総村スコアブック

総村悠司(Sohmura Hisashi)の楽曲紹介、小説掲載をしています。また、作曲家・佐藤英敏さんの曲紹介も行っております。ご意見ご感想などはsohmura@gmail.comまで。

小説『Sum a Summer =総計の夏=』(4/5)

第四章 『7月4日(金)』

 

 朝起きて、台所に顔を出す。
 しかし、いつもなら食卓で新聞を広げている父の姿がない。昨日は母がいなくて、今日は父がいない。何だか、ちぐはぐな感じだ。
 「あれ? 父は?」
 「もう出かけたわよ」振り返った母親の手には、洗い掛けの父の茶碗があった。
 「仕事の内容の説明資料作りとか、相手の会社のやり方を憶えたりとか、やることは山ほどあるみたい」
 「そうか。大変だな……」
 父にとっては、再び地道な仕事の日々が始まったのだ。今後、再び日の目を見る可能性が必ずしもあるわけではないだろう。それでも今やれることがあるなら、それをやるのみ。既に空席となった父の椅子からそんなメッセージを送られた気がした。

 登校して間もなく、職員室に向かった。
 会うべき人物は、数学の丹治延登先生または英語の石井英美先生だ。両者とも、大矢高校の部活担当教務である。
 入口付近で伺うと、石井英美先生の姿が見えた。
 石井英美、36歳独身。幼少時代をアメリカで過ごしたバイリンガルである。ただし、日本語の話し方がどうにも英語の直訳のようで不自然な感じがする。そして、どうでもいいことだが、アメリカでは「エイビ・イシイ」と呼ばれていたらしい。
 「石井先生、おはようございます」
 「グドゥモーニン。えーと、キミは確か一組の……」
 「はい、瀬田桂夜です」
 名前を憶えられているのは、恐らく以前授業中に「おいおい、速すぎだろっ!」と叫んだ変わり者だからだろう……。今、思い出してもヒヤヒヤする。
 「私は、考えています。それは、授業とは、教師から生徒への一方通行ではないということです。それは、共同作業です、生徒と教師による。それゆえに、キミの積極的なィクスプレッションは、非常に重要です」
 「は、はい」
 「私は、キミに一つ要望があります。私は、真面目にノートを取ることよりも、ワタシの顔を見て意思のキャッチボールがすることのほうを嬉しいと感じます」
 石井先生すみません。それ、下向きながら寝てるんです……。僕が、中学生の時に編み出した、寝ながらもペンを動かすって言う技なんです……。当然言えるはずもなく、愛想笑いを浮かべるしかない。
 「実は、部活のことで相談がありまして」
 「OK」
 「部活を合併することは可能でしょうか?」
 「ガッペイ? それは、mergerのことを意味していますか?」
 「マージ……あ、あぁ多分そうです」
 そう。僕が考えた作戦とは、部活と部活の合併だった。部員の移籍に関しては、生徒会則で期間が限定されてしまっているが、部活という組織自体には特に取り決めがない。
 詭弁といわれればそうかもしれないが、生徒会の意見である『3人部員がいなければ一部不適格』というものも明言されているわけではない。眼には眼を、歯には歯を、だ。
 卓上にある『Club Activity』という背表紙のファイルを開き、石井先生はしばし考え込む。そして。
 「ふむ、部活をガッペイすることは恐らくノープロブレムでしょう。両部活の全員が合意する必要があるでしょう、しかしけれども、クラーブアクティビティは基本的に生徒の自治です。あなた方は、ガッペイを成し遂げることができるでしょう」
 よし! 教師サイドのお墨付きをもらえたのはいい感じだ。順調といえる。
 「私から話をします。ティーチャー丹治には」
 「ありがとうございます」
 石井先生にお礼を言って、職員室を後にした。あとは、放課後の交渉を待つばかりだ。

 放課後。僕はサーバールームに足を向けた。会うべき人物は、電算研究部のサイズワくんだ。
 僕の探していたのは、『第二部で、部員が一人ないしは二人で構成され、将棋部とくっついてもなんとか言い訳が立ちそうな文化系部活』だった。
 昨日、大矢高校の公式ウェヴサイトを確認したところ、丁度その条件に当てはまる唯一の部活が電算研究部だったのだ。
 正式な部室でないここにサイズワくんがいるとは限らないが、他にいそうな場所を知らない以上ここを訪ねるのが一番接触をしやすいと考えた。
 サーバールームに到着し、インターフォンを押すと先日のように大江室長が出る。
 「すみません、サイズワくんって今日来てますか?」
 「おお、おるが?」
 これは、幸先がいい。先日と同じ要領で部屋に入る。サイズワくんは部屋の隅で細かな部品に囲まれていた。
 話によると大江老人の個人パソコンとのこと。修理方法が分かっているのに、修理工場で金を払ってやってもらうのは癪に触るとこぼしていたら、サイズワくんが名乗りを上げたのだという。
 「歳をとると細かい作業ができんくなってのう。助かるわい」
 「じっちゃん、NICは?」
 「おぉ。2つのセグでそれぞれボンディングするゆえ、4つ頼むぞい」
 「ぅぃ」
 大江老人の知識もすごいが、それと対等にやりとりできているサイズワくんも大したものだ。もし一緒になれたら、僕も色々と教えてもらおうかな。これからの時代はITスキルは大事だって父も言っていたし。
 「サイズワくん、あとで手が空いてきたら話したいことがあるんだけど、いいかな?」
 「ん? 今でもぃぃぜぇ? 機械的な作業だし」
 「あ、そうなんだ。えーと、まず順を追って話すと……」
 僕は、昨日の夜から組み立ててきた話をサイズワくんに話し始めた。

 話し終えてしばらく経つ。しかし、サイズワくんは相変らず手許をせわしなく動かし続けている。
 果たして、もう答えは決まっているのだろうか。「で、どうかな?」と答えを催促しようと思っていると、丁度ドライバーを床に置きこちらを向いてくれた。
 しかし、答えは無常にも「その話、悪ぃが遠慮しとくょ。ょりにょって将棋だしなぁ……」
 あっさり断られてしまった。
 ノートパソコンがあれば、彼がやりたいことは今までどおりできるはず。部室があれば、堂々と活動できるし、場合によっては予算の恩恵に与れる可能性だってある。
 部活の名前や所属が変わってしまうが、彼にとって悪い話ではないと思ったのだが……。やはり、今時の高校生に『将棋』はNGだったか……。自分も「将棋なんて……」と思っていた時期があっただけに、彼を強く説得しようという気持ちが芽生えてこなかった。
 今日は美月も呼んでしまったし、仕方がないので、部室に戻ることにした。満点の結果ではないが、部活合併作戦自体はまだ余地があるだろうからその報告だけでもしておこう。
 僕は静電靴をロッカーにしまい、色々と対応してくれた大江老人に礼を言う。
 「すまんの瀬田くん」
 「いえいえ、俺が勝手に無理言ってただけですから」
 その瞬間、大江老人の肩越しに見えていたサイズワくんの顔色が変わったのがはっきりと見えた。
 「……セタ? もしかして……。瀬田桂夜か!?」
 サイズワくんはわざわざ立ち上がり、こちらに歩み寄ってくる。その態度に、少し戸惑いながらも僕は「そ……うだけど?」と答える。
 「将棋部の合併の話、受けょぅ」
 「ほ、本当に?」突然の展開に、お礼を言おうと思っていたのだが――
 「ぁぁ、ただし……ぉれに勝負で勝てたらな!」
 大仰に親指を自身の顔に向けて、そう言い放ってきたではないか。
 一体、どういう心境の変化だろう。あまりに唐突に変わった表情と口調についていけていない。
 戸惑う僕を見て、サイズワくんは楽しそうにクックッ……と笑っている。
 「ぁの分厚い眼鏡はゃめてコンタクトにしたのか? 自分のことを『僕』って言わなくなったんだな。ぉかげで全然気づかなかったょ」
 「っ……! なんでそれを!?」
 中学に入ったときにコンタクトに変えて、高校に入ったときに自分のことを『俺』と呼ぶように変えた。それは、過去の自分を捨てるため。誰にも明示的に言った憶えは無い。
 それが分かるとしたら、小学生の僕を知っている人物しか……。
 「そっちは憶ぇてなぃだろぅが、ぉれも将棋をやってぃたんだよ。ぁの大会までな……」
 「あの大会?」
 「江辻が優勝し、キミが3位だったあの大会だょ」
 あの大会……、サイズワ……トオル、斎諏訪……徹!
 脳内で音の響きが漢字に変換されたことで、記憶がやっとフラッシュバックした。
 僕が一時期将棋をやめるきっかけになった将棋大会の3位決定戦の対戦相手じゃないか。
 「ぉれは当時からいち早くコンピュータを駆使し、様々な独自研究を行ってぃたんだ。将棋は二人零和有限確定完全情報ゲームだ。完全なる答えを出すのは難しぃにしても、序盤を圧倒的に有利に進められると踏んでぃた。自信満々だったょ。実際、準決勝までは楽勝だった」
 「……」
 斎諏訪はそこで一旦そこで話を切り、唇を湿らせる。僕は、もちろんその後の勝敗の結果を全て知っている。
 「ぁとはキミも知る通りだ。怪物・江辻にぁしらわれ、せめて3位と思って戦った相手にぉれは二度やられたわけだ、心ここにぁらずの奴にな!」
 「……」
 既に春、あのときの苦い記憶は払拭したはずなのに、頭の奥にじわりと滲んでくるものがあった。
 将棋で負けることは悔しい。自らの口で負けを宣言しなければならないと言う暗黙の掟があるかもしれない。本気で、真剣にやっている者ほど負けたときの悔しさは強くなる。勝ったときの記憶より、負けたときの記憶の方が強く、強く刻まれる。そして、それは長き時間を掛けてか、より強い勝利体験によってしか和らげることができないのだ。
 「そして今、ぉれのトラウマを解消する絶好の機会が訪れた、とぃぅわけだ。と一方的に話を進めたが、まさか逃げなぃょな? 心は起きてぃるか?」
 その言葉に、僕は覚醒した。
 「勝負って、具体的には何を?」
 元より、将棋部存続のためには無駄でない勝負だ。それが、過去の因縁に絡むものであれば、もはや避ける理由はない。
 受諾した僕をみて、斎諏訪は眼鏡のブリッジをすっと上げながら不敵に笑う。
 「ぉれの作ったプログラムと勝負してもらおぅか」
 「プログラム?」
 「そぅだ。ぉれが将棋を捨てて3年間。その間に磨き上げたスキルがプログラミングなんだ。文句はなぃだろ」
 「まぁ、そうだな」
 すっかり、ぉれも3年間将棋を捨てていたことを言い逃してしまった。いや、言う必要はなかったと思い直す。もう、そのことには後悔をしていないからだ。
 「そぅだな……単に指し将棋とぃうのも興がなぃか」
 斎諏訪が妙なことを言い出す。しばし考え込んだかと思うと、三本の指を立ててこちらに突きつけてきた。
 「三本勝負はどうだ?」
 「三本勝負?」
 「詰将棋作り、詰将棋解き、指し将棋だ。もちろん、指し将棋はキミとの勝負だ。部員があと一人、顧問もぃるんだろ? 残りの二つは、どちらか好きに割り振ればぃぃ」
 「ま、待て。話が急すぎ――」
 「部員が2人で第一部に存続できてるくらぃだ、少数精鋭揃ぃなんだろ?」
 明らかに暴論だが、有無を言わさぬ勢いで捲くし立てられて、反論の機会を見出せなかった。
 「ただし、本命の指し将棋の前に2勝で終わり、じゃ意味がなぃ。よって、勝ち星をこぅしよぅじゃなぃか」
 手許のノートパソコンになにやらカタカタと打ち込み、画面をこちらに向けてくる。
 

図_星取表

図_星取表

 
 「簡単に言えば、キミが勝ち、詰将棋勝負のぃずれかで勝たなぃと将棋部は勝ちにならなぃ、とぃうことだ」
 「む……」
 随分と足許を見られた条件に言葉を失う。とはいえ、電算研究部と合併する機会が生まれたことは歓迎だ。正直なところ、部員を増やすための次善策が今無い状態なのだから。
 「わかった。それぞれの詳細を詰めようじゃないか」
 そして、次のように詳細を決め、合意に至った。
 
 (1)詰将棋作り
  10分の制限時間の間に、より詰め手数の多い問題を作ったほうが勝ち。
  勿論、詰将棋の前提条件を満たしていない場合は失格とする。
  
  事前に問題を考えて来られないように、作成に使える駒は作成の直前に目隠し状態で駒を一掴みして決める。
 
 (2)詰将棋解き
  詰将棋作りで作った2つの問題を早く解いた方が勝ちとする。
  電算研究部は開始の合図の後、問題を入力開始すること。
  将棋部は開始の合図の後、すぐに解き始めてよい。
 
 (3)指し将棋
  先手・後手は当日振り駒で決める。
  メンツは、将棋部は瀬田桂夜、電算研究部は斎諏訪徹で固定とする。
  また、(1)(2)で将棋部が2敗した場合も勝負は執り行うこととする。
 
 (4)その他
  勝負は7月7日の月曜日、放課後。場所はサーバールーム事務スペースにて。
  当日、大江澄輝専門員を立会人とする。
  将棋部は(1)(2)のメンツを当日変更することができることとする。ただし、大矢高校将棋部員または大矢高校将棋部顧問の範囲に限る。
  電算研究部は作成済みプログラムを『臨時部員』として扱う。
  電算研究部は勝負前に大江専門員にプログラムを提出し、以後コードの改変を行わない。

 (3)の指し将棋勝負は必ず行うようにする、というのは斎諏訪の強い意向だった。先程までの『絶好の機会』云々の話からすれば当然の話だろう。
 それに対して、僕はうまいことメンツを変更できる算段を取り付けた。これは、僕一人で全てのカタがつけられるようにするためだ。美月や泉西先生が積極的にこういった勝負にのってくるとは考えづらいし、棋力的にも不安を感じてしまう。なにより、個人的な理由が勝負の始まりであり、本来無関係な面々を巻き込みたくないという気持ちが強かった。

 「さて、諸々決まったところで準備を始めさせてもらぅぞ。時間は貴重だからな」
 「準備?」
 「将棋は捨ててぃた、と言ったろ? 今から作りはじめるんだょ。3つ作らにゃならんからな……」
 「……!」
 てっきり、既に母体があってそれをチューニングするだけなのだと思い込んでいたので唖然とする。プログラムって、そんなに簡単に作れるようなものなのか?
 しかし、今は斎諏訪の心配をしているような状況ではない。こちらは、指し将棋と、詰将棋勝負で勝ち星を拾えるような策を考えなければならないのだ。
 特に詰将棋勝負の方は、正確に高速な演算ができるコンピューターの方が圧倒的に有利だから、何かしら対策が必要となるだろう。
 サーバールームから出ると、改めて一抹の不安にじわりじわりと襲われる。
 
 僕は、とりあえず部室に向かうことにした。
 昨日、美月と電話した時のことを思い出して、自然と足取りが重くなる。いかにも自信があるような表現をしてしまっていたからだ。
 もっと、交渉力があったら良かったのだろうか? いや、今あれこれ考えても後の祭だとは頭では分かっているつもりなのだが。
 部室のドアの前に立つ。口に溜まった唾をゴクリと飲み込む。
 ガラガラ……とドアを開けると、美月は約束どおりいてくれた。
 「や……やぁ」
 「で、どうだったの?」
 なんとも単刀直入だ。
 「一応順調だよ。来週の月曜日に詰めの話をする予定だから、もうちょっと掛かりそう」
 「ふーん」
 一応、心の準備はしていたので言葉は淀みない。あとは演技力だ。
 「あのさ」美月は僕の顔をじっと見つめてくる。
 「『もっと誰かを頼れ、利用する気持ちを持て』って誰のセリフだったっけ?」
 「……!」
 どうやら、女性の第六感というやつを少し甘くみすぎていたようだ。それとも、僕の演技力不足なのだろうか。何か、反応を、反論をしなければ隠し通せないのに、視線を合わせることができない。
 「……悪い。力を貸してほしいことがある」
 結局僕は、今朝の石井先生との話から斎諏訪との勝負の話までを伝えることにした。
 「そこでだ。美月には詰将棋の解く方で参加して欲しいんだ」
 美月は、毎日知識をインプットし直さなければならないという問題があるが、演算の速度は通常のニンゲンの域を超えている。本人に言うと嫌がるかもしれないが、それこそコンピュータのようなものだ。
 詰将棋のようにゴールがはっきりと定まった問題への解答は、恐らく僕よりも早く出せるのではないかという期待をしている。
 3戦のうち、まずは詰将棋の方でなんとか1勝しなければならない。詰将棋作りの方は勝てれば勿論ありがたいに決まっているが、はっきり言って「捨て」でいいと考えている。僕が兼任して、将棋入門の本に出てきそうな簡単な詰将棋を作ってしまうつもりだ。
 「参考になるか分からないけど、これ」
 僕は、カバンから詰将棋の本を取り出し、美月に差し出す。今日はそれを黙って受け取ってくれた。
 
 このとき、僕は一つ重要な過ちを犯していた。それは、作戦会議を『まめしば』などの学外で行わなかったことだ。
 学外ならば、ほぼ確実に美月とマンツーマンで作戦会議が進められたのだ。それを怠ったツケがたった今、訪れた。
 「ハロー。波浪注意報! やぁやぁ諸君、活動しまくってるかね?」
 何故、教育委員会はこの人に教員免許を与えてしまったのだろうか。大矢高校七不思議のひとつの枠を悠々と埋めている人物、泉西先生の闖入だ。
 これは、まずい。この大事な勝負に、絶対、この人を巻き込みたくない。この『巻き込みたくない』は泉西先生に対する思いやりではなく、あくまで僕個人の利己的な思いであることは言うまでもない。
 春の仮入部以来、泉西先生からは国語の知識以上に様々なトラブルを(予想通り)頂戴してきた。
 駒の動かし方さえ理解してないのに「将棋は畳が無いと始まらん!」などと訳の分からない理屈をこねて、格技室から畳を無断で拝借し、柔道部と剣道部から怒鳴り込まれたり。
 盤が汚いから、と水洗いして金曜日に放置。月曜日に見てみたら、キノコが生えていたり……。
 「ど、どうも泉西先生」
 「なんだよなんだ? 駒も並べずに将棋部かー? もしかして、透明な盤と駒を使っているとかか? バカには見えない駒なのか?」
 「そういうわけでは……」
 つい、「はい、つまり泉西先生には見えないんです」と心に浮かびそうになったのを必死でこらえ、急いで「夕食はカレーがいいなぁ」というイメージを強く心に描く。幸か不幸か、徐々に読心術に対する抵抗力が身についてきているようだ。
 「それより、見ろよ諸君。今日の和服、どーよ?」
 言われて見ると、確かに普段のくたびれた和服ではなく、生地も柄もしゃんとしたものを着ている。
 「今までのは親父のお下がりなんだよね。これ、奮発して買ったんだぜい」
 泉西先生は非常にご機嫌だ。きっと、普通の生活を送れている羨ましい大矢高校生達にしてみれば、その違いは言われないと微かにも分からないだろうが、僕は分かるようになってしまってきている。
 美月といい、もしかして人の僅かな表情や気分を察する能力が高まってきているのかもしれない。
 泉西先生は「さて、他の生徒どもに見せびらかすべく、校内を用もなくうろついてみるかなー」と呟きながら、踵を返した。これはありがたい。
 と。
 「――そういや、パソコンはもらったのか?」
 僅かに油断したところで、不意に振り返り、そう言われて僕は動揺してしまった。パソコンのキーワードで、さっきのやりとりが頭の中にフラッシュバックしてきてしまう。
 何か、弁明をしなければと思ったたが、時すでに遅し。
 「なんだよー。面白そうなことに巻き込まれてるじゃねーかよ。俺にもカッコつけさせろっ」
 そもそも作戦的には、詰将棋解き(美月)と指し将棋(僕)で1勝ずつする路線で考えていたため、詰将棋作りが空いているといえば空いているのだが……。
 泉西先生は近くにあった箱を空け、将棋の駒を盤の上に転がした。
 「瀬田。安心しろ。俺は、実に意外な才能も持っているのだ!」
 そういって、泉西先生が見せてくれた技に僕は少し驚いた。
 なるほど、これなら少し作戦の立てようもありそうだ。もしかしたら、詰将棋作りでも勝利を得られるかもしれない……。

 夕食後、リビングで来週月曜に迫った決戦に向けた作戦を練っていると、母がリビングにやってきた。手にはやはりピーナッツ入りの容器だ。
 今日はどうやらサスペンスもののようだ。題字に〈金の砂時計 ~前編~〉というテロップが現れた。
 ストーリーが進むにつれ現れる登場人物を見ると、結構豪華なキャスティングのようで、僕も知っている俳優が何名かいた。テレビ好きの母なら全員知っている可能性もある。
 部長として慎重かつ大胆な作戦を考えようとするものの、ついついテレビの方に意識がいってしまう。
 舞台は絶海の孤島に建つ豪奢な館。そこに住む館主が白昼堂々何者かに襲われる事件が起きる。絶命した館主の手には、砂金で作られた砂時計が握りしめられており――。
 探偵役は僅かな事実を積み重ね続け、犯行のトリック解明に至る。それを皆が集まった場で披露し始めたが……。
 「これ、映ってるの全員共犯ね」
 母はピーナッツを頬張りながら断定する。
 「えっ、なんで?」
 「女の勘。というのもあるけど、この豪華なキャストがその他大勢というのが不自然、というメタな見方もあるけど。
  本道で言うなら、それぞれ目的は違うけど、館主を亡き者にしたいという手段は全員がとる必要があったからだと思うね」
 一つの目的を叶えるために用意できる手段は一つだけとは限らない、父が良く口にしているが、そういうパターンもあるのか。
 僕ら将棋部ではどうだろう。
 僕、美月、泉西先生。将棋部を存続させたい理由は異なっているかもしれないが、一枚岩となり、結果としてそれぞれの目的を果たせるだろうか。
 テレビの中では、探偵役が推理を話し終えたところだった。
 一同は口々に絶賛を述べるが、その表情は一様にどこか自然さが微妙にズレたもので、画面越しなのに鳥肌が立つ恐怖を感じた。
 ここは絶海の孤島。このことを知るものはここにいる者のみ。即ち、第三者がいなければどんな事実も虚構になり、虚構さえ事実になる。
 登場人物の一人がわざわざそんなことを言葉にしはじめ……暗転。続きの後編は、なんと半年後のようだ。

 

 小説『Sum a Summer =総計の夏=』(5/5)に続く

小説『Sum a Summer =総計の夏=』(3/5)

第三章 『7月3日(木)』

 

 眼の下のくまが如実に物語るように、睡魔との戦いに図らずも善戦してしまった夜が明けた。
 今日は、1時間目に石井英美先生の英語、3時間目に丹治延登先生の数学がある。いつもより、深く術に掛かってしまいそうだ。場合によっては、現世に戻って来れないかもしれない。
 「おはよう……」
 台所に行くと、父が一人で新聞を広げていた。
 あ、そうか、木曜日だからか。
 瀬田家では、木曜日は母が朝遅寝とする日と(僕が生まれる前から)決められており、弁当支給はなし、朝食は各自となっている。よくよく考えてみると、サラリーマンも週に1日以上は休んでいるのだから、家事もそうあって異論はないというのが男子勢の見解だ。また、たまに買い食いするのも実は結構楽しみだったりする。
 僕の姿をみとめると、新聞を片して、コーヒーサーバを棚から取り出した。
 「桂夜ので淹れるぞ?」
 「ん、あ、ありがとう」
 父が珍しく話しかけてくる。今のは、父が僕の好みにあわせて二人分作るというニュアンスだ。好みの濃さや品種も異なるので、普段ならまずありえない展開だ。
 昨日の母の話を真面目に受け止めるなら、僕の顔がよほど凄くて『エアバッグ』が働いたということなのだろう。
 僕は好意に甘えることにして、ブラックを1杯頼んだ。
 父がコーヒーミルの準備を始める。棚の奥のほうから取り出したのは豪奢な缶だ。あれは、秘蔵のブルーマウンテンじゃないだろうか。
 ガリガリガリ……という音ともに、豆が挽かれ、辺りに芳醇な香りが広がった。正直、コーヒーは飲むよりこのにおいを嗅ぐのが幸せだと思っている。
 やがて、音が小さくなり完成した。それをサイフォンに移そうとしたときそれは起こった。
 「うわっ!」という不吉な声が発せられたかと思うと、挽いたばかりのコーヒーをテーブルにぶちまけてしまったのだ。そのうち、一部は床にもこぼれてしまった。
 「あー……」
 3秒ルールで、テーブルの上のいくらかはリカバリーできたが、これでは一人分しか淹れられないだろう。
 「桂夜、コロコロを!」
 「あっ、はいはい」
 コロコロとは、粘着テープがロール状に巻かれた掃除グッズだ。カーペットの髪の毛やゴミを取るときに重宝している。正式名称は、不明だ。
 床の粉を掃除して、一枚べりっとはがす。点在している茶色い粒が物悲しい。この一枚だけで、50円相当の価値がありそうだ。
 そのとき、何か頭に浮かびそうで、もどかしい感覚に襲われた。そんな僕の手許に、カップが置かれる。一杯のコーヒーだった。
 「……まぁ、飲め」
 一人前しか作れなかったコーヒーを父が譲ってくれたのだった。
 「ありがとう」素直に好意を受け入れて、一口飲む。やはり、美味しかった。
 頭が冴えてくると、先程のもやもやしたものが晴れ、頭の中が晴天に変わっていく。昨日のあの動きと、この形状が合わさると……。通学カバンからノートを取り出して、何度も何度も確認する。
 「恋破れて勉学あり、か」
 「そんなんじゃないって……!」
 国敗れて山河ありの改変だろうけど、別段上手くないぞ。本人は上手いこといった顔をしてるが。
 カップを持って、リビングの共有パソコン前に移動する。コーヒーを味わいながら、推測を裏付ける情報を検索していく。
 ……やはり。調べれば調べるほど、推測が正しい感じがしてくる。……しかし、しかしこれを伝えることは正しいことなのだろうか。この場合の依頼主は、答えを出されることを望んでいるのだろうか。

 ――問いに対して何にもレスポンスをしないヤツは社会で生きていけないぜ――

 何故か、このタイミングで。頭の中に泉西先生の言葉がよみがえる。
 ええい、迷っていてもしかたない。自分が思った答えを出すだけだ。
 「俺、もう行くから!」
 ノートを手早くしまうと、高校への道を急いだ。

 学校について、ノートだけ取り出してカバンをしまう。そして向かうは2組だ。
 2組の教室からは人気がない。はたして、目当ての人物は……。
 いた!
 「あ、琴羽野さん」
 「瀬田くん、おはよう」
 琴羽野さんは既に登校して、机で本を読んでいた。こちらに気づくと、すぐに本を閉じてこちらに駆け寄って来る。そして、ニコニコしてこちらの顔を窺ってくる。
 「ふふ、そろそろかなと思ってたの」
 「え……?」
 「ほら、この間もあっという間に解いてくれたじゃない?」
 そういえば、前に相談を受けたときは、奇跡的に一日で解けたなぁ。今回も、もし解けたなら2日という短期間な解決になる。推理探偵も真っ青だ。
 「今回はどうだか分からないけど……」
 「いいのいいの、聞かせて!」
 琴羽野さんも随分とテンションが上がってきている。傍から見たら、二人の仲を勘ぐられてもおかしくない意味深な会話だが、幸い朝も早く人はいない。
 僕は、ノートを取り出しながら自分の推理を話し始める。
 「最初は色々な可能性を考えたよ。おろし金……にしては凹凸が少なすぎるし、星図じゃないかとか、点を結んだら何かが浮かび上がるんじゃないかとか。他にも点字の可能性も疑ったんだけど……」
 一般的な6点式点字だとしても、凹凸の数が少なすぎた。それでは全く文字をなさなかったのだ。
 「それで、最後に思い至ったのが『オルゴール』だったんだ」
 「オルゴール!?」
 「そう、平板だから分かりづらいんだけどそうだと思って見ると、凹凸の具合とかそれっぽくない?」
 「うーん、そうかもだけど……」
 琴羽野さんはあごに手を当てて、口角をキューっとオームの小文字――ω――のように上げて頭の中にイメージを描こうとしているようだ。
 「じゃあさ、これどうやって丸めるの? なにに巻きつけるの?」
 「えーとね……。これ、多分、このままで使うんだよ」
 琴羽野さんの頭の上には『?』マークがいくつも浮かんでいるように見えた。僕はノートに図を描きながら説明を進める。
 「確か、金庫の中にゼンマイ仕掛けの車と歯の少ない櫛が一緒に入っていた、って言ってたよね?」
 琴羽野さんは頷く。
 「この金属板をある順番に並べて、その櫛をセットした車を走らせると……」
 「曲が……流れる!?」
 「そう、多分ね。曲は『ちいさなもりのおおきなき』だよ」
 凹凸を音符に置き換えてみたら、ベース音や和音が加味されているものの、メロディーが綺麗に浮かび上がってきた。

 

図_金属板回答

図_金属板回答

 

 「あれ、でもパーツが足りないんだね」
 琴羽野さんがノートのパターンBのところを差して指摘する。金庫に入っていたパターンBのパーツは一つだけだった。確かに普通に考えると曲を最後まで流すことは難しそうなのだが。
 「と思うでしょ。でもこの『走るオルゴール』なら、仮にパターンAがもう一枚なくなってしまっても平気なんだよ」
 僕は指を『車』に見立ててゆっくりと動かしていく。そして、指が2回目のパターンAの上に移った後、通り過ぎた直後のパターンBをその先に動かすような矢印をペンで書き込む。
 この動きは、あのテレビ番組〈芸能界 スポーツ伝説〉の〈ビート板渡り〉を見ていて思いついたのだ。
 「あっ、なるほど!」
 「ね?」
 とはいえ、偶然が重なった綱渡りのテクニックではある。パターンAとB以外ならばこの技は使えない。それでも、曲が最後まで演奏できるならば、オルゴールとしての価値は失われていないといえるだろう。
 「……すごい、やっぱりすごいよ瀬田くんは!」
 金属板の謎を解いたことに対してか、最後まで演奏させるテクニックに対してか、あるいはその両方か。
 自分でも、これほど上手く思考がはまってくれたことに驚いている。
 「なんか、前のお礼がまだ返せないうちにまた溜まっちゃった感じ……。本当にありがとうね」
 「いや、俺も頭を使うきっかけになったから。できれば、この間のテストの点に加算してほしいけどね」
 「そうだよ。『推理』って科目があったら、瀬田くん、絶対学年トップだよ!」
 徐々に2組の生徒が登校し始めてくる。あまり長居をしていると浮いてしまうので、そろそろ退散することにした。

 一週間の疲れも明らかに蓄積してくる木曜日。なんとか昼休みまでこぎつけた。
 今日はそれだけじゃない。昨日、美月に勢いで告白してしまって、その回答の時間が刻一刻と確実に近づいているのだ。
 二日連続で心臓がきゅうきゅうと痛む。寿命が一体何年縮んでしまったやら……。
 とりあえず、昼食でも買いに行こうかと教室を出ると、廊下でばったりと見慣れた銀縁メガネと目が合った。
 「あ、福路くん」
 「瀬田くん、昼食はいかに?」
 「今から購買部に買いに行くところ」
 「そうですか。それなら一緒に買いに行きませんか?」
 「もちろん」
 購買部の方に近づくと早くも賑わっていた。
 学外のコンビニに並んでいるような既製品も普通に売られているし、近くの料理店が学割価格で弁当を作って来てくれたりもしている。
 大矢高校には給食や食堂はないため、生徒は非常に重宝している。
 さて今日は何にしようか。年頃の男子は質より量! 重量対価格のハイコストパフォーマンス食品を探し出すため、割り算能力は無意識のうちに日々鍛えられている。
 麻婆豆腐弁当も美味しそうだが、ピーナッツコッペパンも捨てがたい……。でも先週はジャムコッペパンだったしなぁ、せめてパンにするならコロッケパンのような惣菜系がバランス的に大事か。あれ、コロッケってじゃがいもだけど野菜換算で良かったっけ。
 思い悩む僕の肩を、福路くんがツンツンとつついてきた。
 「ひとつ、趣向を凝らし、昼食を掛けた勝負といきませんか?」

 福路くんの提案はこうだった。
 昨日、『将棋で後手の勝率が高くなってきた』ときに例としてあげた変則的なジャンケンゲームで勝敗を決める。
 先手・後手は先んじてジャンケンで勝ったほうが選べる、というものだ。
 昨日話したように、あれは後手必勝のゲームだ。そもそもゲームといえるのかも怪しい。つまり、最初の先手後手を決めるジャンケンで実質勝敗は決まってしまうわけだが。
 「一応、手を選ぶのは相手が選んでから3秒以内」というルールも提案された。それによって、瞬間的に勘違いをしてしまうという落とし穴も一応あるわけだが……。
 「じゃあ最初のジャンケンから」
 「「ジャンケン……ホイ」」
 僕は、チョキ。福路くんは……パーだ。
 (よおーしっ!)
 ここしばらく病気になったり、テストが散々だったり、暴走告白したり、そんなことばかり続いていたから。久々に幸運に見舞われた気がする。
 ありがとう神様、ありがとう福路くん。
 「後攻で!」
 当然の選択である。あとは、「福路くんの選んだ手に対して、それに勝つ手を選んで」いけばOKだ。
 福路くんは小さく息を吐く。
 「……はじめましょう。まずグーね」
 「じゃあ、パー」
 順調順調。
 「ふむ……、ではパーすね」
 「じゃあ、チョ……、ちょっと待って」
 何だか分からないけど、ちょっとし違和感が〈跳躍(リープ)〉してきた。考えろ、考えるんだ。
 このまま僕がチョキを出したら、僕の残りはグー。福路くんの残りはチョキだから、めでたく僕の勝ちになるはずだ。
 福路くんはなんでこのゲームを提案したんだろうか。五分五分の勝負を単純に楽しむのであれば、ジャンケン1回で十分なはずだ。
 いたずらに時間をかければ、品物が売り切れてしまう可能性だってある。
 つまり……だ。なんらかの必勝法、少なくとも引き分け以上になるトラップが放たれている、という疑惑を抱くべきではないか。
 そして、3秒以内にあることに思い至った結果――
 「グー!」
 思い切ってグーを選択した。福路くんの残りがチョキだからみすみす勝てるグーを手放して、引き分けにしかならないチョキを最後に残した形になる。
 福路くんは一瞬息を呑んだが、徐々に表情を曇らせていく。
 「うーむ、見抜かれちゃいましたか」
 その言葉に、僕は自分の選択が間違っていなかったと確信できた。
 そう、さっき福路くんは「じゃあ、ここは〈パス〉ね」と言っていたのだ。
 つまり、2回目にパスを選択していた。
 確かに、先日の説明の段階にパスができないというルールには触れていなかった。
 その不備、というか抜け穴に福路くんは気づいたのだろう。
 整理しよう。
 さっきの段階で福路くんの残りはチョキとパー、僕はグーとチョキだった。
 手番は僕だから、パーに対応するチョキを選択するだろう。
 すると、福路くんはパー、僕はグーの状態で勝負となる、というのが普通のシナリオだ。僕も最初はそうとしか考えていなかった。
 しかし、実際は間にパスが挟まっていた。
 それにより、僕の残りはグー、福路くんはチョキとパーが残り、手番も彼が握っていることになる。
 僕がチョキを捨てた時点ではまだ勝負とならず、福路くんの手番で残るの一枚を選択することとなる。
 そこで、彼がチョキを捨ててパーを残したら――
 
 僕:グー
 福路くん:パー
 よって福路くんの勝ち、となってしまうのだ。
 
 グーを宣言しないで、こちらもパスを使う手もないわけではなかった。
 しかし、万が一「パスなんて卑怯ですよ! こちらはパーと言ってたのに」と開き直られてしまったら困るなと思ったのだ。
 彼の残りがチョキとパーなので、こちらはチョキさえ残しておけば負けだけはない。
 なるほど、後攻を選べたらそのまま通常の必勝法で勝ちにいけるし、先攻になったらこの特殊必勝法で引き分け以上を狙えるわけだ。

 「昨日の授業中にふと思いついたんですが……。いやはや、無念」
 校庭の日陰ができている花壇に腰掛けて福路くんが苦笑する。
 結局、福路くんは焼きそばパンとコーヒー牛乳を、僕はネギトロわさびおにぎりとコロッケパンとアップルジュースを各々で買った。
 飯を食べている最中は野生動物のごとく。お互いに黙々ともぐもぐしていたが、それぞれの飲み物だけ残った段階で徐々に会話を再開した。
 福路家では昨夜、校区内に新しくオープンしたレストランに行ってきたとか、瀬田家では父の悪食が問題視されているとか。
 教員のあだ名や、大矢高校七不思議、ゲームの新作が発売延期になって残念だ、などなど。男同士でも、話を始めれば想像以上に盛り上がるものである。
 一瞬、会話に間があいてふっと昨日の放課後のことが頭に蘇った。
 
 ――…………24時間考えさせて――
 
 僕と美月の距離はどうなってしまったのだろうか。あそこで告白をしなければ、少なくとも今までみたいに気軽に話をしたりできたんじゃないか。そう思うと、軽率だったと思うしかない。
 「瀬田くん、どうしたんだい?」
 知らず知らず唇を噛んで視線を彷徨わせていたらしい。福路くんが心配そうにこちらを見据えていた。
 「あ、あぁ、なんでもないよ」
 「ふーむ。恋ですか」
 ぎゅっ、と心臓が掴まれた思いがした。どうも、典型的な理系人間に思える福路くんだが色恋沙汰に関してはなかなかの感性を持っているのかもしれない。
 「実は昨日……」
 僕は、昨日の話を思い切ってしてみることにした。自分の中から吐き出してしまえば、それこそ笑い話にでも転換してしまえば楽になれそうな気がした。
 しかし、福路くんはすぐに反応せず、腕を組んで首をかしげている。その様子に、僕の方が心配になってくる。何か、よっぽどのタブーをしてしまっただろうか。
 「不可思議ですねぇ。あの織賀さんなら、即斬り捨て御免しそうなものですが」
 「えっ?」
 「バッサリした性格のようですから、イエスかノーは一瞬で断じそうなものです。また、あの頭のよさとルックスですから、告白を受ける経験なんて多々あるでしょう。告白慣れしてなくて時間稼ぎをしているようにも思えませんし……」
  つまり、幾分は脈があるのではないかと。最悪でも、回答を『考え』ているわけですから、OKの可能性は0%じゃない、と思いますけど」
 確かにそういう風に言ってもらえると救われる。福路くんのおかげで気持ちが幾分楽になった。とにもかくにも答えは美月のみぞ知るところだ、今じたばたしても仕方がない。今日の帰宅時間を、一体僕はどんな気持ちで迎えることになるのだろうか。

 そして放課後。握る拳の内側には汗がじっとりと滲んでいる。
 カバンを手に取り、いざ部室へ。そう気合いを入れた矢先、泉西先生が教壇から手招きをしているのに気づいた。
 「なんです?」
 「昨日言っていた、パソコンの件だ。専門棟の屋上の一番奥のサーバールームにいる大江室長に頼んでおいたから、この後もらいに言ってこい」
 「えっ、今から……ですか?」
 今からとなると、美月の件とバッティングしてしまう可能性がある。何とか、1時間後とかにずらせないないものだろうか。
 「おいおい、俺の顔を泥パックするつもりか? こちとら『明日、うちの下僕が行きますんで』って頭下げてるんだぜ。どうせお前、暇人ゼアーズノーヘブン♪ だろうが」
 「それは力強くは否定できないですけど、なにとぞ今だけは……」
 「くどい! カルピス原液のガムシロップ割り並みにくどい! さらば、おさらば、サラダバーだ!」
 突っこみどころを模索している間に、泉西先生は相変らずの俊敏さで教室を出て行ってしまった。
 となれば、残された僕にできるのは、迅速に要件を済ませて将棋部部室へ向かうことだけだ。

 僕は『廊下は走らない』という規則に遵守するため、生まれて初めて競歩を体験することとなった。
 「ここが、サーバールーム、か」
 息を整えながら見上げると、頭上のプレートには『サーバールーム』と書かれている。
 一般の高校であれば、どこかのレンタルサーバー業者の施設を利用するのが妥当だろう。大矢高校では学校運営の効率化のため、巨大なコンピュータを何台も稼動させていると入学パンフレットに書かれていたのを思い出す。
 ここがその中枢なのだろう。
 ドアを開けようとする。が、ビクともしない。
 よく見ると、ドアの脇に、カードリーダーとインターフォンが据え付けられていることに気づく。
 「なるほど、セキュリティ対策、ってやつか」
 確かにテストの点数とか試験問題とかが流出したら一大事だよなぁ。
 ニュースでも個人情報が流出して謝罪会見をしている人たちを良く見かける。どうでもいいことだが、会見の席で頭を下げたお偉いさん達の頭皮状態の情報が公にされてしまうのはなんだか矛盾している気がする。
 インターフォンを押して、反応を待つ。
 一拍置いて、「はいはい」と返事が返ってきた。
 「泉西先生の紹介で、パソコンをいただきにきたんですが……」
 「おお! 聞いとるよ! ちょっと待っとれ!」
 インターフォンの向こうから、随分としわがれた声が聞こえてきたので驚いた。
 コンピュータ関連の専門員だというから、若い人が担当していると無意識のうちに人物像を作り上げてしまっていたのだ。
 やがて、ピッという電子音のあと、ドアが開いた……が。姿が見えない。
 「おい! ここじゃ」
 言われて視線を下げると、腰を曲げたしわしわの老人が僕を見上げていた。頭はすっかり禿げ上がっており、その見た目は妖怪『こなきじじい』のようだった。
 「最近の若者は背ぇ高いのう……」
 老人はぶつぶつ言いながらも、口許は笑っている。どうやら、歓迎ムードではあるらしい。
 老人の後について入ると、ひんやりとした冷気に身体を包まれた。夏場には天国のような室温だ。
 「まず静電靴に履き替えるんじゃ」
 大江老人が指差したロッカーの中には、白いゴム製のサンダルが入っていた。体内で発生した静電気で精密な機械が破壊されるのを防ぐためだという。言われればなるほど、という感じだ。
 部屋の中を改めてみると、金網で手前と奥が分けられていた。金網の奥にはさらに金網に入った大きな機械が林立しているのが見えた。あれが、サーバーというやつだろう。
 (そういえば、父さんの仕事場もこんな感じなのかな)
 今いる手前の方の部屋は事務スペースのようだ。戸棚やデスクがあり、所狭しとダンボールがうずたかく積み重なっている。デスクの壁には大型ディスプレイと三色ランプが取り付けられている。これは、サーバーやネットワーク機器に異常が起きた時に通知してくれるものなのだという。
 「いただけるノートパソコンはどちらですか?」
 丁寧かつ単刀直入に尋ねる。心の中はアクセル全開だが、罪のない大江老人を不快にさせる訳にはいかない。
 大江老人は「おーい、サイボウ!」と声をあげる。
 細胞って何だ? と首をかしげていると、ダンボールの影から「何? じっちゃん」と男子生徒が顔を覗かせた。
 知らない顔だ。そして……、僕に言われたらオシマイだが、そいつは女の子に全くもてなさそうな風貌をしていた。
 体型は小太りで、無造作に伸ばした髪は肩に届くほど。メガネも福路くんがしているようなシャープな今時メガネでなく、昔ながらの丸い黒斑だ。
 「こやつはサイズワじゃ。こやつ一人でやってる電算研究部は部室がないんで、たまーにここに顔を出していくんじゃ。今日は、企業から譲り受けた中古ノーパソのOS再インストールを手伝ってもらっとる」
 部室がない、という言葉に心がざわめく。将棋部の行く末にある不安からか、部室のない電算研究部への憐れみなのかは分からない。
 「部活でノーパソを使いたいらしいんじゃ。テキトーに見繕ってあげなさい」
 「はぃょ」
 「わしはちょっとDATのテープの交換をしてくるからの」
 それだけ言うと、大江老人は金網の奥へ入っていってしまった。残されたのは、僕とサイズワくん二人きりだ。
 
 「スペックはどんくらぃがぃぃんだ?」
 「えっ……? えーと」
 急に尋ねられて戸惑ってしまう。普段全く意識していなかったからだ。
 自宅にも自分専用のノートパソコンがあるが、父親任せで「とりあえずメタリックなカッコいいやつ!」を買ってきてもらったのだ。
 いつも身近にあるのに、全然理解できてなかった。これは怠惰としか言いようがない。
 これを機に、少しパソコンのことを知っておかなくてはならない気がしてきた。
 「……スペック、って何?」
 「そこからかょ!」
 サイズワくんは大げさに天を仰いだ。
 「まぁぃぃ。今日はヒマだから付き合ぉぅ」
 はじめは渋々といった態度だったサイズワくんだったが、自分の知識を披露するのは嫌いじゃないようだ。質問には丁寧に答えてくれた。おかげで、僕のコンピュータレベルも3くらい上がった気がした。
 しかも、ノートパソコンの設定をいじりながらというのがスゴイ。
 「ところで、電算研究部ってどんなことやってるの?」
 「んー。経済予測とか、天気予測とか。インプットを与えて、分析と加工をして、アウトプットをするものは色々と挑戦してる」
 「それって結構凄くない?」
 「どぅだろぅなー」
 謙遜しているが、その横顔には自信が見え隠れしている。
 「と、ぅし。これで完成」
 「ありがとう」
 お礼を言い、ふと壁掛け時計を見てギョッとなる。既に放課後になって40分が経とうという時間だった。
 「ところで、このパソコン何に使……」
 「ごめん! 俺、今日は余裕なくて……っ。 今度ゆっくり話させてもらえるかな!?」
 そう言ってノートパソコンを小脇に挟み、僕は本日二度目の競歩を実施した。

 「わりぃ、遅くなった!」部室に到着して開口一番。反応は、なし。しかし、姿は確認できた。
 美月は窓際の柱にもたれて腕を組んでいる。そして、両眼は閉じられていた。
 怒ってる……のだろうか? そりゃそうだよな。何の連絡もなしにこれだけ遅れれば。
 そろりそろりと近づいてみる。
 「……美月?」
 「……」
 返事が無い、ただの美月のようだ。……ではなくて、かわりに聞こえてきたのは小さな声だった。
 「くぅ……」
 「寝息かよっ!」不覚にも、意識の無い当人につい突っこんでしまった。
 その後、「お~い」だの「朝だぜ!」だの耳元で声を掛けてみるが、全く起きる気配が無い。美月ってこんなキャラだったっけか?
 冷静に辺りを分析してみると、ここは風通しの良い日陰ポイントとなっており、なかなかに快適な環境だと分かった。
 なるほど、これは睡魔の大本営といっても過言ではあるまい。
 (むぅっ……。)
 冷静ついでに改まって観察する。美月の寝顔を見るのはもちろん初めてだ。あの笑窪のできる笑顔には及ぶべくもないが、普段の無表情からすれば、寝顔というのは自然体で十分に柔和な表情に見える。
 正直なところ、このまましばらく観賞していたい衝動にかられた。しかし、今日は諸々の事情もあるから、放っておくわけにはいかない。ここは一つ、肩でも揺すってみるか……。
 不可抗力とはいえ、身体に触れるのも初めてだ。間違って変なところ触らないようにしなければ! そう思うと、心拍が急に速くなっていく。
 と、その時。
 「んんっ……」
 幸か不幸か、美月は唐突に目覚めた。眼をパチパチとさせている。しかし、まだ完全には覚醒していないのか、その後ぼーっとこちらを見ている。
 そして、辺りを見回すと今度は僕の方を凝視してくる。
 まさか、寝ている間に僕が変なことをしたと勘ぐっているのではないか……!?
 いやいや、冤罪だ! まだ何も……いや、まだとかじゃなくて、何もしてないし、するつもりも無かったですってば! 心の中で叫ぶ。
 今度は、内ポケットからなにやら一枚紙を取り出して、その紙面をじっと眼で追っている。ここからでは何と書かれているかは分からなかった。
 それも読み終わると、そのまま携帯端末を取り出して恐る恐る操作を始める。まるで、初めて携帯端末を使う人間のように手つきがおぼつかない。
 僕は、どう行動したらいいものか判断できず、その場に立ち続けていた。しばらく、美月が携帯端末をいじる音だけが部屋に響いていた。
 やがて、「……ケーヤ?」そう言ってきた。まるで、何かを確かめるように。
 「そうだよ。今日は遅くなって悪かった」
 「……」
 美月の様子がどうもいつもと感じが違う気がする。
 「具合悪いのか?」僕は尋ねる。もしかして、快適だったから寝ていたのではなくて、具合が悪いのではないか心配になったのだ。
 「ちょっと、さっきから眠く……て……」
 そう言っている間にも瞼が落ちそうになっている。頭を振って、眠気を覚まそうとしているようだがどうにも効果が薄いようだ。
 「寝るのだけは、まずい。ケーヤ……なんとかして……」美月は珍しく、焦ったように僕に言ってくる。
 まずいって、僕が何かいたずらをすると警戒されているんだろうか……。教室で、そんなことするわけないだろっ!
 ……と、全力で否定はできないのが悲しい年頃男子の性だ。
 どうする? 保健室にでも連れていくか?
 僕は、ふと名案を思いつき、構えを取る。美月はその動作の意味に気づいたが、そのときには既にそれは発動していた。
 
 ――ペチッ。
 
 美月の額に、僕のデコピンが天使の羽根のような優しさでもって舞い降りた。
 いつぞやのお返しにと思ったものの、さすがに本気でというのははばかられ、後々の関係のためにも力はセーブしておいた。
 一瞬、きょとんとしたレアな表情を見せたかと思ったら、それはすぐにもとの無表情に戻り。
 「なんで、女子相手にデコピンとかする?」眼つきが普段以上に厳しくなっていく。
 「それは、そのー」
 「コーヒーとか、コーヒーとか、コーヒーとか色々と選択肢があるでしょ!?」
 そこまで責めてたなくても……と思ったものの、確かに、一般論的にはそれが普通だったか。
 しぶしぶと、バッグから財布を取り出して立ち上がる。1階の購買部にコーヒーを買いに行こうとしたら、再び要求が飛んでくる。
 「美味しいコーヒーじゃないと、ヤだよ」
 「……」
 購買部のコーヒーは、非常に熱くて、非常にまずいことで有名だ。このあたりは、コーヒー研究部が成分も含めて緻密な分析しているので科学的にも証明されている。
 これはつまり、暗に学外へ行って来いということだろう。非常に面倒だが、中央駅近くの『まめしば』までひとっ走りするか。往復で20分はかかるだろうけど、自分のレパートリーで一番美味しい店はそこしか思いつかない。
 バッグを掴むと、美月もバッグを手にして立ち上がっていた。
 「往復の時間がもったいないから」
 まあ、いいか。見方を変えればある意味デートと言えなくもない。相当なプラス思考だが。
 そういえば、一緒に外出するのは江辻と対局をしたあの日以来になる。
 校舎を出て、校門を通り過ぎ、中央駅の方向へ向かっていく。僕が僅かに先導する形だが、基本的には並んで歩いている。
 隣を見ると、美月は携帯端末をいじりながら大人しく付いてきている。
 僕の考えすぎかもしれないが、通りすがりの人たちがみんなこちらを見ている気がする。同い年くらいの男女が横に並んで歩いていたら、間違いなくカップルだと断定されてもおかしくない。「男のほうが釣り合ってないよねー」とか笑いものにされていたりして……。
 不良に絡まれたらどうしよう。一人なら走って逃げられるかもしれないが、まさか美月を置いていくわけにもいかない。こんなときのために格闘技でも習っておくんだったか……。とにかく、人通りの多いメインストリートをできるだけ使うようにして……。
 ところどころの交叉点で青信号に恵まれたこともあって、あれやこれや考えているうちにあと少しというところまで来ることができた。こんなに順調に進めたならば、もっと会話とかして楽しめば良かった。後悔先に立たず。
 「もう少し、そこ曲がったらあとは一直線――」
 と、振り返ったその時。美月の身体がよろっと前に傾いた。反射的に腕を伸ばして、地面に倒れそうになるところをくいとめることができた。
 「お、おい、美月?」
 返事がない。やっぱり、無理に外出させたのは失敗だったのだろうか。
 しかし、どうしたものか。『まめしば』まではあと少しだというのに……。
 店長を呼んで手伝ってもらおうか。いや、あのひょろっとした店長じゃちょっと頼りなさそうだ、むしろ僕のほうが体力ありそうに思える……。
 しかし、通行人に助けを求めるのは大げさすぎる気がする。でも、日中とはいえ、道端に無意識の女の子を一人残しておくのは色々とまずい気がする。
 こうなったら。
 美月の前に回りこみ、「せーの!」という掛け声と同時に、美月を背負う。
 身長は頭一つくらいしか変わらないはずなのだが、その身体は思った以上に軽かった。これならば、『まめしば』までは何とか辿り着けそうだ。
 一歩一歩進み、慣れていくうちに、徐々に背中に感じる感触に気づく余裕が生まれてしまった。先日から夏服に切り替わったのはこの場合、良かったのか悪かったのやら。ついでに言うと、両手は両手で柔らかな乙女の太腿をしっかりと抱えているわけだ。
 何度でも、何度でも繰り返しましょう。僕も健康で健全な16の男子なのです。いいですか皆さん不可抗力という言葉はご存知ですよね?
 脳内に次から次へと、煩悩と弁解が浮かんでは消え浮かんでは消え。そのうちそれらが激しい百年戦争を始め、気づけば互いに友情が芽生えて、互いに握手をはじめようとしたりして――
 あぁ、精神が崩壊しそうだ。これ、何の修行ですか?
 
 自我の崩壊は免れた。無事、約束の地『まめしば』に着いたのだ。この偉業は、後世きっと論語に並ぶ聖典として記録されることだろう。
 「こんちはー……」
 木製のドアを身体で押しながら開けると、ふわっと香ばしいコーヒー豆の香りに全身が包まれた。
 「あ……、け、け、桂夜くん。ひ、ひ、久し振り……」
 カウンターから店長が声を掛けてくる。が、僕の背後を見るとただごとじゃないと思ってくれたのか、入口の方にすぐ駆け寄ってきてくれた。
 顔も腕も脚も、およそ全身の全てのパーツが細長い、ひょろっとした中年男性。
 その風貌、かつ、口もそれほど達者でないため、冴えないサラリーマンのように思われがちだが、ことコーヒーの知識と腕前に関しては相当なものをもっている。
 「趣味、コーヒー」を公言する、うちの父が唯一認めるバリスタなのだ。父とは学生時代の同級生らしい。
 「そ、そ、その子……だ、だ、大丈夫??」
 「具合が悪いとかじゃないと思います。さっきからすごい眠たがってて……。とりあえず、ドリップ2つと奥のソファ席いいですか?」
 「も、も、もちろん。い、い、急いで作るよ……!!」
 奥のソファ席はコの字型になっており、1人掛け・2人掛け・1人掛けで合計4人座ることができる。幸い、他の客はいなかったので、遠慮なく二人で使うことができそうだが……。どうしよう。
 2人なのだから、2人掛けソファを使うのは自然だろう。だけど、仕切りが無いから、もたれ掛かってこられたらと思うと思考回路はショート寸前だ。
 (とにかく……倒れないようにはしないと)
 まずは、美月を1人掛け席に静かに腰掛けさせて、さて自分はどこに座ろうかと思案する。
 2人掛けソファーの角に座る、ってことも考えられたが、1人掛けソファがあるのに1人で2人掛けソファに座ることに不自然さも感じる。
 そして、結局一番遠い位置にある1人掛けソファに座り、対面するかたちとなってしまった。
 (なんか、昔流行した歌でこんな状況のあったよなぁ……)自らの情けなさを嘆く。
 今すぐすることもなくなったので店の壁を見回す。実は、奥のこのスペースに来たことはほとんどない。壁には、コーヒー農園の写真や店長の愛犬の写真が所々に飾られていた。これらの写真と店名からも分かるとおり、店長はコーヒーと同じくらいマメシバが好きなのだ。僕も柴犬は好きなので、非常に癒される。
 しばらく後、店長が姿を現して、ブレンド2つを僕達の前に置いた。作り置きでなく、一から作ったとは思えない速さだ。定番サービスのチョコ2枚も丁寧に添えられている。
 「ありがとうございます」
 「と、と、とりあえず。な、な、何かあったら遠慮なく声掛けてね……?」
 そう言って店長はカウンターの方へ戻っていった。
 このソファ席はカウンターや他の席からは見えず、一番奥なので音も静かだ。落ち着いて話をするには格好のロケーションだ。美月が起きたら、例の話などをついでに聞いてしまうのがいいだろう。
 隣を見遣るが、まだ起きる気配は無い。冷めてしまうのももったいないので、お先に一口頂くことにした。
 口に含むと、その瞬間から広がる程よい苦味と酸味。やはり店長の淹れたものは絶妙だ。父も決して下手ではないのだが、味が濃すぎる。家族からは「豆を直接食えばいいのに」と散々アドバイスされているレベルだ。
 僕のカップが3分の1くらいになった頃、コーヒーの香りが効果的だったのか、美月が静かに眼を開いた。
 「おっ、起きたか」
 望みを叶えてあげたし、道中では背負ってあげたりもした(気づいていないかもしれないが)。
 告白の判断ポイントにプラスしてもらってもいいよ、とか、まずはお礼の反応が来るかな、と構えていたが、美月は店の中や僕の顔を凝視したり、ボーっとした眼で見たりを繰り返している。
 そして、内ポケットを探ると紙切れを一枚を取り出して、それをじっと見つめ始める。
 (あれ、この動きって……?)
 紙を読み終わると、携帯端末を取り出して恐る恐る操作しはじめ、「……ケーヤ?」と尋ねてきた。あたかも、先程の部室を再生したみたいな状況だ。
 美月は冗談や悪ふざけをするようなタイプじゃない。明らかにおかしい。おかしすぎる。僕の直感はそう訴えてくる。下手をしたら、脳の障害を起こしている可能性があるのではないか?
 「美月、どうした?」
 「……何が?」
 表情や口調は普段と変わらぬまま尋ね返してくるが、僕は引き下がらない。
 「さっきからおかしいぞ。寝て、起きると、しばらく別人みたいになってる」
 「……」
 「……」
 無言で見詰め合う。普段だったら、つい気恥ずかしさでそらしてしまったかもしれないが、今は不思議とそういうことにはならなかった。むしろ。
 「俺に言えないことでもあるのか?
  ……そりゃ、頼りなさそうに見えるかもしれないけど、美月の知らないところで、いろんな人からの不可解な謎や相談ごととか、自分でいうのもなんだけど結構ズバッと解決したりしてるんだぞ?
  美月のことだって、話してくれさえすれば――」
 「――そんなに聞きたいなら、話したげる」
 俺の言葉に重ねるようにそう言ってから、美月は目の前に置かれているコーヒーをゆったりとした仕草で一飲みして、続けた。
 「すごく簡単に言えば、あたし、永続的な記憶が上手くできないの。起きてる間は平気だけど、一回寝たら、その前までのことほぼ全部忘れちゃうの」
 寝たら忘れる? 確かに、さっきからのおかしな状態は辻褄が合うといえば合う。だがしかし、そんなフィクションみたいなことが現実に起こるものなのか……?
 「その代償なのかは分かんないけど、一時記憶と演算は人並み以上にできる。おかげで、日常生活にはそんなに支障はないわけだけど」
 僕の頭の中に、将棋を教えたときの飲み込みの早さ、先日の成績発表のことなどが次々とフラッシュバックされた。
 単純な知識とその処理ももちろんだが、その延長線上には暗黙知――いわゆる、コツのようなものがあるのだろう。
 「あんまり、驚かないんだね。もしかして、冗談言ってると思ってる?」
 「そうじゃないよ、むしろ腑に落ちてすっきりした」
 泉西先生の謎の読心術を目の当たりにしている身としては、コンピュータみたいなものすごい処理能力を持ったニンゲンの方がまだ現実的だとも思えた。泉西先生の秘密に最初に出会えていたのは、今回のことを考えるとラッキーだったのかもしれない。
 僕の反応で少し安心できたのか、美月はぽつりぽつりと話を続けていく。
 言語や日常生活を送るうえで最低限の行動など、寝ても失われない情報や記憶もいくらかはあること。
 周りの人達に不審がられないように、その日のあらゆるできごとや発言を毎晩何時間もかけて思い出し、携帯端末に記録していること。
 朝目覚めたらすぐ、昨日までのその記録を全て読み返してインプットしなおしていること。
 推測だが、ほとんどの日、放課後すぐに帰ってしまうのは日中の記録をつける時間の確保と同時に、記録対象になる情報を減らす意味合いもあったのだろう。
 先日、サイズワくんから聞いたパソコンの仕組みの話を思い出した。
 主記憶装置は電源を落とすとデータを維持できない。そのため、HDDなどの補助記憶装置にデータを記録している。さらに足りない場合は外付けのHDD、MO、USBメモリといった外部記憶装置を使うことになる。
 ニンゲンで言えば、主記憶装置が一時記憶、補助記憶装置が永続記憶、外部記憶装置が写真や日記などと結びつけるとイメージに近くなるだろうか。
 たまに、寝覚めの瞬間『今がいつなのか、どういう状況下なのか』が分からず、段々と『思い出し』てから活動をはじめたことがあったなと思い出した。普通のニンゲンなら、一時記憶がなくなっても補助記憶装置からすぐ呼び戻すことができる。だから、僕達は安心して毎晩眠れているのだ。
 美月はさっき『支障がない』と言った。慣れてしまえば問題が無いものなのだろうか。しかし、美月の次の言葉に言葉を失った。
 「日記に『こんなことがあって、こう思った』っていくら詳細に書いても、翌日のあたしには他人の日記を読んでいるのとなんら変わりないんだよね」
 味や匂いでさえ、言葉だけで思い出すことは簡単じゃない。それが気持ちとか感情のようなものであれば尚更だ。そして、それが本当に全く心当たりがないものだとすれば……。すぐに想像ができないが、それってとても辛いことじゃないか?
 「……はぁ、日中に眠くなったことなんて今まで全くなかったんだけど。昨日のあたし、全然寝付けないほど考え事してたみたい……」
 そう言われて、僕はドキッとした。約束していた告白の回答はまさに今の時間帯だった。
 「ちなみに、携帯端末のスケジュール欄に『告白の返事』ってあるんだけど?」
 「あ、あぁ……昨日、ちょっとそういうやりとりがあって」どういった反応をすればいいか、咄嗟に対応できなかった。我ながら情けない。
 「寝落ちばっかしてたせいか、途中の検討メモも何も残ってないみたい。だから、〈今日のあたし〉が答えるよ? つまり、〈昨日のあたし〉の描いていた答えと違うかもしれないけど。それは了承してよ?」
 つまり、昼休みに福路くんがしてくれた希望的観測は一切なかったことになるわけか……。しかし、昨日と今日では情報量にそれほど変化はないはずだ。〈昨日の美月〉がそれまで引き継いでいた情報を元に悩んでいたのだとしたら、〈今日の美月〉の結果は大きくは変わっていないはずだ。
 「たとえ〈今日のあたし〉が誰かを好きになっても、〈翌日のあたし〉も好きなままでいる保証はない。相手だって、そんな女をずっと好きになり続けられるはずがない」
 この話の流れって――。自分の唾を飲む音が、大きく聞こえる。
 「だから。悪いけど、無理。付き合えない」
 やっぱりか。途中からそういう流れになっている気はしていたけど、いざ言葉にされると辛いものがある。よく心にナイフが刺さったとかいう比喩があるが、的を射ている気がする。胸の辺りが一瞬の痛みのあと、じわじわと熱くなってくるのを感じる。
 僕の心臓はここ数日で相当ボロボロになったか、相当強靭なったかのどちらかだろう。
 しかし、僕は堪えた。感情によって言葉が震えたりしないように、意識しながら言葉を話す。
 「今の美月の推理で構わない。〈昨日の美月〉は俺の告白をすぐ断らなかったと思う?」
 「あたしの演算では、この騙し騙しの生活はあと4年程度で破綻する。蓄積した情報量が、毎日の許容できるインプット時間をオーバーするの。こんな生活を――障碍を劇的に解決できるような魔法探しに、ケーヤの可能性や閃きに期待したかったんじゃない?」
 美月は再び珈琲カップに口をつけてから、「でもそれは、全然恋愛とは違う。便利な道具を利用するような不純な動機」と小さく呟いた。
 なるほど。容姿も冴えない僕に、美月みたいな子が近づいてきた理由がわずかに理解できた気がする。
 「……そうか。事情は分かった」僕はソファを座りなおしながら、美月がカップを置くのを待った。そして。
 「もう一回言う。俺と付き合ってくれ」
 「……!?」
 美月は珍しく驚いた表情を浮かべる。しかし、それは一瞬だけだった。すぐに表情を平静に戻して「もしかして、耳栓してるの?」と存外に責めてくる。
 「事情は分かったと言ったろ」僕はさらりと返す。自分の中で解法が導けた以上、迷いはなかった。僕は引かない。引く気はなかった。
 「付き合うのに、動機が不純じゃだめなんて、誰が決めたんだよ? 一緒にいたい、声を聞きたい、そういうのだって広義に言えば自分の気持ちを満たすためだけの欲と言えるはずじゃないか」
 「それは普通の人達の場合でしょ。あたしは記憶が……」
 「じゃあ、そんなの、俺が毎日告白すればいいだけの話じゃないか。普通の人達はさぞ羨ましいだろうな。『3年目のジンクス』がいつまで経っても来ないんだから」
 我ながら、よくもこんな言葉が出てきたものだ。これには、さすがの美月も言葉を失っている。
 「将棋の竜王も、チェスのクイーンも。どっちも強力な駒だけど、それ単体じゃ相手の王を詰めることは絶対にできないんだ。
 美月はなんでも自分でできすぎるから……。もっと誰かを頼る――いや、利用するくらいの気持ちを持ってるくらいで丁度いいと思う」
 美月は深いため息を吐いた。それは、不快感の表れではなく、いままで大量にためこんでいた悩みごとを開放したような感じだった。
 そして、胸ポケットから例の紙をカバンからペンを取り出すと何かを書き込み始めた。
 「……ここに『瀬田桂夜を頼れ』って書いた。あたしが困ってるとき、絶対に、助けに来てよね」
 大きな壁を越えたかと思ったら、より大きな壁がやってきた。でも、この壁は一人で立ち向かわなくていいのだ。
 1+1が2以上にできるから、人は協力し、文明を発達させて来られた。
 前もって用意したわけでもないのに、美月の返事に対する言葉は自然と出てきた。
 「心配ないよ。『名は体を表す』っていうし」
 将棋での桂はチェスで言う騎士(ナイト)だ。そして、桂(K)と夜(NIGHT)は騎士(KNIGHT)だ。
 一番最初に出会ったときに交わした自己紹介のことを今の美月は絶対覚えていない、というかこの世界にもういない。しばらくして、目の前の美月もようやくその意味に気づいてくれた。
 「もしかして、キザなの?」そう言いながらほんの僅かに苦笑した美月を見ていると、とてもそうは思えなかった。
 楽観的すぎるかもしれないけれど、その表情だけできっと将来奇跡は起こせるんじゃないか、と思えた。
 
 僕は、お代わりのコーヒーをカウンターにもらいに行った。
 「け、け、桂夜くん……。や、や、やるねぇ」
 すっかり聞かれていたようだ。思わず顔が赤くなる。いくら一番奥の席だといっても小さな店だ。そして、ヒートアップして少し声のボリュームを上げてしまっていたようだ。
 「あ……は、はぁ」先程の自分の勢いはどこへやら、2つのカップを手にしてそそくさとソファ席に戻っていく。
 コーヒーをテーブルに置くと、「ありがと」と反応が返ってくる。二人の関係が明示的に変わったからだろうか、それとも僕の思い込みか、美月との間には全く壁を感じなくなってきている。
 テスト終了の開放感を凌ぐ程の高揚感を必死に抑えて、僕は晴れて彼女(というと語弊がありそうだが、適当な言葉もないのでもう彼女と表現することにした)になった美月に向き直る。
 そうなのだ。告白の返事を聞くのもそうだが、もう一つ美月としたい話があるのだ。
 「実は、将棋部が大変なことになってるんだ」
 僕は、やっとこの段階で総会でのできごとを伝えることができた。そして、何かいいアイディアがないか、と問う。
 美月は少し考えて「その七三メガネの言っていた、将棋部が最低要件を満たしていないっていうのが気になる」と言った。
 「生徒手帳貸して」
 「先日、Yシャツのポケットに入れっぱなしにしていて洗濯機で粉々になってしまった……」
 「……自分の見るからいい」
 美月はカバンから小さな手帳を取り出すとペラペラとめくり始める。40頁くらいはあるはずだが、僅か10秒で作業を終える。
 「もしかして、もうインプットした?」
 「うん」
 速読というのだろうか、僕には真似できない行動だ。毎日、情報をインプットしなおしているというのは嘘ではないようだ。
 「部活動設立時の部員の最低人数は3人必要みたいね。一旦設立してしまえばその後は人数を問われないみたいだけど」
 3人の制限というのは安易に乱立されないための制限なのだろう。その後の維持に部員数が問われないのは、例えば不幸な事故や転校などで部員が減ったときにも、残された部員が活動を続けられるようにするためなのだろう。
 会則上では特に問題がなさそうだけど、消去法で他の部と比べるならば、部員数という点で大きなハンディキャップがあったわけだ。
 つまり、大なり小なり夏の大会で成績をあげたとしてもその一点で不適格と押し切られてしまう可能性はずっと残り続けてしまうかもしれない。
 「部員を増やすしかないのか」
 「それは無理みたい」
 美月の解説いわく。生徒が部活の所属を異動できるのは春の仮入部期間のみと定められている。(確かに、そのために僕達一年生は必死に動き回っていた)
 対象の人数こそ少ないが、2年生や3年生もその期間に異動をしたり、掛け持ちを増やしたりしていたのだ。
 「つまり、7月から10月の間に新たにヘッドハンティングしたり、掛け持ちしてもらうというのはNGなのか……」
 仲の良い福路くんや勝田くんに頭を下げてみようかと思っていたが、それは即廃案となってしまった。
 奥地会長は恐らくそれを知っていたから、あの時すんなりと妥結したのかもしれない。3ヶ月だろうが半年だろうが無理なのだよ、という嘲笑が聞こえてくるようだ。
 「とりあえず、続きはまた明日考えよう」
 気づけば、部活動の時間としては終わりの時間になっていた。美月の記録の時間を削るわけにはいかない。今日のところは、一旦お開きとすることにした。
 
自宅に帰ると、玄関に父の革靴が眼に入る。仕事人間で、こんなに早く帰ってくることなどそうそうないのだが。
などと思っていると、寝巻きを着て、階段を上がっていく父の後ろ姿が眼に入った。体調でも崩して早退したのだろうか。
「父、どうしたんだ?」台所に行き、父の茶碗を洗っている母親に尋ねる。
「え? あぁ、実はね……」
聞けば、父のヘッドハンティングの話が水泡と化したのだという。
大手の会社が父以外にも食指を伸ばした結果、今の会社がそれに気付き猛然と抗議。業界全体の反発を避けるため、会社ごと買収を仕掛けてしまったというのだ。
結果的には、『ヘッドハンティングしなかった』不要な人材も組み入れることになった。父個人で見ると給与も上がらず、ただ会社の名前が変わるだけという結果に終わったのだ。
 「まぁ、ああなっても、明日の朝になったら何事もなかったかのように、会社に行くのよ。ピンチはチャンスにするきっかけだからねぇ。急性アル中になって苦しんだと思ったら、超絶女子と付き合って結婚までしちゃうんだから人生は良くできてるわ」
 「……はいはい」相変らず達者な口に苦笑する。
 まあしかし。父観察の第一人者である母が言うのだから、きっと問題はないのだろう。
 少なくとも、『ピンチはチャンスのきっかけ』は真理だろう。将棋でも、取られそうな瞬間の駒は最大限に働く……という不思議な局面が驚くほどよく訪れるのだ。
 「ご飯の量は?」
 「特盛」
 愚問だ。男子高校生の食欲を甘く見てもらっては困る。
 今日の献立は……チンジャオロースーか。ピーマン嫌いの僕にとっては、半分が毒でできているようなものだ。
 幸い、母親は明日の弁当の仕込みや皿洗いの真っ最中。こちらを常に監視しているわけではない。ここは『空城の計、桂夜バージョン』だ。
 盛られている具のうち、肉とタケノコをいただく。偏って食べたことが発覚しないよう、内部にピーマンばかりの層を作った後、適度なバランスをした層を上に作り上げる。
 ピンチをチャンスに。僕、さえてるなぁ。
 そして、タケノコを咀嚼した瞬間。身体に衝撃が走った。
 「げぇ!」思わず悲鳴を上げる。この食感、この味、紛れもなくピーマンだ。何故……?
 「ふふふ、桂夜討ち取ったり~」
 母親が振り返る。涙目の僕を見て、満面の笑みを浮かべてVサインをしている。
 「それ、海外で品種改良した白ピーマンなのよ。ちょっと黄色くして、形も真っ直ぐになるようにしたらタケノコにそっくりなの」
 「ちくしょう……、無益な研究費使いやがって……」愚かなるその食品メーカーには、早晩、神の裁きが下るだろう。
 「さすがに肉は難しいから諦めたけどね。まぁ、チンジャオロースーにタケノコを使ってはいけないってルールはないしね」
 「俺のレシピブックにはピーマンという言葉は載ってないけどな!」
 「あ~ら、生徒手帳をうっかり粉々にしてしまった人のセリフじゃないわねぇ」
 悔しいが、今回は負けを認めるしかない。
 む?
 ピーマンの苦味が刺激となったのか、僕の頭にふっとアイディアが浮かぶ。
 小皿に取り分けてしまったピーマンを大量のごはんを使って飲み込みながら、僕はなおも考える。
 もしかして、これは……突破口になりうるか?
 そして、一気に食べ終えると、茶を一杯流し込む。
 「みかん、あるよ?」
 「あとで!」
 とにかく、一人の考えじゃ不安だ。美月に検証してもらおう。
 
 自室に戻り、携帯端末を開く。ア行の一番最後に入っている「織賀美月」の4文字を見て、少しどきっとする。
 ついに、電話番号も交換してしまったという事実にまだ頭がなじんでいないのだ。
 少しの間、行動を起こしあぐねていたが、あまりもたもたしているわけにもいかない。何時に就寝するのか分からないからだ。電話に出てくれても、寝起きだったとしたら話を最初からしなくてはならなくて大変だ。
 「もしもし、美月? まだ起きてる?」
 「そうだけど。何?」
 ここは単刀直入に。僕は、考えていたことを言ってみた。
 「――確かに、生徒会則上は可能だと思う。でも、そんな都合のいい部活があると思えないけど?」
 「それがあるんだ。まぁ、今はとにかく何でもやってみるしかないし。明日、また部室で」
 「うん」
 電話を切る。
 よし、とりあえず信頼の置ける頭脳からは『可能』という言葉がもらえた。あとは、僕の日頃の行いと、演技力次第か。
 今夜も緊張で眠れなくなりそうだと判断し、自室の床で腕立て伏せや腹筋を猛烈に行う。身体を疲れさせて、寝つきを良くしようという作戦だ。
 結局、僕はその日良く眠れた。
 筋トレで身体が疲労したのがよかったのか、夕食のピーマンで精神的に疲労したのがよかったのかは定かではない。

 

 小説『Sum a Summer =総計の夏=』(4/5)に続く

小説『Sum a Summer =総計の夏=』(2/5)

第二章 『7月2日(水)』

 

 心臓が痛い。
 といっても、別に悪い病気にかかったとか、昨日の寿司ネタが傷んでいたとか、古い雑誌やマンガの魔力で夜を無為に過ごしてしまったとか、そういうことではない。極度の緊張が原因だ。
 恐るべきことに、大矢高校ではテストの翌日朝一番から期末テストの成績発表を行うのだ。
 初日や二日目のテストなら、まだ採点の時間はそれなりに確保できるのかもしれない。しかし、一学年300人近くいることを考えると、神の業としか思えない。身体をサイボーグ化した教師がいるらしいとか、地下に大量のコビトさんが待機しているとかいう噂もあるようだ。何故か、そのあたりのカラクリを生徒は誰一人知らないため学園の七不思議の一つとなっている。
 といっても、実名を発表されるのは各科目の上位10名までだ。名前が載るならひたすら名誉だし、載らなかったとしてもビリなのか11位なのかは本人のみぞ知ることで、やはり緊張は無用とは頭では分かっているのだが。
 英語は答案を回収された時点で惨憺たる有様だった。なので、はじめから期待していない。倫理と現代国語はまずまずの手ごたえだったので、それだけが数少ない希望の光だ。
 学校に着くと、屋外掲示板には早くも人だかりができていた。
 思えば、高校の合格発表もここで大喜びしてたもんだなぁ。つい昨日のことのようだが、もう3ヶ月も前のできごとだ。
 生徒と生徒の間から貼り紙を伺う。これは、英語か。まぁ、これは捨てだからな! と思いつつ、恐る恐る10位のところから上に視線を移していく。
 ……ない、……ない、……ない、……ない、……ない。
 というか、あんな意地の悪い問題ばかりで高得点を取れるこいつら、おかしくないか? きっと、奥地会長みたいな典型的ガリ勉タイプばかりに違いない。
 乗りかけた舟だ、残りの5人も見届けてやるか。見上げた僕は息を呑んだ。

 織賀美月 100点

 ……おかしい奴が存外身近にいたようだ。おかげで先程までのドキドキ感は一気に霧散してしまった。
 その後、物理・歴史・数学でも一文字違わぬ表示を目の当たりにすることとなった。
 最後が国語だ。さすが、カオスの伝道師たる泉西潮成というべきか。最高点が79点であった。すっかり、「織賀美月 100点」に見慣れてきたところだが、国語の美月の点は68点で9位だった。
 あの美月にも不得手があるのかと思うと、少し安心したような不思議な気持ちになった。それでも10位以内に入るあたりはさすがなのかもしれない。
 残念なことに僕の名前はなかった。どうやら、泉西マジックにみごとにはまったようだ。手ごたえがそれなりにあっただけに微妙なショックを感じる。
 肩を落として、教室に向かおうとすると見覚えのある顔と目が合った。
 銀縁のメガネのブリッジをくいっと持ち上げて、挨拶をしてくる。
 「お、瀬田くん。ご無沙汰ですね」
 「福路くん、久し振り」
 彼は、福路浩二。科学部に在籍しており、以前ちょっとした相談ごとをきっかけに知り合うことになった。
 「福路くん、科学部だったね。化学とかどうだった?」
 「全然さ。白衣が泣いているよ」
 福路くんは少し大げさに天を仰いで「昼休みにヒトミに慰めてもらおうかな……」と呟いた。
 福路くんは中学から付き合っている彼女がいるんだよなぁ。羨ましいことだ。二人揃えば、悲しさ半減嬉しさ倍増だよなぁ。
 僕の表情に羨望が浮かんだのを感じ取ったか、福路くんは顔を近づけてくる。
 「……ときに瀬田くん。彼女は作らないのかい?」
 あまりにストレートな問いかけに、息が詰まった。そりゃ、作れるものなら作りたいけれど、彼女などそう簡単にできるものではない。
 「福路くんはどうやって蒼井さんと?」
 話題をそらすの半分と、学び半分との気持ちでそう切り返した。
 「僕らは都市伝説マニアっていう共通の趣味があったからね」
 「都市伝説?」
 「そう。『ラフテイカー』とか『中央駅のA3出口脇の壁』とか、『童謡作者の無念』とか、『眠れずの薬』とかね。」
 「へ、へぇー……」
 うーむ、オーソドックスなカップルかと思っていたが意外だ。
 「あとやっぱり、元々幼馴染だったというのが何より大きいかなぁ。気軽に話しかけられるから、接触機会は自然と増える。……でも、やっぱり早いうちにアタックしたのが決め手だろうね」
 「そっかぁ」
 将棋は、攻めが大好きで『攻撃は最大の防御』と揮毫した扇子を作りたいくらいだが、色恋沙汰は四枚穴熊状態だ。やはり、そこら辺が今後のテーマだと痛感する。
 「性急過ぎるのは失敗の元だけど、慎重過ぎるのはもっといけない。先手必勝だね。将棋でも言えることだよね」
 先手必勝、という言葉には納得できたのだが、将棋も同じという意見はちょっと気になった。
 「福路くん、ちょっとだけ脱線なんだけど、将棋って最近は後手のほうが勝率の方が良くなってきているって知ってる?」
 「えっ、そうなの!? 知らない知らない」
 自分も最近になって知ったことなのだが、どうもそうらしいのだ。
 一般的なイメージで考えると、先に指す方は作戦を自分で選べるし、先に攻撃を仕掛けられる。
 ところが、『先に指す』ということは裏を返すと『先に戦略を晒さなければならない』ということでもある。
 つまり、後手は先手の作戦を見てそれを迎撃できる最良の布陣をしいてカウンターを狙うことが有効だと言う考え方が近年急速に広がってきているのだ。
 福路くんがなにやら難しそうな顔を浮かべていたので、より単純化した例えを即興で考えてみた。
 グー、チョキ、パーを公開したまま交互に捨てていき、残った一枚で勝負するというゲームがあるとする。
 先手は必ず負ける。
 先手がグーを捨てたら、後手はパーを捨てる――というように後手が先手の捨てたものに勝つカードを捨てていく選択をすると最後には後手が勝つカードの組合せにできるからだ。
 話し終えて、福路くんが「うんうん、それは確かに分かり易い道理だね」と言ってくれたので、僕もすっかり嬉しくなってしまった。
 と、将棋は置いておいて、先手必勝の件は真面目に考えないとだなぁ。テストの成績発表で、美月の知名度は一気に上がったに違いない。倍率は一体どこまで跳ね上がるやら……。競争が狂騒を呼ぶ、今日そうならないとも限らない。って僕は何を言ってるんだ。
 
 いや、僕は良く戦ったよ。大善戦だ。開始後それぞれ15分は耐えられたんだから。
 食後の4時間目に数学の丹治延登先生、5時間目に英語の石井英美先生の直列つなぎは反則だ。僕も含めて多くの生徒が屍となった。あの人たちは、プロの催眠術師か不眠症セラピストになった方がいい。
 とはいえ、今日の授業は無事終わり、ホームルームが始まっている。そして、泉西先生が無駄に高いテンションで教室をドンびかせている。
 恐らく、採点が終わった開放感だろう。……まぁ、我々も昨日はこんなだったんだな。「人の振り見てなんとやら」を身体を張って教えてくれているのだ、と僕はプラスに解釈してあげることにした。
 さて、待ちかねた放課後だ。軽音楽部の部長、琴羽野先輩からは「将棋部が落ち着くまでは無理してこなくてもちゃんと籍はあるから。皆にも言っておいてあげるよ」という暖かいお言葉をいただいている。
 何か将棋部の存在や実績をアピールできることがないか、考えに考えなければならない。
 それにはまず美月と泉西先生に現状を伝えて、一緒に考えてもらうのが最善だろう。一人より、二人。二人より三人だ。
 あと、泉西先生にはパソコンが使えないかどうかの相談もしたいところだ。昨日はばたばたしてしまい、結局アクションを何も起こせなかった。
 白物家電研究部がウェヴサイトで実績を上げたことを思い出し、ITの力も何かの役に立ちそうだというおぼろげな感触がある。
 ……しかし、なにぶんどちらもランダムにしか現れないのが悩みの種だ。RPGのキャラクターだったら、さぞかし経験値が高いことだろう。
 とりあえず、備品を準備して教室で待つことにする。カバンから詰将棋の本を出して、ひたすらレアキャラの登場を待つ。
 しばらくすると、和服姿の泉西先生が現れた。僕は待ってましたとばかりにマシンガントークで泉西先生に畳み掛ける。
 「白物家電の研究だあ? ふざけた連中だ。あとでお得な冷蔵庫についてたっぷりと事情聴取してやる!」
 「そこですか!」
 前言撤回、どうやら頭数が増えてもダメなケースもありそうだ。貴重な人生経験になった。しかし、パソコンについては「大江室長に話しといたる。明日、サーバールームを訪ねてみよ!」と存外にまともな回答をくれた。大方、将棋部名目で借りて何か私用で使う算段でも立てているのではないだろうか。
 とりあえず、パソコンの件は一歩前進、したのかな。
 大矢高校が誇るトラブル発生機が職員室の方向に消えたのを見届け、カバンから緑茶のペットボトルを取り出す。さっき購買部で買ったものだ。これで一息つこう。
 ボトルの脇におまけが貼り付いていた。これは……。最近、ひそかにブームになっている〈クマッタ〉のストラップか。
 勉強とか料理とか会社経営とか、とにかく色々なことをはじめるのだがいつも困難にぶち当たる。そのときに「クマッタなぁ……」と困り顔で頭をかく姿が意匠になっているクマのキャラクターらしい。
 こういうタイプは色々と手を出すなよ! と僕でさえ思ってしまうわけだが、どうも老若男女問わず人気があるらしい。確かに、シンプルな顔や茶色を基調とした色合いは男性にも抵抗が少ない気はする。
 ストラップは一旦外して机の上に置き、緑茶を流し込む。
 さてと。泉西先生とは話ができた。残りは美月だ。僕の極秘の美月統計情報によると、泉西先生登場の後に美月が登場したことは一度もない。よって、早くとも明日以降でないと会えないという結論になる。
 今日はもう帰ってしまうか。いや、生徒会が抜き打ちチェックに来て「活動の実態がない!」などとこれ以上マイナス要因を増やされたらたまらないか。すると、ちょっと駒を並べておくくらいはしておいた方がよさそうだ。
 というか、部員一人だけの時に見られたらまずいよな……。一日ならまだしも、毎日毎日来られたら実質的に僕一人だとばれてしまう。事態収束までは、毎日ある程度は顔を出してもらうようにお願いをしなければ。
 「あぁ、美月ぃ~」天を仰いで、思わず虚空に呟く。
 「何よ?」
 思索に耽っていたため、突然横から返事が来て仰天する。そして、次には恥ずかしさが込み上げてくる。
 僕の発見した法則はあっさりと崩れてしまったわけだが、いやこれはむしろ天の采配と考えるべきだろうか……。
 よし。将棋部に訪れている危機を伝えようと向き直ったが、美月の視線は何故か下を向いていた。
 視線の先を目で追ってみると、そこにあったのはクマッタのストラップだった。
 「もしかして、これが欲しい……とか?」
 「……」
 返事はない。しかし、視線は外れていなかった。
 「どうせ捨てようと思ってたところなんだけどな」敢えてそういう表現をしてみた。
 すると、「なら、もらう」と言って、携帯端末の穴に通し始めた。
 作業が終わると携帯端末からぶらさがったクマッタと向かい合って、「……まぁまぁかな」と呟いている。
 タダでもらったストラップとはいえ、プレゼントしたものを受け取ってもらい、所有物に付けてもらうということ。
 自惚れは百も承知だが、婚約指輪を受け取ってもらえた男性は、きっとこういう気持ちになんだろうなぁと思った。
 「この部屋暑いなー」
 照れ隠しにそういって近くの窓を開く。下を見遣ると、中庭には部活なのか不明だがそこそこの生徒がおり、男子女子が親しげに話している姿が何組か目に入った。
 胸の中が妙にざわつく。

 ――慎重過ぎるのはもっといけない
 ――先手必勝

 「あのさ」僕はゆっくりと振り返る。
 いや、ちょっと待て。僕は、自分自身がコントロールを失い、瀬田桂夜という存在から切り離されているような不思議な感覚に襲われた。こいつ、まさか。しかし、動き始めた自分を止める方法が分からなかった。
 「何?」
 「俺と……。付き合って、くれないか」
 その言葉を待っていたかのように、突然僕の背後から一陣の風が吹き抜けていった。美月は前髪が煽られ、顔を覆っている。そして、風が過ぎた後も姿勢はそのままだった。
 あまりに。あまりに唐突過ぎるじゃないか? なんていうことをしてくれたんだ……っ。
 自分自身がやらかした奇行に未だに自分自身が一番戸惑っている有様だ。
 美月も美月で、せめていつものように「ヒマじゃないから無理」などとあっさりばっさり切り捨ててくれれば、「悪い悪い。ちょっとキザなセリフってやつを言ってみたくてつい」などと笑ってごまかるかと思っていたのに。
 「……24時間考えさせて」それだけ言うと、足早に部室を出て行ってしまった。窓を開けてから、本当にあっという間の出来事だった。
 後に残されたのは、盤と駒と飲みかけのペットボトルと、脱力しきった恋愛下手な16の男子高校生だけだ。
 しばらくの間、窓際からは動くことができなかった。背中には夏の日差しがちりちりと突き刺さってくる。先程の突風は幻だったかのように、今は凪の状態が続いている。
 「……総会の話、できなかったな」
 やっと出てきたのはそんな言葉だった。

 家に帰っても、気分はうわの空だった。夕食に何を食べたかの記憶も定かでない。ピーマンを知らずに食ってたらと思うと鳥肌ものだが。
 将棋部の第一部維持の対策検討。琴羽野さんの相談ごと。宿題や予習もろもろ。ギターだってまだ全然上手くなっていない。
 色々と進めなければならないタスクがあるはずなのに、一向に頭がそちらに向こうとしてくれない。
 なんとなく、リビングにある共用パソコンでインターネットサーフィンを始めてしまった。インターネットは有限さを感じさせないほど、際限が無い世界だ。少し暇つぶしに、と思っていたのに気づけば1時間が経っていたということはざらにある。浦島太郎が行ったという竜宮城とは、インターネットの海の中にあったのかもしれないな、などとくだらないことを思った。
 午後8時ちょうどになり、テレビからは威勢のいい声が聞こえてきた。「このあとは、芸能界、スポーツ伝説!」
 確か、売り出し中の若手の芸能人が本物のアスリートと混じって特殊な運動競技を勝負する番組だったか。普段はおどけている芸能人の意外な身体能力、普段は真面目なアスリートの意外なバラエティ能力、そういったものが観られるということで幅広い視聴層を獲得している。勝敗を結果が出るまでに送信して、当たれば抽選で商品をもらえるという企画も同時並行しており、こちらも視聴者の底上げをしているようだ。
 我が家では家族3人が一緒に観る(ただし、父に関しては奇跡的に定時あがりできたときのみ)、数少ない番組の一つだ。今は野球がシーズンの真っ最中なので、父の観る動機になる野球選手は登場しないが、なんとなくこの時間はリビングにいるような感じだ。そういうリズムになっているのだろう。
 『伝説』という単語で、昼間に福路くんが話していた『都市伝説』を思い出した。えーと、何だったか。中央駅の壁とか童謡とかだったかな。
 うろ覚えなので、それらのキーワードと『都市伝説』で検索を掛けてみた。32件。思っていたよりも結果は多くないな……。とりあえず、一番上に出てきたページを開いてみた。
 随分シンプルなページだった。インターネット黎明期に自分でタグを組んで作られたページだろう。逆に言うと、そのくらい前から存在していた都市伝説ということが言える。
 トップページの下部にシンプルな一覧があった。項目がリンクになっていて、詳細はその先で見られるようだ。ざっと眺めると、『中央駅の壁』『眠れずの薬』が眼に留まった。福路くんが話していたものだ。あれ? もう一個くらいあったような気がするけど、なんだったか。
 もう一度、上から順に眺めていくと、おや?と思われる項目があった。
 
 『ちいさなもりのおおきなき』の悲劇
 
 奇しくも、久々に昨日耳にした童謡の名前がそこにあった。それにしても、悲劇って一体……? あんなに無邪気な童謡にどんな秘密があるのだろうか。急にドキドキとしてきた。あぁ、これがもしかして都市伝説の魅力ってヤツなのだろうか。福路くんと蒼井さんがハマる気持ちが少し理解できた気がする。
 はやる気持ちを抑えながら、クリックをする。現れたページは次のようなものだった。
 
 今では、多くの人に親しまれている童謡『ちいさなもりのおおきなき』であるが、その歌詞は作者の意図に反し大きく改変されてしまっている。
 本来の歌詞では、〈おおきなき〉は人によって切り倒されて切り株にされてしまう末路となっているのだ。当時、商工業環境と住環境のために山地の整地や干潟の干拓などを国策で行っていた。童謡制作の依頼をした教育機関としては、他の組織との軋轢をなるべく避けるため改変を求めた。
 作者は抵抗を続けたが、様々な工作により、最終的には同意をさせられた。
 
 同じページ内に、その本来の歌詞が載っていたが、長さも内容も確かに僕がこれまで歌っていたものとは違う箇所が目立つ。
 元々、わらべ歌や童謡は物悲しいメロディーのものが多い。『とおりゃんせ』『かごめかごめ』などがいい例だろう。昔の子供達はよくこんな歌を歌っていたものだと感心する。
 『花いちもんめ』『めだかの学校』『しゃぼん玉』などメロディーが明るめの歌でも、少し見方を変えて歌詞を読んだとき、背筋に寒いものを感じるものもある。童謡は、物心ついたときには、記憶の奥深くに刷り込まれているものだ。それが実は全く異質のものだったという恐怖心。例えば、化け物から追われて安全な建物の中に逃げ込んだのに、その中には別の化け物が既に潜んでいたような感覚だろうか。
 この『ちいさなもりのおおきなき』の話は後者の方に近い感覚だ。
 まぁしかし、都市伝説は都市伝説。裏づけが得られないからこそ、伝説であり噂どまりなのだ。
 僕は次のページ、『中央駅の壁』をクリックした。こちらは、文字よりも画像が多いページだった。その画像を見てあっとなる。
 この中央駅というのは、隣町の中央駅のことだったのか。全国区であろう童謡の話と同じレベルでページが作られていたから、少し虚を突かれてしまった。
 先程、ヒット数が32件程度だったのもこの都市伝説がローカル過ぎるためだったのか。
 内容はというと、A3出口の近くの壁が僅かに周囲の色と違うのだという。これが、工事中に起きた事故を隠蔽するためだとか、隠し部屋があるだとかいう伝説となっているらしい。記憶にはあまりないが、実際に掲載されている画像を見る限りでは確かに異なっていた。今度、駅に行ったときに見てみるかな。
 トップページに戻り、なんとなしにページの右上を見ると「By 29652」とあった。最初はアクセスカウンターかなにかかと思っていたけれど。
 
 ふくろこーじ = 29652 ?
 
 もしかしてこれは、福路くんのページなのか? 思い返してみると、文体とかセンスが福路くんぽい感じがしてくる。
 と、そのときテレビの方から「みなさんこんばんは! 今週も張り切ってまいりましょう。芸能界、スポーツ伝説!」という音声が聞こえてきた。午後8時ちょうどになったようだ。
 食器洗いを済ませたらしい母がエプロンを外して、リビングにやってきた。手にはピーナッツ入りの容器を持っている。母の大好物だ。これから、テレビ番組を見ながら食べるつもりだろう。
 父はいつものようにシステム手帳のリフィルの整理を黙々としている。傍から見たら、何が面白いのか分からないが、本人いわく『趣味の情報整理をしている』らしい。
 テレビ画面の中では、新進気鋭の芸人が池に浮かべられたビート版を走り抜けるといった競技を行っていた。踏んだビート版が沈む前に、次のビート版に進みと繰り返していくわけだ。一見すると非常に単純明快、簡単そうな競技だが、チャレンジャーは次々に失敗して池に落ちていく。
 動かなければ、沈んでしまうと思って動いた。しかし、動いた結果僕は沈んでしまった。
 母は、僕の様子に気付くはずもなく、時々笑い声を上げながらピーナッツを頬張っている。
 僕はというと、笑い声を上げるような気持ちには全然なれなかった。いつも楽しみにしている番組なのにな……。
 きっと気持ちの中に、しょっぱいものが混じってしまったせいだろう。まさしくこれが本当の沸点上昇だ。
 番組がCMに突入しても、母と僕はそれぞれ画面を向いたままでテーブルの腰掛けていた。
 「女の子の心って、どうしたらを掴めるんだろうなー」
 答えを特に期待していたわけではなかったが、気持ちを紛らわすためだけにそんなことを聞いてみた。
 「そうねぇ……。『君がいないと、僕の人生は暗黒物質だ』とか訳の分からないことを言ってみるとか?」
 なんだそりゃ、と思うのと同時に、父がばつの悪い表情を浮かべながら「さて、風呂の湯加減でも見てくるか」とリビングを出て行く。
 そういうことか。わざとらしい物言いに思わず苦笑する。我が家の風呂の水温は自動調整式のはずだ。
 「お母さん、こう見えて、可愛くて頭良くて、運動神経も良くて、人脈も広くて、そりゃもう超絶女子だったのよ?」
 「……へいへい。それがなんでまた、あんな父と一緒になったのか、お聞かせ願おうか?」
 「いいわよ。あれは大学1年の頃……」
 あっさりと応じられて、少し戸惑う。しかし、今まであれこれ突付いても飄々とかわされてきた両親の馴れ初めの話だ。興味がないといえば嘘になるし、今は気を紛らわすことになると思って、静かに耳を傾けていることにした。

 僕の母、いのりは大学入学直後、学部の新歓コンパに参加していた。
 新入生歓迎とはあくまで名目上のことで、その実態は新入生を上級生が酒で酔い潰させるという悪習であった。当時は今ほど娯楽が多いわけでもなかったし、「自分達がされたから、俺達もやる」そういう悪循環が格好悪いと思われていない時代でもあった。
 いのりは予行演習として、事前に酒を少し飲んでみた。その結果、ある程度飲める体質であることを知っていた。
 下級生全てが酔いつぶれてしまったら後始末も大変であり、派手にやりすぎると大学側としても黙認してくれない面があり、上級生から狙われる人数はある程度の人数に限られていた。
 逆に、最後まで生き残った新入生は『ツワモノ』としてその後一目置かれることにもなる。いのりは上級生に促されるまま、ひたすら飲んだ。
 しかし、飲める体質といっても当然限界はあるし、本当にザルのような酒豪も世の中には存在する。
 酒の恐ろしいところは、『自分が酔っている』と判断する部分でさえ麻痺させられてしまうことだ。とりわけ、大勢の人と一緒に飲むときは自分のペースが乱れてしまうため、この現象も現れやすい。
 この時のいのりも例外ではなかった。知らず知らずのうちに、身体は傾き始め、眼はとろんとし始めていた。
 「ウーロンハイのひとー?」
 「あ、はい!」
 自分の頼んだ飲みものを呼ぶ声が聞こえたので、いのりは応じた。
 手を上げたいのりの手元に、すっとグラスが置かれる。
 「ほら、おかわりがきたよ! いのりちゃん、ぐっといって! ぐっと!」
 「は、はい」
 脇にいた体格のいい角刈りの大男が促すのに併せて、一口飲む。
 (ん? あれ、これ……?)
 いかに酩酊状態になったからといって、アルコールが入っているか否かくらいの判別はまだ可能であった。
 今飲んだウーロンハイだと思ったものは、ただのウーロン茶だった。
 「ん? どうしたのー?」
 「いえ、美味しいです!」
 「本当に強いなー。オレも負けてられないぜ~」
 一体、何が起きたか分からなかったが、変な反応をしてこれ以上飲む量を増やされても面倒だと思い平静を装うことにした。
 一杯とはいえアルコールの入っていない飲み物を飲んだせいか、少し頭と胃の方が落ち着いてきた。次はグレープフルーツサワーを頼んだ。
 しかし、その変な現象は再び起こった。届いたのはグレープフルーツジュースだった。
 (一体、どうして……?)
 いのりは毎回グラスを運んでくるのは同じ男子上級生であることには気づいていた。印象的な腕時計をしていたからだ。
 次に、日本酒のグラスが運ばれてきたとき、いのりはその男の顔を窺った。
 むすっとしたへの字口、服装は野暮ったくて、どう甘く採点をしても女子ウケする第一印象ではない。
 男もいのりの視線に気づいた。
 「……こんなことで、無理すんな」
 いのりにだけ聞こえるギリギリの声量でそれだけ言って、グラスを置いて去っていった。
 いのりは、周りの人が日本酒と呼んでいる、ただの水を飲みながら考えた。一体、あの人は何者なんだろうか、と。
 そのあと間もなく、先程の男子上級生が急性アルコール中毒で倒れたという話が伝わってきた。
 いのりの集団はもとより店内も騒然となった。当然ながら、散会の流れとなりいのりは開放された。
 「ったく、やらかしやがったの、瀬田かよーっ」「酒飲めねぇ奴はコンパくんなよっ」そして、周囲にいた上級生は、ソフトドリンクばかり飲んでいたはずなのに倒れるとは、摩訶不思議・迷惑千万の呆れたやつだと悪態をつきながら店を出て行った。
 いのりは直感した。恐らく、私の飲み物と同じような色の飲み物を注文し、それを交換し続けていたためだろう。
 その後、二人はどちらからともなく近づいて、その末、付き合うことになった。学部内では、あまりに不釣合いな二人に、あらぬ噂を立てられることもあったが卒業まで貫き通したのだった。

 「まぁ。今、総括したみたら、一番かっこよかったのは、結局その時だけだったわね」
 「おいおい」
 「でも、それでいいんだと思う。あの人は私にとってエアバッグみたいな存在なのかもしれないと思うわ。普段はありがたみも特に感じないまま近くにいるだけだけど、本当に困った時には身体を張って守ってくれる。私にはそれが一番大事だったんだろうね。世の中には、『いつも愛していてくれないとイヤだ』って人や『年収が低いと論外』って人も多いけど。今、不幸でないのは事実だし」
 自ら淹れた緑茶を啜りながら、僕の顔をじっと見つめてくる。
 「あんた、振られたでしょ」
 「……あっさり当てるなよ」
 馴れ初め話を語ったのは、親心か。
 「ナナちゃんのときはこんなに落ち込まなかったのに。よほど逃げられた魚が大きかったのね」
 「……」
 「気分をすぐに切り替えることね。他の失敗ごとも同じだけど。世の中の半分は女の子なんだからさ」
 「……残りの半分は競争相手じゃん」
 まぁ、気分をすぐに切り替えるのは間違っていない気がする。過去は変えることができないのだから。認識の方を変えるしかない。
 元から、高嶺の花だったのだ。今まで、お近づきになれていた期間があっただけでもプラスに思わなければ。
 僕、今日無事に寝つけるかな……。

 

 小説『Sum a Summer =総計の夏=』(3/5)に続く

小説『Sum a Summer =総計の夏=』(1/5)

 *****

 

ちいさなもりのまんなかに おおきなきがありました
ひとやおはなやどうぶつが もりにやってくるまえから

きは みまもった いつまでも みまもった
ちかづくことなく はなれることなく

きにはおおきなえだがあり おおきなはっぱもありました
あついなつにはかさになり みんなひるねにきたのです

きは みまもった いつまでも みまもった
わらうこともなく おこることもなく

ちいさなもりのおおきなきは あおぞらにむけのびていき
ひろいだいちをみおろして きょうもしずかにわらってる

きょうもしずかにわら っ て


童謡『ちいさなもりのおおきなき』より

 

 *****

 

第一章 『7月1日(火)』

 

 本日、7月1日。晴天なり。
 6月生まれの人には非常に申し訳ないが、ひとこと言わせてもらおう。6月って、じめじめとして、祝日もない、地獄のような一ヶ月だったよ。
 そんな地獄がついに終わり、僕の心は晴れ渡っていた。
 制服も夏服になり、高校生活初の夏休みも確実に近づいてきていることも理由の一つに間違いはないが、第一番の理由は――
 「期末テスト、終わったー!」
 この一言に集約できよう。
 昨日まで丸々3日かけて行われたテスト期間が終わり、僕だけでなく他の生徒や教師までも言いようの無い開放感に酔いしれていた。
 え? テストの手ごたえ? ……黙秘権を主張します。
 僕が通う大矢高校は、一年間を4つに分ける『四期制』を導入している。
 多くの大学は前期と後期に分かれているし、企業の中には中間と期末だけでなく四半期決算を採用するところが増えてきているのでそのリズム感を高校のうちから身に付けさせようというのだとか。
 また、学校のカリキュラム等も四半期末に見直しや改善を行い、時代に即した教育と学習の機会を得ることができるようだ。
 テスト期間中は多くの部活動が休止状態となる。大矢高校は文武両道を謳っており、赤点は問答無用で補習だ。よって、スポーツ一筋の生徒でもなんとかそれだけは避けようと必死になっていた。
 当然、将棋部も軽音楽部も休止状態だった。
 
 1、2、3、4――2、2、3、4――
 
 ヴォーーーー……
 
 運動部の掛け声や、吹奏楽部の楽器の音など、以前の賑やかな放課後が久々に戻ってきた感じだ。
 部活の解禁日。僕は迷わず、将棋部の部室に行くことを決めていた。目的は一つ! 片思いの相手と逢いたいがためだ。
 高校に入ってから間もないうちに、僕は好みの女の子と出逢った。しかも幸運なことに、部員が二人きり(少し厄介な顧問がいるが……)という状況だ。
 ところが、その女の子――織賀美月とは5月、6月に数度しか逢えていない。
 元々、美月が部活に顔を出すことが珍しいことが一因だ。月に9、10日来るか来ないかという頻度のようだ。法則性は未だに確立されていない。(瀬田桂夜リサーチコーポレーション調べ)
 一方、僕の方はというと、軽音楽部との掛け持ちをしている。音楽は高校から本格的にはじめることになったので、ここまでは軽音楽部7:将棋部3くらいの割合で活動していた。
 さらに、僕がテスト期間直前まで長期スパンで体調を崩してしまい、病欠や早退を何度も繰り返してしまっていた。
 せっかくのチャンス、貴重な2ヶ月を浪費してしまった僕の意気込みがお分かりいただけただろうか。
 しかし、意気込んでいても逢えるとは限らない。特に約束もしているわけでもなし、かといって行かなければ逢う可能性はほぼゼロだ。
 将棋部の部室に向かい、ガラガラとドアを開けるが、中には人はいない。
 (そうそう上手くはいかない、よなぁ)
 こればかりは仕方がないことだ。気長に待つしかない。盤と駒を机の上に置き、僕は椅子に腰掛ける。
 鞄からマイ水筒を取り出して一口飲む。本日は、マテ茶だ。やけにマニアックなのは父のせいである。
 簡単な式で表すと次のようになる。
 
 父が健康志向を主張 + 母は各々作るのが面倒だから二人とも同じもの飲みなさい = 毎日健康茶
 
 最初は「なんだこの苦い汁は!?」と思っていたのに、慣れてくると心が和むようになるのだからニンゲンって恐ろしいよね。
 さて。
 将棋は、基本的に二人でするゲームだ。一人じゃどうしようもない。ここに、将棋部における根本的問題がある、と認識する。
 将棋部的にも僕的にももう一人の部員が足繁く来てくれればこの上ない解決方法であるが。
 当座はパソコンでも導入してみようか、と考えてみる。最近の将棋ソフトはよくできているものが多い。アマチュア強豪レベルならば良い練習相手になるだろう。
 一時期、将棋をやめるきっかけの一つにもなったコンピュータ将棋を導入しようと検討するのだから不思議なものだ。
 ただ、自宅のパソコンを学校に持ってくるわけにも行かないし、携帯端末の処理性能では性能不足だ。
 顧問の泉西先生に学校の備品でパソコンが借りられないか交渉してみるかな。職員室に押しかけようかとも思ったが、今はテストの採点期間なので生徒の入室はNGだ。
 美月とすれ違いになってしまうおそれもあるから、ここは詰将棋でもして待ちの戦略をとることにしよう。

 詰将棋とは、端的に言ってしまえば『将棋の駒を使ったパズル』だ。
 指し将棋と同じく、相手の王将を詰める、というのが目的なのだが、いくつか変わったルールがある。ざっくり言うと次のような感じだ。
 その1、必ず王手を続けること。
 その2、自分は最短で詰めることを目指し、相手はできるだけ最長手数で逃れようとすること。
 その3、盤上に『飾り』のような無駄な駒を配置しないこと。また、持ち駒も余らせないこと。(これはつまり、詰将棋作成者へのルールともいえる。盤上に無駄な駒を配置したり、持ち駒を全て使い切るように作らないといけない)
 中には、週間少年誌のお色気漫画の展開並みに「絶対こんな状況、ありえないから!」と叫びたくなるような問題もあるのだが、それはそれ、ご愛嬌だ。
 ただ、パズルと侮ることはできない。アマチュアは勿論、プロの棋士でも終盤力のトレーニングには詰将棋はもってこいなのだ。
 盤と駒、対戦相手がいなくても本が一冊あればできるし、隙間時間を有効活用することもできる。
 僕は直感で指すことが多いので、緻密な読みが必要となる終盤が相対的に苦手項目といえる。
 (この本もやっと半分まできたか)
 確か、小学4年生くらいの時に親に買ってもらったような気がする。一時期やめていた時に封印していたものを引っ張り出してきたのだ。
 小学6年生の頃に全部解けているだけの実力があったら、あの全国大会で江辻に勝ち、優勝して自分の進路も随分と変わっていたのだろうか。プロ棋士を目指していたりして。
 いやいや、考えてもしかたない空想だ。
 大矢高校に入って、美月とも出逢えて、今は音楽と将棋(とちょっとばかりの勉強)の両立を目指しているところなのだ。
 決して遠回りしているわけじゃない、と考え直す。
 その時――
 ガラガラというドアの開く音と共に「お、いる」と懐かしい声を聞いた。
 手許の本から視線を移すと、そこには期待通りの姿が立っていた。もう一人の将棋部員、織賀美月(夏服バージョン)だ。
 女子の制服は、ブレザーにネクタイだったのが半袖シャツとリボンに変わる。ちなみに、男子は半袖になるだけだ。
 (おぉ……、夏服も……いいなぁ)
 美月は部屋に入ってくると、手近な机にバッグを置いた。
 「センセから聞いたよ。体調もう平気なの?」
 「あぁ、うん。この通り」
 僕は両手を挙げて応じる。
 「……? それ、なに?」
 手に持っている本に気づき僕に尋ねてくる。
 「これ? 詰将棋だよ」
 「爪将棋……?」
 ……うーん、なんだか勘違いされている予感がする。
 よく考えたらこの間まで将棋のルールも知らなかったわけで。知らなくても不思議ではないわけだが。
 物心ついたときから将棋に接してきた人種としては、カルチャーショックではある。
 将棋部員なのに詰将棋を知らないのはさすがにまずかろう、と例によって丁寧に正確に詰将棋というものを教えてあげた。
 さすがに吸収は早かった。本の前半の方の問題を試しに見せてみたところ、あっさりと解いていってしまう。
 「暇つぶしには結構いいと思うよ。この本貸そうか?」
 「常に暇がないから、いらない」
 ……そうですか。これが美月の標準スタイルだと認識済みなので腹も立たなくなってしまった。RPGの装備に『僕の堪忍袋』が登場したら、さぞや守備力が高い設定になっていることだろう。
 「アローハー! 諸君! 元気KAI!?」
 そして、……来たーーーー。
 渋い和服を着込んでいるのに、このヘリウムガスと良い勝負の軽さ。全くついていけない、否、ついていく気になれないノリ。
 大矢高校の現代国語教師であり、非常に残念なことに、この将棋部の顧問である泉西先生だ。愛用の扇子をパタパタと仰ぎながら部室の中にずんずんと入ってくる。
 扇子には〈黙って俺についてこいっ!〉と書かれている。誰がついていくもんですか。
 「ははは、俺のスペシャルな問題はいかがだったかな? まさか、筆者が作品を書いたときの娘の気持ちを問われるとは思わなかっただろう」
 「あんなメタな視点の問題、アリなんですか? 泉西先生も答え分からないでしょ」
 「うん。だから、ちゃーんと文章になってれば全員丸だぜ。問いに対して何にもレスポンスをしないヤツは社会で生きていけないぜ~、という、実は俺からのありがたい処世術伝授問題なのだ!」
 なんだか、相変わらず屁理屈街道爆走しているなぁ。一体、この高校の教師採用基準はどうなっているのだろう。
 「と、俺のすごさをアピールしている場合じゃなかった! 部長よ、総会にお行きなさい!」
 「ぶ、ぶちょ……うですか?」
 「そうだよ。何を言っている、部員はお前達だけだけだろうが。瀬田は将棋だけが取り柄だろう。だから部長手続きをしておいてあげたぞ」
 「だけ、は余計です! って確かに部長はどちらかになりますけど……」
 まぁ、美月は頼みに頼んでも部長をやるようなタイプでもないだろう。致し方ないところだ。
 と、総会って、一体なんだろう。
 見るとニコニコしている泉西先生と眼が合う。
 「総会って、一体なんだろうって顔してるな?」
 「心を読まないでください!」
 泉西先生はどういうわけか、人の心を読むという反則的な特技を持っている。
 「では、丁寧に教えてやろう。まず、物凄い偉い存在が『ヒカリ、アレ!』と申されたところから物語は始まる」
 物凄い偉い存在が何故カタコトだったのか突っ込もうか迷ったが、やぶ蛇と思い「えーと。ものすごく丁寧じゃないのでお願いします……」とだけ返す。
 泉西先生は「生き急いでやがんなー」とぶつぶつ言ったが、とりあえず説明はしてくれた。律儀なことにものすごく簡単に。
 まず、部活は第一部と第二部に分けられているのだという。
 簡単に言ってしまえば、第二部は愛好会(部活もどきのようなもの)で正式な部活ではない。部室も共用室を交代で使用しなければならない。
 対する、第一部は専用部室を与えられ、予算も受けとることができる。その他、秋の学園祭のスペースなどでも優遇も多い。
 総会は、その第一部の全部活の部長が集まり、予算や要望や情報共有を諮る場いうことだった。
 将棋部は近年部員ゼロだったが、顧問である泉西先生が代理で出席していたのだという。泉西先生の暗躍があったのか不明だが第一部に留まり続けていたようだ。
 「俺、これからテストの採点しなきゃいけねーしさ。採点遅れると給料減額なんだよ! てなわけで、ヨロシク頼むぜ部長!」
 そういうと、砂嵐のように教室を後にしてしまった。この手の素早いモンスターは、倒すと経験値がたくさんもらえるのが相場だが、きっと泉西先生を倒しても得られるものは少なさそうだ。
 
 「ここ、かー」
 見上げたプレートには〈大会議室〉と書かれている。
 結局、僕が総会に出るということで、美月は帰宅してしまった。
 せっかく、久々に訪れた逢瀬だったのに……。そういえば、もうすぐで七夕だなあ。
 ドアはきっちり閉まっており、中は伺い知れない。意を決して中に入らなければならないわけだが、ドアを開けた瞬間に上級生の視線が集中したりするのは勘弁だ。
 3年生はきっと互いに見知った顔が多いだろう。そうでなくても今年度の総会は2回目だから、基本的には僕一人だけが『新参者』のはずだ。
 そう思うと、少し心音が高鳴り始めてくる。
 (こういうの、ホント向いてないんだよな……)
 しかし、そんなこといっていたら、音楽ライブなど夢のまた夢ではないか。
 高校に入って、どんどん自分のダメなところを変えて生きたいと思っているんじゃないか。自分自身を騙し騙し奮い立たせる。
 (なるようになれ、だっ!)
 ドアを恐る恐る開けると、中にはまだ数名しかいなかった。心配していた視線も特に突き刺さってこない。
 (あれ? 場所、間違えてはいないよな)
 辺りを見回す。四角に並べられた長机の上を良く見ると、『●●部』といったアクリル板が席ごとに並べられていた。
 場所に間違いはなさそうだが。少し当惑の表情で入口に立ち止まっていると。
 「10分後には始まるよ。みんな時間が惜しいから、いつもギリギリになって一斉に集まって来るんだよ」
 脇にいた女の人が丁寧に教えてくれた。
 と、あれ?
 どこかで会ったことがあるような、ないような。誰かに似ているような、似ていないような……。
 それは相手も同じだった。僕の顔を見て、何か記憶の糸を手繰り寄せているようだ。
 「あ。キミ、もしかして瀬田くん?」
 「えっ、あっ、そ、そうですけど……?」
 不意を突かれ、戸惑ってしまった。まさか、三年生の女の先輩に名前を知られているとは思わなかった。
 良い噂なのやら、悪い噂なのやら。
 そして、今度は僕の記憶と推理の糸に手ごたえが合った。
 「あっ、勝田くんの、お姉……さん? ……ですか?」
 「ピンポーン!」
 改めてよく見てみると、キリリと締まった面持ちやスポーティな体格は勝田くんの持つ雰囲気とよく似ていた。
 ちらっと机上を伺うと、『女子バスケ部』とあった。なるほど、スポーツ一家だなぁ。
 「ダイから将棋部の瀬田くんの話は聞いてたんだよ。で、今回二回目であるはずの総会で挙動不審アンド一番上のボタンまできっちり閉めた男の子とくれば……ね。うちの推理もなかなかのもんでしょ!」
 「あ……、はっ、はい。そうですねっ!」
 「ダイがべたほめでさ。あいつ、この間の件で小遣いアップしてもらって、本当うらやましいわー」
 この間の件――勝田くんのおじいさんがお父さんに出したメッセージのことだ――で小遣いアップできたのかぁ。それは、僕としても羨ましい限りの話だ。
 勝田くんのお姉さん、勝田ルイ先輩はとてもハキハキした人だった。大矢高校の話、勝田家の話、とめどなく話をしてくれる。
 基本的に相槌だけ打っていたのだが、そのおかげで先程までの緊張は自然と解けていった。
 突然、ルイ先輩はふと何かを思い出したように「ちょっと、試させてもらっていいかな?」と言ってきた。
 「試す、ですか?」
 「そうそう。あ、難しく考えなくてもいいの。ちょっとしたクイズみたいなもんだから。もしいい答えができたら……あとで『ごほうび』あげる」
 「クイズ……?」
 クイズというより、正直なところ、その後の『ごほうび』のほうが気になるのだが。さっきまでは気にしていなかった、ルイ先輩の艶やかな唇がとたんに気になってくる。
 バカ、そんなはずないだろ! 冷静になれ。十秒……二十秒……一、ニ、三……。って『秒読み』じゃ逆に焦ってしまうじゃないか!
 ルイ先輩はそんなカオスな心境になど気づくことなく(気づいてくれないほうがありがたい)話を続ける。
 「うちの家の前って自動販売機があるんだけど、ちょっと妙なことが起きたんだよね」
 確かに、勝田くんの実家の前には自動販売機が置いてある。ビールとかタバコではなく普通の飲料系だった気がする。
 ルイ先輩の話を要約するとこうだ。
 
 ・飲料の値段は全て100円。
 ・それなのに、毎週の回収時に調べてみると、10円が50枚近く入っている。
 
 「これ、実はもう答えが分かっていてね。聞いたら、なーんだな感じなんだけど。どういうことだったか分かるかな?」
 これがクイズの問題、というわけか。
 10円が50枚ということは、飲料5本分だ。一週間に、5人くらいは全て10円玉で買っていく人がいてもおかしくない気もするけど……。
 しかし、ここで問題を出してくる以上、普通の答えではないのは確実だろう。
 「すみません、質問はありですか?」
 「そうだねぇ。じゃ、3回までオッケーとしよう」
 3回か、それでも随分とありがたい。慎重に使いたいところだけど、まずはこれは聞いておきたい。
 「その10円玉って、製造年はバラバラでしたか?」
 「ふむ! なかなか、いい質問だね。製造年はバラバラだったよ」
 もし、製造年が全て同じだったのならば、『お釣り用に銀行でもらった硬貨の棒を蔵出しにした』とかかと思ったけど。
 ジュースは売れていたのだろうか。ジュースが買われずに、自販機の硬貨だけが入れ替わっていたとしたら、偽造硬貨を入れ替えてたなんて話もあり得るかも。
 あとは、貯金箱に貯めていた10円を一気に大放出した人がいた、とかだけど、10円玉を飲料を買うことだけに使い続けるだろうか。
 「もしかして……学生、細かく言うなら小学生が20円ずつ出し合ってジュースを買っていたとか……? あれ!?」
 気づいたらそう口にしていた。それには自分自身が一番驚く。質問のチャンスがあと2回残っているというのに、勝手に〈跳躍(リープ)〉してきた考えを言語化してしまっていたのだから。
 次に声を発する時は『質問その2』が来る、と構えていたのか、ルイ先輩もきょとんとした表情を浮かべていた。しかし、すぐに「続けてみて」とだけ返してきた。これは後に退けない雰囲気だ。
 僕は、まだ固体になっていなかった気体のような自分の考えを少しずつ言葉にしていった。
 まず、50枚の内訳を10枚×5日と仮定すると、『平日のみ』購入されると推測できそうだ。
 とすると、そこを通る学生か会社員かが怪しいが、一人で10円を毎日10枚も入れ続けるとすると奇妙すぎる。
 複数人が10円を10枚分用意していたならばまだ現実的と考えられる。そう、10人が10円ずつ出し合うならば現実的だし、毎日続けることも可能だろう。
 さらに、10円を恒常的に持っていそうな――例えば小遣いとして10円玉を毎日持っていそうな――年齢層は小学生ではないだろうか。
 10円で缶の10分の1だけを買うことはできない。しかし、一旦買った後、飲料を10等分に配分しなおすのならばその希望は叶う。
 あとは、10人で10円ずつか、5人で20円ずつかということだけど、登下校のグループとするならば5人の方が妥当そうに思えた。
 「驚いた……。ほぼ正解だね。てか、あの内容だけでこんなにすぐ筋の通った推理ができるなんて、上等上等。気に入ったよ!」
 ルイ先輩の補足によると、小学生の人数は5人で、買った後は山分けするのではなくジャンケンをして勝った人だけが1缶分飲める仕組みだったらしい。最近の小学生はなんとも競争心旺盛なことだ。
 それはそうと。気になるのは、『ごほうび』だが……。
 見ると、ルイ先輩はずいぶん満足したようで、僕の背中をバシバシ叩いたり、大きく頷いたりしている。
 「よし、約束どおり『ごほうび』あげるよ」
 言うなり、ルイ先輩が顔を僕のほうにすっと近づけてくる。
 おおっ。ニーチェさん、違います。神はまだ生きてます!
 いや、しかし僕には美月という想い人がいるというのに許されるのか。片思いじゃないのかという指摘は却下します。そう、カレーは好きだけど毎日食べていたらありがたみが薄れちゃうでしょう? 人間、ハヤシライスが食べたいときもある。ハヤシライスを食べることでカレーの美味しさが再認識できるというか。比較が大事なんです。人生でカレーしか食べたことがない人は本当の意味で「カレーが一番」と認識できないのです!
 心の中で、小さな僕が美月の写真を握り締めている僕の群集に向かって大いなる力説をしている。ルイ先輩の顔はなおも近づいて……。
 すっと、僕の左耳の脇にそれた。そこで、「……味方してあげるから」小声でそういった。
 (えっ、ど……)
 どういうことですか、と声にしようとして周りの様子に気づく。推理と話に夢中になっていて気づかなかったが、既に議長席を含めたほぼ全ての椅子が埋まっていた。
 「そろそろはじめます」
 そんな声が聞こえたので、とりあえず「ありがとうございます」と返した。ルイ先輩の真意が分からぬまま、『将棋部』の席に急いだ。
 
 「定刻になりましたので、第二四半期の部活動総会を始めさせて頂きます。生徒会、副会長の辰野です。本日、司会兼議長を務めさせて頂きます。
  まず、奥地生徒会長よりご挨拶をお願いいたします」
 辰野副会長に促されると、制服の一番上のボタンもきっちりと締め、高校生としては異色の七三分けをしている男子生徒が一同に礼をした。
 「生徒会長の奥地です。皆さん、本日はお忙しいところご足労感謝いたします」
 あれが有名な奥地先輩か……。
 見た目はあまりイケていないが、常に学年3位以内をキープする秀才だ。将来は父親と同じ弁護士になるのが目標で、それも難しくないのではないかと評判される秀才だ。
 「本日は第二四半期の始まりに伴い、各部への報告および挙げられた要望に対する議論をさせていただきたく。まずはお手元のアジェンダをご覧願います」
 手元のレジュメは次のように書かれていた。
 
 1.生徒会からの連絡事項
 2.各部からの活動報告・要望等
 3.次回開催日について
 
 (2の活動報告ってなんだろう……)
 まさか、この大勢の3年生の前で何か話をしなければならないのだろうか。そう思うと、少し手のひらに汗が出てきた気がする。先生、聞いてないすよ!
 「まず、『生徒会からの連絡事項』です」
 奥地先輩の話が淡々と続く。
 「今月は防犯強化月間です。各部、活動終了時間の厳守、および活動後の施設施錠を徹底願います。また、今月下旬から夏期休暇が始まります。遠征等で追加の部費申請が必要となった部は本日の資料に添付した申請書に記入し、逐次申請するようお願いします。生徒会にて、学務経理課に仲介いたします……」
 内容はいたってシンプルなことばかりであった。となると、先程ルイ先輩が言っていた『味方したげる』とは一体何を意味しているのだろう……?
 「……連絡事項は以上です。続きまして、各部からの活動報告・要望等をお願いします。まず、男子陸上部からどうぞ」
 奥地生徒会長に促され、色黒短髪の非常に体格がいい男が返事をする。
 「男子陸上部です。春季大会にて、3名が地域予選を突破、うち1名が――」
 はぁ……、さすがというかなんというか。大会でしっかり結果を出しているのだ。
 「要望は特にございません。以上」
 うーむ、この分で行くと僕も将棋部部長としてなにか発言をしなければならないのか。段々気が重くなってきた。

 そして、ついに発言の番が巡ってきた。
 「しょ、将棋部です……。えーと、その」
 視線が一斉に注がれる。耳たぶや目頭が熱くなっていくのを感じる。1対1ならば知らない人とでもそれほど緊張せずに話せるのだが、大勢相手だとどうにも不得手だ。
 「活動は……部員が集まりましたので、始めはじめたところです。あー、……えーと。た、大会は夏休みに、個人戦に参加する予定でございます――」
 なんとか話しきった……。こんな緊張はいつ以来だろう。あ、美月の走っているのを見て叫んでしまった英語の授業中か。じゃあ、意外に最近だったか。
 椅子に腰掛けて、隣の囲碁部部長が話し始めるとやっと終わったという実感に包まれた。発言が終わってしまえばなんということはなかった。あとは、聞きに徹するだけでよさそうだ。他の部長はさすがにみな慣れた様子で報告をしていき、最後の部長までつつがなく終わった。
 「第一部の活動報告は以上ですね。……では次に要望等ですが、まず第二部の白物家電研究部から昇格申請があがっております」
 白物家電? 洗濯機とか冷蔵庫とかのことだよな……。高校生が何をやってるんだか。思わず苦笑する。
 「……そこで、近年の実績を踏まえて将棋部を降格として入れ替える起案をいたします」
 浮かべていた苦笑が、そのままフリーズする。
 (……えっ?)
 今、降格とか聞こえたような、気がするけれど。降格ってことは、第二部になるってことで、部室が使えなくなる? 部活はどこでやればいいんだ? 美月とはどこで会えばいいんだ?
 目の前が放送終了後の番組の砂嵐のようになって、周りの声は膜を通しているように遠く感じる。母に聞いた、貧血の症状に近いような気がする。
 落ち着け、落ち着け、落ち着け。
 まずは色々と質問をして、状況の把握をしないと抗弁だってできやしない。それにしたって唐突過ぎじゃないか? なんで、こんな大勢の前で、逃げ場のないようなところで言い出すんだ?
 落ち着け、落ち着け、落ち着け。
 でも、貧血のような症状は治まらない。頭が全然働かない。あの、時間切れで負けた江辻との一戦の後のように――。
 (僕、全然成長してないじゃないか……)
 そう思うと、情けなくて。なんだか目頭が熱くなってきた。って、高校生にもなって人前で泣いてしまうのか僕は……? それだけはまずいだろう。学校中の笑いものだ。誰か、僕を助けて――
 そのときだった。
 「すみません、ちょっと発言よろしいでしょうか」
 静かな会議室に凛とした声が響いた。その声に、症状が幾分和らいだ。声した方向には手を挙げているルイ先輩がいた。
 そして、視界に入っている全ての部長達はみな、拍手の直前ギリギリで手が止まっていた。ルイ先輩の発言が一瞬遅かったら、満場の拍手で掻き消えていたかもしれない。
 「……女子バスケ部部長、発言を認めます。どうぞ」
 「はい。将棋部については経緯をご存じない方々が多いと思いますので、代わりに補足しておこうかと思います。将棋部は4月まで部員が居ませんでした。そこに、元全国3位の期待の新入生が入ったわけです。それが彼です」
 ルイ先輩が、僕のほうに手を向ける。それに誘導されて、会場全員の視線が僕に注がれる。
 視線のやり場に困ってつい下を向いてしまったが、僅かに感じた。今まで、好奇の目で見られていた視線の中に「ほう?」という色が混じっていたことを。
 ルイ先輩はなおも話を続ける。
 「我々運動部と違い、将棋の大会はそう頻繁にあるものではありません。もう少し、せめて半年、実績ができるチャンスを待つことはできないでしょうか」
 先程の『味方したげる』の意味を理解すると共に、胸が熱くなるのを感じた。
 しかし、奥地会長はあからさまに眉根に皺を寄せ、唸る。「……難しいですね」半ば演技が入っている風情に見えた。
 「将棋部なりの事情があることは一理ありそうですが、白物家電研究部のあげた実績に着目すると第一部への昇格には問題がありません。すると、半年の猶予は長すぎるように思えます。生徒会則にも『第一部と第二部の入れ替えについては、公正かつ柔軟に対応すべし』とあります。仮に、将棋部が第一部に相応しいとアピールしたいのであれば、白物家電研究部と同じく第二部の状態で実績をあげて、再度の昇格申請をするべきである。これが生徒会の見解です」
 万が一の論駁に備えてきたであろう、朗々とした声が部屋に響き渡った。裁判の判決を受ける人の気持ちって、こんななのかな。まるで他人事のようにと感じられた。
 「他に意見はありませんか?」
 ルイ先輩と僅かに目が合う。その眼は「力が及ばなくてゴメン」と語っているようだった。僕は、「そんなことありません、十分うれしかったっす」という表情を返す。
 青天の霹靂でまだ気持ちの整理がついていないが、きっとなんとかなるだろう。夏の大会への意気込みがむしろ高まりそうだ。大きく一つ深呼吸する。
 「発言、よろしいですか?」
 議決を唱えようとしたところに、再び声が投げ掛けられた。
 「……軽音楽部部長、発言を認めます。どうぞ」
 奥地会長は露骨ではないもの不快な様子をわずかに浮かべたが、辰野副会長は表情を変えず淡々と応じた。
 声の主は、周りの3年生と比べても一際小柄な男子生徒だった。
 そして、その男子生徒の卓上には『軽音楽部』のプレート……って、あんな先輩、いただろうか……? 掛け持ちしている僕が言うのもなんだけど。非常に失礼な話だが、正直、印象が全然ない。
 何より気になるのは発言内容だ。果たして、敵なのか味方なのか?
 「将棋部が降格の候補となった理由はなんでしょうか?」
 奥地会長の眉がピクリと動いた。軽音楽部部長の質問を、生徒会を詰問する内容と捉えたような表情だ。
 「周知の事実かと思われますが。第一部の中で、唯一最低要件を満たしていないからです」
 奥地会長は言外に質問に価値がないという皮肉を込めて切り返す。しかし、軽音楽部部長は全く動じた様子はない。
 「白物家電研究部の実績とはどういったものですか?」
 「大きく2点。5月の全国大会準優勝、運営しているウェヴサイトの閲覧数が一日あたり約2万件、です」
 「全国大会の出場校数、それとウェヴサイトのユニークユーザーの数はいかほどでしょうか?」
 「出場校数は5校。ユニークユーザーは約4000人と聞いております」
 僕も含めて、周りの部長達は二人のやりとりを固唾を飲んで見守っている。というより、見守るしかない雰囲気だ。
 軽音楽部部長は「ふーむ、なるほど確かに悪くない実績かもしれませんねぇ」と小さく呟いている。奥地先輩も面倒な事態が収束したと断じ、構えを解こうとしたところで、軽音楽部部長は追撃した。
 「質問を変えます。白物家電研究部からその申請があがったのはいつ頃の話でしょうか?」
 「……5月26日、16時47分28秒。生徒会室にて、白物家電研究部部長から生徒会会長に様式『生ブ管-37』の記入済み書面を手渡しにて申請を受け付けました。……その他にご質問は?」
 奥地会長はトドメと言わんばかりに細かな情報を提示した。弁護士の卵に弁論で勝負を挑むのは無謀なのだ。それでも、部長には後でお礼を言いにいこう。嬉しかったのは事実なのだから。
 しかし、軽音楽部部長は一瞬考えたあと、こう続けた。
 「その頃であればテスト期間にも入っていませんね。臨時総会を開かずに、本日まで起案をされなかったのは何故でしょうか?」
 その発言内容に、奥地会長はいち早く渋面を浮かべる。
 「白物家電研究部の申請を今日の定例総会で起案したということは、不急と捉えられた訳ですよね。今回、将棋部自体にも事前の通達がされていらっしゃらかったわけですから、対応や決定は同様に、早くとも次の定例総会――10月以降で十分かと思われますが」
 そこまで聞いて、僕にも意味が理解できた。だが、よく聞けば詭弁の類だ。うわさに聞く奥地会長もこのくらいで折れる性格ではないだろう。
 早速、論破のため声を発しようとしたが、それは室内に突如鳴り響いた拍手に阻まれた。
 再び、ルイ先輩だ。
 それに同調して、他の部長までもパラパラと拍手をし始める。先程までの論戦を見て、この場を早く収束させるのを望む者が大多数だということの証左だった。我々は早く部活に戻りたいんだというオーラも感じる。
 また、先延ばしになる間、当事者間で問題が解決する可能性もありうるという目論見もそれなりにあるのだろう。当事者たる僕も、先延ばしは大いにありがたいので、少し遠慮がちに手を叩いてみた。
 奥地先輩は歯を食いしばり、手短に「……異論はありません」と引き下がり、手短に次会開催日を通達するとあっさりと散会を表明した。
 
 教室から人が次々に出て行く。彼らにとっては、将棋部の浮沈も所詮は対岸の火事だろうし、早く部活に戻りたい気持ちでいっぱいなのだろう。
 奥地会長も足早に去っていった。
 残ったのは、机上のアクリル板を片付ける生徒会の面々を除くとルイ先輩、軽音楽部部長と僕だけになった。
 「ルイ先輩、部長さん。さきほどはありがとうございました」
 二人に向かって、丁寧に頭を下げる。
 「さっき約束したしねぇ」ルイ先輩は片目でウィンクをする。
 「でも結局、時間稼ぎにしかならなかったのは力不足だったな」
 「そんな……。即刻、部室返上に比べたら全然ありがたいです」
 そして、軽音楽部部長に向き直り頭をぺこりと下げる。
 「いやいや。礼には及ばないよ。奥地も今まではあんな無茶苦茶を言い出す奴じゃなかったんだけどな。父親にアピールする実績が欲しかったんだろうけど」
 現役弁護士を父親に持つ、というのはどれほどのプレッシャーなのだろう。頭に浮かべても全く想像ができない世界だ。だからといって、将棋部の降格を容認するつもりにはなれないが……。
 「なんといっても、ルイが庇うとなれば僕が力にならないわけにはいかないしね」
 そういって、ルイ先輩の肩の上に気軽にぽんと手を置く部長。うーむ。なるほど、二人は恋人同士だったというわけか。
 「この人、細かいところ突いてくるの、ほーんとにやらしいんだよ? っ……そういえば、この間、映画見終わったときも~」
 ルイ先輩が、何やら思い出し怒りをはじめそうになったので、部長は慌てて話題を変えようとする。
 「ははは。それに、爺さんの金庫の件ではお世話になったしね」
 「ん……え、えぇっ!?」
 お爺さんの金庫、ってまさか。そういわれてみれば、面影があるといえばあるというか。なんだか、こういうのって将棋倒しのように続くもんだなぁ。
 「自己紹介したことなかったっけか? 琴羽野主税。琴羽野彩の兄だよ。今後ともよろしくね、瀬田くん」

 大会議室を後にして、よろよろと部室に向かう。呼吸こそ苦しくはないが、足取りはマラソン大会で走り終わった後の重さに近いものがある。
 部室に着くと、がらんとした室内がいつもより暗く、広く感じた。部屋に入るとすぐ、後ろ手にドアを閉めていた。自分自身と、この将棋部に迫りくる脅威をシャットアウトしたい思いが強かったのかもしれない。
 とりあえず、諸先輩方のおかげで、10月までの3ヶ月という執行猶予期間が設けられた。しかし、何も対策を講じないでいたら、秋には今度こそ降格が確定してしまうことだろう。
 やはり、一人では心許ない。明日以降で美月にも相談してみよう。ドライな面が多い美月だが、とても頼りがいがある。少し、本当に少しだが、せめてこの困難にかこつけて一緒にいる時間を増やしてしまおうという下心も無いわけではない。少しだから許してほしいところだ。
 泉西先生にも相談してみるべきだろうか……。非常に悩ましい問題だが、採点期間が済んだらきっと黙っていても押しかけてくるだろう。また、読心術を持っている以上、こちらがいつまでも隠し続けることも不可能だろう。よし、腹をくくって、相談しよう。
 少しずつ頭の中が整理されてきた。さて、今はどうする? 今日、その二人に会える可能性は相当低いわけだが……。
 「帰るか」まずは落ち着いて、現状を整理するべきだと判断する。それには、自宅の方が最適だ。
 盤と駒を手に取り、片付けようとしたところ、ドアの方に人影を感じた。
 一瞬、美月が戻ってきてくれたのかと期待したがそうではなかった。僕は、努めてがっかりした表情を出さないように気をつけた。
 「あ、琴羽野さん」
 「お久し振り」
 奇遇なことに、現れたのはつい先程会った先輩の妹である琴羽野彩さんだった。彼女は1年2組、クラスは違うが、以前彼女のお爺さんの金庫の暗証番号を推理したときから知り合いになった。
 アヒル口というのか、猫口というのか、口角が上がった表情であることに今日なんとなく気づいた。女の子と話をするのに慣れ、観察する余裕がでてきたためか、それとも、顔なじみになり琴羽野さんが心を許してくれたためなのか。美少女というほどではないのだが、愛嬌がある顔や仕草の持ち主である。
 「お兄ちゃんから聞いたよ。なんだか、部活が大変なことになってるって……」
 「え、あー……。うん」
 情報が早いな、と驚く。高校生くらいになると、学校で兄弟姉妹と一緒に話すのはなかなか気恥ずかしいと聞くのだけど。メールなどでやりとりしてたのだろうか。この分だと、勝田くんもこの件を知っていたりするかもしれない。
 将棋部関連の話がくると思い込んでいたが、そうではなかった。
 「こんな時に相談なんて迷惑だとは思ってるんだけど……これ」
 そういうと、カバンから静かに封筒を取り出し始める。
 心臓が一瞬、きゅう……と締め付けられたようになる。
 二人きりの時、女の子から渡される紙封筒といったら。
 ラブレター……じゃないのか?
 僕は、ぼーっとする頭で紙封筒を受け取った。
 「開いてみて?」
 「う……うん」
 こういうのって、普通渡したら恥ずかしそうにしてサーッて帰っていくものじゃないのだろうか? 目の前で読ませるとは、琴羽野さんの度胸は見かけによらず強烈なようだ。いや、この展開は、逆に僕のほうが恥ずかしくないか? 琴羽野さんは僕が読み始めるのを、散歩をせがむ犬のように見つめている。
 ううむ……、ここで変に抗うわけにもいかない。
 封筒には特にシールや糊付けはされていなかった。おや、と少し違和感を持った。まぁ、最初からその場で開けてもらうつもりだったなら、逆にそういう加工は煩雑と判断したのかもしれないなと思い直す。
 言われるとおりに、封筒を開いてみると……。
 「ん!? な、何これ?」
 中から出てきたのは少しサビの浮き始めた長方形の金属板だった。幅は手のひらくらいで、長さは5cmくらいだろうか。表面には凹凸がバラバラに穿たれている。
 切断面や金属板の質からして、市販の製品というよりは素人が加工したもののような印象だ。
 視線を上げると、琴羽野さんがカバンから似たような封筒を何枚も取り出しているのが見えた。
 「全部で8枚あるの。これ、あの金庫から出てきた通帳とか印鑑とかに混じって入っていたの。他にも、歯の少ない櫛とか、ヒビの入った手鏡とか、ゼンマイ仕掛けの車とか、価値があるのか良く分からない思い出の品っぽいものはあったんだけど……」
 確かに、金庫に入っていたラインナップの中では、ずば抜けて意味不明な一品といえそうだ。せめて、説明文とか添えられていればよかったのだろうけど。逝くときがあらかじめ分かるニンゲンは限られているだろう。確か、琴羽野さんは病床に臥せっている期間があったはずだったが……。そういった準備をしてしまうと、身体が死を受け入れてしまうと考えて敢えて避けたのかもしれない。
 8枚全てを一枚一枚丁寧に観察してみた。長さや、凹凸の具合はバラバラのように見える。物差しで計ってみたら、横幅は12cm、長さは一番短いもので6.4cm、一番長いもので25.6cmあった。
 「おじいさんって、何かものづくりをする趣味とかあったの?」
 琴羽野さんはかぶりを振る。家にはそういうことができる工具さえないという。
 「あ、でも戦後の一時期、板金工場で働いていたことがあった、って話をしてくれたような気がする……かも」
 「戦後……かぁ」
 それは随分と昔の話だ。戦後であれば、軍事機密的なものではなさそうだ。我ながら、妙なところで安堵してしまう。
 「今回のはね、全然急ぎじゃないの。だから、将棋部が落ち着いてからでもいいから、この金属板がなんなのか、考えてみてもらいたいの」
 今、いくつも頭を悩ませることが積み重なり始めていることは事実だ。とはいえ、人の助けを無碍に拒むほどはまだ追い詰められてはいないと思っている。
 
 ――優れたアイディアも、全て既存の組み合わせにすぎない――
 
 何かの拍子に聞いたことのある言葉だ。消しゴム付きの鉛筆も、カツカレーも、最新の電化製品でも。元をたどると、小さな足し算の合計といえる。
 物質的なもの以外――学問、技術、芸術といったもの――もきっとそうだろう。事実、春先に僕が様々な問題を解いていったときもそうだった。
 僕が了承すると、琴羽野さんは嬉しそうに笑った。うん、女の子の笑顔はいいな、癒される。って、別に誰かさんを非難してるわけじゃないですけどっ!
 とりあえず、一枚一枚を携帯端末のカメラで撮影していくことにした。大きさにも意味あるかもしれないので、画像の縮尺が一定になるように気をつけた。
 古ぼけて価値がなさそうに見えるとはいえ、少なくとも、この世に2つとなさそうなものだ。預かるわけにはいかない。実物は持ち帰ってもらうことにした。
 さて、一体これはなんなのだろう。謎が解ける日はやってくるのだろうか。
 「そういえば、瀬田くん、〈ラフテイカー〉って知ってる? 孤独に泣いている子供のすぐ傍にすうっと現われて、笑顔にさせてしまうすごいヤツみたいなんだけど……」
 依頼が引き受けてもらえたことで安堵したのか、琴羽野さんは他愛のない話を繰り出してくる。
 無邪気な笑顔を浮かべる琴羽野さんに僕も付き合いの笑顔を向けてはいるものの、内心ではこの件を含めた大小のはてなマークがぐるぐると旋回していて落ち着かない気持ちだった。
 時間制限がないことは随分と気楽ではある。焦らず焦らず。家に帰って、腹を満たして、風呂でくつろいで、将棋部の対策と一緒に少し考え始めてみることにしよう。
 琴羽野さんと別れの挨拶を済ませ、備品を片付けて、僕は家路を急ぐことにした。

 途中、歌を歌いながらバスに乗り込む小さな園児達とすれ違った。
 「「ちーさなもりのまんなかにー、おーきなきがありましたー♪」」
 一瞬、ドキッとしてしまった。随分と懐かしい童謡だ。この童謡を聴いて動揺してしまうのは、幼稚園時代の初恋の相手、ナナちゃんのことを思い出してしまうからだろう。

 ――人やお花や動物が、森にやってくる前から。
 
 小さい頃に繰り返し聞かされるためか、久し振りのはずなのにすらすらと続きが頭に再生された。他にも、「赤とんぼ」や「しゃぼん玉」などもすぐに再生できる。
 もしかして、幼少時代に効率の良い詰め込み教育――例えば、歌や語呂合わせで憶えるとか――をすれば、より優秀な学生が増えるんじゃないだろうか。勉強が面白くない、という学生が多いこと自体、教育カリキュラムの失敗といえないか。
 あ、でも、優秀な学生が増えたら相対的に今以上に頑張りが必要になってしまうかもしれないな。うーん、悩ましいな。
 あれ、僕、何で悩んでいたんだっけ……。まぁ、そのうち思い出すだろう。
 
 家に着くと、ツンとすっぱい匂いがした。これは!
 靴を脱ぎ、廊下を足早に進み、台所に顔を出す。
 「もしかして今日寿司?」
 「そうよー」母は手に団扇を持ち、手許の酢飯を仰いでいた。
 寿司は大好物だ。え? カレーが大好物じゃなかったかって? カレーも好きだよ。でも、寿司も好きなんだよ。別にいいじゃん。
 僕の帰宅に気づき、父も台所に現れる。
 「砂漠じゃないが、捌くか……」
 ボソッとくだらない父ギャグを呟くと、冷蔵庫から切り身をいくつか取り出し始める。
 普段、料理など絶対にしない男だが、魚をさばくときだけは必ず登場する。しかし、その腕前はただのサラリーマンとは思えないほどのものを持っている。以前、薄切りにされていた透明のものがマグロの赤身だと気づかなかったときがある。
 昔は荒れ狂う海原を駆け巡っていた、などと折に触れて本人は嘯いているが、腕の細さを見る限り真偽の程は明らかに偽だろう。
 「今日何かいいことでもあったの?」
 「……」父は答えず、無言でイカをさばいている。
「お父さん、ヘッドハンティングされたらしいのよ」母が小さく耳元で教えてくれた。
母曰く、業界内で新進気鋭の企業幹部から直々に声が掛かったらしい。入社して16年。大博打をせず、人が避けるような仕事も引き受け、堅実に堅実に生きてきた男だ。それがついに報われたわけだから、嬉しくないはずはない。
日中に連絡を受けて、夕食は寿司にすることにしたのだという。
心なしか、なで肩で猫背気味の父の背中が今日は自信にみなぎっている感じさえする。
 「桂夜は海苔とか皿とか小物の準備をしておいて」
 「はいよ」
 寿司の準備は基本的に酢飯の準備が一番時間が掛かる。父も手際よく捌いたので、その後あっという間に夕食開始となった。
 僕は早速、海苔を手に取り手巻き寿司を作り始める。四角い海苔の上に酢飯を薄く延ばす。飯をたくさん盛りすぎるとそれだけで満腹になってしまう。ネタは単純な数だけでなく、組合せでも随分味の印象が変わるからできるだけたくさん味わうには『飯は少なく』が鉄則だ。
 ではまずはさっぱりとしたこの白身の魚から。これはマダイかな? エンガワやトロは美味いが最初に食べると膨満感が早く訪れてしまう。
 ……はぐっ。
 「う、うまい……」
 程よい噛み応えと舌触り。青ジソとわさびが、微妙なアクセントを与えてくれている。
 ふと父の方を見ると。
 寿司を醤油皿に思い切り押し付けてから、あんぐりとかぶりついている。
 「父さん、醤油つけすぎだろ……」
 「……」
 味噌汁も麺つゆもそうだが、父はとにかく『味が濃い』のが好きだ。今でこそ問題ないが、高血圧になるのは遠い未来の話ではなさそうな気がする。ありがたいことに、僕には遺伝していない性質だ。
 「問題ないわよ。生命保険それなりの額かけてあるから」
 長年連れ添っている母は既に諦めモードというか、特殊フィルターが掛かっているようだ。
 よく見ると、母は母で刺身だけをひたすら食べ続けている。こらっ、それじゃネタが速攻なくなっちゃうだろ! まぁ、母は納豆が食べられないので、最終的には納豆巻きを大量生産するつもりだから大問題ではないが。
 本当にマイペースだな我が家は。

 自室に戻って、携帯端末を開いた。そして、先程撮影した、金属板を眺めていく。思いのほか、凹凸は綺麗に撮影できていて安心した。
 まだ何も浮かんでこないが、凹凸の具合や大きさからいくらかの分析ができた。

 

図_金属板

図_金属板

 

 一番小さいパターンDを1とすると、長さは1から4までの4種類あった。
 また、2枚ある金属板を〈パターンA〉とすると、それに一部しか異ならない〈パターンA’〉、Aの3分の4と完全に一致する〈パターンA-〉、Aの残り4分の1と似ている〈パターンD〉になっていた。残る3種類は共通点が特に無かったので、それぞれ〈パターンB〉、〈パターンC〉、〈パターンE〉と呼ぶことにした。
 〈パターンE〉は唯一凹凸が一列だけに固まっていた。
 寝る時間まではまだ少し時間がある。今日は宿題も特に無いし、少し考えてみるようか。金属板と凹凸……、金属板と凹凸……、
 
 金属板 + 凸凹 = おろし金?
 
 いやいや、板の厚さや凹凸の少なさから考えてもそれはなさそうだ。
 とすると。
 
 金属板 + 凸凹 = 点字
 
 少しありえるかもと思ったが、やはり点字にするには凹凸が少なすぎるようだ。
 前回とは違い、これはなかなか手強そうだ。何か、ヒントは無いかなと部屋の中の本棚を物色してみる。すると、奥底から懐かしい雑誌やマンガが発掘された。
 しかし、それは呪われた発掘物だった。気づけば僕は、寝るまでの時間をその発掘物の閲覧に費やしてしまっていた。

 

 小説『Sum a Summer =総計の夏=』(2/5)に続く

小説『Spring in the Spring =跳躍の春=』(5/5)

 *****

明日の答えなら 今日のどこかにしかない。

 *****

 

第五章 『金曜日』

 

 

 翌日の放課後。仮入部の最終日。僕は賑わう音楽室でなく、寂れた将棋部の教室の椅子に一人ぽつんと腰掛けていた。
 (これで……いいんだよな)
 丸一日考えて出した結論だったが、まだ僅かな心残りがあることは否定できない。
 軽音楽部は確かに楽しそうだった。しかし、もやもやした気持ちでいる僕がその集団の中で悪影響を与えないだろうか、上達せずにメンバーの足をひっぱってしまうのは心苦しい。
 将棋は元々孤独な競技だ。ゴルフやボクシングと違い、試合中に誰の助言も受けることはできない。運の要素もなく、〈負け=自分の判断ミス〉という厳しい現実を突きつけられる。
 しかし。
 孤独な競技ゆえに、自分のことは自分の責任で収められる。他人に迷惑を掛けることはない。迷った僕が何かやっとけそうなことはといえば、駒を持つことだと考えた。
 ただ、最後に決め手となったのは美月の言葉だった。
 
 ――――ケーヤの中で将棋はなくなってなかった
 
 美月は平気で嘘をつくタイプではない。いくら〈通し〉の最中とはいえ、その言葉が偽りの文字列であったとは思えなかった。
 将棋部は恐らく、将棋のできない顧問――泉西先生と僕の二人だけになる。あの訳の分からない教師と3年間一緒か……。今から卒業写真の部活のページが非常に心配だ。同窓会の度にネタにされたりしないだろうかと気が気ではない。
 一人だけだが、高校の大会も個人戦だけなら参加もできるはずだ。最近ではPC用ソフトも強くなってきているから、日々の対戦相手には不自由しない。学校に余っているPCが無いか泉西先生に相談してみるか。あれだけのことを言ってたのだから、少しは協力を要請しても問題は無いはずだ。
 よし……。当面の目標は立った。高校生でナンバーワンを目指すかな。
 僕が早くも来週からの活動を企てていると、
 「あれ。今日もいる」
 後ろから急に声を掛けられてビックリする。それは、ヤツの声ではなかった。
 「み、美月?」
 「何、驚いてんの?」
 美月は眉根を寄せて訝んでいる。
 「仮入部、最終日だぞ……。まさか、美月も将棋部入るつもりか?」
 「つもり……って、もう入部届は出し終えたけど?」
 美月が、将棋部に、本入部?
 俄かにはとても信じられない。昨日、僕を江辻の前に連れて行ったことで、美月が将棋部に近づく理由はもうないと思っていたのだから。
 同じ高校に通っているはずなのに、なんとなく、もう二度と会えないような気がしていたのに。
 僕の言いたいことが伝わったのか、美月は自分から話し始める。
 「顧問のセンセが『好きな時にくればいいから』って言ってくれたから。あたし、放課後はなるべく自由に過ごしたいし。先輩が居ないのも気楽でいいしね」
 なるほど。一応、納得できる回答ではあったが。「ケーヤがいるから」という理由じゃなかったのは残念至極だ。さすがにそれは夢見すぎだったか。
 「ところで、軽音部の本入部届はもう出してきたの?」
 現実の厳しさを突きつけられたばかりの僕に、美月はそんなことを言ってきた。意味がよくわからない。
 「俺も将棋部に本入部したから、さっきわざわざ美月『も』って言ったんだけどね」
 しかし、美月はさらに続けた。
 「あ、そう。『掛け持ち』はしないんだ」
 「えっ?」
 鳩がまさかの豆型スタンガンを食らったような表情を僕は浮かべていたかもしれない。
 「知らなかったの? 部活は掛け持ち可能だよ。生徒手帳に書いてあるでしょ。とりあえず、ケーヤもすればいいのに」
 「ケーヤも……って美月は将棋部とどこなんだよ」
 「帰宅部
 「あのさ。そういうのを幽霊部員っていうんだ」
 ……さてと。
 ここにきて、部活動の掛け持ち自体は可能だと知ったのは大きいが、果たして有効に実現可能なことなのだろうか。
 つまり、将棋で高校生全国一を目指しつつ、音楽も精力的に活動するってことだ。
 ギターだって、まだCとGとAmのコードしか押さえられない僕が、将棋の片手間にできるほど楽な世界ではないはずだ。
 将棋だって、3年のブランクがある。小中ではまだ覚醒していなかった、あるいは、急成長を遂げた猛者がきっとひしめいているに違いない。一筋縄ではいかないだろう。音楽の片手間では通用しないのではないだろうか。
 昔から、〈二兎追うものは一兎も得ず〉というじゃないか。そんな、異次元のような活動ができるわけが……。
 
 ――桂だけは……次元を超えられる……――
 
 頭に、そんなフレーズがフラッシュバックした。
 それは。
 (なんだよ……自分で言ったセリフじゃないか!)
 僕は、高速で自分自身の高校生活をできるだけ深く、そしてリアルに読んでいく。それは、随分と深くまで及んだ。
 人間には死の直前に人生の走馬灯というものがあるというが、それを未来に対してしている感覚に近かった。第三者的に見たら、非常に危ない人間かもしれない。
 そして結果が出る。
 「……よしっ」
 急いで読んだから、読み間違いかもしれない。でも、ここで立ち止まっていては、また時間切れのブザーが鳴り響き、後悔の3年間を送ってしまうことになるかもしれない。
 (迷ったら、何かやっとけ、だよな!!)
 僕は美月の方を正面に見据えて、「……悪い。しばらくここ頼む。軽音行ってくるから! ……と、もう一つ」
 そして、今、取り急ぎ言っておきたいことが。
 
 ビシィッッッッ……!!
 
 僕は、手許にあった玉将を力強く叩きつけ、真剣な顔で宣言する。
 「俺、王将も好きだけど、玉将はもっと好きだ!」
 突然、脈絡の無く謎の宣言をした僕に、さすがの美月も理解が追いついていない様子だ。
 いや、分からなくていい。むしろ、その方が堂々と言えて都合がいいといえるかもしれない。
 相手が意味を理解していないから恥ずかしさがなく、しかし、自分は達成感を得られている。
 今日のところは、これで十分。3年間のうちに、正式な機会が作ればいいさ。そんな風に、余裕に構えていたら。
 「おー、下僕……もとい、部員たちよ、集まっとるな」
 ヤツだ。
 (……って、このタイミングではヤバい!)
 慌てて、退散しようと思ったが、間に合わず。そして、
 「どうした瀬田。『玉将の点が美月の笑窪を表現したことをばらされたらまずい!』ってな表情してるが?」
 「……~~っ」
 恥ずかしさで、全身、特に顔が熱くなっていくのを感じた。後ろからは、何故か風を切る鋭い音が聞こえる。ゆっくり振り返ると。
 (その音かよ!)
 「……そんなに、あたしの笑窪が拝みたいなら、デコピン二発でどう?」
 美月が、眉根を僅かに寄せつつ、物凄い素振りをしていた。
 しかし、先日のように不快な表情を浮かべるでもなく、軽妙に切り返しを見せたということは、美月に僕が伝えたかった笑顔の魅力がいくらかは伝わったと言うことではないだろうか。
 それなら、恥ずかしい想いをしても損はない。あの強烈なデコピンは御免こうむるが。
 「と、とにかく。軽音楽部に届出してくる!」
 僕は、逃げるように将棋部の部室を飛び出した。
 後方の教室からは、何故か、泉西先生の「っ痛えっっっっ!!」という悲鳴が響いてきた。
 早速、さっきの〈読み〉が大きく脱線した僕の高校生活だが、どうやら、つまらないまま終わることだけはなさそうだ。
 
 無事、軽音楽部にも本入部届を出し終えて、来週の火曜日には早速ギター講座にも参加することにした。
 紆余曲折あったが、とにもかくにも僕の高校生活の駒はこれで全て整い、今まさに3年間に亘る一局がはじまろうとしている。
 すぐにでも第一手目を指したい、はやる気持ちを抑えて、静かに考える。
 瀬田桂夜の生き方のルールは、瀬田桂夜が決めることができるのだから。既存の考え方や、枠にとらわれることなんて無いはずだ。
 季節は春。春はspringであり、springは〈跳躍〉でもある。まさに〈桂〉のためにある季節といえるかもしれない。
 だから、もっと素直に。もっと自由に。こんなことだって、できるはずだ。
 僕は頭の中に将棋盤を浮かべると、勢い良く駒を打ち付ける。
 
 初手、5五桂――。
 

図_初手5五桂

図_初手5五桂


 小説『Sum a Summer =総計の夏=』に続く

 

小説『Spring in the Spring =跳躍の春=』(4/5)

 *****

 負ければ悔しくて、もう一局。
 勝てればうれしくて、もう一局。
 それがこのゲームの怖くて素晴らしいところ。

 *****

 

第四章 『木曜日』

 

 翌朝のホームルーム前、福路くんが1組を尋ねてきた。
 「昨日は本当に助かったよ。あの後、『字間違えててごめん……』って謝ったら、ちゃんと許してもらえて」
 額を指差して、「穏便にね」と付け加える。
 左様ですか。そいつは、めでたいことで……。
 「あ、そうだ。もし知っていたらでいいんだけど……」
 確か、福路くんは僕と別の中学出身だ。そこで、念のため聞いてみたいことがあった。
 「『織賀美月』って女子生徒、知ってる?」
 「え? あの可愛い一年女子ですよね。運動神経も頭も抜群、才色兼備の天才ってところですけど、あんまりに無表情だから何考えているか分からず絡みづらいという評判ですが。それがどうかしました?」
 「ああ、いや、なんでもないよ」
 「入学早々、告白仕掛けて玉砕して、人目をはばからず涙を流した男子生徒が数名いるとかいないとか。残念ながら、〈ラフテイカー(笑顔受取人)〉が来てくれる年齢でもないのですしね」
 「ラフ……テイカー? 南の方の食べ物……だったっけ?」
 「それは、ラフテーです! 噂はご存じないですか。
  孤独に泣いている子供のすぐ傍にすうっと現われて、笑顔にさせてしまうすごいヤツなんですが、その正体というのが……」
 そのとき、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り響き、僕と福路くんは慌ててそれぞれの教室へ戻ることとなった。
 話も脱線指定しまい、結局のところ持ち得ている情報以上の収穫は得られなかったのだった。

 *****

 朝の福路くんとの会話以来、僕は授業中を含めて一日中考え続けていた。
 美月が、なぜ将棋部に足を運び続けているのかということをだ。
 ここ数日、レクチャーを通してみた感想は『天才』だった。福路くんも評していたがそれに異論はない。
 一見、整った容姿の方に注目してしまいそうだが、異質なのはその処理能力だったのだ。
 一度理解したことをすぐに自分のものとして、正確無比に扱う。まるで、プログラムやコンピュータのようだ。
 そこで浮かぶのは、棋界を騒がせている冷谷山三冠のことだった。
 25歳でプロとなって以来、現在進行形で将棋界の記録を更新し続けている30歳の男だ。
 同業のプロ棋士からも「なぜプロ棋士になったのか」「他の分野であればもっと別の偉業を成していたのでは」と言わしめる天才だ。
 「天才は異質なものだ」冷谷山本人は何かのインタビューでそう言っていたそうだ。
 異質――つまり、凡人には天才は理解できない、ということならばそれ以上の探求は不可能ということになる。
 (結局は、考えるだけ無駄なのかな)
 僕はシャープペンシルを指先でクルクルと回しながら、5時間目の授業の終業時刻の到来を待ち望んでいた。

 そしていよいよ放課後。緊張しつつ部屋で待つと、美月は現れてくれた。そして、こちらが声を上げるより早く、
 「今日は、ちょっと付き合ってほしいところがあるんだ」
 と切り出してきた。口調は昨日の『笑窪事件』以前のものと変わりがない。しこりが残らなかったことにひとまず安堵しつつ、「付き合ってほしい」という言葉につい敏感に反応してしまう。さすがに、デートの誘い……というわけでもなさそうだが。
 「別にいいけど?」
 そっけない感じを装っているが、心臓は高鳴ってきている。
 「それなら、片付け片付け」
 美月に促され、将棋盤と駒を片付けて、校舎を後にした。
 向かった先は、駅の近くの繁華街だ。この辺りは、飲食店や本屋など様々な商店が立ち並んでいる。
 美月はそのうち、〈哲笠ビル〉と銘打たれている建物の前で立ちどまる。1階が喫茶店になっているようだ。
 (喫茶店で何か食べたいものがあるとか?)
 男と二人じゃないと食べられないものとは、果たしてなんだろうか。牛丼とか、串揚げみたいなゴツい食べ物ならありえるかもしれないが、喫茶店のメニューにそういう類のものなんかあるだろうか。
 二人分の量の甘味を食べたいが、一人で注文すると人目が気になるから、僕に一旦注文させようとでも言うことだったりして。
 しかし、僕の予想をあざ笑うように、美月は1階の喫茶店には入らず、近くにあったエレベータで5階のボタンを押して待っている。
 5階のプレートには〈(株)レンタルルームサービス〉なる文字が書いてある。なんとも分かり易い会社である。
 貸し部屋でいったい何をするつもりか、という問いの答えは一切見当がついていない。
 エレベータを降り、居室の中をなおも進むと〈Cルーム〉と書かれたドアが見えてくる。その前で美月は立ち止まり、「ここ」と指さして待っている。
 ドアに何か張り紙があるわけでもなく、鉄の扉の先は見えない状況だ。全く想像がつかない。
 しかし、ここで突っ立っているわけにもいかない。
 僕は意を決して、ドアを開いた。

 *****

 ドアを開くと、椅子に白髪の人物が座っているのが見えた。入口に立っている僕に声が掛けられる。
 「ようこそ。どうぞ、こちらに……」
 前髪を垂らし、サングラスを掛けているが、肌の具合やその声から同い年くらいであることが分かった。
 白髪に見えたが、髪はブリーチしているのだろうか。白髪と銀髪の違いは僕にはよくわからない。
 一歩一歩近づく。
 すると、口許の印象や、彼の手前に置かれているものがよく見えてきたことで僕の推理は100%に到達する。
 「お前……江辻か?」
 「ごぶさたしていますね。瀬田くん」
 満足気な声で江辻が応じる。後ろを振り返ると、美月が相変らず無表情な顔で立っている。
 「謀ったのか?」などと失礼なことは聞かない。僕が自分の意思で付いて来たことに違いはないのだから。
 ただ、これだけは確認しておきたかった。
 「美月、君に何のメリットがあったんだ?」
 江辻と美月の間にどんな関係があるのか。恋人同士だというならば、瀬田桂夜としては残念だけど、まあ妥当な理由と言える。
 ただ、脅迫されているような事実があったなら、それは見過ごすことはできない。
 「今は、言えない」
 数日の付き合いではあったが、美月のことは少しは分かってきているつもりだ。
 『言えない』のではなく『今は言えない』理由なら、まだ今の自分を納得させられる。
 数日間を含めて要するに、江辻は美月を通して、僕を呼び寄せた。そういうことだ。
 美月が僕に近づいたのも、僕と親しくなり、事を進めやすくするためだった、ということだろう。
 「事情はだいたい分かった」
 僕は、江辻の前に置かれている将棋盤を指差して言う。「要するに、きみとそれをすればいいんだろ?」
 人質がいるわけでもない、褒賞金が出るわけでもない、僕にはメリットがない話だ。それは理解している。
 しかし、ここで去れば江辻は確実に不完全燃焼だろう。江辻がそうなれば、美月も恐らくは十分な報酬を得ることはできないだろう。
 そして、そんな状況を生んだ張本人という後味の悪さが、僕には残る。
 だから。
 早く江辻を満足させて、こんな不快な状況から脱するに限る。
 部屋の奥に進み、将棋盤が近づくにつれ、駒の並びは初形ではなく差しかけのものだと分かった。
 そして気付く。
 「これは……っ」
 何度も夢で見た。うなされたこともある。最近は、やっと見なくなったというのに。
 見覚えがある局面。いや、むしろ忘れようがない局面。

 *****

 小学生の時、僕は将棋少年だった。将棋の駒などはいつもポケットに入れて持ち歩いており、近所では「ビスケットと駒を間違えているのでは?」という噂が立ったとか立たなかったとか。
 ルールは父から教わった。勝敗によって、おやつの量が増減するという仕組みが僕の心を熱くした。半年で父と同レベルまで成長し、一年後には父では相手にならなくなって、隣町の道場にも通うようになった。
 世の中は広い。通いはじめの頃は、負けることの方がずっと多かった。
 それでも、子供特有の才能が伸びる時期に合致したのか、将棋というゲームとの相性が良かったのか、僕は物凄い勢いで強くなっていった。
 地元の同世代ではもう勝てる者がいなくなった小学6年生のころ、全国の将棋大会に出場した。
 さすがに、全国の猛者が集まるだけあって、一筋縄ではいかない戦いばかりだったが、それでも予選を全勝で突破し、ベスト4までトーナメントを勝ち上がった。
 (この分なら、優勝できそうだ……)
 あと2勝で全国一の座が見えてきた。
 心に慢心があったかと言われれば、否定はできない。しかし、そうでなかったとしても。奴は強かった。
 名前は、確か江辻隆太といった。
 勝負自体は、序盤から中盤までほぼ互角だった。
 しかし、終盤になり、僕の方が僅差で有利になってきた。
 そして、長手順ではあるが相手の王将に詰みがありそうだと気付く。が、分岐が多く、非常に難解な手順だ。
 詰めに行くときは、多くの駒を相手に渡すことになる。仮に読み間違いで詰まなかったとしたら、逆にこちらが負けとなる。ボクシングで大振りのストレートを放つようなもので、空振りしたら手痛いストレートをお見舞いされることになるわけだ。
 より安全な手も勿論ある。しかし、この江辻という少年も強い。もしかしたら、一手緩めた瞬間にこちらが詰まされるおそれもありえた。
 さらに、大熱戦だということでギャラリーも一層増えてくる。踏み込むべきか、安全にいくべきか……。どっちが正解なのか……。
 ようやく、自分の中で方針を決めたその時。大きな落とし穴が待ち受けていたのだ。

 気づいたのはギャラリーを含めた、悲鳴のような脱力したような大きなざわめき声だった。
 将棋大会の対局中にそんな大声が巻き起こるとは不自然だ。誰か人でも倒れたのか、まさか目の前の江辻少年が?
 そう思い正面を向くと、彼の視線は将棋盤の外に向けられているのに気づいた。その先にあるのは、アナログ式のチェスクロックだった。赤い板が垂れ下がって揺れているのは、僕が時間切れで負けたことを意味していた。
 「あ……」
 一瞬、頭が真っ白になった。読みに集中していて、すっかり失念していた。
 ギャラリーは「あぁ……」という声を漏らしながら、一人二人と散っていく。
 あとには、放心状態の僕が残された。
 その当時、デジタル式のチェスクロックを子供の大会で使うことは珍しく、持ち時間を使い切ったら即負けというシビアな世界だった。
 迷わず指し続けていたら勝てていたはず、何であんなに慎重になりすぎてしまったんだ。自責の言葉ばかりが頭に浮かんでくる。
 結局、大会はその江辻が優勝した。それでも僕は3位決定戦を勝ち、記録上では3位の銅賞で終えることはできた。
 全国3位は、傍から見たらそれでも立派な成績だったのではないかと今でこそ思う。
 ただ、小学生にしてみたら、銅の色は、金色の輝きに比べたら随分とくすんだ色という印象でしかなかった。
 テストの点数が振るわなかった時も、リレーで抜き去られた時も、『自分には将棋がある。将棋なら、誰にも負けない』といった心の支柱があったから、今までやってこれていた。それがその日揺らいで、そして一気に折れてしまったのだ。その日以来、僕は駒と盤を部屋の奥底にしまい、本やテレビをはじめとするありとあらゆる将棋に関連するコンテンツから遠ざかった。

 (将棋なんて、ただのボードゲームだ)
 (そのうち、必勝法がいくつか確立されて、それを暗記するだけのゲームになってしまうんだ)
 (将棋は捨てる。将棋から離れる。将棋なんか……将棋なんか……)
 
 大会終了後、数日の間は両親も慰めや3位という実績の礼賛をしてくれていたが、僕の〈将棋断ち〉が本気であることを感じ取ったのか、その後は家庭の話題に上がることはなくなった。
 中学に入ると、当時はやっていた漫画の影響で、テニス部に入部した。練習もきつかったし、結局レギュラーになれなかったりと活躍はできなかったけれど、まあそれなりに充実した日々は過ごせた。
 なにより、将棋無しでもそれなりに楽しい学生生活を過ごせたことが新たな心の支えになりつつあった。
 (自分は、将棋だけじゃない。なんだって、やろうと思えばそれなりにできるんだ!)
 そうして、自分の中にあった将棋の存在にそっと埃をかぶせて行った。

 *****

 「どうしても、あの時の続きがしたくてね」
 「……」
 僕が江辻に時間切れで負けた、あの準決勝の対局のものだった。
 「いい性格になったんだな。おかげで、またしばらく悪夢には困らなさそうだよ」
 「あなたの手番からです。今日は持ち時間は無制限で」
 無制限と来たか。つまり、時間でなくて双方の実力のみであの試合の勝敗を確定させたいということだろう。
 江辻は完璧主義者だ。一局しか指していないが、将棋を通してそれは理解した。無駄駒を作らず、全ての駒が何かの役割を持つように動かすその指し手がそれを物語っていた。
 「……OK」
 僕は引き受けた。負けたところで、失うものは特にない。ただし、たとえ勝ったところで、得るものもない。僕にとって、将棋は既に心の支えではない。なにものでもないから。
 そしてこの局面で、指すべき方針も、指す手順もは既に3年前に決断していた。今はそれを再生するだけだ。ゆえに、持ち時間など、必要ない。
 
 ――パチッ………
 僕が攻める。
 「一つ、勘違いしないでほしい」
 美月が後方から話しかけてくる。通常、対局中に話掛けてくるのはマナー違反ではあるが、どういったことを話してくるか興味があったので、制したりはしなかった。
 
 ――スッ………
 江辻が金将を横にスライドさせて受ける。
 「依頼には条件があった」
 
 ――ピシッ………
 江辻の桂馬を銀将で取り、攻める。
 「『もし、ケーヤが将棋をやめていたら連れてこなくていい』って」
 
 ――カチチッ………
 江辻が銀将を取る。その手は僅かに覚束ない。
 「でも、ケーヤは将棋部に居た」
 
 ――ビシッ………
 盤の隅でくすぶっていた角行を中央に展開し、王手を掛ける。
 「将棋部で駒をいじってた」
 
 ――パチリッ………
 江辻が王将を真下に逃がす。王将は升目から僅かにはみ出ていた。
 「あたしに教えてるときも辛そうに見えなかった」
 (それは……。美月だったからだよ……)僕は心の中で呟く。
 
 ――ピシッ………
 持ち駒の歩兵を打ち、攻める。
 「念のため、3日間様子をみたけど」
 
 ――カチッ………
 江辻が王将を左下に逃がす。その際に僅かに左隣の香車に触れて、香車が斜めになった。
 「ケーヤの中で将棋はなくなってなかった」
 (美月からは、そう見えていたのか)
 当人のことは、当人にしか分からないことがほとんどだろう。しかし、当人だからこそ見えていないこともあるのかもしれない。鏡とか、写真とか、そういったものを使わないと、そもそも人間というものはは自分自身の顔さえ知ることができないのだ。
 美月で言えば『笑顔の魅力』だろう。僕はそう感じていた。
 僕で言えば、それは『将棋への想い』なのだろうか……。
 
 ――ピシッ………!
 ひときわ大きい音で持ち駒の銀将を打つ。後は簡単な追い詰めだ。江辻ほどの実力者なら既に理解しているだろう。
 勝敗は決したのだ。あの時の自分の読みが正しかったことが、3年の歳月を経て証明できた。
 「だから、今日、来てもらったの」
 美月の贖罪ともとれる話もちょうど終わったようだ。
 
 「……負けました」
 江辻が持ち駒に手を被せながら、頭を垂れる。それを見て、僕は静かに拳を握り締めた。
 しかし、勝利に喜んだわけではなかった。頭の中にあるのはもっと別のことだ。僕は、対局中に浮かんできた疑念を確信に変えるために問いただす。
 「……どうして、投了? そっちは詰まないけど?」
 僕が発した言葉に、江辻は虚を突かれたようだ。
 「持ち駒の桂馬でピッタリ詰むでしょう。簡単な手順です」
 (そうだ。確かに、桂馬があれば詰むけどな)
 「きみこそ、何を言っているんだ? 持ち駒に桂馬など持っていないけど?」
 僕の不意打ちに、江辻ははじめて動揺した様子を見せた。
 「7手前に、こちらの銀将と交換したでしょう」
 「どうだったかな、したかもしれない。でも、その桂馬は『物理的に、今、どこにある』んだ?」
 僕は両手を広げて肩をすくめてみせる。
 江辻は言葉に詰まった。その様子を見て僕は確信した。
 「なぁ、江辻。両眼、どうしちゃったんだよ……」
 僕は、広げていた右の掌から桂馬を駒台の上に転がした。カランという音が、部屋に広がる。
 この桂馬は先ほど、江辻が頭を下げて投了した後に素早く握り締めていたのだ。江辻にも美月にも分からないように。
 その後、江辻を挑発した際に目の前で広げて見せていたのに、彼はそれを指摘することができなかった。それは、彼が光を失っていることの何よりの証拠だ。
 「……ふぅ」
 観念したのか、江辻はもう動揺していなかった。そのかわりに一つ、小さな息を漏らす。
 「気づかれてしまいましたか……。実は、あの大会の直後からちょっとした病に罹り、今は全く見えていません」
 「……」

 恐らく、美月が対局中に不自然な話を延々と続けていたのは、僕の差し手を盲目の江辻に伝えるため、事前に取り決めをしていた〈通し〉の暗号だったのだろう。暗号のルールは全く見破れなかったが。
 江辻は、静かに語り始める。
 「……光を失い、最初は将棋なんてやめてやろうと自棄になったりもしました。しかし、時間が経っても、脳裏から将棋を追い出すことが一向にできませんでした。
  そのうち、逆にそれが将棋だけに専念できる環境だと考えることもできると気づいたのです。
  それから、毎日健常な人と同じように振舞えるような訓練を重ねました。……結局、まだまだ修行が足らなかったわけですが。気づいたら、3年が経っていました。
  よほど印象に残っていたのでしょう。その間も、あの対局のあの盤面が暗闇の中には、毎日のように浮かびました」
 「試合に勝って、勝負で負けた、という状況だったからだと思います。勝手な思い込みですが、この試合の顛末をきっちりと終わらせないと、私の第二の人生は始まらないと思ったのです」
 「それなら、今日が第二の人生のスタートだな」
 「ありがとうございます。次にお会いする時は、今の私と勝負をしてもらいますよ」
 「……ん。ああ」
 あいまいに答えたが、あいにく僕のほうには明日からも将棋をするつもりは全くなかった。
 将棋への歪んだ偏見。将棋の未来に僕が感じた閉塞感。それをここで語るのは容易い。
 しかし、江辻の将棋への情熱は本物だ。光を失った後は、それを基軸にして今日も生きているようだ。
 そんな人間に、僕の思いをぶつけるのはさすがにためらわれた。
 「ともかく、これで全部終わったはず。……俺は、学校に戻る。まだ部活動の時間が残ってるから」
 江辻は小さくゆっくりと頷いた。特に不満はなさそうだ。
 そして、美月は。相変わらず無表情な顔をしているが、部屋を出て行くことに異論はなさそうだ。
 ドアを閉める直前、最後にもう一度だけその姿をじっと見た。
 (『瀬田桂夜』じゃなくて、『江辻の依頼した人物』に用があったんだよな)
 自分が普通に生きていたのでは、話をするきっかけさえなかったであろう同い年の美少女。
 数日間のやりとりも、果たして、幸だったのか不幸だったのか。今はまだ判断が下せるほど心は冷静ではなかった。
 僕は、くすぶりはじめた想いを振り払うようにして、〈Cルーム〉を後にした。
 
 *****
 
 僕は、校舎に戻ってきた。部活動の時間は残り30分程度だ。勿論、軽音楽部の枠は開いていないだろう。
 しかし、顔を売っておけば、もしかしたら明日の最終日に潜り込めるチャンスが生まれるかもしれない。
 そんな淡い期待で音楽室を訪れた。
 例の「本日満員御礼 またきてね~♪」の張り紙はなかった。軽快な音楽に誘われるようにして、ドアを静かに開ける。
 入り口から中を覗いてみると、ギター、キーボード、ドラム、パーカッション。様々な楽器から、様々な音色が生まれて溢れ返っている。
 これこそ、僕の思い描いていた高校生活だ。
 「キミ、仮入部希望の子?」
 「あ、はい……」
 僕の存在に気付いた男の先輩が話しかけてきてくれた。
 「ちょうど、さっき早退しちゃった子がいるから、寄ってく? 今からだと30分もないけど」
 「えっ、あっ、はい! ぜひ!」
 その早退した子には悪いが、幸運としか言いようがない。僕は4日目にしてついに、音楽室のドアを越えることができた。
 「楽器は個人のを持ち込んでもいいし、備品を使ってもオーケー。ピアノは確実に順番待ちになるね。中にはジャズとかやる連中もいるので、吹奏楽部とかも交流があるよ」
 先輩は、あれこれ指差しながら部活動の説明を丁寧にしてくれる。
 「キミ、楽器は何かしてる?」
 「えーと、ギターやりたいんですけど……まだ独学ではじめたばかりで」
 「なるほどね、ギターは上手い奴が一人いて定期的に講座を開いているみたいだから、習うとあっというまに上達すると思うよ」
 想像以上に、素敵な部活動じゃないか……。きっと、顧問の先生もまともに違いない。
 もう決めた。僕はこの部活動に骨をうずめるぞと心に決める。本当にうずめてしまったら、事件になってしまうので、あくまでも比喩だ。
 辺りをしげしげと眺めていたが、ふと、不可解な光景を眼にした。
 「……曲がりくねったみーちー♪
 可愛らしい女の子の歌声とピアノやドラムの音が聞こえるのに、音楽の聞こえる方向には楽器を弾いている男子生徒が一人しかいないのだ。
 「……!?」
 じっと見ていると、男子生徒が近くにあったパソコンのキーを軽く叩く。すると、音楽も鳴り止んだ。
 (なんだ、録音か)
 これは、メンバーが集まらないときや、一人で繰り返し練習するには非常に重宝しそうだ。音楽も進化しているのだなと感じる。僕なんかはギターの初心者も初心者なので、最初のうちはこうして練習をするのが迷惑にならなくてよいかもしれない。
 僕の視線に気付いたのか、先輩が説明をしてくれた。
 「ああ、あれね。高楠くんがやっているのはDTMっていうんだ」
 「ディーティーエム、ですか?」
 「そう。デスクトップミュージック。あらかじめ、インプットしておいたとおりに、コンピュータで曲を演奏させることができるんだよ」
 「は、はぁ……」
 「そうだなぁ。例えば、ギター音を7音以上同時に出したり、とてつもなく速くて細かい動きも毎回完璧に演奏できたりも自由自在だよ」
 最初は、録音とどう違うのか、何がメリットなのか、図りかねていた僕にもだいぶ理解できてきた。これはなかなか便利そうだ。
 「つまり、ボーカル以外はコンピュータって演奏させたりできるってことですね」
 「お? いやいや、あのボーカルもコンピュータだよ。今はだいぶ種類も増えて、老若男女色々あるんだよ」
 「えっ、ボーカルもですか」
 僕は驚く。あれだけ滑らかに歌っていたのに……。確か、パソコンに付属しているようなテキストリーダーはもっとカタコトな話し方だった気がするけれど。音楽用は特別なのだろうか。
 「それだけじゃない。実は、作詞作曲編曲、今はこういったものも全部コンピュータで自動生成できるんだよ。和声法とか対位法って知ってる?」
 「い、いえ……。すみません」
 「えーと、まあ簡単に言うと、人間が『あ、いいな』って思える曲って、ある程度は法則化できるんだ。それをコンピュータでランダムに組み合わせたりすると、曲自体は簡単にできるんだ。詞もアレンジも同じ要領だね」
 突然の話に、なかなか頭が追いつかない。便利そうで、いいなとは思うんだけど。それって、つまりは。
 僕は膨れ上がってきた疑問を先輩に投げかけてみる。
 「でもそんなのがあったら、音楽やってる人たちみんな困らないですか? 新曲もコンピュータで作れて、完璧で凄い演奏もコンピュータでできちゃうなら、みんな、何を音楽に求めるんでしょうか?」
 決して、困らせるつもりで言ったわけじゃない。
 でも、先輩は僕の問いにすぐ答えられなかった。
 「……実は、さっき早退しちゃった子も同じような反応でね。最近、音楽CDが全然売れないのは知ってるよね。ミリオンヒットはいまや過去の話、音楽番組も視聴率を取れない。……今じゃ、音楽というものがゆっくりと衰退してるのかもしれないね」
 「そんな……」
 そんなことないですよね、と言いかけたが、言葉を続けることができなかった。

 *****

 その後、僕は部活動終了時間まで音楽室に入り浸っていた。結局、念願の仮入部は果たせ、過ごすこともできたものの、頭の中はすっきり晴れない状態だ。
 近くの窓から、眼下を見下ろすと生徒が徐々に下校していく様子が見えた。
 彼らは身体は疲れているはずだが、充実した表情を浮かべて楽しそうに見えた。楽しそうに見えるのは、一体何故だろう。
 (将棋も斜陽、音楽も衰退……か)
 楽しみにしていた高校生活がついに始まったかと思っていただけに、一層大きく感じられる閉塞感が僕を包みこんでしまったようだ。
 (一体、どうしたらいいのか。見当もつかないや……)
 夕陽が廊下に一筋の影を作った。視線を向ける。
 それは、よく知った人物――泉西先生だった。
 てっきり、「将棋部来ないで、軽音楽部に行ってたのか!」などと言われるのかと覚悟していたのだが、そうではなかった。
 「どうした瀬田、元気ないようだが」
 声色も普段と違っているように感じる。
 (みりゃわかるでしょ。でも泉西先生には僕の悩みなんてわかりっこないさ)
 「『みりゃわかるでしょ。でも泉西先生には僕の悩みなんてわかりっこないさ』って言わんばかりの顔だな。ってこら! お前、俺さまを相当見下してやがるなっ!?」
 思っていたことを一字一句ぴたりと言い当てられて、僕は驚愕する。まさか、読心術というやつだろうか。
 「『読心術』っちゃあ、『読心術』かもな。現国教師の力をなめるなよ。ちなみに、いい女性になかなか巡り合えず『独身術』もしっかり身につけてるがな。……って、余計なことしゃべらせるな!」
 「勝手にしゃべってんじゃないすか!」
 普段と違っているかと感じたが、どうやら思い違いだったようだ。
 はっはっは……と泉西先生はしばらく笑っていたが、急に真面目な顔になり、僕に向き直る。
 「迷ったら、何かやっとけ、だ」
 「え?」
 「信じるかどうかはお前に任せる。昔話&独り言だ。
  学生時代の俺は、この『読心術』っぽい能力のせいもあって、周りから必要以上に避けられていたな。『泉西に近づくと、秘密が覗かれるぞ!』ってな。落ち込んでいた俺に、担任の先生だけがこう言ってくれたよ。『君の力は実にすばらしい。将来は、その力できっと多くの人が救われることだろう』
  嬉しかったな。必要とされるってのは悪くねぇもんだ。この力を活かしつつ、できなかった楽しい学生生活をもう一度やり直したい、と思ったらスクールカウンセラーしかないと思ったんだ。目標ができたからな、勉強したよ。したけどさ、ダメだった。暗記物はさっぱりだった。
  気付けば、俺は動物園のペンギンの世話をしていた。北国の冬は寒かったが、ペンギンたちは可愛かったよ。楽しかったが、散歩中のペンギンに大脱走されて大渋滞を起こして、大目玉を食らってあっさりクビになったよ。ペンギンの心は全く読めなかったな。
  手っ取り早く稼ごうと思って、雀荘に入り浸ったらこれが予想通り大儲かりでな。儲かりすぎて、目をつけられて、跡もつけられて、海に沈められかけて。
  で、気づいたら、この高校で教師をしてた、というわけだ!」
 「……ぶっ飛びすぎでしょう」
 「まあとにかく、だ。こうやって、お前と話ができてるってことは、俺の昔の夢が一つ叶いかけてるってことだろ? どうしようもないことばっかだったけど、立ち止まったり、何もしなかったりしなかったのが良かったんだと思ってるぜ。……こう見えても、うれしさのあまり、俺の中では盛大にお祭りが開催されております」
 「は、はぁ……」
 気付けば、辺りは既に暗くなり、屋外では街灯が灯りつつある。
 「と、まあいろいろ言ったが。何かしてなきゃ何も変わらんもんだ。状況が勝手に変わることはめちゃレアだ。良い方向に変えたければなおさらだな。だから、何かやっとけ。学生時代は長いようで短いぞ!」
 最後にそれだけ言うと、泉西先生は踵を返し薄暗い廊下に消えていった。
 (何かしないと何も変わらん……か)
 状況が芳しくなくても、何もしないままだと事態は一向に良い方向に向かわない。その考えは奇しくもパスの許されない将棋も同じだ。
 明日の僕は、どんな決断を下すのだろうか。

 

 小説『Spring in the Spring =跳躍の春=』(5/5)に続く

 

小説『Spring in the Spring =跳躍の春=』(3/5)

 *****

一日は短い 悩むにはもったいないから
今日もベストの自分をイメージして走ろう!

 *****

 

第三章 『水曜日』

 

 翌朝、僕は始業前に2組の琴羽野さんを訪ねた。なんだか気恥ずかしいので、昨日と同じ別館の廊下にばらばらに移動してから、話を始めることにした。
 「あれから、どうだった?」
 まずは、そこから。既に解決済みであれば、僕の出番は不要だ。
 「全然ダメ。年月日じゃなくて、歩数とか戦場とかでも色々と調べてみたんだけど、歴史研究家じゃないから詳しくもないし……」
 「そもそも、おじいさん、歴史好きだったの?」
 「えっ!? えーと、いやそういうのは、あんまりなかったかなぁ……」
 「あと、暗証番号って、自分で設定できるものなのかな」
 「それはできるみたい。古い金庫だったけど、製造メーカーとか製造型番から調べられて」
 そうすると、縁のない番号に語呂合わせをあてがったりしたわけではなく、自分で覚えやすい番号を設定できたわけだ。
 金庫に貼り付けられた紙は間違いなく暗証番号を意味するだろう。ただ、そのまま番号を張り付けたのでは鍵をしていないのと変わらない。
 自分しか知りえない番号を守り続けるためには、歳を取っても思い出し続けられる〈自分なりのルール〉を持っていたはずだ。
 「おじいさんって、囲碁とか将棋とかやってた?」
 突然投げられた直球の質問に琴羽野さんはかわいそうなくらい狼狽する。
 「えっ? えーと……。確か……将棋はやってた気がする。というか、和室の押し入れに盤と駒と『なかとびぐるまをさしこなす本』っていう本も何冊かあった気がする」
 (それは、佐波九段の『中飛車(なかびしゃ)を差しこなす本』のことだな。……僕も持ってる)
 「ありがとう」
 そうすると、想定した番号の裏付けがかなり高まった。
 将棋でいう天王山とは盤面の中央部分、俗に5五の位と呼ばれる枡目のことを意味している。
 歩数はおそらく、歩いた数のホスウではなく、歩の数――歩兵の駒の数のことだろう。すると、敵味方の双方9枚ずつで合計18枚となる。
 ここまでで、55、18という数が一旦浮かび上がってくる。そして、『戦場の下』。
 将棋で戦場と言えば、将棋盤のことだろう。その下には盤の脚がある。その脚は〈クチナシ〉が象られている。
 昨日、リビングにあるPCで色々と調べてみたところ、クチナシ(サンシシ)は黄疸の症状に効能があるという記述が見つかった。
 琴羽野さんのおじいさんの症状は黄疸のそれとよく似ていた。死因も肝不全だったことを考えると、生前に日常的にサンシシを飲んでいて、暗号に使うことを思いついたという可能性はそれなりに高いように考えたのだ。
 55、18、そしてサンシシ(344)。
 「5518344、もしかしたら、最後の344はクチナシがひっくり返っているから5518443かもしれないけど」
 少なくとも、失敗しても時限爆弾のように爆発することは無いはずだ。
 「早速、試してもらうね」と自宅にいる母親へ通話している様子をドキドキとしながら見守る。高校受験の合格発表が再来したかのように鼓動が高鳴り続けている。
 しばらく、静かな時間が流れる……、そして。
 「――っ! 開いたって!」
 「おぉっ!」
 二人して思わず歓声を上げる。
 速報によると金庫の中には、土地の権利書や株券と一緒に、似顔絵や小物をはじめ、家族がこれまでにおじいさんにプレゼントしたものがぎっしりと大切にしまわれていたようだ。
 家族が大好きだったのだろう、自分の最期を何となく感じて、大切な一日一日を宝物と一緒に宝物の近くで過ごしたかったのだろう。
 「おじいちゃん……」
 琴羽野さんの眼の端に、光るものが見えた。しかし、それは悲しさからは格別した、別の感情から生まれているもののような気がした。
 「瀬田くん、本当にありがとう。今度、きっとお礼するから……」
 純粋にパズルが解けた喜びもうれしかったし、家族のありがたみを再確認させてくれたのもうれしかったけど。
 人からありがとうって言われるのもやっぱり、嬉しいなと思った。
 
 *****
 
 3時間目の英語の授業が終わった。
 高校の授業は、教室移動が面倒だ。中学のときは、これほど頻繁に移動した記憶はない。
 (次は……、また1階に戻るのか)
 午前中からこんなに移動をしていると、弁当の質量に不安を感じる。果たして、十分なエネルギーを補えるだろうか。頼れる炭水化物の塊――コロッケパン――を補充する計画など立てておいたほうがいいかもしれない。
 (うん? なんだこれ?)
 席を立つ前に、机の下を確認すると、見慣れないノートが置いてあるのに気付いた。
 (僕のはここにあるしな……)
 おもて表紙を見ると、〈4組 蒼井妃冨〉とあった。下の名前は難読だけど、苗字はアオイさん、で当確だろう。
 4組なら、1組に戻るルートの途中で寄るとしてもそれほど徒労ではない。ここはひとつ、届けてあげるのが紳士と言うものだろう。
 階段を降り切った後、右手側に4組はある。
 「ちょっと、すみません、蒼井さんって今いますか?」
 教室の入口で、立ち話をしていた女子3人組に話しかける。昨日までに、美月とそれなりに会話を重ねたせいか、思ったよりも自然に会話ができたことに自分自身驚いた。
 「あ、いるよー。呼んでこようか?」
 「いや、そこまでの用事じゃないからいいです。これ、ノートの忘れ物っぽいので。渡してもらえますか?」
 「そういうことね。OK」
 英語ノートを手渡すと、僕は4組を後にした。
 今日は、朝から着実に善行を積んでいる気がする。これは、きっとよいことが起こる予兆なのではあるまいか。

 (なんてこった。まさか、ど真ん中に埋め込んでくるとは……)
 よいことどころか、楽しいはずの昼食の時間は、突然襲ってきた厄災により崩壊した。きっと、かつて大繁栄し、突如理不尽な隕石によって絶滅した恐竜達も似たような感情を抱いたことだろう。
 そう。好物の鶏の唐揚げの中心部に、僕の不倶戴天の敵――ピーマン――が何故か入っていたのだ。
 思い切ってほお張った僕も完全に油断していた。三国志で言えば、勢い良く追撃をかけたものの、銅鑼の音と共に待ち伏せを喰らった負け軍師のようだ。
 咀嚼したものを出すのはさすがに憚られた。思い切って、ペットボトルの緑茶で流し込む。
 (はぁ……。ヒドいめに合った……)
 敵ながら天晴れだったのが、市販の唐揚げそっくりだった点だ。僕がピーマンを拒絶するのに比例して、母の加工技術が飛躍的進歩を遂げているのを感じる。ノーベル食品工学賞がもしあったなら、一躍時の人になれそうだ。
 とはいえ、喉もと過ぎればなんとやら。せめて、胃酸にもまれてもがき苦しんでいる(?)宿敵――ピーマンの悲鳴を夢想しながらうたたねでもしてるか。
 そう思い、机に伏せようとしたが……。
 「瀬田くん、4組の福路くんが呼んでたよ」
 (袋? 復路?)
 うたたねのチャンスはあっさりと失われた。昨日の女子が僕のところにそう告げに来たのだ。このパターンはまさか……。
 廊下に出ると、銀縁メガネをした男子生徒がおずおずとしながら廊下に立っていた。
 「えーっと、君がフクロくん?」
 「ということは、君が噂のセタくんなんだねっ」
 フクロくんはそういう性格なのか、「こういう者です」と言うと、生徒手帳に書かれている名前を名刺のように差し出して自己紹介をしてきた。
 (福路、浩二……ね)
 名前を確認してから見上げると福路くんの表情に、昨日の琴羽野さんと同じものを感じたので、念のため確認してみる。
 「もしかすると、何か相談事だったり……」
 「うおっ。さすが、名探偵だ!」
 これは、うかつだった。自らハードルを高くしてしまう結果となってしまった。
 福路くんは目を輝かせたかと思うと、次の瞬間には神妙な顔つきとなり顎に手をあてながら話し始めた。
 「実は、数日前から彼女の態度が急に冷たくなった気がしてて……。思い当たるふしが全然無くて、八方塞がりなんだ」
 「へ、へぇ……」
 これまで奇跡的に相談事を解決へと導けていた僕だったけれど、恋愛沙汰の問題となると、これは全く力が及ぶ気がしなかった。
 女の子の気持ちなんて、山の天気のようなものだろう。きっと些細なことなんだろうけど、本人にはとても重要で、そんなこと第三者の僕が予想できそうな気がしない。
 さりげなく、当人に聞き込みをするにしても、見ず知らずの女子に近づくのは非常に難易度が高いように思われる。奇跡的に、美月が知り合いで、仲介をしてくれるとかがあれば話は別だけど。
 「ちなみに、その彼女っていうのは、4組のアオイヒトミっていうんだけど。知らないよね……」
 「えっ?」
 「えっ!?」
 僕の反応に、福路くんも驚く不思議な状況になってしまった。
 アオイ、ヒトミ? もしかして。
 「知ってるかも! えーと、ヒトミのヒが女偏に己のヒだったりする?」
 「そうそう! えっ、なんで知ってるの?」
 僕は、さっきの英語ノートの忘れ物の件を簡潔に話した。「納得納得。小中の頃から忘れ物おおい子だったんですよね……」としきりに頷いている。どうやら、人物像は一致したようだ。
 入学式を終えてまだ数日しか経っていない段階で、「彼女の態度が冷たくなった」という関係とのことだから、ある程度予想はできていたが、そういうことだったか。
 (それなら、もしかしたら少し取っ掛かりがある……かな)
 依然として不安感は拭いきれないが、ここで無下に相談を拒否するのも憚られた。高校生活は始まったばかりなのだ。仮に解決できなくても僕に損はないし、もし解決できたらできたできっとプラス評価となるだろう。
 「うーん、じゃあちょっと調べてみるから」
 「本当かい!? それはとても助かるよ」
 「まあ、でも。あんまり、期待しすぎないでね」
 保険をかけておこうと思って被せようとしたセリフをを聞き終わるよりも早く、福路くんは足取り軽く立ち去ってしまった。
 どうやら彼氏の方もけっこう早とちりしそうなタイプみたいだなぁ。

 高校生としての任務から解放され、放課後になった。
 慣れた足取りで将棋部の部室に向かい、手際よく、盤と駒を準備する。
 春のうららかな日差しを浴びながら、美月はまだだろうか、と思いを馳せる。

 って。

 良く考えたら、仮入部期間は既に三日目に突入してしまっている。美月へのレクチャーはそれなりに充実した時間であることは否定しないが、それは平日の放課後である必要は無い。今日こそ、なんとか別のつながりを作って軽音楽部で音楽活動をスタートせねば。
 僕は、駒を並べ始める。美月が来たら、いきなりレクチャーに入ってしまう作戦だ。余計な時間は極力カットだ。
 ところが、駒自体は初形に並べられたものの、妙にしっくりこない。
 もしやと思い、8つある駒箱とその中に入っている駒を改めると、どうやら何種類かの駒がごちゃまぜになっているようだ。
 将棋の駒にも、材質や書体など様々ある。単純に使うだけならば役目として問題はないけれど、なんだかこうすっきりとしない感じだ。
 あれこれ見比べながら、盤に広げた1組とその他7組を照合していく。
 (あぁ、何やってんだろう。こんな状態で美月が来てしまったら、作戦台無しじゃないか……!)
 噂をすればなんとやら、幸いにもちょうどすべてが終えたくらいに美月は部室に現れた。
 「あ、今日はもう並んでる」
 「ん、ああ。ちょっと時間があったから」
 (はー、作戦無事成功……。ってもう疲れてどうするんだよ)
 そう思ったのもつかの間。
 椅子に座って盤面を見回した美月はぽつりと一言「あれ? いつもと違う」などと不思議なことを言う。
 「え? 違くないよ。いつもどおりだよ」
 人生でこれまで、何度、この初形を並べてきただろうか。間違えるなどと言うことは断じてありえない。それだけに、僕も少しムキになって反論した。しかし美月も譲らない。
 「ねえ、大丈夫? 駒だよ駒。〈王将〉じゃなくて、〈玉将〉になってる。」
 「はい?」
 そう言われて、やっと僕も気づいた。確かに、美月の方だけ〈玉将〉と書かれた駒が並んでいたのだ。
 しかし、それは。
 「ああ、それはそれでいいんだ。欠陥じゃないよ」
 「……?」
 美月は、眉根を寄せて「訳が分からない」といった表情を浮かべている。
 美月のように、知らない人は知らないし、僕のように、知っている人は当然知っている事実。
 将棋の駒には、〈王将〉と〈玉将〉の二種類が存在する。通常の駒のセットならば、一つずつ入っている。
 〈王将〉という言葉の方が圧倒的に耳馴染みがあるだけに、玉将という言葉自体「王将の間違いでは?」という考え方は確かに自然かもしれない。
 しかし歴史的にみると、むしろ初期の将棋では〈玉将〉しかなかったとさえ言われている。現存する最古の駒には玉将は3枚含まれていたが、〈王将〉は一切含まれていなかったという事実もある。
 元々、将棋の駒は『お宝』を現していたようだ。〈金将〉〈銀将〉は言わずもがなゴールドとシルバー、桂馬は肉桂(シナモン)、香車は香木といった具合だ。
 この流れでいえば、〈玉将〉の玉は宝玉のことだ、と言う説を聞いてしまうと〈王将〉より〈玉将〉のほうがしっくりする気さえする。
 その後、時代が進むにつれて、王と玉の字が似ていること、三国志にも登場する『天に二日なく、地に二王なし』――王は二人もいらない――、といった趣向と交じり合い、いつの間にか〈玉将〉と〈王将〉を1枚ずつ使うようになったと言われている。
 さっき、8組の駒箱を再整理し終えたけど、昨日までは〈王将〉と〈玉将〉の組合せがごちゃ混ぜで使っていたのだろう。
 といった内容を僕は淀みなく話す。
 が。
 ……美月さん、目付きが鋭いままなんですけど。
 「そんな説明、今まではなかったよね?」
 将棋を指している人間にとっては、『どっちでもいい』ことだ。
 しかし、この将棋初心者にはそれは通じなかった。元々、猛禽類のように鋭い美月の目線は今にも襲い掛かってきそうに見え、僕は思わず視線をそらす。
 ここは一つ、怒りの矛先をそらすために、架空の叔父さんに登場いただくことにした。
 「まあまあ、落ち着いて。親戚に『大』きいに『志』でタイシっていう名前の叔父さんがいて、しょっちゅう漢字を『太』いに『志』ってに間違えられたり、ヒロシって呼ばれたりしてるんだけど、『どっちもそんなに変わらんしな』ってぜんぜん気にしていないんだ。確かに、」
 「……」
 が。
 ……美月さん、目付きがもっと鋭くなってるんですけど。
 「……デコピン」
 「はい?」
 「デコピン1発で勘弁したげる」
 ……どうやら、判決が下されたようだ。まあでも僥倖だろう。デコピン一つでこの局面が打開できるならありがたい。表面上は「しょうがないな」という表情を作っている僕の顔に、美月の指が伸びてきて――。
 
 ビシィッッッッ……!!
 
 「っ痛あっ!!」
 額に、衝撃が走る。なんてパワーだ。とても年頃の女子のものとは思えない。骨伝導のせいなのか、凄い音がした気がする。脳に悪影響が出なかっただろうかと不安になる。
 昔から、将棋盤に遠慮なくビシバシ駒を叩きつけていたが、その報いが今まさにまとめてやってたとでもいうのか……。
 その衝撃を受けて、身体のバランスを崩し、椅子ごと後ろに倒れこんだ。そして、黒板の下の壁に身体がぶつかり、その衝撃でちょうど上にあった黒板消しが頭の上に落下してくる。
 僕は額の苦悶、チョークの粉でむせてしまう。なんとも情けない姿だ。しかし、悲劇はそれで終わらなかった。
 鼻がむずむずする。
 (やばっ、よりによってこんなときに……!)
 僕の願いも空しく、それは起こる。
 「――っぐわあっくしょおおおぉい!!!!」
 豪傑の咆哮のような爆音と、対比的に訪れる静寂。
 人に言えない恥ずかしい秘密の上位に位置する”見かけによらず、くしゃみが派手”が、知られたくな人物に知られてしまったのであった。
 「……っ。ははっ」
 見上げた美月の顔は、年相応の女子の顔で笑っていた……。左頬には笑窪も見える。
 (……なんだよ、フツーに笑えるんじゃん)
 そして、その笑顔を見て反則的に可愛いと感じる。瀬田桂夜は織賀美月に惚れているのだ、と何故か冷静に感じてしまった。思わず、額の痛みや恥ずかしさも忘れてその笑顔をまじまじと見つめてしまった。
 しかし、それは刹那の出来事だった。
 苦しんでいるはずの僕が急におとなしくなり、美月も、自分が無意識のうちに笑顔になっていたことに気づいたようだ。顔はいつもの無表情なものに戻っていた。
 「……見た?」
 「えっ?」
 「笑ってるとこ、見たでしょ」
 「え、あ、まあ……見たといえば見た……けど」
 すると、美月はカバンを手にして、すっと立ち上がる。
 「あたし、笑窪って嫌いなの。人に見られるのがヤなの」
 (もしかして、いつも無表情なのって……)
 そういう理由なのか? だとすれば、それはどれだけもったいないことか。
 しかし、笑窪のできる人には、できる人なりの悩みがあるのかもしれない。笑窪のできない僕に、そういう人達に向かって単純に「笑窪万歳」と礼賛する権利はないのだろう。
 表情こそ変わらないが、美月の眼と声には普段以上の力強さがあった。つまり、美月にとってそれは重要な事柄だというなによりの証拠だ。僕は圧倒されて、沈黙してしまう。
 そもそも、僕だってさっきのくしゃみだけでなく、高校の同級生には大っぴらにしたくないことがいくつかあるのだ。
 僅かな沈黙の時間のあと、「今日はもう帰る」そう言って、美月はすたすたと教室を出て行ってしまった。
 引き止めるのは無理だったにしても、せめて「そんなことないよ」という気落ちだけでもなんとか伝えておけなかったものだろうか。それだけが悔やまれた。
 しかし、一つ救いがあるとするならば。
 美月は「今日『は』帰る」と言っていた。それは、明日も来る、ということの裏返しではないだろうか。それは、都合のよい考えだろうか。
 結局、今日の二つの計画はあえなく両方とも完遂することができなかった。せめて、首の皮一枚繋がっていればと願うばかりだ。
 さて、美月が去ってしまった今、この部屋にいる理由は全く無い。手早く撤収しないと、ヤツが姿を現すおそれがある。
 「ハロー!!」
 (間に合わなかったか!)
 こういう時ばかり直感が優れているのも空しいものだ。現れた泉西先生を見て、僕は小さくため息をつく。
 「少ね……いや、瀬田よ。今、例の可愛い女子生徒がスカートを翻して走り去っていったが、痴情のもつれか? ……痴情? お前、ここは学校だぞ! 聖職者として断固許さん! お前の通知表の現国を史上初のマイナス値にしてやろうか?」
 「はいはい……、聖職者の泉西先生は、常にまず落ち着いてください……」
 「ふー……、ふー……」
 僕は、興奮した泉西先生にでもわかりやすいように、噛み砕いて先程の出来事を話してみた。
 「なるほどな。国語教師の立場からすると、テストだったらペケだな。」
 「ペケ、ですか」
 「まあ、男としての立場なら『どーでもいい』だがな。相手は女子だぞ。別種族だぞ。点があるとかないとか、そういう細かいの気にするんじゃね?」
 泉西先生はどうやらナイスアドバイスができたと満足したのか、美月が不在となったからか、それだけ言うと大人しく教室を出て行ってしまった。
 (僕に絡んでくるやつは、どうしてこんなにマイペースなのばっかりなんだろう……)
 なんだか、高校生のうちにストレスで毛が抜け始めるんじゃないかと不安がこみ上げてきた。ただでさえ、父の頭頂部が最近危なくなってきている今日この頃だというのに。
 誰もいなくなり、すっかり静かになった教室の中で僕は一人片づけを始めた。駒と盤をしまい、ドアの施錠をする。カチリという金属音がした時、不意にさっきの泉西先生の言葉が浮かび上がってきた。
 
 ――点があるとかないとか――
 
 ――細かいの気にする――
 
 そして。
 今度は、自分の頭の中にもでカチリという音が聞こえた気がした。

 僕は科学部の部室を尋ねていた。入口から福路くんの姿を伺っていると、白衣を着た福路くんはこちらに気づいたようで、先輩に一言二言断ってからこちらにやってきた。
 「瀬田くん、もしかして?」
 「うん、なんとなく分かった気がする」
 「えっ、本当に!?」
 福路くんは実のところ、それほど期待はしていなかったのかもしれない。驚き具合からそう思えてしまうが、それは些事だ。まあ気にしないこととする。
 僕は、鞄からルーズリーフを一枚取り出して、「ここにさ、蒼井さんの名前、フルネームで書いてもらえる?」とペンを渡して促した。
 「? そのくらい、なんてことはないけど……」
 福路くんは不思議そうにしながらも、一文字ずつ字を書いていく。
 
 蒼 井 妃 富
 
 「音は簡単なんだけど、字が結構難しいんですよね……。さすがにもう書けるようになりましたが」
 福路くんはペンとルーズリーフをこちらに返しながらそう言う。
 ルーズリーフを受け取った僕は確信する。やはり、これが原因な気がする、と。
 「ありがとう。でね、言いづらいんだけど……」
 「?」
 僕は、福路くんの文字の隣に一つ字を書いて、続けた。
 「名前の漢字、間違ってると思うんだ……」
 「えぇ!?」
 福路くんは本気で驚いたようで、ルーズリーフをひったくると自分の文字と僕の文字をまじまじと見比べる。
 「点が……、無いっ!?」
 「実は先日、蒼井さんの名前を見る機会があったんだけど、トミは上の点が漢字の方だったんだ」
 『富』と『冨』、どちらも『トミ』と読み、形もほとんど同じで非常に紛らわしい。
 福路くんは「まさか、こんなワナが仕掛けられていたとは……。ということは、中学のときから間違えていたのか……」と呟き、わなないている。
 彼自身が言ったように、蒼井さんの名前は音の方は非常にシンプルで間違えようが無い。しかし、文字の方はなかなか手強かったのだ。
 『蒼』や『妃』という文字は日常生活ではなかなか目にする機会がない文字で少し珍しい。さらに、これを「間違えないように……」と強く意識すると、相対的に『冨』の方が疎かになってしまったのだろう。
 これが、王と玉のようにせめて読み方も異なっていれば、今回の悲劇は生まれなかったのだろうけど。
 「なんとか、仲直りする方法も考えないとだなぁ。……そうだ! 親戚で『富』の字が入る叔父さんがいて、間違えてしまったんだ……、とかどうでしょう」
 「うん。経験者の意見を述べさせてもらうなら、素直に謝った方がベストかな」
 僕は、額の赤くなったデコピン跡地を指差してアドバイスした。

 振り返ってみると、今日も色々と山あり谷ありな一日だった。
 琴羽野さんの依頼解決から始まり、ピーマン事変、美月のデコピンおよび笑顔、そして福路くんの依頼解決、と。
 家に帰り、ドアを開けると、玄関にまで美味しそうなあの匂いが充満していた。
 (カレーか!)
 カレーは僕の大好物である。365日カレーでも構わない。来世はインド人になるつもりでいるから、地理の授業中の度に、地図帳でインドの都市名をインプットことにしている。
 台所に入ると、匂いはますます強くなる。僕レベルになると、この段階で今日はチキンカレーで具にジャガイモと玉ネギとほうれん草が入っていることまでお見通しだ。
 僕は弁当箱を夕飯の支度に勤しんでいる母に手渡した。母は僕の弁当箱が空になっているのを確認すると、小さくガッツポーズを取っていた。
 (くっ……。明日は勝つ!)
 妙に挑戦心を煽られてしまう。母も、なんだか当初の目的を忘れて、純粋にバトルを楽しんでいるように思えてきた。

 

 小説『Spring in the Spring =跳躍の春=』(4/5)に続く