則だよね。本職だもん。え? 性格? ……うーん、基本的に寡黙で自分から積極的に話したりはしないけど、ぶっきらぼうってわけじゃないみたい。挨拶も丁寧だし、真面目ないい人だよ?」
 その言葉を聞いて、僕は安堵した。そして、作戦決行の決心を固めた。
 
 1時間目の休み時間、僕は1年3組に向かっていた。
 「君……が、久慈くんだよね?」
 教室すぐ脇の廊下で、僕は目的の人物と会うことができた。実家が寺である将来のお坊さん候補生、久慈健造くんである。
 身の丈は平均的ながら、年齢以上に大人びた表情を浮かべているその頭髪は一分刈り。いわゆる坊主頭。野球部員でもここまでしている生徒はいない。これは後ろからでも間違えようが無い。
 「左様だが……?」
 そして、低くそれでいて良く通る伸びのある声。イメージどおりだ。
 「はじめまして。そして、単刀直入にお願いがあるんです」僕は一歩踏み出して「僕たちのバンドのドラマーになって欲しいんだ!」
 
 *****
 
 その日の昼休み。僕たちは場を改めて話の続きをしていた。
 「いやはや、夢か現か。すっかり動揺いたした。拙僧、まだまだ修行不足なり」
 「いや、こちらこそゴメン。善は急げとばかり突然切り出してしまって……」
 二人して屋上の手摺にもたれながら、そんな会話を交わす。
 僕は、事情を詳細に説明する。今年の音夜祭で演奏をしたいこと、そのためにドラマーやヴォーカリストなどを探していること。そこで浮かんできたのが、木魚と読経で基礎能力が鍛えられているであろう久慈くんの存在だったこと。
 久慈くんは少し考え込んだ。音楽やバンドの経験などは当然ないと返されたが、それは僕も同じことだと切り返した。しかし、別の懸念点があるのか再び考え込む。やや間があって、
 「しかし、一斗和尚がなんと申すか……」
 一斗和尚、つまりは久慈くんのお父さんのことのようだ。普段は優しい表情を浮かべているが、修験者の前には鬼の形相で喝を入れる〈不動明翁〉として現れるという噂を聞いたことがある。
 読経研究部の活動の一環なら、許可も容易に下りたのだろうけど、なにしろ今度はバンド活動だ。羽目を外しすぎだと指摘されても強く反論できないところではある。
 「さすれば、一計あり。最近、寺にて奇っ怪な事件が起こりて、拙僧も和尚も頭を悩ませておる次第……」
 久慈くんはあらましを説明しはじめた。

 彼曰く、網諾寺の敷地にある墓地のうちのある区画で、墓石の向きが逆向きにされるといういたずらが頻発しているのだという。
 図を書いて説明したいと言うので、僕の生徒手帳とシャープペンシルを提供した。こうすることで、ちょっとした時間にも考えを進めることができそうだ。
 久慈くんはさらさらと図を書き進めていく。マス目を書き始める。これが区画らしい。1、2、3、4……。ちょうど、4×4で16マスある。
 次に、マスの中に移る。墓石の主の苗字でも書いていくのかと思っていたが、
 「って、これもしかして墓石のカタチ?」
 「いかにも」
 久慈くんが動かしたペンのあとには、文字ではなくイラストが描かれていた。象や、馬、お城なんかもある。コミカルなタッチのため、久慈くんののイメージからは少し違和感がある。
 完成した図は次のようなものだった。

 ・一番奥の列は左から順に、未使用、未使用、〈球の墓石〉、〈魚の墓石〉。
 ・奥から二番目の列は左から順に、〈馬の墓石〉、未使用、〈塔の墓石〉、未使用。
 ・奥から三番目の列は左から順に、未使用、未使用、未使用、〈城の墓石〉。
 ・一番手前の列は一番左に、〈象の墓石〉があり、あとは全て未使用。

 

図_墓地3.5

図_墓地3.5

 

 墓石は6個あるが、このうち〈馬の墓石〉と〈城の墓石〉の2つがいたずらの対象になっているのだという。
 「破壊損傷の類無く、被害軽微なり。されど……」
 寺の事務もあるため常に人を張り付ける訳にも行かず、厳粛な空間であるため監視カメラの類の導入も憚られる。墓石が損傷している訳でないが、こうしたいたずらを野放しにしておくわけにもいかない、という状況らしい。
 また、いつエスカレートするとも限らない。いたずらを寺側の管理不行届きだと主張する『モンスター檀家』が現れないとも限らない。
 そういったリスク的問題も少なからずあるが、一番の理由は「悪戯を改心させること、それが網諾寺の使命なり」だそうだ。精神の修行を重んじる網諾寺の思想は噂どおりのようだ。
 ぱっと見て思いつくような共通項や法則性はない。ある意味、盗難騒動よりも取っ掛かりが難しそうだ。
 うーむ、まずは少し考えてみるか。そうしないことには何も進まない。ちょうど、5時間目は地理の授業だ。
 何がちょうどなのかというと、地理の先生は要所を押さえた質の高い授業をしてくれるのだが、生徒を指名して答えさせる方式を一切とらない。そのため、授業中の〈内職〉がしやすいのだ。
 僕はドラマー獲得のため、5時間目の地理を大いに活用することにした。
 
 放課後の将棋部の部室に僕はいた。今日は元々僕が軽音楽部の練習の方に出ることもあって、将棋部の活動は休みとしていた。しかし、音響設備は共用なので、使用はローテーションになっている。順番が廻ってくるまでまだ時間があったので一人で思索しようと思い、将棋部の方にやってきていたのだ。
 「はぁ、ダメだ全然浮かばないや」
 僕は、にらめっこしていた生徒手帳を閉じて机の上に放り出す。あぁ、とにかく時間がない。久慈くんのドラマー参入も大事だが、僕のギターの方も課題を抱えているのだ。
 演奏曲で頻繁に出てくる、A♭などの人差し指で6本の弦を押さえるようなコードが綺麗な音を出せないのだ。指が短いのか、押さえようとするとかなりきつくて、攣りそうになってしまう。
 美月みたいに指先が器用だったらなんてことないんだろうな。この間の大会の際に、左手で見事な消しゴム印鑑を彫っていたのを思い出して僕は嘆息する。
 鞄から適当に裏地の白いプリントを取り出して、左手にペンを持つ。そして、戯れに文字を書いてみた。左手で字を書くというのは、案外良いトレーニングになるんじゃないかと考えたのだ。
 しかし、生まれ出されたのはへろへろっとのたくった、力のない文字だ。ま、まぁ最初から上手くいくとは思ってなかったけどさ……。
 改めて自分の潜在能力のなさに軽い衝撃を受けていると、机の上に置いた携帯端末が振動していることに気づく。音声着信だ。
 「あ、はい」
 「あ、ちょっと時間いいかな」
 相手は高楠先輩だった。この間、電話番号を交換していたことを思い出す。
 「なんでしょう?」
 「あー、バンドのメンバーのことなんだけどさ……。もう一人か二人人数増やせないかなぁ」
 「もうちょっと……って合計4、5人ってことすか? 条件その1は『あと一人追加』って話だったですよね……?」
 久慈くんの参入も確定していない今、さらなる人員増はもう無理だ。思わず悲鳴を上げたくなる。
 「まぁ、確かにそう言ってたのは事実だけどさ、音夜祭だよ? 考えても見てよ、すごい人数が集まるんだ。そうしたら……きっと緊張するだろ?」
 「そ、そりゃそうでしょう」
 「だからだよ。人数が多ければ多いほど、ほら、視線が分散されるじゃないか。じゃないと……元のDTMの形式に戻そうかと思う」
 あぁ、段々頭が痛くなってきた……。いや、折れるな桂夜、高楠先輩だけが今年の音夜祭に出るためのキーマンなのだ。ほら、こんなときこそ、泉西先生の悪逆非道を思い出し、それに比べたら――と考えるべし!
 「わ、分かりましたから。考えておきます」
 「頼んだよ。あ、あと今日の練習は16:30からだから」
 「はい、もうしばらくしたら向かいます」
 やっと通話を終え、大きく息を吐き出す。親父が仕事の繁忙期に神経性胃炎の薬をもよく飲んでいたが、僕にもそろそろそういう類が必要かもしれない。
 さて、少し早いけど移動を始めるか。のんびりしていて泉西先生に絡まれでもしたら厄介だ。などと考えていたところ、戸口から声を掛けられた。
 「ケーヤ?」
 美月だった。土曜日の大会の後から、三日しか時間が空いていないはずだが、もう半年も会っていなかったかのような感覚だ。
 今までと変わらない雰囲気で話しかけられたことが逆に、大会後なんとなく僕が持ち始めてしまった彼女との距離感とのズレを生じさせて戸惑ってしまう。
 「きょ、今日は休みって言ってなかったっけか? どうして?」
 「なんとなく」そう言って部屋の中に入ってくる。
 美月は、あの日の僕のことを何と日記に書いたのだろう。こうして変わらぬ態度でいるということは、悪いようには書いていないのか。いや、そもそも記述に値する出来事と扱われていなかったとか――。
 詮無いことと分かっていても、ついそんな些細なことが気になってしまう。
 「あ、それは……」
 美月が僕の左手訓練に使ったプリントを手にしているのを見て、慌てて立ち上がる。
 「1、6、0、4、5……。何なの? この汚い字」
 「1……? って、汚い字で悪かったな。ギターの訓練のために左手で字を書いてたんだよ」
 僕はプリントを鞄の中にくしゃっと押し込んだ。
 「それはともかく……。そろそろ軽音の方に行く時間だから。まだ居るなら、鍵置いてくけど?」
 「じゃあ、あたしも帰るよ」
 結局、今日美月と交わした会話はそれだけだった。もっと、何か話すことがあったんじゃないか? 自分が変わらなければいけないんじゃないか?
 あの日以来、僕は将棋の勝ち方だけでなく、美月との接し方も見失ってしまったのかもしれない。
 音楽室へと向かう足取りはなんだか重かった。

 はじめての合同練習の結果は凄惨たる結果に終わった。僕のギタースキルは自分で思っているほど上達していなかったのだ。
 個々のコード自体はそれなりに押さえられるようになってきているものの、流れるようには弾けなかったり、音の強さが安定していなかったりと課題が次々と浮かび上がってきた。
 演奏曲の方も、曲のメロディーや構成が高楠先輩の納得の域に達していないらしく、細かな範囲ではあるが刻一刻と変化し続けている状態だ。
 「これは、練習量を増やさないとどうにもならないかな……」と呟くものの、そんな時間を生み出せるほど余裕は無かった。
 盗難騒ぎの解決、久慈くん勧誘のための墓事件の解決、将棋や美月との関係性……。まるで、雪かきをしている最中にも新たな雪に見舞われているような気分だ。
 ふと気づくと、携帯端末が振動していた。どうやら、琴羽野さんからのメールのようだ。こんな時間になんだろう……。

 ちょっとすごいもの見つけたから、美術室来てみない?
 
 『ちょっと』と『すごい』っていうのはくっつくものなのか? と思ったが、どうせ、この後は帰るだけだし、すごいものというキーワードに惹かれたので訪ねてみることにした。
 美術室に着くと、中には琴羽野さんだけしかいなかった。こんな時期に部活が休みとなるとは、美術部の学校祭準備計画はばっちりということなのだろうか。
 「美術部の準備は順調なの?」
 「うーん、順調……かな? 美術部はやることが毎年変わらないの。各自にスペースを割り振って展示品を飾るだけっていう……。私の代になったら、全員で合作を作るとか、画集を出すとかもっと色々と挑戦してみたいんだけどねー……」
 なるほど、良く考えれば、先輩がいるというのも良いことばかりじゃないんだろうな。
 美術準備室に入ると、どかんと大きな二つの石像が立っていた。
 「あ……、もしかしてこれが?」
 「そう。今朝話していた〈王女の像〉と〈騎士の像〉だよ」
 これは確かに立派だけれど、同時にスペースもかなり取ってしまっている。ありがたいような、ありがたくないような。どこかの顧問と同じ存在といえる。
 琴羽野さんは慣れた手つきで戸棚の一番下の引き出しを開けた。取り出したのは2冊のスケッチブックだ。そのうちの一つをパラパラとめくると、あるページで止めて僕に手渡してきた。
 「でもすごいものは、こっちの方! 見てみて」
 受け取って、指し示された左下の辺りをまじまじと見てみると。
 「ん……? これ、もしかしてクマッタ?」細部こそ異なっていたものの、それは最近ちょっとしたブームになっているクマッタに良く似たイラストだった。ページ自体は花瓶をスケッチしたものだったが、その端っこにいたずら書きのように描かれていた。
 「でね、ここに『N.ANDOH』ってあるでしょ?」今度は右下のサインの部分を指し示される。確かに、言われたとおりになっている。
 「これ、イラストレーターのアンドウ・ナツさんの学生時代のスケッチだったの」
 「え!?」大矢高校のOB・OGに著名人が多いことは知っていたが、急に知らされた事実だったので派手に驚いてしまった。クマッタとこんなところでつながりがあったとは。
 「いや、ビックリしたけど、貴重なものが見られたよ。ありがとう」
 僕がスケッチブックを丁寧に返すと、「いえいえ、どういたしまして」と琴羽野さん猫の口のように口角を上げて嬉しそうに受け取った。
 「それで、もう一つ。私、瀬田くんのことが好きなんだ。いつか、付き合ってもらえる?」
 「ん、ん? えっ!? 今なんて……」
 「こういうこと何度も言わせないで欲しいんだけど? いつか付き合って欲しいの」
 泉西先生のせいで、突然のことには強くなったと思っていた自信は完全に撤回することになったようだ。肌寒い部屋に居るはずなのに掌には汗が浮かび、頭の方は少しぼうっとしている。僕は生まれてはじめて受けた告白に自律神経が乱れているのを感覚した。
 「で……も、『いつか』っていうのは?」しかし、そんな中でも僕は琴羽野さんの台詞の中にあった不自然な箇所を条件反射的に確認していた。
 しかし、大人しい女の子と思っていた琴羽野さんは今日は随分と堂々と答えてくる。しかも、僕がもっと心が乱れるようなうなことを。
 「瀬田くん、織賀さんのことが好きなんでしょ?」
 「……!」
 僕が美月と彼氏彼女の関係にあることは、学内だと福路くんにしか言っていないことだ。
 「別に隠さなくてもいいんだよ。こういうのって、第三者からだとよーく分かるんだ。
  ……で、相手が織賀さんじゃ、今の私じゃ悔しいけど勝ち目がないと思うの。でも未来は分からないじゃない?
  いつか、瀬田くんが私の方がステキだと思ってくれる日が来るかもしれない。だから、本当に勝手だけど今は答えを言わないで欲しいの」
 少しずつ琴羽野さんの意図が理解できてきた。琴羽野さんは、圧倒的不利を認識しているからこそ、時間を味方にすることにしたのだ。
 「本来であれば、こんなの不平等だって分かってる。でも、瀬田くん、ちょっと鈍そうだし……。だから、私の方が勇気出さなきゃって」
 そういいながら、琴羽野さんはもう一つのスケッチブックをゆっくりと開いていく。
 「これは……」
 現れた線画に僕は息を呑んだ。それは、今年の学校祭ポスターに決まった、『夜空の月に向かって飛ぶ鳥』に間違いなかった。
 「願掛けしてたの。カント・リケージの〈夜の月〉っていう小説の中に出てくるんだけど、『夜と月とは切っても切り離せない関係』だと思ってたから。
  そんな夜と月に向かって飛ぼうとしている姿を見て、多くの人が票を入れてくれたら、応援してくれたなら告白しようって」
 「……」
 僕はうまい返事が思いつかないでいた。
 これが先週だったら、僕は「気持ちは嬉しいんだけど……」と返事を返していたかもしれない。答えを言わないで欲しいといわれても、僕が美月を大切にし続けるという意思は揺るがないと思ったことだろうし、琴羽野さんを保険のようにするような自分は絶対に許せなかっただろうから。
 しかし、今日の僕は事情が違っている。美月とのアンバランスを感じはじめている。
 琴羽野さんは美人というほどではないが、愛嬌があり、一緒にいてとてもリラックスできる女の子だ。未だに緊張することのある美月といるときよりも、飾らない自分が出せている気はする。
 僕が黙考して佇んでいるのを見て、琴羽野さんはスケッチブックを戸棚に戻し始める。
 しばらくお互いに無言のまま、部屋を出る。琴羽野さんは施錠をして戸が開かないことを確認すると振り返る。その表情は、大人しそうないつもの琴羽野さんだった。
 「お願いだから、次に会ったときもいつもどおり接してね……。じゃないと、私の勇気が無駄になっちゃうから……」
 そう言うと、呼び止める間もなく廊下を足早に去っていってしまった。
 
 自室に戻り、ベッドの上に寝転がる。
 生徒手帳をパラパラとめくり、『やること/考えること』と冒頭に書かれたページを開く。その多さに、思わずため息が出た。
 一つ一つクリアしていくしかないのだろうけれど、どうにもエンジンがかかってこない。
 「疲れた……」
 睡魔が襲ってくる。寝ている暇などないのに、酷い奴らだ。眠気を取ろうと、カラーボックスの上に置いてあるミントのガムに手を伸ばす。しかし、睡魔のジャブを既に受けているためかうっかり取り落としてしまった。
 それでも力を振り絞り、床に転がりながら、ガムを手にしようとして、視線の延長線上にある本が眼に入ってきた。
 『佐波九段名局集』、僕が尊敬する今は亡きプロ棋士の言行をまとめた本だ。
 小学生の頃に欲しい欲しいと言って親父に買ってもらったものの、活字の多さに辟易し、本棚の中に入れたままにしていたのだ。
 寝ている暇さえないはずだったのに、僕は無意識のうちにその本を開いていた。
 
 ――たまたま私の指した将棋が最後に見る一局になる可能性だってあるでしょう。
 ――だから、常に誠心誠意の将棋を指し続ける。それが、この佐波新継の生きる意味なんですな

 ――人に好かれたいとか、人に認めてもらいたいと常々思っておられる方は、まず己自身が己自身を好いて、認めるとよいでしょう。

 死に瀕したわけでもないのに、頭の中に走馬灯のような映像が流れ始める。次に、僕は今年の日記帳を手に取った。
 自由にさせるのが教育方針だと常々口にする親父が唯一僕に強要したのが、日記を欠かさず付けることだった。
 「未来には、過去の自分はもういないんだ。未来の自分はそれをいいことに、簡単に約束を破るんだ。だから、過去の自分が未来にも生きられるように日記はつけておけ」頭の中に親父の言葉が蘇る。
 今年の春から順々に見ていった。
 4月最初のころは軽音楽部に絶対入る、といったことばかり書いてある。やがて、将棋部の話や美月の記述が現れる。そして、学業と音楽と将棋の鼎立で高校生活を頑張るという文がでかでかと現れる。
 7月中旬頃、美月の秘密を知るところとなり、何に代えても協力するということが力強い筆跡で書かれていた。
 いずれも、書いたのは他人じゃない。紛れも無く過去の自分なのだ。過去の自分は、未来を知っていたらこんなことを書かなかっただろうか。そんなことはない気がした。
 そして僕は、パーンと一回両頬を打った。じんわりと痛みが引いていくのと同時に、僕の中にあったわだかまりも少しずつ解けていくのを体感する。
 「美月……」
 毎日不変のように見えるあの美月も、次の日のために、未来のために毎日バトンをつないでいるじゃないか。
 そう、未来は現在の延長線上にあるのだ。明日の答えなら、今日のどこかにしかない。

 *****

 週のど真ん中の水曜日。週末が待ち遠しい気持ちと文化祭までの日数は減って欲しくないジレンマが僕を攻め立てる。
 気力は復活したものの、絶対的な時間が足りないという事実は変えようが無い。
 不意に鳴った予鈴にはっとなる。どうやら、気が付いたらもう昼休みの時間になっていたようだ。
 最近考えることが多すぎて、授業の内容が全く頭に入ってないことが多発していたが、今日に至ってはタイムリープしたようなレベルだ。学校祭に力を入れている生徒の中には似たような連中もきっといるはず、いや絶対いる。……正直、次のテストが心配だ。
 さて昨日と同じく、屋上で久慈くんと話をする約束となっていた。ただし、今日は昼飯を食べるところからだ。早速、弁当を持って屋上に向かうと、寒空に相性の悪そうな坊主頭は既に待っていた。
 「ゴメン、寒くなかった?」通り過ぎていった冷たい風に首を縮めながら僕は尋ねたが、
 「否、朝5時の本堂の境内と比べればこれしきは」
 さすがに、鍛え方が違うなと僕は舌を巻いた。
 「あれ? 久慈くんの弁当は?」彼が両手に何も持っていないことを指摘すると、答えはすぐに返ってきた。
 すうっと持ち上げたのは竹の皮に包まれた古風な包みと竹筒だった。どうやら、腰のベルト辺りからぶら下げていたようだ。
 「すごい……、こういうの時代劇でしか見たこと無いよ」
 「裏山に広大な竹林があるゆえ」
 「えーと、そっちじゃなくて……。もしかして、中身もおにぎりとか?」
 「左様。塩むすびとしば漬けなり」
 まだしていなかったお互いの詳細な自己紹介や趣味などしばらくは他愛のない談笑をしていたが、やがて自然と墓場の謎について話が及んでいった。
 「色々と考えてはいるんだけど、まだこれといった推論が立てられていないんだ」
 「左様か。当方はお知恵をお借りしている身。本来、ゆるりと思索いただきて問題なけれども……」
 「音夜祭は刻一刻だからなぁ……」
 そう、今日を入れてもあと10日程しか時間は無い。それだけでも、相当厳しい。せめて、今日か明日中にはなんとか久慈くん参入を完了しないと僕の音夜祭は不戦敗に終わってしまいそうだ。
 「将棋部の方はしばらく一時中断するかな……」僕はなんとなくそう呟いていた。
 明日と来週2日、学校祭までの間に一応将棋部は3日分集まることにしていた。しかし、現実的に考えて今の僕にその時間は非常に貴重に思われた。
 斎諏訪のプログラム改修は恐らく問題なく進むだろう。あとは学校祭当日にぶっつけでもなんとかなるのではないかと考え始めていた。
 つい、頭の中が脱線してしまったなと久慈くんの方を伺うと、
 「一時中断……」彼は何かに気づいたような表情を浮かべている。
 「申し損ねていたやもしれぬ。実を申せば、以前にも同様事象ありけり」
 「えっ? なに? どういうこと?」
 彼によると、墓石に対するいたずらは『再発した』というのが正確らしい。
 以前に起きたときの対象は〈馬の墓石〉と〈象の墓石〉だったとのこと。今回は〈馬の墓石〉と〈城の墓石〉なわけだから……、
 「〈馬の墓石〉は毎度いたずらの対象となっているのか。……あるいは、逆の見方をするなら、〈象の墓石〉は何故いたずらされなくなったか、だ」 
 〈象の墓石〉についてはもう気が済んだとか。いたずらの対象は2つが限界で、〈城の墓石〉を対象に変えたからとか。
 「御仏の威光ある〈塔の墓石〉が入りしことで、ひとたびは改心したものなりか」
 「御仏、ねぇ」
 ……。……?
 「久慈くん、そこのところもう少し詳しくきかせて」
 「〈塔の墓石〉は五重塔のような形式になっており――」
 「――あ、そっちじゃなくて……『入りし』ってとこで」
 静的な図ばかり眺めていたためすっかり考えから抜け落ちていたことだが、墓石のできた順番というものが事件に関係しているのではないかと思ったのだ。
 教えてもらった追加情報は次のようなものだった。

 

図_墓地0

図_墓地0

 

 かねてから申込のあった〈球の墓石〉〈魚の墓石〉〈馬の墓石〉は供用開始にともなって一番最初に入ってきた。

 

図_墓地1

図_墓地1

図_墓地2

図_墓地2



 その後、〈象の墓石〉、〈塔の墓石〉、〈城の墓石〉の順に入ってきたのだという。
 そして、はじめにいたずらが起きはじめたのが、〈象の墓石〉ができた直後だったという。
 その後、〈塔の墓石〉ができてからしばらくはピタリと止んでおり、一番最近できた〈城の墓石〉に入ってきた後、再開したとのこと。
 そして、不意に〈跳躍(リープ)〉は訪れた。
 この『一つ置き』というリズム感はもしかして……。僕は図面を見たまま頭を回転させていく。条件に当てはまるのは、どの墓だ? 一つずつ慎重に検討していく。その結果、対象は一つに定まった。
 とすると、そのいたずらをやめさせるためにはどうしたらいい? 何か打開する手立てはあるだろうか?
 この一件は、真相を突き止めるだけでは片手落ちなのだ。そう、依頼主である網諾寺の使命も満たさなければならない。
 「……瀬田殿?」
 突然黙りこんだためか、久慈くんが心配顔で覗き込んでくる。
 僕にとっての長考は、〈跳躍(リープ)〉で瞬間的に思いついた手を正解と全面的に信用して、それが正しいことを時間を掛けて立証していく作業に他ならない。
 地道に、積み重ね積み重ね、その結果たどり着くような努力型のものでなく、もっとこう、横着な答えの出し方だ。それゆえに、時間さえあればいつか答えにたどり着けるような確実さはない。
 僕は今までこの現象を長所だとか特技だと思うことはできないでいた。しかし、今日ははっきりとそれが訪れたことを誇りに思うことができた。
 「……多分、分かったよ」
 眼を丸くしている久慈くんに、僕は考えの全てを伝えた。久慈くんはその内容と僕の提案にやや驚きつつもその全てを全面的に受け入れてくれた。
 同意が得られたところで、僕は携帯端末である人物に電話をかけた。
 「……あ、勝田くん? 実は急で突拍子もないお願いがあるんだけど……。できるかどうか聞かせてもらいたいんだ」
 僕は仔細を伝える。すると、「ちょっと待っててくれ。親父に電話するから。また折り返すよ」とのこと。
 しばらくすると、携帯端末が鳴った。随分と早いなと思い、画面をみるとメールの方を受信していたのだった。差出人は奥地会長だ。
 もしやまたどこかで――と思い開いてみると案の定、
 
 爬虫類研究会『カメレオン』盗まれる。
 
 という内容だった。
 「いかがされた?」久慈くんに問いかけられて我に返る。
 「いや、なんでもないよ。我が家の晩飯の話」咄嗟に小さな嘘をつく。この件は秘密裡に動かなければならないのだ。
 それにしてもカメレオン、か。図鑑のページなのか、模型なのか、ぬいぐるみなのか。メールからは判断できないが、実際に本物と言うことはないだろうけど。
 クマ、クマ、コウロ、カメレオン。いずれもカ行ではじまる言葉だが、何か意味があるのだろうか。
 児童文化研究部、映像研究部、アロマ研究部、爬虫類研究部。部活で考えると、いずれも文化部であり『研究部』という単語が入っている。
 うーん、やはり現段階では浮かんでこないな…。果たして、先程の墓石の件のように〈跳躍(リープ)〉は起こってくれるのだろうか。
 あれこれと思索しているうちに、再び携帯端末が鳴った。
 「もしもし?」
 「おっす、おれだよ。おれ」今度こそ勝田君だった。
 「で、どう……?」
 「親父に話はついたぜ。すぐに手配してくれるってさ」
 「良かったぁ」僕は胸を撫でおろす。これで、問題の解決の第一歩に踏み出せたといえる。
 「親父もだけどおれも嬉しいぜ。やっと恩返しができたんだからな。って、まだ足りないか?」
 「そんなことないって。これでもう十分だよ」
 勝田くんが言っているのは、春先に僕が問題解決した一件のお礼のことだ。勝田くんの実家は商社で、勝田くんの父が社長、おじいさんが会長を務めている。社長提案の事業計画に対する回答を謎掛けで返した会長の意図を解き明かしたことで、随分と感謝されたのである。
 「また、何かあったら遠慮なく言ってくれよ? あ、学校祭の日、余裕があったら陸上部の焼きそばもヨロシク!」
 「もちろん。部員分買いに行くよ」
 「じゃ、またな」
 携帯端末の通話を切り、久慈くんに向かって指で小さな丸を作ってOKを伝える。
 「じゃ、今日の放課後に予定通り進めようか」
 「御意」
 
 *****
 
 放課後になり、学校前からバスに乗ること20分。『網諾寺前』という停留所で降りた。
 自宅の前にバス停があるというのはなんとも羨ましい限り話だが、お墓参りにくるご老人も多かろうことを考えると、理に適っている。
 「遠方より、ありがたきかな」
 正門のところには先に帰宅をしていた久慈くんが待っていた。服装こそ制服のままだったが、面白いことに、その言葉遣いやたたずまいは寺の雰囲気と周囲に溶け込んでいて違和感がなかった。
 秋も深まりつつあることを示すように、寺の境内にある木々は赤や黄色の装いをしはじめている。ついこの間までは日差しを遮る緑色の葉に感謝していたと思っていたから、時間がたつのは早い。
 手水場を横切り、石畳を歩んでいく。その先は正面に本堂、その脇に道が左右に分かれていた。
 「あちらが墓地なり」久慈くんは左側を指差して言う。
 目的の人物はまだ現れていないようなので墓地と間逆の方にある社務所で待つことにした。
 戯れにおみくじを引いて小吉を出してみたり、絵馬に次の大会で優勝できるようにと書いてみたりしていると、小さな人影がすすっと墓地の方に向かっていく様子が見えた。
 「あの御方なり」どうやら目的の人物が現れたようだ。
 急いで墓地区画の方に向かうと、ちょうどその人物はこちら向きに戻ってくるところだった。奥の墓地のほうからは何人かの声が聞こえてくる。僕が手配をお願いした人たちが作業をしているらしい。なるほど、目を瞑り合掌するには少しにぎやか過ぎるし、なにより『いたずらもしにくいと感じた』のだろう。
 距離がだいぶ近づき、相手も僕達の存在に気付いたようだ。
 背の丈は僕達より少し低く、髪はヤマアラシのようにツンツンと立たせている。制服はそこそこ着崩され、通学カバンには大小様々な装飾品が付けられていた。
 「……どーも」言葉もぶっきらぼうなものだったが、平日の夕暮れに墓参りをするくらいだ、根は案外真面目なやつなのかもしれない。
 「……君、栗井虫中の3年生だよね?」僕は単刀直入に尋ねた。
 その制服は非常に見覚えがあった。栗井虫中学校は、僕の母校、美節中学校の隣の校区だ。何度か訪れたことがある。また、Yシャツのボタンの外し方、カバンの汚れ具合。雑多で細かな情報から恐らく3年生だということが予想できた。
 「そうすけど……?」
 「今日は動かさないんだ。墓石」
 「……!」
 すぐさまヤマアラシの表情を伺うと、突然ナイフを喉元に押し付けられたかのように眼を見開いていた。なんとも分かり易いことである。
 「……証拠。そう、証拠なんてないだろ? 言いがかりもいい加減に――」
 「――監視カメラには気づかなかったのか? まぁ、最近のは精巧にできてるから無理もないけどね」
 「監……」
 もちろん、嘘だ。しかし、急に尋問を受けた彼にとっては非常にインパクトのあるキーワードだったようで、急に言葉を失うと視線をそらしてしまった。その様子が彼自身がいたずらをしたことを認めた証左となってしまっている。
 「一体全体なにゆえ……?」ヤマアラシの顔色が思わしくないのを見て、久慈くんが静かに問う。
 しかし、ヤマアラシは敷石の脇に転がっている小石をじっと見つめたまま答えない。それは、しらばっくれるという類ではなく、どうせ理解などしてはもらえまいという諦観であると僕は読み取った。
 そこで僕は丁寧に語りかけた。
 「……〈魚の墓石〉がおじいさんの墓なんだよな。その〈チェックメイト〉を外すため、だろ?」
 僕がさらりと言ってのけたためか、ヤマアラシは一呼吸遅れてからやっと顔を上げた。その表情はさっきとはまた違った種類の驚きの表情だ。
 〈チェックメイト〉はチェスの用語で、将棋で言うところの〈詰み〉にあたる。キングに〈王手〉がかかっており、かつ、どこに移動しても必ず捕獲されてしまうような状態だ。
 「……なんで、そんな」
 「まぁ、だてに高校生じゃないよ」
 1歳しか年下でないヤマアラシを前にしてつい見栄を張ってしまったが、かなりの試行錯誤はした。
 〈馬〉もあることだし、初めは将棋の〈馬〉かと思っていたがそれではどうやっても〈詰み〉にはならなかった。
 あれこれと考えているうちに、これはチェス盤のようにも見えるんじゃないかと思いついたのだ。チェスの盤は8×8。現在は4×4の第参区画が全て供用された暁には8×8になる。そうして改めて見ると、墓石の形の中にはチェスの駒に見立てられそうなものが幾つかあった。
 〈馬〉はナイト、〈球〉はポーン、〈象〉はビショップ、〈城〉と〈塔〉はルークと見立てることができる。
 そして、2度の墓石へのいたずらの結果いずれも〈チェックメイト〉を免れるのは……〈魚〉の墓石のみだったのだ。
 「……で、警察呼ぶんすか?」ヤマアラシは僕の様子を伺うように言う。中学三年の10月、高校受験が次第に迫っている時期だ。気になるところだろう。
 「いや、そんなことはしないよ。ただ、君にはもうこんなことは二度として欲しくない。それも、できれば納得してもらった上でね」僕は毅然として言う。
 「でも、そんなこと――」
 「――そんなこと、無理だって思うか?」
 ヤマアラシの言いたいことは大体分かる。少しチェスができる者がこの〈局面〉を見たら、チェックメイトだと思うだろう。
 〈魚の墓石〉は今、〈城の墓石〉によってチェックがかかっているが、間にどんな駒を埋めて防ごうとしても〈球〉が利いているため無意味なのだ。だからこそ、ヤマアラシは〈城〉の向きを変えて味方側にすることでチェックを外したり、〈馬〉の向きを変えて味方側にすることで〈球〉を取りながら逃げられるようにしていたのだ。
 「無理だ。どう考えても」
 「本当にそう思うのか?」僕は少し挑発的に再度問う。
 「……絶対、無理だ!」
 その叫びは、挑発に対する怒りというよりは、そんなことできるならやってくれよという身を切るような哀願にも思えた。
 「よし。じゃあ俺が〈プレイヤー〉になろう」そう言って、僕は生徒手帳を取り出す。
 手招きに応じて、ヤマアラシと久慈くんが傍らに寄ってくる。
 「今の局面は、俺たち側の手番だ。そこで僕はここにクイーンを引き寄せる」僕は〈魚の墓石〉と〈城の墓石〉の間にイラストを書き入れる。クイーンを示す冠のマークだ。

 

図_墓地4

図_墓地4

 

 「だから、そこはポーンが利いているから――」
 「取れると思うか?」僕はヤマアラシの目をしっかりと見据えて言う。
 「いいか。これはチェス盤を模しているが、それ以前に墓地なんだ。この入居したばかりの〈城の墓石〉が〈クイーンの墓石〉を押し退けるようにして墓を移すなんて手を指せるか?」
 「それは……」
 「なんなら、この見えないマスの先にルーク辺りが控えていると考えてもいい。それなら、クイーンを取られてもさらに取り返せる」
 ヤマアラシは僕の言わんとしていることをとりあえずは了解したらしい。しかし、まだ簡単には引き下がらない。
 「百歩譲って、当座はそれで凌げるってことでいい。……けど、この局面はリスクがまだ残っているよな? こことここの2箇所に」指差したのは〈塔の墓石〉の横に接した空間だ。

 

図_墓地4.5

図_墓地4.5

 

 「ここにナイトを連想させるような墓石が入ってきたとしたら、今度こそ防ぎようがない。ナイトの利きは防ぎようがないんだ!」
 そう。そこまで考えないと、片手落ちなのだ。彼を納得させることはできない。僕は小さくうなずき、
 「だから、次の手でここに〈騎士〉の駒を置くんだ」僕は〈象〉の上のマスに馬の絵を書き入れて指差す。

 

図_墓地5

図_墓地5



 

 「そうすると、もう〈チェック〉は不可能になる。だろ?」僕はヤマアラシの様子を伺う。
 「各プレーヤーの持ちうる〈ナイト〉は2つだけ、ってことか……?」
 「もっと言うと、この局面は〈ステイルメイト〉っぽくなっている」
 「……た、しかに」ヤマアラシはハッとなったように手帳を覗き込む。
 この4×4の外がどうなっているかは不定なのだから厳密には確実ではない。しかし、元々が本人の心の問題なのだ。本人が認めたなら、それは〈ステイルメイト〉となる。
 「だけどよ、今のは仮の話だ。将来、そんなに都合よく〈クイーン〉や〈ナイト〉が入ってくるかは分からないだろ?」
 やはり、そうきたか。しっかりと準備をしておいてよかった。
 「じゃあ、これから見に行こうか」
 そういうと、事情がすぐに飲み込めないのかヤマアラシはその場に突っ立っている。
 「墓地の方、行くぞ?」
 「あ……?、あぁ」
 
 墓地に着くと、運送業者の人たちが待っていた。
 「おつかれさまです、ご依頼どおり王女さんのほうは先に置いておきましたんで」
 「どうもありがとうございます。では、これから騎士の方もお願いできますか?」
 「がってん。……おい、サブ! タケ! 持ち上げ準備だ!」
 「へい!」
 運送業者の人たちが作業に入ったところで、僕は王女の見える角度にヤマアラシを誘導する。それは、美術部で持て余されていたあの王女の石像だった。
 「あれが〈クイーン〉。そして、今、持ち上げられて……下ろされているのが〈騎士〉だ。よくできているだろ?」
 指差した先には、もう一つの騎士の石像。まさに土台に載せられて向きを調整させられているところだ。
 「な……んで」
 「美術部の知り合いに事情を話したら、喜んで提供してくれたよ」嘘ではないので、そんなこともさらりと言えた。
 「正式なる入居者が現れし日まで、石像置くこと能うなり。無論、今後の墓石配置の折は可及的配慮する所存なり」
 久慈くんがいつの間にか取り出していた数珠を手首に通し、合掌して宣言する。
 ふと視線を戻すと、手前に王女、その先に騎士が見える。騎士の石像の方も作業が終わったようだ。綺麗に位置が定まり、土台の方には転倒時に備えて目立たない範囲での補強が加えられている。
 陽光を受けて見た石像はいずれも屋内の蛍光灯の下で見たときよりもリアリティが感じられた。
 この石像も本来であれば、去年の学校祭で一度役目を終えている。祭の後で処分されていてもおかしくなかった存在だ。それが墓地とはいえ、こうして再び役目を帯びて立像することになった。将棋の持ち駒のように。
 「……がとう」
 傍らに居たヤマアラシが小さな声で礼を言ってくれた。それはほとんど聞き取れない言葉だったが、僕は敢えて聞き返そうとは思わなかった。

 和尚の務めが終わるまで、僕は寺の手伝いをしたり、談話をして過ごしたりしていた。
 気づけばすっかり日も暮れてきていた。和尚が本堂に待っていると聞いて、僕たちは向かうことにした。
 本堂はとても広く、たった3人では落ち着かないほどであった。用意されていた座布団に正座をする。将棋道場で多少鍛えられているといっても、普通の男子高校生よりはと……いうレベルだと思う。久慈くん、僕の足が痺れる前に速攻で決めてくれ! そう心の中で祈ることにした。
 「一斗和尚、折り入っての話があり……」そして、久慈くんは切り出した。
 墓石のいたずらの謎がとけたこと。いたずらの主が改心してくれこと。
 謎が解明し、事態も収束できたと一斗和尚は普段以上に柔和な表情を浮かべている。機は熟したと見て、久慈くんは続けて本題に入った。
 僕がバンドのメンバーを捜していたこと。そのバンドのドラマーとしてスカウトされたこと。しばらく、その練習に時間を使いたいこと。
 すると、一斗和尚の顔からは次第に笑顔が失われていった。山頂の雲の流れのような急激な変化だ。
 やがて、一斗和尚は完全なる無表情になり、久慈くんの話をじっと聞いている。
 僕は微動だにできず、握り締めた拳の内側にじわじわと汗を浮かべることしかできない。これが、噂に聞く〈不動明翁〉。なんという威圧感だ。
 しかし、久慈くんも負けてはいない。その威圧感に声を震わせることもなく、話を続ける。血のつながっている親だから気にならない、ということではないだろう。日々の鍛錬の賜物だろうと感じた。
 久慈くんが話を終えて室内には静けさが訪れた。余りに静か過ぎて、耳の奥でキーンという高音が鳴っているような気さえしてきた。
 じっとしているのがこんなに辛いことだとは。
 やがて、一斗和尚が静かに口を開いていき、出てきた言葉は。


 「――っ喝!!」

 

 寺の建築物としての寿命が10年は縮みそうな大声が部屋一杯に響いた。
 これには、僕だけでなくさすがの久慈くんも肩をびくつかせる。
 「だからお前は未熟なのだ。助力を求められたにもかかわらず、二つ返事で引き受けぬとは! 人助けこそ大いなる修行の一環。明日といわず、今宵から準備をせい!」
 圧倒的な声量のせいで、僕たちはすぐに意味が理解できなかった。しかし、言葉の内容を消化しきると、互いに顔を見合わせて破顔した。
 ふと見ると、一斗和尚はいつもの柔和な表情に戻って茶をすすっていた。部屋の外で、秋の虫がリリリと彼らの音夜祭を始めていた。
 
 *****
 
 こうして、僕たちのバンドは準備が整った。次の日、久慈くんは早速ドラムの使い方を覚えるため、一緒に練習に参加してくれることになった。
 始めこそ、木魚と楽器との勝手の違いに戸惑っていたが、飲み込みは早く基本的なリズムは瞬く間に習得してしまった。元々、音楽的センスも良いのだろう。
 はじめは、心配顔だった高楠先輩も今ではすっかり表情を穏やかにしている。
 また、睨んだとおり、手を動かしつつ歌うことも問題がないどころか、お手の物だった。僕と高楠先輩が高めの声なので、低音ボイスなのもバランスとして非常に都合が良い。3人で歌えば心強い。これで、ヴォーカルの問題も解決しそうだ。
 順風満帆、いいことづくめのようにも思われたのだが、一つだけ欠点があった。それは脚だ。
 キックドラムだけは何度練習しても一向に上達しなかった。「正座を続けるは容易なれど……」と坊主頭を掻く。それどころか、椅子の上に正座をしたほうがやりやすいと申告したのだ。
 これは、ドラマーとしては致命的か、一体どうなってしまうのかと暗澹たる気持ちに包まれかけたが、ここは高楠先輩が一肌脱いだ。
 腕のスキルは全く問題ないと判断し、ハイタム・ミドルタム・ロータムを思い切って取り外し、キックドラムを横倒しにして据えつけた。そして、楽譜もタムを使わないようなアレンジに変更をした。
 「まあ、場合によっては、コンピュータの方に打ち込んじゃうこともできるから」
 キックドラムをキックしないなんて、禅問答のようだったが、試してみたところこれは非常に上手い具合にはまった。
 「拙僧のために忝い……」久慈くんはポケットから数珠を取り出すと、高楠先輩に手を合わせる。ってすごいな、数珠を携帯してるのか。
 僕のギターの方も、日々の練習の甲斐があったのかはじめのころからは見違えるようになってきた。少なくとも、失敗しても明らかなミスと思われないようにできるレベルには達してきている。
 ブブブブ……、卓上に置いてあった僕の携帯端末が振動した。発信元を見ると奥地会長だ。
 「はい、瀬田です」
 「瀬田部長、5件目が発生した。今度はヘビの様子。しかし、少し今回は不可解な点があり。口頭説明が難しいため、生徒会室までご足労いただきたく」
 不可解? しかし、ここで考えていても仕方ない。奥地会長の言うとおり、対面で説明を聞く方が早いだろう。
 ちょうど練習時間も終了になったので、僕はすぐに生徒会室へ向かうことにした。
 生徒会室の扉を開けると、奥地会長と脇に初対面の男子生徒がいた。体格はどちらかというと痩せ型だが、眉が太くてたくましい。
 「本郷部長。こちらが、先程話していた特別調査顧問瀬田部長です。瀬田部長、ご足労感謝します」
 「いえいえ」
 「まずはこれを」
 奥地会長が僕に紙を手渡してくる。それにはこうあった。

 『しなやかなヘビの模型。しばらくの間、お借りします』
 
 紙の大きさや活字のサイズもこれまでと全く同じだ。一連の流れの一つと見て間違いないだろう。
 「どうしてあんなマニアックなのだけ狙われたのか……。いや、全部持っていかれても困るんだが、訳が分からなくてさ。君もおかしいと思うよな? 祭の展示にも使おうと思っていたのに……」本郷部長が頭を掻き毟りながらため息をつく。
 「確かに訳は分からないですけど……。たて――」
 立て続けに災難ですね、と言いかけたところをすんでで飲み込んだ。もしかして……。
 「あ、いや、すみません。念のために確認させていただきたいんですが、正式名称は何部というのでしたっけ?」
 「正式名称? ああ、海洋生物研究部だよ」
 その答えを聞いて、僕はほっとした。被害がヘビと聞いて、僕はてっきり爬虫類研究会だと思い込んでいたから、うっかり盗難事件が複数起こっていることを漏らしてしまうところだった。本郷部長が『どうしてあんなマニアックなのだけ』と言ってくれたおかげで助かった。
 やりとりを見ていた奥地会長も、僕に部活や盗品についての説明を十分にしていなかったことに思い至ったようで、
 「そう、実際に盗まれたのはオオウナギの模型だったにもかかわらず、置かれていた声明文には『ヘビ』とあり」と補足を入れてくれた。
 確かに、妙な話だ。今までは盗品と声明文は一致していたのに、今回は違っている。一致していないといけないというルールなどないのだが、犯人の行動がデタラメになってしまうと推理の難しさは跳ね上がってしまうだろう。
 すると、本郷部長がはっとした表情を浮かべて、恐る恐るこう言った。
 「奥地くん……。これ、もしかして『ヘビ研の呪い』なんじゃ……?」
 ヘビ研?
 「もう3年以上前の話。それは考えづらく」奥地会長も否定はするものの、その表情は険しいままだ。知らないのはどうやら僕だけのようだ。
 「すみません、『ヘビ研の呪い』というのは?」
 「あ、あぁ、元々は生徒会や一部の部活の連中しか知らないことだしな……」そう言って説明をしてくれた。
 数年前、大矢高校にヘビ研究部という部活があった。部員はたった1人、しかしヘビへの執着心が物凄いこともあり、陰ではマムシと呼ばれていたそうだ。
 マムシは大矢高校でヘビを扱うのはヘビ研のみであるべきだ、という偏屈家で、爬虫類研究部がヘビを取り扱うことだけでなく美術部員がヘビを描くといったことさえ禁止しようとした。
 いくつかの部活からの嘆願を受け、当時の生徒会もヘビ研への勧告を出したものの、今度は表立たない陰湿な手口の被害が続いたと言う。
 それ以来、ヘビを取り扱う可能性のある文科系部活動ではマムシが卒業した今もヘビをタブーとして扱っているらしい。
 しかし、5件目だけ考えるならまだしも、1件目から4件目についてはそれだと腑に落ちない気がした。
 オオウナギをヘビだと主張するなど、『馬鹿の故事成語』のようだ。犯人は、見間違えたのだろうか。それとも……

 どうしても、『ヘビを盗んだ』という事実を作りたかった理由でもあるのだろうか。

 *****

 夕飯の後、リビングのソファのところに行くと、母が食後のコーヒーを飲んでいた。
 「……桂夜も飲む?」
 「いや、いいよ。こんな時間に飲むと眠れなくなるから」
 親父は基本的にテレビを観ないが、夜のニュース番組だけは欠かさず観ている。理由は簡単で、我が家は新聞を朝しかとっていないからだ。
 ニュース番組の間に、大手コンビニチェーンがクマッタとのコラボレーション商品を販売している旨のCMが流れた。
 「あ、あのクマッタの原作者って、大矢高校出身なんだって」
 「……ほぉ。さすが、大矢高だな」
 ニュース番組の内容は、とてつもなく大きなカボチャが実ったとか、紅葉シーズンに向けて準備を進める地域の話題などが中心だった。つまり、今日も平和な一日だったということだ。
 「……さて寝るか」
 ニュース番組が終わり、親父が立ち上がる。ただいま、夜の20時。早寝早起きにも程がある。よくコーヒー飲んですぐ眠れるものだと感心する。
 入れ替わりに母親がやってきた。そうか、推理もの番組の時間だ。母はバラエティが好きだが、推理もの番組はもっと好きなのだ。
 番組のオープニングミュージックが流れている中、母は卓上の新聞を手に取るとラテ欄を開き、
 「今日の犯人はこの俳優ね」と呟いている。
 「あのさ、それじゃ面白さ半減しない?」僕は思わず突っ込みを入れる。
 「だって、トリックの方に集中したいでしょう」
 まぁ、確かに大御所俳優が見せ場の無いまま、番組終了というのはテレビ的にはまず無い話だろう。その時点で小説よりテレビの方が分が悪いんだろうなぁ。
 「ふむふむ、俳句教室の師匠が被害者か……。すると、その設定を活かしてダイイングメッセージが俳句とか、季語あたりを暗号にするとか……」母はぶつぶつと呟いている。本当に番組制作者泣かせである。
 とそのとき、予期せず〈跳躍(リープ)〉がやってきた。
 あの盗難騒ぎがなんらかのメッセージを訴える類のものだとしたら大失敗だ。これまでに、生徒会や各部をはじめ、僕たちは何も理解できていないのだから。
 逆に、これは知られては欲しくない類のメッセージ、と考えるべきなのではないだろうか。そして、知られたくないメッセージ――暗号を作るならば、自分が他人より詳しいものを題材に選ぶはずだ。
 僕は、そのままリビングの家族共用パソコンに向かい、WEBブラウザを立ち上げた。そして、携帯端末を開きながら調べを進めていく。
 すると、僕の考えを裏付けるようなページがいくつかヒットしはじめる。そして、散り散りだった情報が意味を成し、一つにまとまり始める。
 そして、確かあの人たちのフルネームは……。自室に戻り、念のため確認して確証を得た。僕は、携帯端末を操作して電話を掛けはじめる。
 「……あ、夜分すみません。瀬田です」
 「瀬田部長。もしや」
 「はい。犯人の目星がつきました」電話の相手、奥地会長は「おぉ」と小さく声を漏らした。しかし、本題はそれだけではない。
 「ただ、今はまだ静観してほしいんです」
 僕が続けたその言葉に、電話の向こうから奥地会長が一瞬息を詰まらせた様子が聞こえてくる。
 「……アロマ研究部部長が、事と次第によっては、教員側に報告をすると相当息巻いており。生徒会としても、被害がこれ以上続くのは――」
 「――続きません。恐らくは」
 そして、再び数秒の沈黙が生まれた。先に言葉を発したのは奥地会長のほうだった。
 「……承知した。この件について、瀬田部長を信任したのは私自身。
  ところで、『今はまだ』ということは何かしらの策があると?」
 「はい。この件は、犯人が自分から行動の過ちに気づいて、納得しないと終われないんです」僕の脳裏に、網諾寺の教えがよぎる。
 「今から言う人を、音夜祭の俺たちのバンドの演奏のときに、できるだけ前で見物するようにしてほしいんです」
 「お、音夜祭に?」声の調子から、さすがの奥地会長もやや虚を突かれたようだ。
 それでも、確証めいたものを感じてくれたのか、乗りかけた船に開き直ったのか、それ以上問い返さず一言「承知した」と応じてくれた。

 *****

 金曜日の放課後になった。学校祭、そして音夜祭まではあと一週間だ。軽音楽部の部室の片隅で、僕は緊張の面持ちで腰掛けていた。
 視線先には、紙面を真剣に見詰める高楠先輩の姿。読んでいるのは、僕が書き上げた詞――音夜祭で僕たちが歌うことになる歌用の――だ。
 素人が数日で作り上げたものだ、ダメ出しが出るのは当然、そう心に言い聞かせ続けているが、やはり否定的な言葉はなるべく聞きたくないのが心情だ。
 やがて、高楠先輩が口を開いた。
 「うーん……、選択したキーワードとか、統一性みたいなものがやっぱりアマチュアっぽいけど……全体的にいいんじゃないだろうか」
 「あ、ありがとうございます……」最悪、作り直しを命じられるところまで覚悟していただけに、ありがたい限りだ。もしかしたら、残り日数が少ないことのほうを心配してのおまけ合格といった位置づけかもしれないけれど。
 「拙僧も好感なり。意図するところ、網諾寺の説法にも通ずるところあり。今宵、和尚にも……」
 「わっ、勘弁勘弁! さすがに、それは恥ずかしすぎるから」
 その後、練習のローテーションが回ってきて、僕たちは初めて歌詞入りで曲の練習を行った。初めてということもあって、歌詞はところどころ間違えたり、演奏の方がおろそかになったりと散々だった。
 「……」
 しかし何か、大きなものを一緒に作り上げている、そんな感覚が今まで以上に得られた。片付けをして、部屋を他のバンドに譲った後も余韻は残っていた。それは二人も同じだったようだ。少ない時間に少し焦りを感じていた表情は、明らかに良いほうに変化してきている。
 「それじゃ、土日も頑張ろう」高楠先輩の言葉に、僕も久慈くんも力強く頷いた。
 
 *****
 
 それから一週間は瞬く間に過ぎた。
 生徒会からの依頼もめどがついており、音楽の方が軌道にのってきたおかげで、学業や将棋部の方も並行して進めることができている。非常に良い状態だ。
 明日が本番となる金曜日、音夜祭のリハーサルを体育館で行った。体育館は今まで練習してきた場所に比べ、圧倒的に広い。これは相当音量を出さないと会場を盛り下げることになってしまうだろう。
 もう、この音量で練習をできる機会ないだろうから、ある意味では一発勝負という状況は避けられそうに無い。
 廊下で高楠先輩らと別れて、どうしたものかと思っていると、携帯端末が揺れているのに気づく。詳細を確認してみると、福路くんからのメールだった。
 どうやら困りごとが起きているとのことで、僕は求められるままに1年4組の教室へ向かった。
 教室に着いて入口から見回すと、見慣れた銀縁メガネを発見した。と、傍らに一人の女子がいる。
 「おぉ。瀬田くん。待っていたよ」
 形式的な挨拶もそこそこに、傍らの女子を紹介してくれた。
 「こちらが、蒼井妃冨さん、だよ」
 「……はじめまして~」
 お、やっぱり。二人の間の距離感からおそらく恋人同士の関係、とくれば福路くんの彼女である蒼井さんだろうとは思っていたが。
 緩い縦ロールに少し眠そうに垂れた瞳。その全体的におっとりした雰囲気は『お嬢様』と呼ぶのが相応しそうなものだった。とても、名前の漢字を間違えただけで口もきいてくれなくなるように人は見えない。
 「彼が瀬田桂夜くん。困ったことがあったら、彼に相談するのが一番なんだ」今度は僕の紹介か。簡単に「瀬田です」といって会釈する。
 「それで、用件っていうのは……?」
 事情は蒼井さんのほうが話してくれた。
 「……実は~、学校祭で~チョコをね~出す予定なんだけど~」
 きっと話し方のせいだが、内容の割りには、非常に長い説明だった。まとめると次のようなものだった。
 蒼井さんは料理研究部に所属しており、学校祭で事前に作ったクッキーなどのお菓子を販売するのだという。蒼井さんは箱入りのチョコを出す予定なのだそうだ。しかし、チョコを一回り大きくしてしまったため、反比例するように個数が少なくなってしまったのだと言う。
 「ホントにおっちょこちょいなんだよ。数を確認してたらまだ溶かして作り直せたのに、ココアパウダー掛けてから気づくんだからなぁ。」
 12個入りを10箱作る予定だったため120個必要なところ、出来上がった個数は117個。3個も足りない。
 売上ノルマもあるため、なんとかして10箱分作りたいのだというが……。
 「困ったわよね~」頬に手をあてて小首をかしげる蒼井さん。その様子だけでは困り具合が今ひとつ伝わってこない。
 「11個入りを10箱作るんじゃダメなの?」
 「普通に考えたら、そう思うよね」福路くんがそう言いながら、意味ありげに蒼井さんの方に視線を移す。
 「でも~、そうして3×4のに入れると、1つ空いちゃうじゃない~? クレームがきちゃうと困るわ~」
 まあ、買った商品の中身に空の部分があったら入れ忘れだと思うのが普通かもしれない。予め説明をしていたとしても、文句を言う人は「説明不足だ」などごねてくるだろう。
 「箱の区切り方を変えることはできないの? 2×5とか」
 「間仕切りはまだ作ってないからできるわよ~。でも~」
 「でも?」
 「10個で500円じゃ高いって思われそうじゃない~」
 10個だと少なすぎ、11個だとうまく配置できない。そういう不思議な悩みなのだ、と僕は理解した。視線を移すと、福路が苦笑いしているのが見えた。恐らく、このほわわんとした雰囲気と裏腹になかなかの頑固者なのだろう。
 「そういうことだとすると、個数は11個。で、いかに不自然じゃなく配置するか、ってことでOK?」
 「そうね~」
 11個、11個。頭の中に色々な配置パターンを考えてみるが、なかなかしっくりくるものはない。
 「こうやって中心から放射状に仕切れば、一応、11等分になるけど……」
 「箱は長方形だから、ちょっと苦しいわね~」
 「じゃあ、一列に11個並べるのもダメか……」
 その後も20本のタバコの7・6・7の収納の方法を参考に、4・3・4の並べ方も試してみたがやはりうまくない。もし「なんで真ん中だけ3つなの?」と問われたとして、それに答えられないのだから。
 こうしてああでもないこうでもないと、3人で考えているうち、僕は先日の将棋部の展示の会議のことを思い出していた。あのときも、美月の一言から次々と面白いアイディアが浮かんできたんだっけか。
 「ん、待てよ……」
 〈跳躍(リープ)〉してきたイメージをキャッチし、手帳に線を引いていく。ここが枠だから、線の数はこうなって……。
 「こんな感じのはどうかな」
 二人が覗き込んでくる。が、表情は冴えない。「えーと、どういうことだい?」ややあって、福路くんがおもむろにそう切り出した。
 改めて自分の作図を覗いてみて納得。試行錯誤したり、慌てて描いたためか、線が歪んでいたり補助線が邪魔になったりしている。
 僕は、最終的な線を太く濃くトレースして、再び二人に提示する。「これなら、どうだろう?」
 「……」
 4つの眼が僕の描いた線をじっくりトレースしている。そして、
 「これ、僕はナイスアイディアだと思うよ! ね、ひとみん?」
 「そうね~♪」
 一番の難関は、蒼井さんが納得できるかだと思っていたが、どうやらそれもクリアできたようだ。安堵していると、蒼井さんが何やら手許の布袋をごそごそといじっている。そして、中から白い紙袋を取り出した。
 「それは?」
 「これが、例のチョコよ~」そういって、紙袋を広げる。中には、ピンポン玉より一回り小さいくらいの茶色い玉がたくさん入っていた。ココアパウダーがまぶされているのか、表面は粉がふいたようになっている。
 「それ、どうするんだい?」
 「え~? こうするにきまってるでしょ~」
 言うなり、蒼井さんは中の一つをぱくりと口に頬張ったではないか。そして、
 「11個詰めだから、7個は余るわけでしょ~。二人もどう~?」
 なんとも、マイペースな人だ。しかし、ありがたい申し出ではある。福路くんとしばし顔を見合わせていたが。
 「じゃ、遠慮なく」甘い誘惑に勝てるほど、昨今の男子高校生は強い生き物ではない。

 今思い出しても、口の中にチョコレートの甘さが蘇るようだ。
 僕は〈まめしば〉へ向かっていた。ちょうど、入荷された新豆を親父に頼まれていたこともあるが、僕の方も以前にマスターに頼んでいたあるものを受け取ろうと思っていた。
 「こんちは、マスター」
 「い、い、いらっしゃい」
 マスターは僕の姿を見るなり、手際よく豆の計量をはじめた。いかにも常連客という扱いだ。
 「例のアレ、できてます?」
 ザザザと豆を袋に詰めているマスターに尋ねる。マスターは振り返ると、小さく頷いた。戸棚から、小さな袋を取り出すと僕の方に差し出してきた。
 「あ、あ、開けてみて」
 マスターに促されて小袋を開くと、中からリップクリームをふた周りほど小さくしたような円筒形のものが出てきた。その先には細い紐が輪を作っている。うん、イメージどおりだ。
 「ありがとうマスター、イメージどおりすよ」
 「そ、そ、それは良かった」マスターは嬉しそうな顔を浮かべる。な、な、中には、〈ヴォンレスファーム〉のを入れてみたよ。あ、あ、あそこのは香りが一際いいから……」
 しかし、カウンターの下にあるショーケースを覗いてみると、ちょうど〈ヴォンレスファーム〉の籠だけが空っぽになっていた。
 「あの、〈ヴォンレスファーム〉ってもう無いんですか?」
 「ご、ご、ごめんね。れ、れ、例のアレ作った後にちょうどお客さんが来て、全部買ってっちゃったんだよ」
 「そうなんですか……」
 せっかくなら、そのコーヒー豆自体も自分用にキープしておきたかったのだが、そこまで予めお願いしていなかったのは手落ちだった。致し方ない。
 視線を少し右に移すと、カウンターの脇のもう一つショーケースの異変に気づいた。中には、小さなチーズケーキやミルクレープなどが陳列されていた。はて、以前はここもコーヒー豆が入っていた気がするが……。
 「あれ? ここってケーキ入ってましたっけ?」
 「そ、そ、そのケーキはね。じ、じ、実は……」
 マスターの話を聞いて、僕は驚いた。なんと、これらのケーキは、あの極度のあがり症の女性記者・加納瑛子さんの手作りなのだというのだ。
 元々、ケーキ屋を開きたいと思っていた加納さんはどんな経緯か新聞社に就職して力を発揮できずに悶々としていたところ、この〈まめしば〉に出会った。
 コーヒーの美味しさを堪能するうち、昔の夢を思い出したという。お金を払ってでも自作のケーキを置かせて欲しいという加納さんは嘆願した。本来であればあまりに突飛なお願いと思えたが、そのケーキを一口食べると、マスターは快諾したという。
 お互いに、人付き合いはそれほど得意ではないものの、自分の信念は妥協せず突き進める強さは持ち合わせている。当人達が気づいているかは分からないけど、なかなか良いコンビなのではないだろうか?
 代金を支払い、マスターに別れを告げる。
 「が、が、学校祭、明日だったかな。す、す、少しだけ遊びに行くよ」
 「お待ちしてます」
 せっかくだから、加納さんと一緒に来たらどうですか? 僕は、心の中だけでそう付け加えた。

 

 小説『Fall on Fall =俯瞰の秋=』(4/4)に続く