総村スコアブック

総村悠司(Sohmura Hisashi)の楽曲紹介、小説掲載をしています。また、作曲家・佐藤英敏さんの曲紹介も行っております。ご意見ご感想などはsohmura@gmail.comまで。

小説『Fall on Fall =俯瞰の秋=』(1/4)

 *****

 秋。
 運動の秋。
 読書の秋。
 芸術の秋。
 食欲の秋。
 秋という季節には、人のモチベーションを高める不思議な力がきっとある。

 そして、秋は月が美しい季節でもある。
 月は自ら光を放つことはないので、それはとても弱い光である。
 しかし、弱いがゆえに人の眼でも直接見ることができる、ともいえる。
 されど、それは夜の帳があればこそ。
 夜と月とは切っても切り離せない関係なのである。

                    ――カント・リケージ『夜の月』より

 *****

 

 第一章 『秋季将棋選手権大会』

 

 残暑がやっと落ち着いて過ごしやすくなってきた今日この頃。
 そして、9月末の期末テストが一段落して落ち着いて過ごせるようになった今日この頃。
 僕が通う大矢高校では学校祭が2週間後に迫り、数多くの部活が本格的な準備をはじめていた。
 文武両道を掲げ、四期制を採用するここ大矢高校では3ヶ月ごとに期末テストが訪れる。また、学業が疎かになれば特待生といえども簡単に部活禁止となってしまう恐怖のシステムが存在している。
 それゆえ、学園祭の準備でさえ綿密な計画のもとに行っていく必要がある。極端な話だが、学校祭が終わったらすぐ来年の学校祭に向けた準備が進められるくらいの意気込みが必要らしい。
 しかしながら。
 僕が部長をつとめる将棋部は、準備という準備を全くせず、ここまで来てしまっている。
 理由は大きく2つ考えられた。
 1つ。学園祭までのスケジュール感を持った先輩が一人もいなかったこと。3人の部員はみな1年生、今年の4月までは部員自体がゼロだったのだからこれは大きなマイナスポイントだ。
 2つ。友人の様子や、掛け持ちしている軽音楽部の様子から『何かおかしいな』と感づき、期末テスト前に顧問の泉西先生に尋ねたまでは良かったが、
 「そんなに心配すんなって。まだ慌てる時間じゃねー」
 自信たっぷりにそんなことを言っていたものだから、すっかり安心しきってしまっていた。喉元過ぎて熱さ忘れる、二日酔いになるたびに母がぼやいていたが、ニンゲンは都合の悪いことはつい忘れてしまう傾向があるようだ。今までの経験から冷静によーく考えてみれば、そこで安心するのが大いなる過ちだったのであるが、期末テストのことで頭がいっぱいで思考停止してしまっていた。
 そして、今日その話を再開していたところなのである。
 「催し物だあ? そんなの、かき氷に決まってんだろ。原価率がすげぇ低いんだよ。俺さまはバイトしたことあるから分かんだよ」
 扇子の開き具合をチェックしていた泉西先生は器用に逆切れ50%、高慢50%の配分で僕に言い返してきた。
 ……えーっと、はい?
 「面倒がらずにツッコミますね? なんで、将棋部の催し物が食品販売になるんですか?」
 「なんで、って。儲かるからに決まってるだろうが! 将棋部の予算は少ねーんだから」
 「八月の合宿、ポケットマネーだって言ってたのに、部の予算を使い込んだ人は誰でしたっけね。
  ……だいたい、かき氷なんて10月に食べたいと思う人なんていないですよ」
 「バッキャロー。地球は順調に温暖化してんだ。まさに追い風産業だろうが。それに10月っていっても、当日はべらぼうに暑い可能性があんだろ。
  っていうか、ガタガタぬかす前にこっそり校舎内に暖房入れて熱くしちまおうZE!」
 放課後の教室で、生徒と教師――いや、将棋部部長と将棋部顧問の激しい論戦が繰り広げられている。内容が至ってくだらないものであるのがなんとも情けない。
 その僕たちの両脇では、二人の将棋部部員が黙々とそれぞれがやりたいことをやっている。
 ガタタタタッ……。一人は、男子部員の斎諏訪徹(さいずわとおる)だ。体型は自他共に認める小太り。冬服への衣替えを最後まで抵抗していた生徒の一人でもある。
 ITスキルの高さを活かして、将棋部のウェヴサイトを管理している。その彼は小さなパソコンを物凄い速さで操作している。また何か、プログラミングをしているのかもしれない。
 ス、ススス……。もう一人、器用に片手で携帯端末を操作し続けているのは女子部員の織賀美月(おりがみつき)だ。今日も、端正な顔立ちながら無愛想な表情を浮かべて、トレードマークのポニーテールを結わえている。
 また、そんな外見とは裏腹に、一冊の辞書を丸ごと暗記したり、5桁同士の暗算をほぼ一瞬で計算できるほどの恐ろしい頭脳の持ち主でもある。ただし、欠点が一つある。意識が途切れると――つまりひとたび寝てしまうと――それまでの記憶が全てクリアしてしまうらしいのだ。そのため、毎日毎日律儀に行動記録や新たに得た知識を〈引き継ぎ〉する必要があるとのこと。ちなみに、このことを知っているのは僕と美月本人だけだ。
 「二人も何か言ってやってくれよ」
 しかし、二人は反応を示さない。まぁ、それも当然といえば当然かもしれない。
 将棋部の活動を通して『泉西潮成』という強烈なキャラクターを文字通り体験し、『干渉しないことが最良の策』と学習しているのだ。困ったことに僕も同意であり、事実なのでそれ以上何も求められない。
 「……分かりました。泉西先生のご意見、参考にさせていただきます」
 「おぉ! 瀬田も随分と物分りがよくなったな」
 「ただし。将棋部なので、あくまで将棋系の展示が基本にはしますよ? なお、『かき氷』だとストレートすぎるんで、『ヒョウカもやってます』とかにさせてもらいます」
 「氷菓……か。微妙に違うが、まあ、風情で押しきれそうだな! 風情万歳だっ。名機ダイヤモンドダストをメンテナンスせねばな! ふぉぉおおおおぅ、燃えてきたぜぇっ」
 泉西先生は鬨の声をあげて、砂嵐のように教室から消えていった。
 「ぉぃぉぃ、ぁんな約束しちまって平気かょ?」
 泉西先生の気配が完全になくなったのを確認して、斎諏訪がディスプレーから目を離して突っこんでくる。時折、真夏の夜の蚊のように、去ったと見せかけて舞い戻ってくるケースがあるのだ。
 「まぁ、なんとかごまかすさ。ただ、展示の概要は生徒会に予め提示する必要があるみたいで。生徒総会が月曜にあるからとりあえず今日中になんとか催し物はまとめないと、だ」
 学校祭における催し物は大きく2つに分けられる。販売系と展示系だ。
 販売系は、たこ焼きとか喫茶店といった飲食物を提供するもの。元々展示が難しい運動部や人手が割ける大所帯の部活が行うことが多い。うまく黒字にすれば部費に転嫁することができるため毎年一定以上の数があるらしい。
 展示形は、文字通り部活に関連するものの展示閲覧や体験を提供するもの。多くの人々に部の魅力や実績を伝えることで、地域からの支援や将来の部員の確保につながる可能性がある。文化系の部活にとっては一年のうちで重要なイベントの一つである。
 大矢高は街の中央にでんと位置しているため、学校祭における一般客の割合は他校に比べて多いらしい。それゆえ、どの部も気合は十分である。
 「今のところ考えているのは、盤と駒をいくつか置いて自由に対局ができるコーナーと、斎諏訪の将棋プログラムの二本立て、だな」
 「まぁ、妥当なところか」
 斎諏訪の作った将棋ソフトウェア――〈オーディン〉と〈ヴィシュヌ〉――は非常に優れており、学外からも高い評価を受けている。
 〈オーディン〉は対局型ソフトウェア、〈ヴィシュヌ〉は詰将棋を作成するソフトウェアだ。ちなみに、もう一つ〈シヴァ〉という詰将棋を解くソフトウェアもある。
 今年の夏、斎諏訪を将棋部に引き込むために、僕と美月と泉西先生(おまけのおまけで含めよう……)はこれら3つのソフトウェアと対決した。
 それゆえに、ソフトウェア自体のレベルの高さは身をもって知っているわけだ。それに、僕たち3人が展示スペースに一日中拘束されずに済むというメリットが何より大きいと思えた。せっかくの学校祭だ。参加者としても楽しみたい。
 「でもょ、それじゃっまんなくね?」
 確かに、物足りなさは感じる。他の部が少しでも祭を盛り上げようと一分一秒を惜しんで活動しているのを見ると尚更だ。とはいえ、案を考えるにも準備をするにも今からでは時間が足りなさ過ぎる。泉西先生め……。
 「なぁ、機能追加しようとしたら、学校祭までに間に合うか?」
 斎諏訪は3つのプログラムを僅か数日でゼロから作り上げている。機能追加であれば、残された時間でも十分余裕があるのではないか。
 「仕様がブレなければ楽勝だがな」斎諏訪が腕を組んで答える。これは、虚勢でもなく本心からの言葉のようだ。
 「例えば、〈オーディン〉に強さのレベル調整をできるようにして、勝ったらプリンタで認定証を出せるようにする……とか」
 「ぅぅむ……。前者は、評価関数で二番目とか三番目とか最高値を選ばねぇょぅすることで擬似的に弱くできるだろぅから……1時間ってとこか。後者は、プリンタ制御なぞやったこたなぃが、APIかライブラリをマニアがどっかWeb上に転がしてそぅだから……4時間ってとこか」
 「いや、十分だ」
 よしよし、いい感じに回ってきたぞ。ふと、傍らでここまで座って黙っていた美月に気づく。
 「美月はなんかあるか?」
 正直な話、その場の雰囲気で聞いてみたのだったが、思わぬ答えが返ってきた。
 「詰将棋で、最後にカラフルな絵が浮かび上がると面白くない?」
 「カラフルな」「絵?」男二人がそろって頓狂な声をあげてしまった。
 「ディスプレイに詰将棋を出すにしても、リアルの盤と駒の茶色にこだわることはないでしょ」
 えーと、つまり……? 僕は頭の中に意図するところを思い描いていく。すると、タイルで作られた絵のようなものが浮かんできた。
 盤を青く、駒を白にして、大空を飛ぶかもめの群れが。
 盤を黒くして駒を黄色や白したら、夜空に浮かぶ天体が。
 将棋に慣れきっていない美月ならではの発想と言っていいだろう。僕たちには全く浮かんでこない発想だった。詰まっていた排水溝が一気に流れ出すように、僕にも様々なアイディアが浮かんできた。
 「あ、じゃあ。駒の通った軌跡が図形を描くとか――」
 「――軌跡同士が交叉したときにどちらかがオーバーライドしたり、混色になったりすると複雑さが増して最後にあっとなりやすいかもね」
 「あと、指した手に応じて、音符が選択されていって、正解だったら最後に綺麗なメロディーができるようにするとか――」
 なんだか、だんだん楽しくなってきたぞ。
 ふと、美月と入れ替わりに斎諏訪が静かになってしまったことに気づく。そちらを見遣ると、奴は肩をすくめてぽつりと言った。
 「……ゃれゃれ、しばらくは暇を心配しなくてょさそぅだな」
 
 生まれて来たアイディアは実に30に上った。ただし、どれを取捨選択するかは実際に作業を行う斎諏訪に一任することにした。
 「さて、学校祭関係はこんなとこかな。あとは、明日からの大会も重要だな……」
 7月の第一回生徒総会で僕たち将棋部は第二部降格の可能性を示唆されていた。部員が僕と美月の二人だけで部活動の基本人数である三人を下回っていたこと、ここ数年の実績に乏しいこと(部員がゼロだったのだから当然だが)、逆に第一部昇格要望を出していた白物家電研究部が実績をあげていることが大きな理由だった。
 紆余曲折の結果、当時一人で電算研究部を立ち上げていた斎諏訪を将棋部に吸収し、斎諏訪の開発したソフトウェアもまた一定の評価を得たことで現状は一部を維持できている。しかし、やはり部活動たるもの大会やコンクールにおける実績が最重要のアピールポイントだ。
 部室や予算などの恩恵が得られる第一部と比べて、第二部は扱いが非常に質素になってしまう。なんとしても、第一部はキープしていきたいところなのだ。
 「ぁ~、久々でちょっと緊張してきたかもしんねぇ」斎諏訪がそんなことを言う。
 言われてみると、それは僕も同じだ。
 将棋を再開したのは4月だが、それ以来指しているのはいずれも元々勝手知ったる連中ばかりだ。大会のように、慣れない会場、初対面の相手と指すのはそれこそ小学6年生以来だから3年ぶりくらいとなる。
 しかし、僕しか知らないことだが、ここにはそれを上回るもっとすごい部員がいたのだった。
 「美月、明日大丈夫だよな?」
 毎日が初体験の連続である美月だが、将棋大会のような特殊な環境に飛び込むのは未知の世界のはずだ。部員ではあるが、何も無理を圧して参加する必要はない。ただ、明日の心配を今日の美月がしているとは思えないが、僕は思わず聞かずにはいられなかった。
 「大丈夫。ちゃんとメモもしたから」はっきりと言い切って、携帯端末をカバンにしまっている。「私服じゃなくて、制服で。部屋が寒い可能性があるから暖かい格好で。集合は9時半、大会は10時開始、18時から〈まめしば〉で反省会」
 そっちかい。って、反省会の予定までちゃっかりと……。〈まめしば〉は僕たち将棋部員共通の楽しみである『美味しいコーヒー』が堪能できる個人経営の喫茶店だ。まさか、また僕におごらせるつもりじゃないだろうな。
 「ぉぉ、『まめしば(部長奢り)』の予定なら俺のスケジューラにも登録してぁるぜ」そういって、斎諏訪は目の前のノートパソコンを指でトントンと叩いている。
 愛用の珈琲店〈まめしば〉で大会後に反省会を開こうとは言った記憶はあるし、威勢良く『好成績が出たら俺が奢るよ』と宣言した記憶も悔しいかな確かにある。
 ……今夜、財布の中身をしっかりチェックしていかないとなぁ、僕は小さくため息をついた。

 日付が変わって、10月4日。放射冷却の影響か、天気はいいものの少し肌寒い朝だ。
 自宅からまず駅前に向かい、そこからバスに乗る。流れていく秋めいた風景を眺めながら、10分ほど揺られていると、クリーム色を基調とした質実剛健な建物が見えてきた。
 東部地区の文化センターだ。敷地内には大小合わせて5つものホールがあり、音楽コンサートや演劇といったイベントにも使われている。先日も、劇団〈温暖湿潤気候〉を招き、ミュージカル『光の詩』と『奇跡の夜』を催していた。
 その一つ、研修棟の中には会議や講座が催される研修室があり、長机やパイプ椅子が処狭しと並んでいる。将棋の大会はそういった場所で行われるのだ。
 僕はバスの間隔のせいで、9時10分には到着してしまっていた。しばらく待っていると、斎諏訪がやってきた。
 「金もったぃ無ぃから、チャリで来たぜ。っぅか、暑ぃな今日」斎諏訪は上着を脱ぐと、シャツの中に冷気を取り込んでいる。
 「いやいや、全然暑くないだろ! 見ろって世間様を」
 僕が指差した方向にちょうどよく、秋風が巻き上げた木の葉がやってきたが、どうも軽い運動した後の小太りには通じないようだ。
 「そぅぃゃ、〈ラフテイカー〉って知ってるか? 孤独に泣ぃてぃる子供のすぐ傍にすぅっと現われて、笑顔にさせてしまうすごぃヤツらしぃんだが、その正体ってのが――」
 そのとき、ぞろぞろと人の群れがセンターの方に歩いてくるのが見えた。次のバスが到着したのだろう。
 その一団の中に、3人目の部員、美月が混じっていた。
 彼女はブラウンのコートに、白いマフラーといういでたちにで登場したのだが。
 「何なの?」男子二人の視線がそろって足許に集中したのを受けて、不可解そうに彼女は言う。
 「その格好、絶対浮くぞ……?」
 「ぁぁ……、そぅだな」
 美月がしてきたのは脛を覆うように、だぶだぶとなった靴下――いわゆるルーズソックスというやつだ。
 「別に普通でしょ? 大矢高にも似たような格好の子、たくさんいるし」
 「いや、確かにそうなんだけど。今日は女子の層が違うというか……。だよな、斎諏訪?」
 「ぉ、ぉぅ」
 「っていうか、ストッキングという選択肢はなかったのか?」
 「あれ、足先の方が寒いでしょ。暖かいカッコしてこいって言ったの、誰?」
 僕たちは視線を交わして、諦めることとした。押し問答になるだけだし、今から着がえてこさせるわけにもいくまい。
 こうなったら、実際に理由を身をもって本人が確認させるよりなさそうだ。まぁ、しかし確認したところで狼狽をするような性格ではないと思うが……。
 
 *****
 
 部員も揃ったことだし、待ち合わせの9時30分より早いけれど中に入ろうか、としていたところ、はるか遠方より叫び声が聞こえた。残念ながら、非常に聞き覚えのある声だ。
 「くおらあー、待ちゃーがれー」
 走ってくる人物は、紺色の和服姿。世界一残念な顧問、泉西潮成の登場である。僕たちにやっと追いつき、はぁ、はぁと息を切らしている。
 さすがに、バス会社の人たちも空気を読んで運行休止という特別サービスはしてくれなかったようだ。というか、何故本人が試合をするわけでもないのに和服? いや、ここで突っこんだら負けなのだ。
 泉西先生は深呼吸で息を整えて、「顧ー問(こーもん)様を置いていく奴があるか!」開口一番そういった。
 「部員が全員揃ったんだから問題ないでしょう」
 「問題ない……だと?」
 僕は当然の理論を突きつけたつもりだったが、泉西先生は余裕げな表情を浮かべている。
 「くくく、笑わせてくれるぜ瀬田。実はな、この大会では出場申込書に顧問の押印が必要なんだ。さてさて、俺さまを置いていっていいのかな? ん?」
 ぐ、なんて面倒な仕組みなんだ。しかし、悔しいことにここで反発するのは賢明ではないことも明らかだ。
 「……分かりました。一緒に行きましょう」
 「うむうむ。瀬田、お前、将来出世するぞ」
 「そう願いたいもんですよ」

 4人してエスカレーターで3階に向かう。目的地は研修室のフロアだ。気づくと、両方の掌にじんわりと汗が浮かんできているようだ。しかし、前後をみればそこには顔見知りの部員や顧問がいる。一人で会場に乗り込むことと比べれば、それだけで随分と気持ちは楽なはずだ。仲間の大切さを感じる。
 すると、先頭に陣取っていた泉西先生ががばっと返り返る。どんなことを言い出すかと思えば、
 「あぁ~、すっげぇ緊張してきた」
 「泉西先生がしてどうするんですか」
 「あ? お前らが優勝しまくったら、顧問の俺さまに取材が殺到するのは必定だろうが」
 「甲子園の観すぎです。それに、優勝前提を語って微妙にプレッシャー掛けてこないでくださいよ」
 とはいえ、くだらなすぎるやり取りのせいで緊張が少しほぐれたのは確かだ。本人が意図してやっているのであれば優秀な顧問といえるのだろうが。
 さらに、エスカレーターの終わりに気づかず、際に草履の踵を引っ掛けて盛大によろめく。
 「うっ、わぁっ、っと……。アブネェアブネェ。……いいかお前ら! これは、最後まで油断禁物だと言う俺さまからのありがたい訓示と思えよ!」
 「はいはい」
 泉西先生は本当に優秀な教師です。分類としては反面教師ですけど……。心に浮かびかけた言葉を慌てて将棋の内容で塗り替えてごまかす。
 3階にたどり着くとすぐ脇に『東部地区高校生秋季将棋選手権大会会場→』の看板が立っていた。矢印の方向をみると、細長い机がいくつかと、そこに座る大人の姿が見えた。机の一つには、受付の文字も見える。
 受付の脇のところには、個人戦用と団体戦用の出場申込書が置かれており、これにそれぞれ記入を済ませてから受付をするらしい。
 個人戦出場申込書は各々が、団体戦出場申込書は泉西先生が記入をした。それらを僕がまとめて係員のところに提出することにした。
 「じゃあ、泉西大先生。押印をなにとぞよろしくおねがいいたしますっ」
 少しイヤミを込めて3枚の紙を手渡す。臥薪嘗胆極まりないが、印鑑さえもらってしまえばしばらく頭を下げる機会もないだろうと思い、ぐっとこらえた。
 泉西先生は平安時代の公家がごとくすまし顔で「ふむ」と紙を受け取ると、袂に手を入れる。そして、取り乱した。
 バタバタと和服や身体じゅうを触りまくったかと思うと、周囲の床を隅々まで見回したりしている。
 「え? あの、もしかしてなんですが……。印鑑、ないんすか?」
 「HAHAHA。君は不思議なことを言う少年だなぁ」
 「正直に言ってください! あと少しで受付終了ですよ!?」
 「……無ぇよ!」
 「なんで、逆ギレするんですか……」
 部員全員で泉西先生に厳しい尋問を行ったところ、どうやら昨日の夜に町内の回覧板に押印した際にテーブルに放置したままで忘れたのではないかという推理に至った。
 「斎諏訪、いつも十徳ナイフかなんか持ってなかったけか?」
 「ぁるが? ま、まさかつぃに刺すのか?」
 「気持ちはその域だが、さすがにそれはまずいだろ……。血判でもしてもらったらどうかと」
 「バ、バカヤロッ! 指が傷物になってお婿に行けなくなったらどうすんだよ!?」
 「元々お相手なんか見つかりそうにないじゃないすか」
 「こいつ……! それに、それに。そんなん、痛すぎだろう!」
 部員と顧問の激しい応酬、傍らで申込書を書こうとしている他校の生徒が顔を引きつらせている様子が眼に入った。とりあえず、この調子では血判は無理そうなので(元々、そんなので受付受理されるかも怪しいところだ)、なんとか印鑑を入手する方法を考えるべきだろう。
 「家まで往復でどのくらいかかるんすか?」
 「タクシーでもだいたい40分はかかる、と思う……」
 「通りの向こうにホームセンターなかったっけ? 印鑑どっかで買うとか……」
 「『泉西』なんて苗字の印鑑、そうそうねぇよ!」
 「だから逆ギレしないでくださいよ」
 試合前に、思わぬところに落とし穴があったものだ。団体戦は、今日申込で試合自体は明日だからそちらに注力するということもできるが……。個人戦が不戦敗で終わってしまう、そんな消化不良な展開は素直に受け入れられるはずもない。何か、何か手はないものか。
 と、そのとき、美月がふらっと受付の方に向かい、再び戻って来た。右手には、朱肉と消しゴムを持っている。そして、消しゴムを僕たちの方に突き出してきて、
 「これで、作ろうよ」
 作る……消しゴムで……?
 理解するのに一瞬時間を要してしまったが、なるほど、それはありかもしれない。顧問の印が必要といっても、役所に印鑑登録しているものが必要ということでもないだろう。
 美月は、椅子に腰掛けて消しゴムの未使用面を剥き出しにする。そして、傍らに立っていた斎諏訪に無言で左手を指し伸ばした。
 「な、なんだょ……」
 はじめは戸惑っていた斎諏訪も、それがナイフを催促しているのだと気づき、尻ポケットから取り出すと、刃を起こしてから手渡した。
 「さてと……」
 斎諏訪の十徳ナイフを受け取ると、美月はその真っ白な直方体にすぅっと刃を入れ始める。
 ん? 左利きだったっけ? と言いかけたセリフを慌てて飲み込む。聞いたところで、ちょうど左手で持ってたから、というような切り返しをされるだけなのだ。
 そして、下書きも何もなく、美月は1平方センチメートル程のスペースに丁寧に『泉西』の逆さ文字を削っていった。
 
 *****
 
 「じゃ、受付に行ってきますよ」
 「おう。印鑑に難癖つけられたら、『印鑑は現地で作成すべし、という泉西家代々の家訓に従ったまでだ!』と逆ギレしてこい」
 「逆ギレって……。というか、多分これ見抜かれないですよ」
 『泉西』の2文字は逆さにしてもそれほど変化はない。だが、それを差し引いても、美月の印鑑は良くできていた。インクの乗りを良くするため、表面に浅く切れ目も入れたらしい。なんだか、イカの調理みたいだが、おかげで4枚の紙にはしっかりとした押印がなされている。
 おかげで、僕は気楽な気持ちで受付に向かうことができた。
 「大矢高校です」
 「はい、少々お待ちください」
 係員は手際よく手続きを進めていたが、「おや?」と呟いて脇にいた別の係員と相談をしている。
 何か記入漏れがあったかな、まさか印鑑を見抜かれたとか……などと思っていると、一瞬耳を疑うような返事を聞くことになった。
 「えーとですね、申込書のフォーマットが古いままで申し訳ないのですが、今回から団体戦は男女別になってるんですね。それでですね、一応確認なんですが、この先鋒の『織賀美月』さんというのは男性ということでお間違いないですよね……?」
 男女別……?
 ん? 男は僕と斎諏訪だけだ。とすると、団体戦出られないんじゃ?
 「ちょっとすみません、記入ミスの可能性があるので、確認してきます」
 何かしら手があるかもしれない、そう思って、僕はとっさに即答せずに後方のソファで座っている皆の方に戻っていく。
 「おぉ、優勝の手続きは済んだか?」泉西先生は扇子をパタパタ仰ぎながらそんな軽口を飛ばしてくる。
 「えーと……ですね」
 かくかくしかじか。僕は事態を手短に説明する。斎諏訪は目を丸くしている。泉西先生も、一瞬ぽかんとしていたもののすぐに何かに気づいた様子で「俺に名案がある!」と言い放った。
 「織賀が女装した男子生徒だってことにしようぜ! さすがに体調べられたりはしな――、ギャーーース!」
 言葉が途切れたのは、美月の全力デコピンが泉西先生の後頭部に直撃したからだ。
 まぁ、理論的には全くありえないわけじゃない、ないけれど。
 僕は、美月の方をちらっと窺う。……やっぱり無理だ。『織賀美月』に関しては成立しないだろう。
 整った顔立ちと容姿。『なんで、僕の身近にこんな子がいるんだろう。いつか絶対に生命の危機が立て続けに起こりそうな塞翁が馬レベル』の女子高生に化けられる男はまず存在しないからだ。
 そして、美月自身がトドメの一言。「あたしが男だってことにしたら、〈女子の部〉の方出れないでしょ」
 「か、かくなるうえは……」
 後頭部をさすりながらよろよろと蘇生した泉西先生が和服の袂からすっと布袋を取り出す。
 「こんなこともあろうかと持ってきたこいつで」そして、布袋から取り出したのは金髪カツラとパーティ用鼻眼鏡だった。
 「俺さまがこいつで天才帰国子女センセ・イショナ・リーとして出場してやろうじゃねぇか!」
 場は沈黙する。他校の生徒の視線が集まっているのは気のせいじゃないだろう。もちろん、先ほどの係員二人も訝しそうにこちら側を凝視している。
 「……はい。面倒ですけどツッコミます。何ですかその鼻眼鏡は!? 怪しさ3割増じゃないすか。普段からですけど、とにかく泉西先生は目立ちすぎなんです! 今から変装してもバレバレでしょう? それに、将棋できないじゃないすか……」
 そう、和服マニアの隠れ蓑として将棋部を選んだだけで、泉西先生は将棋ができない。顧問なのに。顧問なのに。顧問なのに。
 床に手足を着き、大げさにうな垂れる顧問を尻目に僕は決断した。しかたない、団体戦は諦めよう、と。
 「こうなったら仕方ない、個人戦だけでなんとか好成績を目指そう」
 個人戦は約8校、50人ほどが参加する。そこで3位以内に入賞できれば十分実績をアピールするには足るはず。トラブルを引き摺らず、今はできることをやるだけだ。
 僕は、個人戦の用紙を持って受付に向かった。

 ****

 試合会場の中は騒がしいようで静かな、不思議な雰囲気に包まれていた。そう、試験が始まる直前に似ている。
 とはいえ、勝負が始まるまでは久し振りに会う顔馴染みとの交流モードだ。学校の集団に関係なく会話を交わしているようだ。
 「なんか、居場所無ぃょな」
 「……ぁぁ、想像以上だ」
 隣のパイプ椅子に腰掛けている斎諏訪も同じ感想だったようだ。
 それに二人とも、小学生以来の大会だ。小学生くらいだと、必ずといっていいほど親が付き添いで来てくれるので、待ち時間なども話し相手や居場所に困ることはなかった。
 今日集まった中には、そのときに戦ったことのある奴がいるかもしれないが、確信がもてるレベルの生徒はぱっと見て、いない。勝負をしているときも基本的には盤面しか見ていないし、かすかに覚えていたとしても顔つきも昔とは随分変わってしまっていることだろう。
 僕と斎諏訪も一応は日頃より顔を合わせる間柄ではあるが、淀みなく話が続くほど豊富な話題を持っているわけではない。他校はだいたい5人から10人くらいは部員がいるようで、話の種や話し相手には事欠かないようだ。結果として、僕たちは試合が始まるのをただひたすらに待つ状態が続いているのであった。
 ふと女子の部の方を伺うと、そこもある種の人の集まり、コミュニティというかコロニーが出来上がっていた。
 「今回も水田さんの優勝で決まりかなぁ?」
 「いや、勝負はやってみないと分からないよ? 板池さんも最近調子いいって聞いてるよ?」
 「えっ、わ、私はそんな……」
 際立って話している3人はどうやら大会常連のようだ。緊張感というものが既に存在していない。うち2人はなんとなく見覚えがある。小学生のとき、女子の部で出ていたような気がする。
 視線を少しずらすと、一人ぼっちでパイプ椅子に座り、頬杖をつきながら携帯端末をいじっている美月の姿が見えた。
 大矢高校から女子の部に出場するのは美月一人だけなので、僕たち以上に『蚊帳の外』状態になってしまうのはいたしかたないところではある。
 それよりも気になるのは、周囲の視線が徐々に、その美月に集まっていることだった。
 僕と斎諏訪が思ったとおり、美月の制服姿、特にルーズソックスは非常によく目立つ。会場の女子はほぼほぼ紺か白の膝下ソックスで、スカートも長めだ。野暮ったい――じゃなくて、模範的で真面目な女学生といった風情の人たちで占められている。
 加えて、あれだけ愛想がないのに、多くの男子にあの子かわいいよな、と思わせるあの容貌。
 まぁ……、一言で言うならば『場違い』だよな。例の女子3人も美月の存在に気づいたらしく、何やらひそひそと話をしている。
 
 ――なに? あの子、知ってる?
 ――罰ゲームで来させられてる……とか?
 ――まぁまぁ、『将棋』でさ。少し思い知らせてあげればいいじゃない? 場違いってことを。
 
 そんなベタな少女漫画のいじわる役みたいな会話をしているとは思えないが、僕の方からはそれに伍する内容を想像させる視線だったのだ。
 とりあえず女子の部は例年より熱い戦いとなることは間違いないだろう。
 
 あと数分で試合が一斉に始まる、という頃になって僕達は泉西先生に呼ばれて、集まった。
 「お前ら、長殖学園にだけは負けてくれるなよ!?」鼻息を荒くして、そうまくし立てた。
 私立長殖学園高等部。学力偏差値も、部活の力の入れ具合も僕たちの大矢高校とほぼ同じくらい。
 ただ、潤沢な資本がある分、設備も生徒数も大矢高校の1.5倍くらいの規模があるようだ。今回の大会にも、14人という大所帯で参戦している。
 陸上部も、野球部も、料理研究部も、地区大会などでは大矢高校の前には長殖学園が立ちふさがるらしい。まさにライバル校といって過言ではない。
 それにしても、泉西先生の気合いの入り方は異常だ。すると、その後ろから人影が現れた。
 「相変わらず、賑やかですねぇ。ミスター泉西?」
 声の主を見ると、なんというか、一言でいうと怪しい男が立っていた。
 髪はオールバックに撫で付けられ、真四角の金縁メガネに白いスーツ。大きなカフスボタンフラクタル柄のネクタイはまだ良いとして、胸ポケットから出ている臙脂色のスカーフには度肝を抜かれた。
 「現れたな、上から読んでも何とやらめっ」唸り声を上げながら扇子を構えて過剰に反応するが、それを意に介した様子は無い。もしかしたら、泉西先生との付き合いがそれなりに長いのかもしれない。
 「諸君、はじめまして。私が長殖学園高等部将棋部第11代顧問のイマイです」
 イマイと名乗った男は、なんと名刺を差し出してきた。そこには『今井ケネス』とある。もしかして、ハーフなのだろうか。確かに、このファッションセンスは周囲にはいない類のものだ。
 「諸君、敗退してもちゃんと表彰式まで残っていてくださいよ? ギャラリーが少ないとせっかくの表彰式が盛り上がりませんからねぇ」
 「うっせぇ、その言葉そっくりそのままコピペで返したるぜ。今年はな逸材ぞろいなんだよ。こいつなんかな、将棋だけじゃなくて、俺の肩を絶妙な力加減で揉むテク、購買部のバナナジュースを往復3分で買ってこれる脚力を持ってんだぜ!?」
 泉西先生が得意げに僕の方をビシッと指差す。あの、全然嬉しくないんですけど。
 「おい、そういえばタカサゴは元気なのか?」
 「タカサゴ? あぁ、彼なら奨励会を諦めて大学に進学したようですがね」
 「ヨウデスガネ? てめぇ、連絡は取ってないのかよ。在学中はあんなに熱心だったじゃねーかっ」
 「ふ、そんなこともありましたかね。第一、毎年毎年大勢の生徒を見なければいけない立場で、卒業した生徒なんて構っていられませんからね。製品メーカーじゃないんです。充実したアフターサービスより在校している生徒に全力の指導を与える、それがあるべき教師の姿ではありませんか?
  大矢高校のように、和服かぶれの国語教師や、年中二日酔いの養護教諭、音楽家くずれの数学教師に、日本語のおかしな英語教師などなど素敵な聖職者たちなら実現可能かもしれませんがね」
 「はっはっは、謙遜すんじゃねぇよ。場末のお笑い芸人もどきの世界史教師に虚弱体質の体育教師やげっ歯類マニアの生物教師を擁する長殖学園教師陣にはとても適わないZE!」
 それまで涼しい表情をしていた今井の表情が豹変する。『お笑い芸人もどき』といった辺りが禁句だったのかもしれない。
 バチバチと、二人の間に平賀源内の作ったエレキテルを超えるかと思われる放電現象を観測した、気がした。そして、そのまま睨み合いが続く。
 先に視線を外したのは今井だった。腰の辺りから金色の懐中時計を取り出すとわざとらしく咳払いをする。
 「まぁ、威勢がいいのも今のうち。大会の結果が確定した頃、またお会いしましょう」そういって長殖学園の生徒達の方へ立ち去っていった。

 *****

 大会は予選と本戦、大きく二段階に分かれている。まず、予選として全員でスイスドロー方式の予選が行われる。
 スイスドロー方式とは、次のようなものだ。
 まず、初戦はランダムな組合せで対決させる。
 次に、二回戦は初戦で勝った者同士、負けた者同士で対決させる。
 それ以降も全勝は全勝同士、2勝1敗は2勝1敗同士というように、成績の似た者同士が対決するように繰り返していく。
 そして、最終的に成績が良いものから順に本戦のトーナメントに出場することができるのだ。会場の人数とトーナメントの枠の数を見る限り、2勝2敗でも十分本戦に出られそうだが、油断は禁物だ。
 いよいよ初戦だ。小脇にあるチェスクロックの時間を15分に合わせる。チェスクロックは持ち時間を対戦者自身が管理できるようにするための道具で、アマチュアの大会では良く使われる。
 時間を表示するディスプレイが横に二つ並んでおり、それぞれのディスプレイの上には押しボタンがある。自分の手を指したら自分側のボタンを押すのだ。すると、自分側の時計はとまり、相手側の時計が動き出す仕組みだ。
 最近はデジタルのものが増えてきたが、以前はアナログ式のものが主流だった。
 自分側のボタンを押したら、自分側の時計が止まり、相手側の時計が動き出す――という動作自体は同じだが、ボタンが押されると相手のボタンが上がるというシーソーのような動きをしたり、針が一番上の12の数字付近に近づくにつれ針が小さな板を押し上げていき、時間が切れるとその板がぶらーんと垂れ落ちて、時間が切れたことを示すといったギミックが面白い。
 相手が振り駒をして、先手後手を決めることになった。〈歩〉が3枚出て、僕は後手に決まった。
 「それでは、初めてください」
 大会委員の号令に従って、随所で「お願いします」という声が上がる。僕はすぐにチェスクロックのボタンを押した。
 自然と気合いが漲ってきた。目の前の勝負にまず勝ちたい、という純粋な想いも勿論あるし、今回は将棋部の実績作りという集団としての目標もある。
 そしてもう一つ。先ほど加わった、『打倒・長殖学園』だ。
 泉西先生の発破に単純に呼応したわけではない。先ほど、今井が去って言った後、泉西先生が珍しく真面目な表情で事情を話したのだ。
 「お前たちの3つ上の世代にな、タカサゴって男子生徒がいたんだよ。そいつ、なかなか強ぇ奴でさ。ちょうど3年前のこの秋季大会でいきなり3位になったんだよ。1年でだぞ? 奴も俺さまも大喜びだった」
 初めて聞く話だった。あの部室で、将棋を指している先輩がいた。僕が入学した時点で、将棋部は存在していたのだから考えてみれば当然の話ではある。しかし、第二部降格騒動などで奮闘している日々の中で、すっかりそんなことを忘れかけていたようだ。
 「あいつは、無口で物静かな奴だった。だけど、表情が隠せないタイプらしくてな。瀬田の次くらいに考えてることだだ漏れしてる奴だったよ。
  口には出さなかったが、ずっとプロの将棋棋士になりたいって思い続けてたんだよ。プロってのはよ、狭き門なんだろ? もしなれなかったらそっから別の職を探さねぇとダメだ。大学くらい出とかないと就職も難しい世の中だ。でも、家があんまり裕福じゃない。大矢高校なら、家から近いから奨学金とアルバイトしながらでなんとか通えると思ったんだな。
  実際、平日朝と土日の時間はアルバイトに費やしていたようだがな……。と、そこに現れたのが今井だ」
 泉西先生は、来賓席に脚を組んで腰掛けている今井を一瞥する。
 「ヤローが『特待生としてウチに来れば授業料は免除しますよ』とか唆してきやがった。俺さまは躍起になって止めようとした。今井の手口を知ってたからな。でも、あいつは2年になる直前、転校しちまったよ。
  今井はな、くだらねぇ完璧主義者なんだ。大会では男子の部・女子の部共に1位から3位までを独占しないと気がすまない。大方、3位になったタカサゴが、後々優勝争いに絡んでくるのを恐れたんだろう。つまり、引き抜きってわけだ。
  だが、話はこれで終わりじゃない。あいつは完璧主義者だって言っただろ? ヤローは、『生え抜きにあらずんば生徒にあらず』という歪んだ信条を持ってるんだ。長殖学園に転校して以来、俺はタカサゴの姿を大会で見かけたことは一度も無い。あいつはよ、生殺しにされたんだ」
 僕は対局が始まってからも、泉西先生の話の内容を反芻し続けていた。
 タカサゴ先輩は3歳年上だから、もし転校がなかったのだとしても直接会うことはなかっただろう。しかし、それでも将棋部の先輩であることに変わりは無い。
 単純に泉西先生の視点からの言葉で煽られるのは問題かもしれない。それでも、優勝のためには『打倒・長殖学園』は必然だ。久々の大会参加ということもある。僕は、大会の雰囲気に呑まれないように、敢えて〈敵討ち〉のような気持ちを自分の中に取り込むことにしたのだ。
 ちょうど初戦の対戦相手は長殖学園の1年生だった。初戦はランダムとはいえ、1年生は1年生という風に当てているのかもしれない。これは僕にとっては好都合だ。
 目の前の彼が中学生も将棋部で大会慣れしていたとしても、高校生の大会というものは初めてのはずだ。ならば、『地の利』の差は少しは小さいことになる。
 そして、戦法は四間飛車を選択した。これは、小学生のときの僕の作戦の一つでもある。
 四間飛車は定跡化された手順が多く、序盤から細心の注意を払うケースが比較的少ない。だから、緊張しやすい僕が、緊張がほぐれるまでの時間稼ぎとしてはもってこいなのだ。
 しばらく指し手がすすみ、局面は次第に明らかになってきた。
 相手は居飛車で5七銀左戦法で急戦を仕掛けようとし、僕は四間飛車でそれを迎え撃とうという構えだ。
 相手が長考に入る。先手の駒組みは飽和状態だ。恐らく、戦いを仕掛けるかどうかの最終チェックをしているのだろう。
 少し間があいたので僕は周囲の様子に気を向ける余裕ができた。さすがに、小学生のときに比べて大会の規模も大きい。
 遠くで、早くも対局を終えているのが2組ほど見えた。力戦振り飛車のような超急戦の戦型だったのだろうか。
 いや、この速さはどちらかがうっかり大悪手を指してしまった可能性のほうが高いかもしれない。駒から手が離れた瞬間に〈指し手〉は確定される。(逆に言うと、手さえ離れていなければ駒を元に戻すことはできる)縁台将棋のような〈待った〉はもちろん公式戦では通用しない。
 タンッとボタンを叩く音を聞いて、僕は相手が手を指したことに気づいた。
 やはり、仕掛けてきたか。僕もちょうど、大会の雰囲気に馴染んできたところだ。迎え撃ってやろうじゃないか。
 ――ピシィッ
 僕は突きつけられた相手の歩を堂々と取り除くと、高らかに〈歩〉を前進させた。

 研修室に付けられたルームエアコンが特別手当てを要求してもおかしくないくらい、部屋の中には高校生の呼気と熱気が渦巻いている。
 「ありません……」搾り出すような声だ。
 目の前の相手のその声を聞き届け、僕はふうと息を吐き出す。心臓がまだ高鳴っている。これで3連勝だ。
 勝っている方が、何故か最後までドキドキする。将棋は大逆転の多いゲームで勝勢の側は最後まで油断できない。逆に、負けるときは案外早い段階である種の覚悟というか諦観に包まれるので、気持ちの整理をつけやすいということがあるのかもしれない。
 斎諏訪のほうもそこそこ順調なようで、2勝1敗。二人とも、本戦出場自体はまず確定といったところだ。残る一戦の結果で本戦トーナメントのシードなどが決まるとはいえ、ある程度の消化試合ムードは避けられない。
 それに、次にあたる相手は僕と同じく3戦全勝のはずだ。本戦で再度あたる可能性が高い。敢えて主力戦法を温存して、手の内はできるだけ晒さないという考え方もある。
 一方、女子の部の方は参加人数が12人程度、男子ほど多くない。そのため、予選は本戦トーナメントのシードを決める目的のために行われるようだ。
 対局の合間にちらっと見た感じだと、もう1戦目は終わっており、今は2戦目に入っているところのようだ。
 男子のスケジュールは過密で、本来は満足な休憩時間はない。しかし、早指しが得意な僕は3戦目を比較的短時間で終えていた。
 そのおかげで、女子の部の様子を観にいく余裕が生まれていた。
 壁に貼られている結果表を見ると、例の3人組は順当に勝利したようだ。名前を探すと、美月も無事初戦を勝利で飾っていた。
 対局場の方を伺うと、辺りにはちょっとした人だかりができていた。
 人と人の間、視線の先に美月の後ろ姿が見えた。背筋を伸ばし、高い位置で結わえられたポニーテールはまるで剣道少女のようだ。
 その対戦相手は、よりによって先ほど大会三連覇を噂されていた水田とかいう女子生徒のようだ。これは強敵である。
 果たして、作戦通り上手くやれているだろうか。
 僕は今回の大会に向けて、美月に作戦を提案していた。名付けて、『速攻攪乱作戦』だ。変なネーミングだが、作戦の要諦をきっちりと押さえている気はする。
 同じ人類とは思えないほどの高い処理能力を持つ美月は序盤から終盤に至るまで思考に安定感がある。特に、詰みに関しての認識は確実でコンピュータ将棋の正確性に通じるものがある。
 ただし、敢えて言うなら序盤がウィークポイントだった。
 何を作っているかを当てる映像クイズのように、序盤は無限大に近い変化の可能性を持っている。その段階から、あらゆる可能性を計算しようとすることはほぼ不可能だし、時間がいくらあっても足りない。
 通常、そこで登場するのが定跡だ。定跡とは、ある程度実績のある有力な手順のことで、滅茶苦茶に駒を動かすのと比較して効率的に攻めたり守ったりすることができる。表現を変えるなら、記述式の回答が選択式になるようなもので、アマチュアにとっても棋力向上には欠かせない。
 しかし、それを敢えて外す。それも序盤から。いきなり大混戦にするのだ。
 定跡から外れた大混戦は、『うっかり』から一気に勝負が決まってしまうことが多々ある。すると、一手一手を時間を掛けて考えることになる。これは思考の早い美月には大きなアドバンテージとなる。
 そして、大混戦は中盤をとばして、序盤から終盤に一気に推移することも少なくない。美月の強みである終盤にいきなり引きずり込んでしまえるのである。
 もう一つ、心理的仕掛けもある。
 美月は初出場、それもいかにも将棋なんてやりっこなさそうな見た目だ。定跡とは程遠い手を指したとしたら、きっとこう思うに違いない。
 ――はは。なんだ、定跡も知らない初心者か。
 それが精査を阻み、油断を生み出す可能性が大いにあると考えたのだ。
 もっと近づいて盤面も見てみたいが、そこで「大矢高校、瀬田くん」と係員の呼び出しがかかってしまった。予選の4戦目がこれから始まるのだ。
 相手が難敵だったとしても、美月ならきっと大丈夫。心にそう言い聞かせて、僕は踵を返した。
 手合票を受け取り、盤の前に腰掛けたとき。遠くで、小さなざわめきが聞こえた。あれは……美月たちが座ってたあたりだ。勝負が終わったようだ。
 優勝候補の水田が勝ったところで、ギャラリーが騒ぐはずがないだろう。
 ということは、どうやら僕の心配は全くの杞憂だったようだ。美月は2戦全勝という最高のすべり出しをしたのだった。
 
 いよいよ、僕の予選4試合目が始まる。やはり、3戦全勝の相手だった。スイスドロー式の対戦で3連勝する実力者なわけだ。一体、どんな相手なのだろう?
 手合票を見ると名前は『園手賀 篤貴』と書かれている。
 フリガナには『ソノテガ アツタカ』と書かれていたが、音の響きにも顔にも全く記憶に当てはまる人物はいなかった。
 駒を並べていく。すると、不思議なことに気づく。駒の並べ方が独特すぎるのだ。
 駒の並べ方は、大きく〈大橋流〉と〈伊藤流〉に分かれる。
 〈大橋流〉は、〈王〉をまず置き、一番下の列を〈金〉〈金〉〈銀〉〈銀〉と左右交互に並べていき、〈飛〉と〈角〉を並べたのち、最後に一番上の〈歩〉を左右交互に並べていく。順番が分かりやすいし、力強く打ち付けてずれないように整える動きが物理的に無駄なく行えるためか、非常に人気が高い。
 〈伊藤流〉は途中までは、〈大橋流〉と同じだが、〈飛〉〈角〉を並べる前に、一番上の〈歩〉を並べていく形式だ。
 しかし、目の前の相手は、それどころか〈歩〉から最初に並べ始めたのだ。そして、一番下も、一番端の〈香〉から順に並べていき、最後に〈飛〉〈角〉、〈王〉と並べ終えた。
 駒の並べ方は自由で、どう並べても自由だ。僕が気になったのはこの風変わりなこの並べ方。昔、どこかで……。僕は古い記憶を手繰り寄せる。
 そして、僕は思い出した。
 小学生のとき、大会で何度か相手になったことがあったはずだ。近くにいた知り合いの子いわく「『主役級は後から入るべき』なんだそうだよ」
 確かに、少し我が強くて風変わりな面はあったが、実力はそこそこあった気がする。基本形や手筋は確実に抑えており、大きく崩れたりはしない。コンスタントに勝ち星を挙げて、大会でも常にベスト8くらいにはなっていたはずだ。
 しかし、優勝争いをするような強さでもなかった。記憶に間違いがなければ、大会で10戦以上はしているが、一度も負けたことは無かったはずだ。
 極力客観的に分析すると、僕の指し手の特徴は昔から『相手が予想をしていないような鬼手を、直感的に思いつく』といえる。彼は恐らく、小さくポイントを稼いで最終的にその累積でもって勝つというスタイルであり、相性のようなものが僕に有利だったのかもしれない。
 ふと見ると、園手賀が僕の手合票をじっと見ている。その後、僅かに目が合った。果たして、園手賀は僕のことを覚えているのだろうか。
 3年間のブランクを経て戻ってきたわけだが、それを尋ねられた場合反応や回答に困る。しかし、昔持っていた苦手意識のようなものを喚起できるなら勝負の上では有利に働きそうでもある。どちらだったとしても一長一短があるわけだが……。
 しかし、先後も決まり準備も全て整うと園手賀のほうから「はじめましょうか」と言ってきた。その表情を見ても、過去の云々について意識している風はない。
 これ以上詮索してもキリがないので。一旦思考を休止することにする。僕は「そうですね」と応じた。チェスクロックが押され、戦いは静かにはじまった。
 
 戦形は〈横歩取り〉となった。〈横歩取り〉とは古くからある相居飛車の戦法の一つだ。激しい急戦になる可能性が高い。しかも、日々研究が進んでおり、付け焼刃の知識では逆に足許をすくわれてしまうこともありうる。
 序盤から神経を使う将棋となってしまった。時間を気にしつつ、クールダウンするためにペットボトルの緑茶を一口呷る。
 相手の手番だが、少し思考モードに入ったようだ。僕の方に少し余裕が生まれたので、相手の容姿を改めて観察することができる。
 髪は緩やかな癖毛だ。左右の長さが違うのか、洒落っ気で分け目をいじっているのか、左目に前髪が少しかかっている。
 姿勢は、背中を反らして、あごに手をあてた状態だ。まるで、参謀が作戦を練っているようだ。プロでも熱中すると前かがみになりがちな将棋指しとしては珍しいタイプな気がする。そして、例の少年も当時からそんなスタイルで対局していた。
 間違いない、僕は彼――園手賀篤貴を知っている。
 そう思うと、気持ちが少しリラックスしてきた。無敗というジンクスが僕の頭に広がっていく。ギャンブルやテストと同じく、将棋もリラックスしている方が結果を出しやすい。
 僕がもう一度口を湿らせようかとペットボトルに手を伸ばしたそのときだった。
 ――パチッ
 園手賀が指した。
 だが、その手の意味はすぐには理解できないものだった。〈飛〉を一段下に引いただけの、まるで一手パスのような手なのだ。
 盤面を広く見回し、数秒考えてみたが、全く分からない。そのとき、たまたま持ち時間が1分減ったことを示す小さな電子音がピッとなって僕は肝を冷やす。時間切れで敗退したときのことを思い出したのだ。
 持ち時間自体はまだまだ8分もあるが、相手の意図が分からない状態で手拍子で指すのは経験上危険だ。一体、何を狙っているんだ……?
 将棋はパスができないので、自陣が最善形の場合に相手に攻めてもらうためにパスのような手を指すテクニックも確かにあることはある。しかし、持久戦ならまだしも、この急戦の局面ではその可能性は薄い。
 こんなとき、自分が泉西先生だったら相手の頭の中身が分かるのに……。そんな、叶わない空想にとらわれてしまう。
 時間もこれ以上は消費できない。僕は思い切って攻めることにした。

 *****

 盤上の駒は散り散りに乱れ、終局間近と言う状態となっている。残り時間も互いになくなり、一手30秒の状態がもう十数手続いている。
 結局、あの局面で攻めに行ったのがあだとなり、拮抗していた形勢がそこから徐々に不利になっていってしまった。
 将棋は逆転の多いゲーム。こういうときは、差が広がらないように気をつけつつ、相手のミスを待つべし。しかし、なかなか逆転につなげられそうな機会は現れない。
 相手は、着実にポイントを累積していくスタイルだから、相手の勝ちパターンに既に入りかけている印象だ。
 と、そのとき、ある手が頭に浮かぶ。それは、ゆっくりとマサカリを振り被り、必殺の一撃を繰り出そうとような一か八かの手だ。
 ただし、一撃を恐れずこれまでどおり攻め続けられたら、その機会は訪れず僕の負けは確実となる。しかし、少しでも攻めを鈍らせればたちまち混沌として逆転の礎は生まれる。
 ――ピシッ
 僕の手を見て、優位にある園手賀は手を止めた。眉を寄せて、あごに手を当てている。
 僕は内心で一息つく。対戦しているのは感情や性格を持ったニンゲンなのだ。大胆な人間、慎重な人間。様々な将棋指しがいる。そして、僕の記憶が正しければ、園手賀は石橋を叩いて渡る性格だったはずだ。
 必ず一旦受けの手を指してくるはず。盤上を混沌の海として、ここから反撃だと気合を入れなおそうとした僕は、眼を疑った。
 園手賀は駒台に手を伸ばすと〈銀〉を一つ摘まんで僕の陣の方に打ち下ろした。それは、弱気でも慎重でもなく、一直線に攻め合うことを意味する手だった。
 
 元々、攻め合いに持ち込まれた時点で敗勢になっていくことは覚悟していたが、あの園手賀が僕の知る園手賀でなくなっていたことに強い衝撃を受けて、思考が乱れに乱れていた。
 その後、僕は数十手ほど進めたが、勝負手が悉く空を切り、勝ち目はなくなってしまっていた。
 それならば、あんな賭けのような手で踏み込まず、もう少し気長に機会をうかがっていれば方がよかったか。目の前の盤面を考えず、そんな後悔ばかり頭の中を堂々巡りするようになってきてしまった。
 そして、「負け……ました」と駒台に手を添えて、僕は搾り出すように言った。
 僕が密かに心に描いていた『久々の大会でいきなり全戦全勝優勝』というひそかな野望は潰えたのだった。
 
 *****
 
 激しい戦いが終わった反動か、頭の中がまだぼうっとしている。いや、これは軽い放心状態かもしれない。
 しかしとにかく、予選の4戦が終わり、午後1時までは昼食休憩だ。予選は問題なく通過できているのだ。気持ちを切り替えていかなければ。
 昼食は、大会運営のほうから仕出し弁当と缶入り緑茶が支給されたので、それをみんなと別室で食べることにした。
 緑茶をビールのようにぐいぐいと飲み、一息つくと、泉西先生は缶を握りつぶさんばかりの力をこめつつ語り始める。
 「っかー。〈野郎の部〉の全勝は長殖学園の奴らが独占か。しかし、本戦はこれからだしな。せいぜい今のうちにぬか喜びしてるがいい」
 おそらく、休憩直前に今井に自慢話を聞かされたのだろう。というか、何気に〈野郎の部〉って随分な言いようだ。
 「まぁ、こちらには天才少女がいるがな!」
 「……箸で指さないでよ」
 美月は優勝候補の水田からも大金星をあげ、2戦全勝という文句なしの成績で予選を終えている。堂々のシード決定だ。
 これで実力は申し分ないことは確認できたが、あの常連3人も黙ってはいないだろう。先程は油断があったり、予選だから多少手を抜いていたという可能性もある。大会で好成績を修める者は、メンタルのコントロールも上手いものだ。午後の本戦は実力をはっきりと認めた上で勝負を挑んでくることだろう。
 「あのぅ……」
 突如、団欒している僕たちの輪の中に、蚊の羽音がエコーしたような、か細いビブラートの声が投げ掛けられた。それまで気配もなかっただけに、僕は驚いた。
 声のしたような気がする方向に顔を向けると、いまどき珍しい真ん丸メガネを掛けた女性がおどおどとして立っていた。長い髪を三つ編みにして前に垂らしている。歳は20歳前後くらいだろうか。
 「なんですか?」
 「ひぃっ!」
 僕の返事を聞くなり、女性は小さく悲鳴をあげて飛び退いた。まるで、猫のような俊敏な動きだ。というか、丁寧に応対したつもりだし、そちらから話しかけてきたんじゃないか、失礼な……。
 女性は手にしたボードの陰からこちらを伺っている。
 「あのぅ……。その……」
 一体何者なのだろう。大会関係者か、斎諏訪や美月の知り合いか、まさか他校のスパイか?
 すると、泉西先生がおもむろに立ち上がり女性をビシッと指差す。
 「そこの女! 『社会面の取材行けって言われて会社を出たものの、極度のあがり症の私がまともに取材できるはずないじゃない。人気の無さそうな、コーヒー屋さんで休憩していたらちょうど地元の大矢高校が将棋大会に出ているっていうから来たものの……。高校生の将棋大会ってこんなに人がいるものなの? あぁ、もう倒れそう。大矢高生自体は部員が少なそうだから思い切って話しかけてみたけど、そもそも将棋のルールなんて全然知らないし、なんて話題を進めたらいいのか分からない! というか、この顧問っぽい人、なんで私の心の中をずばずば言い当ててくるの? 怖い……というか気持ち悪……』……ってなんだとうっ」
 「ひっ!」
 「取材?」
 「ぁ、確かにカードがぁるな」
 斎諏訪が指差した先、女性の腹のあたりにネックストラップに付いたカードがぶら下がっていた。そこには、地域では知名度の高い地方新聞社の名称が記載されていた。名前は『加納瑛子(カノウエイコ)』とある。
 新聞の取材、か。これは願ってもない幸運じゃないか。部の活動を学内外に広くアピールするのに大いに役立ちそうだ。しかし、肝心の記者がこれでは問題だ。話のしようがない。この調子ではきっと、これまでもまともな取材などできなかったのだろう。ここは、僕たちから歩み寄るしかない。
 「えーと、加納さん?」
 「ひゃあ」
 「ボイスレコーダーか何か持ってません?」
 僕の言葉を聞いて、加納さんが手提げ鞄の中をガサゴソと漁り始め、やがて銀色の細長い物体を僕の方に差し出してきた。さすがに記者だけあって、装備だけはしっかりしているようだ。依然としてボードを盾のようにしており、表情は伺えない。
 「僕が使うわけじゃなくて。質問とかに答えますから、一旦録音して後で一人で文章に起こしたらどうです? 質問は、この人が聞けますから、質問するときだけ一瞬ボードから顔を出してください」
 「えっ、えっ? どういう……」
 「なんだよなんだよ、俺さまにタダ働きさせるつもりかよっ」
 「こんなときくらい、1ミリくらい役立ってくださいよ」
 その後、掛け合い漫才のようなやりとりを経つつも、数秒後、なんとか取材と思しき会話のキャッチボールは成立しはじめた。
 そして、数分後には部員の紹介や斎諏訪の作ったソフトウェアの紹介など、伝えたいことを全て話しきることができた。
 「あの……、どうもありがとうございました」ボイスレコーダーのスイッチをオフにしながら、加納さんはお礼を述べる。ただし、相変らずボードの陰からだが。
 「いいか! ちゃんと、偉大なる天才国語教師・泉西潮成の武功を天下に知らしめるような文章を書き遂げるんだぞ。それがお前がこの世に生まれてきた意味と知れ!」
 「ひいっ」
 「大きな声出したら怖がらせちゃうでしょう。武功たって、変装してポケットティッシュを往復して3個もらうとか意味不明ですよ……。そもそも、アピールするのは部活動の方でしょ」
 泉西先生をうまく宥めつつ、大矢高校将棋部を今回の記事の中に含めてくれることを承諾してもらうことができた。
 元々、数年ぶりに1年生部員たった3人だけでの参加、最終結果はまだ未確定ながら3人とも予選を突破しているという健闘ぶりは話題性としても問題ないとの判断だろう。
 「じゃあ……、私は一旦ここで……」
 加納さんはじりじりと後ずさりをしながら部屋を出て行こうとする。しかし、その先にあるのは非常階段だ。
 「あれ? 最後まで見ていかないんすか?」
 「いえ……。このフロア、どこもかしこも人だらけだから……。そこの踊り場は人気がなくてちょうどいいの」
 「……」
 人と接するには人に接しない休憩時間が必要――これではまるで、ウミガメの息継ぎだ。
 ちらと他のメンバーを見回す。泉西先生、美月、斎諏訪。皆、一癖も二癖もある連中だ。
 きっと日頃思っているであろうことだけど、改めて感じたことは、僕はなんて普通なんだろうということだった。
 
 *****
 
 いよいよ、午後の本戦がはじまった。ただし、美月はシードなので対戦はない。熱気を帯びた部屋にいるのは疲れるので、少し気晴らしをしてくると言い残して外に出ていってしまった。
 休憩を挟んだことで、脳の栄養補給や気持ちの切り替えは万全だ。昔、将棋道場に行っていたときに『調子のいいときは飯を食っちゃダメだ。逆に、調子の悪いときは飯を食って流れを変えるもんだ』と常連のおじさんから言われたことを不意に思い出した。そのおじさんは特に将棋が強いわけでもなく、ご飯ばかり食べている満腹おじさんと呼ばれていたのはご愛嬌だ。
 さて、ここからは一戦も油断できない。うっかりミスをしないように落ち着いていこう。
 戦形は双方が矢倉囲いに組む、相矢倉となった。矢倉も歴史のある形だ。駒の性質をよく活かしており、多くのプロ棋士も好んで使っている。
 ちなみに、将棋の戦法や囲いには著作権はない。だから、たとえ長年の研究や深い思考の末にたどり着いた戦法だったとしても、誰でもすぐに真似をすることができる。
 もちろん、第一人者として書籍を出して間接的に収入につながることもあるが、せめてプロ同士の対局の場合は著作権が発生しても面白いのではないかと個人的には思う。
 特に最近ではインターネットなどを通じて、情報は瞬間的に広がってしまう。そして、すぐにその対策も編み出されてしまう。
 野球のピッチングフォームやバッティングフォームなどだって同じ事情といえるかもしれないが、将棋を指す者としては少し寂しいものを感じることがある。
 著作権で思い出したが、大矢高校学校祭でも先日ちょっとした盗作騒動があった。
 毎年、学校祭のポスターは匿名で全生徒が投票して決められる。今年は7作品のノミネートがあったのだが、そのうちの2つが非常に似た構図だった。
 学校祭のテーマは『飛翔』。だから、5つの作品が天使やドラゴンや鳥や風船……と種類は違えど優雅に空を飛んでいる構図の絵だったことには誰も違和感を抱かなかった。
 そんな中、残りの2つが『まさに今飛び立とうとする直前の鳥』つまり『まだ飛んでいない鳥』だったのが、『飛翔』というテーマから考えても非常に目立ったのだ。唯一異なっていたのは、それぞれの鳥が向かっていた対象物のみ。片や、〈月〉。片や、〈星空〉だった。
 鳥の位置やポーズなど、構図がことごとく似ており、色使いや繊細さまでも似ていることからまず浮かんできたのは重複ノミネート疑惑だ。しかし、生徒会が公式に『製作者は別人である』声明を出したことから、自体は盗作疑惑に発展していった。
 
 どちらが模倣したのか、様々な噂や憶測も飛び交った。本来であれば、7つの作品から1つを選ぶのがあるべき姿だが、そんな中で、投票は行われたものだから〈月〉と〈星空〉のどちらに投票するかという雰囲気が校内には蔓延していった。
 結果として、得票数一位でポスターに選ばれたのは、〈月〉の方だった。二位は〈星空〉でその差はわずか4票というものだった。
 すると、僅差にもかかわらず、生徒の大勢は〈星空〉の方が〈月〉の方をパクった、〈星空〉の作者よ恥を知れ、という意見が共通認識となって広がっていった。
 当時の僕はというと、〈星空〉の作者に妙に肩入れをしたい気持ちになっていた。もし別の年だったなら、当選されていてもおかしくない発想や出来栄えだったのだ、運が悪かったとしか言いようがないと思ったのだ。ポスター化されないのはもったいないと、高画質モードで撮影して携帯端末に保存しておいたほどだ。
 結果は大事だ。だけど、そこに至る過程や軌跡も大事だし、もっと評価の対象となるべきなのではないだろうか?
 そのときの気持ちを思い出して、つい駒を打ちつける手にも少し力が入ってしまっていた。
 やや攻めが細いかと心配したが、端攻めをいいタイミングで絡めたのが功を奏し、敵方の矢倉は少しずつ崩壊を始めている。自陣はまだ手付かずだから、このまま押し切れるだろう。
 その見立て通り、数分後相手は投了、僕は本戦トーナメント1回戦を突破した。
 
 簡単に感想戦をしてから、係員のもとに向かう。トーナメント表を見ると、斎諏訪もどうやら1回戦を突破できたようだ。赤い線が上の方へ延びている。
 部屋の中を探すと、斎諏訪が小さく手を挙げているのが見えたので、そちらに向かう。
 「順当に勝ったよぅだな」
 「まあ、な」
 こういった大会では基本的に勝者が係員のもとに結果を報告に行く。その姿をここから見られていたのかもしれない。
 「そぅそぅ、これ見てみろょ」斎諏訪が携帯端末を手渡してくる。
 画面には、ドキュメント編集アプリケーションが立ち上がっており、表がいくつか作成されていた。
 「ここ数年のここぃらの中学・高校生大会の結果をまとめてみたぜ」
 改めて表に眼を落として、息を呑んだ。
 ずらりとならぶ名前は、今日の予選でも好成績を修めている者たちばかりでほとんどが占められていた。いずれも長殖学園の部員達だ。
 女子の独占状態は特に顕著で、例の常連女子3人組が常に3位までの名前を埋めているではないか。
 「どぅも〈御三家〉と呼ばれてぃるらしぃぜ」
 そんなことをしていると、美月が部屋に戻ってくるのが見えた。手には、缶コーヒーが握られている。美月は僕らに気づき、向かってきた。
 「ぉぃ、織賀も見てみろょ、この面々」
 斎諏訪が差し出した携帯端末を受け取り、ちらりと眺める美月。しかし、すぐにそれを返してくる。
 「過去なんて、今日のあたしには関係ないから」そういって、プルタブを起こして飲み始め、興味の矛先を缶コーヒーの方に移してしまっている。
 美月の事情を知らない斎諏訪はそれを表現の一種ととらえ、ひゅうと小さな口笛を鳴らした。
 しかし、僕はその言葉の延長線を解釈してしまい少し複雑な心境になる。今の言葉を言い換えれば、こうだ。
 「今日なんて、明日のあたしには関係ないから」
 
 しばらくして3人とも対局の時間となったのでそれぞれの戦場へと散っていった。
 盤面は相振り飛車の中盤になっている。僕の囲いは二枚金というやや古風な構えだ。悪形である壁銀を自ら作ることになり発展性に乏しいものの、上部に手厚い特徴がある。上部から攻められることのが多い相振り飛車ならではの構えといえる。相手は穴熊だ。二枚金の方が手早く囲いが完成するため、僕が積極的に穴熊を攻略していく局面となっている。
 順調に指し続けてつつも、頭に浮かんでくるのは他のメンバーのことばかりだった。
 斎諏訪は善戦しているだろうか。相手は予選全勝の強敵、園手賀だ。久々の大会での緊張、頭の体力のペース配分など不安要素は多い。斎諏訪は気分屋だ。もし、手痛い敗戦をして部活をやめると言い出したら……。この大会に出場したこと自体が裏目だったことになってしまう。
 美月は善戦しているだろうか。予選で一度当たって勝利を収めており実力も御三家には及ばない相手ではあるものの、どんなハプニングが起こるかわからない。例えば、連戦の疲れで意識が一瞬飛んでしまったら……。もちろん、勝負どころではないし、気づいたら、部屋の中には大勢の人、目の前には謎の木製品だ。どういう反応を示すかも想像できない。
 泉西先生は来賓席で大人しくしているだろうか。他の来賓に迷惑をかけてはいないか。……いや、もうこの人のことは考えてもキリがないので放っておこう。
 穴熊には端攻め、セオリーどおり仕掛けていく。こちらは〈香〉〈桂〉〈角〉〈飛〉の4枚の攻めだ。俗に〈4枚の攻めは切れない〉と言われる。相手はそれを意識したのか、攻め合いを選んできた。
 先程から盤外のことばかり考えているが、とりわけ美月については別の想いも浮かんでいた。夏に『記憶リセット状態の告白』を受け、進んで協力を申し出ていながら、なんら解決に向けて進展できてないということだ。
 現実的に考えるなら、なにかしらの検査や医療処置を受ける方法が一番の王道だろう。しかし、美月自身はその方法を取ろうという姿勢を見せていない。一般の医療機関で手に負えるものではないと確信しているのか、あるいは問題の解決よりも、ことが公になったときの面倒さを警戒しているのではないかと推測している。
 最低限の秘密を維持したままハイレベルな医療を受けようするのはかなり難しいと思われる。ただ、天才的な名医については一人だけ心当たりがあった。この夏、子牛島で出会った円孔雀医師だ。言動こそ不気味で怪しいものの、世界中のVIPからの信頼も厚く、外科でも内科でも何でもこなせる腕前だという。
 しかし、その天才医師に診てもらうには一体どれほどの資金が必要なのだろう。僕には想像もつかない。そのとき、ふと同じときに出会ったもう一人の有名人のことを思い出した。
 棋界を代表する天才棋士、冷谷山三冠だ。タイトル戦を勝ち続け、獲得賞金額が早くも歴代3位に及んでいると聞いている。
 「あ……」
 思わず、口から言葉が漏れていた。相手が怪訝そうにこちらを見る。僕が悪手を指してそれに気づいてしまったと思ったのか、しきりに盤上を見回している。しかし、僕が思い至ったのはそういうことではなかった。
 確か、プロのタイトル戦のいくつかはアマチュアにも開放されていたはずだ。もちろんトッププロとは違い、予選からの出場で何勝も勝ち上がっていかないといけないし、その予選自体も何らかのアマチュア大会で優勝するなどの実績を修めていないと出場不可能だ。
 だけど、何のとりえも才能もない僕が、プロスポーツ選手や起業して若社長になることに比べたら、可能性としては僅かに高いのではないかと思えた。
 他人にこんなこと話したら、きっと笑われるに違いない。それでも、美月のためにできることが他に思い浮かばないのだから、とりあえずそれに真っ直ぐ向かうことは決して無意味ではないと思うのだ。
 相手が着手し終えたのを見て、僕は7七にいた桂馬を摘みあげる。
 今日からは電撃殺虫器に突っこんでいく虫たちのことを笑えないな、そんなことを考えながら8五の地点に力強く打ち付けた。
 
 結果から言うと、僕はその後無難に優勢を拡大して勝利できた。しかし、斎諏訪は奮闘空しく完敗だったようだ。
 「ぁぃつ、相当強ぃぜ……」
 斎諏訪はそういって、唇を噛み締めている。しかし、そう呟いたときの眼は死んでいなかった。今回は負けたが、次はきっと勝ってやるという眼だ。この眼をしているものはまだまだ強くなる。
 美月は本戦の初戦も無事勝ち上がったようで、トーナメント表の赤い線が先へと伸びている。そして、今は既に準決勝の戦いの準備を始めているようだ。その相手は、御三家の一人である大木夏海だ。
 大木は高校1年頃までは大会で優勝をするのが当然というほどの常勝女帝だったが、ここ最近は水田にことごとく優勝を奪われて準優勝が続いている。同じ長殖高校ということもあり、個人戦での意気込みは相当なものがあるはずだ。
 「……じゃあ、ぉれは、織賀の戦ぃを見届けてくる」そういうと斎諏訪は野次馬の群れの中に小太りの身体を溶け込ませていく。あれはなかなかすごいスキルだな……。
 幸か不幸か、僕には戦いの続きがある。本当は、斎諏訪と同じく美月の戦いが気になってしょうがない。といっても、フィクションのスポーツの世界ならいざ知らず、背後に立つことで棋力を上げる効果が与えられる訳でもない。今は、自分の戦いに集中するべきときだ。
 それに呼応したかのように、自分の名前を呼ぶ声があがった。そして、難敵の名前を呼ぶ声も。
 
 本戦の3回戦。別の言い方をするならば、準決勝。あと2回勝てば優勝というところまで来た。
 そして、いよいよリベンジのときだ。今は相当な実力者になったようだが、かつて相性の良かった相手に一日に二度も負けるわけには行かない。
 序盤は無難な展開になった。元々、慎重派の園手賀も緩やかな進みは望むところのようで、定跡をなぞるような手が続いた。
 と、そこで僕は少しその流れを外した。園手賀の表情に少し戸惑いが浮かんだのが分かる。
 戦法や定跡にも流行り廃りがある。研究速度の早い昨今では、それほど日進月歩だ。プロでさえ、流行を過ぎた定跡は覚えておらず局面が現れて苦慮することがあると聞いたことがある。
 今指したのは、ちょうど僕が将棋を一時やめる前くらいに廃れ始めていた定跡だ。3年のブランクがある僕にとってはちょっと前だが、その間ずっと将棋を続けていた園手賀にとっては随分と昔の忘れかけた定跡の可能性がある。
 ただし、諸刃の選択でもあった。僕がやめていたその間に、明確な定跡が確立してしまっているのなら、相手は深く考える必要もなく有利な展開に持ち込めるのだから。しかし、園手賀の浮かべた戸惑いを見て、心配無用を感じた。
 将棋指し――だけでなく全ての人間にも言えそうだが――には、大きく2タイプいる。
 表情が豊かな者と、そうでないもの、だ。
 勝負事では一般的にポーカーフェイスの方が有利という風潮があるが、必ずしもそうでない場合もある。
 例えば、圧倒的敗勢でこれはもうダメだという局面で、とりあえずそろそろ形作りだけでもするかと力なく駒を動かす。小さくため息の一つもつきながら。
 しかしその弱々しい一手は、相手を油断させて一発逆転となりうる一手だったりするのである。表情や仕草が見えてしまう、人対人ならではの盤外戦術である。
 こうして考えると、人の表情や仕草と言うのはとても大きな情報源である。
 そこまで考えて、僕は美月のことを連想する。
 これまで、美月が表情を極力変えずに淡々として振舞っているのは、周囲のニンゲンに『必要以上の情報を渡さないため』の生存戦略ではないかと思えてきたのだ。
 きっと、本当はもっと自由に笑ったり怒ったりしたいんじゃないだろうか。その方が自然だし、楽だろう。僕だって、嬉しいと思う。
 盤上は中盤に差し掛かっている。序盤でポイントをあげたと思っていたが、ここにきて五分五分の形勢になっているような気がした。どこかで疑問手を指していたかと思い返すが、心当たりはない。
 いや、指してしまったものを今考えていても仕方ない。改めて、ポイントを稼がないと。遊んでいた桂馬を活用すべく、僕は角行を展開した。園手賀はそれを見越したかのように先んじて〈銀〉を繰り出してくる。
 双方の持ち時間も同様に減ってきている。ここが正念場だ。今持てる力を全て発揮するんだ。熱くなってきた頭を一旦冷やすべく、飲み物を一口含み、一つ深呼吸して脳内に新鮮な酸素を取り込む。
 
 ――ここで一気に攻める!
 
 僕は〈歩〉を突き出し、溜めに溜めていた攻め駒達に喝を入れる。数手の応酬がはじまる。
 さすがは難敵、対応が的確だ。すぐには囲いを破れそうにない。しかし、仕掛けはこちらの方が一手早い。5筋は今は〈飛〉〈角〉〈銀〉〈桂〉が集中しているため、攻めが切れないように5筋に戦線を拡大する。これなら、同歩と取っても、〈銀〉の方を取られても5筋から敵陣になだれ込める。自陣はまだ磐石。これは決まったか。
 そう気持ちが一瞬緩んだ瞬間だった。
 ――ピシッ
 放たれた手は同歩でも〈銀〉取りでもなく、攻め合いの一手。まさかの手抜きだ。それならば、こちらも攻め続けるのみ……と思い、そこで気づいた。
 なんと不思議な局面だろう。自分の攻めは確かに理想的だった。しかし、進めた駒はそれぞれ伸びきっており、相手が応じてくれないとそれ以上の手がないのだ。まるで、猫が小さな穴の中に隠れているねずみを捕えようとするようなもので、穴から出てくれないとどうしようもない。手を入れれば、逆に穴の脇から齧られてしまうことになる。
 思わぬ好手に動揺しないよう、一旦僕の方が受けに回ることにした。機はいずれ巡ってくる。それまでの辛抱だ。
 しかし、細いと思われていた攻めは、程よいタイミングでの突き捨てや端攻めと絡まって、次第に激しさを増してきた。北風と太陽じゃないが、受ければ受けるほど攻めが強くなってくるようだ。
 そして、ついに僕は組み上げた美濃囲いを放棄して、脱出を図る。しかし、まだ勝負が決したわけではない。囲いは犠牲になったものの、そこで入手した敵の駒もある。反撃の機会を伺うのだ。
 やがて、やっと手番が回ってきたところで、僕は構想を描いていた勝負手を放つ。不利な局面の場合は、とにかく複雑に混沌とさせるのがセオリーだ。逆転の種はそこに潜んでいる。運がよければ、逆転。僅かにでも効果があがれば、一手違いくらいまで持っていけるかもしれない。
 園手賀が〈金〉を掴む。僕はそれを見て、〈王〉を逃げるための予備動作を取ろうとする。
 「……っ!」
 しかし、その途中で僕は固まった。指された手は、自陣を万全にするための補強の〈金〉打ちだった。こうされると、僕の方からはもう有効な手がない。
 これは、俗に言う〈受け潰し〉というものだ。勝ちに行く手というよりは、相手にギブアップさせるための手で、求道的なプロやトップアマにはあまり好まれない。そこで、思い出す。対戦相手は、石橋を叩いて渡る、園手賀篤貴であることを。
 チェスクロックが、僕の胸中を知らず機械的にピッと小さな音を立てた。しかし、心中は既に固まっていた。
 これまでか……。そう思うと、身体のほてりが徐々に醒めていくのを感じた。聞こえなかった周りのざわつきやそこかしこの駒音も妙にしっかりと耳に入ってくる。
 「……ました」かすれた、小さな声で負けを告げる。気づけば、喉がからからだった。ペットボトルに手を伸ばす。
 目立った悪手も指した記憶が無いし、今もっている力は全て出せたつもりだ。相手がそれを上回る手を指したということだろう。
 勝者である園手賀が立ち上がり、一言だけ話して大会委員のいる机の方に向かていった。
 僕はすぐに立ち上がれなかった。頭の中に、言われた台詞がぐるぐると渦巻いていた。

 ――三年ぶりに、何しに来たの?
 
 *****
 
 園手賀は僕のことを知っていた。過去の相性も知ったうえで戦って、勝ちを2度も拾っていった。そのことに僕はただの2敗したということ以上の痛みを感じていた。
 彼の言葉に、肚に沸上がるものがあったことは否定しない。ただ、それはきっとお門違いなのだ。
 彼は、この三年間、雑念に唆されることなく自分を磨き続けていたのだ。その土俵において、僕は何も申し開きはできない。
 先程、僕が投了をしていたころ、美月は御三家の一人、大木夏海を見事に打ち破っていたようだ。ずっと観戦していた斎諏訪によると、女子同士とは思えない壮絶な攻め合い将棋だったとのことだ。
 そして今、向こう側の机では、男子の部・決勝戦が行われている。そして僕は、3位決定戦の対局の最中だ。
 また、あちら側にいけなかった。どうして、僕はいつも1位になれないのだろう。集中力の持続しないのだろうか、そもそも実力不足ということだろうか。
 今日最後の対局かつ順位が決まるだというのに、これから指し始めてからも違和感は続いている。自分の指したい方向性のようなものが全く定まらないのだ。
 優勝という一点を目標にしていたから、その可能性がついえた今、モチベーションが失われてしまったのか。先ほど、敗因が分からないままに負けてしまったことで、どうやったら勝てるのか、勝ち方を忘れてしまったのかもしれない。飛び方を忘れてしまった鳥、インコースを攻められてアウトコースに踏み込めなくなった打者、そんなイメージが頭に浮かぶ。
 そこからは散々だった。小さなミスが新たなミスを誘発し、形勢は大差がついてしまっている。今日一番、いや将棋を再開してから一番酷い展開かもしれない。
 そして、僕は今日3回目の投了をした。
 3位が確定した対戦相手は喜びも隠さず、感想戦もしないで急いで席を立っていってしまった。恐らく、大会で初めて3位以内に入ったのだろう。今は人と会話をするのが億劫だったので、むしろありがたかった。
 不幸中の幸いか、僕たちの戦いはほとんどギャラリーはいなかった。それに少し救われた。大勢の野次馬の中での投了は堪えるものだから。
 今、会場の人々の関心は、男子の部・女子の部それぞれの決勝戦の方に向いている。
 男子の部は、一年生の園手賀と三年生で部長でもある司馬による長殖学園同士の対決だ。園手賀が勝てば十数年ぶりの一年生優勝、司馬が勝てば昨年からの公式戦14連勝と大会二連覇となる注目の対決だ。
 女子の部は、一年生の美月と三年生の水田の対決だ。予選第二戦と同じカードで、優勝最有力候補の水田としては二度の敗戦はあってはならないこと、もはや油断も侮りもなく全力で勝負に力を注いでいるはずだ。
 野次馬は多いものの、ちょうど座っている位置からもその両方の試合が眺められた。
 さっきまでは、時間さえあれば、美月の近くでその戦う姿を見届けたいという気持ちでいっぱいだったが、今はそうはなれなかった。手許のペットボトルを傾けるが、とうに空になっていた。
 やがて、女子の部の方に動きがあった。対局が終わったようだ。会場のざわめきが治まらないところを見れば、結果は明らかだ。散っていく人々の間から、立ち上がる美月の姿と、うな垂れる水田の姿がちらりと見えた。
 その後まもなく、男子の部でも対局が終了した。どうやら、園手賀が勝利し、1年生で無敗優勝を成し遂げたものの話題性としては今ひとつだった。
 中学生大会でもそれなりに好成績を修めていた園手賀に対し、全くの無名から御三家を破って一年生無敗優勝をした美月の方が話題性として抜群であるからだろう。
 園手賀にしてみれば、ファイブカードを出して満場の注目を独占できると思っていたところ、思わぬところからロイヤルストレートフラッシュを出されてしまったような心境だろう。
 御三家はちょうどスライドするように2位、3位、4位の上位成績となったものの、その表情は一様に憮然としている。その視線の先には、他校の男子高校生や男性記者に取り囲まれる美月の姿があった。
 「すごく強いんですねぇ」
 「見かけたの初めてなんですけど、大会に出るのはは初めて?」
 正確無比な差し回しと、あの容姿。注目を浴びるのは当然といえば当然かもしれない。
 「将棋はいつ頃覚えたんですか?」男性記者の一人がボイスレコーダーを美月に向けて尋ねる。
 それに対する彼女の答えは、「今朝」。
 ずっと気持ちが沈んでいた僕も、そこでは思わず苦笑してしまった。美月に限っては確かに間違いじゃないけれども。
 事情を知らないギャラリーがみな、ぽかんと口を開けていたのがとても印象的だった。

 ドラキュラにはニンニク、鬼には炒り豆、と世の中には理解困難な好き嫌いを持つ者達がいる。なんでそんなものを、と思う一方、僕自身はピーマンが嫌いなわけなので理由というのはその人にしか理解不能なものなのだろう。
 少なくとも今日、将棋部にとってはそれに伍する有益情報を入手することとなった。
 「コーヒーかよ! 絶ッ体行かねえ!」叫んだのは、我らが顧問である。大会の表彰式終了後、予定通り〈まめしば〉で反省会を行おうと移動する直前のことだ。元々、部員3人だけで行くつもりだったのだが、野生の嗅覚で感づいたらしく僕らの後をついてこようとしていた。
 恐らく、前世はスッポンか路上のガムだろう。一度くらいついたらなかなか離れてくれない。のらりくらりと話を反らそうとしたのだが無理で、仕方なくこれから反省会をしようと思っていた旨を泉西先生に伝える。
 反省会と聞き、泉西先生は興奮気味だった。何だかんだで一日中観戦側に回っていて不完全燃焼だったせいもあったのだと思われる。
 ところが、行く先がコーヒー専門店だと聞き、先程の叫びへとなった。
 コーヒーを心から愛する男・加笛が経営する〈まめしば〉には酒やソフトドリンクはなく、店内もコーヒーの香りが充満していると聞くと、すっかり付いてくる気はなくなったらしい。昔、コーヒーを自棄飲みして三日間眠れず苦しんだことがトラウマになったらしいが真偽の程は定かではない。「チクショウ。俺さまは自宅で一人酒盛りしたる。……お前ら、くれぐれもハメ外しすぎんなよ!?」という捨て台詞を残して去っていった。その言葉、近未来の自分に使用してください。

 僕たち3人が〈まめしば〉に到着すると、マスターは温かく迎えてくれた。
 店内の喫茶スペースはL字型になっており、一番奥のコの字型の席は静かでゆったりとした時間を過ごせる。常連客には一番人気の場所だ。
 ありがたいことに、少し前に大会後に押しかけますと話していただけなのに、その特等席をリザーブしてくれていたようなのだ。即席で作ったと思われる、手書きの〈予約席〉の札を片付けながらマスターはオーダーを取ってカウンターへ戻っていった。
 「はぁ~、疲れた疲れた」斎諏訪が眼鏡を外して眼の周辺をマッサージしたり、肩を揉んだりしている。
 将棋はスポーツのように身体を動かしまくるわけではないが、脳は相当疲弊する。会場はだいたい普段利用しないような場所だし、相手だっている。細かな時間に終われ、少しのミスで全てが台無しになると言う状況下に一日置かれるのだ。
 大会では、1試合40分~50分を6試合くらいはやるわけで、学校の期末テストの一日分くらいの疲労度は少なくともあると考えている。
 オーダの品を持ってマスターがやってきた。
 僕は、ハルコーロ・ノハナ農園のフレンチローストのブラックとクッキーのセット。
 美月は、アポロニウス農園のカフェラテとチョコレートのセット。
 斎諏訪は、ナニカ農園のシティローストのブラックと一口バウムクーヘンのセットだ。
 と、一つ注文した覚えのない小さなホールケーキが並んでいることに気づいた。
 「マスター、これ頼みましたっけ?」
 ケーキを指差した僕にマスターは不器用な笑みを浮かべて、
 「こ、こ、これはそっちの子の優勝祝い。え、え、遠慮しなくていいからね……」
 優勝祝い……。ケーキ自体は既製品を皿に載せただけのような感じではあるけれど、それにしても準備が早すぎはしないだろうか。
 もしかして、元々買って準備してくれていたとか。誰かが好成績を修めたらそれを名目にするし、そうでない場合も慰労という名目でやはり出すことはできるだろう。
 しかし、待てよ。誰か、マスターに今日の成績を話してたっけか。入店してすぐにここに案内されて、オーダーの会話しかしていないはずだ。なら、何でマスターは美月が優勝したことを知っているんだろう。
 と、頭の中に突如としてある推測が〈跳躍(リープ)〉してきた。
 「マスター。加納さんから教えてもらったんですか?」僕はマスターの背中にそう投げ掛けた。
 マスターは振り返ると、やや驚いた顔をしていたが、「よ、よ、よく分かったね」という答えが帰ってきた。
 やっぱり、そうか。さっき、泉西先生が加納さんを読心したときに言っていた『人気の無さそうな、コーヒー屋さん』とは〈まめしば〉のことだったのだ。〈まめしば〉と大矢高校将棋部のつながりで考えると、消去法で残るのは加納さんくらいだった。理由は分からないが、加納さんが将棋大会の結果を僕たちが表彰式などをしている間にでもマスターに連絡したのだろう。
 そうならば、僕たちがここまで移動する時間に〈予約席〉の準備をしたり、優勝祝いのケーキの準備をするのは難しくないだろう。
 さて、もやっとした謎が解けたところで、「じゃ、まずは祝杯?」僕はカップを持ち上げる。
 「だな。まさかとは思ったが、初出場初優勝とはな恐れ入るぜ」斎諏訪が応じる。
 美月も静かにカップを持ち上げたのを見届けて、「今日はおつかれでした、アンド、おめでとう」と発声した。
 疲れた頭に甘い菓子と暖かいコーヒーは格別だった。
 僕たちは今日の反省とねぎらいをしたり、学校祭の展示の進捗状況、『泉西先生とは一体なんなんだ』といったくだらない話を展開したりした。
 談話もたけなわであるが、僕はさりげなく腕時計と各人のカップや皿の状態を確認する。
 「……さて、今日はそろそろお開きにしようか」
 「ぉぃぉぃ、まだ40分しか経ってなぃだろ。何か予定でもぁるのかょ?」
 「そういうわけじゃないけど。俺たち大会慣れしてないし、意外に疲れが溜まってるんじゃないか? 人数もギリギリだから、今誰かに倒れられると、学校祭が危なくなるだろ?」
 「まぁ、それは確かにそぅだがょ」
 「これ以上ゆっくりしていると、追加注文のリスクもあるしな」空になったカップや皿を指して僕は言う。
 僕は急かすように二人を追い立てると、マスターのところで支払いを行う。というか、本当におごりにさせられたよ……。
 そして、店先で二人と別れの挨拶をする。二人の背中が見えなくなったところを見届けて、僕はため息を着いて帰路についた。

 外気は涼しいというより、やや肌寒いくらいだ。帰り道、帰路の半分くらいのところにある公園にふらりと立ち寄って、時計の真下にあるベンチに腰掛ける。
 ふう、と一息つく。「少し強引だったかな……」先程の反省会の終わらせ方を思い出して一人呟いた。
 コン、コンと音がするので何かと思い頭上を見上げると、街灯のガラスに虫たちがぶつかっている音だった。その光景を見て、先程抱いた大望を思い返して笑いがこみ上げてきた。
 トップアマになって、プロのタイトル戦で賞金を稼ぎ、美月が医療を受けられるようにする……?
 同じ高校生相手に一日に3敗もするような体たらくで、そんなことを夢想していたことが今となっては非常に滑稽に思える。
 その美月はあっさりと全勝優勝を成し遂げている。そもそも、そんな方法をとるならば、僕などより美月自身がした方が遥かに可能性が高いように思える。
 美月はかつて、僕に時折訪れる〈跳躍(リープ)〉の発想に期待していると言ってくれた。そのときは、僕も嬉しくなって大言壮語も吐いてしまった。でも、世の中は広い。他を探せば、もっと発想の豊かな天賦の才能を持ったニンゲンがたくさんいることだろう。
 だとすると、僕が美月の傍にいることは、むしろそういう人物と美月が出会う機会を少なくしてしまっているだけなんじゃないか。
 考えれば考えるほど、訳が分からなくなってくる。気づけば、頭を抱えてベンチでうずくまっていた。
 「ちょっと、君?」
 不意に声を掛けられて僕はびくっとなる。誰かと思い、声のしたほうを向くと声の主は犬を連れた女性だった。同い年か少し上くらいに見える。
 非常に分かり易いことに、上下のスポーツウェアを着て運動靴を履いている。『私は犬の散歩中ですよ』と言っているようなものだ。
 体型はさして特徴はないものの、肩口まで伸ばしたストレートの黒髪は艶やか。顔つきも目立つパーツはないものの左右均等に配置されているため清楚で美人に分類しても咎められることはないだろう。
 と同時に、僕はこの人の名前を必死で脳内検索していた。そう、僕はどこかで会っている気がする。それは間違いないのだが……。
 無言でじっと眼を見つめ返されたことを妙に思ったのか、女性の方が口を開いた。
 「同じ高校の生徒がこんな時間に公園に座ってたから、念のため声を掛けただけよ。世の中物騒な事件も多いからさ」
 ありがたいことに、その言葉が大きなヒントとなった。
 髪の毛を三つ編みにして、メガネを掛けさせて、うちの制服を規則どおりにきっちりと身にまとわせれば――。
 「もしかして、ふ、副会長ですか?」
 「呆れた。今頃気付いたの?」
 僕が驚いたのも無理はない。休日の犬の散歩とはいえ、雰囲気が普段の堅苦しいものからは随分と乖離しているのだ。これは探偵がする変装の域だ。
 「部活動の帰り? あ、いや……? 将棋部は今日秋季大会だったっけね」
 思わず、肩が震えてしまった。生徒会にはありとあらゆる情報が集まると言う話はあながち誇張ではないようだ。
 「で? こんなところにうな垂れているってことは、散々な結果だったってわけね?」副会長は小さくため息をつく。
 実際は成績はその想像よりは良いものであるが、僕個人にフォーカスを当てるなら『散々な結果』という表現については異論はない。
 「マーク。お座り」
 何かと思ったが、マークというのは副会長の連れていたゴールデンレトリバーの名前らしく、茶色い犬が大人しく座っている。
 そして、副会長は僕の隣に腰掛けるとこういった。
 「王様の耳はなんとやら。話せば少し楽になるんじゃない?」
 
 ゴールデンレトリバーというのは忍耐力が非常に強いと聞くが、それは本当のようだ。僕が今日のあらすじを話している約4分間、表情を変えることなくただそこにたたずんでいた。
 また、飼い犬は飼い主に似るとも聞くが、その点も隣で表情を変えることなく僕の話を黙って聞いている副会長を見て実証できた。
 しばらくして、「確かに、イマイチな内容かもね」静かに聴いていた副会長は、開口一番そういった。多少は覚悟していたが、なかなか手厳しいレスポンスだ。
 「実力を証明するには実績を作るしかない。それも一番、一等、一位といった、ね。一番以外は、二位もビリも同じ。世界で二番目に有人飛行に成功したのは誰? 世界で二番目に大きな岩はどこにある? そういうことを知っている人はどれくらいいるでしょうね」
 副会長は流れるように話を展開する。つい引き込まれそうな話術だ。1年生の頃から奥地会長と組んで、大矢高校生徒会を回してきたと評される女傑の実力を垣間見せられているようだ。
 やはり、気持ちを切り替えて次のチャンスをものにするしかないか。まずは今回明るみになった中盤力を鍛えなければならないだろう。『次の一手』問題を中心に毎日一定量の研究を行おうか。あと、対人戦の雰囲気慣れするために久々に街の将棋センターに顔を出してみようか。
 「でも、一番になれない者達にも、逆に強みや勝ち目はある」
 そんな思考を始めていた僕に、副会長が意外な言葉を投げ掛けてきた。僕は思わず「えっ?」と聞き返していた。「どういうことですか!?」
 しかし、自分から話を振ってきたにも関わらず、副会長は少し不機嫌そうに眉根を寄せた。
 「君、少し考えようよ。ほら、もっと視線を上げて」そう言って、指を星空に向ける。
 視線……? その先には柄杓のような形をした星座が浮かんでいる。あの形は確か、
 「北斗七星、ですか?」
 「は? あれはくじら座でしょ? そもそも北斗七星は春の星座……ってそういう細かなことじゃなくて!」
 副会長は星空に向けていた指先を、僕の眉間のど真ん中に移して続けた。
 「将棋を指している姿ってさ、一見、盤を見渡しているようだけど、もっと上の存在――例えば、ああいう星達からの目線から見下すと、下向いて俯いているように見えるんじゃない? って言いたかったの」
 「は、はぁ……」相変らず厳しい物言いだが、不思議と腹が立ったりすることはなかった。
 「特別サービス。柔道で一本技が下手な選手が勝ちたい場合、どうすればいい?」
 柔道で、一本以外……。そこまで言われて、副会長の言わんとすることがやっと分かってきた。
 「合わせ技、ですか?」
 「よろしい。例えば、背泳ぎで市内2位の子がいるとする。どうしても1位の子には勝てない。背泳ぎという一つの物差しで見たら、その子はイマイチかもしれない。
  でも、その子にはほかに意外な特技があって、文章が得意なのだとする。例えば、市内でベスト5に入るくらいとしようか。
  文章力と水泳は相関が弱いと言えるから『水泳ができて、執筆能力が高い』という物差しで見るならばその子は市内を飛び越えてる存在となりうるわ。
  さらに、クロールや平泳ぎと違って、背泳ぎはニッチだから、一気に国内トップレベルと扱われる可能性もあるでしょうね。
  背泳ぎに関するエッセイとか小説とかそういうものはその子に与えられた特権になりえるわ」
 副会長の言葉を聞いているうちに、僕の中にあることが浮かび上がってきた。
 4月の抱負。学業と、将棋と、音楽の鼎立。そのうち、音楽にこれまで力が入れられていないことに気づいたのだ。ちょうど、将棋と音楽の相関は弱いと思える。音楽の実力はまだ全然大したことが無いかもしれないが、もしこの才能を伸ばすことができたら、副会長の言う合わせ技にできるのではないだろうか。
 伸びしろの分からなくなった将棋だけでなく、やりたいと取り組み始めたギターを上達させること。
 短絡的すぎる考えかもしれない。それでも、今のように動かずに悶々としているよりは随分と楽だと思えた。
 そのためには、分かり易い目標――欲を言えば、実績にもつながるような目標があるといいのだが……。
 「……副会長、唐突なんですが」
 「なに?」
 「高校で、音楽関連の発表の場ってどういうものがありましたっけ?」
 「そういうのは、音楽系の部長連中の方が詳しいと思うけど? まぁ、主だったところでは――」
 副会長はいくつかの名前を挙げてくれたが、いずれも各学校で数組とか非常に狭き門らしいとのことで、心が折れそうになる。そもそも、演奏レベルだって評価をしてもらえる域まで達していない。
 「それなら、まずは〈音夜祭〉でも目標にしてみたら?」僕の顔に翳が差したことに気づいたのか新たな提案をしてくれた。
 「オンヤサイ、ですか」
 「知らないの? まぁ、完全に大矢高生内部で閉じたイベントだから、知らない人も多いけど、まさか軽音楽部なのに知らないなんてね……」
 副会長は呆れを通り越して、笑いを催してきたようだ。こまめに呼吸を整えて、笑いを堪えている感じだ。
 ただ、世話を焼くのは苦と思わない性格のようで、尋ねたら懇切丁寧に教えてくれた。
 音夜祭は大矢高校学校祭の後に行われる後夜祭の一つで、夜18時から20時の2時間、体育館のステージを使って行われる音楽イベントだ。
 参加資格は、体育館ステージで音楽を行いたい者でジャンルは不問というシンプルなものだ。
 しかし、持ち時間は準備と片付けの時間も含めて10分。だから曲の長さは5分程度のものを1つするのが基本となる。つまりその10分間を12組で行うのが限度だ。
 昼間の学校祭開催時間帯でも、体育館や講堂だけでなく各部室自前のステージなどがフル回転しており、演奏したい者達は1年生であってもそれなりに演奏する機会は得られる状況下にある。
 では、外部の来客もいなくなった音夜祭が人気の理由は何か。一言で言うなら、学内アピールである。
 学校祭自体が終了している時間帯のため、展示番を一日中宿命付けられるような生徒達も観ようと思えば観ることができる。また、一旦は終わった祭の余韻や夕暮れ時という人間心理で観客の盛り上がりも期待できる。ノリのいい観客がたくさんとなれば、演奏する者としては申し分ない舞台だ。
 さらに噂では、想い人にアピールする絶好のチャンスにもなっているとか。
 そこまで聞いて、僕の心はすっかり音夜祭に憑りつかれていた。学内イベントなら、美月にも観てもらえるかもしれない。さて、問題はどうやってその12組に選ばれるかだが……。詳細は明日にでも軽音楽部の先輩方に探りを入れてみよう。
 僕の表情から翳りが去っていたのだろう。副会長は自分の役目は終わった、とばかりに目を細めて立ち上がる。
 マークがそれに反応して、すっくと立ち上がる。僕も立ち上がり、「色々とお話聞かせていただいて、ありがとうございました」副会長に感謝の意を伝える。

 副会長とマークの後ろ姿見送ってから、僕は一つため息をついていた。先程までの昂揚した気分も、急速にクールダウンしていた。
 それは、副会長が去り際に話していった言葉によるものだった。
 「音夜祭の出演者は、最後のチャンスである3年生の参加希望が優先されるから。まぁ、上手いに越したことはないけどね。あと2年間あるわけだからゆっくり準備なさい」

 

  小説『Fall on Fall =俯瞰の秋=』(2/4)に続く