総村スコアブック

総村悠司(Sohmura Hisashi)の楽曲紹介、小説掲載をしています。また、作曲家・佐藤英敏さんの曲紹介も行っております。ご意見ご感想などはsohmura@gmail.comまで。

小説『Sum a Summer =総計の夏=』(5/5)

第五章 『7月7日(月)』

 

 放課後になった。勝負のときは確実に近づいている。一旦、部室で待ち合わせ、最後の打ち合わせを済ませることにした。
 開始予定時刻まであと20分ほどだ。美月は詰将棋の本を読み、泉西先生は瞑想(?)をしている。
 美月は普段どおりの無表情。特に緊張している様子は無い。
 泉西先生もまた落ち着いているように見える。毎日人前に出る教師だから……というわけではなく、こちらも単純に性格のような気がする。
 緊張し始めているのは僕だけか……。
 「よ……し、そろそろ――」
 開始予定時刻まであと10分になったところで、二人に声を掛け、僕たち将棋部は戦いの場へと出陣した。
 
 サーバールームに着くと、大江老人と斎諏訪が既に会場設営を終えて待っていた。
 「3人来た、とぃぅことは不戦敗を告げに来た訳じゃなさそぅだな」
 「もちろん……」
 不敵な態度に泉西先生は大いに眉をひそめ、美月も僅かに眼を細めた。
 「結構。今日の勝負に挑む、我が電算研究部のメンバーを紹介しょぅ。先鋒の〈ヴィシュヌ〉、中堅の〈シヴァ〉、大将の〈オーディン〉だ」
 確か、インド神話でヴィシュヌは創造、シヴァは破壊を司る神だったはずだ。詰将棋の創造と、その破壊にそれぞれイメージを重ねたのだろう。
 オーディン北欧神話最高神にして魔術と知識と戦の神だ。
 なかなか凝ったネーミングではないか。
 「将棋部は、先鋒が顧問の泉西先生、中堅が部員の織賀美月、大将が部長の瀬田桂夜だ」
 紹介すると、斎諏訪は美月の全身を品定めするかのように観察している。さすがの斎諏訪も、部員に女子――それもなかなかの綺麗どころ――に少なからず驚いているようだ。
 「ほんじゃ、始めようかいの。今日、立会いを務める大江澄輝じゃ」大江老人が立ち上がり、挨拶を行う。
 「電算研究部からはコンパイル済みプログラムを3本、既に預かっておる。また、〈びすぬ〉と〈しば〉は共にスタンドアロン――即ち、両者の間で情報のやりとりをしていないことはワシが保証しよう」
 「分かりました」元々、斎諏訪は俺との勝負以外は前座だと位置づけていた。だから、不正をする理由はないと思っていたが、その言葉のおかげで心配事はひとつ消えた。
 「まずは、一戦目の『詰将棋解き』より行う。各位準備を」
 大江老人に促され、泉西先生と斎諏訪が前にでる。
 「はっはっは。問題を作ることにかけては、右に出るものはいないぜ!」
 「……」
 斎諏訪も国語のテストでは一杯食わされた口なのか、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。
 立会いの大江老人が二つの小箱にそれぞれ将棋の駒が入れ、それぞれ数回揺する。そして、それを泉西先生と斎諏訪の前に置いた。
 斎諏訪は小箱に腕を入れると、躊躇いもせず手を抜き出す。その手の形はさながら玉杓子のようだ。眼一杯の駒を取り出した。
 駒の数が少なくても手数の多い問題は作れる。しかし、難易度はどうしても落ちてしまう。
 第二戦でコンピュータの演算速度を最大限に生かすためにも、駒の数の多い複雑な問題が有利と判断したのだろう。
 当然、複雑度が高いと作成に時間が相当かかるはずだが〈ヴィシュヌ〉の性能に相当自信を持っているのだろう。
 しかし、こちらも無策で臨んだわけではない。
 「HAHAHA! その程度か。俺のを括目して見ろっ」
 対する泉西先生が取り出した駒を見て、僕は確かに括目してしまった。
 飛車2枚、角行1枚、金将2枚、銀将2枚、桂馬1枚、香車3枚、そして歩兵が12枚……。
 って、話が全然違うじゃないかー!
 「子供の頃、飴玉の掴み取りコーナーを駄菓子屋の経営危機の原因に転じさせた腕は伊達じゃないぜっ」
 「だーかーらっ。そんなに駒取っちゃってどうするんすか――!」
 してやったり顔の泉西先生に僕は精一杯批難する。当然、あとの祭なわけだけど。
 僕たちの作戦はこうだった。
 泉西先生が「大学生の頃、麻雀で鍛えた盲牌の力をいかんなく発揮できるぜ」と言っていたので、既存の長手数詰将棋を再現してもらうことにした。
 盲牌とは、指先の感覚だけで牌の表面の文字を読み取るテクニックだ。木製でもプラスティック製でも、ほとんどの将棋の駒は表面が彫って文字を作っているので、この能力が活かせるわけだ。
 僕の叫びなのか、読心したのかは不明だが、泉西先生ははっとなり「すまん、つい……」と頭を掻いている。全く、この人は……。やはり、僕か美月が先鋒を兼任すれば良かったか。
 兎にも角にも、勝負は進めざるを得ない。
 泉西先生はカーテンを一枚隔てた向こう側で問題を作成、完成したらそれを大江老人に入力してもらう手はずになっている。
 ちなみに斎諏訪は、〈ヴィシュヌ〉を起動するだけとのことだ。完了したら、画面にその旨だけが表示されるらしい。確かに、作成途中を見てしまっていると、詰将棋解きのときに斎諏訪が有利になってしまう。
 泉西先生が自ら選んだ駒を両手に持ち、カーテンの向こう側に行こうとする。
 「センセ」
 「……?」
 美月が泉西先生を呼び止める。その顔は僅かに青醒めている。
 「頑張って」
 「ん、あ……ああ」
 ある意味残酷なエールといえる。泉西先生の姿は完全に見えなくなった。
 「よし、でははじめるぞい。用意――スタート!」
 斎諏訪はモニタの前に座り、キーボードで私用する駒の種類と数を入力していく。
 カーテンの向こう側では、駒を動かしている音が聞こえ始める。
 斎諏訪は入力を終えてエンターキーを一度押す。そして、腕組をしたまま、自信満々の表情を浮かべている。
 1分半が経過した頃、斎諏訪が呟いた。
 「……〈ヴィシュヌ〉が作り終えたようだな」
 モニターを伺うと「作成完了 01:34」とだけ表示されている。
 その後、制限時間ギリギリで泉西先生が「できた」と声をあげ、作り終えた合図を送ってきた。大江老人と入れ替わりに、泉西先生が戻って来た。
 「HAHAHA……。なかなかの力作だぜ……?」
 すっかり憔悴しきっていた。最初の勢いはどこへやら、だ。
 いやしかし、不戦敗を選ばなかったあたりは、評価してあげなければならないかもしれない。
 一戦目で作ったこの問題は、二戦目で初めて解くため、現段階では勝敗は確定できない。しかし、二戦目の重要さは増したといえるだろう。
 
 「さて、次じゃ。詰将棋解き行う。各位準備を」
 大江老人に促され、美月と斎諏訪が着席する。美月の前には、問題が解けたときに合図を出すためのボタンが置かれた。(〈シヴァ〉が解けた場合は自動的に同じ音が出る仕組みらしい)
 いよいよか。僕は、美月の表情を伺う。
 いつもの無表情。しかし、それが逆に僕を安心させた。いつもの、いつも通りの美月でいてくれれば十分勝ち目はある。
 斎諏訪は指を鳴らし、キーボードのフォームポジションに両手を置く。
 「キミ、瀬田に弱みでも握られてんのかぃ?」
 「……」
 「キミみたぃな女子が将棋やるはずなぃもんな」
 「……」
 それに関しては僕も初対面のとき、同感だったが。
 「かわいそうに。こんな勝負に狩り出されて、敗北感まで味わわされるなんてな」
 コンピュータの演算にニンゲンが適うわけが無い。それについては僕も同感だ。だが、美月は普通のニンゲンはないのだ。そこだけは認識が違う。勝負はまだ負けと決まったわけじゃない。
 「さて、はじめるぞい」
 大江老人がエンターキーの上に指を置く。
 「用意……」
 頼んだぞ、美月!
 「すたあと!」
 号令と、キーを押下する音と同時に、モニターに問題となる詰将棋が二つ映し出された。
 これは……!?
 僕が驚いたのも無理はない。一つは微かに見覚えがあるものだった。確か、僕が持っていた古い詰将棋の本の最後の方にあったような気が……。
 そうだ、確か37手詰めの大作だ。そこで、ハッと気づく。
 もしかして。そう思い、泉西先生の方を伺うと、片目ウインクを返してきた。むむ、そういうことだったか。
 美月は駒の種類と数から、自分がインプットした詰将棋の中に偶然一致する長手数の問題があったことに気づいたのだろう。
 そして、泉西先生を呼び止め、心の中で盤面を説明した。泉西先生は、それを盤面に再現していったのだ。
 これなら、美月にとって一問はパスしたも同然だ。将棋部的には、全てが順調に進んでいるように思えたがしかし。もう一つの問題、すなわち〈ヴィシュヌ〉の作った問題が曲者だった。
 その第一印象は……、『非常にカオス』だった。
 9×9のマス全体に散らばる駒、持ち駒も多い。パッと見、50の手数以下で詰むとは思えなかった。そもそも、本当に詰将棋として成り立っているのか。
 斎諏訪は物凄い速さでタイピングをしている。恐らく、キーの入力も効率化しているのだろう。
 美月の方は……というと。
 おい、こらこら! 頭を抱えて机に突っ伏しているではないか!
 斎諏訪が問題入力をしているこの間も、考慮時間だということを伝えていなかっただろうか。いや、確かに最後の打ち合わせでも伝えたはずだ。
 僕は後悔の念に襲われた。少し、コンピューターを侮っていたかもしれない。いくら、美月の能力が並外れたものであったとしても、無茶な対決だったのだのかもしれない。
 将棋部の存続が掛かっていたとはいえ、僕と斎諏訪の因縁が勝負の発端だったといえる。それに、無関係の美月を巻き込んでしまった。
 日頃の素振りからしても、美月は自分の能力には自信を持っている。だからこそ、無茶とはいえ『勝負で負けた』という事実が心の傷になってしわないだろうか。
 僕の苦悶など露知らず、斎諏訪はキーボードを叩くのをやめて振り返る。
 「さて、問題入力完了」
 そして、隣の美月の様子にも気づいたのだろう、斎諏訪が余裕の笑みを浮かべる。
 「悪ぃな。ぉれは女子供にも容赦はしなぃ性格なんだ。……解析開始!」

 ――ダンッ。
 
 斎諏訪が力強くエンターキーを押すと、積まれていたコンピュータ群が低く唸り始める。
 恐らく、大量のCPUを使うためファンが一斉にまわり始めたのだろう。それは洞窟の奥に潜む魔物が動き始めたかのような、不気味さを感じさせる音だった。
 
 そして。
 
 ――――ピッ!
 
 回答権を求める電子音が鳴り響いた。
 「まぁまぁのタイムか」斎諏訪が鼻を鳴らす。
 〈シヴァ〉の出した解答を読み上げようとしたところで、何かに気づき、固まった。
 僕も気づいた。〈シヴァ〉の画面に変化はない。コンピュータも、以前唸りを上げ続けている。
 電子音が鳴ったのは、斎諏訪の方ではなく、美月の方だったのだ。
 「バ、バカなっ!? 本当は解けてなんかなぃんだろ? ぁ?」
 「……」
 美月が顔を上げ、垂れていた前髪をかきあげる。
 「もしかして、バカなの? そんなことしても意味ないじゃん」
 現れたのは相変らずの無表情。歯軋りをしている斎諏訪を見つめ返している。
 「センセの方から。4二飛車……同金……」
 美月は淀みなく答え続ける。大江老人が、急いでそれを記録し始める。
 「……同桂成らず……4一玉……5一と金までの37手詰め。次――」
 丁度その時、ピッと音が鳴った。〈シヴァ〉が解き終えたのだ。本来なら、斎諏訪に勝利の喜びをもたらすはずの音だったはずだが、今はそれが空しく聞こえる。
 「4四角……、同桂……、2四飛車……、2三歩……、3四桂……、3一玉……」
 美月はなおも淡々と答えを口にしていく。
 最初は興奮していた斎諏訪も、自身の目の前に映し出された〈シヴァ〉の出した答えを目で追ううちに、表情は固まっていく。
 「……7八玉、6八竜、8九玉、7九金、9九玉、8八竜まで117手詰め」
 静まり返る室内。
 「どうなんだ?」
 しかたがないので、僕が促す。
 はっと我に返った斎諏訪が、様々な表情がごちゃまぜになったような表情を浮かべて「あ……、合ってる」と吐き捨てた。
 僕が親指を立てて「やったな」と合図を送ると、美月は僅かに眼を細めて「トーゼンでしょ」と応えた。
 「一旦、結果をまとめるぞい。第一戦目は117手詰めを作った、電算研究部の〈びすぬ〉の勝ち。第二戦目は将棋部の織賀くんの勝利じゃ」大江老人が宣言する。
 将棋部としては十二分の結果だ。泉西先生は負けてしまったが、意味の有る問題を構成できたことで〈シヴァ〉の解析時間を余計に消費させることができた。
 美月の方は、文句なしの結果だ。今、あとから検証してみると、勝因はいくつかあったことに気づく。
 まず、泉西先生との連携プレーにより、実質的に解くべき問題が一問だけに減り、〈ヴィシュヌ〉の問題に集中できた。
 そして、美月の『演算』能力は想像以上だった。正直、僕もここまで凄いものだとは思っていなかった。
 突っ伏していたのは、視覚情報が遮断するため、頭を抱えているように見えたのは耳を塞いで聴覚情報を遮断していたのだろう。

 さて、これで終わりじゃない。ここからは僕の番だ。
 「調子に乗るなよ、〈オーディン〉こそ俺の集大成だ」
 斎諏訪の方も考えは一緒らしい。その眼には再び力が戻ってきている。
 「望むところだ」
 僕も一歩も引かない。正直なところ、感情の通わない未知数の敵を前にして不安な気持ちもそれなりにある。だが、戦う前から相手に呑まれていては、熱くなったとき以上に勝てない。
 〈オーディン〉の準備ができたらしい。立会い人の大江老人が振り駒を行ってくれた。その結果、先手が僕、後手が〈オーディン〉と決まった。
 一つ深呼吸する。
 そして、歩を掴むとそれを一つ前の桝に高らかな音で打ちつける。
 
 ――ピシッッ

 初手、1六歩。これが僕の選んだ作戦だ。
 「……ほう?」
 それを見て、一定以上の将棋の経験を持つ斎諏訪は呟く。
 一般的に、コンピュータ将棋の序盤は蓄積した棋譜に一致したものに従わせることが多い。。
 将棋の攻守には様々な種類がある。序盤はその可能性がありすぎて、全ての可能性を検討しようものならどれだけ時間があっても足りない。だから、過去に指された記録を利用することでその時間を大幅にカットし、疑問手を減らすことができるのだ。
 だから、それを外しに行った。
 将棋には有用な初手が大きく二つある。7六歩、2六歩だ。前者は大駒である角行の利きを通す手、後者は大駒である飛車の利きを通す手だ。ほぼ9割近くがこのどちらかであると言ってもいいくらいだ。つまり、初手1六歩を選択した時点で、〈オーディン〉の持つ知識の9割を封印しようとしたのだ。
 斎諏訪がキーボードを叩き、僕の手を入力する。すると、コンピューターが一斉に唸り始める。そして、〈オーディン〉が手を選択した。
 
 ――ピシッ
 
 3四歩。斎諏訪がディスプレイに表示された手を僕の前で再現する。角行の利きを通す有力な手だ。
 念のため、奇をてらった手を連発するのも一つの作戦かもしれないが、相手の実力が分からない以上リスクが高いと思われた。次の手からは一般的な流れに回帰させることにした。
 (ん?)
 数手進んだところで、僕は気付く。〈オーディン〉の手がすんなりと出てくることに。
 斎諏訪と眼が合う。その眼は不適に笑っていた。
 「悪いが、キミの作戦はお見通しだ」
 「なに?」
 「とぼけても無駄だよ。変わった手を指して棋譜参照を無効にしようとしただろう。だが、〈オーディン〉はそういった手は『パス』と判断するんだ」
 僕の初手がパス扱いになるということはつまり。先手が〈オーディン〉、後手が僕で始められたのと同じと判断されたわけだ。ちょうど、福路くんと昼飯を掛けたゲームのことが頭に回想された。
 9割の封印は失敗に終わったが、まだ手はある。
 
 ――ピシッ
 
 〈オーディン〉が振り飛車を選択したことを受けて、僕も振り飛車を選択した。これは相振り飛車といって、実戦例が少なく乱戦になりやすい。
 まずは、盤面を複雑にし、〈オーディン〉に疑問手を指させ、それを咎めていくことを目指した。
 序盤の駒組みが進む。
 僕は右矢倉を組み上げる。上方からの攻撃に強みを持つ囲いだ。相振り飛車の戦いは脇からの攻撃になりにくい。
 対する〈オーディン〉は端の香車を上げ、その空いたスペースに王将を滑り込ませる。穴熊と呼ばれる囲いだ。とにかく堅牢で、崩すの時間が掛かる。
 いよいよ局面は中盤に差し掛かろうとしている。
 僕はここが最も重要だと認識している。終盤の寄せ合いになれば、正確な速度計算ができるコンピュータが圧倒的に有利だ。中盤のうちに、少しでもリードしておく必要がある。
 僕は、攻めの部隊である左半分の飛車や角行をそのままに、右側で矢倉囲いの一部になっている銀将を上方に進めていく。
 「ほお。B面攻撃か。間に合うかな?」斎諏訪がなじる。
 B面攻撃とは、自らの盾や鎧で相手の武器を破壊に行くような作戦だ。上手くいけば、相手の攻撃力を奪い戦いが有利に進められる。飛車や角行を使って真っ向から攻めていくのが正道であるため、こう呼ばれる。
 当然ながら、自ら防御を崩すことになり、リスクはそれ相応に高い。正確な差し回しが求められる。
 〈オーディン〉もB面攻撃を的確に対応してくる。予想以上に手強い。
 「〈オーディン〉は世の中に溢れる棋譜を貪欲に回収し、それを取り込んでぃる。プロ棋士は勿論、アマチュアの最新の対局もな。それだけじゃなぃ。勝因分析、敗因分析も行ってぃる。つまりだ、逆転勝ちの対局の場合は、序盤は負けた側の指し手に重みを置き、終盤は勝った側の指し手に重みを置ぃて取り込んでるのさ」
 (随分、分かりやすく説明してくれるじゃないか)
 オーディンは知識に対して非常に貪欲な神と言われていたはずだ。確かに、〈オーディン〉の指し手には全くブレがない。
 僕は自分を信じて、指している。しかし、感情の無い相手を前に、指先は僅かに震えてきている。
 「……ケーヤ?」
 美月が後ろから話しかけてくる。彼女のことだ、普通の女の子のように心配げな表情で言ってはないだろう。「君、しっかりしなよ」そう言いたげな表情をきっと浮かべているのだろう。
 それでいい。美月がいつもでいてくれることで、僕もいつもを取り戻せそうな気がするのだ。
 「大丈夫」
 僕は短くそれだけ答える。
 
 ――ピシッ
 
 僕は持ち駒の歩兵を四段目に打った。〈オーディン〉の囲いから程遠い位置に。
 「なんだぁ? そのぬるい攻めは」
 斎諏訪でなくても、仮に僕が反対側の立場だったら同じように思っただろう。〈オーディン〉は構わず、僕の陣地をこじあけに来る。

 ――ピシッ
 
 僕は直前に打った歩兵を成り、〈と金〉にした。これで、働きは金将のそれと変わらない、強力な駒になった。
 しかし、その間に僕の陣地はついに決壊した。この後、続々と〈オーディン〉側の駒がなだれ込んでくるのは避けられない。
 そろそろ〈オーディン〉側の囲いにも取っ掛かりをつけていかないと、明らかに間に合わない。
 
 ――ピシッ
 
 僕の王将は盤の中央である5段目まで達していた。囲いから追われて、上部に脱出していたのだ。
 流れから見ると、攻められて王将が命からがら逃げ出している格好だ。三国志で、曹操赤壁から逃げた時のように。
 しかし、それは真実ではない。元より、勝負を開始した時点からの僕の構想だったのだから。
 「お前、まさか?」
 どうやら、斎諏訪も今気づいたようだ。恐らく、今この瞬間の盤面全体を見た者はこう思うだろう。
 
 5段目にいる王将は奥のほうまで逃げ道が確保されており、捕まえるのがまず難しそうだ、と。
 
 将棋の勝ち方は、大きく二つある。一つ目、相手の王将を詰ます。二つ目、入玉したとき相手より多くの点数であること。
 簡単に言うと、一つ目はKO勝ち。二つ目は判定勝ち、だ。
 王将を詰める場合、最も大切になるのはスピードだ。自らの王将がいかに危ない状態だとしても、相手の王将さえ先に詰ませられれば勝ちなのだ。ゆえに、駒を大量に犠牲にして、相手の王将に肉薄していくことになる。
 それに対して、入玉の場合、最も大切になるのは所有する駒の内容だ。駒を多く所有するものが勝利に近くなる。
 将棋の本質的には、二つ目の入玉はあくまでも副次的なもので、世の中の殆どの対局が一つ目を目標としている。
 しかし、それを逆手に取った一直線の入玉狙い。負けられない対局のために、僕の立てた今回の作戦がこれだった。
 入玉となる対局自体が世の中でもレアだ。ましてや、戦う前から入玉を構想として描いている棋譜などはまず皆無といえる。つまり、数多くの棋譜を取り込んでいる〈オーディン〉の強みをこの一点において、外すことができると踏んだのだ。
 案の定、〈オーディン〉は囮として自陣に残っている僕の囲いの残骸の金将銀将を歩兵や桂馬を使って取りに行こうと動いている。
 しかし、入玉において歩兵も金将も同じ1点、それは現状では非常に価値の薄い手を指していることになる。
 僕は作戦の成功を意識した。ところが。
 「モードチェンジだ。マニュアルモードに変更する」斎諏訪はキーボードを素早く動かすと、〈オーディン〉の出した手をキャンセルした。
 そして、別の手を入力する。穴熊囲いを自ら崩す一手だ。その意図が伝わってきた。
 
 穴熊を崩し、こちらも入玉する!
 
 僕は入玉のために、そこそこ駒を犠牲にしている。もし、完全に相入玉となり点数計算に持ち込まれると面倒なことになる。
 僕は、立会人である大江老人の顔を窺う。
 「問題なし、じゃ。事前に提出されたプログラムの段階から〈まにゅあるもおど〉は組み込まれていたからのう」きっぱりと突き放された。しかし、理には適っている。
 改めて斎諏訪の顔を見ると、彼は歯を食いしばり、眼を大きく見開き、顔を紅潮させている。
 負けない、負けたくない。表情でそう言っているのが強く伝わってくる。
 記憶に残っていないはずの斎諏訪の小学生時代の顔が、今の斎諏訪と重なっているような気がした。
 そいつは、その後、手にした強力なプログラミングスキルとともに今、雪辱の舞台に立っているのだ。
 だが――負ける訳にはいかないのは僕も同じだ。あの時の違うのは斎諏訪だけじゃない。
 僕の持ち駒の歩兵が〈と金〉になり、斎諏訪の穴熊を横から崩していく。
 
 ――ピシッ
 ――ピシッ
 ――ピシッ
 
 激しい応酬が始まる。
 斎諏訪は穴熊からの脱出を図る。僕はそれを防ごうとするという構図だ。
 斎諏訪は盤上にも、持ち駒としても豊富な持ち駒を持っている。入玉を図ることも十分に可能な状態だ。
 しかし、そのためには犠牲を払い、僕に多くの駒を渡さなければ成らない。そうなれば、得点差で僕の勝ちになる。それでは元も子もない。
 かといって、僕の〈王将〉を詰められるかというと、それも無理だ。
 なんとか打開しようと、なんとか僕のミスを誘発しようと怪しい手を連発してくるが、僕は冷静だった。
 そして、ついにその押し引きに決着が訪れた。
 「負け、まし……」
 声を発したのは、斎諏訪。最後の方は聞き取れないようなか細い声だった。斎諏訪の王将は鉄壁だった穴熊囲いから自ら脱出したところで、詰んでいた。
 皮肉なことに、その姿は自ら作り上げた自信作である〈オーディン〉を諦め、結果として力を出し切れなかった今の斎諏訪自身と重なっているようだった。
 僕は――、いや将棋部は完全勝利した。しかし、まだ終幕ではない。
 肩を落とす斎諏訪に僕はゆっくりと静かに話しかける。
 「……斎諏訪。将棋と他の類似ゲームとの大きな違い、お前なら分かるよな?」
 「……」
 「取った相手の駒の扱い。チェスなら、ゲームから退場してもう戻ってこれない。囲碁のアゲハマも終局後の整地にしか使われない。でも将棋はゲームの途中からすぐ味方に変わるよな。強力な敵であるほど、強力な味方になる。
 「……」
 「そして、もう一つ。将棋って、普通ここで終わりだけどさ。この後、この駒たちってどうなるんだろう」
 激しい争いを終えた戦場で。敗軍は相手を憎むだろうか。勝者は敗者を見下すだろうか。
 「持ち駒の振る舞いから考えると、きっとこうなるんじゃないかって、俺は思ってる」
 僕は盤面に並んだままの斎諏訪の駒を全て反対向きに変えていく。僕からみたら全てが味方になる向きに。
 昨日の敵も、今日は味方として迎える。そこには遺恨もなく。全ての駒が、同じ未来を向く。
 美月にはまた「もしかして、キザなの?」とか言われるかもしれない。勝者の欺瞞かもしれない。しかし、頭に不意に〈跳躍(リープ)〉してきたこの想いは、今伝える必要がある。そう直感したのだ。
 「『味方』になってくれ、とまでは言わない。俺だって高校に入るまで3年間、将棋を見放してたんだから」
 僕が、将棋をずっと続けていたと思っていたのだろう。俯いていた斎諏訪が意外そうな顔でこちらを見上げた。
 「斎諏訪のやり方でいい。将棋部のメンバーになってくれ」
 斎諏訪は再び俯き、盤上の駒を睨みつけていた。
 
最終章 『7月中旬』

 

 勝負のあと、美月に確認したところ、詰将棋作りついては想像通りだったが、詰将棋解きについては新たな事実が分かった。
 あの時、チャイムを鳴らしたとき、まだ問題は解き終えていなかったらしい。一問目を話しながら、解いたとのこと。要するに、時間稼ぎだったのだ。声にしろ、筆記にしろ、ニンゲンはアウトプットを一気にできないところが逆に有利に働いたわけだ。

 カキーン……
 
 放課後の校庭から野球部の打撃音が響いてくる。
 待ち望んだ夏休みがいよいよ来週に迫っている。夏休み中には、多くの部活では大会が開かれるため、どの部活もいつも以上に真剣に練習に励んでいる。
 それは、将棋部も例外ではない。
 結局あの一件のあと、電算研究部と将棋部の吸収合併は承認され、正式名称は将棋研究部となった(僕達は変わらず将棋部と読んでいるが)。その結果、部員も僕と美月と斎諏訪の3人になった。
 斎諏訪の作ったプログラム、〈ヴィシュヌ〉〈シヴァ〉〈オーディン〉は現在、将棋研究部の名も併記してウェヴサイトに公開している。
 〈オーディン〉は難易度の設定や勝負のできるようにチューニングされ、幅広いユーザーに使ってもらえるように改良された。
 特に、詰将棋制作プログラム〈ヴィシュヌ〉は一部の層に波紋を広げている。詰将棋作家という職業が世の中にはある。イメージとしては、自動歌作成ツールが無料公開されたようなものだから、是々非々の物議をかもしている。
 結果として、将棋部のウェヴサイトのアクセス数はあっという間に増えた。単純比較はできないが、白物家電研究部の実績に引けをとらない数字を上げている。
 この段階でも、将棋部の降格を取り消せるだけの実績を用意できている感覚はある。しかし、油断はできない。この夏休み中に開かれるいくつかの大会で優勝クラスの実績を上げたいところだ。何はともあれ、3人集まったことで、団体戦に出ることも可能になった。チャンスが広がったのは大きい。
 HOWEVER。しかしけれども。僕は、部屋を見回す。
 あの勝負以来、一応部室に3人集まるようにはなってきた。しかし、お互いのコミュニケーションはまだまだぎこちない。
 美月は携帯端末をいじり、斎諏訪はパソコンをいじっている。部屋には硬質のモノを指で操作する音がこだましている。
 えーと、ここ、将棋部なんですけど……。木製の音、響かせませんかー?
 しかし、こんなときの打開策を僕は会得しているのだ。それは。
 「美月、斎諏訪」
 呼びかけると、二人とも姿勢はそのままで、顔だけこちらに向けてくる。
 「まめしばに『作戦会議』しに行こうか」
 その言葉に、美月は携帯をカバンにしまい立ち上がり、斎諏訪はパソコンを閉じて立ち上がった。
 奇遇なことに将棋部のメンバーは全員、コーヒーが好きだという共通点があった。
 冷房もきいており、美味しいコーヒーが堪能できる〈まめしば〉は僕たち将棋部のサブ部室――いや、実質的なこちらがメインといっても過言ではないかも――のような存在となっている。
 と、その前に学内でしておきたいことがあったことを思い出す。一週間近く経ち、やっと心の整理がついたのだ。
 「ちょっと、先に門のところに行ってて。すぐ追いつくから」
 「早く来ぃょな? 小太りには日陰ですら厳しぃ季節だとぃぅことを忘れるな」
 「遅かったら、ケーヤのおごりね」
 
 向かった先は、美術室。美術部の部室でもある。
 「1年生の琴羽野さんっていますか?」入口の近くにいた生徒に尋ねる。琴羽野さんはすぐにやってきた。
 「聞かせてくれるの?」
 「えっ?」
 「推理の続きなんでしょ?」琴羽野さんは片目でウィンクをする。
 これは恐れ入った。もしかしたら、あのときの僕の思考を汲み取って深く追求しないでくれていたのだろうか。
 「これを見て欲しいんだ」
 僕は、カバンからノートを取り出して、差し出す。そこには、先日調べた『ちいさなもりのおおきなき』の歌詞が写してある。
 
  ちいさなもりのまんなかに おおきなきがありました
  ひとやおはなやどうぶつが もりにやってくるま え か
  ら(間奏)
  
  きにはおおきなえだがあり おおきなはっぱもありました
  あついなつにはかさになり みんなひるねにきたのです
  しずかにゆきがふってくる きはしろいはっぱをまとった
  おおきなあながあったから みんなあそびにきたのです
  
  きは みまもった いつまでも みまもった
  ちかづくことなく はなれることなく
  
  ひとがもりにやってきて もりのすがたをかえていく
  みちはかたいいしにかわって はやしはいえにかわってゆく
  さかなおよいでいたかわは てつのふたのしたにかくれて
  もりにいたどうぶつたちも だんだんすくなくなっていった
  
  きは みまもった いつまでも みまもった
  わらうこともなく おこることもなく
  
  ちいさなもりのおおきなきは おおきなきりかぶにかわった
  かぞえきれないねんりんは きょうもしずかにわらってる
  
  きょうもしずかにわら っ て
  る

 「なんか……随分と大人向けの歌詞だね」
 「そう。童謡っぽくないよね。これ、発生源が不明で、裏づけもないみたいで。だからちょっとした都市伝説扱いになっているんだ」
 僕は、歌詞を線で囲み、その左側にパターンの名称を付記していく。
 「文字の間が開いているところは、スローになる部分を表しているみたい。っと、こうしてできあがり」
 

図_金属板回答(改)

図_金属板回答(改)


 「こうしてみると、パターンAだけは2回連続で使われることが分かるんだ。演奏が終わった瞬間に移動するのは絶対に無理とは言わないけど、相当難しいはずだよ。だから、パターンAだけは2つあった。そして、パーツはこれですべて使い切ることができた」
 それは、歌詞の真実は別として、このオルゴールの製作者の意図した答えが、〈切り株版〉だったということを意味していると思われた。
 最初に琴羽野さんに伝えた時に、そこまで踏み込めなかったのは、世の中に浸透してしまっている常識を揺るがす可能性のある発見に僕が耐えられなかったからだった。
 既に、多くの人たちに歌われ、親しまれてきた歌。その根幹を、この僕が揺るがしてしまうことは果たして許容されるのだろうか、と。
 しかし、あれから。よくよく詞の内容を反芻してみると、「起こったことを、全て受け入れる、それが偉大なる自然」というのが作者のメッセージだと思えてきた。
 もし、今知られているような歌詞でなかったら、埋もれて、忘れ去られてしまっていたかもしれない。そうすると、どちらがこの作品にとっては良かったのか。
 いや、きっと、どちらでも良かったのだ。一旦、この歌を生み出して放った。そして、それを自然の流れにゆだねた。その時点で、作者のメッセージは確かにこの世界で意味を成せたのではないだろうか。
 だから、この事実に至った者の出すべき答えは、何かしら「応える」こと。それは、誰かに出してもらったのではなく、自分自身で出したのであれば、きっと正解だろう。
 「このオルゴール、きっとおじいちゃんが自分で作ったんだと思う」琴羽野さんは言う。
 「何か言っていたのを思い出したとか?」
 「ううん。おじいちゃん、自分の考えていることをわざと婉曲的にする人だったから。もしかしたら、この歌の作者さんとも仲の良い友達だったりしたかも」
 僕は、春先に解いた金庫の暗号文のことを思い出した。
 「私も見習わないと、だなぁ……」
 琴羽野さんは猫のような口をキュッと結び、「瀬田くん……私……。えーと、色々ありがとう」柔和な表情を僅かに真剣なものにして僕にお礼を言ってくれた。
 「ん、あぁ。こっちこそ、話をするのが遅くなっちゃってゴメン」
 僕は、美術室をあとにして校門に向かった。

 校門に走り寄ると、二人が振り向いた。改めて観察すると、美月と斎諏訪が一緒にいるのはなんとも珍妙だ。と、僕に言われてはオシマイかもしれないが。
 「ぁんだけ釘刺してぉぃたのに、何時間待たせんだょ!」斎諏訪が汗だくの額を拭いながら言う。おいおい、何時間もは経っていないぞ。
 「浮いたお金でビターチョコとクッキー食べるか……」美月は『まめしば』のメニューを携帯端末で検索して、なにやら不穏な企てをしている。
 学校を後にして、三人で日陰を選びながら進む。容姿も思考も方向性も全然違う三人だ。同じ方向を向いて声をあげながら走る野球部や、一つのハーモニーを作り上げるために互いに協調する合唱部とは異なる集団といえる。
 しかし、僕はこうも思うのだ。1+1が2にしかならないなら、人生って全然面白くない、と。
 美月も。斎諏訪も。そして、アレ(泉西先生)……も。
 多くの植物は、夏場の強い日差しをエネルギー、そして栄養に変えて成長する。そして、秋には大きな花を咲かせ、実を成らせる。
 大きな成果を生み出すためには、自分以外のものとも反応して、小さな結果を地道に地道に合算していくしかない。

 セミが去り、夜が長くなる頃。
 僕、そして将棋部の皆で出した総計はどのくらいになっているだろうか。
 僕達の夏は、まだ、始まったばかりだ。

 

 小説『All gets star on August =星の八月=』に続く